2015年4月24日金曜日

東京都現代美術館






山口小夜子・未来を着る人

1970年代から、世界規模のファッションモデルとして活躍した山口小夜子の展覧会である。

タイトルは「未来を着る人」(The Wearist, clothed in the future)とある。

しかし、同世代の筆者からすると、このタイトルには違和感を覚える。

小夜子は常に「今」を着るモデルであり表現者(パフォーマー)だったように思うから。

そして、残念ながら小夜子の「今」は、2007年をもって終焉してしまった。

同展は小夜子の、①演じる者としての作品(舞台女優、舞踏家、パフォーマー)、➁モデルとしての作品(ファッションモデル、コマーシャモデル・・・)、③クリエーターとしての作品(人形劇の衣装、洋裁学校時代のイラスト等)、④現代作家が小夜子に捧げた新作――によって構成されている。

小夜子が、いわゆるファッションモデル、CMモデルの枠を超えた存在だったことがよくわかる。

もう少し長く生きていてほしかった、と思うのは筆者ばかりではなかろう。







2015年4月5日日曜日

古賀茂明の「勘違い自爆テロ」――エンタメ業テレビを〈言論機関〉と誤認か

元経済産業省職員の古賀茂明が、自身のテレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」に係る「降板」について、“自爆テロ”を敢行した。古賀は菅義偉官房長官が降板圧力をテレビ局にかけたこと、そして、降板問題における同番組の司会者、古舘伊知郎とのやりとり等を番組中に暴露した。このことは、本番中に打ち合わせにないことをコメンテーターが勝手にしゃべったという意味において、古賀が“自爆テロ”をかましたとみていい。

テレビは〈言論機関〉ではなくエンタメ業者

古賀の“自爆テロ”について、左右両陣営からからさまざまな意見が噴出しているなかで、いわゆる「言論の自由派」からは政府による言論弾圧だという指摘が圧倒的だ。

だが、ここで重要なのはテレビ局が〈言論機関〉なのかどうかを見極めることだと思う。テレビが純粋な〈言論機関〉ならば、「言論の自由派」の指摘どおり、あらゆる言論が保証されなければならない。しかし、テレビにはさまざまな規制がかけられている。それを前提とすれば、テレビで自分の意見を自由にしゃべれるということ自体が実は思い込みとなる。菅官房長官が持ち出した放送法は、放送「業者」法だ。業法とは業者を縛る規制法のことだ。

テレビ業者の売上規模

テレビ局というのはもちろん株式会社。グループ企業を含めた売上高は、1位のフジ・メディア・ホールディングスが6421億円、この問題が起きたテレビ朝日ホールディングスは業界4位で2679億円。他業界、たとえば家電メーカーと比較すると、オリンパス(7132億円)、ブラザー工業(6168億円)、富士通ゼネラル(2414億円)あたりの規模となる。

局単体でみると、中堅家電メーカーと肩を並べる程度の売上規模の会社がテレビ局なのだが、日本の場合、クロスオーナーシップ制度が許されているから、事実上の親会社である新聞社の支配下にあるばかりか、地方局も傘下に置いているので単純な比較はできない。この問題(クロスオーナーシップ)については後述する。

日本国はテレビ局の得意先――安倍政権で増加する政府広報予算

テレビ放送の収入源はもちろん広告収入だ。いわゆるスポンサーと呼ばれる広告出稿者がテレビ局の収入を支えている。そして、それを営業的に、すなわち事実上支えているのが大手広告代理店だ。広告収入が入らなくなれば、代理店もテレビ局もつぶれてしまう。だから、両者はスポンサーに対して最大限の注意を払う。

テレビ局・代理店の取引先は民間企業が中心だが、次いで大事な顧客として注目されているのが、日本国、すなわち政府広報予算だ。政府広報予算は2015年度予算案において、前年の65億300万円から実に3割アップの83億400万円と大幅に増額されている。しかもこの傾向は、2015年度に突然始まったものではなく、第二次安倍政権発足以降、毎年のように予算アップを続けているという。

テレビの天敵はクロスオーナーシップ制度の見直しを進めようとした民主党

安倍政権下における政府広報予算の漸次上昇の背景にはいったいなにがあるのかというと、もちろん09年の政権交代にほかならない。政権の座に就いた当時の民主党が行った事業仕分けにおいて、政府広報予算は削減することが決定された。そのため、政府広報CMやラジオは次々と縮小、終了していった。

そればかりではない。民主党政権誕生時、メディアのクロスオーナーシップの見直しが進められようとしていた。メディアにおけるクロスオーナーシップとは、新聞社が放送業に資本参加するなど、特定資本が多数のメディアを傘下にして影響を及ぼすことをいう。本来、マスメディア集中排除の原則から、新聞業と放送業(テレビ、ラジオ等)などのメディア同士は距離を持つべきだ。ところが、日本においては、テレビ局の歴史からみても、新聞社のグループ会社として民放テレビ局が誕生しており、内容においても親会社の新聞社の意向が反映されることとなった。この方式を確立したのが読売新聞社オーナーで日本テレビの初代社長も兼務した正力松太郎だ。他のテレビ局も正力が確立したビジネスモデルを踏襲し、今日に至っている。また、テレビ放送が大都市圏から日本全国に拡大する過程で、系列の異なる新聞社が地元企業などと共同で出資したローカル局も新聞社とキー局が筆頭株主になるということで新聞社・キー局の出先機関と化した。

政権交代によってメディア対策に覚醒した自民党(安倍政権)

政治の側からメディアをみてみよう。戦後絶対与党として君臨してきた時代の自民党にとって、メディア支配は喫緊の課題ではなかった。自民党のメディアに対する態度を決定的に変えたのは、前出のとおり09年の政権交代だ。絶対与党ではなくなった現実を突きつけられ、自民党は野党転落の主因の一つとして、メディアの影響力に本気で注目しはじめた。自民党は政権奪取後、つまり第二次安倍政権発足とともに、メディアコントロールに真剣に取り組むようになった。

自民党の覚醒と同時に、民主党政権が始めようとしたクロスオーナーシップ廃止の動きを完全に葬る必要があったマスメディア側(新聞・テレビ)も、自民党に急接近する必要があった。すなわち、自民党とマスメディアは、民主党を共通の敵としてともに認識したことになる。

自民党もマスメディアも政権を民主党に渡すわけにはいかない。とりわけ、クロスオーナーシップの見直しを進める小沢一郎は両者にとって抹殺の対象となった。こうして小沢は対抗勢力を形成する自民党、官庁(統括的に権力を行使する検察)、メディアによって葬られた。

民主党政権崩壊後、そのあとを受けて安倍政権が発足した途端、それまで40億円台程度だった広報予算が14年度には一気に65億300万円に。そして15年度は、民主党時代えの2倍以上の83億400万円と大幅に増額されている。もちろん、政治の側からクロスオーナーシップの見直しの話など絶対に出てこなくなった。

広告主様批判はテレビのタブー

代理店・テレビ局にとっては、なんともありがたい広告主様である日本国(政府広報予算)を敢えて批判するわけにはいかなくなった。政府がメディアを締め付けるならば、その意に従うまで。テレビ側のこのような態度は、民間企業の広告主にあっては当たり前の姿勢であって、変節でもなんでもない。“広告主様の悪口なんて、絶対に言えません”というのがテレビの基本姿勢なのだから。

テレビはエンターテインメント業であり、新聞は印刷業だ。彼らが〈言論機関〉であったことは、日本の近代史にあって一度もない。政府に批判的な言説が許されていた時代があったように思えることもなくはないが、それもコンテンツの一つとしてあったのであって、批判勢力の糾合の環として機能してきたわけではない。コンテンツの一つが過度に影響して政権交代に影響を及ぼした09年の民主党政権誕生は、偶発的な、いわばテレビ局の思惑を超えた結果だった。それゆえ、民主党政権誕生後、自民党とメディアは鳩山・小沢つぶしに真剣に取り組み、民主党左派を壊滅させることに奔走し、そして成功した。新聞・テレビはその後、積極的に安倍政権に寄り添っている。

安倍政権はこれからも露骨なメディア支配、コントロールを続けるはずだ。一方のメディアにとっても、ここ10年来、広告収入が落ち続けている中、政府広報は重要な収入源となる。その予算が多ければ多いほど、メディアは潤う。そのためマスコミは、政府広報費の大幅アップに疑問を差し挟むことはなく歓迎するし、政府批判も行わない。

政府広報には、高いテレビに代えてインターネットを使え

政府広報は、紙媒体ならば官報で十分だし、テレビに代わってインターネットを活用すれば、広告代理店が濡れ手で粟で懐に入れる代理店手数料に血税を投じる必要がない。

ネットに流れる広告出稿を阻止しようと、テレビは、インターネットが高齢者にとって扱いにくいメディアだといい続け、その自然な普及を妨げようとする。そればかりではない。犯罪が起こると、その背後に必ずネット・スマホ・SNS・・・が存在しいているかのような示唆を意図的に与え続けている。

その一方、「オレオレ詐欺」の犯行に利用されるのは、いわゆる「家庭用固定電話=家電(いえでん)」であり、「家電(いえでん)」の主たる利用者は高齢者だ。犯罪の陰にというよりも、犯罪そのものり使用されるのがNTT等の「家電(いえでん)」であるにもかかわらず、なぜマスメディアはそう報じないのか。テレビ・新聞にとって、ネットがライバルであり、「家電(いえでん)」はそうでないからだ。

新聞・テレビは、こぞって安価なインターネットの普及を妨げ、多額な広告費を政府にせびり続けている。そもそも、政府広報にいかなるメディアを使用しても、国民に直接とどくことはない。省庁が政府広報を使いたがるのは、第一に「周知の義務」が公務員に課せられていることのエクスキューズであり、第二に、政府広報予算によって、マスメディアを懐柔するためだ。

古賀の“自爆テロ”は、鼬の最後っ屁的自己演出

さて、冒頭の古賀の“自爆テロ”に戻る。国家公務員(経済産業省職員)だった古賀が、政府広報とテレビ等マスメディアとの癒着について知らないはずがない。古賀はテレビで自由にモノがしゃべれるなんて、これっぽっちも思っていない。彼は、同番組出演中においては「辛口コメンテーター」として自己演出をしながら、きちんとディレクターの意を汲みつつ、自主規制をしてきたはずだ。古賀は「報道ステーション」降板を告げられた瞬間、「自分はテレビから金輪際、お声がかからなくなる」ことを自覚したはずだ。

古賀は番組中、同番組司会者の古舘も糾弾したらしいが、古舘の専門は司会業であって、彼にはジャーナリストとしてのキャリアはない。タレント古舘に文句を言ってもはじまらないし、そもそも古舘は「同志」ではない。

古賀は降板の代償として、自己の「存在価値」のステータスアップを企てた。古賀は最後の出演となる番組を利用して、自己を言論弾圧された殉教者であるかのようにふるまった。自己を「言論の自由派」のリーダーに祭り上げようと図った。“鼬の最後っ屁”を放って、世間に強い印象を与えようとした。テレビから締め出された彼の今後の目標は、おそらく政界進出だろう。彼がどの政党からどの選挙に出馬するか注視したい。国政が無理だと自己判断した場合は、地方の首長かもしれない。

エンタメ業であるテレビに対する幻想を捨てよ

テレビは〈言論機関〉ではないし、テレビ(に出演する「識者・専門家」)が流す見解は、スポンサーの意を汲んだものだ。テレビを見る側は、もちろん、そんな「識者・専門家」の言うことを信用してはいけない。

テレビが「純粋ジャーナリズム」であるはずがない。テレビは長い間、自分たちを「ジャーナリズム」であるかのように装ってきたが、ここにきて広告主である安倍政権が露骨に介入し始めた結果、いままでかぶってきた仮面を取らざるを得なくなったということだ。

「報道番組」の化粧が剥がれ、「政府広報」という素顔が晒されようとしている。その素顔は権力に汚された醜いものだ。そんなテレビを見ている暇はない。

2015年4月1日水曜日

4月の猫

春になった。

猫は相変わらず元気。

2匹ともだんだん甘えん坊になっている。

体重は、Zazieが4.2キログラム(前月比‐100グラム)

Nicoが6.1キログラム(同‐100グラム)

となり、2カ月連続でマイナスが続いている。