2009年12月27日日曜日

出発

明日から、ローマ経由でバーリ、ナポリを拠点にして南イタリアをまわり、ミラノ経由で帰国する予定です。

この地域は世界遺産がたくさんあり、ローマ、ミラノ、フィレンチェ、ヴェネチアといった世界的観光地を訪れてしまった人々に人気があるそうです。

冬のヨーロッパは生まれて初めて。特にミラノは寒そうです。

では!

2009年12月19日土曜日

あと10日余り

@Sawara

今年も僅か10日余。はやい。

そんな中、『日本海と出雲世界-海と列島文化2』を読了。

海を介した日本列島及びアジア大陸の各所との結びつきを知る。

本シリーズを通じて、「日本」を再認識するばかり。

己の無知を思い知らされる。

日本は広いのである。

詳しくはまた改めて、当コラムに書くつもり。

2009年12月18日金曜日

寒くなってきた。

@Sawara

年の瀬、不景気である。身も心も寒い。

今年の10大ニュースといえば「政権交代」が第一位だろう。

でも、新しくできた政権がどうも落ち着かない。

連立政権を構成する小党の党首がかき回し役になっている。

国民が選択した政党(民主党)よりも、その何百分の一(計算していないので桁が違っているかもしれないが)にも達しない票数しか獲得できなかった党が増長するのはいかがなものか。もっと謙虚に振舞うべきだ。

民主党党首が彼らを抑えきれないのも情けないが、政権与党となって謙虚さを失った小党の党首も身の程知らず。連立与党は、政策協定の締結という基本作業を欠いているようにみえる。

意見交換を内部でじっくり行い、連立内で調整した結果を広報官が一元的にアナウンスすべき。政権を構成する小ボスが、マスコミに存在感を示そうと、ギャーギャー勝手な意見を放言するのは醜い。

「政権交代」の結果が無秩序では、国民が失望する。

来年の参院選で民主党に大勝してもらって、混乱分子を政権から排除してほしい。

2009年12月15日火曜日

佐原の写真集連載開始

@sawara

佐原の写真集の連載を開始しました。

お暇なとき、のぞいてみてくださいね。

2009年12月13日日曜日

小江戸の佐原は見所いっぱい


@sawara

小江戸と呼ばれる水郷・千葉県佐原に行ってきました。ここは、格子戸、蔵造りといった、レトロな町並みが運河沿いに展開しています。

埼玉の川越とちょっと似たところですが、川越が内陸的で、佐原は水路のイメージが強いです。

鉄道でのアクセスがいまひとつなので、休日でも混雑はしていません。いまが“見時”“行き時”の佐原でした。

詳しくは後日、別のサイトにて、写真をアップしま~す。

2009年12月8日火曜日

墓穴を掘った押尾学-神は罪を見逃さない

12月7日、押尾元被告が、新たに合成麻薬の「譲渡」の容疑で逮捕された。押尾容疑者は8月3日、東京都港区のマンションでMDMAを使ったとして麻薬取締法違反(使用)容疑で逮捕・起訴され、先般、懲役1年6月、執行猶予5年の有罪判決が確定したばかり。

筆者は、この事件について何度も当コラムに書いてきた。先の公判で押尾元被告に有罪判決が下ったが、一緒にいた女性の死亡の真相については、何も明らかにされなかった。そのことが、人々の間に苛立ちを募らせた。裁判所が真実を明かさないのであれば、いったいだれがどうやってそれを究明するのか。一人の女性の命が失われたにもかかわらず、最も近くにいた押尾容疑者の行動に責任がないで済まされていいのだろうか――人々の苛立ちは、結局は警察・検察・司法に対する不信感として沈殿した。ここのところ、冤罪事件が多数発覚しする一方で、凶悪犯罪は未解決なまま。検察の動きといえば、政治献金に対する政党間のアンバランスな取り組みが顕著となっていた。人々は、最近の警察・検察の行動に不信感を募らせている。そればかりか、最高裁が「ビラまき事件」に関して、言論圧殺に近い判決を下していた。日本の警察・検察・裁判所は機能不全に陥ったのか・・・

今回の押尾元被告の再逮捕は、警察・検察不信をいくらか緩和した。先の公判の押尾元被告の供述の信憑性が裁判官に疑われたくらいだ。検察・警察が何もしなければ、人々の当局への不信は一層沸騰しただろう。

再逮捕後、マスコミにいろいろな情報が飛び交うようになった。たとえば、押尾学容疑者の毛髪から合成麻薬MDMAの成分が検出されていたともいう。警視庁捜査1課は同容疑者が自らMDMAを入手して、日常的に使用していた疑いもあるとみて調べている。同容疑者には常用性がありながら、MDMAは死亡した女性から譲り受けたと偽証し疑いが濃い。押尾容疑者は使用罪での初公判などでMDMAの使用について「米国との使用を合わせて4回」と主張。亡くなった女性と使用した以外の過去の使用は、「米国内だけ」と供述していた。 また、「MDMAは死亡した女性からもらった」と一貫して主張してきた。となれば、憶測・推測にすぎないが、押尾容疑者が、容態が悪化した女性を救命せず、MDMA入手の罪を女性になすりつけようと図ったのではないか、と考えて不思議はない。

今後の捜査の展開としては、押尾容疑者が死亡した女性にMDMAを渡したと証明できれば、死亡した女性の容体急変後に適切な措置を取らなかったとして、保護責任者遺棄致死容疑での立件が近づく。 捜査1課は、押尾容疑者のほか、死亡した女性の携帯電話を捨てた証拠隠滅容疑で元マネジャー、押尾容疑者にMDMAを渡した麻薬取締法違反容疑でネット販売業の知人男性の3人を同時に逮捕した。

そればかりではない。テレビに出演したヤメ検弁護士のO氏は、過去の判例から、押尾被告には傷害致死の嫌疑もあるという。O弁護士によれば、大量の覚せい剤を知人に注射して死亡させた覚せい剤常用者が傷害致死罪で立件され、公判で検察側の主張が認められたという。

さて、この事件は、『刑事コロンボ』『必殺仕掛人』『ダーティーハリー』などの正義の味方(=ヒーロー)の物語を思い起こさせる。合成麻薬の常用者で有名な俳優--金持ちで威張り腐った犯人(=押尾容疑者)--が、知人女性にそれを飲ませ、容態を悪化させる。麻薬常用のスキャンダルを恐れた犯人は事件の揉み消しを図らんとして、取り巻きやマネジャーと共謀して、容態が悪化した女性を3時間近く放置し、死に至らしめ、亡くなった女性に麻薬所持の罪をかぶせようと画策する。財力やコネクションを使ってマスコミを黙らせ、当局にも捜査中止の圧力をかけ、犯人の目論みは成功したかのようにみえたのだが、そこにヒーローが現れ、犯人側の「空白の3時間」を解明し、犯人の策謀を暴いてみせる--というわけ。この事件、初期段階の当局の動きは、誠に鈍かったという印象を受けた。

今日に至るまでの間、当局内部にこの事件に対する取組みについて変化があったのか、当局が最初から、このような手順を踏む計画であったのか、筆者には知る由もない。だが、結果的には押尾容疑者が墓穴を掘った観は否めない。つまり、女性の容態が悪化したとき、押尾容疑者が119番をするなり救命に尽力していたならば、そして、女性の命が助かっていたならば、彼には情状酌量の余地が十分あったし、麻薬の「使用」の罪に服すれば足りた可能性も高い。そうであれば、せいぜい懲役1年数ヶ月、執行猶予数年で、この事件は終わったはずである。

ところが、押尾容疑者は人倫に外れ、救命活動に尽力せず、亡くなった女性に罪を着せようと図ったために、保護責任者遺棄罪で立件されることは確実となり、証拠次第では、保護責任者遺棄致死傷罪、さらに、O弁護士のいうように、傷害致死罪で立件される可能性まで生じてしまったのである。

自業自得とは、まさにこのことである。“悪い奴”を世にのさばらせることは、神がお許しにならない。ちなみに、保護責任者遺棄罪は3月以上5年以下の懲役、同遺棄致死傷罪は20年以下の懲役となる。傷害致死罪の場合、懲役3年の有期懲役と決まっていて、有期刑の上限は20年以下となる。筆者のような素人裁判官が現在の情報に基づき押尾容疑者に判決をくだすとしたら、最短で5年間、彼を塀の中の人とする。

2009年12月6日日曜日

13人会

昨晩、大学時代の友人12人と銀座のふぐやで飲み会をやった。この会は「13人会」という名称をもっていて、大学のときの知り合い13人が卒業以来●十年、飲み会を不定期的に開いている。今回は、1人欠席であるが、出席率としては高いほう。

学生時代は、新宿歌舞伎町のKT、渋谷警察前のKMという飲み屋が溜まり場で、毎日、誰かと飲んでいたが、筆者はいつの間にかそこから離れ、青山のSR、曙橋のAT等に場を変え、結局、日暮里のYがホームとなった。そのYが閉店してからは、決まって飲みに行くところがなくなってしまった。

友人と会うときは互いの職場や外出先に近いところ。地元のS氏とは谷根千の数箇所が「行きつけ」となるのかもしれないが、回数は減った。

学生時代は、酒を飲むことで新しい「世界」が開かれると思ったこともあった。とりわけ、歌舞伎町のKTには当時若手だった映画監督や文筆業者が集まっていて、喧嘩も議論もあったけれど、それが刺激的だった。

筋力トレーニングに力を入れ始めた最近は、お酒を飲みたいとあまり思わなくなった。話をするのも面倒くさくなって、「カラオケ」に逃げる機会が増えた。

2009年12月3日木曜日

『テレサ・テン 愛のベスト-三木たかしを歌う-』



テレサ・テンはもうこの世にはいないのだけれど、歌声は永遠――なんて、月並みの誉め言葉が恥ずかしい。彼女は日本人ではないにもかかわらず、日本語の歌詞を心底理解していて歌いこむ。その歌声が聞くものの耳に届くとき、聞くものに至福のときが訪れる。

つい1月ほど前、彼女を特集したTVのドキュメンタリー番組を見た。楽曲(歌詞)ごとに彼女の姿容(すがたかたち)が変わっているのに驚いた。衣装が違う、メークが違う、髪形が変わる、照明、背景等々が変わる・・・以上に、本人が一番変わっているのだ。“なりきる”すなわち、感情移入、状況移入が可能であるということは、芸能人の技術力なのかもしれないが、たった数分の歌のステージでそれをやりきれるということは、非凡な才能だと思う。残念ながら、テレサ・テンのワンマンショーを聞く機会をもたなかった。彼女が持ち歌ごとに次々に自分を変えていく様子を体験したかった、と、いま悔やんでいる。

自分のスタイルを貫く、のが歌手のあり方だが、楽曲に従って、自分を変え、それでいて、彼女の根底は変わらない。とても魅力的な歌手だったことに気がついたとき、彼女はこの世の人でなくなっていた。

2009年12月2日水曜日

歴史の法廷に立つのはだれか

政府民主党が行った「事業仕分け」が大きな話題を集めた。中には、思わぬ批判もあった。その中の一つ、筆者にとって最も印象に残ったのは、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことを、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判をした件だ。国家予算=税金の使われ方について活発な議論があることはいいことなのだけれど、事業仕分けに対する批判が、巧妙な論理のすり替えを伴う以上、これを看過することはできない。

ノーベル賞受賞科学者たちが、事業仕分け結果について批判した趣旨は次のとおりだ。まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈したらしい。

まずもって、筆者はノーベル賞受賞者が、「歴史の法廷」という大言で事業仕分け批判を展開したことに大きな驚きを覚えた。事業仕分けが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、某独立行政法人の「●研」が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。スパコン開発も「●研」の利権がらみだし、「●研」は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だ。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも「●研」から追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、独法「●研」に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはない。

旧政権時代、日本が科学技術に対して、あまり潤沢な予算を組まなかったことはだれでも知っている。旧政権における科学技術関連の予算の使われ方は、科学者の実践的研究にではなく、天下り官僚の人件費や適正でない価格で購入する研究資材等に使われていた。仕分け人がメスを入れたかったのは、そうした旧政権における、日本の科学技術予算の使われ方のほうなのだ。

ノーベル賞を受賞した日本の科学者たちは官僚出身ではないものの、天下り独法の役員を務めており、天下り官僚と一心同体なのだ。ノーベル賞の価値をどう評価するかについては人さまざま、だれがどう思おうと勝手だけれど、筆者は少なくとも、すべての同賞受賞者の人格が高潔だとは思っていないし、科学者が世俗の欲望と無縁な者だとも思っていない。権力欲も物欲も人並み以上に強い者であると確信している。

日本の科学者・研究者のあり方が問われたのは、いまから40余年前の東大闘争だった。闘争終結後から今日まで、東大という日本を代表する学問・研究の場が改革されたという話は聞いていない、どころか、より権威主義的傾向を強めている。日本のノーベル賞受賞者、なかんずく、科学技術分野の受賞者は、権威主義が幅を利かす大学研究機関で生き残ってきた者であって、彼らが長けているのは、研究者としての能力よりも、政治力、管理力なのであって、加えて、企業、役所とあい渉るパワーなのだ。ついでにいえば、ノーベル賞を客観的な意味において、世界最高「権威」だと信じるか、信じないか、という問題も残っている。

誠に残念なのは、日本のマスコミである。ノーベル賞受賞者という権威筋からの事業仕分けに対する批判・恫喝(歴史云々)に恐れおののき、論点のすり替えに気がつかないふりをして、仕分け人批判に靡いてしまった。ナイーブ(うぶ)なこと、このうえない。

将来、歴史の法廷に被告として立つのは、どちらであろうか。

2009年11月24日火曜日

今年もわずか

光陰矢のごとし――と月並みな言葉を思い出す今日この頃。

あっという間の2009年である。

今年は当方にとって、記念すべき年。

さて、今年を振り返ると、「政権交代」がなんといっても大きな出来事。

でも、劇的な変化はいまのところ、起きていない。

来年は、いいことがあるのだろうか。

2009年11月12日木曜日

当局自作の「逮捕劇」は困る

千葉県市川市で2007年3月、英国人女性死体遺棄容疑で全国に指名手配中の市橋容疑者が10日、逮捕された。2年半あまり膠着状態だったこの事件が、急展開して身柄確保に至った。逮捕のきっかけは、整形手術後の写真の公開だった。マスコミが一斉に写真を公開し、あたかも市橋容疑者が「あなたがた」の近くに潜んでいるかのような報道だった。写真公開から数日、身柄確保の現場は、大阪のフェリー乗り場だった。いまどき、沖縄にフェリーで渡る人間は少ない。そのため、かえって人目につきやすく、誤って最初に訪れた神戸のフェリー乗り場の職員に通報されたらしい。

この急展開はなんだったのか――筆者の憶測と推測にすぎないが、この逮捕劇はオバマ訪日直前に行われた、当局の「治安キャンペーン」だったのではないか。オバマ訪日を前にして、日本の治安当局は「逃亡犯」(=市橋容疑者)を以下のとおり利用した。第一に、英国人を殺害し逃亡している犯人をオバマ訪日前に逮捕することにより、日本の治安体制が万全であることを世界的にアッピールしようとした。第二に、懸賞金付きの市橋容疑者の整形手術後の写真等を公開することにより、一般市民の間に「岡っ引き根性」を惹起させ、情報提供という名の密告体制の再構築を図ろうとした。

筆者の憶測・推測では、市橋容疑者の動向は当局によりマークされており、当局は彼をいつでも逮捕できたはずだ。ただ、当局は彼の身柄確保を当局にとって最も都合のよいタイミングで行い、有効に利用しようと考えていたはずだ。そして、当局は彼の逮捕時期を“オバマ訪日直前”というタイミングに定め、そのとおり実行した。

そればかりではない。当局の狙いは副産物として、ここのところ連続して起こった4件の未解決事件(練炭不審死事件、鳥取不審死事件、千葉大生殺人事件、島根県立女子大生殺人事件)から国民の関心をそらせる効果まで発揮した。とりわけ、練炭不審死と鳥取不審死事件は、警察当局の初動捜査のミスが指摘されていた。

犯罪者を野放しにしていいわけがない。殺人犯は速やかにその身柄が確保され、裁判を受け刑に服すべきである。そのことに異論があるはずがない。しかし、犯人逮捕をことさら「劇場化」させる必要はない。そもそもこの「逃亡劇」は、警察が市橋容疑者を彼の自宅で取り逃がしたことから始まったのだ。「酒井法子事件」の公判を取り仕切った某裁判官は、「法廷女優」という異名を取った酒井法子被告に対し、“これはドラマではなく現実なのだ”という意味の発言で酒井被告を諭したという。

筆者ならば、この身柄確保について前出の某裁判官にならって、 “これは「逮捕劇」ではない、あなた方(当局)のミスにより2年余りも逃亡した容疑者を、あなた方(当局)がやっとのことで、修復したにすぎない”と、当局を諭したい。

2009年11月10日火曜日

休養日

8日の日曜に仕事をしたため、本日、代休で家でのんびりしている。暑くもなく寒くもなく、天気はあまりよくないけれど、このくらいの曇天のほうが楽である。ここのところ11月にしては暖かい。暖冬傾向は否定しようもない。

さて、報道によると、新型インフルエンザが大流行の兆しが認められる。中世欧州の「ペスト」の大流行は、中世を終わらせた要因の1といわれているし、近代では「スペイン風邪」の大流行が第一次世界大戦を終わらせた、という説がある。近年では「エイズ」と呼ばれる感染症に世界中が汚染され、多数の死者を出している。伝染病が文明を転換させる要因の1つとなることは、歴史が証明している。

このたびの新型インフルエンザの場合、日本では発病者の過半が18歳以下であることがわかっている。乳幼児の死亡も何件か報道されているが、今後増加傾向を示すことが懸念される。このことが意味するものがあるのだろうか。

新型インフルエンザの流行は予測されていた。にもかかわらず、当時の自民党政府はワクチンの確保に全力を傾けたとはいえない。民主党も本格的流行に備えた対策をうったともいえない。今年の夏の時点では、大流行に懐疑的であった。もちろん、筆者も「大騒ぎ」をすれば、いたずらに社会的混乱を引き起こすだけだ、と考えていた。反省を要する。

ただ、情報が整理されて報道されているともいえない。まずもって、「新型」と「季節性」の比較がなされなければなるまい。両者の死亡率を比較してみないと、「新型」の危険性が証明されたとはいえない。新型のほうが呼吸器に悪い影響を与えるとの報道はあったが・・・

感染者数、学級閉鎖数等も同様である。「季節性」に「新型」が加わって、状況としては危険度が増していることは確かであるが。

類似した事件がセットで発生する不思議

似たような事件がセットで発生している。なんとも不思議な現象だ。まず、芸能人の麻薬・危険薬物事件として、「押尾学事件」と「酒井法子事件」がほぼ同時期に報道され、このたび、両事件の2人の被告に判決が出た。これを便宜上、セット1-2人の芸能人麻薬事件と呼ぶ。

■セット2-2人の女のまわりで大量の不審死発生

(1)埼玉結婚詐欺女と練炭不審死事件

10月27日、埼玉県警に結婚詐欺などの疑いで逮捕された無職の女(34)=東京都豊島区西池袋=の知人男性が相次いで不自然な経緯で死亡していたことが、県警の調べで判明し、殺人事件の疑いもあるとみて捜査しているとの報道があった。県警によると、女とかかわりを持ち、その後に不審死した男性は4人に上るという。

県警と警察当局によると、女と交際していた東京都千代田区神田神保町の会社員、大出嘉之さん=当時(41)=が8月6日朝、埼玉県富士見市の駐車場で、施錠した乗用車内で練炭による一酸化炭素中毒で死亡しているのが見つかった。大出さんの遺体から睡眠薬の成分が検出された。車内から車の鍵は見つからず、遺書もなかった。女は大出さんに「学生だからお金がかかる。欲しいものがある」などとうその話を持ち掛け、約500万円をだまし取っていたという。

また、女が出入りしていた千葉県野田市尾崎の安藤健三さん=当時(80)=が5月15日、自宅が全焼する火事で死亡。安藤さんの遺体からも睡眠薬の成分が検出された。安藤さんは息子(36)と2人暮らしで寝たきりの状態。火事は息子の留守中に発生した。

県警によると、ほかにも都内と千葉県に、女とかかわりがあり、その後死亡した男性が2人いるという。女は、インターネットで知り合った長野県の50代男性と静岡県の40代男性に「学費が3カ月未納で卒業できない。卒業したらあなたに尽くします」などと結婚話を持ち掛け、計約330万円をだまし取ったなどとして詐欺などの疑いで逮捕された。
 
(2)鳥取詐欺ホステス女と大量不審死事件

11月になると、鳥取の不審死が報道され始めた。鳥取県で男性3人が相次いで不審死した事件で、詐欺容疑で逮捕された元スナック従業員の女(35)が、10月27日に変死した無職、田口和美さん(58)に自宅アパートで前日夜に多量の錠剤を飲ませた際、一緒にいた知人の男性に「薬を飲ませたことを警察に言わないで」と口止めしていたことが9日、分かった。鳥取県警は、女の周辺で亡くなった田口さんを含む男性6人について死亡の経緯に不自然な点があるとして、殺人容疑も視野に捜査を開始。田口さんの遺体からは睡眠導入剤が検出されており、県警は女が飲ませた薬の成分の可能性があるとみて調べている。

■セット3-2人の女子大生殺害事件

(1)千葉大生放火殺人事件

10月下旬、千葉県松戸市の千葉大4年荻野友花里さん(21)が殺害され、マンション自室が放火された事件で、犯人が荻野さんを10月21日に殺害していったん逃走後、翌22日にマンションに戻って放火した疑いがあることが分かった。その後、殺された荻野さんのカードを使った男が金を引き出した映像が公開された。

(2)島根県立大生バラバラ殺人事件
広島県北広島町の臥龍(がりゅう)山で見つかった女性の切断された頭部について、広島県警は7日未明、DNA型鑑定の結果、10月下旬から行方不明だった島根県浜田市の島根県立大総合政策学部1年、平岡都さん(19)と確認し、発表した。広島、島根両県警は死体損壊、遺棄容疑で浜田署に合同捜査本部を設置。何者かが別の場所で平岡さんを殺害、遺体を切断して車で運んで捨てたとみて、司法解剖して死因の特定を急ぐ。

■日本の警察は甘すぎる

「セット」と称しても、時間、場所等において相互の関連性は何もない。ただ、被害者、実行犯、内容において、似たような属性や情況が認められるだけだ。犯罪の傾向や犯人像において、なんらかの共通性が認められるわけではない。いまのところ(11月10日現在)共通しているのは、芸能人の麻薬事件を除いて、未解決であるということだ。

「セット2」の場合、詐欺事件を起こした女性の周辺に、不審死をとげた多数の男性(被害者か)がいたにもかかわらず、いずれの警察も不審死について自殺と断定し、捜査開始が遅れた。警察が人の死を軽んじている。日本は殺人者に都合のよい国になる危険性が高まる。日本の警察はチョロイぞ、死体のそばに「遺書」でも置いておけば、疑われることはないぞ、となれば、自殺を装った保険金殺人事件や、このたびのような不審死が多発する可能性が高くなる。そういえば、相撲部屋で起った「かわいがり」事件も、当初、警察は事故で済まそうとした。遺族が遺体を新潟大学医学部に持ち込まなければ、親方逮捕に至らなかった。警察が事件を見逃し、「殺人者」を捕まえないことが新たな被害者を生む。

いま話題の英国人女性死体遺棄事件で指名手配されている犯人は、整形手術で顔を変え逃走中だ。事件当時、犯人の自宅に警察が捜査に入ったところ、犯人が逃げ出し、以来、身柄が確保されていない。どじな話だ。日本の警察は甘すぎる。モタモタするな、と言いたい。

2009年11月5日木曜日

役割は終わった-“Social”か“Individual”か

総選挙に民主党が圧勝してから最初の国会が開催された。代表質問終了後のテレビのインタビューに、田中真紀子民主党議員は次のように答えた。「自民党は終わった、という感じですね、わたしがいたころの自民党とは・・・(全然、違う。)」。

田中は、小泉政権下でその人気を買われ外務大臣に就任したが、同省内でゴタゴタを引き起こし解任された。結局、田中は自民党を出て無党派議員となり、先の総選挙直前に民主党に入党した。彼女にしてみれば、このたびの自民党の代表質問のテイタラクを目の当たりにして、それなりの思いが込み上げてきたのだと思う。それほど、自民党の代表質問は酷かった。その様子をテレビで見た国民の誰しもが、「自民党は終わった」と思ったであろう。

いま行われている予算委員会等における野党側(自民党)の質問も、民主党の勢いを止めるには至っていない。自民党の質問者の言葉は、自民党の確固たる政策から発せられたものでないことが、その重さから感じ取られてしまうのである。先に行われた参院補選で自民党が二連敗したことが、そのことをなによりも証明している。

政権奪取後、民主党政権が取り組んでいる諸課題とは、大雑把に言えば、長年続いた自民党政治の負の遺産の後始末、清算である。例えば、八ッ場ダムが象徴するのは自民党が行ってきた大型公共事業の継続性の是非であり、子供手当てが象徴するのは、小泉・竹中自民党が断行した福祉政策後退の是正であり、郵政民営化の見直しは、自民党が切り捨てた、地域生活ネットワーク拠点の再生に関する試行であり、JAL経営問題は、無責任な航空行政と空港建設に引きずられた巨大企業の経営破綻処理である。

まず、郵政民営化の見直しを考えてみよう。小泉政権の下、郵政民営化を実質的に進めた竹中平蔵は、テレビに出演して、民営化の前、郵便局に貯蓄された国民の預金は、財政投融資として大蔵省(当時)の裁量によって恣意的に使われ、特殊法人等にノーチェックで流れていたと説明している。ところが、経済評論家の森永卓郎は、この竹中平蔵の説明にかなり前から反論しており、森永は自身のブログで、次のように説明している。

■(竹中が主張する郵政民営化により、)特殊法人への資金の流れが変わるという件であるが、これは誤解なのか曲解なのか、前提に大きな誤りがある。というのも、すでに2001年に財政投融資制度は廃止となっており、郵政公社が特殊法人に資金をそのまま流していたという指摘は当たらないからだ。では、郵政公社はどうしていたかというと、政府が保証をつけている財投債、あるいは財投機関が発行する財投機関債を、マーケットで買って資金運用をしていたのである。だが、この財投債は民間銀行も購入しているものであり、そもそもマーケットを通じて買うのだから、特殊法人に金を流しているという批判は当たらない。政府が財投債を売って、政府がその金を特殊法人に流していたのであるから、特殊法人を温存していた責任があるのは政府なのであって、郵政公社には責任はなかったのだ。■

大蔵省(現財務省)が財投を巨大公共事業に勝手にまわした(霞ヶ関の隠れた財布)という竹中の説明は、郵貯のいつの時代の話なのか。さらに、郵貯銀行を銀行法の下におくという竹中の企図は一見、正当に思われるが、郵貯銀行が市井の一(いち)銀行として競争を続けても、せいぜいCクラスの銀行にとどまる。金融市場のメカニズムに従えば、郵貯銀行がいまできることといえば、せいぜい、最もリスクの低い事業、すなわち、国債の購入くらいであり、現にそれしか資金運用していないのである。

民主政権が行おうとする、“郵政民営化見直し案”とは、「郵便局」、すなわち、郵貯銀行を都市銀行として改変することではなく、国民生活のためになる機能を再発見し、その方向に事業目的を変更することなのだと思う。そのことが、亀井大臣の基本的な考え方なのだと思う。

さて、田中真紀子が発した、「自民党は終わった」という言葉に戻ろう。自民党の終わりとは何か、自民党の何がどう終わったのかを整理しなければなるまい。

自民党が果たしてきた役割とは、第一に、公共事業を駆使した集票による政権維持であった。たとえば、巨大ダムに代表されるような半世紀単位の工期の公共事業を官庁(たとえば国交省)に立案させ、それを餌にして、地域(選挙区)にカネが落ちる仕掛けをつくり込み、予算(工事費)と引き換えに票を得る。「地域」は自民党に議席を与えるかわりに、公共事業予算分相当の仕事を半世紀近く保証される。省庁も調査、監理に関する外郭団体等を設立できるメリットがあり、建設中は長期にわたって現場事務所に職員を貼り付けることができる。政権与党、官僚組織、ゼネコン(土建業者等)に必要なのはダムではなく、工事(調査、監理等を含む)なのである。

第二は、調整機能である。市場原理に従えば、地域の小規模小売業者は、全国規模の大規模小売業者が進出すれば、たちどころに、閉店・倒産・廃業を余儀なくされる。それを調整するのが、いろいろな法規制であり、大店法が代表的である。そればかりではない。立法化されない調整方法はいくらでもある。たとえば、日本の法令においては、法の下に省令、施行規則、大臣告示等が紐付けられていて、それらは、各省庁レベルで自由につくられている。官僚組織は、省令、施行規則等を駆使することにより、市場メカニズムを窓口レベルで制御することができる。それらを公布するのは大臣(=官庁)の権限だから、省庁は国会以上に、実質的立法権をもっているのである。自民党政権の時代、大臣(政治)はまったくそれらに関与できなかったから、官僚の裁量権は高まるばかりであった。

第三は、特定の団体等に優遇措置を与える権限である。顕著な例として、消費税が挙げられる。小規模事業者は、消費税の納付が免除されている。その結果、おそらく、小規模事業者は消費税が課せられた価格で商品を販売しながら、その分を納税せず、消費税分を利益としているのである。これを「益税」という。国民はすべての商品に消費税が課せられていると思っているけれど、消費者が小規模事業者(例えば小規模小売店)を通じて物品を購入した場合、消費税相当分は小規模事業者の懐に収まり、国庫に納付されることはない。消費税率が上がった場合、「益税」はさらに膨らみ、消費者の納税における不公平は是正されないどころか、拡大してしまうのである。小規模事業者は、自民党支持団体である商店会連合会、事業組合等を結成していて、自民党議員を応援する後援会に通じている。民主党が、消費税の納付における不公平を是正できるのかどうか。

輸入品と国内産品の価格調整も行われている。省庁権限で、輸入品と国内産品の価格を強制的に統一して市場に出すことができるようにすれば、国内業者は守られるが、消費者は実際に輸入された価格より高い価格でその商品を購入することになる。そこで生じた差額は、特殊法人・独立行政法人、公庫等(以下、「特殊法人等」という。)の内部に基金、準備金等の名目で蓄積される。これも「埋蔵金」の一つである。国内産品生産者は外国産との価格競争が回避され、生活を保障される。生産者は事業組合、社団法人等の業界団体を構成し、法制化に尽力した議員に組織的に投票する。調整権限をもつ省庁は、傘下の特殊法人等を確保し、天下り先となる。これも、「政」治-「官」庁-「財」界の癒着の構造の1つである。

自民党が与党であった時代、自民党の存在理由は、“与党であること”以外に見当たらなかった。政府与党という立場を利用して、予算を獲得し、政策という名目により諸々の団体等に利益供与をし、それと引き換えに票をもらい、政権を維持していた。民主主義をどう定義するのかは難しい問題だけれど、自民党政権下の日本とは、開発独裁型もしくは開発調整型の国家として成立・維持された国家であった。当時の日本国では、自民党議員が官僚に命じて自分たちに都合のよい法案をつくらせ、それを国会で立法化し、国家運営を実質的に官僚に丸投げしてきた。国民(市民)よりも「上位」にある管理者(官僚)と業団体が、共同の利害に基づき、合体した政体であった。

官僚機構が産業界を統制することにより、その効率を高め、グローバル市場において高い競争力をもつ企業を育成する一方、競争力の弱い業態については保護主義的政策でそれらを守った。小泉(当時)首相が「自民党をぶっこわす」と宣言したのは、まさにそのような政体を指したのである。2005年の「郵政解散」のとき、国民は、小泉(当時)首相が唱えた「郵政民営化」を、それまで維持してきた古い自民党政治を壊し、新たな市民優位の政体を確立する、スローガンだと錯覚した。

小泉政権が目指したのは、米国のような、Individual(個的)に重きを置く国家像であった。もちろん、そのような国家像は、日本、というよりも、ユーラシア的規模において馴染まない。旧大陸においては、歴史的重層性に規定された、Social(社会的)な国家が求められているからである。

自民党が半世紀にわたって維持してきた日本型産業優先調整国家が行き詰まり、さらに、米国を模倣した小泉政権下で進められたIndividual(個的)な競争社会がリーマンショックにより破綻し、そしていま、政権交代により、Social(社会的)な調整型国家が復権してきた。小泉政権以前の旧自民党と、現在の与党民主党の政策は、Individual(個的)にではなく、Social(社会的)に重きを置くという意味において、共通しているのである。

小泉政権が終わり、民主党政権が誕生するまでの間、自民党は、安倍、福田、麻生の3人の首相を輩出しながら、党として国家像を把握することに失敗した。Social(社会的)な国家像を描けば、当然、公的セクターの役割は増大し、官僚の役割は強まり、仕事は多くなる。民主党は、“官僚依存”を止めると宣言しただけであって、官僚制度を廃止するとは言っていない。ところが、「みんなの党」の渡辺喜美は、官僚制度の廃止を目指し、民主党を批判している。国民は、官僚制度が国民生活を豊かにする方向に機能すればいいわけで、渡辺喜美のような怨恨を官僚制度に抱いているわけではない。自民党が小泉政権のようなIndividual(個的)な国家像を目指せば、国民から見放され、党は崩壊するし、Social(社会的)な国家像を目指せば、民主党に取り込まれる。自民党の役割は、どうあがいても、終わったのである。

2009年11月3日火曜日

飲みすぎ、歌いすぎ

先週は水曜日に旧友(高校の同級生)S氏と拙宅近くで飲んで、二軒目、「N」でカラオケをした。金曜、拙宅近くで仕事があり、終わってから仕事仲間と飲んで、同じく「N」に行ってカラオケをした。日曜日、高校時代の同窓会が上野公園内の精養軒であり、三次会に池之端のカラオケボックスに行き、更に四次会で「N」に行きカラオケをした。

というわけで、歌いすぎ、喉が変。ハスキーボイスになって今日を迎えている。飲みすぎ、歌いすぎで、喉にポリープができるという話もある。しばらく、歌は休業しよう。

さて、同窓会(隔年開催)である。筆者は一昨年、わけあって二次会に初参加した。それまでは出席する気になれなかった。

今回は、本会から四次会まで参加したのだけれど、三次会まではどうも周囲と波長が合わず、困ってしまった。卒業以来●年、懐かしく再会したにもかかわらず、違和感を拭いきれない。

筆者の高校は優等生が多い。同窓会に来るのも優等生グループが大半、筆者が当時遊んだ悪友たちは、S氏以外、来ていなかった。そんなわけで、不完全燃焼である。だからといって、筆者が音頭をとって、悪友ばかりを集めた「もう一つの同窓会」を開くほどのエネルギーもない。熱心な永久幹事が開催してくれる本会に悪友たちが参加してくれるしかないのだが、いろいろな事情があるのだろう。

「あいつは、いま、何してるんだ」「あいつとあったのは、●年前、確か・・・」といった具合で、不在者を懐かしむばかりである。亡くなられた学友はおよそ10名。ご冥福をお祈りします。

保護責任者遺棄容疑

東京地裁は11月2日、麻薬及び向精神薬取締法違反の罪に問われた元俳優・押尾学被告(31)に対し、懲役1年6月、執行猶予5年(求刑懲役1年6月)の有罪判決を言い渡した。執行猶予としては最長で、同罪の初犯では異例の厳しい判決となった。

「押尾学事件」については、何度も取り上げてきた。「酒井法子事件」に比べて、当該事件には死者が出ているのである。死の真相を突き止めるという意味を論ずるまでもなく、薬物の恐ろしさを人々に、とりわけ、若者に知らせるという意味において、両者を比較することすら憚れる。マスコミは事件の社会的意味を適正に判断し、薬物事件に係る報道の量(時間もしくはスペース)と質とを決めていただきたいものだ。

この事件の報道については、管見の限りでは、インターネット版『スポーツ報知(芸能)』(以下『IN版スポーツ報知』と略記。)が最も分かりやすく適切な報道を行っていると思われるので、以下、その報道に従って、筆者の考え方をまとめておく。

■井口修裁判官は冷静に判決要旨を読み上げたが、法廷での“押尾語録”に疑問を呈した厳しい内容だった。「MDMA施用の経緯など被告人の法廷での説明は、内容が不自然で、およそ信用し難い」とバッサリ切り捨てた。「違法薬物との関係を断絶する環境整備も十分とは認め難い。相当長期間、再び違法薬物に手を出さないか見守る必要がある」と、執行猶予としては最長の5年を適用した。(中略)判決公判は午前11時に開始され、わずか4分で終了。押尾被告が言葉を発したのは名前と判決内容を確認した2度の「はい」だけ。裁判官が被告人に悪い点を言い聞かせる「説諭」もなかった。麻薬取締法違反の初犯では、執行猶予は3年か長くても4年が多いが、海外での使用経験、入手ルートのあいまいさも踏まえ、異例の厳しい判決となった。(『IN版スポーツ報知』)■

麻薬及び向精神薬取締法違反の罪に関する今回の量刑は、そんなものなのだろうと思う。筆者には、懲役1年6月、執行猶予5年(求刑懲役1年6月)が重いか軽いかは判断できない。しかし、この裁判で明らかにされなかったのは、①危険薬物の入手経路、②いわゆる「空白の3時間」、③亡くなった女性の携帯電話がマンションの植え込みで見つかったこと――の3点につきる。筆者を含めて、国民の過半が不満を抱くのは、判決(量刑)にではなく、真相が明らかにされていないということに関してなのではないか。

筆者の推測では、これも何度も書いたことだけれど、①②③は密接に関係している。押尾学被告は、薬物を自分ではなく、亡くなった女性が所持していたと述べているようだ。今回の裁判でも、入手経路については明らかにされていない。それでいいのだろうか。押尾学被告は、薬物所持(=入手経路)の責任(=罪)を亡くなった女性に被せるために、救急車を呼ばずに、瀕死の状態の女性を放置していたのではないのか。現時点では、そのように推測するほうが自然なのであり、「死人に口なし」として、薬物の入手経路を明らかにせず、執行猶予で逃げ切るつもりなのではないのか。

■押尾被告の判決を受け、スポーツ報知ではホームページ上で緊急アンケートを実施した。同時に寄せられた意見では「こんな判決、何か裏で強力な何かが、あるような気がします」「実際に起きたことを正直に話しているとは全く思えない」と押尾被告の証言に疑問を唱える声が次々と上がった。世論は、押尾被告を許していないし、判決にも納得していなかった。判決を軽いと感じ、芸能界復帰にも「この上復帰となれば、芸能界は覚せい剤の温床と見なすべき」と芸能界全体に投げかける過激な意見も見られた。(同上)■

『INスポーチ報知』が緊急アンケートを行ったことは適正であり、そこに寄せられた人々の「声」も適正である。人々は、押尾学被告を許していない以上に、今回の裁判が真相究明に及んでいないことに怒りを覚えているのである。

■厳しいとはいえ、薬物使用での実刑は免れた押尾被告。だが、まだ再逮捕の可能性が残っている。保護責任者遺棄容疑での立件だ。公判では触れられなかった田中さんの体に異変が起こってから、119番通報されるまでの“空白の3時間”。警視庁捜査1課は、田中さんの死亡までの経緯と押尾被告の行動の因果関係について詰めの捜査を進めているという。(同課は)当初は、保護責任者遺棄致死罪の適用を検討。しかし、救急治療を受けたとしても、高い確率で救命できたかどうか立証するのは難しく、同致死容疑での立件は困難との判断に傾いている。そんな中、同被告の供述などから、田中さんに異変があってから30分以上生存していた可能性があり、捜査1課は保護責任者遺棄容疑の適用は可能と見ている。一部ではすでに捜査は終え、検察と今週中の立件に向け調整中という情報もある。同容疑で立件された場合は、実刑判決が確実だ。
◆保護責任者遺棄罪:保護責任がある者が、要保護者の生存に必要な保護をせず、その生命や身体に危険を生じさせる罪。遺棄の結果、人を死傷させた場合は同遺棄致死傷罪となり、重い刑により処断される。保護責任者遺棄罪は3月以上5年以下の懲役、同遺棄致死傷罪は20年以下の懲役となる。(同上)■

当局がなんらかの事情で押尾学被告の犯した罪を見逃し、真相を究明せず、執行猶予で逃げ切らせたとなれば、亡くなった女性の霊がうかばれることはない。これも繰り返しになるが、女性の容態が悪化したとき、押尾学被告の周りには、マネジャーや友人がいたといわれている。彼らも共謀して、女性を死に至らしめた可能性が高い。しかも、いま現在、彼らがマスコミに登場する気配がない。つまり、彼らの人道上の「罪」が問われることもない。普通に考えれば、死にそうな人が傍らにいたとしたら、救急車をすぐさま呼ぶのが当たり前ではないか。マスコミは、現場で押尾学と行動をともにした人物に取材して、そのときの様子を聞きだして伝えるべきだ。「酒井法子事件」にあれだけエネルギーを注いだ実績があるのだから、それくらいのことはできるはずだ。

2009年10月31日土曜日

移動しました。

時事評論( Current Topics )を移動させました。

よろしくお願いします。

2009年10月27日火曜日

魔術師マーリン

筆者は、テレビといえば、スポーツ、映画、ニュース・天気予報しか見ないのだが、最近、毎週見ようと思っている番組ができた。久々の「お気に入り」である。

その「お気に入り」は、『魔術師マーリン』(毎週月曜日午後8時、NHK衛星第2)。マーリンは、アーサー王伝説に登場する魔法使い。彼はアーサー王の危機を得意の魔術で、幾度となく救う。

さて、この連続テレビドラマは、キャメロット(アーサー王の城)を舞台に、ベンドラゴン一族(ウーサー王、王女モルガーナ、アーサー王子)、宮廷医師でマーリンの魔術の師匠ガイアス、マーリンに心を寄せるモルガーナの侍女ガウェイン、そして、アーサーに仕えるマーリンを登場人物とする、ホームドラマ仕立てになっている。

マーリンはしばしば、このドラマの中でもアーサー王(子)を助けるし、また、反対にアーサーに助けられることになっている。キャメロットを脅かすのは女魔術師で、彼女は黒魔術を駆使して、しばしば、キャメロットを危機に陥れる。マーリンとアーサーは、協力して、黒魔術を退ける。

しかし、いくつかあるアーサー王の物語(伝説)は、ホームドラマというわけにはいかない。不倫あり悲恋あり悲劇あり裏切りあり、の波乱万丈である。

さて、このテレビドラマでは、ウーサー王の統治する領土では「魔術」が禁止されている。だから、魔術を使った危機に対しても、ウーサー王は、ガイアスに対して、「科学的」にそれを解決させようと命ずるのである。それゆえ、ガイアスもマーリンも魔術を封印するのだが、結局は魔術には魔術で対抗することになる。筆者には、この筋書きがいかにも無理があるように思えるし、中世社会のおどろおどしさが薄れて、きわめて陳腐にうつる。

そればかりではない。また、しばしば、ウーサー王は息子アーサーに対して、統治とは、王道とは、国家(領地)とは・・・を説こうとする場面が出てくるのであるが、そうした場面は国会議員の「世襲問題」の馬鹿馬鹿しさが論じられるいまの日本において、はなはだ胡散臭い。この番組のマーリンは、近代化された魔術師マーリンである。だから、いくら、魔術がつくりだした怪物が出てきても、恐ろしくない。

などなど、いろいろと理屈でけちはつけられるのだが、ブリテン(英国)の地では、アーサー王伝説がいまなお伝えられ、生き続けていることが確認できるという意味で、筆者にとっては貴重なテレビドラマである。

2009年10月17日土曜日

あの素晴らしい愛をもう一度

ミュージシャンの加藤和彦が亡くなった。自殺だという。ご冥福をお祈りします。

デビューは3人組のグループで、「帰ってきたヨッパライ」という曲だった。CDのなかった時代、録音テープを早送りしたものだ。

自殺の理由はわからない。ただ、私のような凡人の目線からすれば、すべてをやりつくしたような人に見えた。

お金もたくさんあるのだろうし、のんびり暮らせばいいのにと思うのだが。

同世代のミュージシャンといえば、吉田拓郎などのフォーク歌手が思い出される。

けれど、加藤和彦は、フォークというカテゴリーにはおさまりきらない。

彼がやりたかったことと、いまの時代が求めているものは違うのかもしれない。でも・・・

2009年10月14日水曜日


@Yanaka

2009年10月13日火曜日

丸に善



@Yanaka

2009年10月12日月曜日

『1968〈上下〉』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●上下とも7,140円(税込)


 党派闘争で100名を超える犠牲者

本書上下巻を通じて、著者(小熊英二)が触れなかった問題意識について、以下の事項を挙げておきたい。
特筆すべきは、新左翼・全共闘運動の死者の数である。本書にしばしば引用されている『新左翼とは何だったのか』(荒岱介[著]。以下、『新左翼とは~』と略記。)によると、新左翼・全共闘運動の内ゲバで死亡した人数は100人超に達するという。内訳を『新左翼とは~(P186)』から引用すると、中核派による革マル派殺害が48人、解放派による革マル派殺害が23人、革マル派による中核派・解放派両派殺害が15人、ブント系では連合赤軍のリンチ殺人を含めて15人、解放派内部の内内ゲバで10人の死者が出ているという。なお、筆者の想像にすぎないが、革共同両派(中核派-革マル派)の内ゲバの犠牲者は、ここに掲げられた数を上回っているものと思う。
世界の近現代史において、反体制運動内部の抗争によって100名を超える死者を出した運動というのは、新左翼・全共闘運動以外にあるのだろうか。少なくとも国内には見当たらない。異常である。

生活者に多数の死傷者を出した新左翼運動

次に特筆すべきは、一般生活者に犠牲者が及んだことである。代表例として、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線「狼」班による三菱重工ビル爆破(三菱重工爆破事件)を挙げておく。この爆破で8名が死亡、385名が重軽傷を負った。類似の爆弾事件8件が起きている。これらの犯行は、新左翼・全共闘運動の延長線上であって、本書が扱う対象(1968年前後)から離れるという見方もあろうが、著者(小熊英二)の言う、「70年のパラダイム転換」に含まれるものと解釈する。

爆弾事件としては、1971年12月24日、東京都新宿区新宿三丁目の警視庁四谷署追分派出所付近にあった買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された時限爆弾が爆発。警察官2人と通行人7人が重軽傷を負った。その後、黒ヘルグループのリーダーの鎌田俊彦が出頭し、事件の全容が明らかになった。鎌田俊彦に無期懲役が確定した。

日本国内ではないが、1972年、日本赤軍兵士・岡本公三ほか2名が、テルアビブ空港にて民間人を中心とした24人を虐殺した。パレスチナ問題はイスラエルと臨戦態勢にあるという見方もあるため、国内の事件とは同質には語れない面もあろうが、付記しておく。

活動家の死と闘争の激化

第三は、新左翼・全共闘運動が活動家の<死>を契機として、運動が激化したことである。

最初は、60年安保闘争における樺美智子の死である。1960年6月15日、全学連主流派(ブント)の東大生樺美智子は、国会突入時に機動隊と衝突し死亡した。一人の女子大生の死は、新左翼学生運動の黎明期を象徴するものである。

二番目の死者は、1965年の奥浩平の自殺である。奥浩平については、本書上巻に詳しいので詳述はしないが、奥は中核派の活動家で1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺した(21歳)。高校時代からの恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属し、党派間抗争の激化とともに別離に至った。自殺の原因のひとつとして、このことに対する苦悩が挙げられる。奥の手記『青春の墓標』は、奥の死後、広く新左翼活動家の間で読まれた。

三番目の死者は、1967年の京大生山崎博昭(中核派)の死である。1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。このとき、新左翼は、はじめてヘルメットと角材で武装した。この闘争では死者1人、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。 以後、ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。佐世保、三里塚、王子と、本書では「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われることになる。有名な全共闘の闘争スタイルも、直接のルーツはこの10.8闘争にあるとされ、67年10月8日は革命的左翼誕生の日として新左翼史上特筆される。山崎博昭の死に触発されて、多くの学生が新左翼運動に参加した。

四番目の死は、1969年4月20日の華青闘活動家・李智成(台湾籍)の出入国管理法案に対する抗議の服毒自殺である。本書下巻では、李の死を「70年のパラダイム転換」として特別に扱っている。李の死を伴った抗議が1970年7月7日の華青闘による新左翼批判に結実し、自己批判した新左翼は、以後、マイノリティー(在日アジア人、沖縄問題、同和問題、リブ等)解放闘争を開始するとともに、新左翼の倫理主義的傾向(加害者意識、内なる差別)を加速させた。

五番目の死は、1969年7月のブント赤軍派の同志社大生・望月上史の死である。1969年7月6日、ブント内の赤軍派と主流派である仏(さらぎ)派との衝突後、主流派により中大内に監禁暴行されていた赤軍派・望月上史が逃亡の途中、中大校舎3階から転落、29日に死亡した。内ゲバによる初の死者である。赤軍派は、その登場から、死者を伴うものだった。

六番目の死は、1970年8月4日の革マル派学生・海老原俊夫の死である。革共同中核派の一団が、対立する革共同革マル派の教育大生・海老原俊夫を法政大学に連れ込み、先に被ったリンチの報復として、海老原を死に至らしめた。以降、新左翼各派の内ゲバは激化し、前出の『新左翼とは~』のとおりの死者数を出す契機となってしまった。

七番目の死は、1970年12月18日、日本共産党革命左派(以下、「革命左派」と略記。)・柴野春彦による東京・板橋の上赤塚署交番襲撃における死である。柴野は交番襲撃に失敗し、警官に銃殺された。革命左派は後にブント赤軍派と合体して連合赤軍を形成したが、この死は、革命左派の武装路線を運命づけたものだった。

八番目の死は、1971年8月3日~10日、連合赤軍からの脱退を意思表示した、早岐やす子と向山茂徳の処刑である。2人の処刑の経緯等は本書下巻に詳しいのでここには書かないが、この処刑が連合赤軍の山岳アジト総括リンチ殺人の直接的契機となったという。

権力側の死亡者

新左翼・全共闘運動における警備側の死は、日大闘争で起きている。1968年9月29日、先の4日の衝突の際に全共闘側の投石により頭部重症を負った機動隊員西条秀雄が死亡した。

三里塚闘争では、1971年9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)た。なお、1977年5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、機動隊員の放ったガス弾を至近距離で頭部に受けた支援者の東山薫は5月10日に死亡した。

1972年2月19日に始まる、連合赤軍による「浅間山荘」銃撃戦において、機動隊員2名、民間人1名が死亡した。これらの死者が、前出の著者(小熊英二)の“要因”におさまるものなのか。

演劇的革命闘争とメディアの影響

新左翼・全共闘運動が、日本の全大学生数の1割にも満たない者によって担われながら、全国の大学に波及したのか。その回答として(想像にすぎないが)、テレビ等のマスメディアの普及を挙げておきたい。新左翼党派の「革命理論」は、原理主義的マルクス・レーニン主義であった。新左翼を代表する2つの党派の1つブントの場合、67年10.21羽田闘争から1969年秋の「決戦」に至るまで、1960年安保闘争で獲得した一揆主義(行動主義)から一歩も進歩していない。また、革命的共産主義者同盟中核派においても同様である。彼らの戦略は、スケジュール化された街頭闘争において機動隊と衝突し、マスコミ報道があれば、労働者が覚醒し革命が近づくというものであった。革マル派の場合は、日本共産党に代わる、反帝国主義・反スターリン主義を綱領とした前衛党建設に運動を一元化したものの、彼らが建設せんとした「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」は、オールド左翼以上のスターリン主義政党であった。

しかし、新左翼の実態はともかくとして、本書が命名した「激動の7ヶ月」における三派系全学連と機動隊が衝突する映像がテレビを通じて全国に流れたとき、そして、彼らの「純粋性」が雑誌等を通じて全国に流通したとき、多くの意識的学生が心を惹かれたのである。ブントの一揆主義=演劇的武装闘争が市民権を得て、若者の心を捉えたのである。

学園闘争=全共闘運動はその始原においては、本書が明らかにしたように、地味な学内民主化運動、施設改善運動であった。しかし68年、日大闘争、東大闘争にスポットが浴びて全国に伝えられたとき、やはり、多くの若者の心を捉えたのである。そのとき、「自己否定」という倫理が若者の心を捉えたのである。69年1月、東大安田講堂攻防戦の落城までの模様が全国にテレビ中継されたとき、演劇的武装闘争は頂点に達し、全国の大学生のみならず受験生までもが、全共闘運動に興味を覚え、その年の4月以降、運動は全国化したのである。

残念ながら、街頭と学園の演劇的武装闘争は67年の秋から69年の秋まで繰り返され、結局その限界が自覚された69年末から70年代、新左翼党派は、倫理主義、決意主義のリゴリズムを強め、空想的革命戦争論へと傾斜した。本書のいう“パラダイムシフト”が始まったのである。赤軍派、革命左派、爆弾グループへと引き継がれ、最後は破滅したのである。

倫理的な痩せ細りの嘘くらべ

以下の吉本隆明の記述(「情況への発言」1984年5月『情況へ』収録)は、『吉本隆明1968』(鹿島茂[著])からの孫引き引用である。

こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。
(中略)
われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。
(中略)
幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか(P417~P418)
吉本隆明が批判した詩人の黒田喜夫は新左翼の活動家ではない。だがしかし、新左翼・全共闘運動の活動家、とりわけ、連合赤軍の活動家の実態が記された本書下巻を読むとき、両者がそっくり重なってしまうのである。吉本隆明は、“解放の理想とは、幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになること”だと看破した。

吉本隆明に従えば、新左翼・全共闘運動の活動家が運動から離脱し、企業に就職していったのは、中級の経済的・文化的な消費生活が獲得されたことを確認したからだろうか、倒錯の倫理、理念から逃れて・・・

『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)


□党派に吸収された全共闘活動家

下巻は、新左翼・全共闘運動の後退局面からその終焉が扱われている。学生叛乱の後退は、1968年「10.21国際反戦デー」からだという。同闘争では、社学同が防衛庁(当時六本木)に向かい、丸太を抱えて正門に突入を繰り返し機動隊と衝突、中核派等は米軍燃料輸送阻止をスローガンにして、新宿駅占拠を狙って機動隊と衝突、その騒ぎに集まった野次馬、群衆がなだれ込み、騒乱罪が適用されるほどの盛り上がりを見せた。同闘争に取り組んだ新左翼各派は、この派手な予想外の“騒乱”を「大勝利」と総括した。

しかし、実際には、これを期に政府の治安対策が強化されるとともに、マスコミ論調も「新左翼暴力批判」を強め、世間の「新左翼離れ」を加速したという。翌年1月の東大安田講堂攻防戦を境にして、4月28日の沖縄闘争をはじめ、党派による政治(街頭)闘争は成果を上げられず、重装備の機動隊によって、完全に抑え込まれた。1969年は、新左翼・全共闘が転換を強いられた年だという。

新左翼党派は、1969年秋の佐藤(当時首相)訪米阻止闘争(70年安保決戦)を「階級決戦」と位置づけた。9月の全国全共闘結成を契機として、学園闘争のヘゲモニーを掌握、ノンセクト全共闘活動家に対し、階級決戦への参加を呼びかけた。そのころ、期を一にして、学園闘争(バリケード闘争)は党派の侵食に伴い学生大衆は離脱し、ノンセクト学生は党派に吸収され、全共闘運動は形骸化していった。全共闘運動の黄昏である。

11月決戦当日、全国の全共闘を糾合した新左翼(革マル派を除く)のデモ隊は、羽田空港に近づくこともできず、待ち構えた機動隊・自警団の反撃により敗走し、多くの逮捕者を出しただけで撤退を余儀なくされ、「決戦」は新左翼側の敗北に終わった。67年10.8羽田闘争で開始されたゲバ棒、ヘルメットの新左翼の街頭闘争は事実上、終焉した。

□極限的倫理主義、武装闘争、憎悪(内ゲバ殺人)

1969年秋をもって党派に吸収された全共闘学生には、帰る場所はなかった。バリケードは解除され、学園は表向けの平常さを取り戻した。しかし、全共闘運動は終わったが、新左翼の革命闘争は終わらなかった。著者(小熊英二)は、この先の展開を、「70年のパラダイム転換」と命名している。

「70年代のパラダイム転換」は、それまで新左翼党派が関心を示さなかった、新たな政治課題への取り組みから始まったという。一般には、69年の「決戦」敗北後、新左翼党派の動きとして、爆弾闘争、赤軍派(よど号ハイジャック等)、パレスチナ解放闘争、内ゲバ殺人、連合赤軍事件(浅間山荘事件、総括殺人)へと向かうと考えられているが、本書は、そうした過激な傾向へと向かう動きと従前の新左翼・全共闘運動の中間項として、▽華僑青年闘争委員会(華青闘)による入管法反対闘争に代表される、アジア人差別・抑圧問題、▽沖縄問題、▽同和問題、リブ闘争――といった倫理的闘争の台頭を挙げている。これらの取り組みが、「決戦」後の新左翼活動家の倫理面を強く揺さぶった点を本書は強調している。本書の該当部分を引用して、説明しておきたい。

「決戦」に敗退し学園を追われた学生活動家は、取り組むべき政治的課題を見失い、茫然自失状態にあったという。そこに現れたのが、在日のアジア人や同和問題における被差別者からの問題提起であった。新左翼はこうした課題に取り組みはしたものの、中途半端に終始した。新左翼党派の無理解に対し、在日のアジア人活動家は激烈な批判を加えた。その批判とは、新左翼各派は在日のアジア人民を抑圧・差別する側にあるという告発であった。そして、69年には華青闘活動家の李智成が、自らの死をもって入管法に抗議をした。この事件は、当時も今もあまり知られていないが、本書を読むと、70年代に過激化した新左翼の武装闘争を促す直接的な契機となったことがうかがえる。新左翼活動家は、彼らの本気度に、怯えに近いものを感じたという。

つまりこういうことだ。日本はアジア太平洋戦争において近隣アジア諸国を侵略・蹂躙し、虐殺、奴隷化した。しかし、米軍(連合軍)の軍事力の前に屈した日本は敗戦国となった。しかし現在(当時)、日本国内には多数の在日アジア民族が戦時中、彼らの祖国から拉致・連行され、日本に住み代を重ねている。そして、敗戦国でありながら日本(人)は経済的繁栄を回復した一方、彼らを差別し抑圧し続けている。日本人は敗戦国被害者として戦後ふるまってきたけれど、実は戦中において加害者であり、敗戦後も加害者であり続けている――このような告発は、ベトナム戦争加担の論理よりもはるかにリアリティがあり、かつ、激烈な自己否定を多感で良心的な若者に迫るものだった。

そこから生じた倫理的反体制運動の新潮流は、既存の新左翼党派批判、非合法武力闘争路線、脱マルクス・レーニン主義の流れを形成し、その代表が手製爆弾闘争を実行した、東アジア反日武装戦線(大地の牙、狼、さそり)等のアナーキーな小集団であった。後に赤軍派と合体する日本共産党革命左派(京浜安保共闘)もこのような流れに属していた。小集団の過激なゲリラ的武装(爆弾)闘争は、新左翼党派にも影響を与えた。

同じ頃、新左翼党派においては、武装闘争路線が模索されており、69年9月、共産同赤軍派が革命戦争勝利、非合法武装闘争路線を掲げ、ブントから独立を宣言していた。69年11月の「決戦」における事実上の敗北を受けて、新左翼各派の内部に爆弾等の殺人兵器を製造・使用を目的化した、非合法部隊が創設された。ゲバ棒、ヘルメットの街頭闘争が抑え込まれた以上、武器をエスカレートする以外にない、というのが新左翼の総括であったという。

同時に、活動家の倫理性と純粋性が内ゲバの激化となって表象した。運動方針でことごとく対立したセクト同士の内ゲバで死者が出ることが珍しくなくなった。とりわけ革共同の革マル派vs中核派の内ゲバは陰惨を極めた。

□連合赤軍―倫理主義と軍事路線の不幸な合体
日本共産党革命左派(以下、「革命左派」という。)とブント赤軍派の結合は、不幸な合体であった。前者は新左翼党派のマルクス・レーニン主義革命理論とは相対的独自に集結した、しかも、自己否定、倫理主義を極限的に追及した者が構成する小グループであった。彼らの特徴は、銃=武器による暴力革命を志向する点にあった。彼らが武装蜂起をしたとしても、その後、労働者、農民とどのように連帯していくのかについては、一切明らかにされていなかったが。

彼らは前出の在日アジア人問題や被差別問題への取り組みを綱領としてはいなかったが、同派に結集した活動家のメンタリティーは、極めて倫理的であることがわかっている。

また、後者は、赤軍派指導者の過半が前段階蜂起準備中に官憲に事前検束され、しかも、残りのメンバーの指導者も日航よど号ハイジャック事件で国外逃亡していることもあり、闘争経験及び指導者の資質において劣る者(森恒夫)が残された活動家を束ねる必要に迫られた。その結果、武装闘争路線という一点において、両者が共闘を協議する機会をもったとき、前者の唯武器主義路線と純粋な倫理性という二点において、赤軍派は革命左派側に主導権を奪われることとなったのではないか。

本書では、連合赤軍による、山岳アジト総括リンチ事件について、多くの資料の読み込むことにより、その解明を試みている。著者(小熊英二)は、連合赤軍の悲劇を指導者の卑小な自己保身から生じたという趣旨の結論を引き出している。一方、この事件を知った新左翼・全共闘活動家及び知識人は、それとは異なる質の衝撃をもって受け止めた。多くの者は、この悲劇をスターリニズムの問題として考え、新左翼・全共闘運動から離脱した。

□著者(小熊英二)の“結論”について

著者(小熊英二)は本書下巻の「結論」において、1968年前後の学生叛乱の要因を、(一)大学生数の急増と大衆化、(二)高度成長による社会変動、(三)戦後の民主教育の下地、(四)若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望――の4点に要約している。そして、それらに新左翼の原理主義的マルクス・レーニン主義が融合したのだと。この結論に異議を挟むつもりはないし、当時の新左翼・全共闘運動とはそのようなものだったと思う。

1968年前後の叛乱に関わった学生たちの参加動機を示すキーワードとして、主体性、実存、自己否定、加害者意識、良心、反戦、疎外(の克服)、自分探し、現代的不幸(の克服)・・・といった、倫理観に近いイメージを列挙している。街頭闘争に参加した者にとって機動隊との衝突は実存の確認であり、ゲバ棒を振り下ろすことが主体性の確立であり、学園闘争におけるバリケード空間は自己解放、人間性の回復、真の学問の復権であり、全共闘運動による大学解体は、自己否定、加害者意識(の克服)といった具合である。

一方の新左翼党派にとっては、全共闘が運動の前面に押し出した“自己否定”は、プチプル急進主義であり、党派が目指す「革命的共産主義者」「プロレタリア的人間」「革命戦士」への飛躍こそが重要であると認識された。党派は、善良でナイーブ(うぶ)な学生大衆に対し、「プロレタリア的人間」へと飛躍するのか、それとも、「プチプル急進主義者」にとどまるのか、二者択一を迫った。

著者(小熊英二)が指摘するように、当時の大学とは(いまもそうかもしれないが)、冷たいコンクリートの塊のような校舎が林立し、その中の大教室で教授が棒読みの「講義」を行っていた。学生同士が、例えば、ベトナム戦争等の諸問題を議論する空間すら用意されていなかった。受験勉強を終え、大学に過剰な幻想を抱いて入学した学生に対し、大学が提供できるものは何もなかった。

上巻にあるとおり、そうした情況において、意識的学生はまず学費値上げ反対という学内闘争という形で叛乱を起こした。学内闘争には限界があるものの、日大、東大のように、社会的に大きな関心を呼び起こすものもあった。

そこに目をつけた党派は――彼らは1969年秋を「階級決戦」と位置づけていたのだが――学内に潜り込み、意識的学生大衆を組織化しようとした。党派のオルグが良心的学生に対して発した問いかけ(=世直し)が、有効性をもたないわけがなかった。“良心”を宿した“純粋”な学生たちは、入学早々、官憲が学内に導入される実態を目撃し、合法的街頭デモに参加すれば機動隊に蹴られ殴られ、「階級的暴力=機動隊」という抑圧者を明確に認識することはたやすい。そればかりか、地方から都会の大学に進学した者には、都会生活への順応のしにくさという感性が、疎外という概念と同義となった可能性もある。こうして蓄積された反体制的エネルギーが、階級意識や自己否定論、体制変革に向かった可能性を否定のしようもない。

だがしかし、“良心”を宿した“純粋”な学生たちが社会に対して抵抗したり、苦悩したりするのは、この時代に限ったことではない。古くは、『二十歳のエチュード』(原口統三)、『巌頭之感』(藤村操)など、“青春の書”と呼ばれる著作は枚挙に暇がない。本題の1968年前後の叛乱の主役たち(学生大衆)の心情と大きな隔たりはないのではないか。でも、この時代の若者は、結局のところ、新左翼党派の革命理論(革命言語)に吸収されてしまった。著者(小熊英二)が言うように、若者が自らの言葉を持たず、新左翼の革命言語に拠って自らを語り、行動しなければならなかった。

次に、本書が触れなかった視点から、新左翼・全共闘運動を振り返ってみたい。

2009年10月11日日曜日

猫その2


@Yanaka

2009年10月10日土曜日


@Yanaka

2009年10月7日水曜日

板マネキン



@Yanaka

2009年10月3日土曜日

『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)


□新左翼・全共闘運動研究の集大成

本書は1960年代に高揚した、新左翼・全共闘運動に係る研究である。収拾された膨大な資料(活動家及び関係者の著述物、手記、日記、ビラ、報道資料、回想、インタビュー等)を根拠として、1968年前後の新左翼・全共闘関連の模様が再現される。おそらく、これまで発刊された何冊かの新左翼・全共闘関連の著作物より、当時の叛乱の諸相が詳細に記述されているのではないかと思う。なお、ここでは便宜上、上巻について扱う。

本書の第一は、日本の新左翼党派の発生(1960年前後)から1960年代後半に至るまでの歴史的記述である。▽60年安保闘争前後、日本共産党批判から建設された前衛党・共産主義者同盟(ブント)の誕生と安保闘争への取り組み、▽60年安保闘争敗北後に生じた同同盟の分裂、▽革命的共産主義者同盟(革共同)の誕生から分裂(中核派と革マル派)、▽第4インターナショナル派、▽社会主義協会から分離した社会主義青年同盟解放派、▽構造改革諸派、といった、新左翼党派の複雑な動きが記述される。この部分は、後に発生する新左翼党派間の実力闘争(「内ゲバ」)を理解するうえで重要な基礎知識を読者に提供するであろう。

1967年、若者の叛乱の口火を切った、第1~2次羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争、王子米軍野戦病院反対闘争は、その中の三派系(社学同=ブント系、革共同中核派、社青同解放派)全学連によって担われた。本書は、これら一連の三派系全学連の街頭闘争を「激動の7ヵ月」と命名し、新左翼運動が大衆の支持を最も集めた闘争として特筆している。
 
第二は、新左翼党派の動きと相対的独自に生じた、学園闘争の動きである。前者と後者は截然とは分別不可能であるものの、運動の質という観点では異なる面と共有する面がある。前者は純粋な共産主義革命運動であり、後者は大学改良、改善、民主化運動を発端とした。両者が共有するものは、運動の担い手が主に学生大衆(=運動の拠点が大学)であったことである。また、日本共産党(その学生組織民主青年同盟及び戦後の左翼的知識人を含む)に代表される既成左翼を両者が否定した点も共通でしている。学内闘争は1960年代中葉から都内の私立大学において、学費値上げ反対等の要因により始まっており、学生全般の広い支持を得て展開された。

1960年代後半に生じた、いわゆる学生の叛乱は、新左翼党派と無党派学生が渾然一体となった運動として現象化したため、叛乱が切り開いた地平、提起されたまま残された課題、そして、叛乱そのものが孕む問題点等の整理を困難にしている。本書の顕著な特徴の1つは、新左翼党派と無党派学生の切り分けと融合に注意を払いつつ、両者が運動の実態上、分離と結合を繰り返したプロセスを明らかにしようと努めていることのように思える。この部分のわかりにくさが、後世の人々が新左翼・全共闘運動を考える場合の最大の難問の1つとなっており、本書は、それに答えるに十分な量と質を備えているように思う。

一般的には、新左翼党派は学内に発生した大学改善・改良問題に積極的に介入し、そこに参加した先進的学生を党派に取り込んだ(組織化した)と理解されている。学園闘争が生じなければ、新左翼運動があれほどの盛り上がりを見せることもなかったし、また、その一方、学園内の変革の意識の後退とともに、学生大衆が新左翼党派から離反を始めるとともに闘争は少数化・先鋭化を辿り、次第に閉塞状況に陥り、結局は、機動隊導入をもって幕を閉じる。このような循環が普遍的に見られるものの、その内実は、本書に詳述されているとおり、かなり複雑であり、そして、その複雑さを解明することが、新左翼・全共闘運動の【発生、活性化、高揚、停滞、衰退、先鋭化、暴力化、終焉】を把握する核である。


□東大闘争は特異事例か

著者(小熊英二)は、東大闘争にかなりの分量を割いている。東大闘争は、院生、助手、医学部学生といった、学部学生ではない少数の特異な階層(知識人)に属する者が始めた運動であったと規定する。そして、その特異な東大闘争が、1969年から全国の大学(高校闘争を含む)に波及した全共闘運動及びその後の新左翼運動の流れを決定づけた、ともいう。著者(小熊英二)のかかる視点を検証してみよう。

東大闘争の特異性を本書に従い、列挙しておこう。


  1. 院生・助手等といった特異な(観念的傾向が強い)階層が中心となった闘争であったこと
  2. 大学の自治に守られた、抑圧の少ない闘争であったこと=その結果、▽主体の形成、学生活動家の自己否定(論)が意識レベルから思想・運動論レベルに転じたこと、▽機動隊導入による封鎖解除が土壇場までためらわれたこと、▽治外法権と化した構内を舞台に、内ゲバ(新左翼―日本共産党、新左翼党派間)がエスカレート(過激化)したこと
  3. 共産党(民青)が闘争に強く関与したこと。併せて、新左翼と日本共産党(民青)が全面的にかつ暴力的に対峙したこと
  4. 事態収拾に文部省(当時)、自民党の強い介入があったこと(入試中止)
  5. 戦後民主主義、進歩的知識人の思想的立場に問題が波及したこと


(1)については、本書にも説明があるとおり、一般に誤解が多いので、ここで強調しておこう。マスコミが新左翼・全共闘運動を表層的にしか伝えていないため、注釈が必要である。

新左翼・全共闘運動というと、「団塊の世代」(概ね1947-50年生まれの者が中心)」という世代論的括りとほぼ同義語として、たとえば「全共闘世代」というように用いられる場合が多い。ところが、全共闘運動の代表格と思われている東大闘争の主役(ノンセクト)たちは――東大全共闘議長/山本義隆(1941~)、安田講堂闘争行動隊長/今井澄(1939~)、助手共闘中心メンバー/最首悟(1936~)――と、いずれも、60年安保闘争世代に属している。裏を返せば、本書に明らかなように、東大闘争において「団塊の世代」=全共闘世代の学生が東大内で果たした役割といえば、全共闘内部においてはクラス闘争委レベルにとどまり、もっぱら民青等との内ゲバ兵士にすぎなかった。また、党派に属する東大生や他大学の応援活動家にしても、他党派との動員数を競ううえでの頭数もしくは内ゲバ兵士程度の役割だった。

一方の新左翼党派(街頭闘争、学園闘争の区別なく)を指導した者も、「団塊の世代」以前の世代に属していて、東大闘争に酷似している。たとえば、本書に登場する党派の幹部を例に取ると、黒田寛一(1927-2006/革マル派)、北小路敏(1936-/中核派)、本多延喜(1934-1975/中核派)、神津陽(1944-/ブント叛旗派)、荒岱介(1945-/ブント戦旗派)、藤本敏夫(1944-2002/ブント関西派)、太田竜(1930-2009/第4インター派)、塩見孝也(1941-/ブント赤軍派)、田村高麿(1943-1995/ブント赤軍派よど号メンバー)、小西隆裕(1944-/同)、森恒夫(1944-1973/連合赤軍)、永田洋子(1945-/連合赤軍)・・・となっている。

「団塊の世代」に属する作家の三田誠広(1948-)は、早大全共闘運動に曖昧に参加した自らの体験を小説化して芥川賞を受賞した。小説から、彼が闘争の指導的立場になかったことがうかがえる。また、1967年の第一次羽田闘争で死亡した京大生・山崎博昭(1948-1967)も「団塊の世代」に属しているが、彼が街頭闘争に参加したのは羽田が最初で、もちろん、三派系全学連の指導層ではない。

東大闘争では学内闘争の諸問題に関わった者(ノンセクト)と、その後に形成された全学共闘会議の指導層が重複していて、しかも、他大学の全共闘運動と異なり、学部学生というよりも、指導層がマスコミ等の報道もあり前面に出ていたし、世間でもそう認識されていた。

新左翼運動全般における、[指導者―参加者]の世代的構造は、指導者が「団塊」以前の年代に属していて、街頭闘争の先頭に立ったのが「団塊の世代」に属する学生であったといってさしつかえない。東大闘争においても、全共闘幹部(指導層)が「団塊」以前の世代に属し、前出のとおり、内ゲバ闘争やクラス討論といったところでは、「団塊の世代」の学部学生が担ったわけで、これは当時の新左翼運動の特徴であって、東大闘争の特異性とばかりはいえない。もちろん、党派の指導層は院生、講師等ではなく「職業革命家」であるが、東大闘争は当時の新左翼運動と同じ世代的構造をもっていて、院生、講師等と「職業革命家」の差異がどれほどのものなのか――生活者からすれば、両者が知識人階層に属した猶予(モラトリアム)人間――であるという意味で、同一に見られてもおかしくない。


□東大は「体制」の象徴か
東大闘争の特異性とは、ノンセクト東大全共闘が、日大闘争と異なり、右翼及び機動隊といった体制側の強力な暴力装置との直接的衝突がかなりの期間、回避されていたことである(その理由は後述する)。かかる条件の下、ノンセクト全共闘幹部が純粋に(言葉を換えれば実験室のように)、自己の問題意識を深化させることができた。バリケードが思想の表現(実験)として、維持されたのである。その意味で、本書に引用されているとおり、日大全共闘メンバーが“東大闘争は「貴族の闘争」である”と指摘したことは妥当である。

ノンセクト東大全共闘(=幹部)が闘争の指導者と運動者を兼ねたとき、党派のように、プロパガンダという明確な運動目的はもてない。それゆえ、運動の目的(意識)は倫理的でリゴリズムとしての自己否定論に行き着いた、という著者(小熊英二)の指摘は正しい。本書の記録的叙述を読む限り、ノンセクト東大全共闘が自己否定論に行き着く過程は了解できる。だが、はたしそうなのか。新左翼運動の一般的プロセスからみると、東大闘争が自己否定論ばかりで引っ張られたとは思えない。が、しかし、そう確言できる資料は本書からはうかがえないということも付言しておくが。

東大闘争における特異性として注目すべきは、(3)の突出した動きを見せた日本共産党の動向である。本書にもあるとおり、1960年代中葉の学費闘争においても民青の運動参加が認められないわけではないが、不人気の少数中道左派の域を出ず、実力闘争に及ぶような積極策はとっていなかった。ところが、東大闘争では他大学の民青加盟員(学生、労働者等)を動員して、ゲバルト部隊(=あかつき部隊)を組織化し構内に派遣し、全共闘・新左翼党派と激しく戦った。当時、早稲田大学の民青員であった作家の宮崎学は、東大に出向き、「あかつき部隊」を指揮したという。しかも、日本共産党書記長宮本顕治(当時)委員長が学内闘争に直接指令を出したのも、東大が初めてのようである。

日本共産党が東大闘争に強く関与したのは、東大が日本の国家レベル(社会、行政、政治、文化)に強い影響力を持つ大学であるからである。東大の教授の中には、政府・自民党のみならず、資本主義、自由経済そのものを批判する勢力、すなわち、既成左翼(日本共産党、社会主義協会、構造改革派)の理論的指導者がいた。そして、大衆的勢力として、日本共産党及びその青年組織である民青が、事務職員労働組合、生活協同組合、学生自治会、東大新聞、文化サークル等の主導権を握っていた。東大自治会の幹部学生は、日本共産党の幹部候補生でもあった。東大は、旧左翼(主に日本共産党)の牙城であった。

体制側でもそれは同じことで、東大の事務方トップは文部省(当時)からの出向者だった。東大が、政治・行政・司法・産業界に人材を送り出す教育・研究機関であることはいうまでもない。幹部候補官僚の3割が東大卒業者で占められていたという。ところが、当時、大学を産学協同路線に組み込み、進捗する産業の高度化に対応する人材を輩出させようと図る産業界の要望の壁となっていたのが、「学問の自由=大学の自治」であった。文部省(当時)は、事務職に官僚を送り込むことはできても、大学当局=教授会を支配するにはいたらなかった。政府・自民党にしてみれば、学問の府=大学の自治権は、剥奪したくとも剥奪できない目の上のたんこぶのような存在であった。しかも、闘争初期に大学当局が機動隊をすぐさま導入したことが全学的反発を呼び起こし、闘争の拡大に火をつけたこともあり、以来、本格的な機動隊導入が土壇場までためらわれたのである。

大学当局=自民党政権は、初期の機動隊導入の失敗から、権力が下手に大学に介入すれば、戦前の軍部政権が大学自治を蹂躙し、思想統制を強めた暗い過去が引き合いに出され、政府が学問の自由、大学の自治を侵害したと非難されることを恐れた。学問の自由=大学の自治は、日本の大衆の意識に浸透しており、神話となって受け止められていたのである。であるから、以降、大学当局は、官憲の関与(機動隊導入)から大学を守ることが「学問の自由」=「大学の自治」であると考えた。東大闘争が泥沼化したのは、そのためだといわれている。当時の自民党政府も戦前の反省から、大学の自治権を尊重せざるを得なかった事情があった。

東京大学は、学問の自由=大学の自治の頂点に君臨する存在である。東大は「大学の自治」に守られた「進歩的」勢力(日本共産党等の既成左翼)の牙城でありながら、一方で、自民党政権を支える官僚制度、産業界の発展を支える人材育成・研究、技術開発を担うという、二重構造の教育・研究機関であった。東京大学の両義性=矛盾した存在は、日本の支配構造そのものの象徴であった。東大闘争が後の全共闘運動に波及したのも、そのことを全国の意識的学生大衆が理解したが故である。

換言するならば、東大全共闘が闘いを挑んだ対象とは、現体制(=政府自民党)であり、同時に、一見政府自民党と対峙しているかのように見える教授会=進歩的知識人=大学当局=既成左翼=戦後民主主義体制なのである。全共闘は、ときとして、現体制(政府自民党)よりも、大学の自治を金科玉条に掲げる大学当局、進歩主義的教授陣、民青(日本共産党)に対して、鋭い刃を向けたのである。本書は、東大全共闘の政治レベルにおける無展望ぶりや統治能力(ガバナンス)の欠如を指摘しているが、東大闘争に勝利があるとしたら、支配の二重構造を破壊すること以外にはない、と確信したノンセクト東大全共闘の思考回路は当然のように思える。だが、これとよく似た闘争のスタイルとしては、1960年、福岡県大正炭坑の反合理化闘争において谷川雁が率いた大正行動隊の組織論・運動論が挙げられる。東大全共闘の全否定、玉砕主義は、谷川雁の後塵を拝したにすぎない。


□東大は「革命ロシア」か

一方、東大闘争に参加した党派からみれば、東大の現状は、革命ロシアにアナロジーされたのではないか。そのことは、ロシア革命について若干の知識のある者であれば、即座に了解可能であろう。東大全共闘を構成した党派は、自らの立ち位置を「ロシア革命」におけるボルシェビキに見立てたのではないか。ボルシェビキの指導者レーニンは、メンシェビキ、エスエル等と党派闘争を闘いながら、ツアー政権を打倒した。

東大全共闘の党派メンバーが彼らなりの現状分析によって、この闘争を擬似的に、レーニン主義に基づき、認識していたのかどうかは本書からはうかがえない。そのような証拠がないのである。本書の資料によると、東大全共闘(ノンセクト、党派を問わず)が、闘争の前面に打ち出したのは、レーニンに自らを重ね合わせることではなく、“自己否定論”であった。東大生であること、東大の助手、講師等の教育者・研究者であること、現状の特権的自己を否定することであった。著者(小熊英二)はそれを、「思想的実験」と呼んでいる。東大全共闘のなかのノンセクトグループが自己否定論を前面に出し、マスコミもそれを積極的に報道した。ただ、前出のとおり、大正行動隊(谷川雁)の二番煎じに過ぎなかったけれど。

本書の資料を見る限りでは、当時、党派は東大全共闘の方針を表面上、否定も肯定もしていない。学部学生にも当然、党派の影響は及んでいたであろうが。ただいえるのは、レーニン主義を綱領化している新左翼党派にとって自己否定論とは、プチプル急進主義以外のなにものでもなかったはずであるし、また、革命的共産主義者(自覚の論理)であることを目指す革マル派にとっても同様であったであろう。しかし、繰り返すが、本書が収集した資料からは、党派が自己否定論を批判した証拠はない。

さらに、革マル派を除く新左翼党派にとっては、東大構内には彼らとイデオロギー、運動方針において対立する、“メンシェビキ・エスエル(民青、革マル派)”、構外には“反革命帝政(ツアー)政権(=機動隊)”という二重の敵を想定していたと類推されるのであって、構内に機動隊が導入されない限り、彼らの敵は、エスエル、メンシェビキ(民青、革マル派)に絞り込まれた。それまで東大闘争に参加しなかった中核派が東大全共闘に登場するに及んで、東大構内が観念の超微小的「革命ロシア」に変容した可能性はある。その結果、構内は無政府状態におちいり、内ゲバ暴力が支配するところとなり荒廃した。

「大学の自治」によって、機動隊の導入がためらわれている期間の東大は、ノンセクト系が自己否定論に自己陶酔し、党派系が観念の「革命ロシア」を想定していた場であったとするならば、東大闘争とは“狂気・錯覚”の場以外のなにものでもなかった。しかも、そのことは、既成左翼が守ろうとした「学問の自由」「大学の自治」によって担保されたのだったとしたら、なんとも皮肉である。しかし、そんな猶予期間が永遠に続くわけはない。やがて、東大闘争は、「安田講堂攻防戦」をもって幕を閉じる。

1969年1月18~19、日本中がテレビ中継で成り行きを見守った「安田講堂攻防戦」は、実態としては本書の記述のとおり、ノンセクト東大全共闘の手を離れ、新左翼党派による“プロパガンダ”として闘われた(演じられた)。学園闘争において、一般学生が闘争から脱落した後、学内闘争のヘゲモニーは新左翼党派に握られ、意識的学生を党派に呼び込む草刈場に転じることは、多くの大学でみられた現象であった。著者(小熊英二)が東大闘争の特異性とした事項は、機動隊による安田講堂封鎖解除を最後に清算され、ノンセクトの研究者らが牽引したノンセクト東大全共闘は、事実上解体した。(続く)

2009年9月23日水曜日

彼岸花


近くのU公園に彼岸花がたくさん咲いているというので、見にいった。花は盛りを過ぎたようで、美しくはなかった。


その後ろには大仏の頭。不思議な顔である。


帰り道、寛永寺によったら本堂が開いていて、公開法要が行われていた。本堂の中を初めて見た。






寛永寺の近くの浄明院に寄る。

2009年9月22日火曜日

読書計画変更

先般、『海と列島文化』全10巻シリーズを読破すると宣言しておきながら、わけあって、『1968』上下巻(小熊英二[著])を読むことになった。

同書も相当なボリュームである。内容は、1960年代後半から1970年初頭にかけて起った、「全共闘運動」の研究である。

同書読了後、『海と列島文化』第2巻からの再読を開始する。

『1968』を今年中に読み終えることができるかどうか・・・

2009年9月21日月曜日

『日本海と北国文化(「海と列島文化」第1巻)』

●網野善彦ほか(著) ●小学館 ●6,627円(税込)


日本は海に囲まれた島国。そのため、外界(外国)との交流が阻まれてきたという話をよく聞くし、日本は稲作中心の農業国だともいわれる。どちらも、日本についての常識的説明だと思われているのだが、根拠を欠いた俗論である。

古代(いまでもそうであるが)、海路は物流の大動脈である。また、農業以外を生業とした日本列島人が、それぞれの神を戴き、地域的権力(武力・統治力)をもち、中央政府と同調、また、拮抗した関係を築いてきた。海に生きる人々は、土地に縛られない、高い流動性をもって暮らしていた。あるネパール人は、「海に囲まれた日本が羨ましい」と筆者に言った。彼らは海(港)をもたないから、重要な物資をインドの港を経由して自国に持ち込む以外ない。そのネパール人は、インドへの依存度が高いことを嘆いたのである。

本書は「海と列島文化・全10巻」の第1回配本(1990)で、日本海と北国を扱っている。かつて日本列島の日本海側は“裏日本”と呼ばれ、冬は寒く豪雪となり夏は短く、「暗い」というイメージが支配的であった。いつの日か“裏日本”という呼称は使用を禁ぜられ、日本海側と呼ばれるようになった。また、日本海沿岸のいくつかの都市で拉致事件が発生したことでもわかるように、そこは大陸、朝鮮半島と一衣帯水である。日本列島の政治の中心地は長らく近畿にあり、17世紀以降、関東(江戸・東京)に移ったものの、ユーラシア大陸との接点という意味において、日本海沿岸の重要性はいまも昔も変わっていない。

さて、日本海を舞台とする海上交通の歴史は、古代以来の出雲(いずも)と越(こし)の二大勢力地域との交流があり、そこに大陸との直接交渉の窓口という特異性がある。本書には、そのことの具体例として、筆者が初めて知ったことが多数記述されている。たとえば、▽山形県最北の飛島という小島が、高麗、渤海、粛慎(みしはせ)、靺鞨からの諸外国使節を迎え入れていたこと、▽海驢(みち/日本アシカ)猟を生業としていた能登(舳倉島)の民、▽北の海の武士団・安藤氏、▽蝦夷地でアイヌを奴隷化した紀州・栖原家、▽蝦夷の民の3類(日ノ本、唐子、渡党)、▽金山で栄えた佐渡の相川の善知烏(うとう)神社祭礼。無秩序の混沌とした様子がうかがえる。相川には、全国から芸能の者が集まったという。いずれも、稲作を生業とした、「日本人」のイメージとも、かつて、日本海が“裏日本”と呼ばれていたイメージとも異なっていて、ダイナミズムとモビリティにあふれている。

2009年9月19日土曜日

LEVON HELM




久しぶりに、CDを購入した。リヴォン・ヘルムの「Dirt Farmer」「Electric Dirt」の2枚である。リヴォン・ヘルムは、筆者がこよなく愛した「THE BAND」の3人のヴォーカルのうちの一人であり、「THE BAND」ではヴォーカルとドラムを担当した。

「THE BAND」については、多くを語る必要はないだろう。ボブ・ディランのバック・バンドを務めたことが世に出るきっかけとなった。飛躍のきっかけとして、ハモンド・オルガンの名手・ガース・ハドソンがメンバーに加入し、音楽性における飛躍を成し遂げたことも挙げられよう。

「MUSIC from BIG PINK 」が大ヒットを記録。さらに、彼らの楽曲である「The Weight」が映画『Easy Rider』中の挿入歌として使用されメガヒットし、以降、ロックバンドとして安定した地位を築いた。その間、いくつかの伝説的コンサートも行った。彼らの解散コンサートの模様が、「THE LAST WALTZ」という記録映画となっていることはよく知られている。

「THE BAND」は有名になったけれど、メンバー同士は不仲だったといわれている。中でも、リード・ギターのロビー・ロバートソンとリヴォンは仲が悪く、「THE LAST WALTZ」がロビー主導で撮影されたことをリヴォンは快く思っていなかったという。ボブ・ディランはロビーのギターを賞賛したけれど、リヴォンは、ロビーのギターを“数学的”と評している。(『Levon Helm and the story of THE BAND』)リヴォンの土臭さと相容れないものがあったのだろう。

解散後、ロビーが抜けた「THE BAND」が来日したとき、筆者はもちろん、聞きにいった。そのとき、なぜかツインドラムの構成で、コンサート終了後、リヴォンはスタッフに肩を担がれステージから退場した姿が痛々しかった。

前出の「THE BAND」の3人のヴォーカルとは、リヴォンのほか、リチャード・マニュエル(ピアノ他)とリック・ダンコ(ベース)であるが、二人とももうこの世にいない。残ったリヴォンも咽頭ガンを患い、歌うことができなくなった、といわれていたのだが、奇跡の復活を成し遂げた。

復活後の最初のCD(2007)が、「Dirt Farmer」で、リヴォンの娘のエミー・ヘルムが、ハーモニーヴォーカルで参加。このアルバムは全曲ガチガチのカントリーで、マンドリン、フィドル、アコースティックギターをバックに、リヴォンが切々と歌い上げている。咽頭ガンの手術の影響であろうか、リヴォンの声はかすれ気味に聞こえるのだが、それがかえって哀愁を増している。

「Electric Dirt」は復活後の第二弾(2009)。こちらは、▽ブルース、▽アイリッシュ・トラッド、▽「THE BAND」時代が思い出されるロック、▽カントリー、と多様である。やはり、娘のエミー・ヘルムがハーモニーヴォーカルで参加している。ホーン(アルトホーン、チューバ、テナーサックス、トロンボーン、ソプラノサックス)を交えた重層的サウンド、力強さを増したリヴォンの声と、前作よりパワーアップしている。最終曲は、60年代の懐かしのプロテストソング「自由になりたい」(I wish I knew how it would feel to be free) 。さて、リヴォンはこの名曲をどんな風に料理したのでしょうか。

さて、過日、某FM局でリヴォンのこの曲がかかったのを偶然聞いたのだが、そのときのDJがこんなエピソードを披露してくれた。親日家の彼は、しばしばコンサートのため来日した。彼は、東京から福岡までの移動に新幹線を使用するよう頑強に主張した。もちろん、長時間の移動は非効率的であるし、体調にも影響をする。しかし、リヴォンは譲らなかった。

新幹線が広島に着き、停車時間が過ぎて発車したが、リヴォンは車内にもどっていなかった。心配したスタッフから連絡を受けた関係者が広島市内を探しまわり、リヴォンを見つけたとき、彼は広島の街中を泣きながら彷徨っていた。「俺たちアメリカ人が、この街(広島)にあんなひどいこと(原爆投下)をしたんだ・・・」

2009年9月11日金曜日

9.11

いまから8年前(2001)、米国ニューヨークのワールド・トレード・センター・ビルに旅客機が突っ込み、多数の死者が出た(「9.11事件」)。犯人はアラブ系イスラム原理主義グループの者だと言われている。米国ブッシュ(当時)大統領は以来、「テロとの戦い」を宣戦布告し、「ブッシュの戦争」を始めた。この事件の発生と並行して米国経済は活況を呈し、グローバリズム、新市場主義が世界を席巻した。

日本においては、小泉が首相に就任し、「構造改革」路線を掲げた。その結果として、日本経済も米国経済の活況に牽引されるようにミニバブルが発生し、米国流の金融の「高度化」の必要性が叫ばれた。しかしながら、昨年秋の米国のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックにより、世界同時金融不況が発生し、いま、米国、欧州、日本等が不況に喘いでいる。

この間、09年に米国では共和党政権から民主党(オバマ大統領)に政権交代し、日本も自民党から民主党への政権交代が成就している。そして、新市場主義、グローバリズム(米国流)が見直され、緩やかな保護主義と社会民主主義、環境保護主義が台頭し、世界的共通認識となりつつある。また同時に、米国・ブッシュ政権下、日本・小泉政権下で発生した格差の拡大と貧困層の増大に関して、見直し・反省・是正の機運が高まっている。

「9.11事件」は幾重にも悲劇が積み重なった事件である。ビル崩落で犠牲になったNY市民はもちろんのこと、その後の「ブッシュの戦争」の犠牲になった、戦闘地域市民、そして兵士たち。

同時に、「9.11事件」に並走した経済の歪みによって、貧困に至った市民たち。福祉切捨てによって、悲惨な生活を強いられた弱者たち。数え上げたらきりのないくらいの犠牲者が累々としている。

こうした累々たる犠牲者の発生の主因を、「9.11事件」にだけ帰せようとは思わない。けれど、結果論から言えば、米国が事件の発生を未然に防いでくれたら、と思うばかりである。米国ほどの軍事大国(軍事的情報収集力という意味において)が、なぜ、事件を未然防止できなかったのか・・・悔やまれてならない。

マイケル・ドイル(プリンストン大学国際関係研究所所長)に、「民主主義国家間の戦争は発生しない」(Michel Doyle, Kant, liberal legacies and foreign policy )という預言がある。軍事力に規定された「バランス・オブ・パワー」の國際関係論を超える預言として、筆者は、その到来を夢想する者である。「9.11事件」が筆者の夢想の到来を、少なくとも、10年遅らせた。

2009年9月4日金曜日

教会

昨日、伯母の葬儀のため、荻窪のA教会に行った。海外旅行ではカトリック教会に入ることが多い。その一方で、日本の教会に、しかも葬儀という宗教儀礼で参列したのは初めての経験だった。

伯母がキリスト教徒であったという記憶はない。入信したのかもしれないが、もしそうならば、自らの死を意識してからだろう。死因はすい臓ガンで、本人がそのことを告知されたのは、死の1月ほど前であったという。

生前、伯母は一人娘(筆者の従姉妹)が住む八丈島に長期間滞在していた。

2009年8月23日日曜日

挑戦

いよいよ大作『列島と海』全10巻の読破に挑む。本書は、網野善彦、谷川健一らの歴史学者・民俗学者が編集人となっていて、日本列島(日本国ではない)と海に関する研究を集大成したもの。第1巻は、「日本海と北国文化」。

「日本」及び「日本人」というものに対して抱く共同的イメージというと、稲作に象徴される農業に一元化される傾向にある。しかし、日本列島には、狩猟、漁業、商業、製造業…から芸能、宗教関係まで、さまざまな生業に従事する人々がいて、独自の法、掟、信仰等をもっていた。1960年代後半から、多様な日本像を再生する研究が、歴史学を中心に盛んになってきた。本書もそのような流れの中からうまれた。

挫折せずに読み終えることができるだろうか。

2009年8月22日土曜日

久々に二日酔い

昨晩、学生時代の旧友と久々に集まり、職場(市ヶ谷)近くで飲んだ。

これまた久しぶりに、ホッピーを調子よく飲んだためだろうか、今朝は頭痛とムカムカで起きられない。

ホッピーに白と黒があることを初めて知った次第。

2009年8月19日水曜日

『新編 明治精神史』

●色川大吉[著] ●中央公論社 ●絶版



明治維新(1868)をもって日本の近代化が開始されたことに異論は少ない。さらに、それが日本の民主化の開始ではないことにも異論はないはずだ。明治維新後、20年余を経過し、(欽定)憲法制定、(帝国)議会開設といった、表面的な議会制民主主義の体裁が整えられていったものの、国民による国民のための政治制度が定着するのは、アジア太平洋戦争の敗戦(1945)の後、すなわち、維新から数えて77年後ということになる。

■豪農層――自由民権運動の隠れた主役

欧米文化の急激な流入が、明治維新の大きな特徴の1つだ。19世紀末、欧州の主要国は市民革命を終えており、さらに、米国は英国の植民地から独立を果たしていた。維新後の日本には、市民革命の理念を説いた思想書が数多く輸入されていたし、翻訳も進められていた。維新後、欧米の進んだ技術の受け入れと同時に、欧米の啓蒙思想、政治思想、議会制度等の民主主義の紹介が進んだ。

その一方、明治10年前後、松方財政による重税とデフレ進行により、日本経済は深刻な不況に陥った。そして、不況の影響を最も強く受けたのが農民層で、彼らは維新後に台頭した金融業者から莫大な負債を負い、困窮に喘いだ。そのような中、封建時代から伝統的に農民層の上に立つ豪農層が、自由民権運動を担う一団として、運動の表層に現れるようになった。彼らは、徳川時代末期に自ら設立した教育機関である「塾」を基盤として、草の根レベルで、欧米の民主主義理念を研究し、欧米の民主主義を日本に定着させようと、働きかけた。彼らは維新革命を成し遂げた「英雄的」な薩長等の出身者とは接点をもっていない。中央においてはまったくの無名の者であり、後年においても、歴史の闇に埋もれてしまった者が多い。本研究は、彼らに光を当て、明治という時代に生きた、若き民権運動家の精神を蘇らせようとする試みである。

■民衆蜂起と自由民権運動

不況下、二つの勢力による、新政府打倒の機運が盛り上がった。その1つは、不平士族・豪農を主体とした「自由民権運動」であり、もう1つは困窮農民による武装蜂起だ。前者は、「西南の役」「佐賀の乱」に代表される士族集団による武装蜂起が挫折した後、国会期成同盟を契機として、政党を中心に政治闘争化した。後者は各所で起こった「困民党」の武装反乱に代表されるような、自然発生的民衆抵抗運動だ。自由民権運動と農民の武装抵抗反乱は、無関係ではないが、同一のものでもない。自由党解党により自由党員と困民党指導者が結合し、組織された暴力として武装蜂起に至ったケースもあるが、そうでないものもあった。留意すべきは、本研究が自由民権運動そのものの研究でもなければ、困民党等農民武装蜂起に関する研究でもないということだ。本研究は士族と農民の二つの勢力と微妙な関係を保った、豪農層の研究である。この点を踏まえないで本書を読むと、著しい不満を覚えることになる。

■明治初期の東京近郊多摩地域

本書は、東京郊外の多摩地区を拠点にした、2人の明治の青年の行動の軌跡を追った章から始まる。2人の青年とは、北村透谷と石坂公歴(まさつぐ)だ。2人は同時期、同地域(東京近郊多摩地区)において、わが国における自由と民権の実現の志を抱きながら、やがて袂を分かち、まったく別の道を進むこととなった。北村透谷は、彼が入党していた自由党が党の方針として武装蜂起を選択したときに離脱、以来、民権の志を内面化、精神化し、文学創造の世界に入っていった。彼は、明治維新後の民権と国権の問題を知識人の問題としてとらえ、知識人としてそれを思想化しようと試みた。しかし、享年27才の若さで自殺。彼が試みた思想の内面化のテーマは宙に投げ出されたまま、しかも、その問題意識を受け継ぐ者が不在のまま、前に進む事がなかった。

一方の公歴は目標とした自由と民権の実現のための活動から召還した後、官憲から逃れるため、米国カリフォルニアに亡命、明治政府を外から批判した後、米国開拓を志し、サクラメント地方に入植するも失敗、その後、米国を放浪した挙句、太平洋戦争の最中(1944)、カリフォルニア州のマンザアナの日本人収容所にて客死を遂げた。透谷は文学者として歴史に名を残したが、一方の公歴についてはまったく、知られることなく、歴史の闇に埋もれてしまった。本研究の意義の1つは、名も知れぬ活動家の半生を素描することによって、日本の民主主義運動の始原の活力を現代に蘇生することにある。

著者(色川大吉)の研究方法の特徴を大雑把に言えば、徹底したフィールドワークに基づいた点だろう。複数の研究者集団が手分けして広大な多摩地区の豪農を一軒一軒あたり、古い資料を採集し、収集した新資料と既存資料とを照合しつつ、それまで知られていなかった明治期の活動家を世に送り出すとともに、活動家を類型化し、その類型の中に日本近代の課題と希望(展望)を探る形をとっている。フィールドワークの間接的成果として、八王子市の古民家から、千葉卓三郎、深沢権八らによって起草された、「平民憲法」の発見も挙げられよう。

本書(新編)が刊行されたのは1973年だが、著者(色川大吉)が旧編(『明治精神史』)を世に出すためにフィールドワークを開始したのは1960年代初めに遡る。そのころといえば、安保闘争直後の前衛的政治運動の退潮期に当たる。安保闘争に取り組んだ日本の知識人の多くが、その敗北によって、思想的虚脱状態に陥った。著者がこの研究に没入した根底には、虚脱し停滞する日本思想の再生、とりわけ、日本の民主主義再生のため、維新期という近代の始原に回帰することにおいて、新たな光明を見出したいという願望と意気込みがあったはずだ。本書を読む者は、本研究の隅々から、明治時代の民権思想の歴史研究に従事する研究者(色川大吉)の熱意と矜持を感じるはずだ。日本の民主主義思想の萌芽を模索する、研究者(色川大吉)のエネルギーを受けとめるだけでも、本書を読む価値がある。

■豪農層研究における総合性の欠如

本書第3部「方法と総括」において、著者(色川大吉)自らが本研究への批判をまとめている。その中で注目すべきは、本研究の対象地域を多摩に限定した根拠が必ずしも明確でないという批判である。豪農層が日本各所において、自由民権運動を領導したのかどうかも、本研究からは明らかでない。だから、多摩とその他の地域とのネットワークの存在の有無も明らかではない。徳川時代の政治・経済の中心であった江戸の近郊である多摩という地域特殊性が、豪農の民権運動参入を育んだのかどうか、いわば、地域特殊性が北村透谷、大矢蒼海、石坂公歴、大矢正夫、村野常右衛門、秋山国三郎らを輩出したのかどうか。もし、そうならば、多摩の風土とはいかなるものなのかが、本書からはうかがい知れない。風土性を明らかにしていないという意味において、本研究には総合性が欠如している。

■豪農層の思想的限界

前出のとおり、本研究が発表された後に寄せられた不満・批判が、本書におさめられていて、著者(色川大吉)が寄せられた批判に答える形をとっている。それを読む限りにおいては、豪農層の思想的限界が本書に対する不満と重なり、本研究批判を加速した感がある。こうした不満と批判は、主に「マルクス主義」陣営側から、プロレタリア革命を志向する観点で発せられたように思う。左翼側からの、自由民権運動(もちろん本研究が発見した豪農層のものを含めて)の限界に対する批判は根強い。当時自然発生的に勃発した農民蜂起と、民権運動が結合するに至らなかったのは両者の限界であるが、どちらかというと、民権運動の限界性として認識されている。しかも、自由民権運動家の多くが、明治20年代において、超国家主義に吸収されてしまったことをたいへん口惜しく思うのである。もちろん、豪農層、士族に限らず、自由民権運動が歴史的に規定された運動であることは仕方がないことであって、後年の我々がいくらその限界性を批判しても始まらないのではあるが。

本研究に対する不満不平ではないが、筆者は明治維新(革命)を否定的にとらえる立場に立つため、豪農層の国家観・民衆観に失望を感じている。明治維新及び維新政府については、国民的文学者といわれる司馬遼太郎が捏造した維新史観、人物史観が大衆的に浸透していて、日本の近代化を客観的に評価する試行が国民レベルで妨げられている。筆者は、維新革命、維新政府(指導者)、維新期の自由民権運動家(抵抗勢力)を含めて、明治人の精神構造が、後のアジア・太平洋戦争に直結したと確信している者である。であるから、司馬遼太郎のように、維新革命を絶対的に肯定する立場(=「栄光の明治政府」という見方)に与しない。司馬遼太郎が垂れ流した、「栄光の明治政府」を相対化する意味において、本研究は最も重要な研究論文の1つであると確信する。本研究は維新政府に抵抗したといわれる、自由民権運動家のうちの豪農層の精神性を明らかにすることにより、民権運動家、すなわち、明治知識人の功績と限界を明らかにしようとする試みだと換言できる。

■豪農層民権家の横顔

しかし、シニカルに言えば、本研究のように自由民権運動(家)をいくら因数分解してみても、日本の民主主義、人民の権利獲得の道筋は見えてこないのではないか。自由民権運動とは、維新政府の権力が脆弱な明治10年前後に発生した、支配層内部における権力内闘争にすぎなかったのではないか。士族、豪農層とは、筆者からみれば、支配層内反対派である。だから、人民(people)による革命運動(ブルジョア市民革命)ではないし、もちろん、労農(プロレタリアート)による階級闘争でもない。維新革命を市民革命と規定するか否かに問題を還元することも、不毛である。

自由民権運動の担い手たちは、西欧を範としたモダニズムに基づき、議会制度や国会開設を望み、維新政府に異議申し立てを行った。ところが、明治20年前後を境として体制を整えた維新政府の強権化と、対外的緊張により高まった愛国主義により、彼らの民権運動は天皇制国家と臣民を待望する、超国家主義思想に収斂していった。

ところで、本書を読めば、このことは彼らの転向でも変節でもないことがよくわかる。けっきょくのところ、自由民権運動の担い手である士族・豪農層には、民衆の生活の困窮が視界にとどまることはついぞなかったのである。なぜならば、維新直後の日本社会とは伝統的階級社会のままであり、維新政府が身分制度を撤廃したところで、一夜にして平等社会が出現するわけもなかったからだ。士族や豪農層といった、社会の上層の青年に限り、学問の機会が与えられ、西欧の社会思想や政治制度が受け入れられ、反政府運動に参加する道が開けたのである。本書から、自由民権運動家である、豪農層のプロフィールを概観してみよう。

豪農層とは、根本的には漢籍の素養を下地して、西欧の近代思想を受け入れた者たちである。彼らが身につけた漢籍における理想的知識人像とは、草深い郊外に蟄居し、自然とともに時を過ごす隠者である。隠者とは、清貧を旨とするから、彼らの価値観からすれば、維新期に勃興した経済的自由人――新技術を駆使した製造業起業家、あるいは、近代的商業、金融業(参入)者(もちろん維新政府と特別な関係を有した「政商」を含めてだが)――を認めることはできなかった。認めないどころか、そのような者を軽蔑すらした。

しかも、彼らの配下にある農民は困窮に喘いでいる。農民層はとりわけ、金融業者から莫大な負債を負っていた。この惨状は資本の本源的蓄積によるものであるのだが、豪農層は国士(憂国の徒)として、農民困窮の事態を招き寄せた松方財政政策=維新政府及び新興ブルジョアジー(金融業者)に対して攻撃を開始した。とはいえ、軍事力は維新政府にあり、武装蜂起もできない。となれば、彼らに残された道は、反政府に賛同する者を集め、西欧の新思想を受容しそれを掲げて政道を説き、難解な言語で維新政府を攻撃する演説家=自由民権運動家となることだけだった。

自由民権運動というが、彼らは本来、民主主義者・人民主義者であるわけではない。彼らは、幕末から維新期に強まった過激な勤皇思想を十二分に受容していた。だから後年、彼らは、民権運動から召還して愛国的、排外主義的侵略主義者(帝国主義者)となった。豪農出身者、士族出身者を問わず、自由民権運動家は、維新政府の強権化、維新政府の富国強兵の進展とともに、必然的に天皇制超国家主義者として、自らを純化することが可能だった。維新政府の殖産興業が次第に現実のものとなり、日本中に工場が設立されるようになったとき、小作農民は土地を追われ、都市プロレタリアートに移行し、工場労働者として従事した。そのころ、明治政府は教育勅語、軍人勅語等を整備し、日清戦争に勝利していて、次なる国家的目標として、条約改正と新たな帝国主義戦争(侵略戦争)の開始を準備していた。自由民権運動はもちろん終焉していて、国士的運動家は、愛国的国家主義者へと変身していった。

以上が、明治の自由民権運動家の大方の精神の推移であり、それが大正・昭和を経て軍部主導の天皇制超全体主義国家の完成につながっていく。自由民権運動がこうした後年の不幸な歴史の抵抗体とならなかったことが、残念でならない。

2009年8月12日水曜日

最近の読書

『1Q84』(村上春樹〔著〕)を読んだ後、『道の手帖・谷川雁 詩人思想家、復活』を読み、読後、触発されまま、谷川雁のいくつかの評論等を読み直したりしていた。

そしていま、『新編 明治精神史』(色川大吉〔著〕)を読んでいる。同書はその本文はともかく、資料・引用が擬古文であるため、最初は辛かった。しかし、読み進んでいくうちに段々と慣れてきて、いまでは円滑に読み進むことができるようになってきた。

本書に引用された明治期知識人の擬古文、いわゆる、“書き下し文”というものは、文体として思想理解の空疎さを促進するような機能をもっているように思う。明治初期の知識人が漢籍の教養をもっていたことはよく知られている。筆者の感想では、西欧の論文が“書き下し文”で翻訳されたとき、あるいは、明治初期の知識人が西欧の思想についてコメントするとき、この文体が、誤訳・誤理解というよりも、原文のとても重要な何かを大きく損なうものとして、あるいは、肝心なものを置き忘れさせてしまうようなものとして、機能するように思えてならない。少なくとも、原文に対して、正しく即さない作用を及ぼすような気がしてならない。

日本語における漢字と“かな”の問題を直感で簡単に論じることはできないものの、少なくとも、明治初期の知識人は、西欧の諸思想をいまとは異なる精神性で受け止めてしまったことだけは確かだと思う。浅学の筆者には、その受け止め方の度合いにおいて、書き下し文・文体がどこまで影響したかは析出できないものの・・・

明治維新、維新政府については、国民的文学者といわれる司馬遼太郎が誤った歴史観、情報を大衆的に与えてしまっていて、日本近代史の相対的評価が妨げられてしまっている情況にある。同書は維新政府に抵抗したといわれる自由民権運動家の精神性を明らかにすることにより、民権運動家、すなわち、明治知識人の功績と限界を明らかにしている。筆者は維新革命、維新政府(要人)、維新期の知識人(抵抗勢力)を含めて、彼らの精神構造が、後のアジア・太平洋戦争に直結したと確信しており、司馬遼太郎の絶対肯定的=栄光の明治政府観に与しない。司馬遼太郎が垂れ流した、栄光の明治維新観を相対化する意味において、本書は最も重要な研究論文の1つであると確信している。

そればかりか、同書は、政権交代が囁かれる現代の政党のルーツに触れることも可能である。少なくとも、麻生太郎、鳩山邦夫のそれぞれの祖父・吉田茂と鳩山一郎は、自由民権運動の流れを受けて後年、政治の舞台に登場した者であり、いわば、当事者に近いのである。明治は遠くなりにけり――ではないのである。いずれについても、読後、詳しく書きたい。

2009年7月30日木曜日

男だって虹みたいに裂けたいのさ




というのは、谷川雁の詩の一節である。

日曜日、虹が2つ見えた。

2009年7月26日日曜日

絶不調に

土・日はいつも、午前中にスポーツクラブに行って汗を流すことにしている。

土曜は、胸、背中、脚、日曜が肩、腕、腹といった感じ。

昨日(土)は、ベンチ、背中、脚とも力が入らない。ガス欠のような感じで、重さが伸びない。

今日(日)は休むつもりだったが、軽めで、ストレッチの感覚で筋トレをやり、クールダウンで水中歩行と、脚のストレッチをやってきた。

ところが、家に帰る途中、歩き始めてから数分後、右脚に鈍痛。先週の火曜日、雨の日、トルコ料理、ビール、ワインを飲んで帰宅途中に出た痛みと同じものだ。

脚の付け根あたりの筋肉が壊れた感じだ。普段はなんでもなく、ちょっと歩くと痛みが出る。

安静しかないかな。

2009年7月23日木曜日

『帝国以後―アメリカ・システムの崩壊』

●エマニュエル・トッド (著)       ●藤原書店   ●2500円(+税)


アメリカこそが、世界にとって問題となりつつある

「アメリカ合衆国は、世界にとって問題となりつつある。」(P19)本書はこう書き出されている。刊行は2002年9月、米国がイラク侵攻(2003年3月)を行う前の年に当たる。その前年に「9.11事件」があり、米国はアフガニスタン侵攻(2001年10月)を開始していて、イラク戦争準備中であった。

“テロとの闘い”に向けて高揚した米国のようすが世界中に報道されるなか、フランス人の著者(E・トッド)は、アメリカ・システムの崩壊を明言した。実際のところ、以降の米国は、2008年秋のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックに始まる経済危機に見舞われ、今日、その経済・社会は混迷を極めている。本書は、そういう意味で、「米国の没落=帝国以後」を予言した感がある。

2009年、ブッシュが退任し、オバマが国民の期待を集めて新しい大統領になったものの、いまのところ、オバマ大統領の内政・外交政策はあまり明確でなく、米国が真に「Change」したかどうかはよくわからない。本書に従い、1990年代から2001年の「9.11事件」に至る本書の分析を現段階で読み込むことは、過去の名著を読むことではない。本書は、米国=帝国の崩壊が明確になったいまだからこそ、改めて意義をもつ。

「9.11事件」発生後の世界については、冷戦時代と変わらず、米国の存在を抜きにして語ることはできない。米国は、その友好国に対して、共産主義国家群の脅威に代わって、テロリズム(概ねイスラム圏と規定)や、イラン、北朝鮮の脅威に備えて、協力して対峙しなければならないと主張し続けている。友好国である日本、西欧、オセアニア等の先進国は、そのことにほぼ同調してきた。

米国を考慮しない世界平和構築の道筋が描けないものの、だからといって、米国が世界にいくつか現存する脅威に対し、総括的(帝国として)に拮抗しながら、世界秩序を維持する者であり続ける(米国=帝国による世界統治)という見解も成り立たない、というのが、著者(E・トッド)の見方である。

自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である

さて、著者(E・トッド)の世界観は、フランシス・フクヤマとマイケル・ドイルの立論に依拠している。フクヤマは、「歴史は意味=方向を持ち、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である」と、また、ドイルは、「自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である」という法則を導いた。トッドは両者の法則に賛同しつつ、その動因として、「識字化と出産率の低下という2つの全世界的現象が、民主主義の全世界への浸透を可能にする。」(P62)という法則を導き出した。ただし、世界には識字化と出産率の低下が認められない地域が残っていて、しかも、高い識字率が社会に定着するまでの過渡期において、その社会は軋みのように、暴力、内乱等の発生を伴うとも言っている。この考え方は、ポーランドの人口動態学者グナル・ハインゾーンが唱えた、「ユース・バルジ」の概念に近い。だが、著者(E・トッド)の世界観からすると、世界は今後、いくつかの地域においてなんらかの軋み、痛みを伴いつつも、民主主義の浸透と定着に伴い、戦争の発生の少ない、安定化に向かうことになる。

ところが、米国、とりわけ、ブッシュ前大統領の時代においては、イラクに侵攻し、パレスチナにおけるイスラエル軍の暴力を容認し、イラン、北朝鮮に軍事介入をほのめかし、さらには、イスラム圏のウズベキスタンに米軍を駐留させ、アフガニスタン、パキスタンに対して警戒心を募らせた。さらに、タリバーン、アルカイーダといったグローバルなテロリズム勢力との間断のない闘いを掲げ、軍事的警戒を緩めないでいる。米国は、唯一の世界帝国として、今日、世界を脅かす「暴力」「テロリズム」と対峙する責任を全うするといい、その温床となる(と米国が規定する)イスラム国家に軍事的侵攻を準備し続けるのである。

帝国の崩壊――経済的依存、軍事的不十分性、普遍主義の後退

著者(E・トッド)は、帝国(米国)のシステム崩壊について、「経済的に依存し、軍事的には不十分、そして、普遍主義的感情の後退」(P176)という、3つの観点を挙げる。

(1)米国が抱える巨額の貿易赤字

米国経済が自ら生産することなく工業製品は輸入に依存し、貿易赤字に窮しつつ、2008年秋までは、順調のようにみえた。米国は消費国として、世界の工業国から製品を輸入し続けていた。米国経済の順調の要因について、著者(E・トッド)は、世界中の金融資本の流入の増大によって支えられてきたという。世界のマネーが、米国に流入する理由は、米国が安全な投資先であるという思い込みと、金持ちのための国家(米国)という仕組みによる。米国がつくりだした金融のルール、会計基準をもち、世界最大の軍事装置という切り札をもっているためでもある。

(2)演劇的軍事行動

米国が核保有を含み、世界で最強の軍備を誇るということは通説に近い。しかし、米国社会は、他国を守るための帝国の戦争遂行の結果として、若い米国民兵士の犠牲者を出し続けることを容認しない。著者(E・トッド)は、ベトナム戦争後の米国の軍事行動を、「演劇的」軍事行動と呼んでいる。第一次イラク戦争、アフガン侵攻、イラク侵攻もそうであった。「演劇的」軍事行動とは、米国が負ける(もしくは米軍兵士に多大の犠牲を出す)可能性のある勢力を相手に選ばないということである。現在のところ、米国が勝てる相手がイスラム圏である理由は、イスラム圏諸国の軍事力が極めて脆弱なためである。ブッシュ政権の時代、米国が敵視したのは、イラク、イラン、キューバ、北朝鮮等であるが、キューバ、北朝鮮は小国であり、イラクの軍事力は米国の軍事力と比較すれば非対称的である。核武装を終えたイランは、(今年の大統領戦後、都市の若者を中心に混乱がみられたものの)、基本的には安定化に向かっている。著者(E・トッド)にいわせれば、世界の脅威とはなりえない国々ばかりなのである。

(3)普遍主義の後退

「悪の帝国」とか「悪の枢軸」とか、その他諸々のこの地上の悪の化身についてのアメリカのレトリックは、あまりの馬鹿馬鹿しさで――時とその人の気質によって――笑わせもするだろうし怒鳴らせもする。しかしこれは冗談で済ますべきものではなく、真剣にその意味を解読しなければならない。それはアメリカの悪への脅迫観念を客観的に表現しているのだ。その悪は国外に対して告発されるが、現実にはアメリカ合衆国の内部から生まれているのだ。(P170)


では米国社会内部に生まれている悪とは何かということになる。それを一言で言えば、普遍主義の後退ということになる。≪帝国というものの本質的な強さの源泉の1つは、普遍主義という、活力の原理であると同時に安定性の原理でもあるもの、すなわち人間と諸民族を平等主義的に扱う能力である。(P146)


普遍主義の対極には、差異主義がある。差異主義がアングロ・サクソンの統治の仕方の特徴だという見方もあるし、著者(E・トッド)もそれを認めている。大英帝国ではそうであったと。しかし、著者(E・トッド)は、「アメリカのケースは、普遍主義と差異主義という対立競合する2つの原理に対するアングロ・サクソンの二面性を極端かつ病的な形で表現している」(P149)と断言する。

米国の歴史には常に他者が存在した。そして、それらを壊滅させるか隔離する。最初はインディアン(アメリカ先住民)、そして黒人である。インディアンと黒人を排斥することで、アイルランド人、ドイツ人、ユダヤ人、イタリア人移民が(アングロ・サクソンの)同等者に取り込まれた。そして、日系人(アジア)、ヒスパニック、アラブ人・・・が、順送りに排斥・統合されてきている。この差異主義が、黒人大統領・オバマによって断ち切られるかどうかは今後の動向を見なければ、なんともいえない。少なくともブッシュ政権までは、世界のイスラム諸国に向けられた敵意は、米国社会内部のアラブ人に向けられているものに同調している。第二次世界大戦中、日系人が強制収容所に隔離されたことと変わらない。

ユーラシアとアメリカ

著者(E・トッド)は、ユーラシア(旧大陸)とアメリカ(新大陸)が対立軸に至るとはいわないまでも、歴史の長短を指標に、相容れないものと感知しているかのように思う節がある。とりわけ、ロシアとヨーロッパの接近を予言し、現に本書刊行後、急速に両者は接近した。

一方、先のG8では日本とロシアの接近は阻まれ、「領土問題で進展なし」が大々的に報じられた。ロシアはいまだ、日本の敵なのである。だが、ヨーロッパに近づいたロシアを警戒する米国が、G8を舞台に両者を明確に切断した結果だといえなくもない。日本はいまだに、崩壊する帝国のよき僕である。

イスラム圏が識字化と出産率の低下という動因をもって安定化するのならば、自由主義的民主主義国家が世界を覆うことだろう。米国の軍事的役割は今以上に低下し、戦争のない世界が実現するのだ。そのときこそ、F・フクヤマの「歴史の終わり」がやってくることになる。

2009年7月22日水曜日

『1Q84(1・2)』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●各1800円(+税)




『1Q84』(村上春樹[著])を遅まきながら、読み終えた。報道によると、本書刊行時においては、書店で品切れ状態が続いたという。筆者も村上春樹のファンで、数少ない同世代作家として、デビュー以来、愛読してきた。エッセイ、翻訳等を除いて、小説についてはすべて読んできたはずである。

しかし、ある時期のある作品をターニングポイントにして、あまり熱心な読者ではなくなってしまった。それが『海辺のカフカ』であったかもしれないし、それ以前のものだったかもしれない。

熱が冷めた理由がこちら側にあるのか、作家の側にあるのか、あるいはその両方にあるのか定かではないのだが、ここのところの村上作品に関しては、読み始めた途端に、“ああ、またか”という落胆のような感想を抱かずにはおれない。

ご承知のとおり、最近の村上作品は、現実社会の規範、法、道徳等を逸脱していることが前提となっている。荒唐無稽なファンタジーであり、関係性といったものが都合よく剥離されている。またその一方で、物質(商品)、歴史、感情、欲望といったものはリアリティーを失っておらず、両者のバランスが実に巧みであり、読者はリアリティーとファンタジーが混淆した“村上ワールド”を無理なく受け入れることができる。そのことを「仮想現実」(バーチャル・リアリティー)と表現してもかまわないのかもしれないが、小説という媒体の特徴として、TVゲームよりは現実の度合いが強まっているのではないかと思われるが、そのことはたいした問題ではない。

■1Q84=1984はいかなる記号か――

『1Q84』という本題がジョージ・オーウエルの『1984』に符合することは明らかである。同書は1949年に書かれたもので、1984年という近未来がスターリン主義もしくは全体主義に支配された様子を描いた。本書は、2009年から1984年という過去を描いたわけで、「Q」は同書のパロディの気分を持ち合わせている。つまり、オーウエルの予言は外れたと。

本書は前作に引き続き、知的エンターテインメント小説である。教養主義的レトリックが組み込まれていて、本書を読み終えた者には、さまざまな解釈が可能となる。筆者が知る限りでは、本書発刊後において、下記の解釈がなされていると聞いている。

▽魯迅の『阿Q正伝』の「Q」と、本題の1「Q」84の「Q」の符合が意味するものは何かという議論
▽この小説中で『空気さなぎ』をことあげした、ふかえりという少女を共同体の権力の一方の極である宗教的権威、すなわち、『魏志倭人伝』中の卑弥呼(巫女)に代表される女権に喩え、国家の起源を暗示するとの解釈
▽本書内に出てくるカルト教団の“リーダー”と主人公の一人・青豆とのやりとりの中に、前出の“リーダー”が『金枝篇』を引用しながら自らの死を望む展開は、文字通り、王権論そのものであるとの解釈
▽本書内の小説『空気さなぎ』のさなぎ=繭(まゆ)は、折口信夫が唱えた“真床追衾”をイメージすることから、天皇の生と死に関わりなく、天皇霊を絶え間なく継承する、日本の天皇制の起源を暗示するとの解釈

ほかにもあるようだが、それらを拾い上げてみても、本書の書評になりえないと思うので、例示にとどめたい。

さらに、読者が共有する歴史的記憶を喚起する本書の記述は、読者に対して、強烈なインパクトを与える道具として機能する。前出のカルト教団は、小説では、新左翼残党→「タカシマ塾」→「さきがけ」→「武闘派」と「コミューン派」へ分裂、武闘派→「あけぼの」→武装蜂起で壊滅、「さきがけ」は教団を設立――という変異を辿るのだが、この変遷は、新左翼(毛沢東主義派=連合赤軍)運動、山岸会、オウム真理教という反体制運動を連想させる。実際に存在した反体制集団を連想させるものを小説に登場させることは、読者の心中に理屈抜きの“おぞましさ”を喚起する効果がある。同様に、青豆の親が入信していた「証人会」は「エホバの証人」という宗教団体を連想させる。このように、現実と虚構が、作家のセンスによって微妙に調合されたのが、本書の全体的特長といえる。

“1984”とは、オウム真理教から喚起された年号(記号)だと解釈できる。前出の「さきがけ」は、著者(村上春樹)が、オウム真理教を意識したものである。オウム真理教は1984年、麻原彰晃(本名・松本智津夫)が後に「オウム真理教」となるヨーガ道場「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めたときである。著者(村上春樹)は、オウム真理教が1995年に起こした無差別殺人テロ「地下鉄サリン事件」の被害者等を取材し、『アンダーグラウンド』をまとめている。      

■欲望を肯定した結果、もたらされたもの

面白い小説だと思う、だが、危険な兆候も示している。この小説では、全開された欲望が物語の基底をなし、それが議論も懐疑もなく許容されているからである。

本書の面白さは、奔放なイメージにある。登場人物は、それぞれの欲望に規定され、道徳、善悪、倫理、法を超えてしまう。主人公の一人・青豆という女性は必殺仕置人である。彼女は、DV(ドメスティック・バイオレンス)に傷つけられた女性の復讐のため、男たちを殺害することが裏の仕事になっている。

もう一人の主人公、小説家志望の天吾という青年は、ふかえりというカルト教団のリーダーの娘がつくった話をリライトする内なる欲望に耐えられず、小松という編集者の企てに乗ってしまう。編集者小松も、世の中を騒がしたいという欲望のまま、天吾に不法行為をそそのかす。他の登場人物も概ね同様である。本書に登場する人物すべてが、道徳、善悪、倫理、法を超える。

そもそも、それらは欲望がもたらすリスクを制御するためのものだ。この小説は、共同体と個人が交わす法(手続き、規制)、セルフ・コントロール(道徳、倫理)を無視することをもって前に進む。この小説の主な登場人物は、一般的な性道徳を逸脱していて、そのことは欲望が全開されたことの象徴的表現だともいえる。

それだけではない。主人公の一人・青豆の幼馴染の親友(大塚環)、同じくシングル・バーで知り合った(あゆみ)、もう一人の主人公である天吾のセックス・フレンドの人妻(安田恭子)、カルト教団から逃亡した少女(つばさ)、そして最後には、主人公(青豆)までが死んでしまう。なぜ、女性の登場人物ばかりが「生きられない」のか。この作家の女性観が投影されているのかもしれない。

この小説では、法を超えた欲望が登場人物の置かれた環境に大きな揺らぎを与える。規制、社会的制裁、圧力等の関係がもたらす諸問題を簡単に捨象することが可能であるから、登場人物は自由である。たとえば、殺人はいとも簡単な行為となっている。19世紀のロシアの小説では、社会にとってまったく意味のないと青年が確信する高利貸しの老婆の殺害と、それによってもたらされた殺人者の青年の罪の意識が、長編小説を構成した(『罪と罰』)。ところが、一方の21世紀の“ムラカミ・ワールド”では、殺人の罪と罰が問われることはなく、女性主人公の属性の1つにしかすぎなくなってしまっている。簡単に人を殺せるスキル(技術)が、主人公の重要な属性になっている。そのことは、特別なパワーを付与されたテレビゲームのキャラクターと同じようなものであり、エンターテインメントとして、読む人に癒しや快楽を与える。

■パラレルワールドは後半、メルトダウン

この小説の特徴の1つは、「パラレルワールド」にある。2人の主人公、青豆と天吾の物語が交互に繰り返される。そして、2つの物語が重なり合い、やがて、青豆と天吾の純愛というテーマが浮上する。

青豆は、少女をレイプし続けるといわれている宗教団体の教祖(=リーダー)を殺害するというミッションを受け、リーダーと対峙する。リーダーは、自分が殺されることの交換条件として、青豆の命を差し出せ、そうでなければ、天吾を殺す、と青豆に迫る。青豆は、天吾を救うためリーダーの提案を受け、リーダーを殺害した後に自殺する。前出のとおり、純愛は貫徹される。

一方、それとはまったく別に、物語の後半では、天吾の出生の秘密と父権というテーマが唐突として出現する。それは、この小説のパラレルに展開された大部分の物語のどちらにも重ならない。青豆と天吾の双方の未来に関しては、リトル・ピープルという説明のない存在が関与している(らしい)と考えるしかないのだが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。というのは、リトル・ピープルに係る説明が一切なされないからである。

収拾のつかないままの“イメージ”が、作家によって小説の中に投げ込まれる。そして、まったく無媒介的に、説明のないまま、物語は終わる。天吾の父の死の床に、さなぎ(繭)に包まれ、10代の青豆が再生するという場面をもって。

こういう終わり方は、無責任な感じがする。作家が物語に関与するキャラクターを創造したならば、それらが果たす機能や役割を読者に明らかにするのが普通だと思う。この小説の場合、リトル・ピープルという説明のつかないキャラクターが、異物のように残される。それが作家の意図なのか、収拾のつかなかった結果なのかはわからない。説明できないもの、超越的なものなのだ、という考え方もあるかもしれない。運命や宿命はリトル・ピープルが操っているのだから、俗人の行く末はそれに任せろといっていることに近い。それだけで片付けるとすれば、けっきょくはシニシズムではないか。この小説(の登場人物)は、現実社会の倫理、規範、経験という、法を支えていた要となる実体を、相対的な差異を提示しあうゲームや戯れの中に、還元してしまうだけで終わっている。読者は、小説が提示する差異を楽しみ、かつ、癒されるのだが、実際は、差異をその内部で相対化しうる、実態の同一性に支配されているにすぎないのである。読者がそうであるということは、作家もそのような内部のなかで、小説を書きあげていることになる。

2009年7月16日木曜日

暑いな

梅雨が終わり、夏が来た。しかも、いきなりの盛夏の到来である。

そんなわけで、体調が悪い。まず、原因不明で、右足のふくらはぎあたりが、夕方になると痛み出す。もしかすると、レッグプレスのやりすぎか。

次に、夕飯後すぐに睡魔に襲われる。目が覚めると、午前1時前後だったりする。そこからもう一度、寝なおしになる。

2009年7月12日日曜日

選挙

きょうは都議会選挙。清き一票を投じてきた。

まず、筆者は都知事が嫌いである。生理的に好きになれない。議会が知事に対する勢力として、知事の打ち出す政策等に抵抗してほしい。とりわけ、新銀行の愚策を粉砕してほしい。

もちろん、この選挙は、総選挙に連動している。麻生政権はうんざりなのだから、政権交代のプロローグとして、自民党・公明党には勝ってほしくない。

2009年7月10日金曜日

アーサー王とイラン系アーリア人

昨晩は、衛星放送で映画『キング・アーサー』を見た。この映画が封切られたとき、ぜひ見なければと思っていたのだが、忙しさにかまけ、気がついたときには上演している映画館がなかった。もちろん、レンタルビデオという手もあるのだが、放置したまま記憶から薄れ、今日に至ってしまった次第である。朝刊のテレビ欄で『キング・アーサー』の放映を知ったとき、落し物が出てきたようなうれしさを覚えた。

さて、この映画の粗筋やら、スタッフ、キャスト等については映画専門サイトもあることなので、ここでは触れない。筆者が“おもしろいな”と思ったのは、この映画では、アーサーがサルマタイ人で、ローマ帝国の傭兵としてブリテン島に送り込まれた重装騎兵軍(騎士団)の長という設定であったことである。

以下、『アーリア人』(青木健[著]、講談社選書メチエ)に従い、サルマタイ人について解説をしておこう。

サルマタイ人というのは、前1世紀から後1世紀にかけて、ウクライナ平原に現れたイラン系アーリア人であって、同じイラン系アーリア人のスキタイ人とは異なる。サルマタイ人は、西アジアに進出を図ろうとしたスキタイ人とは異なり、東欧へ進出しようとして、ハンガリー平原でローマ帝国と交戦し、状況によってはローマ帝国の傭兵となった。傭兵の中には、ローマ皇帝・マルクス・アウレリウスによって、ブリテン島の北方守備に送り込まれた重装騎馬兵軍もあり、現在、イギリスではサルマタイ人の遺跡が出土しているという。

イラン系アーリア人とアーサー王を結びつけた研究として、『アーサー王伝説の起源』(C・スコット・リトルトン+リンダ・A・マルカー[著])が思い出される。

「アーサー王=サルマタイ人」説というのは、フランス人の中世学者ジョエル・グリスヴァルドが唱えたもので、現代のオセット人(コーカサス人)が保持する英雄バトラスの叙事詩と、15世紀にトマス・マロリー卿によってつくられた『アーサー王の死』とが類似することから導き出されたものである。そればかりではない。アーサー王の物語で重要な地位を占める騎士ランスロットの語彙は、“ロットのアラン人”ではないかという仮説が、マルカーによって提起され、「ランス・ア・ロット」を語彙とするケルト起源説に一石を投じた。アラン人もイラン系アーリア人の一派で、4世紀後半、フン族の襲来によって西方へ飛散し、ローマ帝国内に逃げ込んだことはよく、知られている。

こうして、リトルトンとマルカーは、グリスヴァルドの説を発展的に引き継ぎ、アーサー王の物語の起源は、イラン系アーリア人の文化にまで遡れるという趣旨の、『アーサー王伝説の起源』を書き上げた。

なお、同書の原語タイトル、From Scythia To Camelotは、誤解を生じやすい。到達点である「キャメロット(Camelot)」は、アーサー王の王国、ログレスの都のことで、アーサー王はこの地にキャメロット城を築き、多くの戦いに出陣したところであるから問題はない。ところが、出発点である「スキタイ(Scythia)」が誤解のもとである。サルマタイ人、スキタイ人、アラン人はイラン系アーリア人という次元では同類であるものの、活躍した時代にはずれがある。また、“スキタイ”という地名にも普遍性がなく、スキタイ人、サルマタイ人が生活圏とした地域は、ウクライナ平原の黒海沿岸地方であって、この表現のほうが正しい。

2009年7月9日木曜日

『自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来』

● グナル・ハインゾーン〔著〕 ● 新潮選書 ●1400円(+税)

ある地域(国家)の人口動態を分析してみると、15~23歳の人口幅が大きな幅(山)=総人口の30%以上)を形づくると時期があり、その幅(山)をユース・バルジという。ユース・バルジが現れた地域(国家)では、戦争、内戦、動乱等が発生する。(もちろん、ユース・バルジが現れるためには、急激な出生数の増加が必要であるから、その前に、いわゆる、ベビーブームが起こっていることになる。)。


つまり、一人の男(父)が結婚して子供を2人以上設ければ、二男、三男・・・は相続の対象からはずされ、「ポスト」を求めて争う。「ポスト」を求めるユース・バルジは戦闘能力の高い青年層であるから、そのエネルギーが戦争、内乱、動乱等を発生する。――本書の要旨を大雑把にいえば、こんなところだろう。

古代、ヨーロッパではゲルマン民族の移動が起り、ローマ帝国の衰亡を招いた要因の1つに数えられている。民族移動の主因が人口増(本書流にいえばユース・バルジ)であったかどうかはわかっていないが、人口増だとする説も有力である。

また、10世紀から250年間にわたって行われた、西欧諸国によるイスラム圏に対する十字軍派兵の背景には、そのころの西欧における農業技術の高度化による食糧事情の安定があるといわれている。食糧事情の安定により出生率が高まり、若年人口が増加したとき、長男以外の二子、三子…らが居場所を求めて東へ動き始めた、という説明に説得力がないとは言えない。

また、本書では、15世紀に開始された大航海時代とそれに続く西欧の南北アメリカ、オセアニア、アジア等に対する植民地支配の歴史をその証明事例に用いている。本書は、西欧が世界の覇権を握ることになるエポックメーキングな年を、1493年(コロンブスの新大陸発見の翌年)に求めている。

本書による、大航海時代の西欧の人口推移は以下のとおりである。
コロンブスを生んだポルトガルの場合、100万人(1500年)から200万人(1600年)にほぼ倍増、スペインの場合、600万人(1490年)から900万人(1650年)に1।5倍の増、オランダの場合、70万人(1490年)から200万人(1640年)に3倍増、イギリスの場合、350万人(1450年)から1600万人(1600年)へと4倍強に増加しているという。(本書・P159~P170)

地球規模のパワーバランスの大転換が15世紀(1492年のコロンブスによる新大陸発見)であったという本書の指摘については、筆者も賛同したい。だが、本書も指摘するとおり、西欧が大西洋を西に目指さなければならなかった理由は、東側をチュルク(オスマン・トルコ帝国)勢力によって封じ込まれたためだ。

1453年5月29日、オスマン帝国(オスマン・トルコ)のメフメト2世によって、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡している。古代からのローマ帝国が最終的に滅亡したのだ。このことは何を意味するのかといえば、古代からヨーロッパ世界が覇権を握っていた地中海が、アジア=チュルクによって奪い取られた、ということである。西欧は、東方(地中海の覇権)を失ったから、西方(大西洋)に転ぜざるを得なくなった。そして、「新大陸」を発見したのである。が、しかし、コロンブス(西欧)が目指したのは、あくまでも東方=インドであって「新大陸」ではなかった。コロンブスが、新大陸がインドでないことを知ったのは、発見後、しばらく経ってからであった。

日本の場合、明治維新(1868)後、すなわち江戸時代(封建制社会)が終わり、近代社会が開始されたときの総人口が3,500万人であったものが、日清戦争、日露戦争、朝鮮半島併合、中国進出を経て、真珠湾攻撃開始時(1941)における総人口は7,500万人にまで膨張していたともいう(P188)。このような人口増に伴って、当然のことながらユース・バルジもほぼ相関して増加していることになる。

また、日本では、アジア・太平洋戦争の敗戦直後(1947~1950)、ベビーブームが起こり、1960年代になって、その人口分布にユース・バルジが現れた。その世代は、日本では「団塊の世代」と呼ばれ、1960年代後半、火炎瓶、木材(当時「ゲバ棒」といわれた。ゲバとはゲバルトのこと)、投石等を伴った、過激な学生運動が引き起こされている。

日本においては、19世紀末から20世紀初頭にかけたユース・バルジ現象がアジア・太平洋=侵略戦争を引き起こし、その一方、20世紀中葉のユース・バルジ現象は、急速な経済成長と学生運動(=サブカルチャーの活性化)という、国内異変を引き起こしたことにとどまった。事象はまったくちがうものの、ユース・バルジが、日本の現代史において、特筆すべき「異変」を引き起こしたとはいえる。

米国でもほぼ同時期にベビーブームが起こり、1960年代後半、彼らは「ベビーブーマー」と呼ばれるユース・バルジとなって、公民権運動、ベトナム反戦運動等の政治運動と、自然回帰を目指したヒッピー運動と呼ばれるコミューン運動をほぼ同時期に繰り広げた。ただ、この時期、米国の場合は日本と違って、米国政府がベトナム紛争に積極介入し、社会主義国家である北ベトナムに対する軍事行動を起こしていた。米国のユース・バルジのうち、学生を中心とした上層階級は国内で反戦運動・ヒッピー運動を展開し、その一方、徴兵に応じた下層階級はベトナム戦争に従軍したのである。

さて、本書は、ユダヤ(米英)側による、ユダヤ的世界戦略に基づく、イスラム圏攻撃の正当化を目的としたものだと考えられる。

本書の趣旨を別言して繰り返せばこうなる――ユース・バルジを抱えるのはイスラム圏だ、だから、イスラム圏は、(西欧が大航海時代に行ったように)、世界制覇を目論むに違いない、だから、非イスラム圏(西欧、北米、中国、インド、東アジア)は、共同して彼らに立ち向かう努力(=武装)を怠ってはならない、と。

今日、内戦、内乱等を抱える地域(=発展途上国)というのは、国内産業が未成熟なため、弱く不安定な経済力しか持ちえず、そのため、国内に抵抗勢力を抱えることになってしまう。それらの地域の人口分布を見ると、いわゆる“先進国”とは異なるのであって、人口分布も国内の不安定要因の1つであるともいえる。発展途上国の多くがなぜ、今日のような脆弱な経済力しか持ち得ないのかといえば、本書も指摘するように、15世紀から開始された西欧側による植民地支配があり、西欧側による収奪があったことも大きい。植民地支配におけるモノカルチャー、さらに、西欧を中心とした資本主義経済の発展がグローバルな経済格差を生じさせた。そのような地域が、イスラム教圏であるところの、中東、アフリカ、アジアの多くであり、イスラム圏以外では、インド(ヒンドゥー圏)、東南アジア等(仏教圏)、南アメリカ(カトリックキリスト教圏)である。そのような地域を西欧=北に反して、「南」と称する。そして、かかるグローバルな格差を「南北格差」といいい、その問題を「南北問題」と称している。

本書は、悪意ある、反イスラムキャーンペーンの書である。本書の悪意は、ユース・バルジを今日のテロリズムと結び付けている点にある。人口減少に陥ったヨーロッパ先進国が移民を受け入れざるを得なくなった。本書によると、その移民の二世たちがテロリストになるのは、彼らの母国がユース・バルジを抱えているからだ、というのである。移民の出身地(母国=イスラム圏)の人口分布がユース・バルジを示しているから、移民の子供たちもまたユース・バルジであり、危険な存在である、と。このようにして、西欧の移民受入国の国民を、移民排斥もしくは移民差別へと煽動するのでる。本書は、“ユース・バルジ”という人口マジックを用いた、イスラム蔑視の“とんでも本”にすぎない。

2009年7月7日火曜日

大阪


昨日、大阪から戻りました。(土・日・月)

仕事場は中ノ島の某会議場。ホテルは隣接するRRホテル。高級イメージのRRホテルですが、朝食付き一泊7500~8000円とかなり値ごろ感があります。

川がきれいなところですが、ハコモノが林立して、潤いのない地域。

そんなわけで、福島駅ちかくまで歩いて、居酒屋で、牛筋(土手焼き)、バッテラをいただきました。

2009年7月1日水曜日

大須観音

尾張名古屋の注目スポットといえば、大須観音商店街でしょうか。東京の下北と巣鴨を併せたような、新旧が両立する、混沌としたところがいいです。

なんといっても大須観音


なんのお店でしょうか。


名古屋B級グルメの代表格




渋い大須演芸場



2009年6月27日土曜日

『吉本隆明1968』


●鹿島 茂 ●平凡社新書 ●1008円(+税)

1960年代後半、学生を中心とした全共闘運動及び新左翼運動の高揚期、吉本隆明の著作が多くの学生たちに読まれた。著者(鹿島 茂)は、本題の示す1968年に大学に進学した団塊の世代に属していて、その年、吉本の文芸評論に触れて心酔、以来、自分を“吉本主義者”と規定し、本書の執筆に至ったと本書内において告白している。

本題の「1968」という記号は、新左翼学生運動・全共闘運動に参加した世代からすれば、運動の最高揚期として受け止める者が多いであろうし、また、著者(鹿島 茂)のように、吉本隆明に初めて遭遇したメモリアルな年であると受け止める者もあろう。いずれにしても、「1968」は、団塊の世代にとって、そのときの情況をもっとも強く象徴する記号になっている。「1968」が意味するものについては後で触れる。

吉本隆明が当時の若者(=団塊の世代)を中心とした大量の読者を獲得し得たのは、そのときの学生運動の一時的高揚と、その後に訪れた急激な退潮という、極端に相反する情況と無関係ではない。

反日本共産党系左翼運動に参加した学生(全共闘運動を含む)たちを一括して“新左翼”と呼び、新左翼は、吉本が批判した旧左翼(日本共産党を含む世界の前衛党)と対立する立場をとった。新左翼は反日共系もしくは反代々木ともいわれた。日本共産党本部は東京・代々木に当時もいまもある。新左翼は、旧左翼として、ソ連共産党、日本共産党のみならず先進国の共産党すべてを否定した。その理由は、旧左翼=スターリン主義こそが、世界革命の阻害物だからだという理由からだ。新左翼党派の1つである革命的共産主義者同盟(革共同)は、「反帝・反スタ」を綱領に掲げた。当時の新左翼学生は、反スターリン主義という視点から、吉本隆明が文芸評論の中で展開した「転向論」における、日本共産党幹部、日本共産党系文学者及び社会学者への批判を当然のごとくに受け入れた。

しかし、本書が示すとおり、吉本隆明のスターリン主義者批判は、新左翼各派とは異なっていて、旧左翼前衛党幹部に内在する転向・非転向の問題を、新左翼のように、革命の方法論もしくはマルクス主義解釈の問題としてではなく、日本型知識人の問題として扱った。

吉本隆明が多くの若者に支持された理由は、吉本が日本共産党幹部(スターリン主義者)批判の急先鋒の立場をとったからだけではない。それよりもむしろ、学生運動の後退局面――多くの学生運動参加者が脱落したとき――彼らの離脱の正当性と、その拠り所として、吉本隆明が読み込まれたことによる。

本書では、吉本の初期評論である、転向論、高村光太郎論、「四季」派批判、ナショナリズム論(大衆の原像を含む)が扱われている。著者(鹿島 茂)が吉本の著作をいかに読んだかについて、著者(鹿島 茂)自身の出自、当時の境遇を交えて表明し解説する形式をとっていて、吉本隆明の解説書としては気負いがなく、わかりやすい。

著者(鹿島 茂)が横浜の酒屋の出身(=庶民階級)であることと、吉本が東京・下町の船大工の出身(=庶民階級)とがほぼ同一であることをベースにして、庶民階級出身者が高度な教育を受け知識を得て知識人となることで抱える二重性という概念が、吉本思想のキーワードの1つであると説明する。

吉本の初期の評論の内容については本書で解説されているので、ここでは触れない。そうではなくて、いまいちど「1968」という記号に戻って本書を考えてみたい。まず、吉本が既成左翼を過激に断罪する思想家として、「新しい左翼」に迎え入れられたのが1960年代だということ、ところが、68年を頂点にして、新左翼学生運動は退潮し、以降の吉本支持者は、学生運動から脱落した者であったということ――は既に述べた。この傾向を重視したい。

1969年以降、学生運動から脱落した者は、吉本隆明が提出した大衆の原像、生活者という概念を読みとることによって、敗北を自らに納得させたのではないか。吉本隆明を読むことによって、学生運動から離脱した後ろめたさから救われたのではないか。「1968」という記号を冠する意味はそこにあるのではないか。著者(鹿島 茂)が吉本隆明の著作に初めて触れた年だという意味だけならば、それは個人的シーニュにとどまる。

全共闘・新左翼運動から日常に戻った学生たちは、吉本によってどのように救われたのか――吉本は、本書にもあるように、前出の革共同を批判した。「反帝・反スタ」を綱領化したからといって、その前衛党がスターリニズムに陥らない保証はない。すなわち、吉本は新左翼学生が参加した、当時の新左翼=反スターリン主義を掲げた前衛党こそが、スターリン主義にすぎないことを60年代初頭に明らかにしていた。学生運動から脱落した学生たちは、自らの政治参加が必ずしも正しい選択ではなかった理由を、吉本の著作によって確認した。新左翼運動=反スターリン主義運動だと確信して参加した全共闘運動・新左翼学生運動のほうが、より厳格なスターリン主義だった。だから、そこから離脱することは、誤った選択ではない(かもしれない)と納得し得た。著者(鹿島 茂)は吉本の著作の一部を引用して、次のようにまとめている。

吉本は、(中略)スターリニスト崩れのデマゴギーよりも危険なのは、心底真面目で、どこまでもマルクス主義の理想に忠実で、すべてを耐え忍んできたことだけを生きがいにしてきた詩人・黒田喜夫のような存在であるとして次のように述べています。いささか長めですが、これは吉本思想の核の核に当たる部分ですので、しっかり読んでもらいたいと思います。


以下、『情況へ』(宝島社、1994、吉本隆明[著])から引用――

こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。(中略)われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方が根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。(中略)幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか。(P417~P418)


詩人・黒田喜夫のところに、新左翼運動指導者の像を代入すれば、1968年以降の新左翼学生運動が辿ってしまった悲劇がそっくり、出力する。新左翼の闘い方、新左翼運動家自身の心性、闘いが目指すもの、新左翼が掲げた綱領、倫理性、そして倒錯まで・・・そのすべてが吉本によって否定できた。そうなれば、自分たちが新左翼学生運動から脱落したことは、残って闘い続けている学友に引け目を感じることなく、けして間違っていないのだ、という安堵感が得られた。学生運動から脱落し、生活者として市民社会に潜入することはいたしかたないのだ、“先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者を目指すことが解放なのだ”と。

図らずも、1970年以降、先鋭化した新左翼党派は、内ゲバ、リンチ殺人、爆弾闘争、無差別テロ等に進み、日本の反体制運動の歴史に例を見ない多くの犠牲者をだして自滅した。それは、ロシア・東欧におけるスターリン主義国家群の消滅より早かった。吉本隆明の指摘どおり、新左翼が反スターリニズムを掲げながら、旧左翼よりも急進的スターリン主義に染まっていたことは明らかだ。

さて、著者(鹿島 茂)の問題意識は初期の吉本隆明の転向論・ナショナリズム論の解説だけにあるわけではない。著者(鹿島 茂)の本書執筆の動機及び目指すものは、本書の最後の「少し長めのあとがき」において明かにされる。

著者(鹿島 茂)が目指す方法論は、自らが属している「団塊の世代」が起こした全共闘運動・新左翼運動を解き明かすことだということを、吉本の思想を絶賛した本文を終えた後の「少しながめのあとがき」において、エマニュエル・トッド、グナル・ハインゾーンという2人の人口動態学者の名前を挙げて、種明かしをする。

著者(鹿島 茂)は、吉本隆明の『日本のナショナリズム』の立論が、トッドやハインゾーンの方法論に偶然にも近いことを発見したのだと思う。吉本隆明の『日本のナショナリズム』では、明治、大正、昭和の大衆歌謡から、ときどきの大衆のエートスの変化が浮き彫りにされる。その変化とは以下のとおりとなる。

  • 明治期:欠乏の時代(近代の黎明期、貧困、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体は維持・継続)
  • 克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”に、ナショナリズムが集中。
  • 大正期:現実喪失、現実乖離、幼児記憶の時代(資本主義の高度化、成熟期)。(明治期の家族的、農村共同体が崩壊したがゆえに、現実喪失、現実乖離し、幼児記憶として家族的農村共同体を感性でとらえかえす時期)
  • 昭和期:概念化の時代(大衆のナショナリズムが実感性を失い概念的な一般性に抽象化)

明治期、農村を逃れた日本の「近代人」は都市で、克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”というナショナリズムで発露した。大正期になると、「近代人」は、逃れてきた農村の貧困の記憶、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体の体験は、幼児期の記憶や喪失感として現実乖離したものとする。さらに昭和期になると、「近代人ジュニア」にとって、親から聞かされた農村の共同体的生活が概念化=理想化され、ユートピア化する。これが、ウルトラナショナリズムとして結晶化(純化)する。農本ファシズムの成立である。ところが、農本ファシズムは、軍部・官僚の統制に基づく天皇制ファシズムに政治的には退けられ、精神的には取り込まれる。その結果完成したのが軍事ファシズムであり、軍事ファシズムの管理統制の下、日本は戦争になだれ込む。

戦後の団塊の世代の学生運動の高揚については、以下のような世代的変遷を辿る。
  • 戦前・戦中:戦前派世代(=団塊世代の親):、軍事ファシズム政権の下、天皇制ファシズム教育を受け従軍、戦争体験をする。
  • 戦後~30年代:敗戦後、戦前世代は復員。焼け跡、飢え、貧困下において生活を立て直す。アメリカ型民主主義教育開始。
  • 昭和40年代:戦後高度成長経済のもと、復員世代のジュニア(団塊の世代)が大学生に成長。識字率の高い高学歴層の出現。飢え、貧困は克服)
この団塊世代が過激な学生運動の主体、つまり、グナル・ハインゾーンがいうところのユース・バルジである。ユース・バルジとは、戦闘能力の高い15~25歳の青年層のこと。

本書では、吉本隆明の思想の解説と絶賛の終わりとともに、「団塊の世代とは何だったのか」という問いが始まり、“ユース・バルジ”という、あたかも宙吊りにされたかのような回答が現れ、終わってしまっている。もちろん、このエンディングは、著者(鹿島 茂)の続編の予告だと解釈できる。人口学、人口動態学を駆使した「団塊の世代論」に期待したい。

2009年6月26日金曜日

マイケル・ジャクソン

が亡くなった。ご冥福をお祈りします。

享年50歳は若すぎる。まだまだ、できたパフォーマーだと思う。

がしかし、筆者はマイケル・ジャクソンの楽曲として知っているのは、「スリラー」のみ。

もちろん歌えないし踊れない(笑)

いまでこそあの程度のビデオ映像はどうってことないのかもしれないが、当時はやはり衝撃的だった。

映像と音楽が一体化した新たな表現が成立したのだと思うが、あまりよくわからない。

2009年6月23日火曜日

イランの混乱は誠に残念



イランの大統領選後の混乱は、政府の統制により沈静化に向かっているようだ。

ゴールデンウイーク、筆者がイランを観光で訪れたとき、観光客の目からは、このような事態になることはまったく予想できなかった。

今年はイスラーム革命から30年の記念の年、それに大統領選挙が重なっていて、何か起るというのは結果論であって、筆者滞在中には、騒乱の気配はなかった。ガイドさんからは、優勢を伝えられていた現職大統領が再選されると聞かされていた。

確かにいま思えば、そのガイドさんの話の節々から、イラン国民が息苦しさを感じているふうではあった。でも、毎日、お祈りを欠かさないイランの人たちが、イスラームの指導者に反旗を翻すには至るまいと思っていた。

観光客には、その国の実情を知ることが難しいことを、改めて実感した。

写真は「世界の半分」と賞賛された、イラン第二の都市イスファハーンにある「イマーム広場」である。

2009年6月18日木曜日

『カラー版 イタリア・ロマネスクへの旅』


●池田 健二[著] ●中公新書 ●1000円(+税)

日本人がイタリア文化に抱く親密性は、古代ローマとルネサンスに二極化しているように思える。イタリア観光で人気のある都市といえば、おそらく、ローマ、ポンペイ、ミラノ、フィレンチェ、ヴェネチア・・・と続くのではないか。イタリアの高級ファッションブランド購入ツアーを除くとしても、日本人のイタリアへの関心は、古代ローマ時代とルネサンス時代に集約されよう。

イタリアにも、もちろん、中世という時代がある。イタリアの中世、すなわち、ローマ帝国がゲルマン系諸民族の侵入を受け滅亡した後、イタリアの地では、古代ローマ文化とゲルマン系文化の融合が進み、さらに、ビザンツ文化の影響も加わった。こう書くと、いかにも順調に時代が進んだように思えるが、ローマ帝国滅亡後、異民族の侵入で疲弊したイタリアが活力を取り戻すのは、西ヨーロッパ地域の回復期と同様、10世紀以降のことになる。ローマ帝国の東西分裂(395)から数えて、実に500年以上を要している。

本書が取り扱うロマネスク芸術の時代とは、11世紀以降、十字軍遠征の時代(1096年から約200年間)をピークとし、その様式がゴシックにとって代わられるまでの間、すなわち、中世初期に該当する。ヨーロッパの農業が安定し、人口が増え、新たな産業が興りつつあった時代である。

ローマ帝国末期、イタリアに侵入した主なゲルマン系民族について時代を追って記すと、まず始め、フン族に追われたゴート族が2~3世紀にローマ帝国内に移動しはじめ、5世紀にはローマを一時支配するに至る。さらに、6世紀にはロンゴバルト族の侵入が始まり、ロンゴバルト王国が建国された。イタリアのロンバルディア地方という名称は、ロンゴバルト人の土地という意味だ。さらに、カール大帝が率いるフランク族により、774年にロンゴバルト王国は滅亡し、フランク王国の支配を受ける。

そればかりではない。5世紀、ゲルマン系のバンダル族がカルタゴを本拠にして、南イタリア、シチリア島を含むバンダル王国を建国している。また、12世紀、傭兵としてやってきてこの地に土着したノルマン族が、ノルマン公国を建国している。さらに、海賊として脅威を与えたイスラーム勢力や、長期にわたって介入を繰り返した東ローマ(ビザンツ)帝国(=ギリシャ勢力)の影響を加えることもできる。

“ロマネスク”の語意は「ローマ風」ということになるから、ローマ帝国のお膝元であるイタリアならば、その開花は当然のことだと思いがちであるが、ロマネスク芸術の担い手は、本家の古代ローマ芸術を担ったイタリア人ではなく、カトリックを受容した、ゲルマン系民族であった。イタリアに根を下ろした彼らは、ローマ風を基礎にしながら、彼らの出自とする北方的要素と、ビザンツ、イスラーム等の東方芸術を融合させ、ロマネスク芸術を開花させたのである。

さて、本書で取り上げられているロマネスク教会等の所在地は、▽ロンバルディア地方=ミラノ、チヴェーテ、パヴィア、▽エミリア・ロマーニャ地方(パルマ、モデナ、ポンポーザ)、▽ヴェネト地方(ムラーノ、トルチェロ、ヴェローナ)、▽トスカーナ地方(ピサ、ルッカ、サンタンティモ)、▽ラチィオ地方(サン・ピエトロ・イン・ヴァッレ、カステル・サンテリア、バロンバーラ・サビーナ)、▽アプルッツォ地方(ロシィーロ、サン・クレメンテ・ア・カヴァウリア、ペテロッラ・ティフェルニーナ)、▽プーリア地方(トラー二、モルフェッタ、オートラント)、▽カンパーニア地方とシチリア島(サンタンジェロ・イン・フェルミス、カゼルタ・ヴェッキア、チェファルー)である。

その中で筆者が見たことのある建物は、ヴェネト地方のヴェネチアの離島トルチェロにあるサンタ・マリア・アッスンタ旧大聖堂のみ。ミラノ、シチリア島には行ったことがあるが、サンタンブロージュ教会(ミラノ)、サンティ・ピエトロ・エ・パオロ大聖堂(シチリア島)には寄らなかった、というよりも、その存在すら知らなかった。

というわけで、ロマネスク芸術というと、フランス、スペインを想起しがちであるが、イタリアもあなどれない。本書を手がかりにして、未知なるイアリア旅行の企てが可能となる。

なお、池田健二[著]の『フランス・ロマネスクへの旅』が同じ出版社の同じ体裁(中公新書)で刊行されているので、併せての一読をお奨めする。