2022年2月25日金曜日

杭州、新疆の人たち

杭州のJさんファミリーに新疆のYさんが合流。
Jさんが得意の中華料理をふるまってくれた。



 

2022年2月18日金曜日

うんざり五輪

 


プーチン大統領はシドニー五輪選手団の壮行会で「スポーツでの勝利は100の政治スローガンよりも国民を団結させる」と述べているという。いまどき国民を団結させてやることといえば、戦争ぐらいしか思いつかない。 

専制政治家の五輪利用

スポーツは勝ち負け、すなわち白黒がはっきりしている。あいまいで混沌とした現実の社会現象よりは結果が頭に入りやすい。専制的政治家がポピュリズムによって支持を得るように。すなわち、スポーツが強い国はよい国、そして世界のなかで優越的な地位にいる国、あなたはその一員なんだよ、そして僕がその強い国のリーダーなんだよ、という展開にもっていく。自国の選手が五輪でメダルを取るということは、自国が強い国であり、運動音痴の人間でも、メダルをとった選手と一体化する。専制的政治家にとって、スポーツは都合の良いツールなのだ。

このことに最初に気づいたのは、20世紀、ナチスドイツだったのではないか。ナチスドイツは五輪を首都ベルリンで開催し、同時に、当時の先端的メディアであった映像を駆使して、自国のスポーツ選手の肉体美を強者、優越者、支配者として国民に提示した。アーリア民族という幻想の共同体をつくりあげる一助とした。そればかりではない。五輪が人種差別を促進した。五輪開催にあわせて、ベルリン(周辺部を含む)にいたロマは強制収容所に入れられた。五輪の直後からユダヤ人狩りが激しさを増した。なお、2020東京大会においても、都心のホームレスが公園等から排除された。

祝賀型資本主義と五輪ーーメディア産業が五輪開催を推進

五輪を契機とした祝賀型資本主義によって、経済の底上げ効果が期待されるようになった。競技場に代表されるハコモノ建設、道路整備、観光客目当てのホテル建設、競技場周辺における都市計画の規制緩和などなど、経済界が五輪景気に期待する。 

併せてメディア業界、とりわけテレビ業界は五輪中継及びその関連番組の視聴率が高いこと、及び、広告収入増の観点から、広告代理業者と結託して、五輪開催推進勢力となった。その結果、専制的国家とマスメディアは五輪推進において共同戦線を張るに至った。

アメリカの場合、全国3大ネットワークのうち、NBCしか五輪放映権をもっていないから、CBS、ABCのライブ中継はない。ところが日本の場合、五輪開催中、地上波の過半が特別編成で競技中継番組を流す。地上波、BSあわせて数局が五輪のライブ中継をし、加えて、ニュース番組、情報番組、特別番組、スポーツニュース番組などで五輪関連番組が放映される。五輪に興味がない人間はテレビを消す時間が長くなる。 ナショナリズムを高揚させたい政治家、そして、祝賀型資本主義で恩恵を受ける建設業者、不動産業者、メディア業者等のための五輪にはもう、うんざりだ。 

2022年2月15日火曜日

疑惑の人、阪神矢野監督、シーズン前に自ら退任を公表

2月中旬に差し掛かり、NPB(日本プロ野球)各球団のキャンプは佳境に入りつつある。紅白試合から他球団との練習試合も開催されている。しかしながら、各球団にコロナ感染者が続出し、順調な船出とはいかない。  

キャンプイン初日、阪神矢野監督、異例の今季限りでの退任を自ら公表

今年のキャンプで異例とも思えたのが、阪神タイガース矢野監督が、キャンプイン初日に自ら今シーズン限りでの退任を公表したことだ。指揮官が戦う前に退任を選手、ファンに公言するのは珍しい。筆者の記憶にはない。良いことか悪いことかと問われれば、もちろん、悪い。その理由は、指揮官は結果に責任を負うのであって、任期を自ら定めるものではないからだ。趣味で監督の仕事をやっているのならば、それもよかろう。しかしかりにも、阪神タイガースがシーズン途中、泥沼にはまって負け続けたときはどうなのか。そのときは辞めるしかあるまい。すなわち、プロの指揮官が自ら任期を限る意味はまったくない。辞める監督の指揮下でプレーする選手の気持ちも考えていない。この人の言動はとにかく軽すぎる。思慮に欠けるのだ。 

2021シーズン、阪神のサイン盗み疑惑発生

矢野監督は疑惑の渦中の人だ。昨シーズン、サイン盗みの疑いでヤクルト村上が抗議をした。2021年7月6日の出来事だった。村上の抗議に対して矢野は村上に対して、いかにも野卑な表現で否定した。コミッショナーもヤクルト側の抗議を無視して、事態はうやむやのままシーズンを終えた。しかし、阪神は抗議を受けたヤクルトに優勝をさらわれ、2位でペナントレースを終え、クライマックスシリーズでも3位の読売に負けてシーズンを終えている。 矢野が村上に謝罪したとは聞いていない。

物的証拠はないが状況的「証拠」はある

 サイン盗みがあったのかなかったのかは筆者にはわからない。ただ、「状況的証拠」はある。阪神の2021打撃成績を調べると、開幕から6月まで(すなわち抗議のあった7月前までの3・4月、5月、6月の71試合)の月間本塁打数合計は70本であったのに対し、7月から10月までの72試合における本塁打数合計は51本と大幅に減少している。勝率については、シーズン開始から7月6日までが45勝32敗3分、.584。それ以降は32勝28敗7分、.533とこれまた落としている。貯金(いわゆる価値と負けの差)は13から4とこれまた大幅減である。 阪神タイガースの成績は、ヤクルト村上が抗議を発した7月6日をもって下降したのである。

「驚異の新人」だった佐藤輝明の成績 

シーズン途中、新人王候補間違いなしと呼ばれた佐藤輝明の成績を見てみよう。前出と同じように、サイン盗みの抗議のあった7月以前とそれ以降の比較である。3月から6月までが278打席73安打、.262、7月から10月までが167打数、28安打、.168の低率である。本塁打数は19本から5本と大幅減となっている。

新人選手の成績であるから、他球団の投手が研究したことで成績が下がったという理屈は成り立つ。佐藤がサイン盗みをしたから成績が良かったと断言できるわけではない。その証拠がないのである。阪神タイガースも佐藤輝明も、裁判でいうところの推定無罪である。しかしながら、これだけは言えるのである--阪神タイガーズ、矢野監督、そして全選手がサイン盗みの疑惑を実績で払しょくできなかったと。

2022シーズン、阪神のみならず、全球団、フェアプレイに徹してほしい。 

2022年2月12日土曜日

『幻の村-哀史・満蒙開拓』

●手塚孝典〔著〕●早稲田新書 ●990円 

本書の章立ては以下のとおりである。 

第一章 沈黙の村
長野県河野村の満蒙開拓団の悲劇に係る記述。  

第二章 忘れられた少年たち
長野県山ノ内町の満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇を伝える。数えで16~19歳の青少年たちが、敗戦間近、関東軍撤退後のソ連国境地帯の軍事的空白地帯に送り込まれ、侵攻してきたソ連軍に追われ、逃亡中及び収容所で非業の死を遂げた実態が示される。  

第三章 帰郷の果て
第四章 ふたつの祖国に生きる
ともに中国残留孤児問題への論及。開拓団家族はソ連軍の侵攻から逃亡する途中、せめて幼い子供だけは生き延びてほしいと、中国人に子供を預けた。戦後、その子供達が成人し、祖国日本への帰還を希望したのだが、帰還はそう簡単ではなかった。言葉、生活習慣、日本社会の排他性など、帰還した残留孤児たちの日本での生活は厳しかった。2002年に始まった、残留孤児による国家賠償請求訴訟の裁判では帰国した残留日本人の9割(2,211人)が原告となった。長野県では2004年、79人が原告となった。  

第五章 幻の村
第一章で登場した河野村において満蒙開拓を推進した当時の河野村村長・胡桃澤盛(くるみざわ・もり)の日記を中心にして、満蒙開拓がいかに推進されたかが詳細に示される。と同時に、戦後、自分が送り出した開拓団の悲惨な結果(73名が集団自決)を知らされた胡桃澤盛が自死を選択した経緯等が示される。 

日記

第五章の胡桃沢盛の日記を読むと、盛のそう長くない人生のなかに〈1930年代〉が凝縮されていることにはっとさせられる。と同時に、盛の歩んだ進路と日本帝国がアジア太平洋戦争に邁進した過程がぴたりと重なり合っていることに驚愕する。 21世紀に生きる「われわれ」は、彼の日記により、取り返しのつかない破綻、破滅、悲劇を同時代のように追体験する。満蒙開拓は、日本の近現代史を考える者に重い課題を突き付ける。

さて、長野県は全国中、満蒙開拓団を最も多く送り出した。

開拓民総数は27万人余り。うち長野県は3万3000人と全国一の多さで、さらにその4分の1の8400人が飯田・下伊那郡からであった。この地域から長野県の4分の1以上の渡満者が出ているのは特筆に値する。2013年4月、日本で唯一の「満蒙開拓」に特化した記念館が、長野県阿智村に開館している。(『論文「全国一の開拓民を送り出した長野県」 満蒙開拓平和記念館―戦争と自治体―/自治問題研究所)』 

当時、河野村がある長野県下伊那郡は全国で有数の生糸の生産地帯であった。ところが世界大恐慌の影響で対米輸出が大幅に減少し、同郡の農村の経済の疲弊が進んだ。そんな状況下、日本帝国政府が出した農村政策が皇国農村である。同閣議決定には満蒙開拓には一切触れていない。だが、よく読むと、そこに〈分村〉という二文字がある。 皇国農村という国策にそって、満蒙開拓移民はたくみに誘導され、かの地にわたっていったのである。 

胡桃澤盛の自死と日本の戦争の時代

敗戦から1年近くが経過した1946年、盛のもとに、盛が満州へ送り出した河野村開拓団の悲報が次々と届けられるようになる。そして盛は、同年、自ら命を絶った。日記の最後のページは破られていて、そこには遺書があったとみられているが、誰が破ったかもその行方もわからないという。だが、当時の新聞がそこにあった最後の言葉を伝えていた。 

胡桃澤盛の日記は、青春時代、大正デモクラシーを享受した長野の自由人が、1930年代、満州事変から始まった中国侵略戦争・アジア太平洋戦争へと進んでいく日本帝国の動きに同期していく過程を描きだしたものである。それは日本帝国の総力戦に向けた〈革新派〉の動きに、個が否応なくからめとられていく過程でもある。それを換言すれば、明治維新から始まった文明開化、すなわち、日本帝国の近代化の末路であり、日本浪曼派が嫌悪した日本型「近代」の終焉にほかならない。 

いまを生きるすべての日本人は、自由人がいとも簡単に、軍国ファシズムに従順なる者に変容してしまった事実を見定め、かつ、敗戦間近に村人を満蒙に移住させてしまう不条理を考え続ける必要がある。20世紀の戦争、すなわち総力戦とは、国民一人一人が加害者であり被害者であることを強いるものであったことを忘れてはいけない。 

あったことを記録するのが歴史の第一歩である。後年の者が「歴史戦」などとほざくのは論外である。歴史は修正されてはならない。胡桃澤盛の日記がそのことを如実に語っているではないか。