2006年2月25日土曜日

『ラングドックの歴史』

●エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ[著] ●白水社 ●951円+税


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サンセルナン寺院
トゥールーズ
筆者撮影
ラングドックとは現在のフランス南西部を指す名称で、オック語という意味。オック語はラテン語起源の言語だが、現在のフランス語の祖語であるオイル語とは異なる。

この地方の最初の定住者については詳らかではないが、中欧起源のケルト民族の支配から始まり、ギリシャ人、イベリア人、ローマ人、ゲルマン人がこの地の支配者となり、今日に至っている。その間、オリエント、エジプト人もこの地を舞台に活躍した。

現在はフランスの一地域だが、古代から中世までは、ローマ教会に同調した北部フランスとは別の民族、言語、文化、宗教を築き、政治経済においても、独立した地位を保っていた。

筆者は“中世のラングドック”に興味を覚えた。その1つが「カタリ派」だ。「カタリ派」とはキリスト教の異端で、この地に勢力を伸ばした。「カタリ派」の教義についてはよく分からない部分も多いのだが、一夫多妻制を堅持していたといわれ、カトリックとはかけ離れた「キリスト教」だったらしい。北部フランスは、ローマ教会と共謀して「アルビジョア十字軍」を組織し、この地に侵攻を企てた。北部フランス=ローマ教会は「カタリ派」を軍事的に制圧・虐殺する。と同時に、同地の地方権力を倒して支配権を確立する。北部フランスの制圧と並行してオック語が後退し、いまのフランス語に近いオイル語が漸次定着していく。

もう1つの私の興味の対象は、この地に花開いた、トルバドゥール(吟遊詩人)の存在だ。吟遊詩人が好んだ素材は、なんと、人妻への思慕――人妻の肉体そのものへの憧憬・恋慕だというから、かなり屈折している。私は現代フランス語も中世オック語も解らないが、吟遊詩人の情念が気にかかった。中世、ラングドックの詩学は、禁欲的なカトリックの土壌からは生まれないものだ。

3つ目の興味はロマネスク美術だ。中世、スペインのガリシア地方に位置するサンチャゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺物が発見された。欧州各地からサンチャゴを目指して巡礼が盛んになると、その経路には、ロマネスク様式の教会、聖堂等が多数建設された。ラングドック地方もその巡礼路に当たり、この地の最大都市トゥールーズにはロマネスクの至宝の1つといわれるサンセルナン寺院が残っている。

さて、こうして見ると、ラングドック文化は豊かで美しいのだが、この地は血塗られた歴史が認められる。「カタリ派」虐殺は前述したとおりだが、中世後期には、この地を舞台に、カトリックとプロテスタントの対立による宗教戦争が繰り広げられたし、18世紀にはフランス革命における王党派と共和派の闘争もあった。

本書はラングドックの通史である。そのため、筆者の興味の中心である中世に限定されたものではない。フランス革命以降、20世紀前半のマルクス主義の台頭と左翼勢力の定着の記述部分もある。ラングドックを知らずして、フランスを語るなかれ・・・といえるのかもしれない。

2006年2月13日月曜日

『末期ローマ帝国』

●ジャン・レミ・パランク[著] ●白水社(文庫クセジュ) ●951円+税

 
本題の『末期ローマ帝国』とは、3世紀末から6世紀末までの300年間をいう。拡大を続けたローマ帝国が没落を迎える時期ではあるが、政治・経済・宗教・文化等の領域で、次代すなわち中世へ橋渡しをする重要なファクターがこの時期に育まれたという見方がある。最も重要なファクターの1つは、ローマ帝国がキリスト教を受容したことかもしれない。帝国の国境付近にはフン族に追われたゲルマン民族が帝国領内への侵入をうかがう。内に外にローマは帝国の存続を揺るがす問題を山積させていた。

ローマ帝国を“ラテン”という一つの概念で括ることはできない。ローマはラテンとギリシアの2つの文化圏の合成であった。キリスト教がローマ支配下のパレスチナで成立したことは常識だが、この宗教が西方に伝播する過程で多大な影響を受けたのがギリシア哲学だった。ギリシア文化の拠点都市として、アレクサンドリア、アンティオキアなどがあった。もちろん、後にローマが東西に分裂し、その一方である東ローマ帝国の首都となった小アジアのコンスタンチノーブルもその1つだ。

さて、領土拡大を続けたローマ帝国が支配地域を統治する制度として、必然的に採用せざるを得なかったのが「四分治制」だった。「四分治制」は293年に発足した。この分割統治の形態が、ローマ帝国分裂の下地となったともいえる。帝国が永遠に繁栄を維持することはできないものなのか。
年表で整理すれば、375年=ゲルマン民族大移動開始、 392年=キリスト教の国教化、 395年= ローマ帝国東西分裂、5世紀初め=ゲルマン人がヨーロッパ各地に建国、476年=西ローマ帝国滅亡、486年= フランク王国建国 、 527年=ユスティニアヌス、東ローマ皇帝に。ユスティニアヌス大帝は、ゲルマン人国家である東ゴート王国、バンダル王国を滅ぼし、以降、東ローマは800年以上存続した。

冒頭に書いたとおり、末期ローマ帝国は混乱と荒廃の時代だったが、筆者はこの時代のヨーロッパに魅力と興味を感じる。世界史の中で、もっともおもしろく、不思議な時代の1つなのではないか。強大な軍事力と統治能力をもったローマが、蛮族と呼ばれたゲルマン人と共存する道をなぜ、みつけられなかったのか。本書読了後もその回答は得られていない。

2006年1月28日土曜日

『古代のイギリス』

●ピーター・サルウェイ[著] ●岩波書店 ●1500円+税

FI2262936_0E.jpg本題について整理しておこう。訳者の南川高志氏が「あとがき」でことわっているように、『古代のイギリス』というタイトルはふさわしくない。原題は『ROMAM BRITAIN』だから、“ローマ時代のブリテン島”くらいがふさわしい。

そもそも、「イギリス」とは誤解を与えやすい表記だ。まず、現在のグレートブリテンを国際政治の観点からみてみよう。日本でいう「イギリス」は無意識のうちに、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを、さらに、アイルランド共和国の存在までも消去させてしまう。そもそも、ローマ帝国がブリテン島を征服する前、先史ヨーロッパ人が存在し、やがて、中欧からやってきたケルト人が彼らを滅ぼしたというのが定説の1つになっている。

紀元前1世紀、カエサルがブリテン島を征服し、ローマ支配が始まった。その後、蛮族の侵入により、ゲルマン系のサクソン人がブリテン島の支配者となり、やがて、ノルマン人(イングランド)がそれにとって代わり、今日に至っている。その間今日まで、直近の征服者イングランドと、スコットランド、ウェールズ、アイルランドとの抗争が続いている。直近の征服者・イングランドを日本では、「イギリス」という。

さて、本書は、ROMAM BRITAINの翻訳部分と、訳者南川氏のイギリスにおけるローマ史跡の案内である「イギリスで『古代ローマ文明』を楽しもう」の二部構成になっている。翻訳部分は、ブリテン島とローマ帝国に関する歴史研究だ。本書から、ローマ帝国がなぜ、ブリテン島征服に注力したのかをうかがい知ることができる。古代の地中海世界にあって、ブリテン島は世界の果てだった。ローマの権力者、とりわけ、軍部出身者がそこを支配したということは、自らが世界の支配者であることを証明することになったのだ。

研究部分に不満がある。一番の不満はローマ帝国に支配された側の視点がないことだ。ケルト人(イギリスではブリテン島先住民をケルトと呼ばないらしいが)の立場が欠けているから、ローマ支配の実態が分かりにくい。遺跡からハード部分を知ることはできても、ソフト部分が、たとえば、ローマの宗教とケルトの宗教がどのように融合したのかがわかりにくい。

その一方、本書の優れた点は、ブリテン島におけるローマの影響を広く知らしめたことだ。日本人にとって、ブリテン島におけるローマの影響は盲点だった。私のような「ケルトファン」にとっても、歴史の隙間だった。ローマ支配を経験した欧州の代表的地域はフランスだが、世界史好きの日本人ならば、古代フランスをガロ=ロマニアと呼ぶ歴史概念は常識になっている。ところが、「イギリス」の歴史の中に、ロマニア=ブリトンという概念を知る人は少ない。フランス語がラテン語系であるから影響が強いと考え、英語がゲルマン(サクソン)語系だから、ローマの影響を低いとみてしまうのかもしれない。

本書が「イギリス」の複合性を知るきっかけになればいい。そして、ローマ帝国の大きさを改めて知ることもムダではない。

2005年12月20日火曜日

『トルコ史』

●ロベール・マントラン[著] ●白水社 ●951円+税

トルコ族の登場は、紀元前1千年期だと言われている。遊牧騎馬民族である彼らトルコ族は、東はモンゴル高原から中央アジアを経て小アジアに至るまで、広大なユーラシア大陸を自由奔放に移動していた。そんなトルコ民族が小アジアに定住して最初に帝国を築いたのが10世紀末から11世紀のこと。その帝国はトルコ民族の一派であるセルジューク族によって建国されたため、セルジューク朝と呼ばれた。

11世紀、西欧(フランク)が組織した十字軍がイスラーム世界に侵略を開始し、聖地エルサレムが十字軍によって奪われ、現在のシリア、エジプトの各所に十字軍国家が建国された。そうしたイスラーム世界の危機に及んで、イスラーム世界の軍事的統合に成功し、十字軍への反撃を組織し、ついにはエルサレム奪回、十字軍撃退を果たしたイスラームの英雄・サラディンはトルコ人だった。11世紀以降のイスラーム世界の主役は、アラブ族からトルコ族に交代していたようだ。

13世紀、モンゴル族に追われたトルコ族の一派・オグズ族に属するカイゥ族がアナトリアに建国したオスマン朝は14世紀、小アジアからヨーロッパ世界にまで版図を広げた。オスマントルコは小アジアを拠点に、ヨーロッパ世界を脅かす勢力を保持し、14世紀以降、世界で最も進んだ文明の1つを維持した。

しかし、さしものオスマン帝国も17世紀以降衰退に向かい、西欧、ギリシア、台頭する北東の大国ロシアと確執を繰り返した。そして、トルコが第一世界大戦のドイツ側への参戦、敗北をもってその命運もつき、1924年、トルコ共和国が成立した。

本書は、トルコ族の雄大な歴史を簡易にまとめた入門書である。トルコ族は歴史に登場して以来、ユーラシア大陸の東西の強国・中国とヨーロッパを脅かしつつ、オスマン期にはそれらを凌駕する強大な帝国となった。

こうしたトルコ族の歴史の大筋は理解できるものの、謎も多い。とりわけ、イスラーム化以前のトルコ族の歴史はほとんどわかっていない。5世紀、ヨーロッパを席巻したフン族と匈奴の関係もその1つ。匈奴=フン族が、トルコ系同一民族であるという説がある一方、匈奴・フン族がともに、トルコ系民族だと断言できる物証はないという説もある。

さて時代は下って、オスマン帝国時代、オスマン帝国は隣接する国々と大きな摩擦をおこし、オスマントルコによる民族浄化と思しき虐殺も記録されている。また、19~20世紀初頭、トルコ支配下にあったアラブが独立を求めたとき、西欧は石油利権を見越して、アラブの独立運動を裏切った。近代のトルコの歴史もまた複雑である。

2005年12月10日土曜日

『アッチラとフン族』

●ルイ・アンビス[著] ●白水社 ●951円+税

紀元4~5世紀ごろ、広大なユーラシア大陸の東西に2つの帝国が君臨していた。東には中国、西にはローマである。そして、2つの帝国はどちらも、遊牧騎馬民族の侵入に悩まされていた。中国を襲った異民族は匈奴と、また、ローマを襲った異民族はフンと、それぞれよばれた。

匈奴はおそらく、ウラル山脈以東のある地域を原郷とし、フンはウクライナ以西(スキティア)のある地域を原郷としたに違いないのだが、匈奴はギリシア語で「クーノイ」(Χοόνι・単数形Χουν)となり、紀元6世紀頃にアルタイ山脈にいたトルコ系の一部族を示す中国語「Houen」に該当するという。匈奴を中国語で「フルン」(frun)、「クン」(kouen)と発音すると、フンと通じるところから、両者を同一民族と看做す学説が有力である一方、その確証はないとする学説も根強く、本書は後者の「異民族説」に立っている。

5世紀、フン族及びその周辺の遊牧民族等を統一し、ウクライナから中部ヨーロッパにかけて広大な帝国を築いたのがアッチラである。本書によると、《ヨルダニス(6世紀、南ロシア生まれの修道士、歴史家。『ゲート人の事績』『ローマ民族史』などの著書がある。)が描くアッチラの肖像は、背が低く胸幅が広い。頭は大きく、目は小さくて落ち窪んでいる。眉弓は高く飛び出し、鼻は平たく、色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである。ひげはあまり生えていない》という。ヨルダニスの描写のうちの「色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである」という部分を除くと、現在のモンゴル系に近いように思えるが、色が黒いという描写を真に受けると、高アジア系(トルコ系、チベット系、中央アジア系)と思える。

フンの歴史的な役割というか、重要性とはいうまでもなく、彼らの圧力によりアラン族(イラン系)が西に移動し、そのあおりを受けて、黒海あたりまで南下してきたゲルマン系ゴート族がさらに西に押し出され、ローマ帝国領内に移動を開始したことにある。

フンの侵攻は暴虐を極め、ゴート族はじめ、その当たりに定住を試みていたゲルマン人みな恐れおののいてローマ帝国内に逃げ込んだといわれている。ローマ帝国内に移動したゴート族がローマを一時期支配し、ローマ帝国の滅亡を招くことになったことから、フンが西欧(ヨーロッパ)の成立を促したとも言える。

さて、フン帝国の領土拡大を図るアッチラは、ゴート族を追撃するかのようにローマに向けて政治的・軍事的圧力を加え続けたばかりか、周辺のゲルマン系、遊牧系の諸民族を支配下におき、兵士として吸収し軍事力の増大を図った。ところが、定住農耕民でない彼らには、膨らんだ軍事力(兵士)を養う経済手段がない。彼らはいわば、略奪経済に依拠していたのであり、略奪の量が兵士を養う量を下回れば、戦闘を維持することが困難となり、さしものアッチラもイタリアを支配することはできなかった。そして、その間、力を蓄えてきたサルマチア族、東西ゴート族らのゲルマン諸族の連合勢力より東に押し返され、453年、アッチラは死去した。アッチラ死後、フンの勢力は衰え、その後にやってきたブルガール族や、前出のサルマチアや、ゴートらに吸収されるかのように、フンは歴史の表舞台から忽然と消え去ってしまうのである。

4~5世紀にかけてのフンのヨーロッパ世界への登場は、大型台風の襲来に似ている。大型台風の去った後、ヨーロッパの風景は一変する。この地の主役は、〈ローマ〉から、かつてフンに追われて逃げ延びてきた、〈ゲルマン〉にとって代わってしまうのである。

本書によると、フンに関する考古学的遺跡は少ない。彼らの文化的、人種的特徴等については推測、想像の域を脱しない部分も多い。それだけに、フンと匈奴の同一民族説も魅力的である。

筆者の中では、広大なユーラシアを駆け抜けた遊牧騎馬民族に対するロマンは、留まるところを知らないのだが、懸念すべきは、中欧・東欧における政治勢力が、フンの末裔を自称し、覇権の旗印として「フン」を復古・悪用することである。いまのところ、そのような政治的動きは認められないが、歴史上の「強者」が、現代政治に引用されることは危険な兆候の1つである。日本では、戦国武将の一人・織田信長が、政治的に悪用されている。

2005年11月20日日曜日

『小泉純一郎と日本の病理』

●藤原肇[著] ●光文社 ●952円+税

FI2068372_0E.jpg 小泉首相は、超法規的解散後、9.11総選挙で歴史的大勝をおさめた。小泉首相が掲げた、“郵政解散”と“構造改革”が国民の支持を得たわけだが、この国民の審判が、「小泉純一郎という病者」と「日本国民の病理」の合流により下されたものだったとしたら、日本は破滅に進むことだけは間違いない。本書の論旨を大雑把に言えば、そんなところだ。

著者は、小泉首相の「病状」の解析から始める。小泉首相が三代目の政治家であることはよく知られているが、初代が港湾都市・横須賀の闇勢力に通じていたこと、二代目が大政翼賛会に通じていたことについては、管見の限りだが報道がない。

また、小泉首相の英国留学が、小泉青年が日本国内で起こした婦女暴行事件の追求から身を潜めるためだった疑いがもたれていることも、報道されていない。加えて、小泉首相の離婚、実の姉との緊密な関係等々の私生活にまつわる怪しさについても、一時期週刊誌で報道された程度だ。本書の情報からすると、小泉首相の精神構造は、常人と異なる可能性が高い。小泉政権誕生の立役者でありながら、後に小泉首相から切られた田中真紀子元外務大臣は、既に小泉首相を「変人」と看破している。

小泉政権の政策上の欠陥については、いろいろと指摘されている。「郵政民営化」に代表される「聖域なき改革」が掛け声だけで、既得権益はしっかり守られていることは周知の事実だ。

そればかりではない。戦後日本に設けられたセイフティーネットは小泉政権によっておおよそ外され、弱肉強食、勝ち組、負け組による階級社会が形成されつつある。財政は破綻し、国債発行は止まるところを知らない。この先やってくるのは、増税による国民生活破壊だ。

著者は小泉政権下の日本の社会経済を「賎民資本主義」と呼ぶ。著者は資本主義のエートスを“公共善”という概念に求め、その実現を放棄した日本の経済人・経済活動・経済社会を批判する。それこそが日本の病理にほかならないと。

著者は日本の「賎民資本主義」に対峙する概念として、米国中西部の共和精神を持ち出し、そこに資本主義の理想を見る。私は著者の小泉批判に同感する部分もあるが、著者が米国中西部の共和主義を理想とすることには賛成できない。米国の共和主義とは、独立自尊、勤勉・禁欲を核とした(キリスト教)新教の思想だ。

筆者は、英国から新大陸・米国に渡ってきた新教徒の精神性こそが病理そのものだと思っている。彼らはアメリカ先住民を殺戮して居住地に追いやった。独立戦争後、広大な大陸を手に入れた彼らは、まず、飢餓にあえぐアイルランド人(旧教徒)を奴隷として新大陸に送り込み、過酷な開拓事業に従事させた。新教徒は米国建国の主体であるが、その成功の裏側には、無数の先住民とアイルランド人の犠牲が隠されている。だから私は、米国の共和主義を理想とする著者の価値観をまず信じない。

さて、話は横道にそれてしまったが、9.11総選挙で小泉政権がなぜ、国民に圧倒的に信任されたのか。本書には、若者のルサンチマンがやぶれかぶれの「小泉解散」と共鳴したこと、テレビの影響・・・などなどの回答はあるものの、十分だとはいえない。そのあたりの社会学的分析が望まれる。

本書は日本社会の現状分析について物足りない部分も多いが、著者が心配するように、日本社会がファシズムへの道を歩み始めている、という指摘に同感だ。私は著者と価値観を共有しないけれど、「日本が危ない」という著者の警鐘にはは耳を傾けるべきだと思う。

2005年11月15日火曜日

『夕陽が眼にしみる 歩く、読む』

●沢木耕太郎[著] ●文春文庫 ●476円+税

FI2037117_0E.jpg本書は「夕陽が眼にしみる」と題された著者の旅(=歩く)についての記述と、「苦い報酬」と題された作家論・書評(=読む)の2編にて構成されている。前者は、著者・沢木の処女作にして代表作の1つである『深夜特急』を補足するものかのようだ。

旅には、いろいろなあり方がある。若いときの一人旅、老夫婦の二人旅、恋人同士の甘い旅、さらには逃避行や武者修行といった、切羽詰った目的の旅もある。だから、沢木がここに記した旅の論は、旅全体の一部に該当する。年齢や境遇によって、旅の論は千差万別に至る。私は、だから、「夕陽が眼にしみる」についてあれこれ言う気にならない。

後者については、沢木が批評した作家、作品のほとんどを私が読んでいないので、これまた、論評を避けたい。ただ、中の例外の一編として、近藤紘一についてふれた論考(「彼の視線」)があった。

近藤は、唯一沢木と共有できる作家なので、それについて、思うところを以下に記してみたい。

私は、筆者(沢木耕太郎)が近藤紘一と直接ではないにしろ、接点があったことを知らなかった。二人がほんのわずかではあるにしろ、同時期に活躍した作家同士だったことも知らなかった。私の認識では、近藤の方がずっと上の世代だと思っていた。略年表によると、近藤は1940年生まれ、沢木は1947年生まれだから、二人に接点があってもおかしくないし、近藤は特派員兼作家だったし、沢木は当時、ニュージャーナリズムの旗手だったから、似通った土俵の上で活躍していた。だから、互いに意識しあう存在だったとしても不思議はない。

だが、本書によると、沢木が近藤の著作とその存在を本格的に意識し始めたのは、近藤の死後であったという。近藤がいまなお健在で、その間、沢木と親交を深めていたとしたら、いい意味で互いに刺激しあえた可能性が高いだけに、近藤の夭逝は誠に残念だ。

沢木は近藤をどう認識していたのか。本書によれば、沢木の近藤への関心は、近藤の最初の夫人の死に絞り込まれている。近藤の生き方(死に方)に最も強い影響を与えたのが最初の夫人の死だった、という意味のことを沢木は記している。そののちの近藤の寛容は、夫人を死に至らしめたのが自分であるという、強い自責の念と罪障からきているとも、沢木はいう。

私もその通りだと思うのだが、近藤の最初の結婚生活がどのようなものだったのかは、具体的にわかりにくい。近藤が夫人を「殺した」とまで自覚していた内容が、外部からわからない。夫人の病気の進行に対して、自分(近藤)が何もできなかった、という無力感なのか、夫人から発せられた(であろう)危険シグナルを自分(近藤)が見落としてしまった無念さなのか、あるいは、夫人を死に至らしめた、もっと強い何かを近藤がしてしまったのか・・・

私は、それが何だったかを知りたいわけではない。近藤の著作を読み終わると、人を殺してしまった、と自覚している人間が、その後の人生をどのように歩むのか、あるいは、歩むことができるのか、といった重い問が解けず残ったままであることに気づき苛立つ。

近藤は、何冊かの著作で、自分(近藤)と最初の夫人との生活や出来事について、断片的には触れても、具体的記述を避けている。読者は近藤の断片から、“何か”があったことをうかがいしるけれど、近藤が投げたボールを受け取った読者は、もっとはっきりと知りたいという思いで、ボールを近藤に投げ返したい、でも、近藤は他界して、彼からの返球を待つことができない・・・

沢木も、おそらく、そのような無念さを抱いて、近藤の遺作の編集作業に取り組んだのではないか。近藤のその後の生き方を読めば、回答があるという読み方もある。が、パリで夫人を亡くした近藤の内的ドラマと、南ベトナムに赴任して、ベトナム人の子連れ女性と再婚した後の「ホームドラマ」とは、比較したくても質が違いすぎる。沢木が近藤の最初の夫人の死にこだわるのは、再婚後の「ホームドラマ」が物質的であるがゆえに、精神的・内的ドラマの下位に位置づけられる、と考えるからではないだろう。沢木は、近藤が、内的ドラマを普遍化(作品化)する前に他界してしまったことに、口惜しさを感じ、作家・近藤紘一の未完性にこだわるからだとも筆者は推測したりする。

『永遠の吉本隆明』

●橋爪大三郎[著] ●洋泉社 ●720円+税

FI2053311_0E.jpg吉本隆明は、筆者が最も影響を受けた思想家の一人。吉本の本を読めば、元気になる――若いころの筆者の周りからは、そんな確信に満ちた声が聞こえたものだ。元気が出る思想家というのは、生涯においてなかなか出会わない存在だと思う。

著者(橋爪大三郎)もそのような思想家として吉本隆明を位置づけている。本書には、著者が吉本に寄せる尊敬と思慕が各所に見て取れる。

だが、筆者は本書に不満だ。著者は吉本の思想体系を、『擬制の終焉』→『共同幻想論』→『言語にとって美とはなにか』→『心的現象論』→サブカルチャー論全般→『反核異論』→その他の情況への諸発言→戦争論・・・と整理しているのだが、私は吉本隆明の思想の一貫性を示す著書は、『マチウ書試論』だと考えるからだ。著者が『マチウ書試論』に触れなかった理由がわからない。同書のキーワードは、橋爪が「あとがき」に記した“関係の絶対性”だと考えている。

直感的な批評、感覚的な批評の方法が日本の文学界をリードしていた時代と、その後のマルクス主義批評の盛衰を総括した吉本は、そのどちらにも与しない文芸批評の方法の構築に取り組んだ。吉本の構想を大雑把に言うならば、『言語にとって美とはなにか』とは、文芸批評の方法は結局のところ、言語に還元されなければ客観性が担保されない、という吉本のコンセプトから成立をみたものだと思う。

国家論、戦争論においても同様だ。『共同幻想論』では、国家の成立の根拠が意識に還元され、戦争の発生は国家に等しく、戦争の廃棄は国家の廃棄にあり、それ以外の「戦争論」はおよそ相対的であり、戦争と国家という客観(絶対)的な対応が欠落していると、吉本は考えているのだと思う。スターリン批判も同様だ。

さて、吉本の(信じる)客観(絶対)性によって還元された原子、すなわち、単位、すなわち、吉本の考えるところの「言語」「意識」「国家」が、はたして吉本が体系化したとおり、表象してるかどうかが難問なわけで、吉本の取組み姿勢は倫理的だが、書き終わった体系が正しいかどうかの判定は微妙なところだ。

故・村上一郎は、「矢が的に当たるかどうかは別として、弓を引く力は強い」と吉本隆明を評した。筆者;は村上のコメントこそが吉本隆明論の真髄だと思っている。吉本の弓を引く強さに魅了され、また、吉本が近くの的を正確に射抜く姿に驚きもしたのだが、遠い的に当たっているのかどうかを見届けていない。

2005年11月2日水曜日

『妻と娘の国へ行った特派員』

●近藤紘一[著] ●文春文庫 ●360円

近藤鉱一(1940~1986)は大手新聞社の特派員として、主に東南アジアを舞台に活躍した。彼はフランス(パリ)研修中、夫人を亡くしているのだが、研修後、その精神的痛手を抱えたまま、戦乱の南ベトナムに赴任した。赴任後、近藤は当地で子連れのベトナム人女性と再婚した。

ベトナム赴任中、近藤は北ベトナムによる「サイゴン解放」という歴史的瞬間に立ち会う。そのことを含め、近藤は戦時の南ベトナム、カンボジア、そして、その後の赴任先であるバンコク、家族が移住したパリについて、4冊の本(『サイゴンのいちばん長い日』『サイゴンから来た妻と娘』『バンコクの妻と娘』『パリへ行った妻と娘』)を残した。それらの著作には、当地の政治家、軍人、民衆、ベトナム人である夫人の親戚、同業者(特派員)、特派員以外の外国人、さらに、自分の再婚の経緯、新しい家族と暮らしたベトナム、バンコク、日本等における生活が描かれている。

そればかりではない。4冊の中には、パリ研修時代、近藤が最初の夫人の死を自分の責任だと自覚し、強い自責の念にかられていたことが、フラッシュバックのように挿入されている。挿入された断片を読みつなぎ合わせると、最初の夫人が異国(フランス)の生活からくるプレッシャーにより、精神の病を患ったこと、さらに病魔が精神から身体をも蝕み、衰弱死に至らしめたこと、そして、近藤自身が、死に至る夫人を救済できなかった(と自覚している)こと、などがわかってくる。最初の夫人の死は、近藤のその後の精神形成に過重な負担を強いたようだ。

さて、本書は前述の4つの著作とは異なり、近藤の家族や自身については触れずに、特派員という職業、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポールといった、東南アジア諸地域の風土について書かれている。本書から、1970~80年代の東南アジア各国の国情や生活実態などをうかがい知ることができる。

近藤は、自らを「東南アジア屋」と呼んで憚らない。その呼び方には、大手新聞社特派員のエリートコースが欧米勤務にあり、発展途上国勤務者が「落ちこぼれ」であることの自嘲が見て取れる、と同時に、20世紀後半の東南アジアが激動する歴史の表舞台であり、そこで命を賭けて取材を続けた自己の矜持を滲ませているように思う。だから、70~80年代の東南アジアの国情を背景として押さえておかなければ、本書を理解することが難しい。たとえば、カンボジアのポルポト政権が行った虐殺の史実を知らなければ、本書のその部分の記述は分かりにくいだろう。

筆者の感想としては、近藤の表現者としてのポジションの危うさが気になっている。近藤はカンボジアの悲劇について、ジャーナリスト特有の簡潔な記述に心がけているように思えるが、近藤のさらりとした記述は、ポルポトの恐怖政治の根源を問う思想性、厳しさに欠けるように思える。と同時に、近藤が詩人であるのならば、カンボジア人民の受難を取り込む感性に欠けるようにも思う。
近藤の表現者としてのポジションは「ジャーナリスト」なのか、それとも思想家、哲学者、詩人なのかを問わんとする問題設定は、存外、重要なことだ。それは近藤の創作活動が本書を境に、どちらの方向へ深化していくかにあった。もしかしたら、近藤のような人物は政治家やコメンテーターとして、(テレビで)活躍する可能性もあった。その回答を得る前に、45歳という若さで彼はガンに倒れてしまった。誠に遺憾というほかない。

2005年10月10日月曜日

『キリスト教図像学』

●マルセロ・パコ[著] ●文庫クセジュ ●951円+税

私がキリスト教に係る芸術に興味を覚えたのは、ロマネスク芸術への関心がきっかけだった。ロマネスク教会を特集した写真専門雑誌をみたときから、11世紀から12世紀にかけて西欧全体に広がったこの様式に魅かれた。私がこれまで考えていた西欧の芸術のイメージと大きく異なって見えたからだ。

2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに至る「巡礼の道」に沿ってロマネスク教会を巡る観光ツアーに参加した。この目で見たロマネスク芸術は、これまで抱いてきた西欧およびキリスト教芸術の先入観を払拭させた。と同時に、キリスト教芸術――たとえば、教会入口のタンパンに彫られた彫像、内部の絵画、回廊の柱頭等に描かれた装飾には、一定の決まりごとがあることを知った。たとえば、鳩は精霊の象徴であること、最後の審判においてキリストの左には悪者を、右には選ばれた善者を振り分けることなどが挙げられる。キリスト教芸術のセオリーを知ることは、キリスト教芸術をより深く理解できることにつながるに違いない、というのが、私が本書を読もうとした理由である。

本書にそのような説明もないわけではないが、本書の目指したのは、キリスト教芸術に反映されたテーマの推移を通じて、信仰のあり方の変遷を辿ることではないかと思う。キリスト教芸術において描かれたテーマは、時代時代によって異なっている。そのことは、人々がキリスト教に求めた対象の変遷を示しているといえる。

先述したとおり、私がロマネスク様式に関心を抱いたのは、ロマネスク様式(という限定された期間)におけるキリスト教図像(芸術)の中に、非西欧的諸要素を抽出したいという考えにとらわれた結果だった。一方、本書は、キリスト教の初期から宗教改革による偶像禁止に至るまでの期間――換言すれば、キリスト教が具体の表出に支えられてきた時代――の信仰の流れを図像学によって、示したものだ。であるから、範囲が広すぎて、やや物足りない面もなくはないのだが、キリスト教芸術の豊穣さを見直すには、本書は必読の解説書の1つであることは疑いようがない。

『アイルランド幻想』

●ピーター・トレメイン[著] ●光文社 ●705円+税

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本書は11の物語の集成である。原題は “AISLING and Irish Tales of Terror”。AISLINGとはゲール語で幻影の意味。本書最後の物語のタイトルになっている。11の物語とも、アイルランドに伝わる伝説、古くからの言い伝え、神話、迷信、呪いなどを現代に置き換えて、ストーリーが展開される。別言すれば、本書はアイルランド奇譚集ともいえる。

たとえば第1話『石柱』は、盲目の音楽家の殺害を企てる妻とその愛人が、逆に、屋敷の庭に立つ古代の石柱に閉じ込められてしまう話。また、本題にも冠せられている11番目の『幻影(AISLING)』は、アイルランドの孤島に赴任した若き司祭が、島の自由奔放な女性に魅せられ、禁を犯してしまう話。若き司祭は自ら命を絶つのだが、生前、その島でやはり、自ら命を絶った先代の司祭の自殺のシーンが予告のように幻影となって現れる。

アイルランドが英国の植民地から独立を勝ち取ろうとしたとき、国家・民族のアイデンティティーとして「ケルト」を選び取ったことは『妖精のアイルランド』に書いた。『妖精のアイルランド』は、アイルランドの言説のネットワークとして、“チェンジリング”だけを取り上げているのだが、本書は、アイルランド各地の伝承、神話、迷信を集成している。海や島に住む悪魔、村や屋敷や教会を舞台にした、復讐、怨念、ティンカーの呪い(のろい・まじない)など幅広い。本書を通じて、アイルランドの農漁村に伝わる古い言い伝えをくまなく体験できる。とくにクロムウエル時代の圧政により、多数のアイルラン人が命を落とした「飢饉の時代」を舞台にした支配者英国人への復讐のホラーは、凄みがある。

物語のパターンとしては、因果応報に近い。堕落、裏切り、圧政といった悪事が、古代の神や被害者たちの呪いによって、報いを受ける。だからといって、説教臭い「道徳・倫理」の押し付けではない。

人間が悪に傾くことは避けようがない。自然すなわち情念に動かされてしまうからだろうか。だが、そのまま悪が放置され許されるわけではない。犯した罪はやがて、土着の超越的力により、裁かれることになる。裁きは、キリスト教(唯一神)のものとは異なり、はてしなく強大な超自然の力によってもたらされたり、小さく弱き者の強い呪いによって、罪を犯した者にやってくる。それらを迷信や幻想といって退けるか、伝統的(土着的)裁きの方法として受け入れ、教訓や道徳の基盤として人々の心に刻むかではないか。

人を律するのは、唯一神だけとは限らない。アイルランドはカトリックの国でありながら、カトリック信仰だけの国ではないようだ。21世紀、アイルランド本国でも、古代の伝承は迷信として退けられているのだろうが、それらを自らのアイデンティティーとして、つまり、精神、社会規範のあり方の1つとして、保存する力がいまのアイルランドにあるに違いない。その力が、本書のような形式の幻想文学を生んだのではないか。

後書きの解説によると、著者ピーター・トレメインは、またの名(本名)をピーター・べレスフォード・エリスといい、著名なケルト学者とのこと。小説はピーター・トレメインの名で書き、ケルト研究の書については、ピーター・べレスフォード・エリスの名で発表するという。本書を通じて、アイルランドの神話、伝説を勉強することができる。ケルト好きな方(ケルトマニア)に、ぜひの一読をおすすめする。

2005年10月3日月曜日

『下流社会』

●三浦 展 [著] ●光文社  ●819円(税込)

FI1917671_0E.jpg 日本は江戸時代(19世紀後半)まで強固な身分制社会であった。日本社会が「士農工商」と呼ばれた職業別に階層化されていたことはよく、知られている。1868年の明治維新は、旧来の身分制社会を解消したが、近代化が旧社会からの身分制度の残滓に加えて、富による社会の階層化を促進した。その結果、新たな、しかも、複雑な階層社会が日本に形成されることになった。明治期に形成された日本型階層社会は、戦後の高度成長期前まで続いた。

明治期の東京の最下層社会の実相については、『最暗黒の東京』(松原岩五郎著)、『日本の下層社会』(横山源之助著)などによりうかがい知ることができる。また、明治から終戦までの日本の下層社会については、『日本の下層社会』(紀田順一郎著)に詳しい。

終戦後、政治的変革と経済復興に伴い、とりわけ、1960年代中葉から開始された高度成長期、日本社会に大量の中間層が形成され、また同時に、福祉政策の充実に伴い、いわゆる「食うに困る」貧困層の存在は解消され今日に至っている。(もちろん、大都市におけるホームレス問題は解消されていないが)。だからといって、戦後高度成長期以降の中間層の肥大化が、戦後社会における日本の階層社会の不在を意味しない。その理由等は後述する。

明治から戦前までの日本社会においては、旧体制支配者(華族)、明治政府と直結したブルジョアジー(政商、後に財閥に成長)、それとは別に新たに形成された新興ブルジョアジーらが階層上位を独占した。その下位に官僚、大企業勤務者(ホワイトカラー)らが続き、町場の零細商人、単純肉体労働者、職人等々が下層を形成した。だから、大都市の下町と呼ばれる地域等の町内会の役員の座は、地元の商工業者で占められていて、サラリーマン層はそこに入り込むことができない。戦前、サラリーマンは月々の給与(サラリー)がきちんと確保された特権階級だったのだ。だから、いまだに町場の商工業者はサラリーマンと価値観を共有することができない。なお、最下層は定職をもたないルンペンプロレタリアートで、彼らの大多数は被差別者や農村部から職を求めて大都市にやってきた流民層だった。

明治から終戦まで、部分的な階層流動化や脱階層化があったものの、大雑把な階層構造は戦後の高度成長期まで残存した。

戦後、先述したように高度成長により、下層及び最下層が中間層に上昇したものの、階層の上位に変化はなかった。もちろん、ミクロにみれば旧華族や新興ブルジョアジーの没落や財閥解体があったけれど、戦後社会に明治以降の階層社会の基本構造が持ち越されたことに変わりなかった。ただ、戦後の高度成長期以降は、おおよその日本人が階層の差異に無自覚でいられた社会だった。なぜなら、日本社会において中間層が肥大化した高度成長期(1960年初)からバブル崩壊期(2000年)までの40年間は、国民の大多数が階層の下降よりも上昇を経験した例外的な時代だったからだ。社会階層が厳然と存在していたにも関わらず、だれもがその存在に無自覚でいられた「幸福な時代」だったとも換言できる。

さて、本書にもどろう。いま階層分化が劇的に進行しているとよく、言われている。フリーターや派遣社員と呼ばれる非正規社員の増大などの雇用環境が変化する一方で、IT産業における若手経営者の成功により、若年ニューリッチ層が台頭し、若年層の所得格差に激しい変化が起きている、と各方面で指摘されている。

結論を言えば、そのような変化が実際に起きていて、それに伴い、若年層における価値観の変化が並行して認められる。著者は新たに形成された若年層の価値観、年間所得などを総合して、「下流」と呼ぶが、下流は「食うに困る」かつての下層、貧困層とは異なっている。

自分以外の人間が何を考えているのかはわかりにくい。まして、階層だとかグループだとかクラスターと言われると、そんなものが実際に存在するのかな、とも思ってしまう。しかも、若年層に見られる新しい価値観が、経済格差の反映なのか、それとも、原因なのかを断ずる困難さを筆者は感じている。
 
たとえば、従来まで中間層に自動的に組み入れられたはずの若年層が、自らの価値観にしたがって、敢えて下層=「負け組」を選択しているのではないか。それとも、現在の社会システムの変化が、彼らを下層に振り分けているのか――という問いだ。

人間の価値観を定量的に調査し分類する(本書のような)専門的手法は、筆者には、魔法のように映る。親の職業やら学歴やら、消費の実態から価値観までがみごとなまでに整理され、そこから炙り出された結論は、日本社会の新たな分化の実態である。階層分化が織り成す模様は、中間層の二極化であり、とりわけ、30歳前後の若者(団塊ジュニア)の二極分化だ。「勝ち組」と「負け組」とが急速に分化し、それぞれの価値観にそった消費傾向、意識形成が認められるというわけだ。
 
高学歴の親をもった子供は高学歴になり、したがって、上層の親の子供は必然的に上層に振り分けられる。そのような社会システムが知らず知らずに稼動して、階層は固定化されていくのだろうか。

キーワードは、「自分らしく生きる」ということではないか。マルクスは、資本主義社会では疎外された労働を余儀なくされるが、共産主義社会では人々は疎外された労働から解放され、その結果、労働者の才能は無限に解放開花し、人々は労働者であるとともに、偉大な芸術家であることができる――というような意味のことを『ドイツイデオロギー』に書いた。

資本主義社会において、若者が「疎外された労働」に従事することを自覚的に拒否するのか、それとも、労働により富を得、権力を握ることを自覚的に「よし」とするかだ。問題は、労働一般に対する日本人のエートスに関わっている。具体的にはこういうことだ。企業に正規採用されれば、たとえば、本人が希望しない営業職に配属され人に頭を下げなければならなくなるかもしれない。自分はパソコンが得意だからといって、その分野に配属されるとは限らない。ならば、自分の好きなパソコンのスキルを生かして、派遣社員で生きていこう、と考えるのは不思議なことでもなんでもない。企業に入っても終身雇用ではない。ある時点で、会社にクビを切られるかもしれない・・・そのように考えることは自然だ。
 
一方で、「自分探し」が永続しているのかもしれない。本人の才能について、本人が客観的な判断がくだせないまま、理想の仕事を追い求めて、定職につかない若者が増大することもあり得る。その結果、若者のニート、フリーターが増大しているのかもしれない。

団塊前後の世代は、働き場所はいくらでもあったから、自分探し、たとえば、「革命幻想」や「芸術家」や「文学青年」「映画青年」・・・の夢がついえても、最後は企業が拾ってくれた。終身雇用制度に守られ、よほどの怠慢がない限り、会社からクビを切られる確率は低かった。入口はたっぷり開かれていて、出口はきっちり閉められていた。もちろん、閉ざされた企業の中で、「社会人」として我慢を強いられていたとは言え・・・それが、中流の実態かもしれない。ところがいまや、入口は狭く、実力主義とかで出口は限りなく広い。若年労働者が企業に正規(法的)に雇用されなくなったのだ。

本書が見出した“新たな階層集団=下流社会指向”について、マルクスの表現を借りるならば、本人の自覚は別として、彼らの選択した雇用形態が資本主義社会における“疎外された労働”を止揚しているとは今の段階では、もちろん言えない。ばかりか、結果的には “搾取された存在”として、 社会の下層に固定され続けることになる。

いま現在の労働フォームに適応できない若者がいることは仕方がない。すべての人間に階段を昇ることを強制できない。望んで下り階段を選択する者をだれもとめることはできない。ただし、そう断言するには注釈が必要だと思う、下り階段を自覚的に選択するならば・・・と。

2005年9月29日木曜日

『東京奇譚集』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●1400円(税別)

FI1903187_0E.jpg 本書は5つの小話が集められた短編集。それぞれの小話で、超常現象(Paranormal Phenomena)が扱われている。筆者は超常現象の専門家でないので、正確なことはわからないのだが、乏しい知識で小話集を分類すると、第一話がシンクロ二シティ(Synchronicity)、第二話=幻覚/幽霊(ハルシネイション/Hallucination))、第三話=テレポーテーション(Teleportation)、第四話=疑似科学(Pseudoscience)――になると思う。そして、最後の第五話で、この短編集が超常現象に踊る現代人を戯画化(Caricature)したことが明らかにされ、もちろん、この短編集の核心が超常現象でないことが確認される。

いま超常現象は、エンターテインメントの有力なコンテンツとして定着している。テレビをつければ、世界のシックスセンサーが何人も登場し、透視能力者による透視実験や失踪者探しが見られる。普通人とは異なる特殊能力をもった人間がいることは、周知の事実となっている。

稀代の流行作家・村上春樹(著者)がテレビ番組並み、いや、それよりもはるかに低いレベルの超常現象を書き上げた意図は――もちろん、読者を驚かそうとしたわけでない。本書程度の超常現象ではだれも驚かない。〈奇譚〉と振りかぶるのは大げさすぎる。

著者が超常現象にまつわる登場人物に関して、人生訓、人生の機微、その有為転変を付加したとも読めるが、陳腐だ。人生(人間)が常識や科学で推し量れない驚きに満ち溢れていることを説かれても、感心する読書は少なかろう。

著者が現代の都市におけるFantasy(幻想)のあり方を示した、という解釈は可能だ。第五話「品川猿」が重要だと思う。この小話は、自分の名前を忘れてしまいがちな主人公(既婚女性)が、品川区公設の精神カウンセリングに通うところから展開する。自分の名前を忘れるのは、超常現象の1つ「記憶喪失」を連想させる。カウンセリングに通ううちに、担当の女性カウンセラーが記憶喪失の犯人が猿であることをつきとめ、しかも、その猿が区内の下水道に隠れていることを透視する。これは透視能力者がよく、テレビで実演する透視シーンの戯画だ。

カウンセラーの夫(品川区土木課長)によって猿は捕獲され、尋問を受けることになる。そのとき、捕らえられた猿が主人公の性格的欠損を主人公に向かって、直言するシーンが出てくる。これは、転倒しているが、霊能者がテレビで依頼者に向かって、改心や今後の心構えを諭すシーンの戯画のように思える。

記憶喪失の原因は猿が名前(実際は名札)を盗んだから、という荒唐無稽な話だが、タネを明かせば、ヨーロッパの寓話(Allegory)によくあるパターンだ。村上氏は、第五話の寓話を用いて、超常現象ブームを揶揄し、そのすべてをひっくり返してみせる。と、同時に、絶望や不幸をもたらす原因を、妖怪や悪霊といった「あちら側の者」に表象して特定してみせ、さらに、「あちら側の者」から救済や功徳を受けることを明かしてみせる。

このような脈絡から、第五話「品川猿(記憶を盗む猿)」とは、アイルランドに伝承される妖精に似ているといえる。妖精も人間に対して、いろいろな悪さを仕掛ける。たとえば、人間を動物や石に替えたり、人の魂や記憶を盗んだり、人の魂と動物の魂を入れ替えたりする。その反対に、妖精は人間に教訓を与えたり、命を助けたり、富を与えることもある。第五話では、前述したように、猿が主人公の性格上の欠損を指摘して、主人公の生き方を変える役割を果たしている。

妖精といえばちょうど、『妖精のアイルランド』という新書を読んだばかりだ。同書には、妖精の果たす役割(換言すれば、妖精を生み出したアイルランド人の知恵)が言及されている。興味のある方は一読されたらいいと思う。妖精とは、共同体の安寧を維持するための、両義性をもった幻想的存在にほかならない。

2005年9月26日月曜日

『妖精のアイルランド』

●下楠昌哉[著] ●平凡社 ●760円(税別)

FI1892793_0E.jpg 19世紀、英国からの独立を目指したアイルランドでは、文芸復興及び民俗学が隆盛を極めた。この2つの領域は互いに影響を与えつつ、両輪としてアイルランド人自らのアイデンティティの確立=ケルト民族意識を育んだ。

その片一方である民俗学は、近代化の遅れたアイルランド農村部に言い伝えられている伝承物語の採集から始まった。採集された伝承物語により、アイルランドにおける物語の主役が妖精であることをアイルランド人は知ることになる。アイルランドがいまなお、妖精の国といわれる所以がここにある。

本書は、妖精の人間界に果たす役割から、アイルランド文学に認められる一定の構造を明らかにする。妖精が果たす役割とは、著者によって「アイルランドの言説のネットワーク」と呼ばれるもので、大雑把に言うと、妖精が生きた人間の魂をこの世からあの世に移行させてしまう状況もしくは現象をいう。

妖精の霊力がもっとも顕著に現れると信じられているのが、「取り替えっ子(チェンジリング)」だ。「取り替えっ子」とは、赤ん坊、幼児、あるいは妊婦といった境界領域にある人間の内面に妖精が侵入し、侵入と同時に、本来備わっていた魂をあの世に代わりに送ってしまうことをいう。魂を送られた幼児や妊婦は老婆の姿に変身したり、昏睡状態、仮死状態に陥る場合もあるし、異界からやってきた超人に変身することもある。

もっとも、本来、肉体に同居すべき魂がなんらかの契機で離脱し、残された肉体が仮死状態に陥ったり、あるいは、その代わりとして、獣の霊や悪霊が入り込む(憑依)といった言い伝えは、アイルランドに特有というわけではない、わが沖縄にも、また、アジア各地、南太平洋島嶼部にもある。たまたまアイルランドが欧州の「後進国」であったため、妖精伝説が他の欧州諸国より豊富だったに過ぎない。

さて、著者は本書を通じて、19世紀アイルランド文芸及び民俗学の大御所、イェイツ、ダグラス・ハイド(民俗学者)、プラム・ストーカー(ドラキュラの作者)、オスカー・ワイルド、ラフカディオ・ハーン、ジェームス・ジョイスの作品の基本構造に「取り替えっ子」が発見できることを実証していく。とりわけ、『ドラキュラ』に関する作品分析はみごとであり、なるほどと感心させられる部分が多い。

繰り返して言えば、アイルランド人は、支配者・英国に対する独立の根拠として、「ケルト」という民族概念を発見し、それを強く自覚した。そして、ケルト民族の独自性の実証手段として民俗学を発展させた。民俗学のフィールドワークにより、妖精の存在を発見し、妖精が人間に仕掛ける悪さ、すなわち、「取り替えっ子」により、人間が不可避的に受ける災禍の納得できる説明として用いてきた古代人の知恵を知った。自分達の祖先は、絶望を受け入れるために、妖精の存在を敢えて信じた――ことを学んだ。

19世紀当時、偉大な作家達は――愛国心に燃えたかそれに無関心であっかを問わず――、人間社会が体験する不条理性・悲劇性を文学化する際に「取り替えっ子」を基層として、物語を展開した。自覚的だったかどうかは分からない。いずれにしても、アイルランド人もしくはアイルランド系英国人が19世紀に残した文学作品の中には、アイルランドの農村に息づく妖精の影がちらついている。妖精が偉大な文学作品をこしらえたのかもしれない。

2005年9月20日火曜日

『グノーシス』

●筒井賢治[著] ●講談社●1500円(税別)

FI1870918_0E.jpg グノーシス(派)主義は、2世紀、現在のパレスチナの地に成立したキリスト教の一派。2世紀ごろはキリスト教が東西に波及し出した時代であり、この一派は多数派教会(カトリック)とは異なる独特の解釈を確立していた。このころのローマ帝国は、成立以来、最安定期の時代だった。

グノーシスを直訳すれば「認識」となる。
 
グノーシス主義の中心地は、現在のエジプトのアレクサンドリアだった。当地は、アレクサンダー大王が世界最大の帝国(マケドニア)を築いたとき文化の中心地として建都し、自らの名を付した。アレクサンドリアでは、ギリシア文化が継承された。

キリスト教グノーシス(派)主義とは何か。本書では、ウァレンティノス派、バシレイデース派、マルキオン派の3思想が紹介されている。グノーシスに限らず、そのころ、宇宙(世界)の始原は物語によって説明されることが普通だった。とりわけ、宗教においては、天地創造が物語によって説明された。

グノーシス派の教えとはどのようなものだったのか。もちろんグノーシスの教えを一括りにすることはできない。正統多数派キリスト教の場合、至高神=創造神が、自ら創った人類を罪から救うために、自らの子・イエス・キリストを遣わし、人類に福音を伝えたとされる。

一方、マルキオン派を除くグノーシスの場合、至高神は、低劣な創造神が創った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すために、自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えたとされる。

マルキオン派の場合、至高神は、自らと縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとし、そのために至高神は自らの子・イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた、という。

マルキオンは他のグノーシス派とは異なるものの、至高神が創造神の上位にあるという構造について共通している。物質(自然を含む)及び肉体が下位に属するという哲学は、プラトンのヒューレー(質料)という概念と似ている。このことを見ても、グノーシスがギリシア哲学の流れを汲んでいることは明白だ。また、マルキオン派は、聖書の正典数を限定し、多数派教会と対立した。

大雑把に言えば、キリスト教の教えをギリシア哲学ないしプラトン哲学の枠組みで理論的に体系化しようとしたのが、ウァレンティノス派、バシレイデース派となり、また文献伝承にメスを入れるまでして純粋な福音を再現しようとしたのがマルキオン派ということになる。

パレスチナで成立したキリスト教が勢力を増し、西方のローマに至るまでの間、東方(エジプト、シリア、ペルシア・・・)には複数のキリスト教教団が存在していた。たとえばエジプトにいまなお残存する「生誕派」は、現在でも、カトリックとは異なるキリスト教として活動を続けている。その中において、最大にして最強の教派は、グノーシスと対立した多数派教会だった。多数派教会はローマに定着し、やがて欧州を制覇し、世界規模のカトリック教会へと成長し現在に至る。

2世紀、グノーシスは、多数派教会から見れば異端であり、両者は互いに論争を繰り返し宗教として洗練度を増した。論争の結果、勝者は多数派教会(後のカトリック教会)であったことは歴史が証明しているのだが、グノーシスとの対立を経なければカトリックの教義の確立はなかった、という見方もできる。

2005年8月23日火曜日

『クローヴィス』

●ルネ・ミュソ=グラール[著] ●白水社 ●951円+税

ローマ帝国崩壊後、ガリア(現在のフランス)の地に、ゲルマン系諸族が王国を打ち立てた。その中でガリアの大半を掌握したのが、クローヴィスを王とするフランク族だった。本書は、クローヴィスの生涯を描いた歴史書である。

そもそもローマ以前の古代ガリアは、ケルト人が支配する土地だった。ローマ帝国建国後、ケルト人は隣接するローマ帝国と小規模な戦闘を繰り返し対立を続けたものの、カエサルによって滅ぼされてしまった。そのときカエサルが著した記録的文書が、かの有名な『ガリア戦記』である。ローマ支配となってラテン化されたガリアは、「ガロ・ローマ」と呼ばれる。

フランク族が属するゲルマン諸族はヨーロッパの東北部を出自とするが、1~2世紀ごろから徐々に南下を始めガリアに到達しており、ケルトとゲルマンはこの地方で互いに融合していたともいわれ、ガロ・ローマ期にはローマの影響をつよく受容していたことが分かっている。

ローマ帝国の衰退と並行して、ゲルマン諸族はローマ防衛を担当する軍事部隊としてローマの国家機構内部に組込まれていた。ところが、4世紀になるとローマの制御が利かなくなり、各地で暴動や蜂起が始まるようになった。そして、イタリアは(東)ゴート人の手に落ち、ガリアも(西)ゴート人、ブルグント人、フランク人によって分割支配された。そのときガリアに進出したフランク人の一派・サリー族の族長がクローヴィスにほかならない。

ガリアの新しい支配者、ゴート人、ブルグント人がアリウス派キリスト教に属していたのに反し、クローヴィスはカトリック信者だった。カトリックだった婦人の影響により、カトリックに改宗したといわれ、フランクは部族そのものがカトリックを信仰していた。

クローヴィスは、カトリック教会と親密な関係を築きつつ、ガリアを分割支配していたゴート人、ブルグント人に軍事的勝利をおさめ、パリに入城した。クローヴィスは存命中にガリア統一は果たせなかったものの、西欧における〈カトリックの聖性〉とゲルマン人の軍事力・政治力〈俗権〉の統合による支配原理の確立は、クローヴィスを起源とする。クローヴィスの即位が「古代の終わり、中世の始まり」といわれる所以である。

なお、赤白紺のトリコロール(フランス国旗)は18世紀のフランス革命時の「自由・平等・博愛」を象徴するといわれている。がしかし、トリコロールがサリー=フランク族がローマ防衛軍の一部隊として掲げていた軍旗であったことを本書で初めて知った。トリコロールも新しいようでいて、実は古い。

2005年8月21日日曜日

『戦後責任論』

●高橋哲哉[著] ●講談社学術文庫 ●960円+税

戦争を考えるシリーズは、いま話題の『靖国問題』の著者・高橋哲哉がいまから10年ほど前に戦争責任について言及した論文集をもって最後とする。

本書に収録された論文は、戦後50年に当たる年を中心としたもの。その過半は、当時話題となった『敗戦後論』(加藤典洋著)への反論になっている。

いまから10年前というのはどんな年だったかというと、朝鮮人「慰安婦」が日本政府を相手取り、補償を求める訴訟を起こしたことが象徴するように、アジア近隣諸国から日本の戦争犯罪、戦争責任を告発する事件が頻発した年だった。その背景には、冷戦の終焉があった。アジア諸国にあっての戦後とは、ソ連・中国といった社会主義(スターリン主義)国家の脅威を免れるため、米国・日本と軍事的経済的同盟関係を結ぶことを余儀なくされたものだった。いわゆる「敵の敵は味方」の論理だ。アジア太平洋戦争で米国にとって日本は敵だったが、米国の新たな敵である中ソの出現によって、中ソの敵であった日本が米国にとっての味方に変わった。日本の敵だったアジア諸国も同様に、自由主義国家群という枠組みの中において、日本が味方になった。その結果、日本の戦争責任・戦争犯罪を厳しく問うことができなかった。その典型が日韓条約だった。韓国は日本に対して日本の戦争責任と戦争犯罪を問う立場にありながら、西側という枠組みの中で、日本と同盟を結び、北朝鮮・中国・ソ連と対峙しなければならなかった。

1990年代、冷戦が終わり、中ソの脅威が薄らぐに従い、韓国を中心に、日帝の戦争犯罪糾弾の声が強くなった。1990年代になってようやく、東アジアにおいてアジア太平洋戦争再考の気運が盛り上がったのだ。

そのような中、加藤典洋が『敗戦後論』を著した。同書はアジア太平洋戦争の戦争責任の主体を問うことに主眼が置かれた内容で、とりわけ、「日本人犠牲者300万人の死者を先に立たせなければ、2千万人のアジアの死者につながらない」という記述が代表するように、ナショナリズムの色合いが濃かった。加藤の『敗戦後論』に対し、高橋はことあるごとに、批判を繰り返した。本書はそのときの高橋の反論を集成したものだ。

加藤が「日本人」を前面に出してアジア太平洋戦争の責任を考えたのに対し、高橋は「普遍的市民」の立場によって、それを考えている。高橋は高橋自らを含め万人が国民国家に属する現実を認めつつも、国民国家の下では戦争の廃絶も戦争責任も戦争犯罪も問えないという立場をとるように思える。
 
それに対して加藤は、日本の戦争と戦争犯罪は、日本人固有の精神性・信仰に基づいて思考し行動した帰結であって、国民国家の下に成立しながら、それを超えて構想される「普遍的市民」の倫理や正義という原理に照らしても有効な回答となり得ないと考えているように思える。

1868年に成立した明治国家は憲法と議会をもってはいたものの、欧州における国民国家と同じものではないような気もする。加藤VS高橋が講座派と労農派の対立軸と同じだとは言わないが、普遍的市民の倫理・正義だけで戦争が論じ切れるとも思えない。日帝の戦争責任は国際法上はドイツと同じように告発され償われなければいけないが、思想上はドイツと同様の解明はできないのではないかと。

終わった戦争の責任を問うことが、将来に向けた戦争の廃絶と同じくらい困難であるということが、筆者にはたまらなく、重く辛く感じる。糸口が見えない。

2005年8月15日月曜日

『日本が神の国だった時代』

●入江曜子[著] ●岩波新書 ●740円+税

戦争を考えるシリーズの第三弾。本書副題にある国民学校というのは、1941年3月1日「国民学校令」によって公布、同年4月1日の施行により誕生した、日本の初等教育機関のこと。この年、国民学校が、それまでの「小学校」に取って代わることになった。

国民学校創設の狙いは、日本が大東亜共栄圏構想の下、日中戦争→英米開戦を控え、天皇と国家に盲目的に従う人間の育成を目指したことだった。

国民学校の教科書や教育内容では、日本は神武以来の神の国で、始原より天皇が国を治め、国民(臣民)は天皇のためにすべて(生命)を投げ出すことが勤めだとされた。さらに、周辺諸国にも、日本の伝統的宗教(国家神道)の信仰を強要し、「日本臣民」として、天皇のためにつくすことを求めた。国民学校の教科書は、だから、「満州国」、台湾、朝鮮においても使用された。

国民学校の教育を一言で言うならば、「皇国民」の練成ということになる。国民は天皇の赤子と呼ばれ、兵士(赤子)は戦場で無謀な作戦で危険にさらされたとき、生命を落とす前に、「天皇陛下、万歳」と叫ばなければ、非国民とされた。

兵士(赤子)の母は、息子が戦地で国のために犠牲(戦死)となることを喜びとした。女性は、戦争ために犠牲となる兵士(=男児)を産むことを強制された。母は借り腹で、生まれた子は天皇の子であり、天皇のために命を投げ出すことが勤めとされた。そのような国家的価値を初等教育において、子供たちに「刷り込んでおこう」というのが、国民学校の目的であり機能だった。

さて、確かに国民学校の教科書や教育内容は、日本がアジア太平洋戦争で行ってきた戦争犯罪、周辺諸国の植民地化、超国家主義、天皇信仰といったものに同調している。しかし、「国民学校令」の公布(1941)は総力戦直前であり、そこから教育を始めても教育効果が現れるのは少なくとも6年後(1946=戦後)となろう。つまり、国民学校創設以前に、日本の天皇制超国家主義体制というのは、完成していたことになる。国民学校は、天皇制超国家主義思想の教育的集大成(体系化)であって、国民学校によって、天皇制超国家主義思想が国民に直接刷り込まれたわけではない。つまり、結果であって主因ではない。

筆者にはどうしてもわからないことなのだが、日本人がなぜ、天皇制超国家主義体制を容認し、進んで命を賭して戦争をしたのだろうか。国民すべてが、そのような施策を積極的に受容したのだろうか。天皇のために命を落とすことを喜びと感じたのだろうか・・・

自問自答するならば、日本人のすべてが、宗教的呪縛に包まれていたからではないかと思う。宗教的呪縛というのは言葉足らずだけれど、宗教の力でなければ、人間は非合理的な選択をしない。狭い意味の戦争、つまり、戦闘に参加した兵士(神風特攻員を代表的存在として)、また、それを喜びをもって送り出した日本の母親を含め、戦争を機会として、みな殉教を選んだのだと思う。若い兵士たちは、戦場を殉死の場として自ら選んだように思える。

いまからおよそ70年前といえば、つい最近のこと。そのころ、日本の教師たちは、かくも非合理的・非科学的な「歴史」や「道徳」を、小学生に対して、(国民)学校という場で、疑問もなく教えていたのかと思うと唖然とする。だが、人間がすべてに合理的かつ科学的選択をするとは限らない。理性、科学を万能と考えてはいけない。われわれ日本人が、日本という国家をつかって、かくもあきれた教育をまじめに執り行っていたことを、けっして忘れてはならない。

2005年8月13日土曜日

『8月15日の神話』

●佐藤卓己[著]  ●ちくま新書 ●820円+税

 
戦争特集の第二弾――たいへんすぐれたメディア論を紹介する。今日のメディア時代において、歴史認識というものがどのように形成されるかを透視した論考として、本書はもっともすぐれたものの1つだろう。

いまから、60年前、日本はアジア太平洋戦争で軍事的に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ降伏文書に調印した。わずか、60年前の1月間に満たない短期間の史実(出来事)であるにもかかわらず、驚くなかれ、今日の日本のマスメディアは、そのことを正確に報道または記述していない。

今日の日本人の大多数は、日本が戦争に負けた日を8月15日だと認識している。ところが、ポツダム宣言受諾の日は8月14日、降伏文書調印は9月2日だ。欧米諸国の場合、第二次世界大戦終結の日は9月2日であるとされ、歴史教科書の記述も国民的認識にも、ぶれはない。米国の場合、その日を「VJディ」として、全国民が共通に認識している。

一方、日本国民が8月15日を「終戦記念日」と認識したのは、戦争当時の記憶から手繰り寄せられたものではない。その日を終戦と認識し出したのは、1980年以降だと本書は分析する。終戦記念日を8月15日に法制化したのは、それよりも前だが、日本が戦後復興を完全に成し遂げ、世界で有数の経済大国となったとき、日本の終戦が8月15日と認識されたと本書はいう。この指摘は驚きであると同時に、著者の慧眼に感服するばかりだ。極論すれば、日本国民に戦争の記憶が薄れだすに従い、「日本は戦争に負けだのではない」「天皇が戦争をやめたのだ」という記憶の置き換えが、そのころから始まったのだ。

8月15日が戦争終結の日とされる根拠は、いうまでもなく、天皇が戦争終結のラジオ放送(「玉音放送」)を行ったからだろう。あの日、全国民が跪いて畏まって、天皇の戦争終結の放送を聞いた・・・というのは、実は真実ではない。多くの国民は、ラジオの声からは戦争終結を聞き取ってはいない。その声が消え、アナウンサーによる補足説明で、そのことを知った、というのが真実だ。大多数の国民が「玉音放送」を涙で聞いたという虚構=神話をつくったのは、大新聞だというのが、本書の趣旨だ。本書によると、「玉音放送」を国民が畏まって聞いたとされる新聞写真及び記事は、新聞記者・カメラマン・編集者があらかじめ仕込んでおいた、やらせ写真等及び予定稿による創作だったことが著者の調査と取材によって、明らかにされる。

日本の大新聞というものは、誠に恐ろしい。戦時下、大本営発表で国民を欺き、しかも、敗戦に至っては、国民を創作写真と作文記事で欺いたのだ。メディアの責任はあまりにも大きい。しかも、戦後、メディアはそうした虚構記事を集め、終戦記念特集として、何度も何度も繰り返し国民に増幅して提供することによって、ポツダム宣言受諾、降伏文書調印という世界標準の歴史を、日本国民から消去させたのだ。

日本人は、戦争~敗戦~戦後というおよそ70年弱の歴史ですら、為政者に奪われている。国民から歴史を奪ったのは為政者であり、その執行者はマスメディアだった。新聞が抱え込んだ歴史の偽造責任を断じて許すことはできない。

なお、本書が行った、《戦死者の記憶~お盆~夏の高校野球》が習合した、8月=日本人の死の季節感の分析も、たいへんすばらしい。そこで著者が行った、夏の高校野球大会の批判的分析も優れている。筆者も漠然とそのような思いを抱いていたのだが、著者は、主催者(朝日新聞社)の騙しの戦略を完璧に見抜いている。夏の高校野球の欺瞞性を知りたい方は、本書を一読してもムダではない。

2005年7月30日土曜日

『あの戦争は何だったのか』

●保坂正康[著] ●新潮新書 ●720円+税

8月を控え、アジア太平洋戦争に係る新書を4冊(本書、『8月15日の神話』『日本が「神の国」だった時代』『戦後責任論』)を連続で書評する。その第1回である。この試みは、アジア太平洋戦争を概括的におさえることを目的とする。

本題が示すように、あの戦争にはわからないことが多い。だれが何を目的に始めたのか、なぜあのような狂信的な気分に国民がひたったのか。310万人~500万人といわれる犠牲者を出す前に、なぜ、戦争を終結できなかったのか・・・

著者は本書を通じて、そうした疑問に丁重に答えようとしている。だが、それでも、筆者にはそれらの疑問が氷解したわけではない。

戦争開始の背景には、陸軍と海軍の対立があったといわれる。また、教育の「成果」だともいわれる。国民性だともいわれる。米国の陰謀だとも・・・ただ1ついえるのは、明治国家成立とアジア太平洋戦争は一直線に結びついているということ。このことに疑いようがない。つまり、日本人の国民性――エトスといわれるものは、高々明治国家成立以降に培われたものにすぎない。もちろん、明治国家成立前にも、武士道、切腹といった、生を軽んずる傾向は認められるけれど、それは武士と呼ばれる一部階級の倫理観にすぎなかった。

ところが、明治国家が近代戦争(日清戦争)を始めてから、日本国民すべてが、生を軽んじ、死を恐れない戦闘的国民へと変貌していった。本書は、戦争を支えた日本人の精神性についての記述は乏しい。政局、戦局、軍部についての分析を重点的に記述しているからである。そのことももちろん重要だけれど、筆者は、日本人の精神性と,あの戦争の関係について問うてみたい。

なお、戦後社会は、玉音放送が流された8月15日をもって、終戦記念日としているが、著者が指摘するように、このことは戦後社会の無責任性を象徴している出来事の1つである。アジア太平洋戦争が終わったのは、日本政府が無条件降伏文書に署名した9月2日である。8月15日以降、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍の軍事行動により、北方で多くの日本人が犠牲になっていることを忘れてはならない。さらに、捕虜になった民間人・関東軍の兵士がシベリア抑留という、非人道的扱いを受けた。もちろん、8月15日以前には、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲などにより、それぞれ、数十万人という生活者が犠牲になった。あの戦争は何だったのか・・・