2006年8月27日日曜日

『思想としての全共闘世代』

●小阪 修平〔著〕 ●ちくま新書 ●735円(税込)

団塊世代特殊論と全共闘世代が混同して語られる論調が多い中、本書は、全共闘運動をまともに扱った数少ない書だ。本書によって、団塊世代と全共闘運動家の相違点が世間に了知されたはずだ。そればかりではない。著者(小阪修平)は、全共闘の思想的課題に対して、倫理的に向き合った数少ない元全共闘活動家であると言えよう。

しかし、本書の全共闘論すなわち著者(小阪修平)の運動歴が全共闘のすべてではない。著者(小阪修平)は全共闘と真正面から向き合ってはいるが、その全共闘体験は限られたものだ。著者(小阪修平)はセクトに属さない(当時、ノンセクトラディカルと呼ばれた)、つまり、市民運動として、全共闘に関わった学生のようだ。だから、著者(小阪修平)の<思想>もそこに縛られている。本書は全共闘運動をノンセクトラディカルとして担った者の総括という枠組みに限定されている。

本書の指摘を待つまでもなく、同世代の学生(つまり団塊世代)がすべて全共闘運動に流れたわけではない。著者(小阪修平)が言うとおり、時代の潮流に絡め取られた人もいれば、そうでない人もいた。同じ団塊でも、後者にとって全共闘は、大学生活を混乱させた許し難い存在だった。

全共闘運動の時代とは、一言で言えば変革期だった。第二次世界大戦後成立した東西冷戦構造から20年余を経て、東側ではスターリン主義の見直しが始まっていたし、西側では公害問題、ベトナム戦争、市民社会の拡張・高度化といった、転換期を迎えていた。全共闘運動は、このような世界史的変革を背景にして起こった。

近代以降の日本における大衆反乱、政治的動乱は、もちろん、全共闘運動だけではない。その代表的なものとして、まず、維新直後(1870年ごろ)、各地で起こった士族反乱が挙げられる。最も大規模なものが「西南の役」だった。

二度目は、昭和初期(19300年代)、青年将校を中心とした、天皇制原始社会主義を目指したクーデターがあった。「5.15事件」「2.26事件」として、現代史に刻まれている。アジア太平洋戦争直後(1950年前後)には、日本共産党の武装闘争があり、「血のメーデー事件」が名高い。そして、1960年の「安保闘争」を経て、1970年前後の全共闘運動に至る。

全共闘運動は、それ以外の運動と比べると、体制に与えた影響、反乱の規模等の観点からして、最も「弱い」運動だったと考えられる。たとえば、全共闘運動の直前にあった60年安保闘争の方が、参加した階層の多様性、闘争参加者の数量において、全共闘運動を圧倒している。全共闘運動は学生(一部に反戦青年委員会の参加をみたが)に限られていたという面で、極めて限定的運動だった。旧左翼は、全共闘運動を学生による、プチプル急進主義と批判した。旧左翼の指摘は一面の真理をついていた。全共闘運動は、左翼少数派の運動にすぎなかった。

本書にあるとおり、全共闘運動と新左翼(反代々木、反スターリニズム)運動との関係は、微妙に入り組んでいて、截然と分けにくい。全共闘運動参加者の一人ひとりの参加意識によって、とらえ方が異なっている。

たとえば、新左翼各派に属する専門的運動家からみれば、学内全共闘は大衆組織と位置付けられていたから、全共闘の下に結集した学生たちを自陣に引き込もうと努力したはずだ。その一方、著者(小阪修平)のように、全共闘運動=無党派・非政治組織を目的意識的に担った学生にとっては、新左翼各派の政治運動と全共闘運動はきちんと峻別されていた。しかも、全共闘運動参加者各人の参加意識は、わずか数年の差異によって微妙に変化している。著者(小阪修平)はそれを「何年に大学に入ったか、その入射角によって、反射角が異なる」と表現している。

本書にあるとおり、著者(小阪修平)が参加した「べ平連」(=ベトナムに平和を市民連合)は、全共闘運動とほぼ同時期に活動していた市民団体だが、「べ平連」参加者は、実力行使を伴わないカンパニアデモに、全共闘として参加する場合もあれば、「べ平連」として参加する場合もあった。

全共闘運動が幕を引くことになった1969年秋――新左翼にとってまさに「決戦」のときだったのだが――、闘争の第一の山場、佐藤訪米阻止闘争には、「べ平連」の運動家たちの多くは、「べ平連」の実質的上部学生組織であるプロレタリア学生戦線(フロント)に吸収され、「プロレタリア戦士」として、「決戦」に臨んだ。フロントの上部団体は統社同(統一社会主義者同盟)だった。

統社同は、1960年代初頭まで、構造改革を綱領とする修正主義政党だったのだが、同党に限らず、構造改革主義党派は、全共闘運動とともに活性化したマルクス・レーニン主義の新左翼各派の影響を受け、構造改革の綱領を書き直して路線変更をし、マルクス・レーニン主義政党になった。彼らのスローガンはいつのまにか「構造改革」から「プロレタリア世界戦争勝利」に変わっていた。

「べ平連」は、1969年秋の「決戦」直前、新左翼敗北前に、党派に吸収されるという形で自然消滅した。そして、組織としての全共闘も「べ平連」と同じように、このとき吸収・解体・消滅した。「べ平連」のような無党派市民団体は、新左翼各派の表向きの大衆動員装置であった。表向き無党派で高校生を中心に組織された反戦高協は、中核派の高校生組織だった。

学内全共闘は、著者の分析に従えば、1968年の東大・日大闘争から1969年「4.28沖縄闘争」までの短期間、無党派の自然発生的学生集団だった。しかし、先述した「決戦」が近づくに従い、新左翼各派の下部大衆組織に様変わりした、という見方は正しい。

全共闘が新左翼各派に吸収されていった力学は、新左翼各派の組織戦術の成果に還元できるものではない。新左翼運動は、統社同の変容を例外とせず、原理主義に純化していった。本書にもあるように、全共闘運動は学生運動という大衆の枠組みからスタートしながら、運動を重ねるごとに、原理主義化した。

原理主義の1つは戦術論レベルに現れた。新左翼各派は大雑把に言えば、ロシア革命どおりに日本に革命を起こすことを自らの任務と自覚した。他党派がロシア革命という「原理」から逸脱していれば、「修正主義」として批判した。原理主義の帰結は武装蜂起だ。この流れが共産同(共産主義者同盟)赤軍派結成につながる。

ロシア以外の共産主義革命の方法として、毛沢東主義を取り上げたセクトもあった。毛沢東主義を原理主義的に純化した党派としては、共産主義者同盟ML派や、後に共産同赤軍派と連合した日共革命的左派=京浜安保共闘があった。

組織論レベルの原理主義もはなはだしかった。党形成、大衆の組織化の方法だ。革命的マルクス主義の自覚の論理という主体の思想形成を第一とする党派と、大衆運動で党を量的に拡大する運動方針を唱えた党派は、双方に非妥協的な対立を生んだ。

先述した構造改革派は、学園内における他党派との論争過程で修正主義として退けられるか、あるいは、党内の突き上げにあって、原理主義的マルクス・レーニン主義への路線転換を余儀なくされた。武装蜂起を革命の方法に据えなければ、原理主義で理論武装した新左翼各派との理論闘争に勝てなかった。

革命の方法論としては、次第に、「ロシア革命」さえも乗り越えなければならなくなった。「ロシア革命」の不完全性が「一国革命主義=スターリン主義国家=ソヴィエト連邦」の成立に至ったという歴史認識だ。「ロシア革命」の限界は、一国革命にとどまったことだと。新左翼各派は、世界革命、永続革命を夢想した。世界一国同時革命、プロレタリア世界戦争といった、勇ましいスローガン=原理主義が登場した。

全共闘運動の中のノンセクトラディカル活動家は、党派から原理主義的批判に晒された。“君らの運動には限界がある、世界革命が成功しなければ、だれも解放されない”と。こうした問いかけにまともに応対した「べ平連」活動家らの多くは、1969年秋の「決戦」前にフロント戦士に自己変革を遂げ、党派の一員となったように、学内全共闘活動家の多くが新左翼各派に吸収されていった。こうして、組織としての全共闘は解体・消滅した。

かりに、全共闘のノンセクトラディカルが党派の勧誘を断り、ノンセクト独自の思想と運動論を用意していれば、1969年秋の「決戦」を越えて、全共闘運動は思想=組織として、持続した可能性もあった。それができなかったということが、全共闘の思想としての限界だった。政治を回避していたノンセクトラディカルも、1969年秋の決戦における敗北以降に始まった政治的退潮に抗すことはできなかった。それが全共闘の組織としての限界だった。

本書にあるとおり、全共闘運動・新左翼運動の退潮の後、セクトの原理主義はますます急進化し、ハイジャック、連合赤軍事件、内ゲバ殺人、爆弾闘争、世界赤軍(国際的テロリズム)へと急旋回した。また、後世の脱イデオロギー化した時代状況の中、1990年代のオウム真理教によるサリンテロにまでエスカレートしたことになる。この帰結を、全共闘運動に帰するのか、それとも、新左翼運動に帰するのかは定かではない。

さて、1980年代以降の日本の方向性を行政風に表現すると、▽都市化▽情報化▽国際化の3点に集約できる。ところが、1960年代後半から1970年代初頭にかけて活性化したムーブメント、すなわち、革命運動・ヒッピー運動・サブカルチャーの隆盛等のムーブメントは、この3点を先取りしたものだった。

第一に、著者(小阪修平)のような地方から東京に出てきた学生の多くは、東京において既に進められてきた「都市化」に対し、著しい違和を感じたようだ。全共闘運動は、多くの学生が抱いた違和をバネに急進化したともいえる。急激な都市化によって、学生達が旧来の共同体的存在から分離され、実存を強く意識したと換言できる。新左翼が初期マルクスの疎外という概念を持ち出したものは、「疎外された労働」という初期マルクスの概念を借用しながら、都市化した環境に適合しにくかった地方出身学生の心情(疎外感)を代弁した可能性もある。

第二の「情報化」については、当時はまだIT化を意味しないけれど、マスメディアとくにテレビの普及発達、そして、それと並行して生まれたメディアの多様化現象が適合する。たとえば、全共闘運動活動家の愛読書は朝日新聞社から刊行された『朝日ジャーナル』、ファッション情報を満載した『平凡パンチ』、そして漫画『少年マガジン』といったサブカルチャーの雑誌類だった。さらにそのころ、ロック専門誌、映画専門誌、ライフスタイル専門誌等々の新雑誌が刊行され、若者に読まれるようになった。こうした急激な「情報化」の進展は、全共闘運動と無縁ではない。

第三の「国際化」については、新左翼各派がロシア(ソ連)及び中国といった、既成の社会主義国家以外――南米、北朝鮮、中東、アメリカ、ヨーロッパなどに関心を抱いたことで明確だ。もちろん、社会主義運動は「第3インター」「コミュンテルン」「第4インター」といった国際組織が世界各地をつなげてはいたけれど、そうした流れとは別個に、ゲバラ(=南米を拠点とした革命家)、マルクーゼ(アメリカの新左翼思想家)、サルトル(フランスの実存主義哲学者)、キング牧師(アメリカの公民権運動活動家)、アメリカの学生運動、ヒッピー運動、マルコムX(アメリカの黒人革命家)、「フランス5月革命」、中国文化革命などの影響を受け、実質的ではなく意識的に連帯した。

さらに、旧左翼からは異端とされた、ローザ・ルクセンブルク(ドイツの革命家)、シモーヌ・ヴェイユ(フランスの社会運動家)らの復権もあった。

これまで、外国といえばアメリカ、共産主義運動といえばソ連、中国――といった世界観から、この時期、日本人が抱いていた「世界」という概念が爆発的に拡大したことが認められる。

全共闘運動――新左翼運動を含めて――は、政治思想としては、今日世界中を席巻している原理主義およびテロリズムを先取りしたものだった。それが日本における30数年の経過で失敗と証明されている以上、原理主義は国を選ばず滅びる。とは言え、全共闘運動の失敗が、現状に対する異議申し立てすべての失敗を意味するわけではない。全共闘運動は、「観念の遊戯」であったがゆえに、持続性も普遍性も持ち得なかった、ということだ。そこを反省の核とするならば、これから先、なんらかの形で異議申し立てが必要な局面において、全共闘運動体験が生かされる可能性がまったくないとは言えない。

2006年8月24日木曜日

『流刑地にて』

●フランツ・カフカ〔著〕 ●白水uブックス ●900円+税


旅行者がとある流刑地を訪れ、囚人の処刑を見学することになる。判事にして処刑執行人は将校一人。彼はは処刑方法を考案した先代の司令官の忠実な部下として、司令官交代後もその職を全うしている。

処刑には、「ベッド」「馬鍬」「製図屋」によって構成された奇妙な処刑機械が使われている。囚人はベッドに縛り付けられ、製図屋によって製作された判決文を馬鍬によって、体に印刷され、出血多量もしくはショックで命を落とす仕掛けになっている。この処刑機械には、印刷されるときの大量の出血が散乱しないような、あるいは、囚人が苦痛で大声を出さないような仕掛けなどが完備されている。

さて、いよいよ処刑執行に及ぶのだが、囚人を機械に取り付けて機械を回し始めたところで故障してしまう。執行人の将校は、故障は新任の司令官がこの奇妙な機械を使った処刑執行を中止したがっているため、老朽化した部品の交換が行えなくなったためだと、旅行者に告白し始める。将校は、旅行者に向かって、新しい司令官にこの奇妙な機械を使用する処刑が正しい行為であることを伝えるよう懇願し始める。

懇願された旅行者は、自分は旅行者すなわち、よそ者であるから、処刑の問題に関与できないこと、司令官と関わるのは負担であることなどの理由を挙げて、将校の申し出を拒否する。

そんなやり取りをしているうち、将校は不意に新しい図面を取り出し機械に挿入し、処刑機械にかけられている囚人を解放し、自らをその機械にかけ、自らを処刑しようとする。今度は、機械は円滑に動き出し、将校は処刑機械にかけられて命を落とす。

荒唐無稽な話だ。もちろん、そんな流刑地など存在しないし、旅行者が訪れることなどあり得ない。

この小説には、旅行者、将校、囚人、兵士の4人の登場人物しか出てこない(後半部分に村の住人が多少登場するが・・・)。詳しい風景描写もないが、この流刑地はおそらく荒涼とした離島のように思える。設定、出来事、結末は不条理であり、現実と幻想(夢)が入り混じった世界のように思える。あり得ない話なのだが、権力の源泉を示す寓話のように思えなくもない。

重要なのは結末で、囚人と死刑執行人が入れ替わるという転倒だ。この結末には、傍観者であるはずの旅行者が一役買っているものの、一切登場しない新任の司令官の存在が最も大きな役割を果たしている。

将校は、新任の司令官が従来の処刑機械を使った処刑の廃絶はもちろん、執行者である自分の解任を目指しているに違いないと、認識している。

旅行者は、在地の権力者(新任の司令官)と、処刑方法という重い問題で関わりあうことを恐れている。二人にとっては、いまここにいる相手方よりも、不在である新任の司令官との関係が重要だと認識している点で共通している。将校と旅行者は、新しい司令官が行うかもしれないという権力の行使に、共に恐怖を抱いている。

人間の行動は、暴力・軍事力といった強制力に従うこともあるだろうが、人々の心の中に生ずる幻想的な力――関係性――に拠ることもある。権力は暴力による強制~従属をもつこともあろうが、人々の抱く観念(たとえば恐怖)によって、人々の心の中に醸成されるものではないか。

新しい司令官は、処刑執行人である将校に処刑の禁止を命じた事実はない。にもかかわらず、将校は、新しい司令官が自分を辞めさせ、これまで続けてきた機械による処刑を禁止させるに「違いない」という脅迫観念によって自らの行動を選択する。その結果は、なんとも理不尽な、囚人に代わって自分を処刑機械にかけてしまうという行動だった。

旅行者は、将校の懇願によって新しい司令官と係わり合いをもつことを恐れている。もちろん、旅行者は新しい司令官に会ったことはない。にもかかわらず、新しい司令官が自分を拘束したり尋問したりする可能性を危惧し、将校の申し出を拒絶する。この拒絶が将校、自らの処刑という行動を惹起せしめる。

4人の登場人物のうち、兵士はだれにも関わらない。将校の部下だから将校と上下関係にあるのだが、兵士は機械に不器用に関与して将校に怒られたり、旅行者を警戒したり、解放された囚人と戯れたりもする。兵士だけが、処刑という制度、新しい司令官、将校、旅行者、囚人に対して、まったく関与しない存在になっている。

将校と囚人は当事者同士、そして、旅行者は傍観者でありながら、当事者に実態的に関与する。ところが、兵士は、3人とは実態的に、また、新任の司令官には観念的に、関わらない点で非存在である。兵士はだから、筋書きに関与せず、現れたり消えたりする演劇における道化に似ている。非存在の兵士の存在が、非現実性を強調し、小説のかもし出す荒涼感を強く読む者に与える。

2006年8月21日月曜日

『靖国神社「解放」論』

●稲垣久和〔著〕 ●光文社 ●952円+税

靖国問題の最終解決方法

靖国問題の背景には、戦没者という霊的存在と、遺族という世俗的存在がある。このたびの靖国問題の発端は、小泉首相が靖国参拝を後者に公約したことから始まり、現在に至っている。

手続き的には、小泉首相の靖国参拝はそれなりに、多数決原理に適っている。国民が小泉首相の公約に「ノー」ならば、自民党は先の総選挙で大勝するはずがない。先の総選挙で、小泉靖国参拝は、信任されたのだ。

だから、靖国参拝を民主的に解決する方法はただ一つ、「靖国」で民意を問うこと以外ない。

もっとも至近にある選挙が来年の参院選ならば、野党である民主党等は、先の小泉首相が採用した、「郵政民営化、イエスかノーか」を倣って、「靖国参拝イエスかノー」のワンイッシ一選挙を仕掛けるしかない。

靖国問題は、けして枝葉末節の問題ではない。少なくとも、・日本の戦争責任について、▽国民国家のあり方、・戦争か平和か、▽自衛隊違憲か合憲か、▽日本の外交のあり方・・・もっといえば、維新後の日本を是と見るか非と見るかであり、戦後日本国憲法を認めるか否かまでも包括した問題なのだ。

自民党が靖国参拝を打ち出せば、自民党政権の本質が見える。来年の参院選は、今般の諸問題を総合的に争点とするよりも、靖国一本に絞ることのほうが、はるかに国民にとって有益な選挙となる。

〔公共〕という第3項では解決できない

さて、本書の批評に戻ろう。本書は、靖国神社問題を〔私-公-公共〕という3元的位相の設定で解決を図ろうという試みだ。一般には、私(個人)と公(国家等)という対立項があるが、著者(稲垣久和)は、それ以外に公共という位相を設定する。ただし、公共というのは容易に理解し難い概念である。著者(稲垣久和)の定義を解釈すると、公共とは〔市民原理〕と換言できるように思う。〔市民原理〕は、私(個人)及び公(国家)より、先験的に上位にあるもののようだ。

靖国問題の場合、私人=小泉純一郎、公=国家=内閣総理大臣が参拝を志向し実践しているが、それは公共に反する、しかも、靖国参拝に限らず、公共原理に反する行為等については、〔公共原理〕が自動的にそれを禁止・制御できる、というのが著者(稲垣久和)の論理構成のようだ。著者(稲垣久和)の結論は、公共(=市民原理)から導き出された無宗教の戦死者慰霊施設を公共的組織が造営・管理し、宗教を問わずに戦死者を慰霊すればいいとなる。

しかし、世論調査によると、小泉首相の靖国参拝を「支持する」と回答した人の割合はおよそ40%超を占め、「支持しない」とほぼ同率で拮抗している。著者(稲垣久和)のように、〔公共原理〕が世論の40%超を無原則的に切り捨てていいのだろうか。それが民主主義なのだろうか。靖国の問題は、〔公共原理〕を持ち出せば解決できるほど、易しい問題ではない。

帝国憲法、日本国憲法を問わず、国家が遂行した戦争犠牲者は、国民の負託を受けた国家がそれを管理してきたが、〔市民原理〕が国家を越えて管理できるというのが著者(稲垣和久)の主張だ。

しかし、市民社会が国家から自由である法的根拠をどこに求めたらいいのか。戦争犠牲者を国家の手から奪い返して、市民が独占するとは、どういうことなのか。それは、市民社会が国民国家を廃絶するか、国民国家を市民社会原理に基づき統治する、新たな統治機構が存在しなければ、国民から負託された国家行為を禁止したり無視したりできないのではないか。市民社会が国民国家を廃絶すること及び新たな統治機構を設立することは、靖国問題解決より、はるかに難しいことではないのか。結局、国民国家の枠組みにある以上は、国民が国家を制御するしか方法がない。

靖国神社の建立目的と機能

靖国参拝は心の問題、すなわち「私」の領域に属することだから、公人という立場は存在しない、というのが首相見解である。一方、憲法は個人(私人)の宗教の自由を保障するものの、国家が特定の宗教を保護することもその反対に弾圧することも禁じている、つまり、首相(公人)という立場で特定の宗教施設に出入りし、参拝、祈祷、祈念することは憲法違反だという見解がある。もちろんいま現在、双方の見解が対立したままだ。

靖国神社が日本に数ある宗教施設の中の1つで、分類すれば神道(神社)に属することは言うまでもない。19世紀の建立だから極めて新しい。その目的は、国家が遂行した戦争で戦った犠牲者(=戦士)の魂を祀ることだとされている。

先のアジア太平洋戦争中、日本政府は戦死者を顕彰した。お国のためによくぞ戦ってくれた、死んでくれたというわけだ。靖国神社は日本の帝国主義戦争を補完する装置の1つだった。これをもって、靖国神社は帝国主義戦争のシンボルであり、日本国憲法の反戦平和主義と相容れないという主張もある。もちろん、靖国には戦死した兵士を顕彰する目的・機能があったが、しかし、反戦平和の論理だけでは、靖国問題は解決を見ない。

靖国神社建立は、靖国に限らず、日本の古代からの為政者が行ってきた宗教的実践、すなわち、御霊信仰に基づく。

日本人は、不慮の死を遂げた者の魂は安寧することがなく荒ぶり、生きている者に災厄をもたらすと考えた。最もよく知られているのが天神信仰で、天神様こと菅原道真は、政争に巻き込まれ志半ばで流刑され、死後、その霊は災厄をもたらすものと恐れられた。道真の政敵たちは道真の霊の祟りを恐れ、道真を神として祀りその霊を鎮めた。

維新政府は、自らが遂行した帝国主義戦争――その発端は、国内における維新戦争(戊辰の役)――において、心ならずも散った軍人たちの霊が荒ぶる霊として自らに禍をもたらさないよう、中央に神社を建立した。御霊信仰そのものだ。

維新後の日清戦争からアジア太平洋戦争までの間、わが子を戦地に送り出した「靖国の母」たちも、同様に、亡くなったわが子の荒ぶる霊が自らに禍をもたらすことを恐れた。戦争遂行者と土俗的母性は、御霊信仰=鎮魂という目的において、図らずも一致した。ここで「靖国の母」を政治的に責めることなどできない。維新政府(日本帝国)というのは、土俗の宗教を国民国家形成に巧みに取り込んだ共同体だったからだ。だから、遺族会と靖国神社の関係は、平和の論理=市民的論理だけでは見直されることがない。

「A級戦犯」として処刑された者こそ、荒ぶる霊の代表にほかならない。同じ「A級戦犯」の中には後に公職に復帰し、首相に昇りつめた者もいるのだから、歴代の首相が「A級戦犯」として処刑された荒ぶる霊を鎮めることはその責務の1つだと考えられる。「A級戦犯」合祀は、御霊信仰からみれば、当然の措置となる。

靖国神社は、為政者の論理と土俗の民衆の論理が、鎮魂(御霊信仰)という宗教的実践において生まれた施設であるがゆえに、一国の宰相が、そして一般生活者が、等しく靖国を訪れていいのかどうか――問題はここからだ。

国民の安寧を祈念するとはどういうことか

心ならずも命を落とした者の霊が荒ぶる霊となって人々に災厄をもたらす、と考える信仰をだれも批判・否定できない。そういう信仰を神社が受け容れ、霊を祀り、関係者が参拝することは自然だ。わが国に限らず、護国・救国が宗教の存在意義の1となっている。

ただ、それはそう信じる人々がそうすればいい、という話にすぎない。いま現在、国家は宗教に関与しないことが原則なのだ。遺族が靖国神社に関心を示すかどうかが基本であって、特定の神社が英霊を独占することは、信仰の自由原則に反する。

荒ぶる霊の存在は、かつての兵士の者にとどまらない。先の大戦では生活者の犠牲者の方が圧倒的に多かった。さらに今般では、交通事故、犯罪被害者などなど、多くの国民が非業の死を共有している。そうした死者を特定の宗派が管理することができないばかりか、管理すべきでない。国民の死を特定の宗教施設に集め、特定の宗教の儀式に基づき祀るという制度は明らかに憲法違反だ。簡単に言えば、靖国に祀られている霊については、一度、靖国管理から解き放ち、遺族に任せるべきなのだ。

御霊信仰を信じ、非業の死者として靖国神社に祀ることを望む方々は、靖国合祀を選択すればいい。そうではなく、わが子の戦死を、靖国を含めた日本帝国主義の犠牲者だと考える方々は、靖国ではなくその意思に基づき、自らの手で、その霊が安らぐ方法を選択すればいい。

御霊信仰は日本の古い信仰(おそらくその起源は8世紀前後に遡れると思う)だけれど、いま現在、国民すべてがそれを共有していない。死後の霊の存在を信ずるかどうかという基本的命題がある。いま、死者と生者が向き合う方法としては、墓参が一般的になった。人々は神社に死者を祀る信仰があることすら知らない。ましてや、非業の死者が人々に災厄をもたらすと信ずることは稀だ。

靖国がいまなお、戦死者を顕彰するのであれば、それは帝国主義戦争の正当化にほかならないという意見を否定できない。また一方、靖国が死者の魂を安らかに眠らせるためのものであるのならば、靖国かそうでないかの選択は、遺族の選択にまかせるべきだと言える。靖国を真に「解放する」という意味は、靖国神社が遺族の意思を確認するところから始まるのではないか。

戦死者への思いは千差万別だ。肉親の戦死から、反戦平和を学ぶ遺族もいるし、国家のための名誉の死と受け取る遺族もいる。靖国は、後者にとって必要欠くべからざる施設だと思う一方、前者にとっては、肉親を無益な死に追いやった憎むべき施設と映るだろう。さらにアジアの戦争被害者にとっては、靖国こそ日本帝国主義の象徴であり、侵略を補完した施設として、嫌悪の対象ともなろう。

わが国には、いまだにアジア太平洋戦争肯定論が絶えない。肯定論を弾圧することはできないと同じように、靖国を否定することもできない。だが靖国神社が遺族の意思を確認しないまま戦没者を管理するとなると、靖国神社はアジア太平洋戦争を肯定している、と見られても仕方がないではないか。

国民に決定権

冒頭に戻るが、靖国問題とは、戦死者を管理するのは特定の神社か、国家か、あるいは著者(稲垣和久)が言うところの、抽象的公共か、遺族か・・・という問に収斂する。さらに、戦死者とは何かがより重大な問題となる。少なくとも、アジア太平洋戦争だけで、日本国民350万人以上、アジア各国を合わせると数千万人ともいわれる戦争犠牲者が存在する。それに日清、日露戦争等々を含めれば、どのくらいの戦死者がいるのだろうか。戦死者の慰霊とは、日本人に限ることもない。戦争によって命を亡くした方々の霊を祀るにとどまらず、反戦平和祈念のための慰霊施設はいるのかいらないのか、いるとすればだれが、どこにつくればいいのか――それらを決めるのは、国民以外いない。国民が次の選挙において、各政党が掲げる靖国問題に対する政党見解を選択するしかない。各政党は靖国見解を明瞭にまとめて国民の前に掲げる義務がある。それは法制化を意味しない。政党の「考え方」でいい。国民の総意が判明すれば、靖国神社はそれを受けて自主的に国民の総意に従うことが重要となる。

2006年8月17日木曜日

『神風連とその時代』

●渡辺京二〔著〕●洋泉社MC新書●1700円+税

「神風連」とは周囲から嘲笑を込めて冠せられた戯称で、正式には敬神党という。明治9年、熊本で太田黒伴雄らを首謀者として維新政府の廃刀例等に抗議し、わずか100余名で挙兵したものの鎮圧され、その多くが戦死もしくは自害した。本書はその思想、指導者、参加者、時代背景について詳述したもの。誠に示唆多き書である。

神風連が維新初期に起きた士族の反乱と一線を画する所以は、彼らが宗教的秘密結社であった点である。彼らは決起を「うけい」という神の意志に委ねている。また、彼らのスローガンの1つに、「神事は本、人事は末」というのもある。

敬神党の指導者は林櫻園という神秘的思想家で、決起の前(明治3年)に他界している。神風連の思想的特徴としては概ね尊皇攘夷であり、明治政府が取り入れた欧化政策に悉く反発した。決起の表向きの動機は廃刀例であったことは先述したが、彼らにとって刀剣とは、神国日本の象徴であり、刀は武士の魂というよりも、古代天皇制共同体と今(維新期)を結びつける媒介であった。

著者(渡辺京二)は、神風連の乱を文明の衝突と認識する。維新政府は天皇中心の西欧的近代国家を志向したが、神風連は、天皇を教祖にして治者として崇める、原始共同体を夢想した。

彼らは、維新政府が進める欧化政策に対して、民衆の基層にある神をもちだし、古代天皇制原始ユートピア社会の誕生を志向した。といっても彼らに国家だとか共同体とかいった認識はなかった。ただ、欧風が進めば日本古来の神が死滅し、日本人の根本原理が廃絶されると考えた。ゆえに、決起に勝ち敗け、成功・不成功といった相対的政治的意向は無視された。決起=死であり、それが思想表現=殉教であった。

神風連の乱以降、維新政府から昭和の軍国主義政府成立まで、彼らは純粋な国粋主義者として顕彰されてきた。また、戦後にあっては、狂信的ファシスト集団として扱われてきたため、神風連の実像及び思想的独自性が歪曲されて世に伝えられてきた傾向を否定できない。本書をもって初めて、維新当時、日本に文明の衝突があったことが明らかにされたとも言える。

著者(渡辺京二)はその衝突が昭和初期の「2.26事件」で再び繰り返された、と指摘する。基層ナショナリズム、土俗的共同性、宗教的神秘主義が西欧的近代主義を真に超克する基盤であり得るのかどうか、また、今日の世界におけるタリバンらのイスラム原理主義と米国化(西欧化)との対立する現実を見るとき、わが維新期における「文明の衝突」について突き詰めて思考することは、けして無駄ではない。

2006年8月1日火曜日

近代浪漫派文庫『蓮田善明・伊藤静雄』

●蓮田善明・伊藤静雄〔著〕 ●新学社 ●1343円+税

蓮田・伊藤は、若き日の三島由紀夫に多大な影響を与えたことで知られている。

前者は太平洋戦争終戦直後、戦地において敵に内通した上官を射殺した後、自裁した。後者は自然賛歌風ロマン的詩風で詩壇に登場した後、戦時期になると戦争賛歌の詩作に転じ、戦後はその転位に苦悩しつつ病死した。

本書には蓮田善明の未完小説『有心(今ものがたり)』が収められている。この小説は、戦地から一時帰休した主人公(蓮田自身か)が阿蘇山の麓の温泉地に長期保養をしながら、阿蘇山頂(外輪山の頂点がどこなのだか不明だが)を目指して登山する様子が淡々と描かれ、頂上付近の描写で筆が絶えている。

同書は未完ということを差し引いても、私には期待外れの内容だった。湯治場には、生活者が宿泊している。蓮田は彼らとそれこそ裸の付き合いを通じて、彼らの存在に圧倒される。たとえば、混浴の風呂場で若い女性の裸身を見て驚嘆したりする。そうした描写が自然賛歌を象徴するのだろうか。

評論としては、『雲の意匠』が蓮田の思想を端的に表している。雲を指標として、古今東西の宗教・思想と、日本の伝統的思想(日本主義)のあり方を比較検討しながら、日本のそれの独自性と優位性を傍証する。雲に象徴される日本主義とは非体系的、不定形かつ可変的なもの、曖昧で神秘的なものとなる。これが、日本浪漫派がイメージする日本の心か。

伊藤静雄の詩については、「好み」に還元して恐縮だが、特にコメントする作品がみつからなかったので触れない。