2006年5月29日月曜日

『村上春樹論「海辺のカフカ」を精読する』

●小森陽一〔著〕 ●平凡社新書 ●780円+税

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村上春樹に対する痛烈な批判の書である。その核心部分を引用しておこう。
「従軍慰安婦問題」はどこから考えても、かつての日本の侵略戦争を正当化できない、決定的な証拠でした。この問題は、「戦争」という国家が遂行する暴力の中に組み込まれた、非人間性の本質をくっきりと暴露するものでした。国家のための人殺しを正当化する考えを教育された男性たちは、そこに内在する「恐怖」の裏返しとして、女性に対する「レイプ」を欲望する心理構造をもつことが様々な角度から明らかにされ、同時代的に発生したコソボ紛争における、「民族浄化」の名による集団的な「レイプ」と同じ問題として、国連の人権委員会でも議論され、勧告が出されもしたのです。そうした一連の問題を、〈いたしかたのなかったこと〉として不問に付す枠組が、『海辺のカフカ』の中に組み込まれているのです。ここに2002年に日本で発表され、国民的な〈癒し〉を与えた小説として、ベストセラーとなった『海辺のカフカ』という犯罪的ともいえる社会的役割があることを、私は文学という言語実践にかかわる者の責任として強調しておきたいと思います(256頁)
村上春樹論には難解なものが多いが、本書もその1つ。批評者の牽強付会、我田引水の臭いがしなくもないけれど、著者の精読の成果を批判する能力が筆者にはないので、本書の感想を書くしかない。日本文学は難しい。

さて、筆者(小森陽一)が指摘する『海辺のカフカ』(以下「同書」という。)の犯罪性(=問題点)は、概ね以下の事項に整理できる。

『海辺のカフカ』は――

(1)「9.11」以降の「戦争の時代」に生きる人々の心に「癒し」をもたらしたのだが、この「癒し」は、人々が本来直視すべき時代の本質を見失なわせてしまっている。

(2)日本が起こしたアジア太平洋戦争における戦争責任を曖昧にしてしまっている。

(3)女性嫌悪(ミソジニー)で一貫している。

(4)国民国家(国民皆兵制度)における戦争とレイプの問題を不問に付してしまっている。

それぞれの事項は関連がある。特に(1)(2)(4)は同義反復かもしれない。それはそれとして、これらに関する著者(小森陽一)と村上春樹の時代認識とは、どこかどう違うのか。本書を読んで、両者の立場を突き合わせてみて、批評者(小森陽一)をとるか、作家(村上春樹)をとるかについての判断は読者次第。

対立軸を簡単に紹介しておこう。

『海辺のカフカ』は、2001年に起きた「9.11事件」後の世界に係る村上春樹のメッセージだと著者(小森陽一)は規定する。「9.11」がなければ、同書は書かれなかったはずだと。

「9.11」とは(米国の発表によると)、「イスラム過激派テロリスト」が米国の民間航空機を乗っ取り、ニューヨークのWTCビルに突っ込んだその結果、ニューヨーク市民6,000人あまりが犠牲になった事件をいう。

この事件を境にして、米国はアフガニスタン、そして、イラクに侵攻し両国を武装制圧し今日に至っている。冷戦終結後の世界は、この事件を契機として、米国(西欧圏)とイスラム圏の対立という構造に定式化された。

「9.11」には多くの疑問が投げかけられている。米国による自作自演説(陰謀説)も消えない。その根拠として、米国は20世紀初頭にファシズムの脅威を挙げ、冷戦時代に共産主義の脅威を説き、冷戦終結後は、新たにイスラム過激派のテロリズムの脅威を挙げて世界戦略を進めている。米国の世界戦略とは世界を軍事的に支配することではないのか。イラクに大量破壊兵器があるといいながら、それは嘘だったし、テロリスト集団といわれるアルカイダも、その首謀者ビンラビンも捕まらない。米国が進めた「反テロリズム」の戦争が正しい選択なのか。

著者(小森陽一)は、日本及び西欧先進国の大衆の気分は、「9.11」以降の米国の軍事行動を「いたしかたない」として消極的に肯定していることで一致していると、また、同様に、村上春樹の志向性及び同書の構成・表現は、現状を「いたしかたない」とする大衆全般の気分を代表するものであり、米軍に象徴される戦争(暴力)の本質を追求する思考回路を閉ざしてしまっている、という。

確かに1970年代前後には、ベトナム戦争反対の声が世界的に高まったのだが、いま現在は、とりわけ日本においては、米国が仕掛ける戦争に対する問題意識は失われている。

村上春樹の小説が時代の気分に迎合していることは、同書にとどまらず、村上の小説の特徴の1つである。とりわけ退潮的気分を肯定する。時代と真正面から対峙しないし、批判もしない。村上春樹は、時代状況に対して原理的に対立する姿勢をとらない。だから、小説の登場人物も時代の気分に対峙するというよりも韜晦的であり、気分(快・不快)を重視し、気分という曖昧さの中で行動する。気分のなかで、本質は常に溶解される。繰り返せば、時代の問題と原理的に対峙することなど不可能ではないのか――というのが村上春樹の小説のあり方であり特徴だと言っていい。

一方、著者(小森陽一)は、米国が今日進めている反イスラム、反テロリズムの軍事行動に批判的であり、その立場は反米、反軍、平和主義で一貫している。だから、大雑把にいって、村上の小説が反戦反米の立場をとらないことがけしからんという批評につながることになる。

村上春樹の小説を「犯罪的」だと断定することもできないと思う。今日、まともな反戦、反軍の戦略を構築できなければ、小説を書いてはいけない、という著者(小森陽一)の断定には無理がある。

退潮的気分で「9.11」を眺め、米国の戦争に反対もせず、政治には無関心で曖昧で韜晦的なのがいまの日本人および先進国の人々なのならば、そのような態度と気分の是非を決定するのは著者(小森陽一)ではない。著者(小森陽一)の政治的メッセージを信用できると確信できない人も多い。反戦、反軍、平和主義を先験的に肯定するのは、小森陽一のイデオロギーにすぎないのではないか。反戦、反軍の主張は言葉の操作ではなく、政治運動、大衆運動が担う役割であって、小説(家)にそれを求めるのはいかがなものか。著者(小森陽一)の村上批判は、文学と政治という設定に逆戻りすることのように思える。

2006年5月20日土曜日

『英霊の聲』

●三島由紀夫〔著〕 ●河出文庫 ●683円+税

FI2566211_0E.jpg 『英霊の聲』『憂国』の短編小説と戯曲『十日の菊』、そして『2.26事件と私』というエッセイが収められている。エッセイを除いた三部作が、三島の「2.26事件三部作」だ。三部作のモチーフは後年、三島の遺作『奔馬 豊饒の海(三)』に結実する。

『英霊の聲』は極めて観念的な小説だ。三島由紀夫の天皇観が直接的に披瀝されている。粗筋は、ある神帰(かんがかり)の会に参加した人物(多分、三島由紀夫だろう)が、そこで、若い盲目の神主に英霊が依り憑き、英霊が無念の心情を吐露する様子を目撃する。英霊の聲を借りて、著者(三島由紀夫)が自らの天皇論を展開したと思えばいい。

神帰った英霊は「2.26事件」で天皇に反乱軍とされ極刑に処された青年将校と、大戦末期、自爆で命を落とした若き神風特攻隊員のものだ。英霊は繰り返し、「などて天皇はひととなりたまいし」と問い続ける。

この呪詛は戦前~戦後を通じた天皇批判だ。英霊は、天皇が神でなければならないときに、人になってしまった(裏切り)ために、魂がやすらぐことがないという。自分達は天皇に裏切られたがゆえに、その霊がはるかな海上の彷徨っているという。英霊は国体が滅びることになる前、二度、天皇は神であってほしかったという。一度目は「2.26、青年将校等が決起した」ときであり、二度目は、特攻隊員が敵空母に向かって自爆した直後にやってきた占領下だ。

「事件」が起きた1936年(昭和11年)当時、不況、飢饉等で日本の都市部、農村部は共に疲弊していた。特に農村部では不作による家計の悪化から、娘を身売りする家庭も多かった。一方、財閥、官僚、華族、政治家、軍閥といった支配層は、汚職、利権等の不正を働いて私腹を肥やしていた。こうした不正を糾すため、青年将校は軍を挙げ、ときの立憲主義者政治家、財閥を殺害した。軍を挙げれば天皇がその義を認め、世の中は変わると信じた。しかし、事件直後、天皇は決起した青年将校等を逆賊と規定し、正規軍に鎮圧を命じ、彼らの処置を軍上層部に任せた。軍部官僚は「反乱軍」の首謀者を極刑、流刑等の重罪に処し、下級兵士は前線に送られた。

以降、軍部官僚は独走し、日本を無謀なアジア太平洋戦争に突入させた。もし天皇が「2.26事件」を起こした青年将校を看做さず、彼らの信ずる「至純なる天皇制国家」の誕生に向かって国家の方向を転換していれば、日本が大戦争を起こすこともなく、国体は維持されたのだと。さらに、全土が焦土と化して迎えた敗戦時、占領軍及び敗戦処理内閣の長老に促され、天皇は「人間宣言」を発したが、宣言は国際社会に配慮し、日本国民の安全を確保するためだったと言われているものの、そのときこそ、天皇は神でいてほしかったという。天皇がそのとき神であれば、敗戦後の日本がこれほどまでに混乱し無秩序で頽落した国になることはなかったと。
英霊の聲を借りた三島の「天皇制」は極めて反語的だ。現実には、どちらもあり得ない選択だったろう。
「2.26事件」を指導した青年将校は真に国を憂いていた者であり、また、呼びかけにこたえた兵士たちは、貧農出身の素朴な兵士たちで、彼らは故郷の農村の疲弊を救うことを求めていた。彼らは共に腐敗した財閥、政治家、軍部、官僚等を暴力的に一掃し、原始天皇制共産主義国家の建設を夢想した。彼らは「近代的革命=権力の交代」など構想だにしなかった。彼らは、天皇(神)が自分達の行動に触発されて、疲弊した人民(臣民)を救済してくれることを祈り信じた。彼らの決起により、天皇が神として聖断をくだすことが確認できれば、彼らは自ら命を絶つつもりだった。彼らの行動原理は、天皇への一方的な思い(恋蹶)で一貫していた――というのが三島由紀夫の歴史観だ。

二作目の『憂国』は、天皇へ恋蹶が死とエロスに近接した心情であることを伝えている。この短編は、決起するつもりだった青年将校が図らずも決起軍に参加できなくなり、彼らを討伐する側に立つこと適わず、切腹を選ぶ。

死を前にした夫婦の交情と、青年将校の切腹の場面、そして、妻の後追いの描写は迫力がある。ここに描かれた決起した青年将校の国を憂う至純な心とそれに従う妻の、これまた私心のない清純さは、自死によって保証されるというわけだ。

三作目の『十日の菊』は民衆のナショナリズムがテーマとなっている。「2.26事件」で暗殺されそうになった大蔵大臣が、女中頭の機転で決起軍から逃れ命を救われる。そのとき大蔵大臣の屋敷を襲った決起軍の中に女中頭の息子がいたのだが、女中頭は大蔵大臣と同衾中だった。息子は母親の裸を見てその裸に唾を吐きかけ去っていったものの、母親の裏切りを苦に自殺する。大蔵大臣は女中頭を故郷に帰し一生を保障したのだが、戦争が終わって、女中頭は隠居した大蔵大臣の屋敷を訪れて、過去を清算しようと試みる・・・という粗筋だ。この戯曲の登場人物は複雑な関係にあるので、詳細については省略する。

三島由紀夫の小説では、〈支配する側〉と〈される側〉が截然と分かれているものが多い。前者は華族(財閥、官僚を含む)であり、後者はその使用人、青年将校、兵士などの下層の者だ。三島由紀夫が、そういう世界で実際に暮らしていたのかどうか知らないが、身分制社会――いまの言葉で言えば格差社会――を前提にしたものが散見される。日本は、戦前までは完全な身分制社会であったことは事実らしいし、いまでもそうなのかもしれない。

底辺の生活者が支配者につくす(仕える)様相がしばしば小説の重要な要素になっている。華族の生活を知らない筆者には、三島由紀夫が描く世界になじまない。虚構であるとしても、感覚的に受けつけない。

『十月の菊』はその観念性が顕著で緊張感に乏しく、前二作に比べれば「遊び」の要素が強い。戯曲という形式だからかもしれない。いずれにしても、三島の虚構の世界では、被支配者(生活者)が支配者を理不尽なくらい助ける。本書もその不条理によって構想されている。それを負のナショナリズムというのかもしれない。

本書は、三島が「2.26事件」について、その主役たちの思想(国家観)、人格と心情、そして、民衆ナショナリズム――という3方向からアプローチしたものだ。 -->

2006年5月18日木曜日

『団塊の世代とは何だったのか』

●由紀草一〔著〕 ●洋泉社 ●740円+税

FI2559696_0E.jpg本書は、「団塊」と冠をした戦後論なのだが、著者(由紀草一氏)は団塊に対して、悪意を抱いているようだ。その理由については、本書からはうかがえない。詳細は後述するが、全共闘運動の先駆性、創造性といった肯定的評価は団塊以前に帰し、そのいい加減さなどの否定的評価については団塊世代に帰している。戦後の諸矛盾は団塊世代に責任のすべてがあるわけではない。団塊以前⇒団塊⇒団塊以降が無意識に戦後精神を継承した結果だと思える。

本書の戦後論に新鮮な切り口はない。いままで語られてきた常識的見方だ。だから、「団塊」という冠がつかなければ、出版されることはなかったかもしれない。

もちろん、団塊の世代には特徴がある。そして、もちろん、すべての世代がそれぞれ特徴をもっている。また、「団塊」の特徴といわれているものの実態は、「団塊」を含めた戦後世代に共通する場合が多い。だから、本題の<団塊の世代とは何だったのか>という問いには、ただ一言、“この世代は人口が多い”と、また、消費社会に初めて登場した世代だった、と回答できる。

人口が多く、しかも、消費社会の発展とともに日本の企業にマーケティング戦略が定着するに従い、団塊世代はマーケティング上のターゲットに設定され続けている。団塊世代を刺激しておけば、メーカー、サービス業、出版産業等の売上が上がる。メディアは団塊特集を組み、特集された団塊世代がそれを読み、新たな消費行動に至る。「団塊」が動けば、モノが売れる。いまは団塊の世代の退職金が金融業の標的になっている。旅行業者は、暇になった「団塊」の旅行需要に期待している。言うまでもなく、退職金を給付されるのは「団塊」だけではないし、リタイアの後、旅行するのも「団塊」に限ったことではないのだがしかし、メディアの反応は、“団塊は・・・”なのだ。

マーケティングが団塊の世代を照準に消費刺激策を講じ、マスメディアが騒ぎ立ててきた結果、団塊世代が自分達を特殊な世代だと思い始めてしまった。自分達は他の世代に比べて、特異な世代だと考えてしまった。そればかりではない。「団塊」が自分達を特別だと考えるにとどまらず、その前後の世代までが「団塊」を特別視してしまった。本書は管見の限りだが、その代表格だと思われる。著者(由紀草一氏)が、団塊の世代を20世紀後半、人類史上突発的に出現した新種であるかのように特別視していることに驚く。

(1)政治体験

具体的に言おう。全共闘運動は団塊世代の際立った特殊性だと言われている。ところが、その萌芽は、ほぼ10歳上の「60年安保」の世代によって担われていた。だから、安保世代の体験の方が劇的だった。反代々木(反スターリニズム)の「発見」は、全共闘のものではなく、「60年安保」のものだし、学園封鎖(バリケード)も全共闘以前の政治戦術だった。火炎瓶闘争、非合法闘争は1950年代の日本共産党が最初に行った。

著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の学生運動(67年の第一次羽田闘争~73年の連合赤軍事件)を特別視しているけれど、その前の(「60年安保」)世代の延長上にある。言うまでもなく、「60年安保闘争」があって「全共闘運動」が起きた。

著者(由紀草一氏)が一生懸命調べた、全共闘運動(家)もしくは新左翼運動(家)の特徴については、団塊の世代に限った特徴もあるし、前衛党(政治結社)一般に見られる特徴もある。全共闘運動の特徴の1つだと言われる「暴力性」に関しては、アジア太平洋戦争直後、日本共産党が起こした「血のメーデー事件」等の前例がある。リンチ事件も戦時中、日本共産党が起こしている。

そればかりではない。過激な政治集団の叛乱を近代以降に尋ねれば、三島由紀夫が『奔馬』で取り上げた、維新直後の「神風連」の叛乱などがあり、その数を数えればきりがない。20世紀に入っては「5.15事件」「2.26事件」もそうした脈略にあるし、戦前は過激な民族派政治結社がいくつかの事件を起こしている。もちろん、イデオロギーはその時代(世代)、その時代(世代)ごとに異なっているが。

グローバルにみれば、今年(2006年)になって、フランスの若者が雇用法を巡って直接行動を起こしているし、米国でもほぼ同時期に移民問題で大規模な街頭闘争が繰り広げられた。このように、全共闘運動は、近代・現代における大衆の「異議申し立て」という視点からすれば、恒常的社会現象であって、類似の運動はいくらでも挙げられる。

ベトナム戦争に対する反戦運動のあり方については、日本と欧米の反応は似ていた。その理由は東西冷戦だけで済ますことができないだろう。しかも、終息の仕方までが似ていたことについては、「団塊」というキーワードだけで説明しきれる問題でない。

政治(革命)運動の不完全性、いい加減さ、その不幸な結末については、これも「団塊」というキーワードでは説明できない。人類史上初のプロレタリア革命といわれる「ロシア革命」は不完全極まりないし、革命後のスターリン主義の粛清で殺されたロシア人の数は、連合赤軍の犠牲者の比ではない。ワイマール共和国のもと、「ドイツ革命」の失敗がナチズムの台頭を招いた。全共闘、新左翼運動の限界性については、著者(由紀草一氏)のご指摘のとおりだが、それを団塊の特徴に還元することは不可能だ。

日本の革命運動の顛末を言えば、「血のメーデー事件」「60年安保」といった闘争後の日本共産党員や結党間近で敗北した新左翼活動家の多くが「挫折」を経験した。彼らは団塊前の世代だが、「団塊」とほぼ同じ体験を共有している。両者とも、路線上の対立から死者(自殺者・他殺者)を出している。80年代、政治結社を舞台とした内ゲバ・リンチ事件は終息したが、90年代に入ってオウム真理教がより過激なテロ事件を起こし、教団内部でリンチ殺人事件を起こしている。

革命運動と呼ばないが、特異な政治体験の極限が戦争体験ではないか。「団塊」より前の世代の戦争(戦時)体験と言えば、青春時代に従軍し、アジア・太平洋の各地に赴任し、挙句、同世代の大量の死を目撃した「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代、あるいはその上の世代には、ファシズム、思想弾圧、従軍、焦土、占領、飢えといった、極めて重い体験をしている。その重さは全共闘運動体験の比ではない。

団塊以降の世代には政治体験がないが、ないほうがむしろ異常なのだ。反語的に言えば、団塊以降の世代には政治運動をしていないという特徴をもっている。その一方で、政治体験に代わって「バブル経済体験」「平成不況」「就職難」「フリーター」「いじめ」「ひきこもり」などの困難な「世代体験」をもっている。

(2)歌ったのは「団塊」だけではない

著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の文化的特徴として、フォークソング(プロテストソング)を挙げているが、これも特別な現象ではない。60年安保の時代には「歌声喫茶」が流行り、そこで労働歌、ロシア民謡が歌われた。1950年代~60年代初頭には、日本ではシンガーソングライターが存在しなかったので、民謡等の愛唱歌がその代役を果たした。その前は軍歌、寮歌等が青春の歌だった。旧制高校生はヒッピーではないけれど、破帽・高下駄等で自分達の存在を誇示した。著者は触れていないけれど、青春の歌として忘れてならないのは「艶歌」「猥歌」だ。

形式論で言えば、フォークソング誕生前に青春の抒情を代表するのは短歌だった。60年安保を代表する歌人が岸上大作だし、それ以降が福島泰樹。団塊は道浦母都子だ。

団塊以前の「青春の歌」が団塊世代と様相を異にするのは、▽ボリューム(人口=消費者数)の違い、▽マスメディアの発達度合の違い、▽マーケティングの発展具合の違い――からだ。前述したように、団塊の世代はマーケットとして有望だから、彼らの「青春」が企業により商品化され、現にそれが売れた。企業(音楽産業)が「団塊」を意識して商品化した楽曲としては、『翼を下さい』『学生街の喫茶店』『バラが咲いた』『白いブランコ』などがあり、これらは「団塊」より年上のプロの作詞家・作曲家(すぎやま・こういち、浜口庫之助、山上路夫・・・)らの手になった。これらフォークソング(ニューミュージック)もその時代を代表したものであり、かつ、いまなお歌い継がれている。音楽産業が当時の若者の抒情性に依拠してマーチャンダイジングしたものなのだが、今日まで、世代を超えて歌い継がれているのはなぜか。

(3)世代批判の不毛性

繰り返すが、それぞれの世代に特異な「世代体験」があり、「団塊」の体験をことさら問題にしても不毛だ。「団塊」が他の世代と唯一異なる点は、人口が多いということだけだ。人口が多いことが特異な体験を生むこともある。

たとえば、団塊の世代の小学生時代、教室が足りなくて「二部授業」を体験した。「団塊」といえば「二部授業」だ。しかし、戦時中の小学生の体験はもっと強烈だったに違いない。国旗掲揚、ご真影への敬礼、軍事教練などは、「団塊」の比ではない。疎開体験も聞く。戦中世代の特異な小学生体験に比べれば、「団塊」の「二部授業体験」など取るに足らない。

何度も言うように、団塊の世代はマーケティング上、有望な消費群であり、「団塊」を刺激することが消費喚起に直結する。メディアはそれを狙っている。「団塊」はメディアのキャンペーンによって、自分達を特殊な世代だと勘違いするようになった。だから、本書の団塊年譜を眺めてみても、特段な感慨はない。確かに先駆的な特徴も認められるけれど、それだけの話だ。先駆性なんてものは、最初の珍しさ以外でしかない。

「団塊」を批判することはかまわない。かつて、団塊の世代は両親をつかまえて、“なぜ戦争に反対しなかったのか?”と詰問した。両親の世代が答えられるはずもない。同じように、若い世代から、“なぜ団塊は政治運動から召還したのか”、と問われても、回答できないし、“マルクス主義を信じているのか”と問われても、明確な回答が出せない。

団塊が回答を出せないまま40年が、やがて半世紀が過ぎるだろう。若い世代から、団塊が犯した罪障の数々について償えといわれれば戸惑うばかりだ。著者(由紀草一氏)のような「明晰」な人間から見れば、団塊の世代は愚かで、お調子もので、思慮が浅く、反省のない世代に見えるのかもしれない。しかし、著者(由紀草一氏)のように他世代のことを批判的な目で見たことがないのでわからないが、その前後の世代も同じようなものなのではないのか。世代の行動に反省を示さないのは、団塊だけなのだろうか。各世代も同じように、自分たちの行動を説明できないのではないか。

メディアは「団塊」という幻想を生み出し、それによって消費を喚起しようとする。この現象は団塊が墓場に行くまで持続される。団塊がその寿命を全うするまで、葬式やお墓の需要が見込まれるからだ。

2006年5月6日土曜日

『天人五衰』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●514円(+税)

FI2536045_0E.jpg 最終4巻目だ。「4」は、起承転結の「結」に当たる。

まず、本題の“天人五衰”の意味だが、本文中に詳細な解説があるので引用する。天人とは、仏話にある欲界六天ならびに色界諸天に住する有情、つまり、天子、天女に仕える人、動物のような存在のことか。五衰とは天人が命終の時に現れる五種の衰相だ。五衰を大雑把にいえば、▽天人は身に備えた楽から発する美しい声をもっているが、死期が近づくと楽が衰え、声がかすれてしまう。▽天人には光がさしているが、死期が近づくと、失せて影につつまれる。▽天人の肌はすべすべで水をはじくが、死期が近づくと水が着くようになる。▽天人は本来すばしっこく移動するのが常だが、死期が近づくと一箇所に低迷して抜け出せなくなる。▽天人の身には力がみち溢れているが、死期が近づくと力が衰え、しきりに目ばたきするようになる。

粗筋をおさえておこう。時代はさらにくだって、本多・76歳のときに物語が始まる。妻に先立たれた本多は、同性愛者である慶子と友達同士の関係を続け、共に国内外を旅するまでになっている。2人が三保の松原を訪れた際、静岡のある海岸に建っている帝国通信所の船舶監視小屋を見学する。小屋には透という通信員が働いている。透はIQ159の秀才でありながら、両親に先立たれ、中学卒業後、通信員の職を得ていた。友人はなく、毎日孤独な生活を送っているが、絹代という精神病を患う少女にだけ心を許している。本多と慶子が通信室を見学するうち、偶然、透の体に清顕、勲、ジン・ジャンと同じ3つの黒子があることを発見する。本多は早速、透を養子にする。透は本多の屋敷に引き取られ、高校受験のための勉強ばかりか、エスタブリッシュメントとなるためのマナー、会話、思考方法を本多から教育される。本多は透が清顕、勲、ジン・ジャンのように夭逝することを望まず、成人してその命を全うすることを祈る。

本多には不安があった。透を清顕の生まれ変わりだと確信して養子にしたものの、ジン・ジャンの命日が不明なため、透が本当に清顕の生まれ変わりかどうかの確証がない。ジン・ジャンが亡くなる前に透が生まれていたのでは転生が成立しないからだ。透の生年月日はわかっても、ジン・ジャンの命日は、本多の力をもってしても判明しないままだった。透は高校、大学の試験を順次パスし、20歳の青年となる。しかしその間、新左翼の活動家であることを隠して本多家に入り込んだ家庭教師をクビにし、透との結婚を前提に交際を始めた百子を裏切り、絹代を東京に呼び寄せ、さらに、本多に暴力を振るうようにまでなっていた。透の本多に対する肉体的・精神的迫害は日々激しくなる。

そんななか、本多は、透が清顕の生まれ変わりなら満21歳の誕生日の前まで(20歳)に命を落とすはずだし、贋物ならその後も生き続けると思うに至る。透の21歳の誕生日の半年前のある夜突然、本多は性癖だった“のぞき”の色情に駆られる。彼は絵画館前に一人出かけ、“のぞき”をしようと徘徊しているとき、偶然起きた傷害事件に巻き込まれ警察に事情聴取される。警察は本多の“のぞき”を週刊誌にリークし、彼は「のぞき屋、元判事」と書き立てられ、その名声を失う。

これを機に、透は本多を禁治産者に仕立て上げ、その遺産を奪おうと画策する。本多に同情した慶子は、クリスマスの夜、透を慶子の自宅に一人招き、透が養子に引き取られた秘密を話す。慶子は透に、「あなたが清顕の生まれ変わりなら、21歳の誕生日までに殺されるでしょう、でも、あなたは贋物だから殺されない」と告げ、清顕、勲、ジン・ジャンの死の物語を透に聞かせる。「あなたが本物なら、あと半年で殺される・・・」。透はそんな呪いのような言葉を発する慶子に殺意を抱くが、彼女を殺すことができないまま、慶子の屋敷を後にする。

その数日後、透は自殺を図り、一命は取り留めたものの失明する。本多が透の自殺の原因を慶子に尋ねると、慶子は自分がクリスマスにすべてを透に話した、と告白する。それを聞いた本多は、慶子と絶交する。透は結局21歳を過ぎても生き続ける。清顕~勲~ジン・ジャンと続いた輪廻転生の物語は透の代で途絶える。

81歳になり死期の訪れを自覚した本多は、清顕の恋人・聡子との再会を決意し、一人、奈良の山寺(月修寺)に向かう。聡子は存命で月修寺の門跡となっている。山道を登る本多に老いと持病からくる苦痛が襲う。休み休み悶絶しながら本多は月修寺にたどりつき、念願の聡子との再会を果たす。本多はそこで聡子に、清顕のことをどう思っているか尋ねると、聡子は意外な回答をする。聡子は「松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」――聡子は清顕のことを知らないというのだ。本多がしつこく問い詰めても、聡子は「知らない」と言い張る。「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?・・・」

印象を書きとめておこう。

起承転結の「結」は意外だった。私を含めた読者の多くは、三島が、『豊饒の海』全編にわたり撒き散らしてきた仏教の教義で煙に巻かれ、輪廻転生を基に物語は進み終わるものと確信していたに違いない。ところが、最終巻の主人公・透が贋物であり、さらに、物語の原点となっている清顕と聡子の恋愛事件すら、聡子にあっさりと否定されてしまう。清顕の存在そのものが本多の夢ではないのか、といわれれば、輪廻転生などあり得ないという近代科学主義の常識が目を覚ます。清顕と聡子が本多の夢ならば、勲もジン・ジャンも透も、この物語すべてが夢だ。

『豊饒の海』の物語の進行は、輪廻転生が基盤となっていることは何度も書いた。また、それと同じくらい重要な基盤が夢である。夢が現実を先取りしている。夢が物語に重要な役割・機能を果たすのは、ファンタジー文学の常套だ。『豊饒の海』もその形式をとっている。

本書が三島由紀夫の遺作であることはよく知られている。本書を上梓して間もなく、三島は自衛隊市谷駐屯地に「同志」数名と押し入り、檄文のビラを捲き、演説をし、割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。本書では老いが詳細に書かれている。老いの記述は生前の三島由紀夫の想像だけれど、老いにかなり自覚的だったことは確かだ。三島が老いを忌避して自殺したとは言えないけれど。

『豊饒の海』は若さを讃える書だ。『春の雪』では、青年の反語的恋愛を通して若者がもつ一途な恋愛のパッションが描かれ、『奔馬』では思想、信条に対する純粋な使命観を讃え、『暁の寺』では青年の身体(肉体)がもつ美を、ジン・ジャンというタイの王女の姿を借りて描いている。だが、最終章『天人五衰』では、若さの対極にある老い、その“醜さ”が執拗に書き込まれる。若さは美しいが限定的であり、時間の制約下にある。それだけではない。若さは、過剰な自意識、猜疑心、残酷さを併せ持っている。クリスマスの夜、老いた慶子が透を贋物だといって断罪する表現の数々がそれに当たる。人は青春期、天人のごとく光り輝くが、死期が近づくと五衰が現れ、死を迎える。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかの方が問題だ。(※後日改めて、『豊饒の海』全編について書いてみたい)

2006年5月4日木曜日

『暁の寺 豊饒の海3』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●620円(+税)

FI2529724_0E.jpg物語は勲が蔵原武介を殺害し自刃してから8年後、昭和15年(1940年)のバンコクで始まる。この年に日独伊三国同盟が締結されている。日本は連合国を相手に、アジア・太平洋戦争開始に向けて、破滅の道をまさに歩まんとしていた。本書では、これまで傍観者であった本多が主人公になる。

勲の事件で裁判官の職を投げ打ち弁護士となった本多は、五井財閥等の有力財閥を顧客とする辣腕弁護士となっている。彼は五井財閥から依頼された案件でタイに滞在することになり、そこで清顕(=勲)がタイの「月光姫=ジン・ジャン」に転生したことを知る。ジン・ジャンの父・パッタナディットは、青年時代、日本の学習院に留学中、松枝家に一時期寄宿したこともあり、清顕・本多と親交があったことが第一巻(『春の雪』)にある。本多はジン・ジャンに謁見の機会を得、そのとき、ジン・ジャンが清顕と勲の二人の記憶を併せもっていることに驚くが、ジン・ジャンの体に転生の印(3つの黒子)が認められないことに苛立つ。本多はタイに滞在中、足を伸ばしてインドのヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナラシー)を訪れ、深い感動を覚える。

ところで筆者は、このインドの聖地の描写の箇所に違和を覚えた。なぜなら、三島由紀夫は一貫して、日本の宗教(古神道)の佇まい(=簡素さ)と古代天皇制が生み出した「雅」を賞賛していたからだ。それらと比較するならば、ベナレスというヒンドゥー教の巨大な宗教装置で展開される情景はそれらと対極的だ。私は3年前の冬、ベナレスを訪れ、本多(=三島由紀夫)と同じようにボートに乗ってガンジス川を漂った。船着場までは、喧騒のベナレス市街からリクシャで10分ほど。ボートに乗り、ガンジス川を行き来する。船着場から数分のところに火葬場があり、ボートから火葬を見る。あたりは火葬用木材が集積され、川の色は黒く無音にちかい。寂寥というよりは、一切が遮断された異界のようだが、そこはあまりにも無造作、表現は悪いが、無人のゴミ焼却場のような佇まいだ。ヒンドゥー教の死の観念は、日本人のそれとは異なる。ベナレスでは死によって人が無に帰すはずでありながら、混沌としている。

ベナレスから日本に戻った本多(三島由紀夫)は、古今東西の宗教の成り立ちを調べ、大乗仏教の輪廻転生の妥当性に行き着く。三島が展開する仏教論は、私の理解を超えているのでここでは省略する。

時代は下って日本中が米軍の爆撃で焦土と化した1944年、本多は東京・渋谷の松枝邸跡地近くで、かつて綾倉公爵家で聡子に仕えていた蓼科に遭遇する。本多は戦時下の困窮にあえぐ蓼科を見て、たまたま土産にもらった卵を与える。蓼科は80歳を超える老女だったが、本多のことを覚えていて、聡子の近況を伝えると共に、古い仏典を「お守り」だといって、本多に与える。ここで本書の第一部が終わる。

第二部は、戦後、昭和27年に始まる。第一部と第二部はまったく異なる小説といっていい。戦中から戦後、つまり、第二部では、本多が国の土地収用に係る法律の抜け道を潜り抜け、巨大な財を築き上げた成功者で、しかも、覗き趣味をもつ初老の男として登場する。本多が成人したジン・ジャンに寄せる恋心は、ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のグスタフ老人が美少年タジオを思う心に似ている。本多を取り巻く登場人物もみな、隠微な性倒錯者ばかり。

本多は財の一部で富士山麓の御殿場に別荘地を買い、隣の別荘オーナー・慶子と親しくなる。慶子は政界・財界及び米国(占領軍)にまでコネクションをもつ謎の女性。本多は戦後没落した洞院宮が開業した骨董品店でエメラルドの指輪を購入している。その指輪はパッタナディットが学習院に留学したときに無くしたものだった。本多はその指輪を娘ジン・ジャンに返そうと考える。本多は一計を案じ、別荘の新築記念パーティーを開き、日本を訪れているジン・ジャンを招く。本多は書斎の本棚にのぞき穴をつくり、その部屋の隣にジン・ジャンを泊めてのぞくことを企む。のぞき穴からみたジン・ジャンの体にはまちがいなく、清顕・勲とおなじ印があった。

このパーティーには、本多夫妻がホストを務め、慶子がヘルプを勤める一方、かつて勲の決起を密告した鬼頭中将の娘・槙子(有名な歌人となっている)とその弟子の椿原夫人、性倒錯傾向をもつ知識人・今西らを招待客として呼ぶ。このパーティーの招待者たち、本多、ジン・ジャン、慶子らの性的関係と屈折した恋愛感情が以降、延々と展開されていく。

本多は書斎のぞき穴から、椿原夫人と今西が肉体関係を結んだこと、本多が恋したジン・ジャンがレズで慶子と関係していることなどを知る。ことほどさように、『暁の寺』は、かなりドロドロした男女関係がこれでもかというくらい、書き込まれたている。

結末は昭和27年、本多の別荘の全焼で訪れる。本多は、御殿場の別荘地で日本初のプールをつくったことを記念するパーティーを開き、ジン・ジャン、今西と椿原夫人、慶子らを招待する。その夜、宿泊した今西と椿原夫人の部屋から出火し二人は焼死、もちろん、本多の別荘も焼け落ちる。この火事をもって本多の人間関係は清算される。そして、昭和42年、ジン・ジャンの双子の姉妹が日本を訪れたとき、本多はジン・ジャンがタイでコプラに咬まれて死んだことを聞く。

2006年4月25日火曜日

『奔馬 豊饒の海2』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●660円(税別)

FI2507533_0E.jpg物語は清顕の死から18年後(昭和7年)に始まる。昭和7年には「5.15事件」が起きている。この時期の社会状況としては、農村部は凶作続きで疲弊、都市労働者は大量失業と、混乱した。一方、財閥、政治家、官僚、軍部は癒着し利権に走り、人心は荒廃した。そのため、社会正義の実現と、天皇制原始共同社会建設を標榜する超国家主義者が直接行動に走り始めた。彼らの一部は実業家・政治家等を対象に、「一人一殺」のテロを実行した。「5.15事件」はこうした潮流の中で起きたものだ。

さて、亡くなった松枝清顕(第一巻『春の雪』の主人公)の親友だった本多は、大学卒業後、裁判官として大阪に赴任し所帯をもつ。本多は奈良の大神神社で行われた奉納剣道大会の主賓として招かれることになる。彼は大会で優勝した青年が松枝家で清顕に仕えていた書生・飯沼芝行の長男・勲であることを知る。勲の父=飯沼芝行は松枝家の書生時代、下女との密通により同家から放逐されたことは、第一巻に描かれていた。飯沼芝行は故郷鹿児島に戻り、その後、右翼結社・献靖塾の塾長となっていた。その息子・勲は國學院大學に通う学生で剣道の達人、熊本の神風連の乱を理想とする皇国青年だ。本多は、神社の境内の滝で身を清める勲の体を見る。勲の体にある印(3つの黒子)は、清顕の印と位置・数とも寸分違うところがない。本多は、勲が清顕の生まれ変わりであることを確信する。

『豊饒の海(全四巻)』は、『浜松中納言物語』を下敷きにした輪廻転生の物語。三島自身、そのことを第一巻末に注釈している。輪廻転生は仏教の教義だが、日本古来の宗教(神道)にも古い神が死んだ後、新しい神として生まれ変わる信仰が認められる。死と再生は、農耕民族が穀物のサイクル(種子-発芽-成長-結実-枯死・・・)から導き出した宗教概念だという説がある。穀物のサイクルに倣って、人々は尊き者(神)の死と再生(復活)を信じようとしたのだろうか。

本書では『神風連史話』(山尾綱紀著)という書物が物語の展開の上で、重要な役割を果たしているのだが、同書は三島由紀夫が創作した架空の書物。熊本を舞台にした「神風連の乱」(史実)と、創作である『神風連史話』の記述が一致するかどうかを判定する能力は筆者にはない。そこで、熊本県のホームページにある神風連に関する記載と『神風連史話』とを比較してみる。熊本県のHPには次のように記されている。
神風連は城内千葉城にあった林桜園の私塾「原道館」の門下生でつくる「敬神党」の別名。神風連は神道を重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体でした。明治9年(1876年)3月の「帯刀禁止令」の太政官布告、同6月の熊本県布達「散髪令」に憤激し新開大神宮に「うけい」を立て、挙兵を認める宣示が下ったとして、熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱です。同年10月24日夜、太田黒伴雄や加屋霽堅らに率いられた神風連170人余りは、熊本城内の藤崎八旛宮に集合し、鎮台司令長官種田政明や県令安岡良亮らを襲撃して、多くの官憲を殺傷しました。また、別の隊は二の丸の兵営を襲い、これを全焼させ鎮台側を大混乱に陥れましたが、与倉知実歩兵第13連隊長が、要人襲撃の難を逃れ戦場に現れると、鎮台兵は落ち着きを取り戻し反撃を始めました。かたや神風連は太田黒や加屋等が戦死して、指揮系統が乱れ、25日早朝には敗走。最終的には戦死28人、自刃86人を出して惨敗。残った者もほとんどが捕らえられました。この乱はあらかじめ各地の同士に伝えられており、10月27日には秋月の乱、同28日には萩の乱が勃発しました。

比較の限りでは、(三島が創作した)『神風連史話』は史実とは、大筋で違っていない。ただ、『神風連史話』では、神風連が剣(日本刀)を信奉・偏愛したことが強調されている。挙兵では彼らが神聖視する日本刀、槍等のみの武装にて熊本鎮台を襲撃したものの、銃器等の近代装備で武装した維新政府軍に逆に鎮圧されてしまう。剣は武士の魂であり、かつ、皇国思想における「三種の神器」の1つ。勲が剣道の達人に設定されており、剣は勲が信ずる皇国思想の象徴となっている。

「神風連」に心酔し要人暗殺による「世直し」を決意した勲は、陸軍中尉・掘と出会う。勲が中尉に『神風連史話』をすすめたことが縁となり、中尉と勲は固い信頼関係で結ばれる。中尉は陸軍に従軍する武闘派の皇族・洞院宮に勲を紹介する。洞院宮こそ、第一巻で聡子と勅許により結ばれるはずの相手だ。洞院宮は聡子と清顕の関係を知るよしもないのだが、清顕と聡子は、洞院宮の存在によって引き裂かれたことは事実。洞院宮は、勲の父・飯沼芝行が仕えた清顕を死に追いやった張本人。もちろん、勲がそんなことを知るはずもない。勲は直参のおりに、『神風連史話』を洞院宮に献上する。勲は宮に自分が信じる皇国思想を開陳する。宮は勲の熱情に強い衝撃を受ける。
勲は『神風連史話』を教本にして、決起のため20名の同志を集める。彼らは勲が説く要人暗殺計画に賛同し神前に実行を誓う。勲らは、献靖塾を支援してきた鬼頭中将の娘・槙子から資金的協力を得て、計画は順調に進むかに思われる。この間、勲、槙子は相思相愛であったのだが、それを互いに伝えることはできていない。

勲の計画は、財界人暗殺、東京銀行及び変電所の襲撃、戦闘機を使ったアジビラ撒布、を骨子としていた。ところが、決行直前、掘中尉が満州配属で決行から脱落。と同時に、軍関係の協力(戦闘機の使用)が得られないこととなる。軍の非協力を知ったことで、数人の仲間が脱落し、決行は危ぶまれたのだが、献靖塾の古手の塾生・佐和が急遽決起に参画することとなり、佐和のすすめで、財界人暗殺に計画を縮小する。計画の実効性が高まったことにより、同志の団結は再び回復する。勲は決起を前にして、槙子に実行日を打ち明ける。そして二人は互いの愛を確認する。決起の最終打ち合わせのため、佐和を除く全員がアジトに集まったところ、刑事が踏み込んでくる。勲らは全員逮捕され獄に入れられる。

勲の父・飯沼芝行は勲逮捕を本多に知らせる。知らせを聞いた本多は裁判官の職を辞し弁護士となり、勲の弁護を買って出る。本多には勲が清顕の生まれ変わりだという確信がある。彼が勲を助けることは、すなわち清顕を助けることにほかならない。弁護士となった本多は洞院宮を通じて、勲が国家反逆罪となる証拠文書の隠滅に成功する。裁判では槙子の偽証などもあり、勲は重罪を免れ保釈となる。

勲が釈放された日、勲の父(飯沼芝行)は、官憲に密告したのは自分だったことを、また、献靖塾の運営が、勲らが腐敗の根源だとして暗殺リストに掲げた財界人・蔵原武介の間接的献金により運営されていることを告げる。勲はまた、勲の父に決行の日を教えたのが槙子だったことを知る。勲は自分の純粋な思想と行動が「不純な」大人たちの現実主義により弄ばれていることに怒り、新たな直接行動敢行の決意を固める。蔵原武介の暗殺だ。彼は一人、蔵原の別荘に潜入し彼を刺し殺す。そして、自分も割腹自殺を図る。

本書の印象を書きとめておこう。

主人公・飯沼勲の思想と行動は、三島由紀夫が、「楯の会」を結成し、自衛隊市谷駐屯地に突入後、自決に至る事件(1973年)を連想させる。本書に描かれた勲の行動は、三島自身の自決とオーバーラップする。

本書には、三島が抱く思想が余すところなく描き出されている。三島の思想のエッセンスは、▽日本人の共同性の中心となる原始天皇信仰、▽知行統一としての陽明学、▽輪廻転生を保証する仏教、▽『葉隠』に代表される武士道――に要約されると思う。

三島は、日本人のエートスである上記4点を渾然一体化した宗教を始めようとしたに違いない。三島独自の自死の思想を展開する。恐ろしいことに、それらはいまなお日本人の思考・行動を律している。たとえば、年間3万人を超える自殺者の存在や、経済事件の中心となる人物の自殺の頻発、自死と等価と思われる殺人事件の頻発などが挙げられると思う。日本人にとって、自死は必ずしも避けるべき手段ではないばかりか、かなり身近なそれである。

もう1つは、人が思想に殉ずる純粋性(絶対性)と、実生活との妥協(相対性)の問題だ。三島は本書を通じて、イデオロギー及び信仰の実践に係る原理的問題提起をしている。人は信ずるところを実践しなければいけない。そのためには死を厭わない。それができないまま、実生活と折り合いをつけるのであれば、真の思想的実践者ではない。三島のこの論に従えば、この世は夥しい殉教者の死体で埋まるか、あるいは、思想的対立とともに開始された戦闘による多くの戦死者に取り囲まれるだろう。思想(理想)とは、生活において、なんであるのか・・・本書の問いかけはここに帰すると思う。

2006年4月13日木曜日

『春の雪 豊饒の海1』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮社 ●629円(税込)


FI2476527_0E.jpg本書は、三島由紀夫の遺作と言われる「豊饒の海(四部作)」の第一巻。大正期の華族(松枝公爵一家とその周辺)を舞台にした青春恋愛小説という体裁をとっている。松枝家は江戸時代、薩摩藩の下級武士だったが、維新革命の功績により公爵に準ぜられた。東京・渋谷に14万坪の大邸宅を構えるほどの権勢を誇っている。主人公松枝清顕は、学習院高等科に通う美貌の長男という設定だ。

清顕は明治の武断的気風から外れ、学生生活においてもおよそ空疎な感覚に支配された美青年。たった一人の親友・本多との交際しか外部との人間関係はなく、学業、実業、教養、芸術、政治といった上昇志向にはまったく興味を示さない。頽廃が滲む貴族のニヒルな美青年を主人公にしたところは、ドストエフスキーの作品を彷彿とさせる。本多は本書では清顕の親友の位置にとどまるが、『豊饒の海(四部作)』を通じた生き証人という重要な役割を担っている。

本書の粗筋をおさえておこう。18才の清顕は幼馴染の聡子(松枝家に隷属する綾倉伯爵の令嬢で、清顕と結ばれることを望んでいる)と淡い恋に落ちる。綾倉家は公卿の家柄だが、経済的に松枝家の庇護下にある。その聡子に宮家から縁組の話が舞い込む。松枝家及び綾倉家は宮家との縁組を歓迎し積極的に縁談を進めようとするが、清顕が聡子に特別な感情をもっている可能性を懸念して、縁組を決める前に清顕の意思を確認する。両親から聡子への感情を問われた清顕は、聡子への関心を否定する。松枝家・綾倉家は、清顕の意思を確認したうえで、聡子の宮家への輿入れを正式に受諾する。しばらくして、聡子と宮家の縁組に勅許が出た途端、清顕は聡子への愛を確信し、聡子を失うことに耐えられなくなり、聡子に愛を打ち明ける。聡子も清顕との愛に全身全霊を賭けることを選ぶ。

二人は禁断の恋に落ち密会を重ね、聡子に清顕の子が宿る。聡子の妊娠を知った松枝、綾倉両家は聡子に堕胎を強要し宮家との縁組を強引に進めようとするが、聡子は術後の静養先である京都の山寺で出家する。聡子の出家を知り困りはてた両家は聡子を精神病に仕立て上げ、宮家に破談を申し出、宮家もそれを受け入れる。監視状態の清顕は、親友本多の助けを借りて、聡子との再会を求めて京都へ向かう。清顕は聡子が滞在する山寺を何度も何度も訪問するが面会を拒絶され、ついには体力を消耗し肺炎を患う。病魔に取り付かれながら山寺を訪れる清顕だが、聡子との再会は適わない。ついに病床に臥した清顕は、電報を打ち親友の本多に助けを求める。本多は清顕を助けるため京都に出向き、聡子への面会を嘆願するが寺に拒絶される。本多は病気の清顕を伴い東京に戻るも2日後、清顕は20歳で命を落とす。

以上がメーン・ストーリーだが、松枝家を訪れたシャムの王子の話、松枝家の書生(下女と密通)の話、聡子のおつきの女と聡子の父・綾倉伯爵との密通の話等のサイドストーリーが、現在形、過去形で挿入されている。加えて、登場人物の口を借りた形式で、三島由紀夫の法学、仏教解釈などが教養主義的に散りばめられている。

この小説を読む上での基本的知識として、明治期に定められた華族制度を簡単に復習しておこう。華族制度は旧憲法下、皇族の下、士族の上に置かれ貴族として遇せられた特権的身分のことだ。1869年(明治2)旧公卿・大名の称としたのに始まり(旧華族)、84年の華族令により、公・侯・伯・子・男の爵位が授けられ、国家に貢献した政治家・軍人・官吏などにも適用されるに至った。1947年(昭和22)新憲法施行により廃止。

同じ華族でありながら、公卿出自と、政治家、大名、軍人、官吏を出自とする華族があった。本書の松枝公爵は華族の最高位に位置し、綾倉伯爵はそれより下位に位置するが、前者は武家、後者は公卿の出自になっている。綾倉家が公卿として皇室(雅)につながっている一方、松枝家には成り上がり(粗野)のイメージが付与されている。三島由紀夫は、華族制度の二極構造の一方(公卿)を肯定し、一方(武家)を否定する。大正期、宮家に通じる公卿系華族が新興の薩長藩閥勢力に凌駕された実態に、三島が大きな反発を覚えていることがうかがえる。

四部作を読了前なので、本書の印象を記すに留める。極めてグロテスクな小説だと思うものの、エンターテインメントとしてのレベルは高い。三島由紀夫は大正期の華族をサンプリングして、当時の日本社会に潜む、至上的、理想的、純なるもの――と、虚飾的、現実的、不純なるもの――とをつきつめる。明治維新が描いた国家像は、政治的には薩長連合政権による、天皇制国家として構想されながら、その実は薩長の武士的志向、外来志向、経済至上主義=不純なるものを取り込んだ連合体だった。明治から大正にかけて完成した日本帝国は、天皇制度を標榜としながらも、三島由紀夫が理想とする古代天皇制度、すなわち文化としての天皇中心国家ではなかったというわけだ。

清顕の内面はどうなのか。彼はその不純なるものを出自とすることで聡子を媒介にして、対極の純なるもの=絶対性に対峙してしまう。絶対性により喪失に直面することにより、自己の中に絶対的な愛を発見する。きわめてアイロニカルな設定だ。そして、己の絶対性を貫徹することで敗北する。この行動原理が革命的敗北主義だ。革命的敗北主義がもたらすものは死であり滅びである。清顕のアイロニーは天皇制度(勅許)の絶対性だった。清顕は勅許による喪失という「絶対性」により、生まれ変わった。だから、その生まれかわりが(宗教的に)担保されることが必要だ。ここで輪廻転生というテーマが示唆される。 -->

2006年4月1日土曜日

『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』

●佐藤幹夫[著] ●PHP新書 ●780円+税

FI2443608_0E.jpg 苦手な日本文学について書く。 筆者は村上春樹の小説のほとんどを読んでいる、熱心な“村上ファン”の一人だが、正直いって、本書を読んで驚いた。たとえば、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島の『夏子の冒険』という週刊誌に連載された小説を下敷きにして書かれたものだということを初めて知ったからだ。

また、村上春樹の『ノルウェイの森』の登場人物の一人・小林緑という名前は、なんと三島の『豊饒の海』に登場するジャオ・ピーの恋人・ジンジャン姫のイメージから命名されたものだと。

筆者には著者の指摘の是非を断ずる能力がない。だから、本書を読み進めるたびごとに、“ふぉー”と叫びたくなるほど驚いた。確かに、『羊をめぐる冒険』(村上)にも『夏子の冒険』(三島)にも“冒険”とあるから、村上が三島を下敷きにしたことは確かなことのようだ。著者の指摘は、日本文学を知る人からみれば、驚くに当たらないものなのかもしれないが。

そればかりではない。村上は三島の小説の構造、人物配置、テーマにおいても強い影響を受け、それを発展的に再構築したという。

著者によると、小説家とは自己のイメージを意図的かつ戦略的に創造するものだそうだ。村上春樹の場合、米国に滞在し、米国文学を翻訳し、マスコミを使って、自身がアメリカ的な生活をしているかのようなイメージを与えていて、しかも、雑誌のインタビューで、「自分は、日本文学を読まなかった」と語っているという。

村上の小説に登場するキャラクターそのもの、小道具として使われる音楽、クルマ、ファッション・・・などなど、その小説に設定された衣食住はアメリカ的だ。たとえば、モダンジャズ、ファーストフード、コンビニ(ドラッグストアー)などが小説の舞台であると同時に、記号化されたメッセージになっている。主人公がとる朝食はパン、ハムエッグ、サラダ、コーヒーであり、白いご飯に納豆、味噌汁ではない。村上春樹の文体そのものが「翻訳的」だ。著者によると、村上はあえて日本文学(=三島)の影響を意図的に隠蔽しているのだという。

しかし、どんなに「翻訳的」な日本語であっても、日本語は日本語である。日本がいまから138年前の明治革命以来、欧米文化を積極的に取り入れ、さらに、61年前の大敗戦以来、米国の支配下におかれ米国文化を取り入れてきたにしろ、日本列島に日本人らしき民族が現れ日本語を話し始めてから、何千年のときが経過している。近代日本文学はおそらく、表層の変化と基層の不変の間で揺れてきたに違いない。

本書では三島の『奔馬』と村上の『ダンス・ダンス・ダンス』の類似性の指摘を分析した後、その差異として、『奔馬』には決起行動(革命)、すなわち、腐敗、不正義に対する「闘い」が渇望され、一方の『ダンス・ダンス・ダンス』には高度資本主義社会すなわち無駄で無意味で幻想的なものとの「闘い」の可能性が探られているという。

三島も村上も「闘い」を描きながら、両者には闘いの「相手」、闘いの「質」、闘い「方」に大きな隔たりがあるというわけだ。三島の晩年は政治の季節だった。村上の登場は、学生運動が終息しマルクス主義が後退した時代だった。

さて、著者は、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫、村上春樹を一本の糸でつなぐ可能性を試行している。それが可能かどうかはわからない。可能・不可能というよりも、日本文学が日本語で書かれる以上、近代以降の小説家に基層の共同性を認めることは難しいことではない。村上が三島の小説の影響下で小説を書いた、という指摘も大いにあり得る。

日本の小説は、日本語で書かれる散文形式の1つ。時々の日本の小説には、過去現在の日本人小説家の互いの影響により、成立している。そこに換骨奪胎、本歌取り・・・が意識的にか無意識的にか行われることもあるし、日本の知識人の問題意識が意識的かつ無意識的に共有されることもある。結論は、“だからどうなんだ”ということ。

2006年3月21日火曜日

『スペイン巡礼史』

●関哲行〔著〕 ●講談社現代新書 ●740円(+税)

FI2412301_0E.jpgスペイン巡礼といえば、その終着点はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。中世(9世紀)、この地に聖ヤコブの遺骨が「発見」され、キリスト教の聖地の1つとなったといわれている。

私は2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、巡礼路に沿ってロマネスク美術(教会・聖堂等)を見るバスツアーに参加した。そんなこともあって、本書を購入した次第。

そのときの私のツアー参加の目的は、後述するが、ロマネスク美術におけるケルトの影響の「確認」が主眼だった。そのため、巡礼の知識を準備しなかった。もし、本書がそのとき手元にあったならば、私のツアー参加はもっと深みのあるものになったに違いない。本書はサンティアゴ巡礼の解説書として最も的確な書の1つだといって過言でない。

本書は、サンティアゴ巡礼に係る歴史的、政治的、経済的、宗教的、社会的な分析だ。そのすべてが興味深いのだが、私を含む人々の最大の関心は、サンティアゴ・デ・コンポステーラがなぜ、聖地となったのかということではないか。

サンティアゴとは聖ヤコブのこと。ヤコブはキリストの使徒の一人だ。彼らが活躍した地はオリエントだから、ヤコブの遺骨がスペイン北西で「発見」されたというのは、いくらなんでも無理がある――というのがわれわれ日本人の感覚だ。(日本にも、「義経=ジンギスカン説」というのがあるから、スペインのことを笑えないけれど)

さて、スペインは、古代地中海世界からも、中世西欧世界からも辺境に位置する。とりわけ、聖ヤコブの遺骨が「発見」された9世紀のスペインは、その領土のほとんどをイスラム勢力に制圧されていた。北部に封じ込まれたキリスト教圏においては、聖ヤコブの遺骨が「発見」されなければならない政治的条件が存在した。レコンキスタ(国土回復)における対イスラム戦争の英雄として、聖ヤコブがクローズアップされたりした。キリスト教の聖地がキリスト教圏のスペインになければならなかったのだ。

私は聖地の政治的側面にあまり興味がない。サンティアゴ・デ・コンポステーラが聖地となるには、政治的解析だけでは説明しきれないと思うからだ。本書はそのあたりを、シンクレティシズムによって説明する。シンクレティシズムとは習合という意味だ。新しい宗教を布教するためには、もともとあった宗教の神話、教義、神像、秘蹟等を借用する場合がある。日本の中世には、神仏習合が進んだ。

本書によると、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラは、スペインに先住したケルト民族が信仰していた原始宗教の聖地に由来するという。サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペインのガリシア地方に位置し、ガリシアはいまなお、スパニッシュ・ケルトの文化的遺産が息づくところ。ドルメン等のケルトの原始宗教の遺跡等が残っているという。

ケルト信仰と習合した異端キリスト教布教運動は、4世紀、アビラ司教・ビレスキリアーヌスによって担われた。ビレスキリアーヌスは、キリスト教と、この地方に伝わるケルトの自然宗教を習合させ、多くの信者を獲得した。ところが、ローマ皇帝によって、異端キリスト教を布教したかどで、4世紀末に処刑されてしまう。しかし、以降、彼は当地の民衆から聖者として信仰の対象となった。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ビレスキリアーヌスの墓所でもあるという。

私がヨーロッパ先住民であるケルト民族とロマネスク美術の関係に関心があったことは冒頭に記したとおりであり、私がロマネスク美術のツアーに参加した理由も、ロマネスク美術におけるケルトの影響を「確認」することだった。本書には(私の最大の関心である)ケルト民族と聖地サンティアゴの関係はほんの数ページしか触れられていないけれど、それでも教えられるところが多い。

そればかりではない。本書には中世における巡礼(者)の実態、巡礼と都市学、施療院の役割など興味深い記述に溢れている。サンティアゴ巡礼を総合的に知るには、本書が必読の解説書の1つであることは間違いないところ。是非の一読をお奨めする。

2006年2月25日土曜日

『ラングドックの歴史』

●エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ[著] ●白水社 ●951円+税


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サンセルナン寺院
トゥールーズ
筆者撮影
ラングドックとは現在のフランス南西部を指す名称で、オック語という意味。オック語はラテン語起源の言語だが、現在のフランス語の祖語であるオイル語とは異なる。

この地方の最初の定住者については詳らかではないが、中欧起源のケルト民族の支配から始まり、ギリシャ人、イベリア人、ローマ人、ゲルマン人がこの地の支配者となり、今日に至っている。その間、オリエント、エジプト人もこの地を舞台に活躍した。

現在はフランスの一地域だが、古代から中世までは、ローマ教会に同調した北部フランスとは別の民族、言語、文化、宗教を築き、政治経済においても、独立した地位を保っていた。

筆者は“中世のラングドック”に興味を覚えた。その1つが「カタリ派」だ。「カタリ派」とはキリスト教の異端で、この地に勢力を伸ばした。「カタリ派」の教義についてはよく分からない部分も多いのだが、一夫多妻制を堅持していたといわれ、カトリックとはかけ離れた「キリスト教」だったらしい。北部フランスは、ローマ教会と共謀して「アルビジョア十字軍」を組織し、この地に侵攻を企てた。北部フランス=ローマ教会は「カタリ派」を軍事的に制圧・虐殺する。と同時に、同地の地方権力を倒して支配権を確立する。北部フランスの制圧と並行してオック語が後退し、いまのフランス語に近いオイル語が漸次定着していく。

もう1つの私の興味の対象は、この地に花開いた、トルバドゥール(吟遊詩人)の存在だ。吟遊詩人が好んだ素材は、なんと、人妻への思慕――人妻の肉体そのものへの憧憬・恋慕だというから、かなり屈折している。私は現代フランス語も中世オック語も解らないが、吟遊詩人の情念が気にかかった。中世、ラングドックの詩学は、禁欲的なカトリックの土壌からは生まれないものだ。

3つ目の興味はロマネスク美術だ。中世、スペインのガリシア地方に位置するサンチャゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺物が発見された。欧州各地からサンチャゴを目指して巡礼が盛んになると、その経路には、ロマネスク様式の教会、聖堂等が多数建設された。ラングドック地方もその巡礼路に当たり、この地の最大都市トゥールーズにはロマネスクの至宝の1つといわれるサンセルナン寺院が残っている。

さて、こうして見ると、ラングドック文化は豊かで美しいのだが、この地は血塗られた歴史が認められる。「カタリ派」虐殺は前述したとおりだが、中世後期には、この地を舞台に、カトリックとプロテスタントの対立による宗教戦争が繰り広げられたし、18世紀にはフランス革命における王党派と共和派の闘争もあった。

本書はラングドックの通史である。そのため、筆者の興味の中心である中世に限定されたものではない。フランス革命以降、20世紀前半のマルクス主義の台頭と左翼勢力の定着の記述部分もある。ラングドックを知らずして、フランスを語るなかれ・・・といえるのかもしれない。

2006年2月13日月曜日

『末期ローマ帝国』

●ジャン・レミ・パランク[著] ●白水社(文庫クセジュ) ●951円+税

 
本題の『末期ローマ帝国』とは、3世紀末から6世紀末までの300年間をいう。拡大を続けたローマ帝国が没落を迎える時期ではあるが、政治・経済・宗教・文化等の領域で、次代すなわち中世へ橋渡しをする重要なファクターがこの時期に育まれたという見方がある。最も重要なファクターの1つは、ローマ帝国がキリスト教を受容したことかもしれない。帝国の国境付近にはフン族に追われたゲルマン民族が帝国領内への侵入をうかがう。内に外にローマは帝国の存続を揺るがす問題を山積させていた。

ローマ帝国を“ラテン”という一つの概念で括ることはできない。ローマはラテンとギリシアの2つの文化圏の合成であった。キリスト教がローマ支配下のパレスチナで成立したことは常識だが、この宗教が西方に伝播する過程で多大な影響を受けたのがギリシア哲学だった。ギリシア文化の拠点都市として、アレクサンドリア、アンティオキアなどがあった。もちろん、後にローマが東西に分裂し、その一方である東ローマ帝国の首都となった小アジアのコンスタンチノーブルもその1つだ。

さて、領土拡大を続けたローマ帝国が支配地域を統治する制度として、必然的に採用せざるを得なかったのが「四分治制」だった。「四分治制」は293年に発足した。この分割統治の形態が、ローマ帝国分裂の下地となったともいえる。帝国が永遠に繁栄を維持することはできないものなのか。
年表で整理すれば、375年=ゲルマン民族大移動開始、 392年=キリスト教の国教化、 395年= ローマ帝国東西分裂、5世紀初め=ゲルマン人がヨーロッパ各地に建国、476年=西ローマ帝国滅亡、486年= フランク王国建国 、 527年=ユスティニアヌス、東ローマ皇帝に。ユスティニアヌス大帝は、ゲルマン人国家である東ゴート王国、バンダル王国を滅ぼし、以降、東ローマは800年以上存続した。

冒頭に書いたとおり、末期ローマ帝国は混乱と荒廃の時代だったが、筆者はこの時代のヨーロッパに魅力と興味を感じる。世界史の中で、もっともおもしろく、不思議な時代の1つなのではないか。強大な軍事力と統治能力をもったローマが、蛮族と呼ばれたゲルマン人と共存する道をなぜ、みつけられなかったのか。本書読了後もその回答は得られていない。

2006年1月28日土曜日

『古代のイギリス』

●ピーター・サルウェイ[著] ●岩波書店 ●1500円+税

FI2262936_0E.jpg本題について整理しておこう。訳者の南川高志氏が「あとがき」でことわっているように、『古代のイギリス』というタイトルはふさわしくない。原題は『ROMAM BRITAIN』だから、“ローマ時代のブリテン島”くらいがふさわしい。

そもそも、「イギリス」とは誤解を与えやすい表記だ。まず、現在のグレートブリテンを国際政治の観点からみてみよう。日本でいう「イギリス」は無意識のうちに、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを、さらに、アイルランド共和国の存在までも消去させてしまう。そもそも、ローマ帝国がブリテン島を征服する前、先史ヨーロッパ人が存在し、やがて、中欧からやってきたケルト人が彼らを滅ぼしたというのが定説の1つになっている。

紀元前1世紀、カエサルがブリテン島を征服し、ローマ支配が始まった。その後、蛮族の侵入により、ゲルマン系のサクソン人がブリテン島の支配者となり、やがて、ノルマン人(イングランド)がそれにとって代わり、今日に至っている。その間今日まで、直近の征服者イングランドと、スコットランド、ウェールズ、アイルランドとの抗争が続いている。直近の征服者・イングランドを日本では、「イギリス」という。

さて、本書は、ROMAM BRITAINの翻訳部分と、訳者南川氏のイギリスにおけるローマ史跡の案内である「イギリスで『古代ローマ文明』を楽しもう」の二部構成になっている。翻訳部分は、ブリテン島とローマ帝国に関する歴史研究だ。本書から、ローマ帝国がなぜ、ブリテン島征服に注力したのかをうかがい知ることができる。古代の地中海世界にあって、ブリテン島は世界の果てだった。ローマの権力者、とりわけ、軍部出身者がそこを支配したということは、自らが世界の支配者であることを証明することになったのだ。

研究部分に不満がある。一番の不満はローマ帝国に支配された側の視点がないことだ。ケルト人(イギリスではブリテン島先住民をケルトと呼ばないらしいが)の立場が欠けているから、ローマ支配の実態が分かりにくい。遺跡からハード部分を知ることはできても、ソフト部分が、たとえば、ローマの宗教とケルトの宗教がどのように融合したのかがわかりにくい。

その一方、本書の優れた点は、ブリテン島におけるローマの影響を広く知らしめたことだ。日本人にとって、ブリテン島におけるローマの影響は盲点だった。私のような「ケルトファン」にとっても、歴史の隙間だった。ローマ支配を経験した欧州の代表的地域はフランスだが、世界史好きの日本人ならば、古代フランスをガロ=ロマニアと呼ぶ歴史概念は常識になっている。ところが、「イギリス」の歴史の中に、ロマニア=ブリトンという概念を知る人は少ない。フランス語がラテン語系であるから影響が強いと考え、英語がゲルマン(サクソン)語系だから、ローマの影響を低いとみてしまうのかもしれない。

本書が「イギリス」の複合性を知るきっかけになればいい。そして、ローマ帝国の大きさを改めて知ることもムダではない。

2005年12月20日火曜日

『トルコ史』

●ロベール・マントラン[著] ●白水社 ●951円+税

トルコ族の登場は、紀元前1千年期だと言われている。遊牧騎馬民族である彼らトルコ族は、東はモンゴル高原から中央アジアを経て小アジアに至るまで、広大なユーラシア大陸を自由奔放に移動していた。そんなトルコ民族が小アジアに定住して最初に帝国を築いたのが10世紀末から11世紀のこと。その帝国はトルコ民族の一派であるセルジューク族によって建国されたため、セルジューク朝と呼ばれた。

11世紀、西欧(フランク)が組織した十字軍がイスラーム世界に侵略を開始し、聖地エルサレムが十字軍によって奪われ、現在のシリア、エジプトの各所に十字軍国家が建国された。そうしたイスラーム世界の危機に及んで、イスラーム世界の軍事的統合に成功し、十字軍への反撃を組織し、ついにはエルサレム奪回、十字軍撃退を果たしたイスラームの英雄・サラディンはトルコ人だった。11世紀以降のイスラーム世界の主役は、アラブ族からトルコ族に交代していたようだ。

13世紀、モンゴル族に追われたトルコ族の一派・オグズ族に属するカイゥ族がアナトリアに建国したオスマン朝は14世紀、小アジアからヨーロッパ世界にまで版図を広げた。オスマントルコは小アジアを拠点に、ヨーロッパ世界を脅かす勢力を保持し、14世紀以降、世界で最も進んだ文明の1つを維持した。

しかし、さしものオスマン帝国も17世紀以降衰退に向かい、西欧、ギリシア、台頭する北東の大国ロシアと確執を繰り返した。そして、トルコが第一世界大戦のドイツ側への参戦、敗北をもってその命運もつき、1924年、トルコ共和国が成立した。

本書は、トルコ族の雄大な歴史を簡易にまとめた入門書である。トルコ族は歴史に登場して以来、ユーラシア大陸の東西の強国・中国とヨーロッパを脅かしつつ、オスマン期にはそれらを凌駕する強大な帝国となった。

こうしたトルコ族の歴史の大筋は理解できるものの、謎も多い。とりわけ、イスラーム化以前のトルコ族の歴史はほとんどわかっていない。5世紀、ヨーロッパを席巻したフン族と匈奴の関係もその1つ。匈奴=フン族が、トルコ系同一民族であるという説がある一方、匈奴・フン族がともに、トルコ系民族だと断言できる物証はないという説もある。

さて時代は下って、オスマン帝国時代、オスマン帝国は隣接する国々と大きな摩擦をおこし、オスマントルコによる民族浄化と思しき虐殺も記録されている。また、19~20世紀初頭、トルコ支配下にあったアラブが独立を求めたとき、西欧は石油利権を見越して、アラブの独立運動を裏切った。近代のトルコの歴史もまた複雑である。

2005年12月10日土曜日

『アッチラとフン族』

●ルイ・アンビス[著] ●白水社 ●951円+税

紀元4~5世紀ごろ、広大なユーラシア大陸の東西に2つの帝国が君臨していた。東には中国、西にはローマである。そして、2つの帝国はどちらも、遊牧騎馬民族の侵入に悩まされていた。中国を襲った異民族は匈奴と、また、ローマを襲った異民族はフンと、それぞれよばれた。

匈奴はおそらく、ウラル山脈以東のある地域を原郷とし、フンはウクライナ以西(スキティア)のある地域を原郷としたに違いないのだが、匈奴はギリシア語で「クーノイ」(Χοόνι・単数形Χουν)となり、紀元6世紀頃にアルタイ山脈にいたトルコ系の一部族を示す中国語「Houen」に該当するという。匈奴を中国語で「フルン」(frun)、「クン」(kouen)と発音すると、フンと通じるところから、両者を同一民族と看做す学説が有力である一方、その確証はないとする学説も根強く、本書は後者の「異民族説」に立っている。

5世紀、フン族及びその周辺の遊牧民族等を統一し、ウクライナから中部ヨーロッパにかけて広大な帝国を築いたのがアッチラである。本書によると、《ヨルダニス(6世紀、南ロシア生まれの修道士、歴史家。『ゲート人の事績』『ローマ民族史』などの著書がある。)が描くアッチラの肖像は、背が低く胸幅が広い。頭は大きく、目は小さくて落ち窪んでいる。眉弓は高く飛び出し、鼻は平たく、色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである。ひげはあまり生えていない》という。ヨルダニスの描写のうちの「色はくすんでいる、というよりむしろ黒いほうである」という部分を除くと、現在のモンゴル系に近いように思えるが、色が黒いという描写を真に受けると、高アジア系(トルコ系、チベット系、中央アジア系)と思える。

フンの歴史的な役割というか、重要性とはいうまでもなく、彼らの圧力によりアラン族(イラン系)が西に移動し、そのあおりを受けて、黒海あたりまで南下してきたゲルマン系ゴート族がさらに西に押し出され、ローマ帝国領内に移動を開始したことにある。

フンの侵攻は暴虐を極め、ゴート族はじめ、その当たりに定住を試みていたゲルマン人みな恐れおののいてローマ帝国内に逃げ込んだといわれている。ローマ帝国内に移動したゴート族がローマを一時期支配し、ローマ帝国の滅亡を招くことになったことから、フンが西欧(ヨーロッパ)の成立を促したとも言える。

さて、フン帝国の領土拡大を図るアッチラは、ゴート族を追撃するかのようにローマに向けて政治的・軍事的圧力を加え続けたばかりか、周辺のゲルマン系、遊牧系の諸民族を支配下におき、兵士として吸収し軍事力の増大を図った。ところが、定住農耕民でない彼らには、膨らんだ軍事力(兵士)を養う経済手段がない。彼らはいわば、略奪経済に依拠していたのであり、略奪の量が兵士を養う量を下回れば、戦闘を維持することが困難となり、さしものアッチラもイタリアを支配することはできなかった。そして、その間、力を蓄えてきたサルマチア族、東西ゴート族らのゲルマン諸族の連合勢力より東に押し返され、453年、アッチラは死去した。アッチラ死後、フンの勢力は衰え、その後にやってきたブルガール族や、前出のサルマチアや、ゴートらに吸収されるかのように、フンは歴史の表舞台から忽然と消え去ってしまうのである。

4~5世紀にかけてのフンのヨーロッパ世界への登場は、大型台風の襲来に似ている。大型台風の去った後、ヨーロッパの風景は一変する。この地の主役は、〈ローマ〉から、かつてフンに追われて逃げ延びてきた、〈ゲルマン〉にとって代わってしまうのである。

本書によると、フンに関する考古学的遺跡は少ない。彼らの文化的、人種的特徴等については推測、想像の域を脱しない部分も多い。それだけに、フンと匈奴の同一民族説も魅力的である。

筆者の中では、広大なユーラシアを駆け抜けた遊牧騎馬民族に対するロマンは、留まるところを知らないのだが、懸念すべきは、中欧・東欧における政治勢力が、フンの末裔を自称し、覇権の旗印として「フン」を復古・悪用することである。いまのところ、そのような政治的動きは認められないが、歴史上の「強者」が、現代政治に引用されることは危険な兆候の1つである。日本では、戦国武将の一人・織田信長が、政治的に悪用されている。

2005年11月20日日曜日

『小泉純一郎と日本の病理』

●藤原肇[著] ●光文社 ●952円+税

FI2068372_0E.jpg 小泉首相は、超法規的解散後、9.11総選挙で歴史的大勝をおさめた。小泉首相が掲げた、“郵政解散”と“構造改革”が国民の支持を得たわけだが、この国民の審判が、「小泉純一郎という病者」と「日本国民の病理」の合流により下されたものだったとしたら、日本は破滅に進むことだけは間違いない。本書の論旨を大雑把に言えば、そんなところだ。

著者は、小泉首相の「病状」の解析から始める。小泉首相が三代目の政治家であることはよく知られているが、初代が港湾都市・横須賀の闇勢力に通じていたこと、二代目が大政翼賛会に通じていたことについては、管見の限りだが報道がない。

また、小泉首相の英国留学が、小泉青年が日本国内で起こした婦女暴行事件の追求から身を潜めるためだった疑いがもたれていることも、報道されていない。加えて、小泉首相の離婚、実の姉との緊密な関係等々の私生活にまつわる怪しさについても、一時期週刊誌で報道された程度だ。本書の情報からすると、小泉首相の精神構造は、常人と異なる可能性が高い。小泉政権誕生の立役者でありながら、後に小泉首相から切られた田中真紀子元外務大臣は、既に小泉首相を「変人」と看破している。

小泉政権の政策上の欠陥については、いろいろと指摘されている。「郵政民営化」に代表される「聖域なき改革」が掛け声だけで、既得権益はしっかり守られていることは周知の事実だ。

そればかりではない。戦後日本に設けられたセイフティーネットは小泉政権によっておおよそ外され、弱肉強食、勝ち組、負け組による階級社会が形成されつつある。財政は破綻し、国債発行は止まるところを知らない。この先やってくるのは、増税による国民生活破壊だ。

著者は小泉政権下の日本の社会経済を「賎民資本主義」と呼ぶ。著者は資本主義のエートスを“公共善”という概念に求め、その実現を放棄した日本の経済人・経済活動・経済社会を批判する。それこそが日本の病理にほかならないと。

著者は日本の「賎民資本主義」に対峙する概念として、米国中西部の共和精神を持ち出し、そこに資本主義の理想を見る。私は著者の小泉批判に同感する部分もあるが、著者が米国中西部の共和主義を理想とすることには賛成できない。米国の共和主義とは、独立自尊、勤勉・禁欲を核とした(キリスト教)新教の思想だ。

筆者は、英国から新大陸・米国に渡ってきた新教徒の精神性こそが病理そのものだと思っている。彼らはアメリカ先住民を殺戮して居住地に追いやった。独立戦争後、広大な大陸を手に入れた彼らは、まず、飢餓にあえぐアイルランド人(旧教徒)を奴隷として新大陸に送り込み、過酷な開拓事業に従事させた。新教徒は米国建国の主体であるが、その成功の裏側には、無数の先住民とアイルランド人の犠牲が隠されている。だから私は、米国の共和主義を理想とする著者の価値観をまず信じない。

さて、話は横道にそれてしまったが、9.11総選挙で小泉政権がなぜ、国民に圧倒的に信任されたのか。本書には、若者のルサンチマンがやぶれかぶれの「小泉解散」と共鳴したこと、テレビの影響・・・などなどの回答はあるものの、十分だとはいえない。そのあたりの社会学的分析が望まれる。

本書は日本社会の現状分析について物足りない部分も多いが、著者が心配するように、日本社会がファシズムへの道を歩み始めている、という指摘に同感だ。私は著者と価値観を共有しないけれど、「日本が危ない」という著者の警鐘にはは耳を傾けるべきだと思う。

2005年11月15日火曜日

『夕陽が眼にしみる 歩く、読む』

●沢木耕太郎[著] ●文春文庫 ●476円+税

FI2037117_0E.jpg本書は「夕陽が眼にしみる」と題された著者の旅(=歩く)についての記述と、「苦い報酬」と題された作家論・書評(=読む)の2編にて構成されている。前者は、著者・沢木の処女作にして代表作の1つである『深夜特急』を補足するものかのようだ。

旅には、いろいろなあり方がある。若いときの一人旅、老夫婦の二人旅、恋人同士の甘い旅、さらには逃避行や武者修行といった、切羽詰った目的の旅もある。だから、沢木がここに記した旅の論は、旅全体の一部に該当する。年齢や境遇によって、旅の論は千差万別に至る。私は、だから、「夕陽が眼にしみる」についてあれこれ言う気にならない。

後者については、沢木が批評した作家、作品のほとんどを私が読んでいないので、これまた、論評を避けたい。ただ、中の例外の一編として、近藤紘一についてふれた論考(「彼の視線」)があった。

近藤は、唯一沢木と共有できる作家なので、それについて、思うところを以下に記してみたい。

私は、筆者(沢木耕太郎)が近藤紘一と直接ではないにしろ、接点があったことを知らなかった。二人がほんのわずかではあるにしろ、同時期に活躍した作家同士だったことも知らなかった。私の認識では、近藤の方がずっと上の世代だと思っていた。略年表によると、近藤は1940年生まれ、沢木は1947年生まれだから、二人に接点があってもおかしくないし、近藤は特派員兼作家だったし、沢木は当時、ニュージャーナリズムの旗手だったから、似通った土俵の上で活躍していた。だから、互いに意識しあう存在だったとしても不思議はない。

だが、本書によると、沢木が近藤の著作とその存在を本格的に意識し始めたのは、近藤の死後であったという。近藤がいまなお健在で、その間、沢木と親交を深めていたとしたら、いい意味で互いに刺激しあえた可能性が高いだけに、近藤の夭逝は誠に残念だ。

沢木は近藤をどう認識していたのか。本書によれば、沢木の近藤への関心は、近藤の最初の夫人の死に絞り込まれている。近藤の生き方(死に方)に最も強い影響を与えたのが最初の夫人の死だった、という意味のことを沢木は記している。そののちの近藤の寛容は、夫人を死に至らしめたのが自分であるという、強い自責の念と罪障からきているとも、沢木はいう。

私もその通りだと思うのだが、近藤の最初の結婚生活がどのようなものだったのかは、具体的にわかりにくい。近藤が夫人を「殺した」とまで自覚していた内容が、外部からわからない。夫人の病気の進行に対して、自分(近藤)が何もできなかった、という無力感なのか、夫人から発せられた(であろう)危険シグナルを自分(近藤)が見落としてしまった無念さなのか、あるいは、夫人を死に至らしめた、もっと強い何かを近藤がしてしまったのか・・・

私は、それが何だったかを知りたいわけではない。近藤の著作を読み終わると、人を殺してしまった、と自覚している人間が、その後の人生をどのように歩むのか、あるいは、歩むことができるのか、といった重い問が解けず残ったままであることに気づき苛立つ。

近藤は、何冊かの著作で、自分(近藤)と最初の夫人との生活や出来事について、断片的には触れても、具体的記述を避けている。読者は近藤の断片から、“何か”があったことをうかがいしるけれど、近藤が投げたボールを受け取った読者は、もっとはっきりと知りたいという思いで、ボールを近藤に投げ返したい、でも、近藤は他界して、彼からの返球を待つことができない・・・

沢木も、おそらく、そのような無念さを抱いて、近藤の遺作の編集作業に取り組んだのではないか。近藤のその後の生き方を読めば、回答があるという読み方もある。が、パリで夫人を亡くした近藤の内的ドラマと、南ベトナムに赴任して、ベトナム人の子連れ女性と再婚した後の「ホームドラマ」とは、比較したくても質が違いすぎる。沢木が近藤の最初の夫人の死にこだわるのは、再婚後の「ホームドラマ」が物質的であるがゆえに、精神的・内的ドラマの下位に位置づけられる、と考えるからではないだろう。沢木は、近藤が、内的ドラマを普遍化(作品化)する前に他界してしまったことに、口惜しさを感じ、作家・近藤紘一の未完性にこだわるからだとも筆者は推測したりする。

『永遠の吉本隆明』

●橋爪大三郎[著] ●洋泉社 ●720円+税

FI2053311_0E.jpg吉本隆明は、筆者が最も影響を受けた思想家の一人。吉本の本を読めば、元気になる――若いころの筆者の周りからは、そんな確信に満ちた声が聞こえたものだ。元気が出る思想家というのは、生涯においてなかなか出会わない存在だと思う。

著者(橋爪大三郎)もそのような思想家として吉本隆明を位置づけている。本書には、著者が吉本に寄せる尊敬と思慕が各所に見て取れる。

だが、筆者は本書に不満だ。著者は吉本の思想体系を、『擬制の終焉』→『共同幻想論』→『言語にとって美とはなにか』→『心的現象論』→サブカルチャー論全般→『反核異論』→その他の情況への諸発言→戦争論・・・と整理しているのだが、私は吉本隆明の思想の一貫性を示す著書は、『マチウ書試論』だと考えるからだ。著者が『マチウ書試論』に触れなかった理由がわからない。同書のキーワードは、橋爪が「あとがき」に記した“関係の絶対性”だと考えている。

直感的な批評、感覚的な批評の方法が日本の文学界をリードしていた時代と、その後のマルクス主義批評の盛衰を総括した吉本は、そのどちらにも与しない文芸批評の方法の構築に取り組んだ。吉本の構想を大雑把に言うならば、『言語にとって美とはなにか』とは、文芸批評の方法は結局のところ、言語に還元されなければ客観性が担保されない、という吉本のコンセプトから成立をみたものだと思う。

国家論、戦争論においても同様だ。『共同幻想論』では、国家の成立の根拠が意識に還元され、戦争の発生は国家に等しく、戦争の廃棄は国家の廃棄にあり、それ以外の「戦争論」はおよそ相対的であり、戦争と国家という客観(絶対)的な対応が欠落していると、吉本は考えているのだと思う。スターリン批判も同様だ。

さて、吉本の(信じる)客観(絶対)性によって還元された原子、すなわち、単位、すなわち、吉本の考えるところの「言語」「意識」「国家」が、はたして吉本が体系化したとおり、表象してるかどうかが難問なわけで、吉本の取組み姿勢は倫理的だが、書き終わった体系が正しいかどうかの判定は微妙なところだ。

故・村上一郎は、「矢が的に当たるかどうかは別として、弓を引く力は強い」と吉本隆明を評した。筆者;は村上のコメントこそが吉本隆明論の真髄だと思っている。吉本の弓を引く強さに魅了され、また、吉本が近くの的を正確に射抜く姿に驚きもしたのだが、遠い的に当たっているのかどうかを見届けていない。

2005年11月2日水曜日

『妻と娘の国へ行った特派員』

●近藤紘一[著] ●文春文庫 ●360円

近藤鉱一(1940~1986)は大手新聞社の特派員として、主に東南アジアを舞台に活躍した。彼はフランス(パリ)研修中、夫人を亡くしているのだが、研修後、その精神的痛手を抱えたまま、戦乱の南ベトナムに赴任した。赴任後、近藤は当地で子連れのベトナム人女性と再婚した。

ベトナム赴任中、近藤は北ベトナムによる「サイゴン解放」という歴史的瞬間に立ち会う。そのことを含め、近藤は戦時の南ベトナム、カンボジア、そして、その後の赴任先であるバンコク、家族が移住したパリについて、4冊の本(『サイゴンのいちばん長い日』『サイゴンから来た妻と娘』『バンコクの妻と娘』『パリへ行った妻と娘』)を残した。それらの著作には、当地の政治家、軍人、民衆、ベトナム人である夫人の親戚、同業者(特派員)、特派員以外の外国人、さらに、自分の再婚の経緯、新しい家族と暮らしたベトナム、バンコク、日本等における生活が描かれている。

そればかりではない。4冊の中には、パリ研修時代、近藤が最初の夫人の死を自分の責任だと自覚し、強い自責の念にかられていたことが、フラッシュバックのように挿入されている。挿入された断片を読みつなぎ合わせると、最初の夫人が異国(フランス)の生活からくるプレッシャーにより、精神の病を患ったこと、さらに病魔が精神から身体をも蝕み、衰弱死に至らしめたこと、そして、近藤自身が、死に至る夫人を救済できなかった(と自覚している)こと、などがわかってくる。最初の夫人の死は、近藤のその後の精神形成に過重な負担を強いたようだ。

さて、本書は前述の4つの著作とは異なり、近藤の家族や自身については触れずに、特派員という職業、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポールといった、東南アジア諸地域の風土について書かれている。本書から、1970~80年代の東南アジア各国の国情や生活実態などをうかがい知ることができる。

近藤は、自らを「東南アジア屋」と呼んで憚らない。その呼び方には、大手新聞社特派員のエリートコースが欧米勤務にあり、発展途上国勤務者が「落ちこぼれ」であることの自嘲が見て取れる、と同時に、20世紀後半の東南アジアが激動する歴史の表舞台であり、そこで命を賭けて取材を続けた自己の矜持を滲ませているように思う。だから、70~80年代の東南アジアの国情を背景として押さえておかなければ、本書を理解することが難しい。たとえば、カンボジアのポルポト政権が行った虐殺の史実を知らなければ、本書のその部分の記述は分かりにくいだろう。

筆者の感想としては、近藤の表現者としてのポジションの危うさが気になっている。近藤はカンボジアの悲劇について、ジャーナリスト特有の簡潔な記述に心がけているように思えるが、近藤のさらりとした記述は、ポルポトの恐怖政治の根源を問う思想性、厳しさに欠けるように思える。と同時に、近藤が詩人であるのならば、カンボジア人民の受難を取り込む感性に欠けるようにも思う。
近藤の表現者としてのポジションは「ジャーナリスト」なのか、それとも思想家、哲学者、詩人なのかを問わんとする問題設定は、存外、重要なことだ。それは近藤の創作活動が本書を境に、どちらの方向へ深化していくかにあった。もしかしたら、近藤のような人物は政治家やコメンテーターとして、(テレビで)活躍する可能性もあった。その回答を得る前に、45歳という若さで彼はガンに倒れてしまった。誠に遺憾というほかない。

2005年10月10日月曜日

『キリスト教図像学』

●マルセロ・パコ[著] ●文庫クセジュ ●951円+税

私がキリスト教に係る芸術に興味を覚えたのは、ロマネスク芸術への関心がきっかけだった。ロマネスク教会を特集した写真専門雑誌をみたときから、11世紀から12世紀にかけて西欧全体に広がったこの様式に魅かれた。私がこれまで考えていた西欧の芸術のイメージと大きく異なって見えたからだ。

2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに至る「巡礼の道」に沿ってロマネスク教会を巡る観光ツアーに参加した。この目で見たロマネスク芸術は、これまで抱いてきた西欧およびキリスト教芸術の先入観を払拭させた。と同時に、キリスト教芸術――たとえば、教会入口のタンパンに彫られた彫像、内部の絵画、回廊の柱頭等に描かれた装飾には、一定の決まりごとがあることを知った。たとえば、鳩は精霊の象徴であること、最後の審判においてキリストの左には悪者を、右には選ばれた善者を振り分けることなどが挙げられる。キリスト教芸術のセオリーを知ることは、キリスト教芸術をより深く理解できることにつながるに違いない、というのが、私が本書を読もうとした理由である。

本書にそのような説明もないわけではないが、本書の目指したのは、キリスト教芸術に反映されたテーマの推移を通じて、信仰のあり方の変遷を辿ることではないかと思う。キリスト教芸術において描かれたテーマは、時代時代によって異なっている。そのことは、人々がキリスト教に求めた対象の変遷を示しているといえる。

先述したとおり、私がロマネスク様式に関心を抱いたのは、ロマネスク様式(という限定された期間)におけるキリスト教図像(芸術)の中に、非西欧的諸要素を抽出したいという考えにとらわれた結果だった。一方、本書は、キリスト教の初期から宗教改革による偶像禁止に至るまでの期間――換言すれば、キリスト教が具体の表出に支えられてきた時代――の信仰の流れを図像学によって、示したものだ。であるから、範囲が広すぎて、やや物足りない面もなくはないのだが、キリスト教芸術の豊穣さを見直すには、本書は必読の解説書の1つであることは疑いようがない。

『アイルランド幻想』

●ピーター・トレメイン[著] ●光文社 ●705円+税

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本書は11の物語の集成である。原題は “AISLING and Irish Tales of Terror”。AISLINGとはゲール語で幻影の意味。本書最後の物語のタイトルになっている。11の物語とも、アイルランドに伝わる伝説、古くからの言い伝え、神話、迷信、呪いなどを現代に置き換えて、ストーリーが展開される。別言すれば、本書はアイルランド奇譚集ともいえる。

たとえば第1話『石柱』は、盲目の音楽家の殺害を企てる妻とその愛人が、逆に、屋敷の庭に立つ古代の石柱に閉じ込められてしまう話。また、本題にも冠せられている11番目の『幻影(AISLING)』は、アイルランドの孤島に赴任した若き司祭が、島の自由奔放な女性に魅せられ、禁を犯してしまう話。若き司祭は自ら命を絶つのだが、生前、その島でやはり、自ら命を絶った先代の司祭の自殺のシーンが予告のように幻影となって現れる。

アイルランドが英国の植民地から独立を勝ち取ろうとしたとき、国家・民族のアイデンティティーとして「ケルト」を選び取ったことは『妖精のアイルランド』に書いた。『妖精のアイルランド』は、アイルランドの言説のネットワークとして、“チェンジリング”だけを取り上げているのだが、本書は、アイルランド各地の伝承、神話、迷信を集成している。海や島に住む悪魔、村や屋敷や教会を舞台にした、復讐、怨念、ティンカーの呪い(のろい・まじない)など幅広い。本書を通じて、アイルランドの農漁村に伝わる古い言い伝えをくまなく体験できる。とくにクロムウエル時代の圧政により、多数のアイルラン人が命を落とした「飢饉の時代」を舞台にした支配者英国人への復讐のホラーは、凄みがある。

物語のパターンとしては、因果応報に近い。堕落、裏切り、圧政といった悪事が、古代の神や被害者たちの呪いによって、報いを受ける。だからといって、説教臭い「道徳・倫理」の押し付けではない。

人間が悪に傾くことは避けようがない。自然すなわち情念に動かされてしまうからだろうか。だが、そのまま悪が放置され許されるわけではない。犯した罪はやがて、土着の超越的力により、裁かれることになる。裁きは、キリスト教(唯一神)のものとは異なり、はてしなく強大な超自然の力によってもたらされたり、小さく弱き者の強い呪いによって、罪を犯した者にやってくる。それらを迷信や幻想といって退けるか、伝統的(土着的)裁きの方法として受け入れ、教訓や道徳の基盤として人々の心に刻むかではないか。

人を律するのは、唯一神だけとは限らない。アイルランドはカトリックの国でありながら、カトリック信仰だけの国ではないようだ。21世紀、アイルランド本国でも、古代の伝承は迷信として退けられているのだろうが、それらを自らのアイデンティティーとして、つまり、精神、社会規範のあり方の1つとして、保存する力がいまのアイルランドにあるに違いない。その力が、本書のような形式の幻想文学を生んだのではないか。

後書きの解説によると、著者ピーター・トレメインは、またの名(本名)をピーター・べレスフォード・エリスといい、著名なケルト学者とのこと。小説はピーター・トレメインの名で書き、ケルト研究の書については、ピーター・べレスフォード・エリスの名で発表するという。本書を通じて、アイルランドの神話、伝説を勉強することができる。ケルト好きな方(ケルトマニア)に、ぜひの一読をおすすめする。