2009年12月27日日曜日

出発

明日から、ローマ経由でバーリ、ナポリを拠点にして南イタリアをまわり、ミラノ経由で帰国する予定です。

この地域は世界遺産がたくさんあり、ローマ、ミラノ、フィレンチェ、ヴェネチアといった世界的観光地を訪れてしまった人々に人気があるそうです。

冬のヨーロッパは生まれて初めて。特にミラノは寒そうです。

では!

2009年12月19日土曜日

あと10日余り

@Sawara

今年も僅か10日余。はやい。

そんな中、『日本海と出雲世界-海と列島文化2』を読了。

海を介した日本列島及びアジア大陸の各所との結びつきを知る。

本シリーズを通じて、「日本」を再認識するばかり。

己の無知を思い知らされる。

日本は広いのである。

詳しくはまた改めて、当コラムに書くつもり。

2009年12月18日金曜日

寒くなってきた。

@Sawara

年の瀬、不景気である。身も心も寒い。

今年の10大ニュースといえば「政権交代」が第一位だろう。

でも、新しくできた政権がどうも落ち着かない。

連立政権を構成する小党の党首がかき回し役になっている。

国民が選択した政党(民主党)よりも、その何百分の一(計算していないので桁が違っているかもしれないが)にも達しない票数しか獲得できなかった党が増長するのはいかがなものか。もっと謙虚に振舞うべきだ。

民主党党首が彼らを抑えきれないのも情けないが、政権与党となって謙虚さを失った小党の党首も身の程知らず。連立与党は、政策協定の締結という基本作業を欠いているようにみえる。

意見交換を内部でじっくり行い、連立内で調整した結果を広報官が一元的にアナウンスすべき。政権を構成する小ボスが、マスコミに存在感を示そうと、ギャーギャー勝手な意見を放言するのは醜い。

「政権交代」の結果が無秩序では、国民が失望する。

来年の参院選で民主党に大勝してもらって、混乱分子を政権から排除してほしい。

2009年12月15日火曜日

佐原の写真集連載開始

@sawara

佐原の写真集の連載を開始しました。

お暇なとき、のぞいてみてくださいね。

2009年12月13日日曜日

小江戸の佐原は見所いっぱい


@sawara

小江戸と呼ばれる水郷・千葉県佐原に行ってきました。ここは、格子戸、蔵造りといった、レトロな町並みが運河沿いに展開しています。

埼玉の川越とちょっと似たところですが、川越が内陸的で、佐原は水路のイメージが強いです。

鉄道でのアクセスがいまひとつなので、休日でも混雑はしていません。いまが“見時”“行き時”の佐原でした。

詳しくは後日、別のサイトにて、写真をアップしま~す。

2009年12月8日火曜日

墓穴を掘った押尾学-神は罪を見逃さない

12月7日、押尾元被告が、新たに合成麻薬の「譲渡」の容疑で逮捕された。押尾容疑者は8月3日、東京都港区のマンションでMDMAを使ったとして麻薬取締法違反(使用)容疑で逮捕・起訴され、先般、懲役1年6月、執行猶予5年の有罪判決が確定したばかり。

筆者は、この事件について何度も当コラムに書いてきた。先の公判で押尾元被告に有罪判決が下ったが、一緒にいた女性の死亡の真相については、何も明らかにされなかった。そのことが、人々の間に苛立ちを募らせた。裁判所が真実を明かさないのであれば、いったいだれがどうやってそれを究明するのか。一人の女性の命が失われたにもかかわらず、最も近くにいた押尾容疑者の行動に責任がないで済まされていいのだろうか――人々の苛立ちは、結局は警察・検察・司法に対する不信感として沈殿した。ここのところ、冤罪事件が多数発覚しする一方で、凶悪犯罪は未解決なまま。検察の動きといえば、政治献金に対する政党間のアンバランスな取り組みが顕著となっていた。人々は、最近の警察・検察の行動に不信感を募らせている。そればかりか、最高裁が「ビラまき事件」に関して、言論圧殺に近い判決を下していた。日本の警察・検察・裁判所は機能不全に陥ったのか・・・

今回の押尾元被告の再逮捕は、警察・検察不信をいくらか緩和した。先の公判の押尾元被告の供述の信憑性が裁判官に疑われたくらいだ。検察・警察が何もしなければ、人々の当局への不信は一層沸騰しただろう。

再逮捕後、マスコミにいろいろな情報が飛び交うようになった。たとえば、押尾学容疑者の毛髪から合成麻薬MDMAの成分が検出されていたともいう。警視庁捜査1課は同容疑者が自らMDMAを入手して、日常的に使用していた疑いもあるとみて調べている。同容疑者には常用性がありながら、MDMAは死亡した女性から譲り受けたと偽証し疑いが濃い。押尾容疑者は使用罪での初公判などでMDMAの使用について「米国との使用を合わせて4回」と主張。亡くなった女性と使用した以外の過去の使用は、「米国内だけ」と供述していた。 また、「MDMAは死亡した女性からもらった」と一貫して主張してきた。となれば、憶測・推測にすぎないが、押尾容疑者が、容態が悪化した女性を救命せず、MDMA入手の罪を女性になすりつけようと図ったのではないか、と考えて不思議はない。

今後の捜査の展開としては、押尾容疑者が死亡した女性にMDMAを渡したと証明できれば、死亡した女性の容体急変後に適切な措置を取らなかったとして、保護責任者遺棄致死容疑での立件が近づく。 捜査1課は、押尾容疑者のほか、死亡した女性の携帯電話を捨てた証拠隠滅容疑で元マネジャー、押尾容疑者にMDMAを渡した麻薬取締法違反容疑でネット販売業の知人男性の3人を同時に逮捕した。

そればかりではない。テレビに出演したヤメ検弁護士のO氏は、過去の判例から、押尾被告には傷害致死の嫌疑もあるという。O弁護士によれば、大量の覚せい剤を知人に注射して死亡させた覚せい剤常用者が傷害致死罪で立件され、公判で検察側の主張が認められたという。

さて、この事件は、『刑事コロンボ』『必殺仕掛人』『ダーティーハリー』などの正義の味方(=ヒーロー)の物語を思い起こさせる。合成麻薬の常用者で有名な俳優--金持ちで威張り腐った犯人(=押尾容疑者)--が、知人女性にそれを飲ませ、容態を悪化させる。麻薬常用のスキャンダルを恐れた犯人は事件の揉み消しを図らんとして、取り巻きやマネジャーと共謀して、容態が悪化した女性を3時間近く放置し、死に至らしめ、亡くなった女性に麻薬所持の罪をかぶせようと画策する。財力やコネクションを使ってマスコミを黙らせ、当局にも捜査中止の圧力をかけ、犯人の目論みは成功したかのようにみえたのだが、そこにヒーローが現れ、犯人側の「空白の3時間」を解明し、犯人の策謀を暴いてみせる--というわけ。この事件、初期段階の当局の動きは、誠に鈍かったという印象を受けた。

今日に至るまでの間、当局内部にこの事件に対する取組みについて変化があったのか、当局が最初から、このような手順を踏む計画であったのか、筆者には知る由もない。だが、結果的には押尾容疑者が墓穴を掘った観は否めない。つまり、女性の容態が悪化したとき、押尾容疑者が119番をするなり救命に尽力していたならば、そして、女性の命が助かっていたならば、彼には情状酌量の余地が十分あったし、麻薬の「使用」の罪に服すれば足りた可能性も高い。そうであれば、せいぜい懲役1年数ヶ月、執行猶予数年で、この事件は終わったはずである。

ところが、押尾容疑者は人倫に外れ、救命活動に尽力せず、亡くなった女性に罪を着せようと図ったために、保護責任者遺棄罪で立件されることは確実となり、証拠次第では、保護責任者遺棄致死傷罪、さらに、O弁護士のいうように、傷害致死罪で立件される可能性まで生じてしまったのである。

自業自得とは、まさにこのことである。“悪い奴”を世にのさばらせることは、神がお許しにならない。ちなみに、保護責任者遺棄罪は3月以上5年以下の懲役、同遺棄致死傷罪は20年以下の懲役となる。傷害致死罪の場合、懲役3年の有期懲役と決まっていて、有期刑の上限は20年以下となる。筆者のような素人裁判官が現在の情報に基づき押尾容疑者に判決をくだすとしたら、最短で5年間、彼を塀の中の人とする。

2009年12月6日日曜日

13人会

昨晩、大学時代の友人12人と銀座のふぐやで飲み会をやった。この会は「13人会」という名称をもっていて、大学のときの知り合い13人が卒業以来●十年、飲み会を不定期的に開いている。今回は、1人欠席であるが、出席率としては高いほう。

学生時代は、新宿歌舞伎町のKT、渋谷警察前のKMという飲み屋が溜まり場で、毎日、誰かと飲んでいたが、筆者はいつの間にかそこから離れ、青山のSR、曙橋のAT等に場を変え、結局、日暮里のYがホームとなった。そのYが閉店してからは、決まって飲みに行くところがなくなってしまった。

友人と会うときは互いの職場や外出先に近いところ。地元のS氏とは谷根千の数箇所が「行きつけ」となるのかもしれないが、回数は減った。

学生時代は、酒を飲むことで新しい「世界」が開かれると思ったこともあった。とりわけ、歌舞伎町のKTには当時若手だった映画監督や文筆業者が集まっていて、喧嘩も議論もあったけれど、それが刺激的だった。

筋力トレーニングに力を入れ始めた最近は、お酒を飲みたいとあまり思わなくなった。話をするのも面倒くさくなって、「カラオケ」に逃げる機会が増えた。

2009年12月3日木曜日

『テレサ・テン 愛のベスト-三木たかしを歌う-』



テレサ・テンはもうこの世にはいないのだけれど、歌声は永遠――なんて、月並みの誉め言葉が恥ずかしい。彼女は日本人ではないにもかかわらず、日本語の歌詞を心底理解していて歌いこむ。その歌声が聞くものの耳に届くとき、聞くものに至福のときが訪れる。

つい1月ほど前、彼女を特集したTVのドキュメンタリー番組を見た。楽曲(歌詞)ごとに彼女の姿容(すがたかたち)が変わっているのに驚いた。衣装が違う、メークが違う、髪形が変わる、照明、背景等々が変わる・・・以上に、本人が一番変わっているのだ。“なりきる”すなわち、感情移入、状況移入が可能であるということは、芸能人の技術力なのかもしれないが、たった数分の歌のステージでそれをやりきれるということは、非凡な才能だと思う。残念ながら、テレサ・テンのワンマンショーを聞く機会をもたなかった。彼女が持ち歌ごとに次々に自分を変えていく様子を体験したかった、と、いま悔やんでいる。

自分のスタイルを貫く、のが歌手のあり方だが、楽曲に従って、自分を変え、それでいて、彼女の根底は変わらない。とても魅力的な歌手だったことに気がついたとき、彼女はこの世の人でなくなっていた。

2009年12月2日水曜日

歴史の法廷に立つのはだれか

政府民主党が行った「事業仕分け」が大きな話題を集めた。中には、思わぬ批判もあった。その中の一つ、筆者にとって最も印象に残ったのは、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことを、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判をした件だ。国家予算=税金の使われ方について活発な議論があることはいいことなのだけれど、事業仕分けに対する批判が、巧妙な論理のすり替えを伴う以上、これを看過することはできない。

ノーベル賞受賞科学者たちが、事業仕分け結果について批判した趣旨は次のとおりだ。まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈したらしい。

まずもって、筆者はノーベル賞受賞者が、「歴史の法廷」という大言で事業仕分け批判を展開したことに大きな驚きを覚えた。事業仕分けが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、某独立行政法人の「●研」が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。スパコン開発も「●研」の利権がらみだし、「●研」は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だ。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも「●研」から追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、独法「●研」に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはない。

旧政権時代、日本が科学技術に対して、あまり潤沢な予算を組まなかったことはだれでも知っている。旧政権における科学技術関連の予算の使われ方は、科学者の実践的研究にではなく、天下り官僚の人件費や適正でない価格で購入する研究資材等に使われていた。仕分け人がメスを入れたかったのは、そうした旧政権における、日本の科学技術予算の使われ方のほうなのだ。

ノーベル賞を受賞した日本の科学者たちは官僚出身ではないものの、天下り独法の役員を務めており、天下り官僚と一心同体なのだ。ノーベル賞の価値をどう評価するかについては人さまざま、だれがどう思おうと勝手だけれど、筆者は少なくとも、すべての同賞受賞者の人格が高潔だとは思っていないし、科学者が世俗の欲望と無縁な者だとも思っていない。権力欲も物欲も人並み以上に強い者であると確信している。

日本の科学者・研究者のあり方が問われたのは、いまから40余年前の東大闘争だった。闘争終結後から今日まで、東大という日本を代表する学問・研究の場が改革されたという話は聞いていない、どころか、より権威主義的傾向を強めている。日本のノーベル賞受賞者、なかんずく、科学技術分野の受賞者は、権威主義が幅を利かす大学研究機関で生き残ってきた者であって、彼らが長けているのは、研究者としての能力よりも、政治力、管理力なのであって、加えて、企業、役所とあい渉るパワーなのだ。ついでにいえば、ノーベル賞を客観的な意味において、世界最高「権威」だと信じるか、信じないか、という問題も残っている。

誠に残念なのは、日本のマスコミである。ノーベル賞受賞者という権威筋からの事業仕分けに対する批判・恫喝(歴史云々)に恐れおののき、論点のすり替えに気がつかないふりをして、仕分け人批判に靡いてしまった。ナイーブ(うぶ)なこと、このうえない。

将来、歴史の法廷に被告として立つのは、どちらであろうか。