2018年8月30日木曜日

赤羽探索(2)

赤羽その他
台湾のソウルスイーツ。「鮮芋仙」

「鯵」の料理専門店


全国の焼酎を集めた専門店
被昇天の聖母・カトリック赤羽教会

赤羽(東京・北区)探索(1)

居酒屋の聖地として近年脚光を浴びている赤羽を探索。

「シルクロード」及びその周辺には居酒屋、バルが密集。





そのなかのクラフトビアパブ(Craft×Craft)へ
クラフトビールについて熱く語る橋本氏



2018年8月26日日曜日

ダメ虎改造論―阪神タイガース再建試案

最初に筆者の日本プロ野球(NPB)に係る立場を明らかにしておこう。まず、支持する球団はない。NPBは多く改善する余地があると思っている。強いていえば「アンチ巨人」。そのことと同義だが、読売が中心となり進めてきたNPB運営は、スポーツビジネスとしてはかなり歪んだものであると確信している。概ねそんなところだ。

ではなぜ、阪神タイガースについて書くのかといえば、阪神こそ、「アンチ巨人」の象徴的存在であり、阪神が読売を倒すことがNPB再構築のカギだと思っているから。阪神が読売より上位にあり続ければ、NPBの正常化も促進されると確信するからである。

ダメ虎、宿敵読売に7年連続の負越し

しかるに、2018シーズン(2018/08/25現在)、阪神は3位ヤクルトに0.5ゲーム差の4位。2位読売との対戦成績7勝13敗とすでにシーズン負越しが決まっている。これでなんと7年連続で読売に負越しである。

セントラルリーグにおいては広島が独走状態にあり、クライマックスシーリーズ(CS)進出が興味の対象に移行しているが、このままなら、阪神がBクラスで終わる可能性は十二分にあり得る。

阪神再建のための具体案

ダメ虎を脱するために来シーズンとるべき方策を列挙しよう。第一がスタッフに係る問題で、現監督・金本知憲の更迭及び投手コーチを除くコーチ陣の総入れ替え。併せて、ゼネラル・マネジャー(GM)制度の敷設(ただし、見識ある者の就任が条件)を提言する。第二は個々の選手に係る方策で、ここでは「正捕手」梅野隆太郎に代わる捕手の獲得及び藤浪晋太郎再生法についてふれる。

理論なき金本野球

金本監督のダメさ加減の象徴は、読売との19回戦(8/25)に端的にあらわれた。読売の先発クリストファー・クリソストモ・メルセデスに右打者を並べて2安打完封に抑えられ完敗した試合である。すでに多くのスポーツメディアが金本批判を繰り広げているのでここで詳論するつもりはないが、大雑把にいえば、メルセデスが左打者に弱い左投手というのは球界の常識のみならず野球ファンのそれとして定着している。にもかかわらず、金本が先発で右打者を並べた根拠がわからない。その根拠を明言してくれれば、結果はともかく金本采配を容認する余地はあった。右には左、左には右という固定概念しかもちえないのでは、監督とはいえない。この試合、代打に登場した左打者のエフレン・ナバーロがチーム初安打を放ったが、次のイニングにナバーロを守備に就かせず1打席でベンチに下げてしまった。金本は読売に勝つ気がないとしかいいようがない。ことほどさように、金本采配は無茶苦茶である。

前出の対読売7年連続負け越しのうち3年は金本が監督を務めたシーズンに当たる。「アンチ巨人」の筆者としては、いますぐにでも金本の更迭を希望する心境にある。

失敗続きの金本監督の3シーズン

およそ3年間の金本采配を大雑把に振り返ってみよう。就任初年(2016シーズン)、金本は「超変革」をスローガンに掲げて若手を積極起用し、話題をさらった。が、結果は4位。話題性とは裏腹に実績は上がっていない。このときスポーツメディアは金本に寛容だった。「若手の活躍」を称賛したのだが、実際はそうではなかった。しかも、才能のある藤浪投手を潰してしまった。「藤浪問題」については後述する。

2017シーズンは2位。この成績を推進したのは金本が積極起用した若手打者の力ではなかった。攻撃面では、MLB帰りの福留孝介と、FAで新たに獲得した糸井嘉男、生え抜きの鳥谷敬らのベテラン打者であり、守りの面では鉄壁のリリーフ陣だった。反対に、金本は若手打者をレギュラーに育て上がられず、選手起用は混迷した。

そして今(2018)シーズンはごらんのとおり、2017シーズンで酷使した救援陣が投壊、ベテラン打者陣は勤続疲労状態、若手はさらなる伸び悩みでAクラスも危ない状態だ。3シーズンで、金本が残した遺産はゼロ。むしろ、掛布雅之(2014-2015シーズン、新設のゼネラル・マネジャー付育成&打撃コーディネーター。2016-2017シーズン二軍監督)の遺産(若手打者陣)の継承にも失敗した。

なお、金本が更迭となればコーチ陣も入れ替えになるだろうが、ここでスタッフ人事については詳論しない。ただし、投手陣を整備した香田勲男を中心としたピッチングコーチ陣については評価すべきである。

GM制度を復活せよ

阪神球団は2015年以降、GM制度を廃止した。前出のとおり、掛布はGM制度があった2013に育成&打撃コーディネーターに就任し、以降、二軍監督時代を通じて、若手打者を育成してきた。ところが、2016シーズンから一軍監督を務めるようになった金本と対立し、2017シーズン終了とともに二軍監督を退任している。GM制度があれば、2018シーズンに掛布が阪神球団を去ることはなかったのではないかと推測する。と同時に、若手打者陣がここまで成績を下げることもなかったのではないかとも。


優良助っ人の獲得に本気を出せ

そればかりではない。阪神球団を悩ますのが「外国人問題」である。主砲として期待されたゴメス、ロサリオが期待に反し、2年連続で攻撃陣の補強に失敗している。

しかしながら、阪神タイガースは伝統的に、優秀な外国人選手を獲得する球団として定評があった。打者では、いまや伝説と化したランディ・バース、MLBに戻って大活躍したセシル・フィルダー、セリーグ最多安打のマット・マートン、投手では在籍中のランディ・メッセンジャー、JFKの一角として活躍したジェフ・ウイリアムス、先発で活躍したマット・キーオ、MLBに移籍したクローザーの呉昇桓…と、阪神に在籍した優秀な外国人選手を挙げれば枚挙にいとまがない。

ところが、GM制度を廃止し、金本が監督に就任したからというもの、とりわけいい外国籍打者の入団が途絶えた。外国人獲得だけがGMの仕事ではないけれど、球団として、とりわけ、戦力となる好打者の獲得に尽力してもらいたいものだ。

オリックス伊藤光捕手獲得に動かなかったフロント

NPBでは捕手に悩みを抱えている球団が多い。そんななか、DeNAがシーズン中トレードで、オリックスから伊藤光捕手を獲得した。オリックスは阪神と同じ在阪球団。その内情は関東在のDeNAより把握しやすい状況にあったはずなのに。伊藤光の近年の球歴をみてみようーー

  • 2013シーズン:規定打席数に到達。.285の打率を残し、オールスターゲームにもファン投票で出場。
  • 2014シーズン:正捕手。ソフトバンクとのデッドヒートの中心的存在として活躍。そのオフには前年オフに引き続いて侍ジャパンに招集され日米野球に出場。
  • 2015シーズン:伊藤光の成績は急降下。春先から恒例の侍ジャパン強化試合にも出場し、開幕戦にもマスクをかぶったものの、次第に出番を減らし、二軍落ちも。チームの低迷のため森脇浩司監督がシーズン途中で休養すると、チーム低迷の責任をひとりで背負い込まされたようなかたちで、投手が打ち込まれると、伊藤のリードのまずさが指摘されるようになった。
  • 2016シーズン:現監督の福良淳一が正式に就任。チームは若い若月健矢を育てる方向に舵を切る。この年、投手陣が火だるまになった後、ベンチで伊藤が首脳陣から激しい叱責を受ける映像が流れた頃には、ファンの間でも、伊藤の立場がチーム内で極度に悪化していることが噂されるようになった。実際、「伊藤光」とネットで検索すると「干される」と言葉が続けて出てくるという。
  • 2017シーズン:若月に正捕手の座を明け渡し、ほぼ二軍暮らし。サードの練習にも取り組まされ、公式戦でスタメン起用されたこともあった。
  • 2018シーズン:シーズン途中の7月、DeNAにトレードで入団。伊藤光29才である 。
筆者は阪神の「正捕手」梅野を買っていない。彼のリードは弱気である。弱気というのははなはだ情緒的な表現だが、別言すれば策がないとなる。24日、25日の対読売との2試合、梅野は先発の秋山拓巳、小野泰己の良さを引き出せなかった。

読売打線はパワーピッチャーに弱い。腕を振って強い球を投げる投手には腰を引きがちだが、変化球主体で弱い球を投げる投手にはめっぽう強い。前のカードのDeNA戦、読売はカード初戦のDeNA先発・平良拳太郎を打ち崩したが、2戦目(井納翔一)、3戦目(東克樹)には沈黙した。平良がスライダー主体の逃げの投球だったのに反し、井納・東は速球主体にスプリットもしくはチェンジアップを織り交ぜての投球で読売打線を寄せ付けなかった。井納、東をリードしたのがオリックスからきた伊藤光で、平良と組んだのは嶺井博希(途中、伊藤光に交代)だった。

この3試合で伊藤光のリードが完璧だったとはいわないが、彼のリードには光るものがあった。阪神はその伊藤光の獲得に少なくとも乗り出すべきだった。トレードが成立するかどうかは別問題。他球団の余剰戦力を探るくらいの動きが球団にあっていい。

それだけではない。梅野のリードの悪さはとりわけ、読売の岡本和真に打たれすぎること。2018シーズン序盤、岡本は阪神戦で好打を続け、自信をつけた。岡本を「育てた」のは、阪神投手陣で、その中心に捕手・梅野がいた。

藤浪を日本球界のランディ・ジョンソンに

藤浪の不調と金本監督就任はほぼ同期している。金本が監督に就任した2016シーズン、先発陣の柱である藤浪が広島戦の序盤で5失点し、懲罰で完投こそさせなかったものの結果的に8回161球を投げさせた。しかも、延長戦で投手に打席が回るも代打を出さず、それが響いて敗れるといった不可解采配を続けた。藤浪を潰したのは金本だという評価は球界に定着している。

しかし、藤浪再生は監督が代われば解消するのかというと、筆者はそう思っていない。精神面だけでもない。藤浪の最大の欠陥はコントロール不足で、右打者の頭部近くに抜けるボールが多く、ベンチにしてみれば危険球退場のリスクがついてまわる。打者にしてみれば、野球生命にかかわる問題であり、投手の退場でイーブンではすまされない。

藤浪本人も打者にぶつけてはまずいと思っているから、右打者の外中心のスライダー中心の組み立てにならざるを得ない。フォーシーム、ツーシームが抜ければ危ないし、カットボールでも危険があるから、球種に限りが出てくる。おっかなびっくりフォーシーム、ツーシームを投げれば腕が振れず、威力は半減する。四死球が多くなり、カウントを不利にして打たれる。藤浪の負のスパイラルはそこにある。

筆者は、藤浪のノーコンがオーバースローに起因すると考える。藤浪の体型と投球フォームのバランスは横回転で威力を発揮するように思える。いまのままで負のスパイラルから脱せずに引退するのならば、フォームを改善して勝負に出るべきではないか。彼はまだ24歳なのだから。

腕の位置がスリークォータなのがはっきりわかる
身長が高くリーチのあるスリークゥオーターの大投手といえば、MLBの左腕・ランディ・ジョンソンが思い浮かぶ。左腕歴代最多となるサイ・ヤング賞5度受賞、歴代2位の通算4875奪三振を記録した大投手だ。

Wikipediaによれば、ランディ・ジョンソンはメジャーリーグでも稀な2mを超す長身で、サイドスローに近いスリー・クォーターから繰り出すフォーシームは最速164km。さらに2種類のスライダー、スプリッター、ツーシームを投げ分ける。身長の分だけ腕も長く、横に変化する高速スライダーは左打者にとっては背中越しにボールが現れる上に至近距離まで球筋が見極められず、非常に打ちづらい――と紹介されている。

藤浪も身長197㎝と日本人投手としては群を抜いた長身である。ジョンソンと同様に腕を下げ、コントロールをよくして、スライダー、フォーシーム、ツーシームを投げ分けたら打ちづらい投手になるように思うのだが。いまのままずるずる引退するか、ランディ・ジョンソンを研究してフォーム改造に取り組むか――決断すべき時(年齢)だろう。

金本体制の阪神タイガースでは選手が委縮するばかりで、若い才能が開花しにくくなっている。金本の独善的で非論理的野球観では選手がついてこない。強権的かつ自分の「成功体験」にまかせた、一方的選手対応では、選手との溝は広がるばかりだ。

阪神タイガースは球団をあげて、チームの弱点を補うための適正な補強計画及び情報収集に努めなければいけない。そのためにはGM制度の再導入は必須である。逸材、藤浪の再生も急務である。来シーズン以降、総合的球団経営を任せられる近代的野球人をGMに据えて、捲土重来を期してもらいたいものだ。

2018年8月15日水曜日

『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略』

●小杉亮子〔著〕 ●新曜社 ●3900円+税

いま(2018)からおよそ半世紀前、世界同時的に“異議申し立て”運動がわきあがった。米国、西ドイツ、フランス、イタリア等の学生運動の活発化、中国には紅衛兵の登場…そして日本においても、学生を中心とした若者が反体制運動を展開した。こうした動きは今日、その中心年をとって、“1968”(の思想、のムーブメント…)と呼ばれている。

語り(聞き書き)を基盤とした東大闘争の検証

本書は、当時、国民的関心を集めた東大闘争を日本における“1968”の象徴的事例として取り上げ、その詳細な検証を通じて、“1968”を読み解く試みである。“1968”についての論考、なかんずく東大闘争に係るそれは本書が初めてではない。なかで、本書でしばしば引用されている『1968』(小熊英二著)がよく知られている。同書が当時のビラ、報道資料、大学及び全共闘により刊行された記録等の二次的試料から東大闘争を論じているに反し、本書は闘争参加者44名にインタビューを試み、時代の証人として、彼らの語りを論考の基礎として加えているところに前掲書との違いがある。その44名の内訳は、東大全共闘を構成した二派(新左翼党派、ノンセクトラジカル)、そして、民主青年同盟(日本共産党学生組織。以下「民青」と略記)系、さらに当時ノンポリと呼ばれた一般学生に及んでいる。そのことにより、東大闘争=全共闘運動という既成イメージは打破され、東大闘争の多様性が明らかにされている。

ふたつの観点

本書の観点は以下のように明示されている。
以下の2点に着目することによって、1960年代の学生運動の内在的理解をめざしたいと考えている。第一に、1960年代の学生たちは、当時の社会運動セクター全般の動向と軌を一にして、社会運動のありかたをめぐる葛藤を抱えていた点である。第二に、この葛藤を前に、1960年代学生運動参加者たちは予示的政治と戦略的政治という異なる運動原理のいずれかを志向することになり、1960年代学生運動は両者の対立と共存としてとらえられる点である。(P17)
(一)1960年代学生運動の葛藤

第1点目の1960年代学生運動の葛藤とは、当時における共産主義運動の分裂及び混迷と別言できる。60年安保闘争の過程で日本の左翼陣営、とりわけ学生組織は二つに分裂した。学生運動の主導権は主流派と呼ばれる共産主義者同盟(ブント)が掌握し、主流派は日本共産党、日本社会党を、資本主義の延命に手を貸す――真の階級闘争に敵対する――反革命勢力と規定した。彼らは国会突入等の強行的運動を展開したが、警察権力、マスメディア及び日本共産党等の反暴力キャンペーンによって排除され、安保闘争も左翼総体の敗北に終わった。

60年安保闘争敗北による停滞のなか、新旧左翼が対立したままの状況を脱したのが、1967年、新左翼学生組織三派=ブント、革命的共産主義者同盟(以下「革共同」と略記)中核派、社会主義青年同盟解放派(以下社青同解放派)による第一次羽田闘争の開始だった。しかし、一見、新左翼学生運動が新たな展開を見せたように報道されたが、全国の大学における左翼運動の実態としては、60年安保闘争時の対立構造、すなわち旧左翼=日本共産党=民青⇔新左翼=ブント、各共同中核派・革マル派、社青同等の対立が内在したままだったばかりか、民青の学園支配が圧倒的だった。本書が東大闘争のアクター(主役)の一人として、新左翼と対立する民青を登場させたことは、東大闘争の検証において当然であり、必然といえる。日本共産党は、党勢維持と民青の拠点校・東京大学をあらゆる手段を講じて新左翼から守りとおしたのである。

(二)反スターリニズム――学生運動の葛藤の核心

本書が社会学者(小杉亮子)の手になるため、学生運動の葛藤の核心部分に係る記述が皆無であるという難点を有している。学生運動が新旧左翼の対立を内在させていた素因はいうまでもなく、スターリニズム(ソ連型社会主義)を容認するか否かにあった。日本の左翼陣営では、反スターリニズムの立場に基づき、日本トロツキスト連盟が結成(1957)され、すみやかに革命的共産主義者同盟(革共同)に移行している。同セクトが“1968”における新左翼学生運動の中心的勢力である中核派と革マル派を形成する。

反スターリン主義を取り上げることは、それを突き詰めるならば、政治運動、共産主義運動のイデオロギー的側面にとどまらず、人間の存在に係る自由の問題に行き着くゆえに重要である。

1956年、欧州ではハンガリー動乱へのソ連軍の弾圧があった。同年、フルシチョフの「スターリン批判」が公表されたものの、現実のソ連においては、粛清、言論弾圧、強制収容所、密告制度等が人民に対する抑圧手段として機能していた。1968年には「プラハの春(チェコスロバキアにおける反ソ運動)」に対し、ソ連軍が戦車を進軍させて弾圧をはかった。この事実は、ソ連型社会主義に対する失望と幻滅を増進させ、左翼知識人に衝撃を与えた。やがて、「反スターリニズム」は当時の国際共産主義運動の共通言語に昇華した。

前出の日本における反スターリニズム運動の開始は、世界的潮流となってきた反ソ連、反スターリニズムに同調した現象であり、1960年代中葉から1970年初頭において、それが新旧左翼を分かつ最大の争点となっていた。

(三)反スターリニズムと“1968”

“1968”のムーブメントは、学生運動に限定されるものではない。ヒッピーに代表されるコミューン運動、スピリチュアル運動、ニューエイジ運動、そして、プロテストフォークソング、ロック、ハプニング、ニューシネマなどの登場に代表されるサブカルチャーを含めた文化総体に及ぶものだった。

そのとき、学生大衆に強く意識されたのが、反管理社会、すなわち自由を希求する心的ムーブメントだった。であるから、東大闘争において(もちろん全国の学園闘争においても)、反スターリニズムを標榜する新左翼のほうが、旧左翼=民青よりも、活動家及びそのシンパのみならず、ノンポリ学生からも支持されたのである。

彼らは、フォークソングやロックを支持するように日本共産党と敵対する新左翼を支持した。彼らの心情の裏側には、前出のソ連における粛清、言論弾圧、強制収容所、密告制度といった自由を抑圧するスターリニズム及びそれと等価の資本主義国家装置への反感、嫌悪が内在していた。東大闘争(すなわち1968)を考証するに、反スターリニズムの視点なくして論じられない。本書の視点における最大の、そして致命的な欠陥は、反スターリニズムに係る記述がすっぽり欠落している点にある。

さはさりながら、そうした学生大衆の心情を内包した新左翼学生運動は、その心情ゆえに、運動の後退、敗北、組織的壊滅を余儀なくされるに至った。このことについては後述する。

(四)予示的政治と戦略的政治という異なる運動原理

予示的政治とは耳慣れない言葉である。著者(小杉亮子)は、1960年代学生運動について、「予示的政治と戦略的政治という、社会運動をつくり動かしていくさいに見られるふたつの普遍的な運動原理の対立と共存としてとらえるものである(P21)」と明示している。以下、著者(小杉亮子)によるその定義を書き抜く。
予示的政治(prefigurative politics)は、1990年代以降の反グローバル文化運動の理論的根拠とされ、注目を集めてきた。(略)予示的政治では、社会運動の実践そのもののなかで、運動が望ましいと考える社会のありかたを示すような関係性や組織形態、合意形成の方途を具現化し、維持することがめざされる。そこでは、運動がその手段となるような、いずれ到達する理想や目的は前提とされない。望ましいとされるのは、目的に向けた合理的かつ効率的な行為ではなく、参加者がみな尊重される合意形成過程をへて決定された行為の遂行である。仲間や同志との関係性やこのとき・この場での行為そのものが変革を構成していると考えられるため、結果として、国家をはじめとするマクロ的な権力にたいする挑戦という性格よりも、ひととひととの関係や共同体のありかた、文化といった、相対的にミクロな次元に見いだされる社会内権力への挑戦という性格を強くもつことになる。(P21~22)
その反対となる戦略的政治とは――
各々の社会運動はそれぞれが掲げる理想の社会を構成する論理=ロゴスに到達するための手段」(略)だと考える限り、「今ここで運動にかかわっている人の『生』のあり方そのものはカッコに入れられてしまう」(略)ことであった。(略)(戦略的政治の)具体的な例としては社会主義運動やマルクス主義運動が考えられるだろう。
(略)
戦略的政治ではマクロな社会変革がめざされ、かつ社会運動における行為は道具的なもののとして位置づけられる。予示的政治は、戦略的政治を批判するもので、社会運動における行為はそれそのものが変革を構成する自己充足的なものとしてとらえるために、よりミクロな次元での変化や創造に重要性を見出す。
(略)
結論を先取りすれば、筆者(小杉亮子)は、1960年代学生運動の過程をとおして参加者は、マルクス主義学生運動という戦略的政治志向の色濃い運動の参加者たちと、それを批判し、異なった方向の学生運動を形成しようと、すなわち予示的政治を自然と志向することになった参加者たちとに分岐していったと考えている。そして、予示的政治と戦略的政治の対立が参加者間の深刻な対立というかたちをとったことによって、1960年代学生運動参加者は予示的政治・戦略的政治いずれかへと、その志向を純化させていくことになった。(P22-23)
東大闘争における予示的政治志向と戦略的政治志向の実態

著者(小杉亮子)の区別に従って、東大闘争の主体を分類すれば、予示的政治志向者=東大全共闘を構成したノンセクトラジカル派及び全共闘シンパ学生(全共闘を心情的に支持したノンポリ学生を含む)となり、戦略的政治志向者=新左翼各党派及びそれとイデオロギー的に対立した日本共産党(民青)となる。

ところで東大闘争を激化させた主因は、学生・院生等の処分とそれに係る不明瞭な大学側の処置にあった。さらに全学的に闘争を拡大させたのが、反対派学生を弾圧するために大学当局が行った最初の機動隊導入にあった。大学当局とりわけ教授会は、処分及びその抗議行動に対する措置に無能ぶりを晒したため、全学的に反大学機運が盛り上がった。学術的に高名な教授たちの実際の姿は、政治的にも事務的処理にも無能で、そのくせ官僚的、権威主義的な俗物だった。彼らの専門バカぶりが全学生規模で明らかになってしまった。こうした大学当局に学生が反発した背景には、前出のとおり、ソ連型社会主義=スターリニズムに対する反感、粛清、言論弾圧、強制収容所を伴った権威主義体制への嫌悪があった。進歩的文化人教授(会)=スターリニスト=権威主義、官僚主義、保守的文化人教授(会)=資本家の手先、国家主義(機動隊導入)であり、どちらも自由の抑圧者であった。

東大全共闘の前身・全闘連と予示的政治

東大闘争の火付け役であり、いっとき闘争を牽引した集団が医学部インターンや各学部の助手、院生といった研究者であったことは、東大闘争が日大闘争に代表される全国的学園闘争とを分かつポイントである。彼らはアカデミズムに内在する権威主義と階層秩序に隷属する自らの地位の向上と解放を闘争の発端とし、学問とは何か、大学とは何か、研究者の倫理とは何かを問うた。彼らは東大闘争をつうじて解放大学、自主講座等を開講し、権威主義的アカデミズムに対する異議申し立てを実践した。彼らの運動は著者(小杉亮子)の先の分類に従えば、無自覚であるが、予示的政治の実践者であった。

党派が介入する前の東大闘争の本源は、1966年に理学部で結成された、べ反戦(東大ベトナム反戦会議)に求められるという。筆者はこの組織名を知らなかった。後に運動の中心的役割を担った東大全闘連のうちの4人がベ反戦のメンバーだったという。
べ反戦は、1966年9月に東大理学部・工学部・経済学部の大学院生と助手が中心になって結成された東大ベトナム反戦会議を指す。メンバーには、のちに東大全共闘代表になる山本義隆、新聞研究所研究性の所美都子などがいた。東大べ反戦の運動論にはとくに所美都子が大きな思想的影響を与えたという。山本義隆は次のように書いている。
「運動のなかでの個人と組織の関係を考えつづけていた彼女の到達した地点が、運動の組織論として上下の関係があるのではなく反戦の意思を持った個人の集まりが横に繋がっていくというものであり、その彼女の組織論に共鳴して私たちは集まっていました。組織による強制もなければ統制もなく、引き回しや代行主義もなく、一人ひとりが自分たちの責任で闘い、立ち上がった諸個人が闘いのなかで横断的に連帯を求めてゆくというもので、その後、東大闘争で実現をめざした組織論のハシリのようなものでした」本書第4章の注19(P129)
Wikipedeia――所美都子(ところ みつこ、1939年1月3日 - 1968年1月27日)は、日本の女性学者・新左翼活動家。東京都出身。トマノミミエの筆名も持つ。
お茶の水女子大学大学院・大阪大学大学院に学ぶ。在学中から学生運動に入る。1960年の羽田ロビー闘争などに参加。1966年、東京大学ベトナム反戦会議立ち上げに参画。1968年、膠原病にかかり死亡した。
〔主な論文〕
「予想される組織に寄せて」『思想の科学』
「女はどうありたいか」『思想の科学』

Wikipedeia にあるとおり、所は1968年1月に逝去している。命日は東大安田講堂攻防戦のおよそ1年前に当たる。

東大闘争参加者の分解過程と新左翼運動の衰退

東大闘争は、闘争末期から終期において、前出のとおり、戦略的政治的志向者と予示的政治のそれとに分解した。前者は全共闘の旗をすて、新左翼各党派の旗のもと、70年安保闘争を戦って敗北した。後者の一部の者は、東大闘争の分岐点であった1969年1月の安田講堂攻防戦後も学園闘争を継続しつつ、自らが専門とする社会問題に対して異議申し立てを党派と係わりなく継続した。

1970年以降、連合赤軍事件及び新左翼内部の内ゲバ闘争の激化を契機として、新左翼各党派に結集した活動家、穏健なノンセクトラジカル派及び新左翼シンパの学生大衆は“1968”のムーブメントから離脱し、新秩序派として生活過程に埋没した。

“1968”以降の世界

東大闘争(1968)が切り開いた地平とは――本書からは、予示的政治の担い手が実際に登場し、戦略的政治が陥った、イデオロギーにとらわれたヒエラルカルでリゴリスティックな政治が後退した状況をつくりだしたことだ、と読める。しかし、“1968以降”についてはもう少し厳密な検証が必要だろう。たとえば、スラヴォイ・ジジェクは『ポストモダニズムの共産主義(ちくま新書)』において、それを以下のとおり批判する。
(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。・・・(略)・・・1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。・・・(略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義…の超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。
この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。・・・(そして、)おもに3つの形態がとられた。まず、過激な形での性的な享楽の探求、それから、左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。そして、最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(前掲書P99~103)   
つまり、“1968”は「ポストモダン」資本主義の出現の露払いにすぎなかったと。併せてジジェクは、「1968年の抗議行動とは、資本主義の三本柱(とされたもの)に対する闘争だった」と規定する。三本柱とは、①工場、②学校、③家庭、である。しかし、この各領域はのちに脱工業化型へ変容を遂げた。工場は外注化され、ポストフォーディズム的な非階層・双方向型共同作業に改編されている。学校は、公的義務教育に代わって私的でフレキシブルな終身教育が増え、伝統的な家庭に代わって多様な性的関係が生じている。

1968年に抗議行動を起こした新左派は、(日本の新左翼の場合は政治的に敗北したが、欧米においては、)まさに勝利の瞬間に敗北した。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのである。「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。

そのことを踏まえ、ジジェクは、マルクスの一連の概念の大幅な修正を試みる。マルクスは「一般知性」(知識と社会協働)の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性まで予見できなかったのだ。この枠組みのなかでは古典的マルクス理論でいう搾取はもはや存在しえないから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれていることになる。
(ポストインダストリアル資本主義では、)搾取はレント(超過利潤)の形をとる。ポストインダストリアル資本主義は「生成する超過利潤」に特徴づけられる(カルロ・ヴェルチュローネ)という。つまり、市場で「自然」発生しない条件を課すための直接権限=超過利潤を引き出す法的条件が必要になる。ここに「ポストモダン」資本主義の根本的「矛盾」がある。理論上は規制緩和や、「反国家」、ノマド的、脱領土化を志向しながらも、「生成する超過利潤」を引き出すという重要な傾向は、国家の役割が強化されることを示唆し、国家の統制機能はこれまで以上にあまねく行きわたっている。活発な脱領土化と、ますます権威主義化していく国家や法的機関の介入と共存が、依存しあっている。
したがって、現代の歴史的変化の地平に見えるものとは、個人的な自由主義と享楽主義が複雑に張り巡らされた国家規制のメカニズムと共存する(そして支えあう)社会である。現代の国家は、消滅するどころか、力を強めている。富の創出に「一般知性」(知識と社会協働)が果たす役割が重く、富の形式が「生産に要した直接労働の時間とつりあわなく」なってきたら、その結果は、マルクスが予期していた資本主義の自己解体ではなく、労働力の搾取によって生じる利潤から、この「一般知性」を私有化して盗みとる超過利潤への漸進的・相対的な変化である。(同P238~239)
そして、ジジェクは、現代の先進国に出現した、「三つの主な階級」について説明する。生産過程の三要素――①知的計画とマーケティング、②物的生産、③物的資源の供給――は独自性を強め、各領域に分かれつつある。

この分離が社会に影響した結果、現代の先進国に、(一)知的労働者、(二)昔ながらの手工業者、(三)社会からの追放者(失業者、スラムなど公共空間の空隙の住人)を形成したという。そして、(一)は普遍者に相当し、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義を、(二)は特殊性に相当し、ポピュリズム的原理主義を、そして、(三)は追放者として、より過激で特異なイデオロギー、をそれぞれ、もつに至るという。

そして、三分割プロセスの結果として、社会生活が、三分派の集結する公共空間が、ゆるやかに完全に解体されていく。この喪失を補完するのが各派の「アイデンティティ」政治である。集団の利益を代弁する政治は、各派ごとに特殊な形態をとる。それは、(一)知的労働者の多文化アイデンティティ政治、(二)労働者階級の退行性のポピュリズム的原理主義、(三)追放者の違法すれすれのグループ(犯罪組織、宗教セクトなど)、である。これらの共通するのは、失われた普遍的な公共空間の代わりに、特殊なアイデンティティをよりどころとしていることだ。

党を超える政治組織は可能か否か

長々とジジェクを引用したが本書に戻ろう。社会運動が、戦略的政治志向から予示的政治志向に移行すれば蘇生する、と考えるのは早計である。予示的政治志向が社会運動に新たな生命を吹き込むかについては、それが党支配を免れる運動組織を構築する契機となり得るか、という視点に立つ限りではないか。

歴史上、党支配の巨大にして完璧とも思えた体制がソ連であった。そのソ連が解体し冷戦は終わったが、党支配のシステム(体制)は、米国、日本、イギリス、ロシア、中国…すべての国家において共通している。EU加盟国においても、党の政治から自由ではない。その人類的弊害に自覚はあるものの、そこからの出口を人類はいまだ見出せていない。

2018年8月8日水曜日

本田のメルボルン移籍ーーOld soldiers never die; they just fade away

パチューカ退団後、移籍先が決まらなかった本田圭佑がオーストラリア(Aリーグ)のメルボルン・ヴィクトリーに移籍した。

武藤嘉紀のニューカスル移籍との比較

本田のメルボルンとの契約は、推定年俸(メディアによってまちまちだが)およそ3億円、1年契約らしい。移籍金はミランとの契約が満了となった時点から発生しない。もちろん、先のパチューカの移籍時も移籍金は発生していない。この年俸はAリーグでは過去最高額だという報道もある。

その一方、ドイツ一部リーグマインツ所属の武藤嘉紀は移籍金14億円、年俸4億円、4年契約(いずれも推定)でイングランド・プレミアリーグのニューカッスルへの移籍が決まった。

本田が画策したロシアでの就職活動は不発

本田の近年の動きは、ミラン(イタリア)入団を頂点にして、パチューカ(メキシコ)、そしてメルボルン(オーストラリア)と、あたかも坂道を転がる石のようだ。本田が、日本代表監督だったハリルホジッチを追放してまで得たロシア行きの切符は役に立たなかった。拙Blogで書いたように、ロシア大会で本田が画策した就職活動は残念ながら不発に終わったともいえるが、引退だけは免れた。

武藤26才、本田32才――将来性を考えれば、2人の年俸等の差異は驚くに値しないのかもしれないが、本田が年齢差を超越して「使える」選手ならば、欧州、南米からオファーがあっていいし、年俸が武藤を下回る理由がない。本田の市場価値は、彼のマーケティング価値を含めても、武藤を下回る程度だと理解していい。

W杯ロシア大会をふり返ると、本田(3試合途中出場で1得点)も武藤(1試合途中出場で0得点)も活躍したとはいいがたい。両者を比較すれば本田のほうが武藤の実績を上まわっている。にもかかわらず、武藤が本田を上回る評価を得たのは、武藤が17-18シーズンにおいて、メキシコのリーグではなく、ドイツのそれで好成績を上げたからだろう。

本田のオーストラリア行きは、欧州の有力リーグからオファーがなかったから

ではなぜ本田がオーストラリアに行くのか――その理由はシンプルで、欧州の有力リーグ(スペイン、イタリア、イングランド、ドイツ、フランス)からオファーがなかったから、と考えるのが自然だろう。オーストラリアよりは、アメリカ(MLS)、日本(Jリーグ)という選択肢もありそうだが、MLSやJリーグのクラブが本田にどれほどの年俸を支払うかは不明だし、よしんばオーストラリアより好条件で日本に復帰したとしても、イニエスタの年俸32.5億円3年契約(神戸に入団)にははるかに及ぶまい。本田が数億の単位でJ1と契約したとしたら、イニエスタ(34才)と比較され、本田のプライドは丸つぶれというわけか。しかしながら、Jリーグ活性化という観点からすれば、本田の日本復帰は悪くない選択だと勝手に思ったりもする。

本田がオーストラリアで現役を続行する狙い

オーストラリアで本田が現役サッカー選手として余生を送ることに無論、異論はない。だが本田のAリーグ入りは、FIFAクラブW杯(CWC)出場及び東京五輪オーバーエイジ(OA)枠での日本五輪代表入りを目指したものという推測も出ている。プロ選手として野望を持つことはあたりまえだけれど、最後まで目立ちたいのか、と眉をひそめる向きもある。

(一)メルボルンならCWC出場の可能性も

CWCについては、今年(2018・12月)、UAEにて開催されることが決まっている。本田が移籍したメルボルンはAリーグ(2017-18)で優勝を果たしており、ACL(アジアチャンピオンズリーグ)の出場権を獲得している。つまりメルボルンがACLに勝ち抜けば、本田がCWCに出場する可能性もなくはない。

なお、CWCはレギュレーションが変更され、これまでの年一回開催から4年に一度の開催に変更されたというから、本田がCWCに出場できる可能性が残されているのは、おそらく、今年で最後となろう。

(二)本田の東京五輪OA枠出場は五輪日本代表が目指すサッカー・スタイル次第

東京五輪については本田自身がOA枠での出場希望を明言しているから、本田のAリーグでの活躍次第及び五輪監督の森保の決断次第となる。自国の五輪開催に出場したいという気持ちはアスリートなら自然な願望だろうから、それはそれでいい。しかし、本田のOA枠出場の是非を論ずる観点は、五輪日本代表がどのようなサッカーを目指すかに係っている。

先のW杯ロシア大会からうかがえる短期戦における世界のサッカー・トレンドは、堅守、速攻、強靭なフィジカル・サッカーであった。日本のサッカーがこの潮流に乗るのか乗らないのか、あるいはそれに乗れないのか――は、2020年開催の東京五輪代表が示すサッカーのスタイルが試金石の一つとなる。

東京五輪代表は2022年カタールW杯を担う可能性の高い選手たちで構成されるはずだ。いま現在のプレイスタイルの本田が五輪に出場すれば、まわりの若い選手が本田に忖度して、「本田さん、シュートを打ってください」というサッカーをするような気がしてならない。そのようなサッカーは、前出のサッカー・トレンドから外れるし、勝機がない。本田の五輪OA枠出場は、日本のサッカーのマイナスとなる。東京五輪で闘う若い選手たちがのびのびと、前出の世界潮流に沿ったサッカーに取り組めるよう、OA枠選手の選択がなされなければならない。

Old soldiers never die; they just fade away

日本のサッカー界、現状では、本田に代わるスターが不在なのは確かだろう。サッカー界を盛り上げるため、彼を意図的に報道するという構造があるのかもしれない。世間が希望していることにメディアがこたえて何が悪い、という見方もあろう。

だが、アスリートの価値はプレーの価値だけであって、「カリスマ性」だとか「オーラ」だとか「お洒落のセンス」だとかではない。それらは日本のメディアがつくりあげた虚像にすぎない。本田の価値は、試合中、まわりのスピードに乗れず、ゴール周辺をうろうろする、「運動量の少ない」選手であり、相手から無情にもボールを奪われる「弱い」選手の一人にすぎない。Old soldiers never die; they just fade away(老兵は死なず、ただ消え去るのみ)


2018年8月3日金曜日

サッカー日本代表、鎖国状態に突入ー森保監督でいいのか

近年、サッカー日本代表におけるW杯終了後の最大の関心事の一つといえば、代表監督をだれにするかであったが、2018年はすんなり決まった。森保一だ。

森保は便利屋か?

森保の近年のキャリアを見てみよう。2017年、2020年東京オリンピックを目指す五輪代表監督に就任。ところが本年4月、ハリルホジッチ当時日本代表監督の電撃解任と西野朗の代表監督就任を受けて、急遽、日本代表コーチとして新体制に入閣。もちろん、五輪代表監督を兼任したままだ。ロシア大会では西野代表監督を補佐して、日本の16強進出に貢献したといわれている。そしてこのたび、五輪代表監督及び日本代表監督を兼任して次回W杯に向けて日本代表を指揮するという。

前出のように、森保は五輪代表監督のまま、ロシアW杯日本代表コーチに就任し、W杯終了後には、当時代表監督の西野の後任として昇格している。このような人事は国家公務員のそれにそっくりではないが似ている。事務方トップの事務次官がA代表監督、五輪代表監督はその下の官房長、総括審議官か。

なぜ森保なのかがわからない

このたびの代表監督人事の特徴は、①A代表監督と五輪代表監督を兼任すること、②W杯終了後にして日本人監督の就任は今回が初めてであること――の2点。①については、2002年日韓W杯監督のトルシエに次いで2人目。トルシエの場合は、W杯が自国開催のため予選免除、森保の場合は、五輪が自国開催で予選免除。日本サッカー協会(JFA)が人件費を節約したという見方も可能だし、予選免除であるから、若く才能のある選手をA代表に抜擢しやすいという利点が認められる。自国開催=予選免除の場合に両代表の監督を兼任することは、それなりの合理性がある。

とはいえ、なぜ森保なのか――その積極的理由がはっきりしない。JFAの説明を聞いても釈然としない。メディア報道によると、これまでのW杯優勝国はいずれも自国監督だというデータがあるという。だから、日本も日本人監督でいこうと。これはいかにももっともらしい理由のように聞こえる。

「W杯優勝=自国監督」理論がいまの実力の日本に当てはまるのか

2018ロシア大会のフランス(デシャン)、2014ブラジル大会のドイツ(レーヴ)、2010南アフリカ大会のスペイン(デル・ボスケ)、2006ドイツ大会のイタリア(リッピ)、2002日韓大会のブラジル(スコラリ)…と調べればそのことは一目瞭然なのだが、筆者には納得できない。なぜならば、日本のサッカーがW杯で優勝するレベルにあるのかという問題意識が筆者にはあるからだ。日本がフランス、ブラジル、ドイツ、スペインと同等のレベルにあるのかと。

日本のサッカーを強くするために必要なのが日本人監督なのかという観点からすれば、W杯優勝国=自国監督という論理に納得することはできない。自国開催以外で日本がベスト16を果たしたのは岡田と西野といずれも日本人監督だという見方もあろうが、データが少なすぎる。日本のW杯出場と代表監督をふり返ると、1998フランス大会(岡田監督)=予選敗退、2002日韓大会(トルシエ監督/フランス)=ベスト16、2006ドイツ大会(ジーコ/ブラジル)=予選敗退、2010南アフリカ(岡田)=ベスト16、2014ブラジル大会(ザッケローニ/イタリア)=予選敗退、2018ロシア大会(西野)=ベスト16)と、わずか6回出場にすぎないなかで、自国監督にてベスト16入りをはたしたのが岡田と西野の2回。監督の国籍とベスト16入りの関係を云々するデータとしては少なすぎる。「日本人監督=ベスト16」と確言するデータにはならない。

日本人監督だから「日本らしいサッカー」はあまりに短絡的

ロシア大会日本16入りを受けて強く張り出した世論の一つが、「日本(人)らしいサッカー」という言説。これもいかにももっともらしいのだが、「日本人らしいサッカー」を最初に提唱したのは、ボスニアヘルツェゴビナ人のイビチャ・オシムだったことはよく知られている。いまJFA及びその御用メディアが口にする「日本らしいサッカー」というのは、外国人によってもたらされたという事実。このことは、日本人監督だから「日本らしいサッカー」が可能となるわけではないことの傍証になろう。

JFAは近年、オフト(オランダ)→ファルカン(ブラジル)→トルシエ(フランス)→ジーコ(ブラジル)→オシム(ボスニアヘルツェゴビナ)→ザッケローニ(イタリア)→アギーレ(メキシコ)→ハリルホジッチ(ボスニアヘルツェゴビナ)と、監督探しの世界旅行をしてきた。ところがここにきて日本人監督を就任させたのはなぜなのか。筆者は、JFA内部の特殊な事情だと推測している。

外国人監督の系譜

そこで、外国人指導者と日本サッカーの関係について、Wikipediaを参考にしつつ、改めてふり返ってみよう。日本サッカー界が海外の指導者を求めたのはいまから半世紀以上前に遡る。

(一)デットマール・クラマー(西ドイツ、1960-1964)

代表監督ではないが、日本サッカー界に最初に貢献した外国人として、デトマール・クラマーの名前を忘れるわけにはいかない。彼は西ドイツのいくつかのクラブでプレーしていたがケガのため引退。以降、指導者の道を選んだようだ。

1960年、クラマーは1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため、その代行監督として招聘された。日本サッカー協会は代表強化のために外国人監督を招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や会長である野津謙の決断で実現した人選だった。当時会長だった野津は、無名のクラマーを日本のコーチに招聘することについて周囲から猛反発を受けたが、クラマーの適性を見抜き、反対を押し切ってクラマーを招聘し、結果、日本サッカーの大躍進に貢献した。

なお仲介者の成田十次郎は、東京教育大学体育学部卒業(蹴球部所属)。在学中の1953年に関東大学サッカーリーグ戦で優勝、1954年に日本代表候補。東京大学大学院博士課程満期退学後、1960年にドイツ体育大学ケルン に留学する際、日本サッカー協会から戦後日本のサッカー復興のためのコーチ探しを依頼され、ドイツ国内のクラブチームから、当時ドイツでも日本でも無名であったクラマーを発掘した。1968年に東京教育大学の監督に就任し、関東大学サッカーリーグ戦で優勝。また、1969年から1972年まで読売サッカークラブの監督も兼任した。

成田が発掘したクラマーは日本サッカーの強化に尽力し、東京五輪では強豪アルゼンチンを撃破、その4年後のメキシコ大会で彼の教え子たちで構成された日本代表が銅メダルに輝いたことはよく知られている。また、そのときの監督は長沼健監督で後にJFA会長に就任した。なお、クラマーの通訳だった岡野俊一郎も長沼の後にJFA会長に就任している。

(二)ハンス・オフト(オランダ、1992-1993)


「ドーハの悲劇」のときの日本代表監督として知らない人はいない。彼は1976年にオランダユース代表(ユースサッカー育成プログラム担当)コーチに就任。その間、勝澤要(清水東高校)率いる日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に紹介され日本チームの世話をしたという。

1982年杉山隆一に招かれ当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)の2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。1984年に今西和男に招かれJSL2部のマツダSC(現・サンフレッチェ広島)コーチに就任。2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導いた。その後はオランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていたが、1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した。

(二)パウロ・ロベルト・ファルカン(ブラジル、1994)

ファルカンは現役時代から名選手として活躍し、引退後はブラジル代表監督にも就任した。

1994年にオフトの後任として日本代表監督に就任したものの、成績不振と指導方法への疑問から、代表戦2試合で更迭された。なお、ファルカンの招聘には、セルジオ越後の助力があったとされる。当時のJFA会長は長沼健であった。

(三)フィリップ・トルシエ(フランス、1998-2002)

1998年、初めてW杯出場(フランス大会)を果たした日本代表。その次の自国開催のW杯監督に就任したのがトルシエであった。当時のJFA会長は岡野俊一郎、代表監督選びの実務は、JFA技術部門の長であった大仁邦彌。

トルシエ就任の経緯は、ワールドカップ以後の続投を要請していた岡田武史前監督の辞任を受け、アーセン・ベンゲルに監督就任を依頼するもアーセナルFCと既に契約していることを理由に断られる。大仁によれば、その後協会は直接フランスサッカー協会と交渉し、ちょうどスケジュールの空いていたトルシエを紹介されたという。日本サッカー協会はベンゲルに彼の能力や人物像などについて相談しつつ、トルシエと契約を結ぶことに決定した。

岡野俊一郎によれば、ベンゲルに一度断られたあと、『2002年W杯の日本代表監督は貴方しかいない』と手紙を出したが再度断られ、技術委員会がベンゲルの推薦したトルシエにしたいというので、“ベンゲルの推薦なら”ということで、トルシエに決めたという。

トルシエはアフリカ各国の代表監督を歴任していて、いわばサッカー発展途上国の代表監督を専門職とするような指導者。そのかわり、彼のような者がビッグ・クラブの監督に就任することはない。

(四)ジーコ(ブラジル、2002-2006)

トルシエの後を受け、Jリーグのクラブの一つである鹿島を強豪にした実績を買われてジーコが代表監督に就任した。日本史上最強といわれた代表チームを率いたジーコだったが、ドイツ大会ではグループリーグ最下位で敗退。当時のJFA会長は川淵三郎(2002-2008)であった。

(五)イビチャ・オシム(2006-2007)

ジーコジャパンの惨敗を受けて、W杯南アフリカ大会を目指して日本代表監督に就任したのがオシム。旧ユーゴスラビアで選手・監督として大きな実績を上げた彼が日本のJリーグのクラブであるジェフ千葉監督に就任(2003)した。以降、千葉は大躍進を遂げた。オシムの指導理念とサッカーを語る言葉の力に日本のサッカーファンは多くを学んだものの、任期中に病に倒れ辞任。

Jリーグ初代チェアマンだった川淵、JFA会長の任期中、Jリーグのクラブに関係する外国人指導者を代表監督に選んだのは、偶然ではなかろう。

(六)ザッケローニ(2010-2014)~アギーレ(2014~2015)~ハリルホジッチ(2015-2018)

2009年以降、JFAにおいて外国人代表監督を探す職にあったのは、原博美(専務理事)~霜田正浩のラインだった。霜田は海外のサッカー界と幅広いパイプを持っていて、原は霜田をブレーンとしてJFAに引き入れ技術委員長にした。W杯ブラジル大会を目指してザッケローニを招聘できたのも霜田の手腕だったといわれている。ザックジャパンは、ブラジル大会直前に主力選手の一人がW杯「優勝」を宣言。日本中から期待されたものの一次リーグで敗退。実績は伴わなかった。

ブラジル大会終了後、ロシア大会に向け、原~霜田ラインによってハビエル・アギーレ(メキシコ)が日本代表監督に就任したが、八百長疑惑等で契約解除となり、その後任にハリルホジッチが代表監督に就任した。

2016年、JFA内の状況は一変する。原と田嶋幸三がJFA会長の座を争い、原が負けた。田嶋の政敵の原は新会長の田嶋によって降格人事を申し渡され、JFAからJリーグに転出した。霜田も同時にJFAから去った。そして、前出のとおり、原~霜田ラインで招聘したハリルホジッチは、W杯ロシア大会直前に田嶋により電撃解任されたことは記憶に新しい。ハリルホジッチは自身の解任理由の不透明性をめぐってJFAを提訴。いまなお裁判は継続している。

海外指導者招聘の陰にキーマンあり

こうして振り返ると、クラマーから始まったJFAの海外指導者招聘の経緯の陰には、キーマンともいうべき人物の存在が確認できる。クラマーを発掘した成田十次郎とクラマーの手腕を見抜いた野津謙(当時)JFA会長、オフトとオランダで親交を結んだ勝澤要とオフトを日本リーグに呼んだ杉山隆一、ファルカンと接触したセルジオ越後、ベンゲルと直接交渉をした岡野俊一郎(当時)会長。(結果、ベンゲルの招聘は叶わずトルシエになったが)。

その後、前出のとおり、川淵体制になってジーコ、オシムとJリーグクラブの監督経験者が二代続いたものの、原~霜田のラインの形成により、ザッケローニ、アギーレ、ハリルホジッチが日本に呼ばれている。

海外指導者とのパイプが途切れた田嶋JFA


田嶋がJFA会長に就任してからは海外にパイプをもつ人材は協会内から消えた。いまのJFAには、霜田に代わるべき海外通の人材がいない。田嶋自身にも現在の彼のブレーンにも、外国人代表監督候補を探して契約する手腕はない。霜田の後任の技術委員長は西野。そして、西野がロシア大会代表監督に就任した後釜には、海外のサッカー界と無縁の関塚隆が就任している。

JFA会長の田嶋及びその周辺は、海外サッカー界と没交渉のままロシア大会を終え、日本代表監督候補を探さなければならなかった。そこでJFA執行部が苦肉の策として編み出したのが、「代表は日本人監督」という論理。

鎖国・暗黒時代・ガラパゴス化した田嶋JFA

日本代表はもはや、暗黒時代に突入した。Jリーグがイニエスタやトーレスといった世界的名選手の加入で盛り上がりを取り戻している反面、JFAはその真逆の鎖国状態にはまった。Jリーグのサポーターがイニエスタやトーレスを支持するのは、彼らのサッカー技術・センス・姿勢に日本人選手にない、より上位のレベルのそれを認めるからであり、ビッグネームだからではない。

そのことは、次のように別言できる。サッカー先進国に選手として進出した日本人はいまでは数え切れないが、監督として進出した日本人はいないと。その実績がすべてを物語っている。森保の代表監督就任を批判したサッカーコメンテーターは、“日本サッカーのガラパゴス化の進行”と称したが、筆者もその見解に同意する。