2022年8月26日金曜日

旧統一教会問題を考える〔第一部〕

 世界平和統一家庭連合 (旧統一教会及びその政治団体である国際勝共連合等関連団体。以下「旧統一教会」という。)に関する報道が連日、メディアを賑わせている。多くの日本人は、日本人信者の多額の献金等が韓国の教団本部に還流することにより、教祖一族が私腹を肥やしていることをーーまた、彼らの政治活動に使われることを知り、素朴なナショナリズムを刺激され、大いに義憤を感じていると思われる。韓国がアダムで日本がイブという旧統一教会の教義に基づく日本(人)蔑視、とりわけ、合同結婚式で日本人女性がかの国で下流といわれる男性と結婚させられ、傷ついて帰国したなどという報道に接すると、義憤のボルテージはさらに高まって、〝旧統一教会憎し″の感情が日本中に充満しつつある。

 筆者はいまだ、旧統一教会問題の全体像を見通せる地点に到達していない。マスメディア(東京新聞「こちら特報部」など)及びインターネットに掲載されている関連記事などを参考として読みつつ、その全体像に迫ろうと情報収集を続けている。
 そんな中、筆者なりの視点として、①日本人の宗教観、②洗脳ーーという二本を柱として、なにかまとまりそうな段階にたどりついた。拙稿は論考途上のものであって、その後の状況次第では変更もありうる。よって、断片的メモとして読みとばしていただけれと思う次第である。

〔第一部〕旧統一教会と日本人の宗教観

 日本の旧統一教会信者はなぜ、教団が提供する壺、絵画、印鑑等を法外の価格で購入してしまうのか。あるいは、多額の献金をするのか、その理由を求めるための前提を整理する。 

旧統一教会はなぜ、日本(人)を集金ターゲットに定めたのか 

 旧統一教会はその勢力を世界に広げているが、彼らが回収する献金額は日本からがダントツでトップであるということ、換言すれば、日本以外の地域 (その本貫地である韓国を含めて)においては、信者を獲得することはできても、カネは獲得できていないと報道されている。日本人が元来ナイーブ(うぶ)な国民(性善説、他人を疑わない善良さ)なので、教団の口車に乗せられやすいのか。
 その一方で、教団の献金獲得ノウハウ(洗脳技術)がCIA~KCIA伝授のものなので、それに日本人信者が抗しきれない、という説もある。だがそれほど彼らの洗脳技術が強力なものならば、世界中の人間を洗脳することができるはずだし、世界中からより多額の献金が集まるはずなのだが、日本以外ではその洗脳技術とやらが効果を発揮していないように見える。日本以外の国では、彼らの洗脳技術が功を奏しない、つまり、日本人が洗脳されやすいファクターXがあるのかどうか。
 いや、教団が洗脳技術を日本以外の地域では意図的に用いない、という推論もあり得る。つまり、教団は日本を戦略的に集金地域と定めた、という推論である。その根拠は、前出のアダム国=韓国、イブ国=日本という旧統一教会の教義に求められる。日本は韓国に貢ぐ使命を帯びているということの立証として、つまり教義の正当性を立証するため、日本を戦略的に集金地域として定め、信者を集金活動に集中させたと言えるかもしれない。日本から多額の献金が集まっている事実をつきつけ、旧統一教会の教義は正しいでしょう、世界中の(日本人信者も含めた)信者に、イブ国の実在を証明してみせた、という見方も成り立つ。 

霊感商法

 一般に、市場におけるモノの値段は決まっていない。買う側がその価値を認めれば、たとえば、女子高生の着古した制服を信じられない価格で買う人もいる。違法ではない。買う側と売る側に合意が成立していれば、価格は統制されない。だから、鑑定価値、市場価値がない壺や印鑑、絵画を何億円で売ろうと買おうと自由である。霊感商法の違法性を証明することはだから、そう簡単ではない。要はそこにどのような説明がなされていたかに係る。
 たとえば、「これを買えばご先祖様の霊が慰められますよ」というくらいのセールストークであれば、それが違法だと証明することは難しい。「先祖の霊」の存在、非存在をだれも確認できない。先祖がそのような感情を抱くかも同様に確認できない。買う側がそれを信じるかぎり、自由な取引になる。似たような事例は無数にある。印刷で複製された一見美しい、無名の外国人作家(その人物が実在していることが前提)の作品 を5万円くらいのお手頃値段で販売している業者はあまた存在する。買う側が気に入ればそれまで。骨董屋にいけば、一見、高名な作家の贋作がおいてある。店主がなにもいわないかぎり、客が気に入れば店頭の価格で売っても問題はない。
 旧統一教会が霊感商法で世間を騒がせたのは1980年代のことであった。以来、対策弁護団の奮闘もあり、2018年6月8日に消費者契約法改正案が成立し、「消費者は事業者が消費者契約の締結について勧誘をするに際し、当該消費者に対して霊感その他の合理的に実証することが困難な特別な能力による知見として、そのままでは当該消費者に重大な不利益を与える事態が生ずる旨を示してその不安をあおり、当該消費者契約を締結することにより確実にその重大な不利益を回避することができる旨を告げるにより困惑し、それによって当該消費者契約の申込み又はその承諾の意思表示をしたときは、これを取り消すことができる」(法第4条第3項第6号)ようになった。これは霊感商法が禁止されたわけではなく、霊感商法について消費者は消費者契約を取り消すことができると規定されたにすぎない(取消権の期限は法7条により、追認をすることができる時から1年以内又は該消費者契約の締結の時から5年以内)とされた。(同法施行は2019年6月15日)
 繰り返せば、上記のような状況において、宗教団体等が勧めてきた霊感商品の契約を取り消すことができる、つまり、状況によっては、商品の返品⇔返金が可能となったにとどまる。だから前出のように「これを買えばご先祖様の霊が慰められますよ」というくらいのセールストークが禁止されたわけではない。神社で「破魔矢」が売られているが、その効用が証明されないからといって、販売禁止にいたるわけではない。 

献金と違法集金 

 近年、旧統一教会による霊感商法は減少しているとの報道がある。世間の警戒感が強まったからだろう。教団は路線を変更し、「物販」から「献金」に切り替えたようだ。献金の違法性の立証はさらに難しいのだが、教団の献金の一部が返金された事例もある。
 このケースは、妻が夫に内緒で、旧統一教会に1億円を献金していたとして、夫が妻(正確には裁判を契機として離婚が成立していたので元夫、元妻であるが)を訴えた裁判で、東京地裁は旧統一教会の不法行為を認定し、約3400万円の支払い(夫への返金)を命じたというもの。判決は「被告(旧統一教会)においては、組織的活動として、これまで、信者の財産状態を把握した上で、特に壮婦(献金した妻)の場合、献金によって夫を救い、夫の家系を救うことこそが信者の使命であるとして、夫や他の家族の金を拠出するように指示をし、夫の財産を夫の意思に反して内緒で献金する等の名目で交付させていたと言うことができる」と教団の計画性を認定し、「被告(旧統一教会)においては、専業主婦である妻が行った献金等について、その原資が原告(夫)の財産であり、原告の意思に反して出捐(寄付)されたことを認識していたと認められるから、上記出捐について、組織的な不法行為として原告に対して存在賠償責任を追うべきである」とつけくわえた。
 旧統一教会が献金を強要したわけではないが、①献金者(妻)の家族(夫)の財産状況等を把握していたこと(→計画性)と、②夫に内緒で夫の財産を献金させたこと(→夫の不同意)の二点がポイント。判決は、旧統一教会にたいし、献金されたうちの何割かを夫に返金させたにすぎない。夫が資産家であることを調べ上げて、妻に夫に内緒で献金を仕向けたことが明らかだから、教団が受け取った妻からの献金を夫に(一部)返しなさいよ、と裁判所が命じたものだ。安部を暗殺した男性の母親が全財産を献金してしまったというが、献金を法的には止められない。献金する者が納得のうえならば、金額の上限も下限もない。そこでこの問題の原点ともいえる洗脳の問題が立ちあがるが、そのことについては第二部で詳述する。

日本における、あるプロテスタント教会の実態 

 筆者の知人の一人に東京・下町の教会の牧師さんがいる。彼は国際基督教大学を卒業後、有名な公益法人に就職して、定年近くで退職、牧師の道を選び、現在の教会に赴任した。その教会は日本基督教団に属する。日本基督教団は公会主義、つまり、いかなるキリスト教の教派にも属さないキリスト教無教派の理念、理想を旨とする。日本基督教団は公会主義を継承する唯一の団体でもある。
 プロテスタントの教会の維持はたいへんだが、信者に献金を強要することはない。建物も設備も老朽化しているがそのままだ。もちろん、宗教グッズを売ることもない。信者やその周囲の人からの献金で運営しているが、おそらく持ち出しだろう。サラリーマン時代の貯えと退職金で賄っているのだと思う。本部からの資金援助という話は聞いたことがない。カトリックは金持ちで、余裕があると聞いたことがあるが、それでも信者から財産を奪うような献金をしているという話を聞いたことがない。 

Donation,Charity、利他 

 キリスト教にかぎらず、献金は英語ではcontribution、donationという。それと似た概念にcharity=慈善(行為)がある。charityは、慈愛、思いやり、聖書に説かれたキリスト教的愛、同胞愛、博愛、慈善の心、寛容、寛大さも意味する。たとえば、She donates to her  favorite charity every month.(彼女は気に入った慈善(事業)に毎月献金をする)と使われる。つまり、献金は自分のためではなく、困っている他者に向けた行為であって、祖先の霊を鎮めるためだとか、自分のいまの困難さを取り除くためなどで行うものではない。いまの自分を救済する方法は唯一、神を信じること、祈ることだ。
 教会に献金箱がおいてあるが、日本の神社にある賽銭箱とは異なる。献金箱に入れられたカネは教会を媒介して、貧者等にまわる。もちろん教会の建立、再建、保全のために献金が使われることがあるが、それで献金者が救われることにはならない。教会という公共物(信者=他者が使うための施設であり神の家)を維持するための行為である。キリスト教とて時代とともに変節し、権力者が「聖者」になるために多額の献金をしたり教会や聖堂を寄進するようになった。カトリックの総本山バチカンが、マネーロンダリングとして利用されているという報道もある。しかし、キリスト教の献金の本来のあり方は、利他の精神にある。仏教も利他の精神を基盤とする宗教である。 

賽銭が意味するもの 

 日本土着の原始宗教を母体として発展した神社神道はどうなのか。日本人は新年になると神社に参拝する。子供のころは神社で七五三という通過儀礼を行う。受験等の合格祈願も神社でする。神前の結婚式を挙げる者も多い。観光旅行やまちあるきの途上、通りすがりの神社に参拝することもしばしばである。その際、神社の賽銭箱に小銭を投げいれ、自分と家族の今年一年の健康、幸せを祈る。
 その賽銭であるが、賽銭とは祈願成就のお礼として、神や仏に奉納する金銭のことだった。貨幣経済が発展していなかった近代以前は、金銭ではなく幣帛・米などを供えた。「賽」は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味。「祭る・祀る」の語義は「飲食物などを供えたりして儀式を行い、神を招き、慰めたり祈願したりする」ことだという。だから神社で賽銭を投げて神に祈るのは、神から恩恵を受けるための前払いの儀式なのだ。本来は、神様のおかげでいいことがありました、ありがとうございました、とお礼の意味で賽銭を投げたのであるが、こんにち、あとさきが逆転し定着してしまった。そのため、祈願成就の「お礼」が標準的であった「賽」が遠のき、「お礼参り」といわれて、特別な儀礼に逆転してしまった。あとさきはともかく、賽銭は利他でなく、「利自」つまり自己を利する願いの代償であることは変わらない。賽銭に投げいれる金額が大きければ、それだけ自己を(神が)利してくれる確率が高まると考えられるようになった。
 旧統一教会はおそらく、日本人特有の祈りと賽銭の関係を理解していたのだろう。日本人にとっての献金=賽銭は、自己の願いとその成就を神に頼み込む日常的な行為(儀式)である。だからこそ、日本人信者は、教団による献金の要請に応じ続け、破綻の泥沼にはまりやすかった。だからといって、日本人信者にたいして、「自己責任」と切り捨てるわけではない。日本人の信仰のあり方を旧統一教会が巧みに付け込んだという仮説を立ててみたい。 

日本人の祖霊信仰と旧統一教会 

 日本では、故人の葬式を終えたのち、初七日・四十九日、一周忌、三回忌、七回忌と法要を重ねる。その後、おおむね三十三回忌を迎えると、「弔い上げ」といって、法要を打ち切る。以降、死者の供養は仏教的要素を離れ、「故人の霊」から「先祖の霊」となる。これを祖霊という。祖霊は、先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、繁栄をもたらす神として敬われる。先祖の霊は「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ばれるようになる。しかし、仏式で死者を弔ってから三十三回忌以降に、祖霊信仰へと変容するわけではない。死後、すでに故人の霊は祖霊として遺族に意識されている。仏式の法事と日本の土着宗教である祖霊信仰は、遺族等の内面で同時並行していると考えられる。
 祖霊信仰のポイント、すなわち、日本人の死後の理想は、死後、先祖の霊となり現世の者から祀られ、敬われたいというところにある。もちろん自分が死んだあと、残してきた家族などに繫栄や安全を齎す使命を帯びているとはいえ、子孫が自分を崇めてくれることに重きがおかれているのであり、死後に係る利他と利自(己)はトレードオフの関係にある。
 故人を見送った側においては、残された側が祖霊に少なからず瑕疵を与えているのであれば、祖霊からの恩恵を受けられないと考える。お盆、正月において現世に降りてくる祖霊を迎え入れ、酒や御馳走で歓待する。祖霊がもてなしに満足し、喜んで帰っていただければ、自分たちに途切れることなく幸いが齎されると考える。このような現世の者と祖霊との関係の儀式化がお盆や正月の家族など小さな単位で行われる宗教行事であり、やや広い関係(共同体)の内部で行われるのが、神社(氏神)における祭礼であり、明治維新以降は、国家神道へと拡大した。いずれも、祖霊から繁栄・安全(時に戦争勝利)を期待するものであることに変わりない。前者では神社の賽銭箱に小銭を投げ入れ、後者では資産家・国家までが神社を保護し、なにがしかの寄進、寄附、献灯等を行っている。

旧統一教会の献金勧誘トーク

 旧統一教会が信者にたいして献金を募るときの勧誘トークは概ねこんなものであろう。

〔事例1〕入信から2年、今度は三男の自殺で精神的に不安定な状態に陥っていたというAさん。それを知った教会の関係者はAさんにこう話したといいます。
 (元信者のAさん)「息子さんの霊が降りてこられて『自分の生命保険のお金を献金してくれ』と言われてましたと。心身ともに弱っていますよね。だから言われる一言一言を信じてしまいました」。
 冷静な判断がつかなかったAさんは言われるがまま、三男の生命保険金から1200万円を献金したといいます。
 (元信者のAさん)「(旧旧統一教会では)お金は俗世界のものと最初からうたっていますので、生きている人間にいろんな災いが起きるということを折に触れて説く」。
 このほかにも、ネックレスや壺などを購入させられ、計3000万円近い金額を旧統一教会に献金したといいます。(ABC/関西ニュース) 

〔事例2〕きっかけは当時小学生だった息子の野球少年団。同じ団に所属する母親に誘われ、風水関係の即売会に出かけたことだった。「あなたの家系には女の人の失敗がある」。店長を名乗る人物にこう指摘され、300万円の「水晶」の購入を促された。「人生の曲がり角。今この時を逃しては駄目」「先祖が地獄で苦しんでいる」。説得を受けること5時間ほど。「もともと家系図とかに興味があった。先祖を助けられるのは私しかいないと思った」。ためらいつつも保険の解約金を充てた。
 その半年ほど後、「世話係」とされる人から「生まれ直すため」などとして380万円の献金を求められた。一度は断ったが、今度は「子孫に災いがかかる」などと畳みかけられた。「何としても自分がやらなきゃ、と思ったんでしょうね」。当時38歳だったことにちなむ380万円の請求を受け入れ、まず100万円を支払った。残額は月10万円ずつ支払い続けた。(岐阜新聞Web) 

 2例を挙げたにすぎないが、〈息子さんの(自殺の)霊が〉〈家系〉〈先祖が地獄で〉〈先祖を助ける〉〈子孫に災いが〉といった語彙に気づく。旧統一教会の霊感商法や献金要請のトークは、日本人固有の祖霊信仰に付け込んだものだと推測できる。 
 なお、日本のその他もろもろの新旧宗教の実態についても調べなければいけないが、今回は前出の日本基督団のみとした。旧統一教会に近い事例としては、明覚寺(本覚寺)グループによる「霊視商法」が名高い。明覚寺には解散命令が出た。

〝騙される者が悪い”は解決策にならない 

 日本人は、生きる者と死んだ者が交流し合うことを通じて、前者は後者がもつ超越的パワーにより、幸福、繁栄、無病息災……が齎されることを願う。そのために、カネ・モノを献上し、後者にたいして、祈願成就のお礼をする。このことを非科学的だと非難することはできない。日本人の信仰が利他ではないから野蛮だと批判することもできない。自然宗教は、自然に抗う人間の営みから紡ぎ出されたものなのだから。また、日本人が啓蒙思想を通過していないから、〈祖霊〉というインチキトークに騙されるのだ、という批判もあり得るかもしれないが、筆者はそのような近代的批判に与したくない。
 旧統一教会の勧誘にのってしまう者は不幸な、あるいは、疎外された者である。そのような者に手を差し伸べられる社会が形成されない限り、霊感商法や詐欺まがいの献金を社会から一掃することは困難だろう。(第一部/完) 

※                  ※

 第二部は『閉ざされた言語空間』(江藤淳)及び『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン)を検討図書として用い、洗脳について考える。これら二書は国家・国民規模の洗脳の実態を詳述したものである。不可視の、そして、自覚なき洗脳の実態を知るところから、洗脳問題へのアプローチを開始する所存である。

〔追記〕第二部は『洗脳』(その1)(その2)の構成で note に投稿(2022/11/20)


2022年8月15日月曜日

『現代思想入門』

●千葉雅也〔著〕 ●講談社現代文庫 ●900円+税 

 はじめに断っておくと、拙稿は書評のレベルにない。現代思想の初心者である筆者が本書をテキストとして読みながらノートをとったものにすぎない。以下、本書のなかから主に、デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカン、レヴィナスに係るノートを公開する。

  さて、本書の構成は次のとおりである。
第一章から第三章まで:デリダ、ドゥルーズ、フーコーの解説、第四章:ニーチェ、フロイト、マルクス、第五章:ラカン、ルジャンドル、第六章:「現代思想のつくり方」と題され、ドゥルーズからレヴィナスを介して、ポスト・ポスト構造主義への展開の序章のような内容となり、マラブー、メイヤスらの解説がつく。第七章:ポスト・ポスト構造主義(ハーマン、ラリュエル)の解説。そのあとに「現代思想の読み方」という付録がつき、おわりに「秩序と逸脱」で締めくくられる。
 著者(千葉雅也)がデリダ(1930 - 2004) 、ドゥルーズ(1925 - 1995年) 、フーコー(1926 - 1984)から解説を始めたのは、この3人が現代思想の出発点だと認識するからだろう。そこで提示されたキーワードが脱構築である。脱構築とは、《二項対立のどちらをとるべきか、では捉えられない具体性に向き合うもの(P32》と定義される。また、脱構築とは「二項対立を揺さぶる」こととも別言される。
 脱構築を最初に提唱したのはデリダで、差異は同一性と対立するといい、同一性はものごとの固定的な定義であり、差異は定義に当てはまらないようなズレや変化を重視することとした。著者(千葉雅也)はデリダの態度を〈概念の脱構築〉と、以下、ドゥルーズを〈存在の脱構築〉、フーコーを〈社会の脱構築〉と、それぞれ名づけ解説する。 

(一)デリダ 

差異の哲学 

 《ポスト構造主義=現代思想とは「差異の哲学」である(P35)》。差異とは同一性と対立し、物事を「これはこういうものである」とする固定的定義、すなわち同一性に対して、逆に、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考である。この思考方法はドゥルーズに引き継がれ深化された。同一性と差異は二項対立であるが、この二項対立において差異を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だというのが現代思想の大方針となる。さらに脱構築について、デリダは、脱構築によって全部を破壊しろと言っているわけではなく、それは「介入」であるという。
 著者(千葉雅也)は、《「仮固定的」な状態とその脱構築が繰り返されていくようなイメージ(P36~37)》として、デリダの世界観を捉えてほしいという。著者(千葉雅也)がいう「仮固定」とは、物事には一定の状態をとるという面もあるが、その一定の状態は絶対ではなく、仮のものだというところから著者(千葉雅也)が名づけた概念である。脱構築は現代思想においてはさらに徹底され、「同一性と差異の二項対立も脱構築する」ことが必要だという。 

 それはつまり、とにかく差異が大事だと言うだけではなく、物事には一定の状態をとるという面もあるということです。ただし、その一定の状態は絶対ではなく、仮のものです。ここで「仮固定的」な同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来が現代思想の本当の醍醐味である、ということになるでしょう。(P37) 

(二)ドゥルーズ 

Avs.非Aという二項対立の脱構築 

 ドゥルーズ=存在の脱構築に入る前に「排中律」にふれておこう。通常の認識では、AとBがバラバラに、区別して存在すると捉えられる。Bとは非Aである。アリストテレスの『論理学』では、「選択肢Aと非Aを前にして、Aと非Aが同時にあるという第三の可能性はない」とされ、これを「排中律の法則」という。BとはAではないもの、区別されて存在するというのは対立関係にある。しかし、《ドゥルーズの見方では、ものごとは多方向に超複雑に関係しあっている。その関係性が「リゾーム」と呼ばれるものでした。つまり、Avs.非Aという二項対立を超えて=脱構築して関係し合っているということで、その意味で、リゾーム的に物事を見るのは「存在の脱構築」だと言える(P110)》という。 

(三)フーコーの権力論 

規律訓練=自己監視する心の誕生 

 フーコーの権力論は、①王様がいた時代→②近代→③現代という三段階で考えられている。そして近代化の最も重要な時期を17~18世紀におく。この時代の前は、王の権力行使はみせしめ、拷問(残酷な刑罰)を与えて見世物にしたりして、王の権威を示威するものだった。それゆえ、犯罪や逸脱は権力に見つからなければいい、ということになる。
 それにたいして、前出のとおり、17~18世紀を通して権力のあり方が規律訓練へと移行する。権力というと一般には、支配(能動)と被支配=隷属(受動)という二項対立でとらえられているが、フーコーは支配される側が、受け身ではなく、むしろ「支配されることを積極的に望んでしまう」ような構造があるということを明らかにする。権力とは上から押しつけられるだけでなく、下からそれを支える構造もあるということだ。権力とは上と下が絡まり合いながら複雑な循環運動として作用している、つまり権力とは「無数の力関係」であると。
 またフーコーは、「正常」と「異常」の脱構築を進め、「近代」が隔離すなわち精神病棟・監獄の誕生から、自らが権力に馴致していく規律訓練(しつけ・監視)により、支配者が不可視化されることを明らかにする。そうなってしまうと、権力による一方的な支配から脱することはできないのではないか、そこから脱するにはどうしたらいいのかという素朴な疑問がわいてくる。その問いに対して、《権力構造、あるいは「統治のシステム」の外を考えること。秩序の外部への「逃走線」を引く(ドゥルーズ)ことが重要(P87》だ、と著者(千葉雅也)はいう。単なる二項対立的構図での抵抗運動では、逃走線を引くことになるどころか、むしろシステムに囚われたままになる、という解を与える。 

生政治 

 個人に働きかける権力の技術を規律訓練とするならば、大規模な集団、人口として被支配者を扱う統治が18世紀を通して成立する。こちらの権力の側面を「生政治」とよぶ。《生政治は内面の問題ではなく、即物的なレベル、たとえば、出生率をどうするかとか、人口密度を考えて都市をいかに設計するかとか、そういうレベルで人々に働きかける統治の仕方(P98)》をいう。著者(千葉雅也)は規律訓練と生政治のちがいについて、新型コロナをめぐる社会のありようを例に出して次のように説明する。 

「感染拡大を抑えるために、出歩くのを控えましょう」といった心がけを訴えるのが規律訓練で、「そうは言ったって出歩くやつはいるんだから、とにかく物理的に病気が悪くならないようにするために、ワクチン接種をできるかぎり一律にやろう」というのが生政治です。(P99) 

(四)ラカン 

精神分析による人間の定義~人間は過剰な動物である 

 人間は他の動物と比較すると、本能的必要性以上のこと、多様なことを行う。本能とは「第一の自然」であり、人間はそれを「第二の自然」であるところの制度によって変形する。人間はそもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、整流していく。そのことが人間の発達過程である。自由に流動する認知を精神分析では、本能と区別して「欲動」という。この欲動の可塑性が人間性だという。可塑性とは、そもそもは固体が外力を受けたときにおこるひずみは、ある限界までは外力を除くと、もとの状態に復する(つまり弾性である)のだが、その限界(=弾性限界)を超える力がかかると、この内部からの応力は急激に減少してしまい、永久的な変形をさせることが可能となることをいう。つまり、欲動により人間がもとに戻らなくなる状態を可塑性と表現する。
 逸脱による再形成とも別言できる。欲動のレベルによって成立するすべての対象との接続を精神分析では「倒錯」と呼ぶ。つまり、人間のやっていることはすべてが倒錯的なのだということができる。それを、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築するという。本能的傾向と欲動の可塑性のダブルシステムを考える(ジャン・ラプランシャン)ということになる。 

ラカンの発達論 

(1)母の不在と死の欲動(享楽) 

 ラカンの発達論である。現代思想を考えるうえで避けて通れない箇所なので、やや詳しく紹介する。
 子供は当初、まだ自己が独立しておらず、母と一体的な状態にある。いわゆる母子一体の状態。ここでいう母とは、その存在なしでは生き延びられない他者という意味。ところがその存在はつねに自分のそばにいてくれるわけではなく、自分を置いて台所やトイレに行ってしまったりする。子供はそのような分離を少しずつ経験する。そうすると、ひじょうに不安な状態に耐えなければならない。母の欠如を穴のようなものだとすると、まさに心にひとつの穴が空く。精神分析的には、母が必ずしもそばにいてくれないということが最初にして最大の疎外となる。疎外とは理想的な状態から弾き出されることことをいう。母がいたりいなかったりすることが子供にとって、根本的な不安を引き起こすが、それは母なる偶然性のためだ、という。
 母が消え強烈な不安で緊張するが、その後母が戻ってきて抱かれ乳をくれる。それは極端なマイナスからプラスへの逆転で不安が大きいほど、引き換えに途方もない快が得られる。第一の快は緊張が解けて弛緩すること、すなわち安心である。第二の快は偶然に振り回され、死ぬかもしれないギリギリのところを安全地帯へ戻ってくるというスリル。これは不快と快が入り混じったようなもので、第一の快より根本的なものである。第一の快の定義が「快楽」であり、第二のほうはむしろ、死を求めているようですらあるわけで、フロイトのいう「死の欲動」という概念があてはまる。ラカンはこれを「享楽」と呼んだ。
 子供は不可欠なものを呼び寄せる最初のアクションであるところの、泣き叫び(母を呼ぶ)をする。これは生命維持のためであり、欲望の根源である。子供は成長とともにおもちゃなどで遊ぶことになるが、そういった対象には、母の代理物という面がある。いわゆる母との関係の変奏としての展開である。成長してからの欲望には、かつて母との関係において安心・安全(=快楽)を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び(=享楽)を味わったことの残響がある。

(2)父の介入 去勢 

 母と子の密接な二人の世界を邪魔するのが父(概念的にいえば第三者)である。母子の一体化を邪魔=禁止する、父は第三者的な外部すなわち「社会的なもの」を導入する人物となる。このことを通じて、子は自分以外の誰か=第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰かによって自分から奪われる、という「感じ」が成立してくる。父=第三者は、母を自分から奪う、憎むべき存在であり、母を奪い返さなければならないということになる。これがいわゆる「父殺し」の物語であり、以上のプロセスを精神分析では「エディプス・コンプレックス」と呼ぶ。また、こうした父の介入を、精神分析では「去勢」と呼ぶ。「客観世界は思い通りにはならない、だからもう母子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせることが去勢である。 

(3)欠如の哲学 

 母の欠如を埋めようとするのが人生である。しかしそれは決して埋められない。絶対的な安心・安全はありえない。根本的な欠如を埋めようとすることがラカンにおける「欲望」であり、その意味でラカンには「欠如の哲学」がある。自分が欲しているものの背後には幼少期の根本的な疎外との複雑なつながりがある。これを手に入れなければと思う特別な対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対象a」という。人は対象aを求め続ける。

(4)ラカンの三つ組の概念 想像界・象徴界・現実界 

 第一の「想像界」とはイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせる。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域をいう。これはカントの『純粋理性批判』における感性(→想像界)、悟性(→象徴界)、理性(→現実界)に対応しているようにみえる。
 人間の発達では、まずイメージの世界が形成される。生まれたばかりの赤ん坊は対象を十分区別できず、すべての領域が曖昧でぼんやりつながっている。そこから言語が介入する。言語が行うのは「分ける」こと、名前を与え、イメージのつながりを切断し、制限する。その過程で、子供は自分自身の姿を初めてみることになる。それも鏡によってである。そのひとまとまりのイメージを自分のものとして引けるようになる。このことをラカンは「鏡像段階」と呼ぶ。自己イメージはつねに外から与えられるというのがラカンの重要な教えである。そして前出の「去勢」によって、想像界に対し、象徴界が優位になる。混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。象徴界の優位とは、世界が客観化されること、原初のあの幸福と不安がダイナミックに渦巻いていた享楽を禁止することを意味する。
 意味以前的にそこにあるだけというのが三番目の現実界である。それは成長する前の、あの原初の時、刺激の嵐にさらされ、母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安ゆえの享楽の時をいう。それが認識の向こう側にずっとある。
 人は本当に欲しかったもの、「本当のもの」を求め続けている。本当のもの=何か=対象aを得ても、「本当のもの」はまた遠ざかる。対象aを転々とすることで到達できない「本当のもの」=Xの周りをめぐることになる。このXが、イメージにも言語にもできない「いわく言いがたいアレ」としての現実界、原初の享楽である。この捉えられないXというのは二項対立を逃れる何か、グレーで、いわく言いがたいものである。 

(5)否定神学 

 日本の現代思想では、いわく言いがたいXに牽引される構造を「否定神学的」という言い方をする。否定神学とは、「神とは何々である」と積極的に特徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、何々でもなく…」と決して捉えられない絶対的なものして無限に遠いものとして否定的定義するような神学のこと。まさにそうした神の定義と、このXのあり方は似ている。我々は否定神学的なXを負い続けて失敗することを繰り返して生きている。 

(6)「いわく言いがたいアレ」と現代思想 

 カントにおいては、前出の通り、否定神学的なXは「物自体」に相当する。繰り返せば、人間が経験しているのは現象であり、現象は感覚的なインプットと概念の組み合わせでできていて、その向こう側に本当の物自体があるのだが、物自体にはアクセスできない、という図式を『純粋理性批判』で提示した。これがラカンの三つの界と対応する。カントが現象と呼んでいるのは想像界と象徴界の組み合わせ。人間はイメージ(感性)と言語(悟性)によって世界を現象として捉えている。しかし、その向こう側に現実界(物自体)があり、それにはアクセスできない。にもかかわらず、それにアクセスしようと思っては失敗し続ける。
 フーコーは、このような近代的人間のあり方を『言葉と物』で示した。それによると、近代以前にはまず、神が無限の存在であり、神がつくった世界は総て隈なく秩序的であって、人間はそのなかに含まれていた。人間は有限であり、有限にできることをやるしかなかった。しかしそれ以降、有限性の意味が変わる。神と比べて人間が有限なのではなく、人間自身に限界があるために世界には見えないところがある、という自己分析的な思考が立ち上がる。人間にわかっていることの背後には何か見えないもの、暗いものがあって人間はそこに向かって突き進んでいくのだ、というような人間像になっていく。

(7)〈否定神学システム〉と〈否定神学批判〉 

 ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムの一番明らかな例である。そしていかに否定神学システムから逃れるかという考察を、「否定神学批判」と呼ぶことがある。これが日本現代思想の特徴である。捉えられない「本当のもの」=Xについては、デリダ、ドゥルーズの哲学にもあったし、同時にそこから離れる運動も彼らにはあった。人間はなんとかそれを捉えるために新たな二項対立を設定して、またとり逃し……というように生きていく。 

(五)レヴィナス  

ハイデガーの存在論批判と「他者の哲学」 

 レヴィナスは「他者の哲学」と呼ばれ、ハイデガー存在論を仮想敵として出発した。ハイデガーは物事がただ「ある」という、その「存在そのもの」をいかに思考するかという、極端に基礎的で、きわめて展開が難しい問題に集中した哲学者であった。
 レヴィナスは、ハイデガーの存在論の極端な抽象性にたいして、そこには他者が排除されていると抵抗する。その論拠は、すべて「ただある」という根本的な共通地平にすべての存在者が載せられてしまうことによって、抽象的な意味での共同性のなかにすべてが回収されてしまうと考えたからだ。
 ユダヤ人であるレヴィナスは、ハイデガーが一時期ナチに加担したという事実をふまえ、ハイデガー存在論、ひいては西洋哲学史の道行き全体が帯びているある種の危険性を(ユダヤ人であるがゆえに)哲学的に告発しようとする。レヴィナスは、ハイデガーの存在論を「存在論的ファシズム」とみなした。レヴィナスは超抽象的なレベルにおける政治性を考えたとも言える。存在論という極端な抽象性に抵抗する、ラディカルな意味での他者性というところから、ハイデガー批判を開始したことになる。 

「無限」であるような他者を超越論的次元におく 

 存在論は哲学の極みである。存在することそれ自体を考えるところまで極まったら、それ以上の根本はないと考えるのがふつうである。だがレヴィナスは、前出の通り、そこでなお、他者が排除されているという。レヴィナスは、存在から始めるのではなく、他者との向き合い、他者との距離から総てを始め直さなければならないという立場をとる。レヴィナスは「無限」であるような、他者を超越論的な次元に置く〔後述〕。これはひとつの極端化〔後述〕である。他者を「無限」と捉え、そして存在の地平を「全体性」と捉える。これはひじょうに強力な二項対立である。この論に対してはデリダから脱構築的介入があったようだが、ここではその論争を省略する。
 レヴィナスはその後、「存在するとは別の仕方で」というキーワードを提出する。フランス語では「Autrement qu’ être」、英語では「Otherwise than being」である。『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』という著作のタイトルである。
 存在という抽象的な全体性の地平から、なお外れるような他者――ドゥルーズ的に言えば、存在の全体性から逃走線を引くこと――を考えたとき、その他者はいったいどのように「ある」のかが問われる。それはもはや「ある」とは言えない。なぜなら、「ある」と言ってしまったら、ただちに存在論に引き戻されるからだ。
 そこで、言葉に無理をさせる必要が出てくる。「ある」というのは我々にとって根本的であるが、さらにそこから外れるものをかろうじてすくいとるために、存在するとは「別の仕方で」「別様に」というふうに、もはや副詞でしか言えないことを言おうとする。

(六)現代思想のつくり方 

 著者(千葉雅也)は現代思想をつくる四つの原則として、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則――を挙げている。

①他者性
:現代思想において新しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提となっている前の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている、取りこぼされているということを発見することから始まるという。〔前出〕
②超越論性の原則
:超越論的なものとはカントの概念(『純粋理性批判』)で、人間がものを認識し思考するときの前提として、人間の精神にはあるシステム、いわば、OS〔注1〕があり、それによって情報処理しているということを論じた。このOSをカントは「超越論的」と形容した。このことを踏まえて、何かある事柄を成り立たせている前提をシステマティックに想定するとき、それを超越論的と呼ぶ。〔前出〕 

〔注1〕 【Operating System】  / 基本ソフトのこと。OSとは、ソフトウェアの種類の一つで、機器の基本的な管理や制御のための機能や、多くのソフトウェアが共通して利用する基本的な機能などを実装した、システム全体を管理するソフトウェアである)

③極端化の原則
:現代思想ではしばしば、新たな主張をとにかく極端まで推し進める。排除されていた他者性が極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定する。
④反常識の原則
:③において、ある種の他者性を極端化することで、常識的な世界観とはぶつかるような、いささか受け入れにくい帰結が出てくる。しかし、それこそが実は常識の世界の背後にある、というかむしろ常識の世界はその反常識によって支えられているのだ、反常識的なものが超越論的な前提としてあるのだ、という転倒に至る。 

(七)ポスト・ポスト構造主義

 マラブー(1959~)、メイヤスー(1967~)、ハーマン(1968~ )、ラリュエル(1937~ )を取り上げている。21世紀に入ってからの、西洋におけるポスト・ポスト構造主義は、ポスト構造主義的な同一性と差異の二項対立をさらに脱構築するというかたちで展開するものだという。 

おわりに 

 著者(千葉雅也)が現代思想について考えてきたことは、「秩序と逸脱」というテーマであり、本書は入門書であると同時に、その二極のドラマとして現代思想を描き直した研究書でもあるという。秩序を小馬鹿にした「冷笑系」でもなく、相対主義でもない。逸脱とは芸術的に生きることと通底するとも。そのような逸脱に向かう著者(千葉雅也)の資質というか、生き方に共感を感じる者は筆者を含め、少なくないと思われる。(了)