2012年12月23日日曜日

ネット選挙を解禁せよ

今回の自民党大勝総選挙結果については、サッカーのオウンゴールに譬えられる場合が多い。民主党の自滅、第三極の準備不足等が自力のある自民党に有利に働いたという譬えだ。しかし、サッカーでいうならば、相手チームの選手がことごとくレッドカードで退場していなくなり、自民党がやすやすとゴールを量産して大勝した試合展開に最も近いものがある。

その一方、一票の格差の違憲状態が改善されずに総選挙が敢行されたことは、この選挙自体に正当性が認められないわけであり、無効ではないのか。つまり、正式なルールに基づかない試合なのだから、オウンゴールもレッドカードもない。そのことが第一。

とはいえ、総選挙は行われ、野田民主は大敗し、自民党が再登場した。国民がいやがる増税を「決断」することが大政治家の力量であると盲信した野田。彼がだれにどのように洗脳されたかはわからないが愚かだ。彼は自分のことを正直の上にバカがつく者だと自己規定したが、正直がつかないバカそのもの。マニフェストを破った大ウソは証明済みなのだから、野田が正直だと思う国民は皆無だ。

自民党大勝により国民が警戒すべきは、改憲の流れだ。安倍自民党は参院選までは「改憲」を表に出さず、インフレ誘導策によってミニバブルを引き起こす。その結果、株価、地価等が高騰し、それをマスメディアが経済の回復だと誤報すれば、国民はこれで何度、騙されたことになるのだろうか。経済の実態において実需に向かわない余剰マネーがインフレ誘導策で行き場を失い、資産投機に走りだしたのにすぎないのに。

そんな「アベノミックス(ミニバブル誘発政策)」を国民が支持し、参院選で自民党が単独過半数を得れば、改憲は具体的な日程にのぼる。維新、みんな、民主の一部(旧自民及び旧日本新党の残党)も当然、改憲になびいているから、改憲は国会内において現実の流れとなる。日本の改憲、すなわち国防軍改名、集団的自衛権の発動の現実化によって、日本の軍事力膨張を目の当たりにすれば、それを危惧する東アジア各国の緊張は一気に高まる。日中間の軍事衝突もあり得る。それでも有権者は、投票行動を規定する価値観において、「経済回復」を最優先順位とするのだろうか。

自民党はすべての原発の再稼働及び新設をも辞さないかまえだ。核燃料のゴミの再処理及び貯蔵問題の具体策もない。もちろん安全基準も国際水準以下のまま。福島、被災地は見捨てられたままとなる。

さて、今回の総選挙における最大の変移は、選挙運動におけるインターネット活用の是非が現実化したことではないか。マスメディアは、その合法化によって選挙広告掲載料、選挙CM放映料等の減収が予想されるところから、この件については熱心には報じない。

しかし、立候補予定者にとっては、媒体料金、印刷料金、郵送費用等が大幅に節減できるところから、ネット活用の合法化は強い願いとなっている。有権者にとっても、選挙運動中の立候補者の約束が簡易に比較閲覧でき、かつ保存可能なところから、当選後の変貌さえもチェック可能だ。 ネットユーザーが選挙に関心を示せば、棄権者が減少するかもしれない。つまり、有権者の投票意識が変わり、投票行動を変える可能性もある。そのことは当然、政党支持率に変化を生じさせるだろう。そればかりではない。選挙運動をネットに限定した立候補者が現れる可能性もあり、ネット活用が日本の選挙そのものを変える。ネット解禁こそ急務でなくて、なんであろうか。

2012年12月21日金曜日

有権者は民主党を許さなかった

◎世論調査どおりの結果に終わった総選挙

総選挙は自民党の圧勝で終わった。事前に各報道機関等が行った「獲得議席予想」等と称する調査結果どおりだった。2000人程度を母数とした調査が国家規模の選挙の結果を十分予想し得るのである。統計学とはこういうものなのだな、と改めて感心した次第。“世論調査ほどいい加減なものはない”という一部の識者の断言は根拠がないことが証明された。

事前の選挙調査結果を大雑把にまとめれば、以下のとおりだった――▽およそ4割が「支持政党なし、もしくは投票先未定」、▽支持政党の1位は自民党だが、他党(民主、第三極・・・) と大差つかず、▽第三極といわれた新党はドングリの背比べ、▽卒原発=反原発を前面に出した日本未来の党は支持率が伸びず・・・であった。

◎「支持政党なし」「未定」は棄権 に

実際の総選挙の結果もそのとおりとなった。まず、棄権が約4割。これは事前調査における「支持政党なし、未定」にそっくり該当する。比例区の議席獲得結果は、事前調査の支持率の比率を概ね反映した結果に。つまり、自民党の獲得議席は57(民主党30)にとどまった。ところが、小選挙区では自民党237で民主党30を天文学的に上回った。選挙区自民党の固定的支持層が自民党に投票し、その数がその他の政党を上回った結果である。

棄権の4割は、民主党には絶対に投票しないかわりに、ほかの政党にも入れる気がしない、よって投票に行かないと決めった層ではなかったか。

◎有権者は「民主党憎し」の思いを晴らす

今回の総選挙は、有権者が自民党を支持したというよりも、民主党憎し、民主党だけは許せない、民主党に裏切られた恨みを晴らす・・・という有権者の意思表示以外のなにものでもなかった。「民主党憎し」の投票行動としては、消極的意志表示として「棄権」であり、積極的なそれとしては第三極等への投票となったが、後者はすべて死に票で終わった。

投票は政策を見極めてといわれるが、小党乱立の今回のような状況では、政策が入り組んで提示されたため、有権者にとって選択が難しい。たとえば、自民党の経済優先については是とするが、原発推進は困るとか、維新は官僚体制打破のスローガンは是だが、憲法改正は困る…といった具合だ。

このような状況では、支持政党をもたない無党派層は、最終的な価値判断として、「民主党憎し」のみが拠り所なり、民主党は固定的支持母体である労組組織を獲得したにとどまり惨敗した。

◎小鳩は泥船を脱した

総選挙の敗北を予期した民主党創設者・鳩山由紀夫元首相及び小沢一郎元幹事長(以下、「小鳩」と略記)は、沈みゆく野田民主党の下を離れ、大敗北の惨状からいち早く逃亡した。当然である。

自民党から政権奪取に成功した民主党であったが、その立役者であった小鳩はともにマスコミの報道テロで党内主流から追放をうけ、民主党は旧日本新党(細川派=松下政経塾派)にのっとられた形となっていた。このたびの、野田の「自爆テロ解散」の敢行も細川の示唆であるとの噂もあった。

小沢は日本未来の党へと緊急避難し、鳩山は政界引退をした。二人の政治家としての前途ははなはだ暗いが、少なくとも、惨敗の汚名を着ることだけは免れた。賢明な選択だと思う。

◎大勝・安倍自民は暫定政権

大勝した自民党だが、勝負は来年夏の参院選だという説が流れていて、筆者もその通りだと思う。今回の選挙は、前出のとおり、有権者が「民主党消滅」に向けて鉄槌を下したもの。自民党を積極支持したわけではない。有権者はこの先、およそ半年間の自民党の政権運営や政治行動を見届けたうえで答えを出す。その間、民主党はおそらく解体しており、乱立した小党の整理も進む。

しかし、いずれかの第三極が与党・自民党の対抗馬となって成長するには時間が足りない。参院選で自民党独走を阻止するためには、投票日に、およそ4割を占める棄権=無党派層が非自民のいずれかに投票する以外に方法がない。それが<自民党>vs<○○党>という二大政党制の構造を確立する唯一の方法である。

2012年12月14日金曜日

大谷の日ハム入団は密約だ

日本ハムからドラフト1位指名された花巻東・大谷翔平投手(18)が9日、メジャー希望から一転して入団することを正式に表明した。この日、岩手・奥州市内のホテルで栗山英樹監督(51)ら球団側に伝えた。その後に会見に臨み、日本ハムの投手と打者の二刀流での育成方針、交渉過程で示された資料が心変わりする理由になったと説明。騒動に巻き込んだ周囲に謝罪しながらも「1年目からしっかり活躍できるように頑張っていきたいと思います」と所信表明した。
 将来的にあこがれであるメジャーを目指す強い気持ちは現在でも変わらず、日本球界を経由して、挑戦することも明言。「やっぱり最終的にはメジャーリーグ(MLB)に行ってみたいと思いますし、自分のあこがれている場所。それにいたるまでの道として、新しく、ファイターズさんから新しく道を教えてもらったという形」とし、レベルアップして米球界入りをする青写真も披露した。Nikkansports.com
[2012年12月9日21時52分]

大谷の「心変わり」は江川の「空白の一日」に匹敵する犯罪的ドラフト破り

筆者は大谷の日ハム入団を知って驚いた。このようなことは、絶対にあってはならないと思った。日本プロ野球ドラフト史上、江川の「空白の一日」に匹敵する最大の汚点の1つではないのか。

大谷は2012年ドラフト会議開催前、早々とMLB行きを意思表示し、日本のプロ野球球団の指名を拒否していた。大谷本人が正式に拒否したものとは言えなかったのかもしれないが、報道では、大谷が日本球団からドラフト指名を受けても、日本の球団には絶対に入らないと伝えられていた。ところが、日ハムの指名を受けてから、数回の入団交渉を経て、日ハム入りを正式に受諾した。これが密約の結果でなくて、なんであろうか。

日ハム、花巻東高校の悪質な「連携プレイ」

このような「絵」を描いたのは、大谷本人ではなく、おそらく、日ハム球団及び花巻東高校野球部関係者だろう。あまりにも露骨な「連携プレイ」ではないか。MLB行きを明言した大谷の意思を尊重した日ハムを除く日本の球団は彼の1位指名を避けた。交渉権を獲得しても、入団交渉に応じてもらえないのならば、1位指名権の無駄打ちに終わる。2012年ドラフトには有望な選手が複数いるから、入団可能性の高い選手を求めたのだ。プロ球団としては当然の選択である。

ところが、日ハムは大谷を指名して、無抽選で単独指名権を得た。そして、日ハムは「独自」に作成した「資料」とやらを駆使して、大谷の説得に成功したと報道された。茶番である。その「資料」とやらには、米国以外のアマチュア選手が自国プロ球界を経ずに直接、MLBに挑戦するデメリットが説明されていたという。

地に落ちた日ハムのドラフト戦略

これまで、確かに、日ハムのドラフト戦略は正当性があった。昨年ドラフトにおける菅野指名は称賛されたものだ。“その年、一番の選手を指名する”という筋は通している。だが、だからといって、日ハムと大谷の間に密約がなかったは言えない。そもそも、大谷が何の考えもなく、MLB行きを公言したとは思えない。自分の大事な進路なのだ。日本球界を経ずに米国に挑戦するメリットとデメリットを検証したはずである。米国生活の不自由さ、言葉の問題…いろいろな困難は承知の上だろう。ドラフトを前にして、大谷はただ、将来の夢を無邪気に語ったとでもいうつもりか。

花巻東高校が教育機関ならば、学生に適切な進路指導をする義務がある。

日ハムが作成した「資料」で、日本球界を経ることのメリットに気が付くということは絶対にあり得ない。大谷を擁した高校がまっとうな教育機関ならば、大谷の進路について適切なアドバイスをしなければいけない立場にある。日ハムの資料など見なくとも、大谷にとってベストだと思われる進路指導をして当たり前ではないか。筆者が茶番だと速断した根拠は、この「資料」の存在である。怪しいではないか。

繰り返すが、花巻東高校の指導者たちは、米国での競争と生活がバラ色だと大谷に説明したのか。一人の高校生が米国で暮らし、そこで競争をしながらメジャーリーガーを目指すことの困難さを説明しなかったのか。逆に、その困難さを克服することが、大谷にとって人間的成長の機会だと説明することもできなかったのか。筆者は取材をする立場でないので、すべては憶測、推測の域を出ないのだが、マスメディアならば、今回の「大谷事件」の真実を解明することができるはずだ。

被害者が存在しない「犯罪」

さて、大谷が日本球界に「就職」したことで被害者がいるとしたら、大谷を獲得できなかった11球団だけだろう。それも被害者とはいえないくらいの軽微の被害である。指名が重なれば抽選なのだから、獲得できない確率の方が高い。

逆に、得をした者は多い。まず、日ハム球団。逸材の大谷を無抽選で獲得できた。大谷の登板で集客が増える。ダルビッシュ並に成長すれば、ポスティングでMLBに高額で売却できる。さらに、ドラフト戦略の一貫性を称賛され、有効な「資料」作成という企業イメージアップのおまけがついた。

日本の野球ファンも、何シーズンかは大谷の投球が楽しめる。スポーツマスコミも話題の新人がいて大助かりだ。前出のとおり、近い将来、MLB挑戦で話題沸騰すること間違いなし。

大谷自身も日本で実績を積めば、日ハムならば、短い年限ですんなり、MLBに行くことが可能だ。MLBも、日本球界における実績を確認してから獲得できるメリットがある。米国で彼をつぶしてしまったら一大事。一人前になってから獲得しても遅くない。大谷の密約が気に入らず、怒っているのは筆者だけのよう。正義とやらは、どこへ消えたのだ。

2012年12月2日日曜日

沈黙を破った佐野眞一

橋下徹大阪市長(以下、肩書、敬称略)に係る『週刊朝日』の連載中止問題について、これまで沈黙を続けてきた筆者の佐野眞一氏(以下、敬称略)が、管見の限りだが、初めて騒動についてコメントした。

佐野は『東京新聞』朝刊の「こちら特報部」の取材に応じ、「橋下という人物を看過していたら、大変なことになる。あたかも第二次大戦前夜のようなきな臭さを感じた」と、「橋下連載」の動機を語った。

また、橋下の振る舞いについて、1930年代のドイツを想起したとし、「ワイマール憲法下で小党が乱立し、閉塞状況が続く。そこにヒトラーが登場する。彼は聖職者や教師、哲学者らを“いい思いをしている連中”とやり玉に挙げ、求心力を高めた。その手法は現在の橋下と似ている」とも評した。

だが、橋下の政治手法がヒトラーと似ている点はそれだけではない。橋下とヒトラーの共通点は、マスメディアを巧妙に利用する点である。ヒトラーはメディアを自由に駆使し、自らの主張を大衆に浸透させた。一方、結果において佐野の「橋下連載」は、橋下に逆利用され、彼の株を上げてしまった。佐野の「橋下連載」は、彼が意図した橋下攻撃の志と真逆の展開をみせて終息した。

そのことはともかくとして、佐野が橋下に感じた危うさは、筆者の感触と変わらない。筆者も、橋下はヒトラーの政治手法を意識して真似ているか無意識のうちにヒトラー的要素を踏襲しているのかは定かではないが、ヒトラーの縮小的再来だという感覚を共有する。もちろん、橋下は、ヒトラーの才能・狂気の度合いとは相当劣るものの。

佐野の「反橋下」の意思及び週刊誌連載の企ては、ごく自然なものだ。だが、なぜ、ナニワの「小型ヒトラー」の反撃を許してしまったのか、また、結果において、佐野及び『週刊朝日』は、いともたやすく橋下に完敗してしまったのか。

『東京新聞』の取材に答えたコメント内容から、その理由は以下の3点に要約できる。

(一)「差別」について記述や表現に慎重さを欠いたこと

(二)週刊誌編集者が付した「血脈」「DNA」といった見出しの不適切性

(三)タイトルである「ハシシタ」が被差別部落を想起させるものであること
  (※一と重複するが、それがタイトルであったことの重大性)

佐野によれば、(二)(三)は週刊誌の編集者がやったことで自分は印刷後に知った、という意味の説明をしている。しかし、佐野は(三)について、週刊誌の編集部がやったこととはいえ、それでも「ハシシタ」というタイトルについては深く反省をしており、「(略)関西の地名で『ハシシタ』が被差別部落を示唆するケースがあることを知った。読者の方からも(タイトルが)部落を想起させるという指摘を受け、差別される側の気持ちに思慮が至らなかったことに、胸を突かれる思いがした」と語った。

ここまでのところを大雑把に整理すれば、佐野の橋下攻撃の志については、多くの反橋下派の思いと共通する。しかし、表現者・佐野の創作を週刊誌という商品にしたところ、差別を助長、強調する欠陥品として仕上がって世に出てしまったということになる。このミスは、作者である佐野のものとは言えない。『週刊朝日』の編集者が素人だったために起こったことである。表現者は作品の質を問われることはあっても、出版物(=商品)に係るトラブルについては、編集者がその責を負うのが出版界のルールだからである。今回のトラブルは、佐野の説明を全面的に信ずるならば、週刊誌の編集者の力量不足に起因する。

さて、もう1つ重大な問題がある。「ナニワの小型ヒトラー」橋下の言動、思想、哲学、政策・・・を問う方法として、橋下のルーツ(親族、生育環境等)を洗い出し公表する必要があるのかどうか――についてである。

佐野の作品では、その手法は定番であるという。たとえば、ソフトバンク創業者の孫正義氏(以下、敬称略)の評伝『あんぽん』では、孫が在日韓国人(現在は日本国籍を取得)であり、孫の一族、ルーツを、韓国取材を重ねて描いているという。そのことに孫が文句をつけたことはないし、社会問題化してもいない。佐野も、人物の評伝を描く際、生育環境にこだわることは当然として、「人間は社会的な生きものであり、文化的な環境や歴史的背景はその人物の性格や思考に必ず影響している。まして公党の代表であれば、その言動や思想がどういう経緯で形成されたのかを知ることは極めて大切だ」と説明している。

本件では、橋下の人間性、思想性が形成された背景には、差別問題があるということになる。佐野はこう言っている。
「(橋下の)実父が生きた部落では、解放運動が強い力を持っている。そこでは徹底した平等主義が貫かれる。しかし、その環境を背負っている橋下の思想は逆。『力のない奴は生きている価値がない』という過剰な競争主義だ。文楽をめぐる対応が典型だ。その違いを探ることは、おそらく現代社会の病巣を描くことにつながる」

 ここで『東京新聞』の記者は、紙面に“差別と解放運動、アウトローの実父、首長に上り「戦後民主主義の脅威」になった息子。その相関関係に世相を映そうという狙いだったのか”と記事を結び、佐野の「橋下連載」の方法を推測しつつ佐野を擁護しようとする。

結論を言えば、佐野の方法は橋下の政治思想の解明につながらない。なぜならば、橋下は思想の力によって大衆に影響を及ぼすような思想的政治家ではないからである。橋下の思想形成の核を社会(親族、育成環境等)に当たっても、そこからは何も出てこない。なぜならば、橋下を「ナニワの小型ヒトラー」にしたのは、ただただ、日本のマスメディアの力によるからである。日本のマスメディアは、橋下の政策的なあいまいさ、一貫性のなさ、思いつき、並びに大阪府政及び大阪市政の実績等々といった政治的現実を吟味しようとしない。日本のマスメディアは、彼のダーウイン主義的優生思想や、経済政策を検証しようともしない。橋下の経済政策は、彼のブレーンである竹中平蔵の自由市場主義(新市場主義)そのものである。竹下の経済政策は彼が仕えた小泉政権において、日本社会を格差社会に導いた犯罪的なものである。にもかかわらず、日本のマスメディアは、橋下の政治的、政策的本質を問おうとしない。

換言すれば、日本のマスメディアは、それまで、橋下を玩具として弄んでいたのである。彼らにしてみれば、橋下は視聴率や販売部数を稼げる子役だった。橋下には何をやっても許される、と思っていたことだろう。“俺達が橋下を有名にしてやっているのだから”と思っていたことだろう。

ところが、橋下は日本のマスメディアが気づかないうちに次第にその力を増し、もはやマスメディアが制御できない怪物にまで成長していた。そのことをマスメディアは自覚していない。ヒトラーが台頭したことをドイツの当時のメディアも知らなかったように。

佐野は自らが信ずる方法によって、橋下という怪物を解明しようとした。ところが、彼に仕事を持ち込んだ『週刊朝日』というメディアは、大新聞の余剰人員の受け皿だった。日本のマスメディア出身でしかも本社の出世レースに敗北して子会社にふきだまった週刊誌編集者たちは、あいかわらず、橋下を玩具として弄ぶことで販売部数が稼げると目論んだ。ワルノリである。だから、「ハシシタ」「DNA」「奴の本性」といった、下品な見出しがつけられたのだろう。素人週刊誌編集者たちは、同和問題に係る表現コードすら忘却したのである。結果、玩具と思っていた橋下から猛反撃を受け、週刊誌側は全面降伏した。日本のマスメディアが「ナニワの小型ヒトラー」に大敗北を屈したのである。

ただ、思想形成の本質を問う方法として、佐野の方法は有効なのかどうか――という問題は残ったままである。カントが歯痛もちだったから、あのような晦渋な哲学ができあがったという「カント論」もある。貧困家庭で親に学歴がなくとも、親が教育熱心であれば、その子供が学者や思想家になることは珍しいことではない。親族に犯罪者がいること等で、警察官、検事、弁護士を志す者も少なからずいる。 そのような環境の者がすべからく、「小型ヒトラー」に成長するわけではない。

ただこれだけは言える、という面がある。評伝や人物伝においては、対象となる人物の環境が尋常でないほど面白さは増すという法則である。筆者の近辺に、“俺の祖父は満州浪人で馬賊だった”と自称するアウトロー気取りの男がいる。日本には「平家の落ち武者」を出自とする村がいくらでもある。そのようなことからわかるように、人間には、自らの出自をことさらいたずらに神秘化することによって、自らの人間的価値を上げたいという欲求が内在しているものなのである。

大物政治家、大物経済人ならば、その労苦を強調し、そこから這い上がった成功伝をつくりたいと思うのは当然である。佐野のようなキャリアの作家ならば、そのあたりは、取材者(=評伝の対象者)と阿吽の呼吸で分かり合えているはずである。しかし、佐野が仕事着手の始動において、正気を逸していた面がうかがえる。佐野は東京新聞紙面で、「自分らしくもないというか、社会的な使命感が働いた仕事だった」と、本音を明かしている。老練の仕事師が陥った対象への過剰な反応である。

ただ、佐野の以下のコメントは日本のマスメディアに対する警鐘として、ここに書き写すだけの価値があると筆者は信ずる。
「橋下を出せば、視聴率が取れるというメディア。長引くこの不況を脱して、カネもうけができればよいという橋下。そこには共通項がある。ただ、その風潮の行方の恐ろしさについては、ほとんど語られていない」

Zazie, Nico(12月)

早いもので、もう12月。

恒例の猫の体重測定がきてしまった。

今月のZazieは2.6㎏で前月比±0、

Nicoは5.9㎏で同+100g。

体重推移から判断するに、二匹とも成長期は終わったのではないか。

2012年11月27日火曜日

ますます動きが鈍くなった猫たち

寝てばかりのNico
抱かれたがりのZazie

2012年11月11日日曜日

猫の最近の動向

「なんにでも首を突っ込む」というのは、人間にあっては、あらゆることに生半可に興味をもつものの、なにごとも成し遂げられない、という意味。
気温の低下とともに、猫は人間との接触率が高くなる

2012年11月6日火曜日

中国から来た青年の話

先般、家人の中国関係の取引先の青年・章(ジャン)君と二度ほど食事をした。台州の出身だという。章君とカタコトの英語と漢字の筆談を交わしたところ、彼の曽祖父・祖父は地主・資本家であったため、毛沢東の文化大革命の渦中、投獄・財産没収の憂き目にあったということが判明した。章君は、筆者が紙に書いた「造反有理」の文字に×を付けた。

筆者は、文化革命があった当時の中国については、厳格なプロレタリア国家だと思っていた。だから、文化大革命が起きた理由を理解できなかった。毛沢東が革命を成功させたのが1949年、文化大革命の勃発が1960年代後半であった。文化大革命は、毛沢東率いる中国共産党による革命から10年超しか経っていなかった時点で起きた。筆者を含め多くの日本人は、中国がソ連・東欧と並ぶ巨大な労働者国家だと思っていた。

文化大革命当時、章君の家は富裕層(地主・資本家)に属し、道教関連の蔵書がたくさんあったが、それも革命勢力によって焼失させられたという。ということは、文化大革命当時の中国は、かなり貧富の差があったわけであり、旧勢力=地主・資本家層が温存されていたことがわかった。毛沢東が進めようとした革命後の革命、すなわち永続革命は、広大な中国社会に温存された旧勢力を一掃することだったのだろうか。

章君のような話を聞くと、多くの日本人は、文化大革命で被害を受けた旧勢力=地主・資本家層に同情したくなるのだが、地主・資本家層は、共産主義革命前はもちろんのこと、その直後まで、農民・労働者を暴力的に支配し、搾取を続けていた。中国共産党による革命の大義は、圧政に苦しむ農民・労働者を解放することにあった。ところが、1949年に権力奪取に成功した中国共産党であったが、全国的解放が一気に成し遂げられたわけではなかった。広大な中国のことだから、旧勢力が温存された地域も多かったのだろう。毛沢東は、温存された旧勢力の巻き返しを恐れ、革命の革命を続行しようとした。そのことが、造反有理が意味する根本思想なのだ。

台州は上海に近く、浙江省の省都・杭州から車で1時間もかからないところ。文化大革命が進められた1960年代後半、そんな都市部においても、権力の完全な移行は成し遂げられていなかったのだ。

しかし、文化大革命は頓挫し、天安門事件の大弾圧を経て、旧勢力の利益を代表する勢力が一気に台頭し、中国は巨大な官僚独裁資本主義国家に変容を遂げ、今日まで、いびつな経済的発展を遂げてきた。

さて、そんな章君は弱冠28歳の普通の青年だ。骨董品の買い付けを仕事にしている。彼が言うには、台湾・日本には中国の古い部分が色濃く残されているのだと。今日の巨大な官僚資本主義国家・中国は、文化大革命で喪失した自らの文化遺産を、日本や台湾に求めて、買い戻そうとしているわけだ。

章君は大学卒業後、友人と会社を興し、働き通しだったという。その後、いま勤務している会社の社長に見出され、骨董品バイヤーという職についたのだが、彼はそのことを喜んではいるものの、いずれ転職もしくは独立を目指しているようだ。

そのことをもって、中国の若者には夢がある、と速断してはならない。彼は恵まれた若者の一人にすぎない。たとえば、尖閣をめぐる問題で、仕事がみつからない多くの中国の若者が官制デモに参加し、「愛国無罪」に守られ、日本資本の小売業や工場を破壊した。彼らは日ごろの鬱憤を晴らし、中国政府は民衆のガス抜きを計る。その「主役たち」と筆者が出会う可能性は、今現在、限りなくゼロに近い。

将来に希望を抱く恵まれた章君には申し訳ないが――そして、筆者の勝手な希望的推測にすぎないが――いずれ近い将来、中国に新たな権力闘争が起こる可能性は低くないと思いたい。官制デモに参加した底辺層の民衆が造反有理を掲げる日が必ずや来ると思いたい。天安門事件が起きたのが1989年(23年前)。あの事件による数千といわれる犠牲者の鎮魂は、終わっていないのだから。

2012年11月2日金曜日

Zazie, Nico(11月)


昨日(1日)、猫の体重を測定したところ、Zazieが2.6㎏、Nicoが5.8㎏と、ともに前月比、0.3㎏減となった。

二匹ともマイナスというのが意外。秤が狂ったか・・・

2012年10月28日日曜日

ドラフト信仰から目覚めよ

日本プロ野球(NPB)の新人選択会議(ドラフト2012)が25日、東京で行われた。注目の藤浪晋太郎投手(大阪桐蔭)は阪神が、大学球界NO.1右腕の東浜巨投手(亜大)はソフトバンクが、それぞれ競合の末、交渉権を獲得した。1年浪人した菅野智之投手(東海大)は巨人が単独指名、大リーグ挑戦を表明している大谷翔平投手(花巻東)は日本ハムが指名した。

今年のドラフトの注目点は、以下のとおりであった。

(1)甲子園で活躍した藤波投手の交渉権を獲得するのはどこか。

(2)神宮のエース・東浜投手の交渉権を獲得するのはどこか。

(3)昨年、日ハムの指名を拒否した菅野投手を読売以外の球団が指名するのかどうか。

(4)米国メジャーリーグ入りを希望する高校生・大谷投手を指名する球団があるのか。

クリーンな藤波、東浜に拍手

(1)及び(2)については、複数の球団が指名をし、抽選の結果、藤波が阪神、東浜がソフトバンクと、両者納得の結果を得たような気がする。ドラフト前に、どこの球団から指名されても交渉に応じる姿勢を明らかにしていた2人の人気者に拍手を送りたい。天は、善なる心を持つ者に祝福を与えるものだ。

ドラフト破り菅野を「祝福」するマスメディア

一方、(3)については、読売が単独指名で交渉権を獲得し、指名の挨拶に出向いた原監督が用意した背番号付(19番)の読売のユニフォームを菅野にきせるところがTVに報道された。まるで、入団会見のようだ。スポーツジャーナリズムのみならず、マスメディアまでもが、菅野の読売単独指名を祝福するような報道をしていたことに筆者は驚きを覚えた。

菅野の場合、単純に言って、ルール違反、“ドラフト破り”だ。菅野はドラフト前に読売以外の球団から指名を受ければ米国行きだと牽制までした。そんな菅野の頑なな姿勢を前にして、読売以外の球団も菅野指名を控えた。

▽アマチュア野球の建前さえも崩して、浪人・菅野を野球部に抱え込んだ東海大学、▽東海大学と読売の不健全な関係を疑問視もせず、伯父~甥の親族愛という虚構を盾にして、読売・菅野の強引な一本釣りを美談に歪曲したマスメディア、▽他球団を黙らせた読売――の3者は、ドラフトの健全な運営を妨害・阻害するルール違反者ではないのか。

日ハムのドラフト方針を媒介にドラフトを再考する

さて、浪人して1年間迂回して一本釣りという読売のドラフト戦略の犯罪性に対する糾弾はこのくらいにする。話題を転換して、日ハムの大谷指名を媒介にして、ドラフトというものを改めて考え直してみることにする。

筆者の推論では、日ハムは、日ハムを除くすべての日本のプロ野球関係者(プロ球団経営者、スポーツジャーナリズムはもちろんのこと、われわれファンを含めて)とはまったく位相を異にした視点でドラフトを位置づけているように思える。日ハムのドラフト戦略をみると、われわれのドラフト信仰の払拭を促しているにようにさえ思えてくる。

日ハム、菅野、大谷と2年連続で「強行」指名を敢行

日ハムは2011年ドラフト会議において、読売を“逆指名”していた菅野を「強行」指名し、今年は前出のとおり、米国球界入りを表明していた大谷を「強行」指名した。ここで“強行”に敢えてカギカッコを付けたのは、それがマスメディアの強い思い込みの表象であって、日ハムがドラフトについて遵法の精神で取り組んでいる、と、筆者は考えるが故だ。

前出のとおり、日ハムは昨年、菅野の指名権を得たものの、入団交渉に失敗している。そして、本年も大谷の指名権を獲得したものの、入団に至る可能性は極めて低い(と筆者は考える)。その根拠は、仮に大谷が日ハムの説得に応じて前言の米国行きを翻すようなことになれば、それこそ、“日ハムとの密約”と評されても仕方がないからだ。そんなリスクを負う愚者はいない。大谷が日ハムの交渉に応じることは不可能なのだ。となると、日ハムは2年続けて、ドラフト1位指名を無駄遣いしたことになる。2年連続して、1位指名を空振りすることを承知で、なぜ、日ハムは今年も大谷を指名したのか。この空振りは球団強化のマイナスではないのか。

プロ志望届を提出した、その年の一番の選手を指名する

日ハムのドラフトに係る方針は、栗山監督が明言しているように、その年の最も優秀なアマチュア選手(※日本の場合、ドラフトにかかる高校生・大学生・社会人が純粋なアマチュア選手だとは言えないのだが、とりあえず、表向き、野球を職業としていないという意味)を指名することだという。この方針がぶれることはないとのことだ。だから、アマチュア選手側が抱える思惑――たとえば、読売以外は入団交渉に応じないであるとか、米国野球界入りを希望する等の事前の意思表明――を、日ハムは無視する。

ドラフト制度は、プロ野球志望届を提出した者を指名することなのだから、たとえば、菅野、大谷がその届を出した以上、プロ球団側から指名を受ける立場にあり、ドラフト会議終了後、交渉権を得たプロ球団が志望届を出した者と交渉することは自然である。だから、マスメディアが特定の選手について、「強行」指名という表現を用いることのほうが誤りとなる。ドラフト制度が、選手と球団の事前の密約や、両者の特定の思惑に基づき運営されることを排除する以上、日ハムの指名は強行でもなんでもない。むしろ、菅野、大谷のほうが、プロ野球志望届を提出しながら、公正なドラフト制度に則らずに特定の思惑の下に行動した、もしくは行動しようとしている“違反者”と見なされるべきなのだ。しかるに、日本のマスメディアは、ドラフト制度に則り行動するプロ球団=日ハムの指名を「強行」と異状であるかのように表現し、日ハムを、不自然な行動をしている者と見なすよう、世間を誘導しようとしている。

1位指名の空振りは補強にとってマイナスか

客観的に見れば、日ハムのドラフト制度に対する方針と行動は筋が通っていて、公正であり、チーム強化のベストの方針であることは理解できる。だが、その結果として、日本のマスメディアに守られたルール違反者から交渉拒否を受け続け、1位指名権を無駄遣いすることのマイナス面はどうなのだろうか。2011年、2012年と2年連続の空振りが、球団弱体化につながるのかどうか。次にそのことを検証してみよう。

今の段階で、日ハムが2年連続で1位指名選手から袖にされたことがマイナスかどうかを判断することは困難だ。だが、日ハムのチーム力低下に直結する可能性がないとはいえない。というのも、たとえば、読売の場合、今季優勝した主力選手の入団履歴を調べてみると、1位指名の威力を無視することは難しい。

具体例を挙げておこう。高橋由伸野手の読売入団の経緯を『ウィキペディア』より以下、引用する。

1997年ドラフトにおいて、中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズ、広島東洋カープを除く9球団の激しい争奪戦が繰り広げられる。高橋の出身地である千葉の千葉ロッテマリーンズファンが「高橋君にロッテへの逆指名入団を」と署名運動を繰り広げ、数万人の署名を集めたりもしたが、高橋本人は志望球団をヤクルトスワローズ、西武ライオンズ、読売ジャイアンツの3球団に絞る。ただ本人に「慶大野球部のように伸び伸びとしたチームがいい」との意向があったため、逆指名会見直前には読売新聞グループ傘下であるスポーツ報知を含めたいずれのマスコミも「ヤクルトスワローズに逆指名入団間違いなし」と報じていたが、本人の意思を超越した、周囲を巻き込みながらの壮絶な争奪戦が展開された結果、巨人を1位で逆指名入団する。会見では笑顔が一切見られず、目には涙を浮かべていたこともあり、巨人逆指名に至るまでの経過についても終始マスコミに取り沙汰されていた。2012年3月には朝日新聞の取材により入団時の契約金が最高標準額を大幅に超える6億5千万円であったことが発覚している。
阿部慎之介捕手は、2000年ドラフト会議において、ドラフト1位(逆指名)で巨人に入団した選手。逆指名制度は読売がドラフト形骸化を図って創設したもの。いまはもちろん廃止されている。

内海哲也投手の場合、同じく『ウィキペディア』によると、ドラフトでは複数球団による1位指名での争奪戦が確実視されていたが、祖父の内海五十雄が巨人の野手だったこともあり、ドラフト直前に巨人以外からの指名は拒否することを表明した。そのため、2000年ドラフト会議では、巨人が単独で3位以降で指名することが想定されたが、オリックス・ブルーウェーブが1位指名した。指名直後に仰木彬から電話を受けるなどしたため、一時はオリックス入団に傾いたが、高校時代にバッテリーを組んでいた李景一が巨人から8位で指名されたことで再び拒否の姿勢を固め、最終的には東京ガスへ進んだ。2003年、3年越しの願いが叶って自由獲得枠で巨人に入団。自由枠制度というのは当時、ドラフト形骸化を画策した読売が創設させた制度でいまはない。内海は言うまでもなく、ドラフト破りで読売入団した前歴の持ち主である。

また、長野久義野手も日大卒業後の2006年ドラフトで日ハムの指名を拒否し、社会人野球Hondaに入団、2008年ドラフトではロッテの指名を拒否し、Hondaに残留。2009年ドラフトで読売が単独指名を果たし、読売に入団した、これまたドラフト破りの前歴をもつ。

沢村拓一投手は、2010年ドラフト前に「読売以外なら海外」と宣言して、読売の単独指名を勝ち取った、これまた、事実上のドラフト破り選手。主力選手のうち、まともにドラフト入団したのは、2006年の高校生ドラフトにて堂上直倫のハズレ1位で指名した坂本勇人野手くらい。

つまり読売の現在の主力選手構成について大雑把に言えば、▽読売主導によりドラフト制度を形骸化した「逆指名」「自由枠」で「合法的」に獲得した選手、▽事前の「読売以外ならば入団拒否」宣言により、単独指名で読売入団に成功した選手、▽FAで入団してきた選手、--で構成されていると言って過言でない。読売の今季リーグ制覇は、戦力的にみると、逆指名、自由枠入団のベテラン選手、事実上のドラフト破り選手、FA枠入団の選手による混成軍だと分析できる。

高橋、阿部、内海、長野、沢村と、ドラフト破りによる戦力補強の威力はすさまじい。だが逆に言えば、この先、高橋、阿部、内海が加齢により力の低下が確実に予測されるところから、読売が既存の保有の選手の底上げをしない限り、チーム力は落ちることは確実だ。ならば、日ハムの場合、1位指名を2年連続で、しかも、この先も含めて、指名拒否にあいつづけるというのは、相当の戦力ダウンに直結すると判断できるように思う。

アマチュアNO1を入団させなければ――という呪縛

日ハムのドラフト方針は前出のとおり、「アマチュアNO1選手を指名する」だが、読売のドラフト方針は、「アマチュアNO1選手を手段を択ばず入団させろ」だ。

これは一見同一に見えるがまったく逆のドラフト戦略だ。詳しいデータを無視して直感的に言えば、ドラフトとは、日ハムの場合、複数ある戦力アップ方策の1つなのだが、読売の場合、戦力アップの唯一・至上の手段なのだ。

近年、FA制度が創設されたため、読売の戦力アップはドラフトとFAの2つに増えたが、旧弊に依拠して読売はそれでも、ドラフトに全力投球なままなのだ。だから、読売はなりふりかまわず、マスメディアを使って世論誘導してまで、アマチュアNO1選手をとりにいく。過去においては、逆指名・自由枠の創設(その裏で破格の契約金提示)、それができなくなった近年では、入団拒否、浪人(社会人野球入団等を含む)による、単独指名による事実上のドラフト形骸化を敢行してまでもだ。

読売をはじめとして、球界はドラフト信仰から目覚めよ

ドラフト関連記事はよく売れる、というのがスポーツメディアの常識らしい。確かに、そこに人間ドラマがなくはない。希望と現実の隔たり、くじという偶然性による将来決定、人間関係(先輩、後輩、親族)、選手の夢、願望、欲望・・・それが錯綜するドラフト会議がつまらないものだとは言えまい。

しかし、プロ球団における戦力アップはドラフトによるアマチュアNO1の獲得に限られるものではない。もちろん、アマチュアNO1は逸材であろうし、マスメディアに騒がれるだけの知名度があり、――いや、マスメディアが祭り上げる虚像のNO1かもしれないのであり、マスメディアがつくりあげる知名度なのだが、――そうした逸材を補強することは人気商売のプロ球団には財産になることを否定しない。

しかし、繰り返しになるが、それだけが補強手段のすべてではない。日ハムは、2010年ドラフトにおいて「ハンカチ王子」を1位指名で獲得したものの、彼は今季、伸び悩んだ。来季以降、「ハンカチ王子」の巻き返しもなくはないのだろうが、アマチュアNO1すなわち甲子園、神宮等のスター選手が必ず戦力になるとは限らない。そうした知名度のあるスター以外にも、優れた選手はいる。新人に限ることもない。トレードもあれば、球団に余剰的資金があればFAもある。

それだけではない。筆者の直感では、日本の野球人口に比して、プロ球団12というチーム数は少なすぎる。二軍を含めた24球団でもしかり。だから、才能を発揮する前に契約解除に至る選手も多い。そうした人材を再発掘するトライアウトの広汎な活用も重要となる。チーム強化の方策の中のドラフトはその入口の1つの制度であり、優勝な選手の指名権を引き当てれば補強が完了したというものではない。

ドラフトに係った逸材を1位指名することにキュウキュウとし、▽広汎なリクルーティング、▽育成システムの強化、▽トレード、▽FA制度の活用、▽トライアウト、▽海外無名選手の発掘・・・そしてなによりも、既存戦力の底上げといった方策を怠れば、チーム力アップにつながらない。読売を筆頭とする日本の球団の多くが、なによりもマスメディア及びファンが、ドラフト信仰、ドラフト1位指名神話におかされている間は、ドラフト制度の健全な運営すらままならない。

日ハムのように育成をコンセプトとしたチーム運営を図る球団が日本に出現したことで、日本球界に希望が見いだせるようになった。読売が続けるドラフトに係る悪弊を取り除き、選手育成で球団経営を健全化させる生き方がしめされようとしている。FAで高額年俸の選手を退団させ、若い低額の年俸の選手で勝てば、球団経営は親会社に依存しなくても、自立できる可能性が高まる。ドラフトは契約金の上限が定められた球団からみれば合理的な制度だ。それを遵法に徹して使いこなすことが今後、日本球界の健全経営の方策の一つとなろう。

読売が頑なにドラフト信仰におかされ続けるのは勝手だが、少なくとも、スポーツジャーナリズム、マスメディア、野球ファンよ、ドラフト神話、1位指名信仰から目覚めたほうがいい。

日本シリーズは因縁の対決に

 今年の日本シリーズは図らずも、読売VS日ハムの因縁の対決となった。このことは昨年のドラフトで菅野指名に絡んだものだけを意味しない。読売がドラフト信仰を頑なに持ち続け、アマNO1選手の指名=入団に手段を択ばない球団である一方、日ハムは、それを強化の一方策として相対化する球団だからだ。

また読売は、FAに積極的投資を惜しまないのだが、日ハムはダルビッシュをメジャーに売り飛ばしながら、既存戦力の底上げでリーグ優勝を果たした。かたや、潤沢な資金で選手漁りをするする読売、かたや、育成型で健全経営を目指す日ハム――どちらが日本一になるのか、興味は尽きない。

2012年10月23日火曜日

橋下の朝日再攻撃は、自身と維新の会の断末魔のあがき

橋下大阪市長vs朝日新聞グループ(『週刊朝日」』及び『朝日新聞』。以下、「朝日」」と略記)の抗争は、「朝日」側が謝罪文を出し、週刊誌の連載を中止することを宣言して終息するかにみえた。ところが、22~23日のツイッタ―において、橋下が“「朝日」の謝罪の仕方が悪い”というような意味の発言で問題を蒸し返し、再び「朝日」攻撃に打って出た。

繰り返すが、『週刊朝日』が連載として掲載した記事内容については、これまで、橋下本人が自身の街頭演説などにおいて、「けっこう、けだらけ…」発言等として大筋で認めてきたもの。いまさら、誹謗中傷、人権等々で非難するにあたらない。それでも橋下は「朝日」に猛抗議し「朝日」に対し取材拒否宣言をした。これを受けた「朝日」側は謝罪声明を週刊誌及び新聞に掲載し、連載も中止した。

橋下がそれでも「朝日」を許そうとしなかった背景には、この間の「朝日」との一連の喧嘩が大衆の支持をそれほど受けていないことを地方遊説で実感したためではないか。TV報道によると、橋下が維新の会として行った最初の地方遊説の地・九州各所における彼の人気は、直前に訪れた小泉進次郎に遠く及ばなかったという。維新の会を支持する層は、地元大阪もしくは東京といった大都市居住の人びとで、理性的というよりも感情的に状況判断をするような層なのではないか。維新の会が掲げる「維新八策」といった政策は地方から支持される内容ではない。橋下が掲げる「小さな政府」「自助の精神」は、政府の補助金や公共事業で食いつないでいる地方においては理解されにくい。地方において後援会組織や労組をもたない維新の会が、国政で勢力拡大を図るための足場を築くのはそう簡単ではない。「地方」が維新の会のアキレス腱なのである。

「朝日」との抗争とその勝利がそれほど浸透していない現実を理解した橋下は、この問題が尻つぼみで終われば、賞味期限切れまで打つ手が何もない。橋下及び維新の会の政治生命を延命させるためには、「朝日」イビリで社会の関心を引っ張るしかない。橋下の「朝日」叩きは、彼と維新の会の断末魔のあがきとも言える。

2012年10月21日日曜日

佐野眞一よ、沈黙せずに橋下に反撃せよ

橋下徹大阪市長(以下、肩書省略)は、朝日新聞出版が『週刊朝日』で連載を開始した「ハシシタ 奴の本性」の打ち切りを発表したことについて、19日夜、ツイッターに「これでノーサイド」と投稿した。これにて、橋下vs朝日の抗争は、橋下の全面勝利で終息した。

あっという間の事態終息である。拍子抜け、朝日側の覚悟の無さが情けない。橋下に対し、手段を問わず追い込むつもりなら、もっと書けと言いたくなる。こんな根性なしの週刊誌・『週刊朝日』は廃刊がふさわしい。所詮は親会社朝日新聞の子会社、新聞社の余剰人材の受け入れ先に過ぎないことが露呈した。

橋下と「朝日」の抗争は表面上終息したのだが、問題は残されている。連載の主筆であるノンフィクション作家の佐野眞一の立場である。佐野の作家としての評価はこの場では論じない。それはともかくとして、この連載を進めるに当たり、取材、表現の方向性を決めたのが佐野である可能性が高い。少なくとも佐野は、橋下側からの反論、同和問題について発生する紛争については覚悟していたはずである。覚悟のうえの取材と連載だったはずである。もちろん、連載のタイトルや「DNA」等の表現は週刊誌の編集者が考えたのであろうが、橋下の家系、親族を洗い出し、その周辺情報を取材し、そのことをもって橋下の政治手法を批判するという連載のコンセプトは、そのことが正しいかどうかは別として、佐野が主導した可能性が高い。ならば、作家・佐野眞一は沈黙してはならない。連載の主筆として、橋下の攻撃に反撃する義務がある。

「ノンフィクション」といえども、それはあくまでも虚構であり、創作である。現存する著名人の実名を使用しながら、そこに作家が想像やイメージを加えることにより、実像以上の人間性・人間力・ドラマ性を描くことで小説として成立する。この連載が“ハシシタ”として開始されたのは、そのことにより、読む側に小説=虚構性を暗示したとも考えられる。

この手の作品で有名なのが、『三島由紀夫-剣と寒紅』(福島次郎[著])ではないか。本題がしめす通り、この作品は三島由紀夫を実名にした小説で、作者の福島は自称“三島の恋人”である。福島は作品内に三島との同性愛の交情シーンを赤裸々に描いている。そのことで、三島の家族から抗議を受けた。福島が三島の「恋人」だったのかどうかは詳らかではない。がともかく、そのことは三島の研究者に譲るとして、この手の小説が世に刊行されることは珍しいことではない。

また、次元は異なるが、中上健二は自らの出自を路地(同和地区)として明らかにして、小説を書き続けた。そのことが彼の作品に翳りを与え、読む側にロマン主義的インパクトを与えたことも否定できない。 しかしながら、虚構性を全面的に出した小説という形式ならば、換言すれば、佐野が橋下を素材にした小説を書くのならば、『週刊朝日』という媒体の連載という形式は適当ではない。週刊誌は新聞に準ずるメディアであり、こうしたメディアの場合、小説は「新聞小説」「週刊誌小説」として記事とは明確に分離されて扱われるのが既存のルールであるからである。このたびの『週刊朝日』の連載は小説扱いではなく、情報として、NEWSとして、もしくは政治的キャンペーンとして扱われているのである。

朝日に完全勝利した橋下は、前出のとおり、ツイッターに勝利宣言(ノーダイド)し、自らが率いる維新の会の全国遊説に出かけて行った。結局のところ、「朝日」の“ハシシタネガティブキャンペーン”は、先の当コラムに書いたように、これまた、橋下応援歌で終わってしまった。橋下の朝日に対する完全勝利は、橋下及び維新の会の政策の良否とは関わりなく、その支持率を上げることだろう。橋下及び維新の会の台頭を危惧する筆者としては誠に残念な結果である。

2012年10月19日金曜日

橋下vs朝日 その抗争の核心

このたび突如勃発した橋下大阪市長(以下、肩書略)と『週刊朝日』の抗争については、幾つかの重要な問題が複層的に内在しているのでまずもって、それを整理しておこう。問題点は次のとおりである。

(一)なぜ、橋下が『週刊朝日』に噛みついたのか

(二)『週刊朝日』の記事による橋下攻撃は正当か

(三)マスコミ報道では洗い出せない橋下の本質について

以下、それぞれについて論じる。

なぜ、橋下は朝日に噛みついたのか

橋下が『週刊朝日』の記事にこの時期、噛みついた理由は、橋下が率いる日本維新の会の凋落傾向に歯止めをかけるためである。というのも、このたび『週刊朝日』が報じた内容は、大筋において、橋下自身が自らの演説で触れていたりして、すでに本人が認めているものであり、しかも、他の週刊誌、ネット等が報道したものばかりだからである。目新しい情報はない。

もちろん、『週刊朝日』の表現(見出し、レイアウトデザイン等を含めた)はどぎついものがあり、インパクトがなくはない。橋下批判としては、内容・表現においてきわめて品がない。橋下も品がないが、『週刊朝日』はそれよりも下劣である。そうであっても、報道の内容(情報の質)においては、橋下が許容できない範囲ではなかった。にもかかわらず、彼が大声でこの週刊誌に噛みついたのは、相手が「文春」や「新潮」ではなく、「朝日」であったからである。これ幸いとばかり、橋下は「朝日」に噛みついた。彼一流のパフォーマンスである。

橋下の手法は、既存政党、公務員、大手組合、大学教授・左翼等知識人、大手メディア(なかんずく『朝日新聞』)、大企業といった既存の権威を罵倒し批判することで、下積みの庶民の支持を獲得するというもの。この手法は、ナチス(ヒトラー)と同一である。ヒトラーも、知識人・労働組合(共産主義者・社会民主主義者)、大新聞、金融業者等を激しく攻撃し、それらを「ユダヤ人」という幻想に集約して大衆をまとめあげた。橋下も同じように、「朝日」という「高級ブランド」を相手にそれを攻撃し、大衆の支持を得ようとしている。

橋下にとってこのたびの『週刊朝日』のどぎつい橋下攻撃は、支持率低下からの反撃の好材料にほかならなかった。このことで、売上の心もとない『週刊朝日』の販売冊数が上がり、併せて、橋下=維新の会の支持率が上がれば、被害者はいないどころか、双方に益が出るというもの。

『週刊朝日』の報道の正当性

このたびの『週刊朝日』に限らず、『週刊文春』等が行ってきた橋下批判の手法は誤りであるばかりか、やってはいけないことである。橋下の父親や親族が同和系暴力団であった等のその出自に触れることで彼を攻撃することは、ましてや、DNAを持ち出すこと等は、橋下が批判したとおり、血脈主義、人種決定論と変わりない。大雑把に言えば、父親・親族に殺人犯がいれば、その子供は殺人犯になる――という論理に近い。「DNA」が人格を決定するという論理に科学的根拠がない。

そればかりではない。現行のマスメディアのルールでは、同和地区を特定するような記述は行わないのが一般的である。『週刊朝日』はそのルールにも反している。朝日側が謝罪文を出したそうだが、朝日新聞出版及び100%出資の朝日新聞の役員・社員は糾弾されてしかるべきであり、彼らには厳しい同和教育が必要である。

橋下の本質

このたびの『週刊朝日』に限らず、大新聞系、大手出版社系を問わず、複数の週刊誌が依拠している橋下批判の方法論は、彼の出自を表に出すことで彼の「危険性」を強調しようとするもの。暴力団、同和、両親の離婚、アウトサイダーに属する親族たち・・・と。

しかし、橋下というのは、以前、当該コラム(7.22)にて橋下を批判したところでも明らかにしたように、そうした劣悪な環境を自身が克服したところに根拠を置いているのであって、それを隠そうとするところにあるのではない。どころか、彼の出自の複雑さ、暗さを「売り」にしているのである。

橋下は、その劣悪な環境(母子家庭、貧困、同和地区、犯罪歴をもつ親族)を克服して今日の地位に登り詰め、更に上(総理大臣)を目指そうというのである。ならば、彼の出自が暗くおどろおどろしく、かつ、複雑極まりなく、犯罪や暴力団や同和の影がちらつけばちらつくほど、その暗部が深ければ深いほど、しかもそのことを大手メディアが報道すればするほど、大衆はそこにロマンを抱き、ロマン主義的英雄像を浮き彫りにするのである。

橋下による自身の「売り込み戦略」とは、貧困や犯罪に彩られた複雑な出自を伴いつつ、それを乗り越えて法律という正義を操る者=弁護士(※法律が正義か弁護士が正義を操るかは議論の余地があるが)になり、さらに政治家を目指し、成功しつつある――という自画像を大衆に安売りすることにある。

彼を支持する層は、いまの日本の社会・経済情勢において疎外された(=下層に甘んじ、もちろん、弁護士や政治家になれなかった)人々が主流であり、橋下が敵視する管理者(既存政党、公務員、大手組合=正規社員、大手メディア、学者・知識人・・・)に対してとる攻撃的姿勢、品のない罵詈雑言に拍手を送る者にほかならない。橋下の支持層は、管理者=エスタブリッシュメントと相反する人々である。彼らにとって橋下は、エスタブリッシュメントを出自としない“俺たちの仲間”なのである。

だから、再三述べるとおり、これまで、『週刊文春』等の大手出版社系週刊誌が行ってきた彼の“恵まれない境遇”を暴く「橋下批判」は、橋下の応援歌にすぎなかった。

このたびの『週刊朝日』も同様であるが、ただ一点異なっているのは、前出のとおり、彼の見かけ上の「天敵」である“朝日ブランド”が仕掛けてくれた「橋下」批判であり、賞味期限切れの彼と維新の会にとっては、朝日の仕掛けこそがビッグチャンスの到来だったのである。橋下がこの機を逃すはずがない。

シンプルにいえば、橋下の出自に基づいた批判はよろしくない。朝日も文春も新潮も含め、この手の批判はやめたほうがいい。だからといって、橋下の政治手法については断固として批判・批評を緩めてはならない。彼は危険な思想をもった政治家であることに変わりないからである。

2012年10月18日木曜日

気温が下がってきた

今日この頃、猫たちの動きが鈍り、人間にくっついてくるようになってきた。

夜になると、二匹とも人間のベッドの上で眠ることが多いし、昼間は布団に入って寝ることもある。

ベッドがお気に入り
布団の中で寝ることも

2012年10月16日火曜日

Zazieはバステト

古代エジプトの愛の女神「バステト」は猫。

Nicoのブラッシング

最初はブラシで
恍惚の表情
次は手でなでる
イイネ

上野

新装なったUENO3153のB2「鳥良」にてランチ
帰り道に通った都美術館
上野動物園裏門のチケット売場。現在は利用できない。こちらが正門だったという説もある。
同上

2012年10月9日火曜日

上野公園に稲穂

公園に田んぼが出現
実るほど、頭を垂れる・・・

2012年10月1日月曜日

Zazie, Nico(10月)

今日から、はや10月。

恒例の猫の体重測定結果を記録しておく。

Zazieが2.9㎏で200gの減、Nicoが6.1㎏で±0である。

Zazieの体重減が気になるところ。

Zazie
Nico

2012年9月16日日曜日

Zazieと神々

2012年9月9日日曜日

Zazie, Nico

月初に行っている猫の体重測定について、9月はなんと失念していたことに気付いた。

そんなわけで、本日、記録しておく。

Zazieは3.1㎏、Nicoが6.1㎏。

Zazieが500g、Nicoも300gの増加。

暑い中、二匹とも体重増加という結果に。

2012年8月26日日曜日

『古代オリエントの宗教』

●青木健[著]  ●講談社現代新書  ●740円+税 


本書が扱う時代は、2世紀から12世紀のおよそ1000年間に及ぶ。本題には“古代”とあるが、古代末期から中世前期である。古代末期というと、ピーター・ブラウン著の『古代末期の世界』という名著があり、世界史に興味を持つ人ならば一度は目を通したことがあるだろう。

ちなみに、『古代末期の世界』は、ローマ帝国の東西分裂後の地中海世界について書かれたもので、西暦200年頃~700年頃を扱っている。同書の内容を大雑把にいうと、古代末期とは、(一)地中海西部(西欧)では、西ローマ帝国が消滅し、ゲルマン民族による諸国家の建国と滅亡が繰りかえされつつ、カトリック教会圏へと歩みを始めた――、(二)地中海東部では、コンスタンチノープルを中心としたビザンツ帝国(=ローマ帝国=ギリシア)が西から分離し、東方正教会圏としてその勢力を確立した、(三)オリエント世界では、サーサーン王朝ペルシアの伝統を基盤として、イスラーム帝国が確立されようとした、―――時代である。後年の西欧=カトリック圏、ビザンツ(東ローマ)帝国=ギリシア正教会圏、オリエント=イスラーム圏により構成された「中世」の基盤を形成した重要な時期である。

本書に戻ろう。本書が扱う地理的領域はオリエント(地中海世界東部とその周辺)である。その地域を現代の国名等によるならば、小アジア(ギリシア、トルコ)、イスラエル、ヨルダン、シリア、イラン、イラク、アゼルバイジャン、アルメニア、アラビア半島、そして、北アフリカのエジプト、チュニジアといったところになる。もちろん、地中海世界の中心であったイタリア(ローマ)も含まれる。

私は海外観光旅行が趣味で、イタリア、トルコ、イラン、アルメニア、アゼルバイジャン、チュニジアを観光し、次はイスラエル、エジプト、シリア、ヨルダンを目指そうと思っていたやさきに「アラブの春」が吹き荒れ、シリア内戦が始まり、かの地への観光を断念した次第である。もちろん、古代メソポタミアの地であるイラク観光については、第一次湾岸戦争のころから諦めている。

古代オリエントの宗教というと、日本人には馴染みがないのだが実は、それが中世どころか近代・現代にも大きな影響を与えていることを本書で知ることになる。そのことについては後述する。

★『旧約聖書』と『新約聖書』の「聖典セット」

古代オリエントの宗教世界がキリスト教の成立により、大きく変化したことは言うまでもない。と言っても、キリスト教成立以前のこの地にもちろん、宗教がなかったわけはない。まず、キリスト教の母体となったユダヤ教がイスラエルを中心に信仰されていたし、エジプトにはヘルメス、小アジアにはキュベレ、アルメニアのミトラ(後にローマ帝国内に進出)、イランのアフラ・マズダーなどがよく知られている。それ以外にも、今日では消滅してしまった数多くの古代民族宗教があったに違いない。ところが、2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めるのである。本書は、この「聖典セット」を基軸として、古代オリエントの宗教の推移を考察するという方法をとっている。
なぜこのような事態になったのかは、よくわからない。ユダヤ人の歴史(『旧約聖書』)とイエスの一代記(『新約聖書』)がセット化した時点で、ストーリーの接続には相当の無理があったようにも思える。そのなかでもイエスの一代記の方は、彼を救世主(キリスト)だと認めるかぎりにおいては、普遍性がありそうな気がしないでもない。しかし、その前編である『旧約聖書』に書かれたユダヤ人の歴史となると、エジプト人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人など、ユダヤ人に匹敵する長い歴史を有する人びとにとっては、所詮は他人事に過ぎない。けれども、どういうわけか彼らは自らの神話を忘却し、代わりにユダヤ人の神話と歴史をもって普遍的な人類史だと確信するにいたるのである。(P9)

以降、オリエントの宗教の変遷は、『新約聖書』+『旧約聖書』という「聖典セット」の発展系及びその部分的否定系と、そうでない伝統的宗教の併存期を経て、やがて、「聖典セット」の発展系の最終体系となるイスラームの成立と土着宗教のそれへの吸収をもって幕を閉じることになる。本書はその経緯に係る研究成果ということになる。

★「聖典セット」系の宗教―――ユダヤ教からイスラームシーア派

古代オリエントの宗教を「聖典セット」との関係で整理すると、以下のとおりとなる。

・ユダヤ教→『旧約聖書』
・マンダ教→『マンダ教聖典』
・マルキオーン主義(2世紀)→『新約聖書(※ルカ書とパウロ書簡のみ)』
・原始キリスト教→『旧約聖書』『新約聖書』
・マーニー教→『新約聖書』『マーニー教7聖典』
・イスラーム→『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン(コーラン)』
・イスマーイール派(8世紀)→『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン』『イマーム言行録』
2世紀のローマで成立したマルキオーン主義は、「聖書シリーズ」に何かを付け加えるというよりは、『旧約聖書』とイエス伝記のミスマッチを指摘し、前者を切り捨てて後者だけを採った。・・・これこそイエスの真意であり、正しいキリスト教であると論じたのである。これは鮮やかな着想だったようで、これを嚆矢として『新約聖書』の結集がはじまり、エジプトやシリアでは同様の発想に立ったグノーシス主義と呼ばれる諸派が乱立していく。(P16~17) 
同じ頃に、『新約聖書』を前提とせずに、同じような傾向を示したのが、『旧約聖書』を全否定してヨルダンで成立したマンダ教である。・・・すなわち、『旧約聖書』+『新約聖書』という式で、代わりに独自の『マンダ教聖典』を立てた。(P17)
この趨勢に対して、2~3世紀の地中海世界に勢力を保持していた原始キリスト教教会は、2つの文書整理をおこなって対抗した。1つは、当時までに多数のバリエーションが流布していたイエスの伝記のうち、「マタイ福音書」「マルコ福音書」「ルカ福音書」「ヨハネ福音書」の4福音書など27書を聖典と定め、「トマス福音書」や「ユダ福音書」などを排除して、『新約聖書』の範囲を確定した。もう1つは、『旧約聖書』を容認し、これを『新約聖書』とセット化して、『旧約聖書』+『新約聖書』の図式を公式教義とした。ただし、この段階では、この原始キリスト教教会が、「キリスト教」の名称を独占する唯一の機関になるかどうかは、まだ予断を許さなかった。(P18)
ところ変わって2~3世紀のメソポタミアでは、地中海世界に伝道していた原始キリスト教教会とはまったく違ったグノーシス主義的なキリスト教理解が浸透していた。しかも、地中海世界での原始キリスト教教会がギリシア語によって伝道していたのに対し、内陸シリアより東方ではシリア語が共通語になっていたので、西方と東方における「聖書ストーリー」理解の溝はかなり広がっていた。その東方的キリスト教の土壌のなかから、グノーシス主義諸派さらに知的に洗練し、組織化した自称「真のキリスト教」が出現する。3世紀のマーニー・ハイイェーによるマー二―教(マニ教)である。
「イエス・リストの使徒」を名乗る彼は、『旧約聖書』を全否定する一方、『新約聖書』は高く評価し、「聖書ストーリー」としては異例の善悪2つの神を想定するにいたった。しかも、「聖書ストーリー」とは何の関係もないザラスシュトラ・スピターマと仏陀(ブッダ)を預言者として取り込み、さらに自分自身の「預言」を書き著して・・・『新約聖書』+『マーニー教七聖典』を「真のキリスト教」として提示したのである。(P18~19)
しかし、4世紀になると、「聖書体系」の内部構造を変更するというグノーシス主義的な発想は途絶え、マルキオーン主義、マンダ教も、そして6世紀にはマーニー教も地中海世界では勢力を失っていった。
しかし、7世紀なると、・・・「聖書ストーリー」の続編が出現する。すなわち、・・・「最後の預言者」を名乗るムハンマドと、彼の啓示に依拠するイスラームである。彼の場合、・・・『旧約聖書』と『新約聖書』をそのまま(かなり誤解を含みつつ)承認して、それへの追加版として『クルアーン』を提示した。このイスラームは、7~10世紀の期間に東方世界で爆発的に普及し、この地域では『旧約聖書』+『新約聖書』+『クルアーン』のセットが主流になった。・・・
「最終預言者」の出現により、「聖典セット」を基軸とする宗教的発展は幕を閉じると思われたのであるが、東方の宗教世界はその続編へと推移していった。
アダムからムハンマドにいたる「預言者の周期」は満了したものの、今度はその秘教的意味を解き明かす「イマームの周期」がはじまったと主張して、シーア派イスラームの諸派が出現するのである。(P20~21)
イマームというのは、イスラームシーア派における預言者の霊的能力を継承する者のこと。シーア派のイマーム就任の条件は「預言者ムハンマドとその従弟アリーの子孫」である。その結果、イマームが乱立し、しかも、彼らは「預言者の霊的能力を継承した歴代シーア派イマームの言行録」も聖典に匹敵する宗教的権威を有するとした。つまり、彼らの「聖典セット」は、『旧約聖書』+『新約聖書』+『クルアーン』+「歴代シーア派イマームの言行録」にまで拡張された。(※本書では、数あるシーア派のなかのうち「イスマーイール派」が取り扱われている。)

★オリエント土着の宗教の「聖典セット」による吸収(ミトラ信仰、ゾロアスター教)

東方には上述の「聖書体系の構成」を尺度とする以外の土着宗教があったことはすでに述べた。この土着宗教は、西方でローマ神話やゲルマン神話の内容が換骨脱胎されてカトリックの聖人崇拝のなかで生き延びたように、東方でも、「聖書体系」のなかに生き延びた。その際の回路として機能したのが、比較的大きな土着宗教の場合にはその教祖を「聖書体系」の預言者に、中小規模の土着宗教の場合にはその登場人物を聖人に配して取り込む「預言者・聖者論」である。
東方におけるこの種の習合の最初のケースは、4世紀のアルメニアのミトラ信仰である。当時まで、アルメニアではイラン系のミトラ崇拝が主流を占めていたのだが、301年にアルメニア王国がキリスト教を国教に採用すると、前代の信仰は急速に勢力を弱めた。ただ、完全に根絶されたわけではなく、キリスト教の聖人のなかに姿を変えて潜り込み、・・・生き残った。(P23~24)
もう一つがゾロアスター教である。
これよりはるかに大規模なケースとしては、ゾロアスター教がある。古代末期東方の土着宗教のなかで最大の規模を誇るゾロアスター教は、それ自体、「聖書ストーリー」からは独立した内部的な変化を起こしている。すなわち、3~8世紀までは、時間を崇拝するゾロアスター教ズルヴァーン主義が、ユダヤ教やキリスト教、マーニー教などの東進をブロックする役割を果たしていた。しかし、7世紀にアラブ人イスラーム教徒の進出の前にペルシア帝国が壊滅すると、ゾロアスター教徒の社会的立場が暴落し、「聖書ストーリー」のなかでもイスラームの進出を許してしまう。そんななか、9世紀以降、残った神官たちは、教義を一神教との差異を際立たせる二元論的ゾロアスター教へと転換したものの、「聖書ストーリー」の担い手たちも工夫を凝らし、ザラスシュトラに何らかの位置づけを与えるかたちでゾロアスター教を取り込む動きを見せていた。(P24)
その取り込み方には、(ⅰ)東方キリスト教徒学者たちによって、ザラスシュトラは『旧約聖書』のなかの魔術師や偽預言者に該当するにちがいないと論じられたもの、(ⅱ)イスラーム教徒の学者たちは、ザラスシュトラは『旧約聖書』の預言者アブラハムの仮の姿、またはその弟子にちがいと論じたもの―――の2つがあった。

(ⅰ)の場合では、ザラスシュトラが「聖書体系」のなかの悪役に任じられることとなり、ゾロアスター教徒たちがこの理論に感心して東方キリスト教に改宗するはずがなかった。一方、(ⅱ)の場合は、10世紀以降のゾロアスター教徒たちはこの説明に深い感銘を受け、ついでにアダムやノアに該当する預言者もイラン神話の英雄のなかから選び出して当てはめ、13世紀までにはゾロアスター教も「聖書体系」に同化していった。
古代末期東方で最大規模を誇ったゾロアスター教のイスラームへの同化をもって、東方の土着宗教の「聖書ストーリー」への吸収が完了したと見ることができる。(P25)
★グノーシス主義とは何か

東方の宗教を理解するうえで避けてとおれないのが、グノーシス主義である。本書においても、「聖典セット」とグノーシス主義との関係が頻繁に説かれているものの、いまひとつ、グノーシス主義に係る説明が不足しているため、両者の関係性が明確でない。そこで、グノーシス主義について簡単に整理をしておこう。この整理に当たっては、講談社選書メチエの『グノーシス』(筒井賢治[著])を使用する。

元来、この言葉(=グノーシス)は「キリスト教グノーシス」と同義であり、初期のキリスト教会で広まっていた一部の思想を総称する、キリスト教史ないし「教会史」における専門用語であった。
・・・グノーシス(ΓΝΩΣΙ)とは、ただの単語として見るなら、「認識」や「知識」を意味する古代ギリシア語の普通名詞である。ならば、キリスト教グノーシスとは「知る」ということに特に重きをおくキリスト教流派であったのだろうと想像することができるだろう。事実、そう考えても間違いではない。ただし、いったい何を「知る」というのか、この点で一定の方向性があった。
多くの場合、キリスト教グノーシスにおける「認識」の対象は、イエス・キリストが宣教した神(=至高神)とユダヤ教(旧約聖書)の神(=創造神)は違うということ、創造神の所産であるこの世界は唾棄すべき低質なものであること、人間もまた創造神の作品であるが、その中に、ごく一部だけ、至高神に由来する要素(=「本来的自己」)が含まれているということ、救済とは、その本来的自己がこの世界から解き放たれて至高神のもとに戻ることなのだということ、といった事柄である。
・・・このキリスト教グノーシス思想は、時代としては、紀元2世紀の半ばから後半に最盛期を迎えた。・・・
さて、次に、キリスト教とは直接関係しない領域に目をやると、同じ紀元2世紀の前後、ほかにも似たような思想運動があったことがわかる。これを「非キリスト教グノーシス」と呼ぶわけだが、とすれば、キリスト教/非キリスト教という区別を越えて、総括的に「グノーシス」もしくは「グノーシス主義」と呼ぶべき思潮が古代末期において実在していたのだという結論が出てくることになる。・・・(『グノーシス』/P6~7)

・・・紀元2世紀後半、誕生して間もないキリスト教会では、総称的に「グノーシス」とか「グノーシス主義」と呼ばれるさまざまな異端的流派が広がりを見せていた。キリスト教グノーシス主義に共通する特徴として第一に挙げられるのは、目に見えるこの世界を、それを創造した神を含めて蔑視し、排撃する点にある。この世界を造ったのは、キリスト教正統派の教えでは旧約聖書(=ユダヤ聖書)の神であるが、この創造神を敵視する以上、正統派から異端視されるのも当然である。
ではこのグノーシス主義は何を信奉するのか。それはこの世界の外、あるいはその上にあるいわば「上位世界」そしてそこに位置している「至高神」である。そして人間の霊魂も、もともとはこの上位世界、別名「プレーローマ」の出身であり、現在はこの世界に幽閉されている形になっている。人間の身体もこの世界の一部として蔑視されるのである。そこで、霊魂が身体を含むこの世界から解放され、故郷である上位世界に戻ること、それがグノーシス主義者にとっての「救済」となる。そして、こうした事情を人々に啓示するために上位世界から派遣されてきたのが救済者イエス・キリストだったのだと説明される。(『グノーシス』/P22)

ここで問題になるのが、「至高神」と「創造神」の関係であろう。前者が後者の上位に立つのは当然だが、無関係ではすまされない。無関係として一種の二神教、あるいは二元主義に帰着するグノーシス流派もあったが、万物を一元論・一神教として説明する理論的・哲学的思考の強い流派は、「至高神」から「創造神」に至る系列関係を説明する必要に迫られた。そのなかでも特に有名なのが2世紀後半に活躍したプトレマイオス(大天文学者のプトレマイオスとは別人)である。

プトレマイオスの理論は以下のとおりである

まず最初に至高神と「エンノイア」なる女性的な存在がペアをなしており、そこから順次「アイオーン」と総称される神々がそれぞれの男女のペアで流出し、「テレートス」と「ソフィア」(知恵)のペアに至るまで、合計30のアイオーンが成立する。こうして「上位世界」に相当する「プレーローマ」という安定した組織が成立する。
ただし、この中には一定の階列関係があり、至高神を直接に眺め、知ることができるのは至高神から直接に流出した「ヌース」(叡智)というアイオーンだけであり、その他のアイオーンは至高神を見知りたいとひそかに願いながらも、それぞれ自分の位置にとどまっている。
さて、どうしてこの安定した状態が崩れて「創造神」やひいては「この世界」が生まれてきたのかという問題であるが、プトレマイオスはこれを次のように説明した。すなわち、最下位のアイオーンであった「ソフィア」が、大胆にも、至高神を直接に知ろうと企てたのだという。当然、この企ては失敗し、ソフィアは絶望のあまりプレーローマから転落しかかってしまう。そこへ「ホロス」という存在が登場して彼女の転落を食い止め、過ちを悟った彼女は、心に抱いていた自らの「情念」を切り離してプレーローマの外に捨てる。
こうしてソフィアは救われ、プレーローマ内の元の位置に落ち着くだが、他のアイオーンが同じようなパトスにとりつかれて再び離反事件を引き起こすのを未然に防ぐため、ヌースから新たに「キリスト」と「精霊」のペアが流出し、至高神の不可知性をあらためて各アイオーンに通達する。それによってプレーローマ全体に安息がもたらされる。他方、この「キリスト」がプレーローマの外に投げ捨てられているソフィアの「情念」を哀れみ、それに形を与える。そしてそれが創造神の、そして人間を含む「この世界」の起源になる。(『グノーシス』P24)

さて、本書の構成では、グノーシスに属する宗教として、マンダ教とマーニー教が取り上げられているのだが、マンダ教とマーニー教に続く、グノーシス主義派が切り捨てられている。(※イスラームの初期イスマーイール派も取り上げられているが8世紀におけるグノーシスの復活という意味あいである。)

その理由として、著者(青木健)は、「・・・ローマのマルキオーン主義、エジプトのヴァレンティノス派などのグノーシス主義諸派については、大貫隆『グノーシスの神話』、クルト・ルドルフ『グノーシス』、筒井賢治『グノーシス』などの優れた概説があるので、そちらを参照していただきたい」(P26)、と、弁明する。

しかして、著者(=青木健)がグノーシス主義の一例として取り上げた、例えばマンダ教に係る説明は以下のように簡潔である。
彼ら(マンダ教徒)によれば、人類の始祖がアダムであることはもちろんであるが、それを創造したのは下位の造物主と「闇の主」であったため、人類は総体として呪われた存在として誕生した。このため、ユダヤ人の出自としては不思議なことに、彼ら(マンダ教徒)のシンパシーは出エジプトの折にユダヤ教徒を迫害したファラオの方に向けられる。(P34)
『マンダ教聖典』についても同様に簡潔な説明である。
①『右手のギンザ―』……18編の神学的、宇宙論的、道徳的論文
②『左手のギンザ―』……霊魂が光の国へ上昇する際の葬送文
③『ヨハの書』・・・ヨハネ、シェム、アノーシュなどに帰せられる37編の神話
④『コラスター』……葬式の際の賛歌
⑤巻物類(ディーヴァーン)……『ディーヴァーン・アバトゥル』『ディーヴァーン・ナフラワ タ』などは絵入り。『ハラーン・ガワイタ』 はマンダ教教団の歴史を扱う。
(P37~38)

★古代オリエントの宗教と現代

冒頭に引用したように、“2~3世紀、ユダヤ人の神話・歴史を記した『旧約聖書』と、イエスの一代記を記した『新約聖書』の「聖典セット」が異常な求心力を発揮し、周辺諸民族の神話群を徐々に駆逐し始めたのはなぜなのか”―――という問いに対し、著者(青木健)は「わからない」と回答している。実際のところ、本当にわからないのだが、発展の触媒として、2世紀に隆盛を極めたグノーシス主義(キリスト教グノーシス派)の存在を無視することは難しいのではないかと思う。極論すれば、グノーシス主義を含まないオリエント宗教論というのも無理があるように思う。

また、「聖典セット」を基軸として、古代オリエントの宗教の推移を考察するという方法をとるには、それぞれの聖典の内容に係る説明が必要となろう。本書の場合、新書=入門書であるという制約上、かかる2つ重要事項をずいぶんと簡潔化したという印象が否めない。

最後に、本書巻末の<現代の「聖書ストーリー」エンディング別信者数>という興味深いデータがあるので紹介しておく。

①ユダヤ教徒・・・世界中に拡散して約1500万人
②キリスト教徒・・・ヨーロッパ、南北アメリカを中心として約21億人
③スンナ派イスラーム教徒・・・西アジア、南アジア、東南アジア、東アフリカを中心に約13億人。
  最終預言者ムハンマドが齎した『クルアーン』が完結編だと信じている。
④イスマーイール派イスラーム教徒・・・インド西海岸やパミールに住んでいる1500万~2000万人。
  イスマーイール系統のイマームが第7の告知者として降臨するエンディングを今でも期待している。
⑤マンダ教徒・・・5000人~1万人。ユダヤ人もムハンマドも否定している。グノーシス主義派。
⑥ゾロアスター教徒・・・インド西海岸やイラン中部に住んでいる約10万人。
⑦マーニー教徒・・・もしかすると、福建省の山奥に数百人。

このデータは、2世紀から始まった古代オリエントにおける宗教運動が中世どころか近代・現代にも大きな影響を与えていることの証左である。

2012年8月24日金曜日

暑さの中、昼寝ばかりする猫たち

物憂げなNico

Nicoの寝顔

寝顔
Zazieの色目はすさまじい

2012年8月20日月曜日

『果てなき渇望』

●増田晶文[著] ●草思社文庫 ●800円+税

ボディビルダーには幾つかの貌がある。満員の観客の中、スポットライトを浴びながら、コンテストでポージングを決める晴れやかな貌、ジムで一人、重いバーベル、ダンベルを無言で上げ続ける孤独な貌、繰り返される過酷な増量、減量に耐える貌、そして、日本では少数派であるが、難解な名称の薬物を何種類も組み合わせてドーピングをする貌―――を付け加えてもいい。

こうした多様な貌を持つ者は、今日のアスリートにあって、特別なものではない。たとえばオリンピックを頂点とする華やかな大会、苦しく厳しい練習、そして、体重別が一般化した格闘技系スポーツに限らず、今日、自分の体重コントロールと無縁なアスリートは極めて少数派である。また、ドーピングは日本でこそすべてのスポーツ界で厳しく禁止されているものの、グローバルにみれば、多くのスポーツにおいて、自己責任という大義名分の下、その運用は検査に係らないというルール内で選手に任されている。

では、ボディビルが他の競技スポーツとは一線を画され、特殊視される所以はどこに求められるのか。

競技スポーツの勝負は、スピード、距離、得点差等を媒介とする。格闘技の場合は、有効とされる技がポイント化され、勝敗を決める。ボクシングのKO勝ち、柔道の一本勝ち、レスリングのフォール勝ちは、究極・最高のポイント獲得である。つまり、ポイントを媒介とする。

ボディビルディングはフィギュア・スポーツである。それが、一般のそれと異なる点は、たとえば、フィギア・スケートと比較すると、後者の場合は、選手が試行した技の難易度とその完成度が数値化され、ポイントを媒介として勝敗を決める。ところが、ボディビルは、技によるポイント獲得というメカニズムをもたない。ボディビルディングは、概ね、筋肉の量、筋肉の質が勝負の分かれ目となる。人間の筋肉という身体そのものの優劣が競われるという意味で、他のスポーツ競技とは異類である。

ボディビルディングに最も近い「競技」は、美人コンテストである。多くの場合、女性に特化される美人コンテストでも、審査基準が詳細に規定されている。しかし、結局のところ、審査員の主観に基づくのだが、その順位づけについては、概ね、一般の主観と同一である場合が多い。つまり、コンテスト参加者の優劣の結果は一般性の範疇にある。

ボディビルディング大会の審査基準にも美人コンテストと似たような規定があり、その勝敗は概ね、それに基づいた結果となる。もっとも、アジア、中近東等開催の大会の場合は、開催国参加者が優位になる場合があるようだが、ホームサイドディシジョンはボディビルディングだけの特徴ではない。プロスポーツならずとも、すべてのスポーツのグローバルな傾向である。

さて、規定された審査基準を参加者が追い求めた結果としてのボディビルダーの肉体は、ボディビルディング愛好者、参加者、関係者には受け入れられるものの、一般から見れば、異形、畸形として映る。そこが、美人コンテストとは異なる点である。一般の意識と著しく乖離した基準が頑として存在し続けているのがボディビルの特徴であり、そこに、この競技の逸脱という特徴がある。

並外れた筋肉を身にまとう肉体への希求というものは、人間の始原の姿に回帰しようとする欲求に由来するものなのか、それとも、近代が生んだ労働生産性を向上するための、すなわち、資本にとって効率的肉体の最高峰を望もうとする結果(ミシェル・フーコーのいう肉体の「矯正」)なのか―――については判断しかねる。ボディビルディングという競技が生まれ発展してきたのは現代からだからといって、だから後者だと速断することも誤っている。古代美術を紐解けば、隆々とした筋肉の兵士像、神像を見つけることはたやすい。

筋肉とはすなわち力だと解すれば、肉体を駆使して闘ってきた人間の歴史のなかの強者の象徴として、筋肉美を位置づけることもできる。だから、人間の始原における欲求なのだと言えるか―――否、宗教絵画に描かれたキリストの姿は厚い筋肉をまとっていない。どころか、むしろ弱弱しい若者の姿として描かれるのが普通である。「力」は、「弱さ」の下位に位置づけられている。

暗黒舞踏家・土方巽は、彼の舞踏スタイルのなかに西欧的な均整のとれた身体性を封じ、日本人の、それも農民の原像である、湾曲した下肢、うつむき加減の姿勢、くずおれた腰つきなどを取り入れた。さらに、この世に生まれる前の胎児がとっているという―――縮こまった両手両足をともなった―――身体性を真似ることで、人間の始原性を強調したと言われている。

人間が強く逞しい筋肉をまとうことを欲するようになったのは、無防備な胎児から生存のための様々な競争、闘争を積み重ねてきた経験の蓄積なのか。いやもしかすると、ある時代を境に、人間は生存のための肉体的葛藤を封印され、制度や知能に属する領域の競争へと追い込まれたとき、その反動として、戦うための肉体の象徴である大きくて強い筋肉をまとった身体を希求する衝動が生まれたのかもしれない。すくなくとも、“そうなろう”と思い詰めた人間がいたのであり、いまもい続けている。

本書は、現代では少数派となってしまった―――“そうなろう”と思い詰めた―――逸脱した人間の物語である。本書に描かれたボディビルダーの生き様を理解できるのは、おそらく、現役ボディビルダーか、または、その経験者に限定されるだろう。人並み外れた重さのバーベルやダンベルを扱うボディビルダーの姿は想像可能であっても、過酷なバルクアップと減量の繰り返しで呻吟する彼らの姿は常人には理解できない。ましてや、生命に危険が及ぶ筋肉増強剤に手を染めようとする、あるいは染めてしまった違法ビルダーの姿は、薬物中毒者、麻薬中毒者に等しいとしか解されない。

常人から、あえて、異形・畸形と興味本位な視線を浴びながら、常人に優越する自己を認識しようとする彼らの精神の構造はどうなっているのか。ボディビルダーの生き様から人は何を抽出できるのか。他者への優越を肉体の形状に求めよとする求道者の心情は、本書読了後も、はっきりとわかったわけではない。

2012年8月19日日曜日

作新と仙台育英よ、それでも野球がしたいか

デイリースポーツによると、甲子園球場で開催中の全国高校野球選手権大会に出場している宇都宮市の作新学院高校2年で硬式野球部員の男子生徒(17)が、強盗容疑などで逮捕されたことが18日、宇都宮中央署と同校への取材で分かった。逮捕は17日。この男子生徒は今月10日午前6時50分ごろ、宇都宮市内の雑木林で少女(16)のひざに軽傷を負わせた上、現金数千円を奪うなどした疑い。高野連は、「過去の事例から、部活動外の個人の不祥事で出場を差し止めたことはない」としている。

インターネットのあるメディアによると、仙台市内の仙台育英高2年の男子生徒(16)が同級生らからいじめを受けたと訴えている問題で、同校の教頭らが8日、河北新報社の取材に応じ、 暴力を振るわれた件をいじめと認めた。たばこの火を押し付けられた「根性焼き」は、「現時点でいじめとは認められない」との考えを示した。同校によると、生徒が昨年11月以降、肩や腕などを殴られたとする訴えは、同級生らが認めたため、いじめと判断した。 別の男子生徒からことし5月、20回以上受けたとされる「根性焼き」は、「1回は自傷行為、残りは両者の合意があったようだ」とした。根性焼きをした男子生徒は7月末に自主退学したという。 被害生徒に自主退学を勧め、受け入れないと退学処分にする方針を伝えた理由について、同校は「根性焼きの痕を見た生徒の意見を踏まえた」と説明した。 処分は生徒らの不服申し立てを受け、保留になっている。 生徒側は6日に被害届を出し、県警が傷害などの疑いで捜査中。同校は7日付で教員、カウンセラーら計5人の再調査委員会を設け、事実関係を調べている。教頭らは「事態を厳粛に受け止めている。捜査にも全面協力する」と話した。

日本全国でいじめ問題が深刻化する中、作新学院の犯罪事件と、仙台育英の陰惨ないじめ事件に関しては、マスメディア(大新聞、テレビ局等)は管見の限り、報道を控えている。その理由は、両校が夏の高校野球甲子園大会出場校であることは、言うまでもない。甲子園大会は「純粋」な高校生の野球の大会であって、出場する高校に犯罪やいじめなど、絶対にあってはいけないというわけだ。

甲子園大会の開催者は高野連と朝日新聞だが、甲子園人気が沸騰するに従い、すべてのマスメディアがライバル会社である朝日新聞開発の甲子園コンテンツに相乗りをしだした。「甲子園」を扱えば、新聞、雑誌は売れ、テレビの視聴率は上がり、広告収入が増えるというメカニズムに便乗しているわけだ。だから、「甲子園」の付加価値を下げるような不祥事、都合の悪い事件には蓋をしておけというわけだ。

筆者は、いじめを温存しているのは、文科省、学校(教育委員会)、マスメディアの責任だという趣旨のことを当該コラムにて書いた。作新、仙台育英の事件を不問に付し、「甲子園」を守るため、犯罪やいじめ報道にバイヤスをかけるとは、マスメディアの自殺行為であるが、3・11以降、すでにもう多くの人々がマスメディアの不正を知ってしまい、マスメディアには一切の幻想を捨てている。実質的にはゾンビ状態にあるマスメディアに自殺行為という表現は、あてはまらないのかもしれない。

甲子園というのは何度も書くように、高校事業者の生徒集めの売名宣伝行為と、朝日新聞をはじめとするマスメディア両者合作による、利潤追求、商売のための仕掛けである。そこに普遍性はない。マスメディアがでっちあげた「美談」「スポーツマン精神」「郷土愛」の複合的な幻想の産物である。国民が支持しているというが、アジア太平洋戦争も国民が支持したのである。真のジャーナリズムには、国民が盲目的状況に陥っているときには、それを覚醒させる役割がある。いまのマスメディアは自分たちがつくりあげてきた幻想を国民が信じている状態をできるだけ長引かせて、幻想が生み出す付加価値から利潤をできるだけ長く引きださんと努めている。だから、国民には長らく幻想に浸ってもらいたいというわけだ。もちろん、「甲子園」を批判する、心あるジャーナリストやスポーツ評論家が皆無とは言わない。だが、彼らの声はマスメディアの完全無視によって、沈黙となってしまっている。

このような批判を一切許さない言論の一元化は、メディア産業のクロスオーナシップが許容されるという日本独自の制度がつくりだしている。新聞社が開催(事業化)し、その新聞が宣伝し報道し、系列化されたテレビ、ラジオ、雑誌がそれを重ねて宣伝報道する。完璧なメディアミックスで「甲子園」は国民の側に届けられる。洗脳である。人気が高くなるに従い、コンペティターまでが同じことを繰り返す。反対者、批判者の発言は、すべてのメディアから締め出される。自分たちが創造した英雄(「甲子園児」という造語まである。)が国民の「英雄」になり、神格化された「英雄」が巨大メディア産業の利潤を生み続ける。

さて、冒頭に引用したような場合――、甲子園出場高校の野球部員が犯罪に走ったり、また、校内にいじめがあったりした場合――、同じ学校に通う高校生はどうしたらいいのか。当然、野球等のクラブ活動はいったん休止し、二度とそのような犯罪、いじめが起きないような方策について、教師、保護者等と真剣に考え、問題解決のための討論を重ね、再発防止策を構築するのが筋だろう。

夏休みであろうと関係ない。同級生、同窓生を問わず、同じ学校に通う生徒として、そのような深刻な問題に対して、真正面から向き合うべきだ。犯罪やいじめが起きた直後だからこそ、ホットなうちに校内の深刻な問題に向き合うべきなのだ。だから、解決策、再発防止策が一人一人の生徒の手によって構築されるまで、課外活動は野球に限らずいったん休止すべきなのだ。そういう意味で、不祥事のあった学校は、「甲子園」の出場を辞退すべきなのだ。一生懸命、練習してきた生徒が可哀そうだ、なんてのは愚の骨頂。いつの時代においても、高校生という年代にとって大事なことは、上手に野球をすることなんかじゃなくて、校内、社会に潜む深刻な問題をわがこととして引き受け、それについて自分の頭で考え、友人、教師、保護者らと議論し、自分なりの解決策を考えだす以外にない。野球なんかしている場合ではないだろう。

2012年8月15日水曜日

『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』

●ウルリヒ・リンゼ[著]  ●ミネルヴァ書房  ●3884円+税

17~18年前のことになるのであろうか、オウム真理教というものが世の中に広く知られるようになったころ――、そしてその後、オウム教団による凶悪事件の数々が明るみに出て、「地下鉄サリン事件」、「上九一色村大捜索」における麻原逮捕・・・と、そのまがまがしさが世間の嫌悪の頂点に達したころ――をいま振り返ったとき、悔しさというか、無念さを拭いきれない自分がいる。それは、自分自身を含めた当時の日本社会が、オウム真理教と麻原彰晃について、あまりにもナイーブ(うぶ)すぎたことである。

よく言われるように、オウム真理教が世間に認知され始めたとき、彼らを好意的に受け止めたジャーナリスト、メディア、知識人らがいた。その代表的存在にいま、「反原発」の政治運動体「グリーンアクティブ」を率いる宗教学者・中沢新一がいる。ところが、オウム真理教による数々の凶悪犯罪が明るみに出てからというもの、「オウム」を好意的に迎えた中沢ら知識人等は手のひらを返したようにオウム批判者へと自らのポジションを代えるか、あるいは、ホトボリがさめるのを待つかのように沈黙した。「オウム」に関わった己の過去を封印した。

そのような無責任かつジャーナリスティックな「知識人」はともかく、宗教学・社会学・歴史学等を専門とする者が当時、本書(=『ワイマル共和国の予言者たち―ヒトラーへの伏流―』)を紹介していたならば、日本社会は、少なくとも麻原彰晃に対する見方を変えていたと思う。その理由はこのあと、詳細に記していく。

本題にある“ワイマル共和国の予言者たち”とはいったいだれのことなのか――といえば、第一次大戦後(1920年前後)、敗戦国ドイツに惹起した超インフレ下の混乱した社会に出現した宗教的指導者、いわゆる、インフレ期の聖者(略して「インフレ聖者」と呼ばれることが一般的である)のことである。これまでのところ、ドイツのインフレ聖者については、管見の限りだが、日本ではまったくと言っていいほど紹介されていない。

だが、繰り返し述べるが、オウム事件勃発前後の日本社会がインフレ聖者についてほんの少しの知識をもっていたならば、あるいは、インフレ聖者の存在を踏まえて、「オウム」に向き合っていたならば、「オウム」という宗教的政治現象はけして、特別なことではなかったことを知ることができた。また、日本社会が「オウム」に対して、集団ヒステリーに陥ることも避けられた。さらに加えて、当時から今日まで、日本社会に継続する思想的・政治的・宗教的混乱をすべて回避できなかったまでも、現状とは異なる展開を見せた可能性すら否定できない。

●インフレ聖者と「偽装された宗教」の違い

もちろん、オウム真理教及び麻原彰晃をインフレ聖者に単純にアナロジーすることや、まったく同質視することはあり得ない。本書を読めば「オウム」が解読できるというものでもない。現代の新興宗教とインフレ聖者を同質視する傾向に対して、著者(ウルリヒ・リンゼ)は次のように戒めている。
本書で論じた人々(=インフレ期の聖者)を選ぶこと自体には、あまり問題はなかった。もちろん、インフレ聖者というのは、ワイマル時代のあまたの教派(ゼクテ)の一部を成していたにすぎない。たとえば、カール・クリスティアン・ブライは1924年にその著『偽装された宗教』において、そのテーマにあてはまるものとして次のようなものを挙げている。――禁酒運動、占星術、反ユダヤ主義、ヨガ、占い棒易術、アトランティス大陸探索、菜食主義、エスペラント語運動、性生活改善運動、リズム体操普及運動、超人信仰、加持祈祷、世界平和運動、利子撤廃運動、神智学、郷土芸術運動、聖書研究、オカルト信仰その他諸々の運動。――しかし、インフレ聖者と彼らの政治的色彩の濃い宗教とは、こうした諸々の教派(ゼクト)や疑似科学、ブライのいう「哲学のインフレーション」とは際立った違いを見せている。つまり、腐植土から菌糸体を抜き出せるのと同じように、インフレ聖者も、彼らを養ったところの偽装した宗教、代替信仰という土壌から一応切り離し、一つのまとまった現象とみることができるのである。(P19)
チャールズ・マンソン[現代アメリカのカルト「新興宗教」の教祖]やデヴィッド・モーゼス[現代インドの神学者]、バグワン・シュリ・ラジニーシ[現代インドの宗教運動家]といった現代の救世主とインフレ期の聖者たちとの比較を、著者(ウルリヒ・リンゼ)は敢えて行わなかった。もちろん、これら「新宗教」の指導者とインフレ聖者の間には、すぐ目につく類似点がいくつもある。だからといって、インフレ聖者が1920年代に特有の現象であったという事実が見過ごされてよいということにはならない。それはドイツに特有の歴史的伝統と、世界大戦の敗北とそれによってもたらされた政治的・精神的・社会的な危機とを見すえなければ理解できるはずがない現象だったのである。(P20~21)

まさにそのとおり。インフレ聖者という現象をオウム教団、麻原彰晃とみなすことはできない。オウム真理教の問題は、“1990年代の日本において特有な現象であったことはみすごすことができない”のであり、それは“日本の特有の歴史的伝統と、バブル経済の崩壊等によってもたらされた、日本の政治的・精神的・社会的危機とを見すえなければ理解できるはずがない現象”なのであるから。

そのような観点に日本社会の知的基盤がいま立っているのならば、ただ一点、オウム真理教(教団)がなぜ、あそこまで活発に活動し、あれほどまでに暴力的、軍事的に拡大し、多くの人を殺傷し、挙句の果てには当局によって崩壊させられたのか――ということが、この事件に係る解決されるべき最重要課題となっていたはずなのである。そうなれば、オウム事件の真相解明のためのアプローチは、緩慢な形而上学的「オウム論」の域をいち早く抜け出すことができたであろうし、「オウム」として表象した日本社会が抱える闇に、一直線に迫れる可能性が高かった。某若手宗教学者のように、“ロマン主義・原理主義・全体主義”を今さら持ち出して、オウム真理教を「説明しよう」という愚挙も避けられたのだと思う。

本書を日本社会に広く知らしめなかったのは、日本の宗教学者・社会学者・歴史学者の知的怠慢であり、彼らの知的怠慢が、日本社会とオウム真理教のリアルな関係の解明を希薄化させたままにしているのである。

●インフレ聖者とは?

インフレ期の聖者の代表としては、ルードヴィッヒ・クリスチャン・ホイサー、テオドール・プリーヴィエ、フリードリッヒ・ムック=ランバーティー、マックス・シュルツェ=ゼルデらが挙げられる。なかで、最も精力的に活動した一人がホイサーであろうか。ホイサーの模倣者・後継者としてはフランツ・カイザー、レオンハルト・シュタルクらがいる。これら「聖者」の思想・活動内容等は本書に詳しいので、それぞれを参照していただきたい。

彼らはいちように髪と髭を伸ばしほうだいにし、家庭、住まい、定職を捨てた者が多く、街頭に寝泊まりしつつ放浪を繰り返していた。彼らは、支援者や貧民救済施設が提供する炊き出し等で飢えをしのぎ、講演会で演説をして信者・支持者を獲得していった。その活動ぶりを当時のケルン新聞は以下のとおり伝えた。
「ここ一、二年、ベルリンの広告柱には、いつも未来の使徒や予言者の講演広告がべたべたと貼られている(びっくりするほど入場料が高いことが多い)。いつでも、聖書からの決まり文句とか引用文がそえられている。かつての危機の時代と同じように、古くさい黙示録的な観念が息を吹きかえしている。そして達者な弁士の口にかかって、不安に駆られた人々の脳裏にあらためてしっかりと刻み込まれている。彼ら聖者にとって大事なことは、ひげをふさふさとたくわえ、カラーもネクタイも着けず、そして自信たっぷりでいることだ。」(P36)
インフレ聖者たちの運動(布教)形態、思想信条はそれぞれ異なっていて、一律には語れない。ただ、共通項を求めていくこともできる。
インフレ期の聖者たちは、ひとつの宗教的現象である。彼らは救世主を求める(予言者的、千年至福的、千年王国的)運動のグループに属している。この点から、これらのセクトの特有な構造が生まれる。その構造は、一方では予言者たる指導者の人格によって、他方では予言者に忠実に献身する信徒集団によって規定されている。(P321)
[インフレ期の聖者における予言者たる宗教的指導者の人格]は、オウム真理教におけるグルと呼ばれた[麻原彰晃]であり、[予言者に忠実に献身する信徒集団]は、オウム真理教における[出家信者と呼ばれる信徒たち]であり、[救世主を求める(予言者的、千年至福的、千年王国的)運動]は、[オウム真理教の終末論的教義]に、いずれも合致する。すなわち、1990年代の日本の「オウム」という宗教的現象は、1920年前後のドイツに現れたインフレ期の聖者と同じ構造をもった宗教的現象である。

●インフレ聖者が現れた背景
世界大戦によって直接、間接にひき起こされた、個々の指導者における生の危機(あえてノイローゼという蔑称的概念をここでは避けたい)は、当時のドイツに広く見られた予言者運動の独自な歴史的社会的枠組みをなす、集団体験としての危機状況と結び合っている。この危機は、経済的な(景気の長期的・中期的波動と関連して)、政治的な(戦争と敗北、革命と反革命)、社会的な(戦争とインフレによる被害)、これら3つの性格のものであり、全体的な危機意識をもたらした。とくに労働者、小市民、知識人(ボヘミアン)は「よりどころを失った」という感覚にとらわれた。この危機は、あらゆる社会層にとって「旧来の回答」を信用しえないものと思わしめ、社会的コンセンサスの消失とともに、「旧世界」や旧来の精神的権威からの離脱をひき起こし、新しい意味の創出や信頼ある精神的指導者、さらには精神的・物質的再生への希求を生み出した。(P321)
“インフレ期の聖者たちは、こうした過程におけるひとつの現象形態にすぎない”のであるのに等しく、“麻原彰晃そしてオウム真理教も、バブル経済崩壊前後の日本社会の変容過程における、ひとつの現象形態”にすぎない。もちろん、1920年前後のドイツの危機の性格を、1990年代前後の日本の危機の性格を安易にアナロジーすることはできない。とはいうものの、90年代の日本が平穏で安定した時代だったとも言えない。経済的にはバブル経済崩壊があり、日本経済における成長神話のすさまじい崩壊過程にあった。政治的には戦後一貫して政権与党であった自民党が政権を失い、その直後に自社さきがけ連立という野合により自民党が与党に復帰するという議会の混乱があった。社会的には不良債権処理問題、金融機関の経営危機と公的資金の注入というモラルハザードがあり、阪神淡路大震災という当時にあって未曽有の自然災害があった。そればかりではない。世界的には東西ドイツの統合、ソ連(=冷戦構造)の崩壊という世界歴史の転換点にもあたっていた。まさに天と地がひっくり返った時代だった。そして、そのような時代の隙間からオウム真理教は生れ出て、教団として成長し、麻原彰晃は「聖者」になっていった。

●インフレ聖者と農村共同体コロニー
これ(=インフレ聖者)と時期的にも重なり合う、注目すべき対応物は、農村の共同体コロニーの登場――1890年頃に始まる――である。この運動は、インフレ期の聖者たちのように、第一次大戦後に最盛期を迎え、ワイマル末期の世界的経済危機のなかで短期間もう一度、浮上し、70年代にふたたび続行される。この危機のなかで、不安感とフラストレーションをともないつつ、さまざまな表現形態が見られた。そして新たな忘我への希求が、多様な形姿で登場した。コミューンの理念(農村コロニーから労働共同体に至る)が聖者たちに流布したのも、すくなくとも偶然ではない。(P321~322)
ここで指摘されている農村の共同体コロニーの登場については、当コラム(BOOKS)において直前に取り上げた『生態平和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』に詳しい。『生態平和とアナーキー』の著者は本書の著者(ウルリヒ・リンゼ)その人である。同書を本書と併せて読むことをお奨めする。

さて、私たちは、オウム真理教が事件当時、日本各所に広大な土地を手に入れて入植し、入植地において自然農法に基づく農業を行い、収穫物を自然食品として販売し、また、信者自身が食していたこと、また、信徒たちはそこで「ワーク」と呼ばれる共同労働を行っていたことを知っている。つまり、オウム教団は、ワイマル期ドイツにおける「重なり合う、注目すべき対応物」を結合して取り入れていたことが明らかである。「オウム」は、前出の上九一色村(=入植地)にいかにも品のない建物を建て(それらはサティアンと呼ばれていた)、うちいくつかの建物がサリン製造工場として使用されていたことも記憶している。それは、まさに危険な労働共同体であったことをいまになって知るのである。

●理論的解決の提供にとどまらずその回答を実践化
いうまでもなくコミューン・予言者運動に共通していることは、それがたんに理論的解決を提供しただけでなく、その回答を実践化したことにある。「虚偽」と「カオス」という腐朽せる時代についての予言者たちによるメッセージは、そして今この時期に終末論的な大転期の到来という彼らの約束は、生々たる教えによって信ずるに値するものと映った。インフレ期の聖者たちも伝統に縛られていたので、彼らも「心理」と「純潔」(彼らのシンボルの色は白であった!)の「新しい国」のコミューンを建設した。そして、そのためになによりも彼らは100%のキリスト者、いや新しいキリスト者となった。しかし彼らは、マックス・シュティルナー(19世紀前半の哲学者、自我のみが実在であると主張)やニーチェ以来の超人・我・意志の崇拝者にも加えうる。(P322)
インフレ聖者の予言、説教や彼らが示す世界観にはマルクス主義のような確たる体系はない。前出のケルン新聞が伝えるように、“聖書からの決まり文句とか引用文”や“古くさい黙示録的な観念”で彩られている。だが、「聖者」たちの口からそれらが熱狂的に語られるとき、聞くものに、アルカイックな宗教思想への回帰をもたらした。このことは、当時のドイツが高度資本主義的な工業社会としてモダンな装いをしていたものの、その下層に古い思想様式と行動様式が生き残っていたことを示すものである。既存の秩序が動揺に晒されたとき、それらが再び活性化することは考えられる。
だから、インフレ聖者は「アルカイックな社会運動」の担い手だった。あるいは「原初的(プリミティブ)な社会反乱者」だったといえるかもしれない。・・・政治を世俗的な事柄と解するならば、インフレ聖者は・・・「前(プレ)政治的」存在だったといわねばならない。というより、むしろ彼らは、政治の世俗化と世俗からの宗教の逃避こそが、人間を破滅させるものだと考え、意識的にそれに抵抗しようとしたのである。近代は、政治を宗教から遠ざけ、宗教を私的な事柄だととらえ、両者を切り離したが、インフレ聖者は、もう一度この世界に、政治的な宗教を、ないしは宗教的な政治を持ち込もうとしたである。(P42)
危機の感情がトータルなものになってしまっていたため、・・・人間のすべてをとらえた、トータルな生き方の変革だけが回答になることができたからである。無秩序は、新たな精神的安定、新たな救済が得られてはじめて克服されたことになるのであった。このような「前政治的」態度は、同時に、超政治的態度でもあった。やはり時代の災悪を、宗教的な救済と浄化によっていやすことを目指していたからである。(P43)
これらのことがオウム真理教と重なり合うのは、いまさら説明する必要もない。

●アナルコ=サンディカリズム、アナーキズムとインフレ聖者

当時のドイツでは共産主義勢力が社会に及ぼす影響力は強いものであったし、アナルコ=サンディカリズム、アナーキズム勢力といった左派の力も今日以上のものであった。また、その反対に、帝政復活を目指す国家主義者、民族主義といった右派の力も強く残っていた。最近の研究では、ワイマル期の政治的・宗教的なさまざまな教派は、「右翼的」「国家主義的」「民族主義的」にも、「左翼的」にもなりえたという。さらに、左右両極の間には、「どうも、イデオロギー、構成員、組織、いずれをとっても連続性ないしつながりといったものがあるのが稀ではない」ことが確認できるという。したがって、千年王国説のさまざまな教派は、「ファシズム及びそれと極左革命運動との関係の研究にとっても」重要になる。

インフレ聖者はそんな中、左右両陣営を結び付けようと意識的に努めていた。それというのも、インフレ聖者には当時のドイツのアナーキズム的ないし極左的な集団と共通する傾向をもっていたからである。その共通項としては、反権威主義、自発性の尊重、党や選挙に対する嫌悪、意志の重視、行動主義、そして意識革命や文化革命への傾斜という点が挙げられる。

インフレ聖者の一人、レオンハルト・シュタルクの新聞には、槌と鎌と並んでハーケンクロイツ(鉤十字)が巻頭を飾っていた。また、カップ一揆(1920年、右翼政治家カップによって行われたクーデター、失敗)の際、海軍大尉エーアハルトという人物が水兵旅団を率いてベルリンを占領したが、インフレ聖者の代表的存在の一人であるクリスチャン・ホイサーは、彼の写真をレーニンとトロツキーの写真と並べた印刷物を出し、そこに「われわれは、ヒトラー、ルーデンドルフ(第一次大戦の英雄的軍人)、マックス・ヘルツ(共産主義者)、エーアハルト、リープクネヒト(スパルタクス団の指導者、殺害される)をいずれも、誠実な人物、最良の意欲ある人物として尊敬する」と書き加えた。

これらの支離滅裂な個人崇拝には、資本主義や国家を個人の精神革命を通して解消したいという願望が示されてもいた。そしてこの願望が、インフレ期の遍歴聖者を極左共産主義やアナーキズムに結びつけていた。しかし、それはまた、両者の分岐点でもあった。というのは、この願望をどう実現するかということになると、聖者たちの教えは、反組織的なものだったからである。
プロレタリアートの極左主義者や共産主義的労働者アナーキズム、あるいはアナルコ=サンディカリズムの立場に立つ者は、階級闘争における政治的ないし経済的な側面を見失うことは決してなかった。つまり彼らは、意識革命をプロレタリアートの現実の生活条件の変革と結びつけようと努めていたのである。そしてそのためには、革命的かつ組織された階級闘争が必要だったのである。それに対して、階級なるものから離脱していたインフレ聖者は、意識のレベルを絶対視していた。その結果が、自我の神格化、組織破壊、政治的影響力の無さ、大衆的基盤の喪失、セクト主義だった。(P55)

聖者の一人であり「青年前衛運動」を率いたプリーヴィエは、その構成員に対して、「階級社会の召使い、奉仕者、奴隷」たる「父たち」の世界を拒絶せよ、と呼びかけた。同じくシュルツ=ゼルテは、労働組合的な活動や「直接行動」などやめ、田舎へ移住するように訴えた。二人に共通していたのは、今ここでアナーキズムを生きようとする姿勢であった。この革命的性急さこそが、11月革命挫折後の時期に「左翼」メシアにズムが人々を引きつけた最大の理由であった。さまざまな組織が「死せる理念」を追いかけていただけなのに対して、聖者たちは、理念の生き生きとした働きを、身をもって表そうとした。

「生きること、それはキリスト者であること、
 それは共産主義者であること、
 それは社会主義者であること、
 それはアナーキストであることだ」。(グレゴリー・ゴーク)

●枯死する旧世界の中心には絶対化された「われ」が立つ
彼ら(インフレ聖者たち)の「精神錯乱的な」気質は、新たな岸辺への出発点を信頼できるものと思わした。彼らが流浪生活の貧困に自覚的に耐え、あらゆる物質的な所有を放棄したときには、とくにそうであった。その際に彼らは、不屈の禁欲的な意志力と弁舌力によって、彼らの精神的強さを明示した。そして彼らは「旧世界」が枯死していることを、以下のような指摘によって信徒たちに立証してみせた。すなわち彼らは、市民的職業秩序だけでなく、伝統的家族秩序も拒否し、性の自由の見地から一夫一婦制を断固として否定した。社会的逸脱行為の祭典は、予言者崇拝のあらわれであり、その中心には絶対化された「われ」が立っていた。そこに社会の原子化と分岐化の予兆を見出していた。国家からの離反、さらには国家の拒否というアナーキスティックな要因、およびゆるいセクトを効率よい党機構へ転換するのに失敗したことも、自我崇拝の必然的結果であった。発生しがちであった犯罪的行為も、予言者的な逸脱としではなく、慣行的な社会規範との公然たる断絶を自覚的に耐え遂行したことのあらわれとして理解されねばならない。(P322~323)
禁欲的意志力と性の自由の両方を体現したこともインフレ聖者の特徴であり、「聖者」による犯罪的行為、社会規範からの著しい逸脱をもって、彼らを狂人、パラノイアであると批判する声もある。しかし、インフレ聖者の何人かの精神医による診察記録が残されていて、それによると(当時のレベルの医学所見だが)、ホイサー、シュタルクも、精神病者ではなく、精神病質者として位置づけられている。精神病質者というのは「異常人格」を指し示すもので、精神病者とは厳密に区別されている。それは、「異常」とあるけれど、病んでいることを意味しない。つまり、正常人格という平均タイプから逸脱しているにすぎない。
さて、この精神病質ということを前提にしたうえで、精神医はホイサーとシュタルクをヒポマニー、つまり軽度の躁病質と診断している。自分には力があるんだという感情や自尊心が肥大化してしまったり、自分は偉大だという意識がこびりついたりする。いろんなことに手を出し、ものを書きたい、喋りたいという衝動が強まる。思考が上滑りの状態になり、口だけべらべらと廻ってしまう。ひどく骨の折れる旅をあちこちしてまわる。手紙を書くと字がとても大きくなり、やたらと強調文や布告調の文を書いたりする。――彼らの行動に見られるこういった現象は、ヒポマニーとしかいいようのないものだといえるのである。(P88)
ここに指摘された聖者の行動と、当時、テレビで報道された「麻原彰晃」の様子を重ね合わせてイメージすることは容易なことであろう。だが、だから、麻原もヒポマニーだということが言いたいのではない。
もちろん、精神医の議論は、インフレ聖者という公的な人物の問題を私的な(病気の)物語に還元してしまっていて、なぜこのヒポマニーが、1920年代という時代において公衆の面前で活動するための前提であったのかを問おうとはしていない。大事なのは、自我崇拝と自己肥大症の社会的文脈を明らかにすることである。・・・インフレ聖者が世間の注目を浴びたのは普通の時代ではなかったのである。それは破局の時代、これまで信じられてきた生き方や意味がこわれてしまった時代だった。だから、これら精神病質のヒポマニー症者は、この危機の時代において決して孤立した存在だったのではない。むしろ反対に指導者として、教派(ゼクテ)的な集団形成の凝集点になっていたのである。というのも、彼らは破局によって引き起こされた変動に対しては「正常人」よりはずっと弱い抵抗力しか持っていなかったが、しかし他方では、世間の仕組みにあまり組み込まれておらず、他人と同じように振舞わなければならないとか伝統には従わなければならないとか思うことも少なかったからである。だからこそ、動揺と新しきものの探求の時代にあって、彼らを受け入れる素地を持っていた人々の指導者になったのである。(P88~89)
信者たち自身も、インフレ期の聖者たちの訴えを、しばしばはげしい言葉で喚起された、世界の転換の近き到来として、また内面的な感動的な幸福感(エロスと忘我をともないつつ)として迎えた。そこには、聖者たちが支配権をにぎるだろうという意味がこめられていた。1918年の11月革命の失敗も、超政治的な意味で継続的に発展されているという内面的確信は、信者たちのなかに、戦闘精神と犠牲的精神を強めさせた。(P323)
この2つの引用は、オウム真理教と麻原彰晃を考えるうえで、かなり重要な箇所である。当時、地下鉄サリン事件等の凶悪犯罪が起こる前、オウム真理教と麻原彰晃は、かなりの頻度で、テレビ等により紹介(報道)されていた。しかしながら、「オウム」の教義に興味のない者から見れば、若い信徒たちが麻原を崇め、奇妙な宗教的行動をとることが理解できなかった。むしろ、嘲笑と違和感をもって突き放していた。しかし、麻原の下に集まった信徒たちは、おそらく、新しきものの探求者であり、ヒポマニー的な強烈な個性を放つ麻原を探し出した。麻原を教祖として受け入れる素地をもっていた者なのである。それが不幸であった。探求の結果としては、相当質の悪いものを探し出したことになる。だが、彼らは麻原に属した。オウム真理教があれほどの活力をもてたのは、当時が危機の時代であったからであろう。だが、当時、わたし自身に危機の認識は薄く、「オウム」の後ろにある時代の転換の動きを感じとることができなかった。
これまでインフレ期の聖者たちが立っていたキリスト教的狂信と千年王国的予言者主義という伝統の流れを強調してきたが、そこに新しいものが登場していることを見落としてはならない。その場合、キリスト教的文化圏において「予言者」が群生したことが新しいのではない。異例なのは、それが、工業世界の周辺(それの結果として)ではなく、中欧の中心で、しかも大都市において再生した点である。こうして一時的な聖者現象や、聖者たちの跡を追ったメシア的指導者アドルフ・ヒトラーという、さらに後々まで続いた現象は、この工業世界における啓蒙思想と世俗化によってドグマ化された根本前提をゆり動かしている。その根本前提とは、現世的なものと精神的なものとの分離、また政治と宗教との分離といわれるものである。インフレ期の聖者たちは、政治的宗教性ともいうべきものの兆候である。この政治的宗教性について、それは今日では過去のこととなったとは、確実にはいいえない。おそらく打ちつづく危機的衝撃のなかで、確実なるものの集団的喪失がおこれば、工業国家においてもつねに存在する政治的宗教性が、爆発的に解き放たれるであろう、と考えられる。インフレ期の聖者たちは、このような社会的な抗議・革新の潜在力という点で、ヨーロッパにおける「古典的な」前工業的予言運動を、いわゆる新興諸宗教へとつなぐかけ橋であったであろう。(P323~324)
本書の訳文が日本で刊行されたのが1989年、原文は1983年にドイツで出版されている。もちろん、オウム事件の前である。不幸なことに、本書の末に記された「おそらく打ちつづく危機的衝撃のなかで、確実なるものの集団的喪失がおこれば、工業国家においてもつねに存在する政治的宗教性が、爆発的に解き放たれるであろう」という箇所はドイツから遠く離れた日本におけるオウム事件を予言するものとなっていた。しかも、“爆発的”の規模が度を越したものとなって――。

「オウム」を解明するにはだから、日本の1990年前後の時代における“確実なるものの集団的喪失”を探ることから着手されるべきなのである。

2012年8月1日水曜日

Zazie, Nico(8月)

先月、体調不良だったNicoの体重は5.8㎏で、前月比0.1㎏の増。

Zazieが2.6㎏で、0.1㎏の減となった。

体調を崩したNicoが重くなって、元気なZazieのほうが軽くなったのは意外な結果。


2012年7月27日金曜日

猫の夏バテ

先週の半ばごろであったであろうか、猛暑日から急に気温が下がったころ、Nicoが元気をなくした。

いつもはたくさん食べる餌を残すし、鳴かなくなり、部屋の隅に引っ込んでばかりいる。



2、3日様子を見ていたところ、回復の兆しが見られたのだが、念のため、24日(火)に病院に連れて行った。

診断の結果は「夏バテ」とのことで、猫用の点滴を打って帰宅した。

その翌日、毛並みが良くなり、餌も食べるし、すっかり回復。

いまでは元気なNicoに戻っている。


もう一匹のZazieは変わらず、元気である。


2012年7月24日火曜日

「いじめ」ではなく犯罪だと認識せよ

「いじめ問題」をかくも深刻化させた要因はいくつかあろう。だが、最大の要因と思われるのは、文科省、教育委員会、学校、マスメディアが、「いじめ」を特定のカテゴリーとしてしまったことだ。「いじめ」の責任を、学校(その管理責任者である校長)におしつけたばかりか、学校長に対するマイナス評価としてしまったことだ。

すでに報道にあるとおり、「いじめ」問題解決のための現行の制度では、「いじめ」等の問題が発覚した場合、教育委員会及び学校が第三者調査委員会をたちあげ、調査が終わった段階で、調査結果を公表しなければならない。

ところが、おかしなことに、管理責任を問われる側(すなわち教育委員会及び学校)が、委員会組成の実質上の事務局となっている。つまり、裁かれる側が裁判を主催するようなもの。当然、教育委員会及び学校は、自らに責任が及ばないよう、調査委員会を骨抜きにする。教育委員会及び学校は、調査結果において自らの管理責任が明確になった場合、訴訟により賠償責任を負う可能性が高いからだ。

しかし、そのような事態に至るのはレア・ケースで、学校の現場では、軽微な案件であっても「いじめ」が表面化しないよう、つまり、調査委員会の立ち上げまでに至らぬよう、「いじめ」はすべからく存在しないとする、隠ぺい工作に走ることになってしまった。前出のとおり、隠ぺいすることで、学校管理者はマイナスの評価を回避しようとする。

つまり、学校の現場では「いじめ」があっても“ないことと”にし、よしんば、「いじめ」が発覚してしまった場合でも、教育委員会と学校が共謀して第三者委員会を骨抜きにし、「いじめ」の実態を明らかにさせないよう工作する。自らに責任が及ばないよう、蓋をしているのが実態なのだ。

その結果なにが起きるのかといえば、学校内外は「いじめ放題」「いじめられ放題」の無法地帯となり、「いじめる側」に一切処罰が及ばず、「いじめられる側」は被害を受け続けることになる。その挙句、「いじめられる側」に自殺者が出ても、自殺と「いじめ」の間の直接的因果関係が証明されにくいことをいいことに、「いじめる側」は司法によって守られるという最悪の結果を招いてしまったのだ。

「いじめ問題」はきわめてシンプルである。それを「いじめ」という特定の域に特殊化するから複雑になるのであって、暴行、恐喝、脅迫等の犯罪が生徒間に発生していれば、被害者は被害届を出し、警察当局が加害者を未成年犯罪者として検挙すればいいだけの話だ。学校の現場に警察が入るのはどうのこうという者もいるようだが、報道で知る限りでは、深刻な「いじめ」などあり得ないのであって、どれもみな犯罪なのである。

犯罪発生に管理責任はない(場合が多い)。たとえば、職場内で殺人事件が発生しても、職場の管理者が管理責任を問われることはほとんどの場合、ない。学校内で犯罪が発生しているのに、学校(長)の管理責任を問うことが誤りなのだ。もちろん、学校が「いじめ」と呼ばれる犯罪を自らの手で解決できるのなら、警察の力は借りなくてもいい。だが、学校はこれまでのところ、無力であった。深刻な「いじめ」が発生していた学校に、解決能力はなかった。

もちろん、隠ぺい体質が「いじめ」の発覚を妨げたということもできる。だが、それを「いじめ」だと特定化するからややこしくなるのであって、犯罪だと考えれば見過ごすこともできないだろうし、発覚したことにより管理責任を問われることもない。

自殺者が出ているということは、それがいかに深刻な問題であるかを知る必要がある。少年少女を自殺に追い込むような行為が「いじめ」なのか犯罪なのかを問うてほしい。明らかに後者だろう。学校現場が犯罪を放置し、犯罪者を守っているのならば、それこそ、教師こそが犯罪者ではないか。

では、なぜ、小学校、中学校で暴行、脅迫、恐喝等の犯罪が少なからず横行しているのか。その回答も簡単なことで、加害者が逮捕されないからである。だれも犯罪を止めないのだから、加害者の犯罪の度合いが拡大するのは当然である。「いじめ」は、最初軽微な暴行や脅しで始まる場合が多いと聞く。ところが、それを止める教師、保護者等が現れないのを見て、加害者は被害者に対し、高額な金品の要求や、度を越した虐待等へと犯罪行為をエスカレートさせていく。それもまた自然のことだ。結果、被害者が耐え切れず・・・というわけだ。

学校が被害者を守らないのであれば、自衛するケースも出ている。子供に格闘技を習わせるという親も少なくない。自衛手段として格闘技にとどまっているうちはいいが、武装に発展することもある。目には目を、力には力を、というわけだ。そのような対抗思想が解決策になるかは大いに疑問である。まず学校現場に必要なのは、犯罪者を野放しにしないことだ。

2012年7月22日日曜日

メッキが剥げた大阪市長の政治姿勢

橋下大阪市長の不倫報道が週刊誌にあって一時大騒ぎになった。だが、数日経った今やすっかりこの話題は沈静化し、何事もなかったかのようだ。筆者は不倫報道に興味はないが、橋下大阪市長の思想及び政治手法には興味がある。なぜならば、筆者は橋下市長が好きではないから。とにかく、あやしいし、あぶない。まず、その理由から述べる。

筆者はこの人物に実際会ったことはない。その言動について資料等を詳しくあたったこともない。マスメディアの報道の断片を通じてのそれを知っている程度。もちろん、不倫報道の週刊誌を読んでいない。だから、以下の評価は、筆者の憶測・推測の域を出ない。

筆者の知る限り、橋下大阪市長の評価としては、新自由主義者、合理主義者というのが一般的ではないか。たとえば、大阪市の財政立て直しにあたって、かなり思い切った合理化を断行しようとしていると。彼が目指すのは、どちらかといえば「小さな政府」であり、自助の精神を第一とし、かつ、規制緩和、市場に信をおくもののように感じられる。

市財政の再建策の一環として、伝統芸能、伝統文化に係る諸団体に対する助成の削減・中止がある。たとえば、上方文化を代表する文楽や浄瑠璃もそこに含まれる。助成を取りやめる理由は、それらが自ら延命できないこと、あるいは自ら延命しようとしないことだ、と説明しているように思う。彼に言わせれば、どんなに芸術的価値や歴史的価値があっても、文化の市場、すなわち、エンターテインメント市場に淘汰されたものは、助成するわけにはいかない、というわけだ。この説明は、アダムスミスのいう市場における「神の手」を代弁するように思える。換言すれば、市場において生き残ったものとは、淘汰を経たもの、すなわち、「良きもの」「正しきもの」「優れたもの」だということになる。

一方、その反対に市場性を欠いたもの、売れないもの、市場競争に敗れたものとは、すなわち、「悪しきもの」「必要とされないもの」「劣ったもの」「駆逐されたもの」ということになる。

さて、かかる言説は、新自由主義、市場原理主義とは似て非なるもので、19世紀末から20世紀初頭に世界的に流行した、ダーウィニズム(=「進化論」)である。「進化論」を大雑把に言えば、環境に適合した生物だけが現存する、すなわち、環境に適合し「進化」したものが現存する(=生物なのだ)という思想だ。加えて、自然界、とりわけ動物界においては、優性なオス(=強者)のみが生殖に与れるという法則が貫徹していて、そこから、人間社会も強者・指導者が劣性の者を支配することが望ましいという優生思想・独裁思想に転化していく。

20世紀初頭にドイツで勢いを得たナチズムがその典型であり、加えて、ロシア革命以降に世界を席巻した俗的唯物史観におけるプロレタリア革命の絶対性の思想(スターリニズム)だった。前者は文字どおり、優生思想、アーリア人(ゲルマン人)至上主義を旗印にしてユダヤ人虐殺を行い、世界征服を試みたし、後者においては、歴史はブルジョアジー支配からプロレタリア支配に「進化する」という歴史観に基づき、共産党反対派の粛清や強制収容所による強権国家群をつくりあげた。挙句、両者は20世紀中に消滅した。

橋下市長の「暗さ」は、ダーウィニズムがもつ「暗さ」である。競争による勝者と敗者の二分は、死臭を伴うものだから。

彼が引きずる死臭は、彼の半生から来るものなのではないだろうか。橋下市長は、複雑な家族関係と貧困等の環境下に生をえたといわれている。だが、彼は青年期に劣悪な環境を克服し、一流大学合格、最難関の国家試験といわれる司法試験合格といった成功を得た。さらに、TVタレントとして名声を得、それを利用して、大阪府知事、大阪市長、維新の会代表・・・と、政治家として大成した。そのことにおいて、自らを環境の淘汰を潜り抜けた者――「進化した者」――と、自己規定したのではないか。

また、彼が進化論者である以上、不倫問題の発覚は、今後の政治状況において女性票の減少という痛手であはあるものの、優生なオスの証明という次元では勲章なのだと自負しているように思える。不倫問題に係る橋下市長の記者会見をTV映像で見た限りでは、女性票の減少という政治的マイナス面と、進化論における強者(優生)の証明というプラス面が入り混じった、複雑な表情を浮かべていた。もちろん、「心からの反省」などはしていない。

大阪人に限らず、日本人の大方の倫理観では、浮気や不倫は男の勲章だという気分がないわけではない。やんちゃを許容する気分も大いにある。だから、今回の不倫報道は、彼の政治生命にかかわる致命傷にはならない、という評価が一般的だ。もちろん、前出のとおり、女性票は若干減ることはあっても、増えることはあるまいが、そもそも、彼の不倫を嫌悪する層は、彼の支持者ではない。彼を支持するのは、「決められない政治」に苛立ち、たとえば、小泉元首相や石原東京都知事のような、「強い」指導者を待望する層なのだから。

だが、この先、橋下市長の勢いに翳りがないのかというと、そうではないと筆者は思う。たとえば、橋下市長は、市役所の職員にタトゥーに関する調査を実施したことがあった。また、学校では、教師に起立しての国歌斉唱を強制した。交通局の不祥事にも強い姿勢で臨んだ。彼が率いる政治集団「維新の会」の教育政策は保守的な「家族」を重要視するものだったような気がする。それは、「健全な父」の存在が前提であり、「不倫する父」の姿は想定されていなかったように思う。これらは、橋下市長の道徳心、倫理観を反映したものだという仮想において、日本の「健全な市民」の支持を得たのではないか。

さて、不倫というのは、筆者がどう考えるかは別として、一般には道徳上、倫理上、許されないこととされている。不倫市長がタトゥーをどうこう言えるのか、不倫市長が教育問題に口を出せるのか、交通局の不祥事など、女房を裏切ることに比べればかわいいものだ、という対抗的意見に橋下市長は反論できない。そもそも道徳・倫理を梃にした橋下流は、自らの不道徳、不倫(理)によって、梃そのものを外してしまった。そうである以上、彼の大阪市役所改革がうまくいく可能性は少ない。

そればかりではない。橋下市長は、不倫問題に関する記者の質問に対して、「家庭内のことですから」の一言ですべからくかわしていた。であるのならば、市長から仕事ぶりを問われた組合や職員は、「課内、部内、局内、職場内・・・のことですから」の一言でかわすことが許される。役所のことよりも、お前の家庭を立て直せ、不倫のお前だけには言われたくないぜ、という声に橋下市長は反論できない。大阪市役所のガバナンスは崩壊する。

橋下市長の政治手法は、橋下という個人の倫理観・道徳観を強弁することで、多くの支持を獲得する構造になっている。彼が攻撃対象としたのは、「公務員(=税金で食わせてもらっている者)のくせに、仕事中に政治活動をしている職員組合」であり、「国の教育に携わりながら、国歌を歌わない教師」であり、「客を呼べない、税金を無駄遣いする、文化人、文化団体」であり、「くわえタバコで勤務する交通局の職員」等々であった。そうした「無駄遣い」、「税金泥棒」「怠け者」に対する彼の攻撃的姿勢は、補助金等とはまったく無縁の自営業者や、企業内の厳しいリストラを生き抜いているサラリーマンには、胸のすくものだった。それは、無駄づかい、税金どろぼう、忠誠心の欠如という不道徳者に対する、倫理的・道徳的攻撃だった。

しかし、いままで攻撃にさらされてきた側からすれば、今回の市長の不倫報道により、「お前だけには、言われたくない」という対抗的姿勢が有効となる。さらに、一方、これまで、橋下市長の道徳的・倫理的攻撃を是としてきた支持層からは、攻撃の大義、すなわち「攻撃者の資格」を疑問視されることとなった。

政治家橋下が立案する政策等は、みんなの党や小泉構造改革と大差はない。せいぜいのところ、官僚叩きのポーズであり、「無駄」の排除であり、市場原理主義、新自由主義の盲信である。大衆もマスメディアも、維新の会の諸施策の検証より橋下のキャラクター、与太的姿勢に喝采を浴びせた。不毛である。不倫報道も輪をかけて不毛である。だが、不倫報道が橋下の政治姿勢、政治手法、集票方法のメッキを剥いだことは注目してよい。大衆とマスメディアが、そこに気づかなければ、どうしようもない、ただのゴシップ週刊誌ネタで終わってしまう。

2012年7月17日火曜日

『生態平和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』

●ウルリヒ・リンゼ[著] ●法政大学出版局 ●2400円(+税)

前回のBOOKSで『現代社会のカルト運動――ネオゲルマン異教(S・V・シューヌアバイン著)』(以下、『現代社会のカルト運動』と略記。)をとりあげた際、ドイツのエコロジー運動、とりわけ、[緑の党]について、同党がカルト宗教、ナチズムを本流とするかのような傾向を強調しすぎるきらいがあった。[現代ドイツの緑の運動=カルト集団]と誤読される心配も否めなかった。ドイツのエコロジー運動を歴史的かつ総括的に見直す必要を感じた。そのことが、今回本書を取り上げた動機の1つである。

70年代から1980年の「緑の人びと」の党結成に至るまでのさまざまな社会運動の発生は、多くの人びとにとってはやはり思いがけないものであったが、ともかく歴史家にとってはそれほど理解しにくいわけではない。19世紀から20世紀に至るドイツの産業化の過程を長い目で観察してみると、近代産業社会は幾度となく深刻な危機を迎え、そのあとに個々の社会運動を包括する「一連の抗議の環」ができることがわかるからだ。(P214)  
一般的には、1970年代に旧西ドイツで始まった[緑派の運動]は、それまで猛威を振るった極左マルクス主義革命運動の挫折の代替として新しく開始されたもののように思われて不思議はない。だが、といよりも、ドイツが近代産業社会を発展させようとしていたその黎明期に、すでに同じようなムーブメントが見いだせる――というのが本書の主意である。

さて、前出の『現代社会のカルト運動』の<第5章第2節:エコロジー社会主義と「血と大地」との間、産業社会主義の危機に対する反動の自然宗教>を思い出していただきたい。本書が19世紀末から20世紀に至るドイツの情況のなかに今日のエコロジー運動の始原を見出そうとする方法は、前掲書と一致する。19世紀から20世紀初頭のドイツの情況を振り返るということは、前掲書の方法と同様、今日の、エコロジー運動、ニューエイジ運動、カルト運動等を考えるうえで誠に重要な思想上の遡及行為にほかならない。そのため、少し長くなるが、本書から引用、要約をしていく。
 
●19世紀末から20世紀に至るドイツの情況 

ドイツが農業国から工業国へと変容する過程を、本書から以下要約する。
ドイツ帝国創設時(1871年)の総人口は4100万、1890年にはそれが4900万に膨らみ、さらに、1910年には6500万にまで増大した。1871年に大都市に住んでいたのはドイツの総人口の4.8%にすぎなかったが、1910年には21.3%に達した。それと並行して人口2千以下の小さな町村には、1871年にはまだ人口の63.9%が住んでいたが、1910年にはわずか40%にすぎなくなった。そのことが意味するのは、はなはだしい国内人口移動である。田園が都市に席を譲って過疎化していった。1907年には大都市ベルリンの人口のうちそこで生まれ育った者は40.5%にすぎず、残りは移住してきた者だった。移住によるベルリンの人口の増加は1881年から1890年の間にその頂点に達した。 

●ブルジョアの側から開始された自然保護運動
1871年にビスマルクによって創設されたドイツ第二帝国時代に特有な現象の1つは、一方でブルジョアジーが激しい勢いで突き進んでゆく産業化の担い手となるが、他方ではしかしまもなく教養ブルジョア的中産階級の中に急進的な反近代主義的潮流が生じ、それが資本主義的進歩の力に頑強に抵抗したという事実である。1890年から1910年の間にドイツが最終的に農業国から工業国へと変化したまさにその時代に、――自然や郷土についての新しい意識のうちに表現を得て――工業化過程に文化がなじんでゆく過程の中に障害が発生したのである。(P10)
産業化と「農村離脱」と都市化から結果として生じたのは、1900年頃のほとんど爆発的な大都市離脱という精神的、また現実的な反動だった。・・・「民族」と「郷土」、つまり「ロマン主義的」な解釈の色を帯びた歴史的伝統的な風景とその社会秩序が、きわめて貴重な価値として発見される。(P11~12)
今日のエコロジー運動に結びつくような自然、郷土、民族…といった伝統的価値の見直しが、当時、それを破壊する産業化の担い手だったブルジョアの側から起こったという逆説をまず、おさえておこう。
こうして、アスファルトの代わりに・・・「土地に根付いた」手工業の優良品が、そして大都会の人間の混合には人種的な純粋さゆえに堕落していない田舎の人びとが対置される。彼らは近代の物質主義と自由主義によって軟弱にされていないために家柄と宗教を堅く守り、大都会の工業文明の代わりにしきたりと職人気質に体現される「変わることのない」前工業的文化をはぐくんでいるとされる。・・・「農業ロマン主義」と「大都会敵視」は徹頭徹尾アンビバレントなものである—一方でそれは「血と土」の前ファシズム的神話を形成しているが、他方ではそれは大気や水域の汚染、土地の投機、悲惨な住宅状況といったものにおいて、また地域の景観を破壊する団地アパート、工業や交通施設の建造物といったものに明白になるような、都市化過程の経済上、公衆衛生上また美学上のぞっとするような帰結を、的確に表現しているのである。不安にかられた医師たちも都市化と結びついた性病の増加を指摘する。彼らはまた住民の「性病による全面的汚染」をも想像するが、彼らによればそれは大都市に端を発し、民族的・人種的衰退の根源となるのである。文明化(Zivilisation)と「梅毒化(Syphilisation)」は同一のものとなり、大都会は、不安を呼び起こす乱交の進展が今にも個々人を呑み込まんとする、あの聖書の「大いなる娼婦バビロン」のイメージと一つに溶け合う。(P12~13)
このような状況のなかから生じたブルジョア層における自然回帰の表れが、雑誌『田園』(1893年刊行)『郷土』(1900年刊行)であり、「郷土年鑑」「郷土博物館」「郷土の夕べ」である。また、1890年には、ベルリン近郊フリードリヒスハーゲン区において、ボヘミアンが出現する。1893年にはオラーニエンブルクの近くに「菜食主義・果樹栽培村・エデン」が設立される。1900年には、マジョーレ湖畔アスコーナ近郊のヴェリタ山への入植が開始される。そればかりではない。ヘルマン・ムテージウスのような建築家がイギリスを手本として広めた「田園別荘」運動や、ヘルマン・リーツが同じくイギリスを手本にした「田園教育舎」が創設される。
 なお、勝手な推測をするならば、大都会の性病の蔓延に対する恐怖と嫌悪が、後年におけるナチスのアーリア人種至上主義、ユダヤ人排斥・民族浄化の暴挙に結びついた理由の1つだったかもしれない。
新たに求められる万有(コスモス)との関係のための世界観的な枠組を形作っているのは次のようなものである。すなわち自らの父祖エルンスト・ヘッケル(その著書『有機体の一般形態学』〈ベルリン1866年〉においてエコロジー概念を創り出した人物)の機械的な世界像を世界精神の至福にまで高めるブルーノ・ヴィレとヴィルヘルム・ベルシェという人物たち(「ジョルダーノ・ブルーノ連盟」ベルリン1901年)の汎神論的一元論、またそこから成長してゆく神智学、さらにルードルフ・シュタイナーなる人物の、自然と超越性を結び付ける統一的な「精神研究」としての人智学である。(P14~15)
さらに、都会脱出の運動は、たとえば、土地改革運動、公営競技用屋内プールを産み出す身体文化運動、「ワンダーフォーゲル」、「ドイツ田園都市協会」、『芸術の番人』という機関誌によって「土地から成長した文化」の担い手としての「郷土芸術」運動の発言者となる「デューラー連盟」といった形で、多様な生活及び文化改革の連盟や運動の中で組織され始め、第一世界大戦に至るまではますます広範に普及していき、反アルコール、菜食主義、服装改革、性改革、裸体主義、自然療法、自然食等の運動と一緒になって、ネットワークを形成していくことになる。しかし――
第二帝国のブルジョア的な反近代主義を概観すると、一方で「血と土」という決まり文句がそれにとって本質を構成する要素となってはいるが、他方ではこの決まり文句にはさらに詳しい規定が必要だということが明らかになる。「血」はゲルマン主義と民族的思考のどんな形式をも象徴することができた。これらは人種的差別的ないし社会ダーウィニズム的な考え方と結びつく可能性を持ってはいたが、しかし必ず結びつくとも限らなかった。「土」は多くの人々にとって美的カテゴリーであり、故郷を喪失して根無し草になることへの不安と心情的に結び付いていた。(P19~21)
冒頭、今日のエコロジー運動とナチズムの「血と土」のイデオロギーが同根であるとする性急な結論を保留した意図はここにある。「血と土」の意味するものを、もう少し厳密に、検証しなければいけない。

●自然保護運動における美的価値
・・・(土地問題に対する)美的批判が最も容易に社会批判に転換したのも「土」の問題においてだった。「土地問題」はまさに反産業主義が反資本主義に転化する決定的な要点と見なされなければならない――といってしかしそれが必然的に社会主義的解決に行き着くというわけではないのだが。・・・第一世界大戦によってひき起こされた大都会住民の食糧難が「買い出し」において現実の姿となったとき、この反近代主義の経済的観念が脚光を浴び、他ならぬこの問題における父親の世代の無力に対して痛烈な批判が向けられた。(P21)
ビスマルクの土地政策も、ワイマール共和国成立前から成立後の社会民主党の土地政策も、田舎の人びとを大都会へと追い立てて都市の新住民を増大させることにかわりなかった。大戦後、人びとは土地問題について、結局、ナチズムに期待するようになる。当時の人びとが理想とする社会像は、ローマ法を廃し、ドイツ法を導入することをめぐるものだったが、そのドイツ法とは土地を共有財産となし、ただ個別の利用のためにのみ個々の家族に委託するという古代ゲルマンの考え方を再現するものだった。このような反資本主義的土地理論はその根をすでに第一次大戦前に醸成されていたようだ。
民族主義的伝統の内部には人種的・反ユダヤ主義的な土地改革の変種が存在しており、それはテーオドール・シュタムやオトマール・ペーター、テーオドール・フリッチュといった人々によって主張されていた。しかし社会保守的な目標から社会改革的な目標への移行が全くなめらかに行われたのは他ならぬ土地問題においてだったことが明らかになる――その納得のゆく例の一つは、アメリカの反都会主義者で土地税制の改革者であるヘンリー・ジョージの理論の受容であって、彼はオイゲン・デューリングには反ユダヤ主義的に変形されつつ受け継がれたが、同様にベネディクト・フリートレンダーにはきわめて自由主義的な変形を受けて受容されたのだった。(P24~25)
●ワイマール時代の起こった大転換――反近代主義から近代産業主義の肯定へ
近代主義批判の方向が、・・・近代の産業世界の原則的な肯定へと重要な一歩を初めて踏み出したのはワイマール時代のことだった・・・(P27)
ワイマール時代になると、大戦の敗北とインフレ時代のドイツ経済崩壊によって、国民経済における産業の意味が強く思い起こされるようになる。「きわめて困難な経済的苦境が全ヨーロッパに重くのしかかっている。いったい・・・今日でもまだ郷土保護というような“ロマンチック”な事柄のための余地が存在するだろうか――それは世間知らずの夢想家の道楽でありお遊びではないのか。すべては経済の必要の、つまり経済再建の必要の下位に置かれ、必要とあれば犠牲に供されなければならないのではないか。今日郷土保護と国民経済の間には橋渡しできない対立と矛盾が存在するのではないか。」(カール・ヨハネス・フックス/ドイツ博物館)といった具合だ。

そして、ワイマール時代、経済とエコロジーの間の調停は、美的な面でなされた。前出のとおり、土は「美的なカテゴリー」でもあったのだ。具体的には、「郷土的な建築様式」の確立である。ワイマール時代のブルジョア的エコロジストたちの理想は、保守的な価値観念と結び合わされながら発展を続ける国家的産業経済だった。そして、郷土保護もこの時代には、工業技術に対して肯定的な立場をとるようになっていた。

郷土保護と産業の協力の推進役は、帝政時代から自然保護機関や産業界のリーダーを務めていた、パウル・シュルツェ=ナウムブルク(ドイツ郷土保護連盟幹部)、ヴェルナー・リントナー(ドイツ郷土保護連盟役員)、オスカー・フォン・ミラー(技術と科学の傑作を集めたドイツ博物館の創設者)、コンラート・マートショス(ドイツ技術協会会長)、フリードリヒ・ハスラー(ドイツ技術協会技術部門長)、ヴァルター・シェーニヒェン(国家天然記念物保存局長官)らであった。リントナーは米国流の合理的工場生産に反対し、近代的・工業的に建てられた現代の日常建築でも「有機的に郷土像に適応させ」「郷土の本質に併合する」ことが可能だと信じていた。

●ナチズムの戦争経済に吸収された産業主義

1933年以後、彼らはナチズムの側の人種主義的な血と土のイデオロギーの中に自分たちの居場所を見つけていくことになる。「伝統と発展が敵対的な矛盾ではなく、有機的な統一体とならねばならないということ」(リントナー)――有機的という言葉が呪文のように繰り返されていた。しかし、現実には、彼らはナチス政権に裏切られていく。
・・・たとえばヴァルター・シェーニヒェンがナチス政権に期待したような、土地と結びついた民族共同体の枠内における自然保護の再評価は、戦争経済へと方向づけられた産業主義のためにほとんど何の効果もあげぬままに終わり、自然保護は(郷土保護も同様に)単にイデオロギー的に利用されたにすぎなかったということがすぐに露呈した。・・・実際にはナチズムはロマンチックで保存を旨とする自然保護の終局をもたらしただけでなく、不可欠な天然資源を保護しようという理性的な考慮をも無視したのだった。(P42)
ブルジョア的・保守的エコロジストたちは、実際には技術万能主義的な意味での進歩の信奉者へと変化していた。そして、ワイマール共和国崩壊後、ナチスのイデオロギーに取り込まれ利用されつつ、戦争のための産業主義遂行の前に沈黙を強いられたのであった。

●労働運動における“成長・進歩主義”
産業的成長と進歩というのがこの党(=ドイツ社会民主党)のすでに創立の時からのお気に入りの文句だったが、それはこの党が工業時代の子であって、その時代の生産的なエネルギーを資本主義後の社会にまで持ち込もうと努めていたからである。(P48)
技術と進歩へのドイツの労働運動の無批判な信頼は、もちろんマルクスの片手落ちによるというよりは、むしろ歴史に転用された通俗化されたダーウィニズムを受け入れたことによってもたらされたものである。労働者たちは、ただ単に資本主義というものが日々の生存競争によって規定されているという彼らの生活経験が、ダーウィニズムにおいて確認されているのを見ただけではなかった。彼らがそこから読み取ったものは、最後には自然法則的な必然性によって待望の社会主義社会へと人類を導き、進化の道を登ってゆくだろう歴史過程に対する希望だった。ダーウィニズムが労働者の新しい宗教となったのだが、それは自然科学理論として、旧来の宗教的迷信やまたそれを擁護する政治上および社会上の保守的な諸力比べて著しく勝っているように思われた。さらにまた当時の考え方によれば自然科学と工業的技術は互いに分かちがたく結合していたのである。
そこからの演繹――知は力をも意味するという――を通じて、大衆向けの自然科学的な雑誌や教育施設が繁栄することになった。・・・だが、自然は魂のない研究対象にとどまらず、ドイツ自然科学の伝統においては内面的高揚の誘因でもあった。そもそもこの頃は労働者階級においても新ロマン主義的な自然宗教と冷静な自然科学認識とが独特な混合状態にあるのである。そして労働者たちによく読まれたヴィルヘルム・ベルシェの著書においては、生物学と生活改善、および一種の有機的一元論(これはドイツ一元論創設の父祖エルンスト・ヘッケルの実証主義と唯物主義を通り越してドイツ・ロマン派の有機的自然哲学にまでさかのぼっている)が溶け合い、その時代にきわめて典型的な世界観的集合体を形づくっている。ベルシェのベストセラー『自然における愛の生活』の中ではダーウィンの理論の暗い側面に楽天的な世界観が取って代わる。淘汰の原則を主張する社会ダーウィニストたちが言うように、生存競争が自然を規定するのではなく、「愛」が規定しているのである。そこで読者(=労働者)は、世界推移の進化の歩みに見られる不公平と苦痛がつかの間の現象にすぎず、より良き未来に対する政治的信念が間違いではないことを読みとって、自らを慰めることができた。(P49~50)
ベルシェは、独特な反都会主義を提示した。都会が苦痛に満ちた資本主義的世界を代表するのに対し、野外の広々とした自然は、労働者にとって、社会主義のあけぼのの到来を予感するものとしたのである。ベルシェはシュレーバー菜園(都市住民が郊外に持つ家庭菜園。推奨者であるドイツの医師D・G・Mシュレーバーの名にちなむ)や労働者旅行という文化を称賛した。また、後にオーストリアの首相、連邦大統領となったカール・レンナーにより、労働者による「自然友の会」の運動が展開されるに至った。
当時の労働者が、個の内面において自然をロマン主義的に、また、有機的一元論的にとらえていた傾向は否定できないものの、しかし、当時のプロレタリアの自然観を、自然との友愛、反都会主義、自然ロマン主義的傾向に還元できわけではない。自然を技術や工業に対する労働者の敵意のしるしとして解釈できるようなものでもない。プロレタリアの雑誌に発表されたオーストリアのシュトゥーバハ発電所についての考察を見ると、この発電所は「現代の労働の、そして現代の人間精神の創造のみごとな作品」であるとほめそやしていることがわかる。プロレタリアは、電気――あらゆる自然力のうちの最強のもの――を、社会主義に道を開くブルジョア社会の爆破薬と見なしていた。すなわち、教養ブルジョア階級の文明批判が主張した反産業的で工業技術を敵視する反近代主義は、労働運動の中では受け入れられる見込みがなかった。
(労働者にとっては、)大規模な工業技術による自然力の利用は、まだ矛盾なく自然保護と調和させることができると思われていた。・・・歴史上の社会主義労働運動は、一方でこの自然開発の持つ自然破壊的な影響には辛抱強く目をつぶっていたのだが、それは・・・この運動が労働者の中に工業技術による自然の統治者を見、そしてこの工業技術がいつか生産の進歩を通じて労働者自身の宿命をも耐え得るものにすることができると考えられていたからである。(P66)
ブルジョアの側の反近代主義者はワイマール時代を境に、技術万能主義的な意味での進歩の信奉者へと変化していた。また、プロレタリアの側は、個々には当時の反近代主義の影響を受けつつも、労働運動としては、むしろ産業主義・進歩主義への信奉こそが、社会主義社会実現に不可避だとして、そのことによる自然破壊には目をつぶっていた。では、現代におけるドイツのエコロジー運動のルーツは、19世紀末から20世紀に至るドイツの産業化の過程からは見出すことができないものなのであろうか。

●生態平和(エコパクス)という概念
私たちは、進歩的・プロレタリア的な解放の要求と、進歩の力学に対する教養ブルジョア的・保守的な抵抗の姿勢との間の対立という手頃な公式が、説得力に乏しいということを示すことができた。・・・これらの歴史上の推進力では、「緑の」運動を産み出すには弱すぎたのだ・・・もっと奥行のある目標を持ち、新しい人間と新しい世界のビジョンを実際に内容に持つような、歴史的な力が必要だった。それゆえ私たちは今日の「緑の」運動の投錨地を「生態平和(エコパクス)」、つまり人間と自然との平和の状態、という誓約の中に見出せると思う。(P67)
冒頭で示したとおり、前回BOOKS(当コラム)で取り上げた『現代社会のカルト運動』は、ドイツの19世紀末から20世紀に至る産業社会主義の危機が形成したエコロジー運動の中心勢力を反動的自然宗教集団に絞り込んで求める傾向を指摘しておいた。そのことは、1970年後半から勢力を強めた[緑の党]が反動的自然宗教集団を母体とした運動であるかのような誤解を招きやすい。[緑の党]は、そのようなカルト集団を内包していたことは事実だが、ドイツのエコロジー運動のルーツを歴史的に厳密に検証すると、反動的自然宗教というよりも、本題ともなっている生態平和(エコパクス)と、国家統治を否定するアナーキズムにその祖形が求められる。

たとえば、[緑の党]の連邦綱領(1980年)の外交分野は、「暴力のない政治」「平和政策」であり、自然分野では、自然な生活空間の保存による生物学的に健全な環境の維持ないし復元、および動植物の種類のこれ以上の絶滅の阻止を意味しているとされる。それらを体現した先駆者たちについて、本書は詳しく紹介しているのだが、彼らは、日本ではほとんど知られていない。

●生態平和主義の先駆者――グスト・グレーザー

[緑の党]らが1979年、「アスコーナ――ヴェリタ山」の博覧会と結びつけて開催した「オールタナティヴな人びととの祭典」では、そこでオールタナティヴに生きた、最初に社会的ドロップアウトであるアルトゥール・グスタフ(「グスト」)・グレーザーをしのんだものだった。

グスト・グレーザーは、ヨーロッパにおいてマハトマ・ガンジーに対応する人物と目されている。彼は兵役を拒否し、帝国主義に反対し、無政府主義者たちと行動を共にし、ミュンヒェンレーテ(評議会)共和国の間、「心の共産主義」を宣べ伝えた。彼のスローガンは「無所有」であった。半ズボンの上に山羊の毛皮で作ったチュニックコートをはおり、長い髪をヘアバンドで束ね羊飼いの杖を持ち、スイスとドイツを歩き回った。彼の残した教訓詩として、『友よ、ふるさとへ帰れ』が、そしてその別稿に『人間よ、ふるさとには大地が必要だ』がある。その容姿とメッセージは、1960年代に米国に現れた「ヒッピー」を彷彿とさせる。

●生態平和の完成者――クリスチャン・ヴァーグナー

クリスチャン・ヴァーグナーのメッセージ(「愛の生活」)は、「生けるものの権利の承認と、そこから生じる尊重といたわり」だった。とりわけ森と草花は彼にとって神的なものの直接の反映であり、徹底的な動物保護が彼の戒律であった。

ヴァーグナーにおいてついに生態平和の完全な次元が明らかになる。彼の『新しい信仰』の問い第67はこのようなものである。
「新しい福音の旗じるしの下にある平和の国の建設について汝は何を知っているか。答え:動物の世界も彼らの救世主を待っている。いやそれどころか植物の世界も含めて自然の全てが待っているのだ。――そうとも、見たまえ、あこがれに満ち震えながら彼らはすでに数千年前から救世主を、自分たちの自然の権利を完全に承認し、また皆の完全な承認をとりつけてくれることができるような救済者を、待ちこがれているのだ。――しかしいつその者は来るのだろうか。――そしてどの先覚者が彼のヨハネなのだろうか。――問うなかれ。我も汝も、そしてこの者もあの者も、完全な人間なら誰にでもその使命があり、この崇高で神聖な使命に従わない者には、それに対して責任と罪がある。――そして汝にも我にも、また誰にでも次の警告が向けられているのだ。
汝らが彼らの自由を説かぬ限り、
汝らは己の使命から解放されず、
汝らが彼らの自由を全世界に告げた時、
はじめて汝らは自身の内の罪を完全に浄められる。」

ヴァーグナーにおいては2つの伝統の系列が合流し、そしてそれらが彼を生態平和の雄弁な予言者とならしめている。彼は一方においてロマン派と彼らによって導入された「ドイツ的魂の黙示録」(ハンス・ウルス・フォン・バルタザール)の後継者である。他方において彼の内には土着の敬虔主義が過激な形で出現しているのだが、それによれば、黙示録的・千年至福説的な期待の中で「剣が鋤べらと」(ミカ書第4章第3節)なり、狼が子羊のとなりで平和に草をはむ(イザヤ書第11章第6~7節)神の国、平和の国が、この世に存在可能なものととらえられるのである。ヴァーグナーによって明確になることは、生態平和の観念が結局宗教的な次元を持っており、ここで所与の国家および社会の秩序を超越する無政府主義的な地上の平和の国の輪郭が構想されているということである。(P77~78)
●生態平和とは何か

長々とヴァーグナーに係る記述を本書から引用した理由は、そこに[緑の党]の政治運動の出発点であり終着点が明らかになるからだ。本書の著者(ウルリヒ・リンゼ)はこう結論付ける。
・・・今日までの「緑の」政治を見るならば、それは単にロマンチックな感傷癖や後ろ向きの反近代主義、あるいは――逆に――工業技術や産業による環境危機や破壊に対する純粋に実際的な反作用といったものをはるかに越えるものなのである。この運動がその動的な力を引き出しているのは、むしろ、今でも世俗化された形で生き続けている、地上における神の国の出現に向けた黙示録的・革命的な歴史の転換の可能性への信仰からなのだ。・・・この形式はドイツのオールタナティヴな社会運動の「アングラ」の中で伝承されてきた。政治的、経済的、ないしエコロジー的な危機の時代には、それは希望の結晶点となることができるのである。(P78~79)
このような“黙示録的・革命的な歴史の転換の可能性への信仰”の危険性も著者(リンゼ)は指摘する。
 もちろんこの新しい世界への信仰の疑わしい側面もまたはっきりしている。その背後にひそんでいるのは、なんといっても世界は不完全なものなのだから、それと講和を結ぶことは拒絶しよう、とする姿勢である。あらゆる妥協に対する敵意、言葉を換えて言えば「緑の」根本主義(※近年では「原理主義」と訳される場合が多い。)がその帰結とならざるをえない。現実性の転換を目指すそのような現実拒否が困難であることは、あらゆる生きものの一致団結した共同体としてのエコロジー的な平和な国が今日この場でいったいどのような形で具体化できるかという、歴史的には同じくすでに数世紀前から議論されてきた問題においてとりわけ明確になる。(P79)
●幻影の農村コミューン

このような批判に対して[緑の党]が用意した回答は、「エコ村」の建設であった(ジンデルフィンゲン選挙綱領/1983年)。しかしそれは幻影である。時に現実かと見まがうほど色濃くなることがあるにしても幻影に変わりはない。だが、農村コミューンは、政治的、経済的な、エコロジー的な、また精神的な危機の時代には、繰り返し、具体的な希望となる。[緑の党]が改めてコミューンに思い至ったということは偶然ではなく、必然であった。

●エマオ運動――コミューンの宗教的脈絡

前出のジンデルフィンゲン選挙綱領において、[緑の党]が構想した「コミューン社会」の現実モデルはエマオ運動に求められる。エマオ運動の理念は第二次世界大戦後フランスで生まれた。1945年~1951年までフランス国会唯一の無党派議員だったピエール師が1949年に浮浪者や出獄者、絶望した人びとと一緒になってセーヌ=サン=ドニ県のヌイイ=プレザンス近郊にくず拾いの共同体を作り、そしてこれを聖書にあるパレスチナの地エマオにちなんで名づけたもの。それはかの地においてもかつて絶望した人びとがイエスによって新たな希望を見出した(ルカ伝福音書第24章第13節~35節)からであった。この名前は団結と非官僚的援助の象徴として付けられている。今日ではこのエマオ運動は、独立した諸集団から成り立ち、公益に奉仕する諸結社で組織されている。同団体の申告によれば、20を超える国々に150を超えるエマオ集団が存在するという。ドイツのエマオ運動の本部はライン川下流カンプ=リントフォルトのダクス山上にある。彼らの経済的基盤をなすのは、消費社会においてごみとして捨てられる日用品や廃物の収集と転売である。

映画ファンならば、フランス映画『ミックマック(Micmacs à tire-larigot)/監督ジャン=ピエール・ジュネ/日本公開2010年』で、軍需産業に単身抗議してはねつけられ、絶望した主人公バジルを助け、彼とともに軍需産業のトップをやっつけたのが廃品収集転売集団であったことを思い出すだろう。映画で異才を放つ彼らが、エマオ集団の者であったことはまず間違いない。
コミューンはドイツの歴史においては常に物質的生活の基点以上のものだった――そしてしばしば経済的には疑わしい成功しか収めなかった。それはむしろ聖なる場所、宗教的なトポスだったのだ。それが人を引きつけたのは、ただ単に世界に常に存在する悪しき状態へのあらゆる批判をそこで具象化することが可能だったからというばかりではなく、それによってまた新しい時代が現実に始まるという期待が信憑性のあるものになったからだった。(P83)
[緑の党]は1983年のジンデルフィンゲン選挙綱領の発出から84年になってもまだ、コミューン的生活実践を通じた産業主義および資本主義からの脱出と「もう一つの生活への参加」を達成しようと試みた。そのことは、ドイツにおけるサブカルチャアの伝統の驚くべき連続性を見せつけている。
それは原始キリスト教的・共産主義的な愛の共同体を実現しようと試みた急進的な敬虔主義に始まり、ロマン派におけるオールタナティヴな集団的生活実践を経て、1900年と1920年頃のコミューンの実験にまで及んでいたのである。1984年には「緑の人びと」の内部に「連邦研究共同体・コミューン運動」が作られ・・・カンプ=リントフォルトのエマオ運動本部を元にして企画準備された最初の「コミューン運動」が、1984年6月ハイルブロン近郊シュテッテンフェルス城で催された。(P84)
いずれにしても、生態平和運動の黙示録的・千年至福説的な活力は、産業化の過程の中で抑制されることなく、逆に、今日に至るまでますます大きな意義を獲得し続けていると言える。

●ワイマール時代の急進的なエコ社会主義――グスタフ・ランダウアーの入植運動

環境危機の解決を資本主義の克服に求めるグループが、今日の「緑派」に存在している。いわゆる「エコ社会主義」である。ドイツにおけるエコ社会主義運動はやはり、19世紀末から20世紀に至ってドイツで盛んであった無政府主義運動を先駆者として認めることができる。もちろん、当時の彼らの運動は傍流であり細流であったが、今日まで影響を与え続けている。その中心人物がグスタフ・ランダウアーにほかならない。

彼(ランダウアー)は1908年の「社会主義同盟」において、無政府主義的な工業労働者に向かってではなく、工業社会には否定的で、そこに組み入れられていない知識人と手工業者に向かって、新ロマン主義的な無政府主義を通して訴えた。ドイツ自然哲学とヴィルヘルム・ベルシェのエロス的な一元論の伝統の中にある自らの「神秘的」な自然理解についてのランダウアーの理論的発言は、彼のユートピア的・民族的な共同体理解と直接に関連している。それによって彼は、とりわけピョートル・クロポトキンによって文学的に準備された「社会主義的入植」を新ロマン主義的かつ反近代的に変形してゆく。
ランダウアーはプルードンを引き合いに出しながら、窮乏化が最も進んだ時にはじめて大衆にとって社会主義への機運が熟する、というマルクスの歴史観に反対した。彼はむしろ、社会主義がいかなる社会、いかなる時代にも可能だ、というプルードンの立場を共にしていた。それゆえ社会主義の紀元年を待つべきではなく、すでに今こそ社会主義の着手を企てるべきだ、彼は言う。その際彼にとって社会主義的な未来の共同体を先取りするひな形となるのは農村コミューンだった。(P89)
とはいえ、本書によるとランダウアーは実際のエコ入植によるコミューン建設に失敗したらしい。
ランダウアー個人は入植活動と平和活動の統合に失敗したとはいえ、彼が高く評価したレフ・トルストイ伯爵の作品を通じての理論的媒介は存在していたのである。もしランダウアーが田園入植地を建設していたとするならば、それはクロポトキンの精神ばかりでなく、トルストイの精神にも負うところ大きいものとなっただろう。というのもトルストイは世紀の変わり目頃には無政府主義・平和主義的な、またキリスト教・無政府主義的な入植の、最も重要な霊感の源泉となっていたからである。・・・・・・土と入植――それはドイツの過激な保守的右翼から無政府主義的左翼に至るまでが使用した反近代主義的、反産業的、反資本主義的な救済の公式だったが、特にランダウアーに由来する無政府主義においては、農村コミューンというものに、新ロマン主義の遺産に由来する自然信仰的な内容に加えて反軍国主義的なメッセージが込められ、そのようにして生態平和の教義にふさわしい器となったのだった。(P92~93)
第一世界大戦が終わった時、ドイツでは飢餓や失業、また心の空虚さや「郷土」への憧憬が原因となって、多数の、たいていはブルジョア的な青少年運動に分類しうる範囲では、平和的・建設的な社会主義というランダウアーの理念が影響を及ぼしていた。たとえば、無政府主義・宗教的なランダウアーの崇拝者エバーハルト・アルノルトは彼の入植地ザンネルツ――ドイツで唯一のトルストイ主義コミューン――と、後には「同胞農園」で、原始キリスト教的な愛の共産主義を復活させようとした。また無政府主義者ハインリッヒ・フォーゲラーは、自らの入植地バルケンホフで「愛の共産主義」を誓った。
ここでは田園入植が愛の原理の上に築かれるという平和な共同体の原型となる。しばしば呼び起こされる美徳は、ピョートル・クロポトキンがダーウィンの「生存競争」に対置した「相互扶助」の原則である。それゆえ、ヴェルヘルム・ペルシュの『自然における愛の生活』を熱狂的に賛美したランダウアーが、またクロポトキンの『動物および人間の世界における相互扶助』をドイツ語に翻訳・・・したということは偶然ではない。倫理的な愛の掟は、いわばこの「相互扶助」によってその自然科学上の正当性の証明を見出したのである。そのことによって自然と人類――後者は自然の一部として――を貫く力が見出された。この力は人間どうしの間の平和への、そしてまた人間と自然との平和への、希望をかきたてることができた。「相互扶助」が全てを貫いて支配していることへの楽天的な信念によって、はじめて生態平和を旗じるしとする社会主義の企てがそもそも実行可能なオールタナティヴとして登場することができたのである。(P93~94)
●オールタナティヴなエコ無政府主義――パウル・ロビーン

パウル・ロビーンについては日本ではまったくと言っていいほど知られていない。ロビーンについて端的に言えるのは、ドイツのエコロジー運動では行動や生活を実際に行うことが綱領上の要求に含まれており、この要求が実現されることが運動の正当性の証明となるという中で、もっともその正当性を発揮したドイツにおける最初の「緑の人」であったということだろう。

彼の生い立ち等の詳細は本書にて確認していただきたいのだが、1882年に東ポンメルンに生まれたが、私生児だったと推測されている。悲惨な少年時代をすごしたのち、いくつかの仕事を経験して船員となり、アメリカ合衆国、メキシコなど中央アメリカを訪れた。やがて水兵となり、ヘレロ人の蜂起(ドイツ領南西アフリカ/1904~1907年)に参戦した経験を持っている。第一次世界大戦中、彼は政治意識に目覚め、カール・リープクネヒト(スパルタカス団及びドイツ共産党の創設者)の心酔者となるが、無政府主義者との接触を通じて、孤独な心情的革命家、反乱者としての道を選ぶようになった。

彼は革命家であると同時に、自然観察者として優れ、独学の鳥類学者でもあった。第一世界大戦後に公務員として自然博物館にも勤務した。ところが敗戦国ドイツの再軍備化が開始されると同時に、彼が愛し、かつ自然観察のフィールドであった荒野=野鳥観察地域が軍事訓練や射撃の場となったことに抗議して、反軍国主義、動物愛護、生活改善の運動に身を投ずるようになった。結局彼は無政府主義者、反軍国主義者として、ワイマール無政府主義労働運動に接近することとなった。
ロビーンは、今日ならば「急進的エコ社会主義者」と呼ばれるような存在であった。そして、従来の自然保護に対する彼の批判は、ただ単にそれが自然保護のための産業資本主義の基本的制約付けをなおざりにしたことだけでなく、その国粋的狭隘にも向けられていた。・・・・・・・・・ロビーンは、労働運動が政治的には国際主義を掲げてはいても、この運動自体が都市化された産業資本主義に属するものであるがゆえに、革命的自然保護思想からは、およそ考えられる限りかけ離れていることも見過ごしてはいなかった。(P127~128)
反近代主義を唱える「ロマン主義的個人主義者」のロビーンは、ブルジョア側の産業資本主義の推進にはもちろんのこと、当時のドイツのプロレタリア革命運動が進歩に対して楽観的であることを見越しており、二つの主たる潮流から分離していた。
・・・主義に忠実なすべての無政府主義者やサンジカリストと同様に、無論ロビーンもソヴィエトの党派性、及び国家的独裁と、それを支持する赤軍を敵視していた。・・・・・・このような状況下にあって、彼にとっての「緑」の政治の唯一の手段とは、反抗的無政府主義であると思われた。そして彼が夢見たのは、自然科学を――ただし「それは自然科学が国家的妄想で毒されていない場合に限られるが」――自然科学と近い立場にあり、無党派で、種を(反軍国主義によって・・・)保とうとするがゆえに革命的で、しかも支配欲を持たない社会主義」と結合させることだった。(P129)
ロビーンが目指したのは、自然と結びついている無政府主義者やサンジカリストの一派との統一行動による、入植による「自然革命」と「農業革命」であった。だが、ブルジョア側からも、プロレタリアの側からも孤立したロビーンが実現できたものといえば、1922年に建てた「メンネ自然監視所」という名称の、学術観察基地であり入植行動の政治的目的と結びついた小屋にすぎなかった。これはシュテッティーンとアルトダム間の幅5キロのオーダー川河口地帯にあるメンネ島に建てられたことから、そう呼ばれたものだ。もちろん、彼が築いた「自然監視所」は成功をおさめることはなかったが、1945年末、暴徒と化したロシア人によって彼の伴侶とともども撲殺されるまで、20年以上も持ちこたえたのであった。

ロビーンは、プロレタリアの側からは、悲劇的英雄主義者、社会の進行を誤解した裸のネアンデルタール人、ユートピア主義者、ラッダイト(機械攻撃主義者)、禁欲主義者、ロビンソン的人間嫌い、技術と文明から離反し、野蛮と未開状態に後戻りしようとする反革命者等の批判を浴びた。
当時互いに反目しあっていた彼ら(※ロビーンの側とプロレタリアの側)がそれぞれ取った立場は、エコノミーとエコロジーの間の分裂を考えるうえで、現在に至るまでその今日性を失っていない。・・・ロビーンは、明らかにたいていの場合プロレタリアの消費志向型の考えへの批判によって労働者階級の無政府主義者を挑発し、これに対して「欲望の放棄」をつきつけた。同様に、過激な文明敵視にまで高まるほどに、ロビーンが進歩信仰を主義として批判したことも、彼らの拒絶にあった。人間をも含むすべての動植物の種の生存権を求めるロビーンの自然科学に裏打ちされた主張は、禁欲的かつ産業敵視のその性質のゆえに、無政府主義者からも激しい非難を浴びた。(P147)
一方のプロレタリアの側は、前出のとおり、ロビーンを機械攻撃者、ユートピア主義者、あるいは、歴史的分析能力を欠き、「自然の反逆」に確固たる立脚点を持つ「形而上学者」として攻撃した。

●ロビーンによるユダヤ人非難

ロビーンはプロレタリア大衆から孤立しただけではなかった。彼は次第にユダヤ人を産業資本と同列視し、ユダヤ人とは「大部分が、闇ブローカー、投機家、スパイ、腐敗したハイエナどもの集まりだ。」、また、ユダヤ人らを「法律によって保護される必要のない存在として取り扱い、片づけなくてはならない。」と非難し始めた。

さらに労働党が彼の「農業革命」「自然革命」に無関心で、「都市革命」を行おうとしているのは、労働党内のインテリユダヤ人のせいであるとした。ロビーンは「(労働党のインテリユダヤ人たちは)根無し草であり、もはや自然の大地を知らず、麦畑や黒い土への憧れもない・・・人民議会にまで至る多くの機関を備えた石の砂漠である都市の奴隷になりさがることなく、平和な自給生活を送る自然人民共同体のかわりに(大都市という)バベルの塔を造ろうとしている。」そして、(ユダヤ人)はまさしく恥ずべき「文化革命」に賛成しているが、「すべての革命の最終目標は、土、空気、光を獲得することであり、毒やガスに満ちた気狂いじみた産業化からの解放、すなわち自然革命でしかありえないのだ。」また、ユダヤ人は「たくましく物を作る人々」にではなく、がめつく金を貯める人びとに属しているがゆえに、労働者の敵でもあると書いている。

このようなロビーンのユダヤ人非難は、各方面から反論を呼んでしまった。たとえば、ロビーンがそれまで唯一彼の政治的見解を発表することができた『自由なる労働者』というサンジカリストの機関誌からも締め出された。これをもって、無政府主義と「自然革命」の協力段階は終わりを迎えた。ロビーンの「自然革命」と共闘を組んだ無政府主義者を含む社会主義系労働組織との「緑と赤の同盟」は破たんした。

●ロビーンが残したエコロジーの思想史への最も重要な功績
ロビーンの生態平和構想のうち、エコロジーの思想史への最も重要な貢献として、彼があらゆる植物や動物の生存権を認め、人間中心の世界観から離反したこと、ただしその際に、人間から遁走する破壊静観主義に屈することはなかった、という点が挙げられる。・・・・・・ロビーンは、産業文明によって引き起こされた自然破壊や人間の危機を見抜き、自らを文明の敵と告白するだけの覚悟があった。彼がすでに、1929年に、油による海洋汚染、森林汚染、原子爆弾によって迫りつつある世界の没落を――これは、核の冬に関する今日の科学的知識から予想されうる生態破壊と人類破壊を最初に予見したものだが――指摘した事実は、未来への不安のはなはだしい強調が、なにも社会運動に始まったことではないことを示すものである。(P158)
●ガンジー行動の人びと

(1)ヨーロッパにおけるガンジー主義の受容

ガンジーというと日本では、アジア太平洋戦争敗北後、戦勝国米国によって導入された戦後民主主義の受容と並行し、非暴力・無抵抗主義の人、インド独立の父として、敗戦国、民主化日本が手本とすべき「平和主義者」「戦後民主主義」の鏡として受け入れられてきたように思われる。では、ヨーロッパではどうだったのか――
「暴力なき抵抗」と、エコロジーに適合した「緩やかな」テクノロジーを提唱したマハトマ・ガンジーは、おそらく近代生態平和運動で最も感銘を与える人物であろう。(P159)
ドイツのガンジー主義者は、ガンジーについて、▽ガンジーという事件は、国家的でも愛国的でもなく、したがって「人類の事件」であり、▽人間らしさ有する無政府主義革命の知らせであり、▽ガンジーは、ヨーロッパ、ドイツを支配する、ブルジョアジーの反共的な革命不安と、政治的権力革命の共産主義理念を越えた、「新しき人類の創造主」として革命的である――と絶賛していた。

フランスではロマン・ロランという中心人物がガンジー運動を進めていた一方、ドイツでは自発的にガンジー運動が進められていたという。ドイツでは前出のグスト・グレーザーの先駆のあと、ワイマール時代のドイツのオールタナティヴ運動のうちに根を下ろし、1929年から1933年の世界経済危機の時代にガンジー運動は頂点に達した。この時代は世界経済危機の時代であり、第一世界大戦後のインフレ時代と同様、救済の渇望と飢餓が産業批判と自救行為へと人びとを向かわせた。
・・・ガンジーの立場は、イギリスにおける産業批判と生活改善主義の伝統から生まれたものであり、そのことによって、ガンジーの教説とヨーロッパのオールタナティヴな潮流との間に、原則的一致が存在していることも見逃せない。それゆえ、・・・ハンブルクの「ガンジー行動」の人びとにみられるような、ドイツにおける生態平和の古典的伝統の代表者たちが、ガンジーのなかに一人の指導者を見出したのは決して偶然ではない。なんといってもガンジーは、平和を目指す反産業主義の生きた手本だったのである。つまるところガンジーは、やはり貧困こそ、体制安定に向かわせようとする経済の強制からの解放を可能にするがゆえに、ほかならぬこの世界危機こそ、彼の理念がヨーロッパにより強固な地盤を獲得しうるチャンスであるとも思っていた。だから、ハンブルクのガンジー派の人びとが職業を放棄したのにしても、ガンジーその人がそのような行為のある種の正統化となり得たのである。(P161~162)
(2)代表的なガンジー主義者たち

この時代のガンジー主義者についても、日本ではほとんど知られていない。彼らはハンブルクを活動の中心においた。その中の一人、ヴィリー・アッカ-マンはプロレタリア出身で、雑誌の挿絵用銅版画係で看板屋であった。また、ヘルベルト・フィッシャーは元高校見習い教員、ヴェルナー・アイネッケは国民経済学の放浪学生である。彼らガンジー主義者は、ぼろをまとい、ひげと髪を長く伸ばし、路上生活をしながら、ときに「半獣人間アラバス」を演じたりもした(アッカ-マン)。

プロレタリア出身のアッカ-マンであったが、“無政府主義と「インフレ聖者たち」が、彼に大衆を克服する術を教えたのであった(P164)”という。アイネッケは、偉大なる「インフレ聖者」ルー・ホイサーの後継者である。「インフレ聖者」というのは、ワイマール時代、富裕層の援助で過激な宗教思想、無政府主義等を説く講演会等で生計をたてていた放浪自由人のこと。いずれにしても、彼らはホイサーに代表される、「インフレ聖者たち」の影響にあり、「インフレ聖者たち」が行っていた威圧行動が彼らを特徴づけていたという意味で、「ガンジー主義」もドイツ的現象だと言える。

1925年頃、インフレの危機が去り、ワイマール共和国が安定していく中で、ガンジー主義者を含めた「インフレ聖者たち」の活動は岐路に立たされた。彼らは路上生活から締め出され、新たな活動領域を探さなければならなくなった。そこでアッカ-マンは、フィッシャーとエマオ運動と同じように廃品収集業で生計を立てるようになり、そこから「転回点共同体」を結成した。この共同体の目指すところは、反文明、自由、都市インディアンを目指すものであった。彼らの綱領の要旨は以下のとおりである。
「われわれは新しい民族、新たに生成しつつある種族、新しき人種――野生人――一種のインディアンである・・・シュペングラーが没落を予言したとき、こんなことは予想もしていなかった!ローマはゲルマン人によって滅び、いかなる文明も押し寄せて血の雨を降らせる野蛮人から逃れることはできなかった。このような運命が西洋にふりかかるのは、せいぜいのところ東方民族によってでしかできないとでもいうのか!しかし、ヨーロッパは、そのアスファルトの真ん中から――原始林が出現するのかもしれないことに対する覚悟はできていない、――目下のところこれは比喩ではあるけれども、さていつまでただ比喩にのみ留まっていることか。」(P173)
彼らは投げ捨てられていたいろいろな箱で、ハンブルクのはずれにあるシュレーバー菜園の敷地に小屋を建て、それをペンキで塗った。そこで彼らは野菜やパン用小麦を栽培した。また彼らは、障害物競争のようなスポーツに興じた。彼らの宣言は続く――「われわれ転回点の仲間は、生がわれわれに日々新たに強いることのために、われわれの全生命を賭けている・・・われわれは、われわれ自身、及びいつでも来たいと思う多くの人びとのために、まったく無の状態から、経済的に束縛されていない生き方とより偉大なるものへ向かうための基礎を築いたのである・・・。」(P175~176)、「生とは行動である。生は行動から生じる。」(P176)、「未来が俺にとって何の関わりがるあるというんだ。俺は、今、ここで、この瞬間に生きていたいんだ!それは自己主義なんかではなく、あらゆる動植物と同じ全く普通の生き方なのだ。」(P176)。
こうして、グスト・グレーザー、トルストイ(その著『われわれの時代の奴隷制』は、1930年に大量に売れている)、ガンジーといった文学や自伝に描かれた模範像に、新たな生命が吹き込まれたのである。(P176)
彼らは、当時の政治的現実自体から判断して、このような生の哲学が正しいということを確信したのである。1929年以降、「転回点共同体」の少数メンバーは、ワイマール共和国だけではなく、共産主義やナチズム、いやいかなる国家政策や党政策さえ敵視するようになり、そのかわりに自力救済の思想を主張した。彼らのガンジー運動によって初めて、自力救済の左翼形態が目に見えるようになった。すなわち、「織機と鋤による革命」である。これにいちばん近いグループは、ドイツ無政府主義者たちであった。

また、「転回点共同体」を奮い立たせたのは西洋帝国主義ではなく、世界経済危機の時代における国家と党の無能さであった。ガンジーと同様――ランダウアーもそうであったが――彼らはすべての幸福が、手工業を基礎とする村落文明への回帰から生まれると期待していた。無政府主義の伝統がそうであるように、彼らもこの活動を妨げるものは、大衆を奴隷状態に留めおき、彼らの受動的立場を利用する国家指導者や政党であると見なした。彼らは、ガンジーが目標とするのは、“国家の繁栄は、百万長者の数がいかに多いかによってではなく、その国の貧しい者の数がいかに少ないかによって決定される。”という言葉であることを人びとに示した。そして、労働者を納得させるための模範行動として、一軒の家を共同体として手に入れ、靴職人や無公害パンを作るパン屋の周囲に拡大していこうとした。また、彼らは、クヴィックボルン近郊のホルム湿地を開墾した。

彼らは古臭い階級闘争のスローガンを否定した。「ハンストやバリケード戦、内乱によって貧窮している人民のために何かがなされるのではない!」(P180)というわけである。そして、自らが看板書き、機織り職人、農夫、印刷屋として働いたことのあるヘルベルト・フィッシャー(元高校見習い教師)が模範とされた。大切なのは、仕事と生産物に対して、新しい関係を見出すことである。「文明に必要なのは、なかんずく、人間たちが自分たちを取り囲んでいる事物に対し、親密で個人的で細やかな感情を持つことである。これが可能となるのは、これらの事物が大量に、愛情もなしに機械によって生産されることではなく、芸術家の手仕事のなかで、一つ一つ個性をもって創造される場合にのみ限られる。」(『織機と鋤による革命』第3号)

彼らが目指したのは、妥協なき反資本主義、都市の拒絶、機械に対する敵対心であり、その一方で、来たるべき村落文明の核となる自分の土地、自分の入植地があり、「機械の愚かさ」の拒否である。彼らの思想を端的に示す機械攻撃主義(ラッディズム)の一文は次のようにある。
「今、生は冷淡である。われわれは再び暖かさがほしい。生は抽象的になってしまったが、われわれはそれを具体的にしたい。間接性を直接性で、組織を有機的なもので、再び置き換えたい。人間どうしの関係、人間の自然に対する関係、人間の手によって創造され、個人を反映する環境の人間の関係に基づいて・・・、世界経済ではなく、多くの定住しない人びとによる自由で解放された村落経済を作りたい。愛にあふれ、戯れながら、・・・素人的に、芸術的に、・・・時間を全く気にすることなく・・・必要な事物はみな個性的な形を取って生まれてくる・・・労働が創造、すなわち遊戯であり、幸福であり、生の形成あるところでは、労働の軽減や短縮など必要ではないのだ。」(P183)
1931年、アッカ-マンは再び放浪を開始した。彼に従ったのは妻、2人の子供、ヘルベルト・フィッシャー、放浪仲間のベルンハルト・アイベン、ヴェルナー・アイネッケである。彼らの目標はガンジー行動への扇動であった。アッカ-マンらは髭を長く伸ばし、「ランゴバルト人(古代ゲルマン民族の1部族)のオーケストラ」と銘打って民謡やさすらいの歌を歌ったり奏でたりしながら、彼らの考えを広めていった。

1931年末、彼らはティディッシュの近くに土地を見つけ、入植地とした。しかし、1932年から33年にかけて、ナチスの政権獲得が近づくにつれて、入植者集団も分裂した。アッカ-マンは入植地に残り、自分をゲルマン人の長、一種のオーディン崇拝者であると称した。結局、ガンジー信奉者であり、非暴力主義者であったアッカ-マンはナチス国家によって徴兵され、陸軍狙撃隊の兵役につくこととなったが、大戦争を生き抜き、1985年6月に死去した。
ドイツの歴史における生態平和とアナーキーのイデオロギー上かつ実践上の結合は妥協を許さないものだったので、このような左翼の反進歩的路線は・・・近代文明によって人間に迫りつつある危機を、容赦なく暴いてみせた。さらに、産業化の過程において引き起こされる美的、エコロジー的貧困化が、左翼の論ずべき課題ともなりうることを初めて指摘し、それによって、歴史的労働運動がこの問題を排除するのを是正せんと試みたのであった。そして、そのエコロジーに対する敏感さによって、またアッカ-マンやロビーンのような個人単位の恐れを知らぬ先駆者らによる生を賭した試みに裏打ちされて、盲目的な進歩への楽観主義に対し、測り知れぬほど大きな警告を発したのである。したがって、「自然革命的」反進歩主義者らがその生涯を捧げた活動もまた、生態平和とアナーキーという彼らのビジョン(すなわち自己規定)によって、将来の進歩に大きな視野を提供しうるのである。(P198~199)
●おわりに

ドイツのエコロジー運動の歴史を本書によって振り返ることによって、今日の[緑派]につながる大潮流を確認することができた。それは一見すると非妥協的、ドンキホーテ的な個人単位の夢想家の群のようにも見えるが、ワイマール時代の前後、発展しつつある資本主義の矛盾を止揚しようとする、思想的運動の1つであったことがわかる。

冒頭に掲げた問題意識――『現代社会のカルト運動』の記述が、ドイツのエコロジー運動、とりわけ、[緑の党]がカルト宗教、ナチズムを本流とするかのような断言を相対化し、複合的に再構成しようとする目的はとにかく、達成できた。しかしながら、本書に登場するオールタナティヴな「自然革命的」反進歩主義者らのビジョン(すなわち自己規定)が、「生態平和とアナーキー」という概念に凝縮されすぎた点が新たな不満として残ってしまうことも事実である。

彼らを規定したものが、ドイツの急速な産業化がもたらした諸矛盾を解決しようとする純粋な心情からであっただろう。そして、その解決の手がかりとして、ベルシュ、ダーウィン、ヘッケル、クロポトキン、バクーニン、トルストイ、ガンジーらの思想を援用し、かつ、当時のアナーキズムやサンジカリズムの思想と同調しつつ、非妥協的エコロジー運動を展開したことは了解できる。だが、ロビーンが結局のところ反ユダヤ主義者になってしまったことや、アッカ-マンが自らをランゴバルト人と、また、ゲルマンの長――オーディン崇拝者だ、と自称したという記述は、やはり大いに気になるのである。

本書は、この時代のオールタナティヴなエコロジー運動家が、民族主義・人種主義、そしてその基底にあるアーリア人至上主義、ゲルマンの自然宗教信仰にどのくらいの距離をもっていたのかについて触れていない。また、彼らがユダヤ=キリスト教をどう考えていたのかについてもそうである。彼らの運動とゲルマン異教の関係は伏せられたままである。もしかしたら、その部分に係る記述を、敢えて意図的に回避したのではないかとも思えてしまう。
  1. 本書は1986年(26年前)に上梓されたもの。
  2. 当時ドイツは、東(ドイツ民主共和国)と西(ドイツ連邦共和国)に分離していた。東西ドイツの統合は1990年。
  3. 1970年代に旧西ドイツで始まった環境保護運動の推進グループDie Grünenは、日本では「緑の党」と呼ばれるが、本書では「緑の人びと」と原語に忠実に訳されている。