2005年8月23日火曜日

『クローヴィス』

●ルネ・ミュソ=グラール[著] ●白水社 ●951円+税

ローマ帝国崩壊後、ガリア(現在のフランス)の地に、ゲルマン系諸族が王国を打ち立てた。その中でガリアの大半を掌握したのが、クローヴィスを王とするフランク族だった。本書は、クローヴィスの生涯を描いた歴史書である。

そもそもローマ以前の古代ガリアは、ケルト人が支配する土地だった。ローマ帝国建国後、ケルト人は隣接するローマ帝国と小規模な戦闘を繰り返し対立を続けたものの、カエサルによって滅ぼされてしまった。そのときカエサルが著した記録的文書が、かの有名な『ガリア戦記』である。ローマ支配となってラテン化されたガリアは、「ガロ・ローマ」と呼ばれる。

フランク族が属するゲルマン諸族はヨーロッパの東北部を出自とするが、1~2世紀ごろから徐々に南下を始めガリアに到達しており、ケルトとゲルマンはこの地方で互いに融合していたともいわれ、ガロ・ローマ期にはローマの影響をつよく受容していたことが分かっている。

ローマ帝国の衰退と並行して、ゲルマン諸族はローマ防衛を担当する軍事部隊としてローマの国家機構内部に組込まれていた。ところが、4世紀になるとローマの制御が利かなくなり、各地で暴動や蜂起が始まるようになった。そして、イタリアは(東)ゴート人の手に落ち、ガリアも(西)ゴート人、ブルグント人、フランク人によって分割支配された。そのときガリアに進出したフランク人の一派・サリー族の族長がクローヴィスにほかならない。

ガリアの新しい支配者、ゴート人、ブルグント人がアリウス派キリスト教に属していたのに反し、クローヴィスはカトリック信者だった。カトリックだった婦人の影響により、カトリックに改宗したといわれ、フランクは部族そのものがカトリックを信仰していた。

クローヴィスは、カトリック教会と親密な関係を築きつつ、ガリアを分割支配していたゴート人、ブルグント人に軍事的勝利をおさめ、パリに入城した。クローヴィスは存命中にガリア統一は果たせなかったものの、西欧における〈カトリックの聖性〉とゲルマン人の軍事力・政治力〈俗権〉の統合による支配原理の確立は、クローヴィスを起源とする。クローヴィスの即位が「古代の終わり、中世の始まり」といわれる所以である。

なお、赤白紺のトリコロール(フランス国旗)は18世紀のフランス革命時の「自由・平等・博愛」を象徴するといわれている。がしかし、トリコロールがサリー=フランク族がローマ防衛軍の一部隊として掲げていた軍旗であったことを本書で初めて知った。トリコロールも新しいようでいて、実は古い。

2005年8月21日日曜日

『戦後責任論』

●高橋哲哉[著] ●講談社学術文庫 ●960円+税

戦争を考えるシリーズは、いま話題の『靖国問題』の著者・高橋哲哉がいまから10年ほど前に戦争責任について言及した論文集をもって最後とする。

本書に収録された論文は、戦後50年に当たる年を中心としたもの。その過半は、当時話題となった『敗戦後論』(加藤典洋著)への反論になっている。

いまから10年前というのはどんな年だったかというと、朝鮮人「慰安婦」が日本政府を相手取り、補償を求める訴訟を起こしたことが象徴するように、アジア近隣諸国から日本の戦争犯罪、戦争責任を告発する事件が頻発した年だった。その背景には、冷戦の終焉があった。アジア諸国にあっての戦後とは、ソ連・中国といった社会主義(スターリン主義)国家の脅威を免れるため、米国・日本と軍事的経済的同盟関係を結ぶことを余儀なくされたものだった。いわゆる「敵の敵は味方」の論理だ。アジア太平洋戦争で米国にとって日本は敵だったが、米国の新たな敵である中ソの出現によって、中ソの敵であった日本が米国にとっての味方に変わった。日本の敵だったアジア諸国も同様に、自由主義国家群という枠組みの中において、日本が味方になった。その結果、日本の戦争責任・戦争犯罪を厳しく問うことができなかった。その典型が日韓条約だった。韓国は日本に対して日本の戦争責任と戦争犯罪を問う立場にありながら、西側という枠組みの中で、日本と同盟を結び、北朝鮮・中国・ソ連と対峙しなければならなかった。

1990年代、冷戦が終わり、中ソの脅威が薄らぐに従い、韓国を中心に、日帝の戦争犯罪糾弾の声が強くなった。1990年代になってようやく、東アジアにおいてアジア太平洋戦争再考の気運が盛り上がったのだ。

そのような中、加藤典洋が『敗戦後論』を著した。同書はアジア太平洋戦争の戦争責任の主体を問うことに主眼が置かれた内容で、とりわけ、「日本人犠牲者300万人の死者を先に立たせなければ、2千万人のアジアの死者につながらない」という記述が代表するように、ナショナリズムの色合いが濃かった。加藤の『敗戦後論』に対し、高橋はことあるごとに、批判を繰り返した。本書はそのときの高橋の反論を集成したものだ。

加藤が「日本人」を前面に出してアジア太平洋戦争の責任を考えたのに対し、高橋は「普遍的市民」の立場によって、それを考えている。高橋は高橋自らを含め万人が国民国家に属する現実を認めつつも、国民国家の下では戦争の廃絶も戦争責任も戦争犯罪も問えないという立場をとるように思える。
 
それに対して加藤は、日本の戦争と戦争犯罪は、日本人固有の精神性・信仰に基づいて思考し行動した帰結であって、国民国家の下に成立しながら、それを超えて構想される「普遍的市民」の倫理や正義という原理に照らしても有効な回答となり得ないと考えているように思える。

1868年に成立した明治国家は憲法と議会をもってはいたものの、欧州における国民国家と同じものではないような気もする。加藤VS高橋が講座派と労農派の対立軸と同じだとは言わないが、普遍的市民の倫理・正義だけで戦争が論じ切れるとも思えない。日帝の戦争責任は国際法上はドイツと同じように告発され償われなければいけないが、思想上はドイツと同様の解明はできないのではないかと。

終わった戦争の責任を問うことが、将来に向けた戦争の廃絶と同じくらい困難であるということが、筆者にはたまらなく、重く辛く感じる。糸口が見えない。

2005年8月15日月曜日

『日本が神の国だった時代』

●入江曜子[著] ●岩波新書 ●740円+税

戦争を考えるシリーズの第三弾。本書副題にある国民学校というのは、1941年3月1日「国民学校令」によって公布、同年4月1日の施行により誕生した、日本の初等教育機関のこと。この年、国民学校が、それまでの「小学校」に取って代わることになった。

国民学校創設の狙いは、日本が大東亜共栄圏構想の下、日中戦争→英米開戦を控え、天皇と国家に盲目的に従う人間の育成を目指したことだった。

国民学校の教科書や教育内容では、日本は神武以来の神の国で、始原より天皇が国を治め、国民(臣民)は天皇のためにすべて(生命)を投げ出すことが勤めだとされた。さらに、周辺諸国にも、日本の伝統的宗教(国家神道)の信仰を強要し、「日本臣民」として、天皇のためにつくすことを求めた。国民学校の教科書は、だから、「満州国」、台湾、朝鮮においても使用された。

国民学校の教育を一言で言うならば、「皇国民」の練成ということになる。国民は天皇の赤子と呼ばれ、兵士(赤子)は戦場で無謀な作戦で危険にさらされたとき、生命を落とす前に、「天皇陛下、万歳」と叫ばなければ、非国民とされた。

兵士(赤子)の母は、息子が戦地で国のために犠牲(戦死)となることを喜びとした。女性は、戦争ために犠牲となる兵士(=男児)を産むことを強制された。母は借り腹で、生まれた子は天皇の子であり、天皇のために命を投げ出すことが勤めとされた。そのような国家的価値を初等教育において、子供たちに「刷り込んでおこう」というのが、国民学校の目的であり機能だった。

さて、確かに国民学校の教科書や教育内容は、日本がアジア太平洋戦争で行ってきた戦争犯罪、周辺諸国の植民地化、超国家主義、天皇信仰といったものに同調している。しかし、「国民学校令」の公布(1941)は総力戦直前であり、そこから教育を始めても教育効果が現れるのは少なくとも6年後(1946=戦後)となろう。つまり、国民学校創設以前に、日本の天皇制超国家主義体制というのは、完成していたことになる。国民学校は、天皇制超国家主義思想の教育的集大成(体系化)であって、国民学校によって、天皇制超国家主義思想が国民に直接刷り込まれたわけではない。つまり、結果であって主因ではない。

筆者にはどうしてもわからないことなのだが、日本人がなぜ、天皇制超国家主義体制を容認し、進んで命を賭して戦争をしたのだろうか。国民すべてが、そのような施策を積極的に受容したのだろうか。天皇のために命を落とすことを喜びと感じたのだろうか・・・

自問自答するならば、日本人のすべてが、宗教的呪縛に包まれていたからではないかと思う。宗教的呪縛というのは言葉足らずだけれど、宗教の力でなければ、人間は非合理的な選択をしない。狭い意味の戦争、つまり、戦闘に参加した兵士(神風特攻員を代表的存在として)、また、それを喜びをもって送り出した日本の母親を含め、戦争を機会として、みな殉教を選んだのだと思う。若い兵士たちは、戦場を殉死の場として自ら選んだように思える。

いまからおよそ70年前といえば、つい最近のこと。そのころ、日本の教師たちは、かくも非合理的・非科学的な「歴史」や「道徳」を、小学生に対して、(国民)学校という場で、疑問もなく教えていたのかと思うと唖然とする。だが、人間がすべてに合理的かつ科学的選択をするとは限らない。理性、科学を万能と考えてはいけない。われわれ日本人が、日本という国家をつかって、かくもあきれた教育をまじめに執り行っていたことを、けっして忘れてはならない。

2005年8月13日土曜日

『8月15日の神話』

●佐藤卓己[著]  ●ちくま新書 ●820円+税

 
戦争特集の第二弾――たいへんすぐれたメディア論を紹介する。今日のメディア時代において、歴史認識というものがどのように形成されるかを透視した論考として、本書はもっともすぐれたものの1つだろう。

いまから、60年前、日本はアジア太平洋戦争で軍事的に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ降伏文書に調印した。わずか、60年前の1月間に満たない短期間の史実(出来事)であるにもかかわらず、驚くなかれ、今日の日本のマスメディアは、そのことを正確に報道または記述していない。

今日の日本人の大多数は、日本が戦争に負けた日を8月15日だと認識している。ところが、ポツダム宣言受諾の日は8月14日、降伏文書調印は9月2日だ。欧米諸国の場合、第二次世界大戦終結の日は9月2日であるとされ、歴史教科書の記述も国民的認識にも、ぶれはない。米国の場合、その日を「VJディ」として、全国民が共通に認識している。

一方、日本国民が8月15日を「終戦記念日」と認識したのは、戦争当時の記憶から手繰り寄せられたものではない。その日を終戦と認識し出したのは、1980年以降だと本書は分析する。終戦記念日を8月15日に法制化したのは、それよりも前だが、日本が戦後復興を完全に成し遂げ、世界で有数の経済大国となったとき、日本の終戦が8月15日と認識されたと本書はいう。この指摘は驚きであると同時に、著者の慧眼に感服するばかりだ。極論すれば、日本国民に戦争の記憶が薄れだすに従い、「日本は戦争に負けだのではない」「天皇が戦争をやめたのだ」という記憶の置き換えが、そのころから始まったのだ。

8月15日が戦争終結の日とされる根拠は、いうまでもなく、天皇が戦争終結のラジオ放送(「玉音放送」)を行ったからだろう。あの日、全国民が跪いて畏まって、天皇の戦争終結の放送を聞いた・・・というのは、実は真実ではない。多くの国民は、ラジオの声からは戦争終結を聞き取ってはいない。その声が消え、アナウンサーによる補足説明で、そのことを知った、というのが真実だ。大多数の国民が「玉音放送」を涙で聞いたという虚構=神話をつくったのは、大新聞だというのが、本書の趣旨だ。本書によると、「玉音放送」を国民が畏まって聞いたとされる新聞写真及び記事は、新聞記者・カメラマン・編集者があらかじめ仕込んでおいた、やらせ写真等及び予定稿による創作だったことが著者の調査と取材によって、明らかにされる。

日本の大新聞というものは、誠に恐ろしい。戦時下、大本営発表で国民を欺き、しかも、敗戦に至っては、国民を創作写真と作文記事で欺いたのだ。メディアの責任はあまりにも大きい。しかも、戦後、メディアはそうした虚構記事を集め、終戦記念特集として、何度も何度も繰り返し国民に増幅して提供することによって、ポツダム宣言受諾、降伏文書調印という世界標準の歴史を、日本国民から消去させたのだ。

日本人は、戦争~敗戦~戦後というおよそ70年弱の歴史ですら、為政者に奪われている。国民から歴史を奪ったのは為政者であり、その執行者はマスメディアだった。新聞が抱え込んだ歴史の偽造責任を断じて許すことはできない。

なお、本書が行った、《戦死者の記憶~お盆~夏の高校野球》が習合した、8月=日本人の死の季節感の分析も、たいへんすばらしい。そこで著者が行った、夏の高校野球大会の批判的分析も優れている。筆者も漠然とそのような思いを抱いていたのだが、著者は、主催者(朝日新聞社)の騙しの戦略を完璧に見抜いている。夏の高校野球の欺瞞性を知りたい方は、本書を一読してもムダではない。