2010年9月30日木曜日

尖閣は日本領土、だから検察判断しかないではないか

東シナ海の尖閣諸島沖で中国漁船と石垣海上保安部(沖縄県石垣市)の巡視船が衝突した事件で、那覇地検は24日、同保安部が公務執行妨害の疑いで逮捕した中国人船長、せん其雄(せん・きゆう、せんは憺のつくり)容疑者(41)を処分保留のまま釈放した。

同地検の鈴木亨次席検事は24日の記者会見で、巡視船側の被害が軽微だったことなどに加え「わが国国民への影響と今後の日中関係を考慮すると、これ以上、身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当でないと判断した」と説明した。

このような検察の措置について、日本国内の一部「民族主義者」(自民党及び与党の一部を含む)が政府批判を繰り返している。愚かである。彼らの批判内容は、「政府」が中国側の圧力に屈して、中国人船長を釈放したにもかかわらず、その判断・結果責任を検察に委ね、官邸、外務省はこの事案から逃げ、応対しなかったことを指摘しているようだ。検察に下駄を預けた、と。

日本と中国の関係を考慮すれば、中国人船長を釈放する以外の選択肢はない。しかし、釈放の判断について、官邸・外務省が関与したことが明らかになれば、尖閣に係る領土問題が日中間に存在することを政府が認めたことになってしまうのである。

日本は中国人船長を国内法で逮捕した。このことは、尖閣に日本の法律が施行されていること=尖閣が日本の領土であること、の主張である。ところが、それを認めない中国側が、日本政府に政治的(不当な)圧力をかけてきた。そのことの延長線上に起る最悪の事態は、日中間の武力衝突である。しかし、そのような事態はなんとしても回避しなければならない。

日本政府の筋論は、日本の国内法をあくまでも尖閣で実現することである。政府の介入があったかどうかというのは、ナイーブ(うぶ)な議論である。国内法の番人は検察であって、首相、外務大臣・・・ではないのだから。

繰り返すが、釈放は、「検察の判断」以外ない。 中国人船長の釈放に、首相や官房長官の介入がありました、なんて馬鹿なことをどうして、中国側に示す必要があるのだろうか。政府介入を公的に認めれば、尖閣に領土問題が存在することを日本政府が認めたことになる。それは絶対に避けたい。

尖閣という日本の領土で起った犯罪は、日本の法律で裁く。中国人船長の処分保留→釈放は、あくまでも、国内法の執行機関である検察の判断で決定されるのであって、首相や外相が関与するべき事項ではない。そんな当たり前のことが、どうして、国会で議論になるのであろうか。自民党の某議員は、「政府」の検察介入を認めろと、国会で繰り返し迫っている。愚かな日本の「民族主義者」のほうが、中国を結果的に利そうとしている。質問に立った自民党の議員は、議員である資格がない。

謎の小道






言問通りの××寺の境内から、谷中方面に抜ける小道。深夜に歩くと、カフカの『城』の気分。

2010年9月29日水曜日

Rue des Arts

谷中から上野公園方面に抜ける小道。









2010年9月22日水曜日

2010年9月21日火曜日

心無い報道

犯罪被害者を貶めるような、心無い報道が絶えない。このたびの押尾裁判においても、被害者女性が暴力団と関係があったとか、MDMAを自ら服用したというような事項が、弁護側から明らかにされたというし、ある有名ブログが、亡くなった女性の死は当然だというような論調の駄文を掲載した。

どのような属性の人間であっても、犯罪被害という不条理な死は、受け入れがたいものだし、受け入れてはならない。と同時に、人の命はいかなる状況にあっても、助けなければいけない。暴力団の抗争で重傷を負った構成員であっても、医者はもちろん、まわりにいる人間は、その命を助けなければならない。暴力団構成員、麻薬常習者、詐欺師、諸々の犯罪者、あるいは、その他諸々の職業にある者・・・であっても、そうである。殺人犯であっても、その者が死に瀕しているならば、救命しなければいけない。

押尾裁判の被害女性が自らの意思でMDMAを服用したからといって、遺棄致死罪が適用されないわけはない。彼女は犯罪を犯したのかもしれないが、彼女が生きていたならば、薬物使用者という犯罪者から、更生した可能性が高い。どんな属性の者であっても、その者が生命の危機に瀕していたならば、保護責任者は救命に最善を尽くさなければいけない。また、社会は、それを怠った者を糾弾しなければいけない。保護責任者遺棄(致死)罪は、このような根本原理に基づき、刑法に規定されているはずだ。

このたびの裁判において、弁護側は、被害者女性が自ら持ってきたMDMAを自らの意思で服用し、死亡に至ったことを傍証するため、彼女と暴力団との関係や、薬物使用の前歴を裁判で取り上げたという。だが、このような情報は明らかにネガティブキャンペーンであり、被害者女性のイメージダウンを狙ったものだ。

芸能人と薬物をやるような人間、堅気でない人間、水商売の人間――は、死んで当然、助けられなくって当然、押尾被告を非難する立場にない・・・というような意見を、平気でブログに公開するような者が、日本の言論界に存在するし、また、そのような暴論を掲載してしまうブログ編集責任者が後を絶たない。

上野公園(その2)





2010年9月19日日曜日

上野公園

夏の終りの公園。
いつのまにか、こんなものが・・・







2010年9月17日金曜日

保護責任者遺棄か

合成麻薬MDMAを一緒に服用して容体が急変した女性を放置して死なせたとして、保護責任者遺棄致死など4罪に問われた元俳優、押尾学被告(32)の裁判員裁判で、東京地裁(山口裕之裁判長)は17日、懲役2年6月(求刑・懲役6年)の判決を言い渡した。

判決を大雑把に評せば、保護責任者遺棄致死罪は認められず、保護責任者遺棄までが認定されたことになる。「疑わしきは被告人の利益に」という原則が拡大解釈されたように思う。芸能人だからとりわけ、罪を重くしてはならない、という自己抑制が裁判員に働いたかもしれない。そういう意味では、当該裁判の冒頭において、弁護側が「被告が芸能人であることで、報道に左右されずに…云々」の異例の申し入れ――陽動作戦が、功を奏した。

検察側、弁護側の対立ポイントはいくつかあるが、救命可能性が低かった、と証言した弁護側の医師の証言が決め手だったように思う。MDMAを服用した女性が亡くなった時間を知る立場にあるのは、押尾被告だけ。現代医学をもってしても、本件では、死亡時間を特定できなかった。押尾被告は、心臓マッサージ等の救命措置を行ったというが、119番通報をせずに、携帯電話を使って、マネージャーや知人等を現場に呼び寄せ、証拠隠滅、口裏あわせ等を行い、119番通報をしたのは、事件が起きてからおよそ3時間後だった。

裁判長は、押尾被告の証言のほとんどを信用できないと断定し、しかも、押尾被告の知人、友人等の証言から、押尾被告がろくでもない卑劣漢であることが、白日の下にさらされた。当該裁判を通じて、押尾被告の人間的欠陥や社会常識の欠如は証明できても、被告本人の「女性は急死だった」という主張を覆すだけの証拠がない。遺棄致死である疑いが極めて濃いが、検察側には、それを証明する決め手がなかった。

死亡した女性及びそのご家族に同情する。女性が薬物常習者で暴力団と関係があったということは、当該事件には何の関係もないといって過言ではない。重要なのは、容態に異変を生じた人間の傍らにいた人間が、119番通報をしなかったことだ。心臓マッサージ等の救命措置を施したというが、それも自分が薬物を飲んで事件を起こしたことの発覚を恐れてのことだ。

110番通報をすれば事件が発覚する、こりゃやばい、なんとかせにゃ、ということで、自己流救命措置を女性に施し、なんとか容態が持ち直すよう望んだ、ところが、回復の様子が見られず、焦った被告は容態が悪化する女性を放置して、マネージャー、友人等に携帯電話をかけまくった。弁護側・被告本人がまずもって行ったと主張する「救命措置」とは、発覚を恐れ、自分の手で事態の打開を図ろうとした結果であって、いわば、隠蔽工作の一環だった――と筆者はいまもって推測する。

訃報

昨晩、K叔父が亡くなったという知らせが届いた。

想定外だった。

11日に見舞ったときは意識もしっかりしていて、当分だいじょうぶだと安心していたからだ。

人の命の行方というものは、まったくわからないものだ。

2010年9月16日木曜日

2010年9月15日水曜日

小沢、完敗

う~む。民主党代表選挙の結果は、菅の圧勝。小沢が制するといわれていた国会議員票でも僅かながら、菅が小沢を上回った。筆者の予想は外れた。

革命後に訪れる反革命勢力が、革命を成功させたエネルギーを凌駕したわけだ。小沢一郎がこのまま蟄居すれば、民主党のこの先にあるものといえば、フランス革命(テルミドールのクーデター)後のブリュメールの18日(ナポレオンの帝政復活)、ロシア革命後のスターリン独裁と同じように、権力を掌握した保守的で陰湿な反革命勢力による弾圧の始まりだ。

負けた小沢一郎に期待するのは、彼が永続革命を継続することだ。もちろん、急ぐ必要はない。しばらく党内に潜伏し、自身の勢力の立て直しを図る時間も必要だろうし、党外に協力者を求める時間も必要だろう。また、この先においては、小沢一郎自身が首班を務める必要はない。小沢の意志を理解する第二世代、第三世代に永続革命を託せばいい。

今回の敗北をもって小沢が官僚独裁国家=日本の改造を諦めれば、日本の発展、成長は見込めない。菅が目指す政治は、「政治ショー」にすぎない。彼を有名にした「薬害問題」の二番煎じ、三番煎じがこの先、続くだけだろう。菅は、「ヒューマニズム」の化粧を施した弱者救済の「政治ショー」の主役を務め続けるため、官僚という悪魔に魂を売り渡したのだ。菅の演ずる「政治ショー」は小泉と同じ、ただ、演目が異なるだけ。

行政の実務的部分=ドロを被るべき部分は官僚に「まる投げ」し、その代わり、官僚の既得権益を保証し、「おいしい」ところ、「きれいな」ところ、大衆の「ヒューマニズムに訴える」ところだけを自分の「政治的成果」として、メディアに宣伝させる。失態が起きれば官僚を批判するが、官僚制度の改革には手をつけない。こっそりと、増税を行い、人々の暮らしは苦しくなり、格差社会はより、強固なものになる。それでも、大衆の痛みを感じることなく、首相の座に居座り続けようと、菅は考えているに違いない。

菅の政治姿勢を端的に表しているのが予算である。従来型の手法で官僚に予算案をつくらせ、みせかけの事業仕分けで、盲腸くらいを除去し、霞ヶ関の本丸には手をつけない。メディア受けするような、弱者、病者、高齢者等を救済するような法案をバンバンつくって国会を通し、点数を稼いでいく。菅には政治資金に係る大きなスキャンダルはおそらくないだろうから、メディアも野党も、追及するネタがない。その結果、菅政権を静観せざるを得ない。参院で「ねじれる」ような、対立軸も見出せまい。

なんとなく、平穏無事な安定した政治が続くというわけか、日本の首相が長持ちして、海外から笑われなくてすむ、というわけか。そういう物言いが、大手を振ってメディアを通じて世間にまかりとおることこそが、お笑いそのものなのだと思うが。

そうこうしているうちに、日本各所の劣化が進み、日本という病者の治療が困難になる。

だれもいない植物園

平日の植物園。

夏の終わりは、きれいな花が咲くいているわけでもなく、訪れる人は少ない。









2010年9月13日月曜日

叔父を見舞う

先日(11日)、癌で入院しているK叔父を見舞った。筆者は、この叔父に対して、筆者の親戚のなかで、最も親しさを感じている。その理由は、筆者の父母の兄弟姉妹の中で、筆者と唯一、まともな会話が成立した相手だからだ。それ以外の親戚が悪人であるわけもなく、もちろん善人なのだけれど、みな説教くさくて、うっとうしさが先にたった。

K叔父は戦後、東京都庁に就職し、組合運動に熱中した。日本の産別組合の中では、もっとも組織力があるといわれた自治労の専従で、社会主義協会(向坂派)の同盟員だった可能性が高い。向坂派は、かつての日本社会党の最左派といわれていた。しかし、日本の組合幹部は党派を問わず、その実態は労働貴族に変わりがない。

組合大会で全国を飛び回ることが多かったようで、出張の帰り、とりわけ、K叔父が若かったころは、筆者の家に泊まることが多かった。筆者の母はK叔父の姉に当たる。

家には友人を連れてくることが多く、酒を飲んで酔っ払い、軍歌、寮歌、労働歌などを歌った。筆者が大きくなってからは、筆者も酒宴に加わり、ときに、社会主義協会についての論争となった。筆者はK叔父を「スターリニスト」と呼び、K叔父は筆者を「極左冒険主義」と呼んだ。でも、論争は遊戯に等しく、なれあいで、本当に相手をやつけるつもりがない。K叔父は甥の生意気な成長を喜び、若かれしころの筆者は、知識のひけらかしで満足した。論争は結局のところ、「代々木が悪い」という落としどころで決着したものだ。

やがて、K叔父はなぜかわからないが、組合運動から足を洗い、都心で喫茶店を始めた。喫茶店の開店祝いに出かけた記憶があるが、開店からあまり時間のたたないうち、店をやめたことを母から聞いた。組合運動を止めた理由も喫茶店を閉めた理由も聞いていないが、聞くだけ野暮というものだ。

その後、中国専門の旅行社の役員、東京都の外郭団体等の顧問等をしていたようだが、数年前、癌を発病し、治療に専念した。治療はT大病院だったような気がするが、訪れた入院先は、K叔父の自宅(東京都A市)近くのA病院だった。

筆者がK叔父に親しみを感じるのは、左翼だったからではない。筆者の古いアルバムに、幼いころの筆者と、若いときのK叔父、そして、若い女性の3人が写っている写真がある。セピア色に変色しているが、女性は、K叔父にはもったいないくらいの美女だ。でも、その女性は、K叔父の奥さんではない、別の女性なのだ。

「この人、だれだっけ」と、筆者が母に聞いた。そのとき、母は「○○さんよ」と答えた。でも、いまに至っては、その名前を思い出せないし、筆者の母はすでに他界している。K叔父が結婚を意識して姉である筆者の母に紹介した女性なのか、ただの友達なのか定かではないが、筆者は、こんな美人とつきあうことができたK叔父をなお、尊敬してやまない。

2010年9月11日土曜日

正常な社会観と人間性の欠如

昨年8月、合成麻薬MDMAを一緒にのんで死亡した飲食店従業員田中香織さんを救命しなかったとして保護責任者遺棄致死罪などに問われた元俳優押尾学押尾被告(32)の裁判員裁判は、10日の検察側証人の救命救急医師の証言で、ほぼ山を越えた。

救急医は、MDMAを服用して異常が発生した場合、死亡まで数十分かかるものと考えられ、すぐに救急車を呼べば、「田中さんは若く、心臓に原因がないので、病院に運ばれた後でも百パーセント近く、9割方助けられたと思う」と、さらに、「「正常な社会観を持っていれば、救急車を呼ぶはず」と押尾被告を切り捨てたという。

この日証言した田中さんの両親は、かねがね事実が知りたい--と、押尾被告に事件と正直に向き合うことを訴えてきたという。だが、押尾被告は一貫して「無実」を主張し、裁判で争う姿勢を崩さなかった。田中さんの死亡時刻や経緯には依然、周囲の証言と食い違いがある。しかし、ここまでの証言では、押尾被告が嘘をついている可能性が高いことがわかってきた。

そればかりではない。元マネージャー、友人・知人らの証言によれば、救急車を呼べという忠告を押尾被告が再三無視したこと、田中さんの死後、押尾被告が隠蔽工作を図ろうとした様子が明らかにされた。押尾被告は元マネージャーに、「一生面倒を見るから、オレの身代わりになるよう」懇願したともいう。

筆者は、この証言だけでも、押尾被告の「人間性の欠如」について、恐怖に近いものを感じた。傍らで知人の女性が危篤状態――生死の境を彷徨っている――にもかかわらず、マネージャーや知人に携帯電話をかけまくり、救急車を呼ばず、女性の死後、自分が「無罪」になるための姦計をめぐらしていた可能性が高い。身代わりの強要、証拠隠滅、口裏あわせ…といった工作に腐心した。警察に逮捕され、留置された後も反省をすることなく、自分は「救命に尽力した」と白を切り続ける。押尾被告という男は、いったい何者なのだ、悪魔か、それとも人間の皮を被ったモンスターか…

裁判の進行とともに、押尾被告の嘘が次々とばれていく。押尾被告の罪状は保護責任者遺棄致死罪などになっているけれど、殺人に匹敵するくらいその罪は重いように思える。しかも、いまだに反省、悔恨、謝罪の様子は見受けられない。

押尾被告が裁判に臨む姿勢は、人の道から大きく外れているように見える。一部のメディアの報道では、押尾被告の人脈には、自民党の現職の大物議員の息子、民主党の元国会議員、パチンコ業界のフィクサー等がいるとされている。押尾被告は、その人脈に名を連ねている「大物たち」の力によって、裁判で争えば無実が得られるという確信があるのだろうか。

押尾被告の弁護団は、「報道に判断を左右されないように…」と、裁判員に対して、異例の要請を行ったようだが、その心配はまったくなさそうだ。明白な証言・証拠が積み重なれば、「報道に左右される」余地は生じない。押尾被告の嘘を信じ、異例の要請を裁判員に対して行った弁護団の意図は、いったいどこにあったのだろうか。弁護団も押尾被告と一心同体、人の道から外れた、モンスターなのだろうか。弁護団が押尾被告を信じた、その理由が知りたい。

2010年9月6日月曜日

『琉球弧の世界(「海と列島文化」第6巻)』

●谷川健一ほか[著] ●小学館 ●6500円(税別)



沖縄については、ヤマト人の立場から、柳田国男、折口信夫、岡本太郎、谷川健一、吉本隆明らの知の巨人たちが、自らの思想の拠点の確認対象の1つとして、積極的に言及してきた。

1960年代くらいまでの沖縄には、日本の基層を感じさせる生活風土が現存していたような気がする。1920年代、柳田民俗学において創出された「沖縄学」は、柳田が沖縄本島から先島を訪問したときの直感がそのスタートになったものと推測する。そのときの沖縄には、本土では消失してしまった「原日本」がアクチュアルにとどまっていたのではないか。

柳田・折口の「沖縄学」の確立が意味するものは何か――という反省的論及が今日まで、いくつかなされてきた。その中には、柳田は、沖縄を無条件に「日本」に取り込む思想的土台を築いた――日本を「南方」へと拡大するための植民地経営の学だったという指摘もある。柳田・折口の「沖縄学」にロマン主義的傾向を認めないわけではないが、二人が沖縄に言及しなかったならば、日本の民俗学、歴史学、文学は、いまよりかなり貧しいものとなったはずだ。

時代はくだって、米軍占領下の沖縄が日本に返還されようとした1970年代初頭、そのとき、沖縄とは何か、戦後日本とは何かが厳しく問われた時代だった。

日本の明治以降の近代化は、古代的天皇制を混合した、独自の統治のあり方を世界史上にとどめている。簡単に言えば、日本は、あの悲惨な“ヒロシマ”を経験してもなお今日まで、共和制国家を志向することがない。

1960~1970年にかけて、日本の左翼が「革命」を夢想する一方、共同体=国家論が複眼的視座で問われた。そして、そのとき、レーニンの『国家と革命』に代表される機能的国家論の相対化の思想的拠点として、沖縄が再びクローズアップされた。日本の基層をとどめる沖縄を「再発見」することをもって、日本(共同体)の国家と権力の源泉を問わんとした。そればかりではない。マルクス・レーニン主義に疲れた転向左翼の一部は民俗学に傾倒し、とりわけ、沖縄から、日本国及び天皇制を問わんとした。古琉球の原始共同体を、「(天皇制)日本」を無化する実体だと看做そうとした。このことについては、後述するが、琉球王府樹立後、その権力構造は、世俗的王権(兄)と聞得大君(妹)の司祭権とが並立する形式として完成した。エケリ(兄=男神)とオナリ(妹=女神)である。この構造は、古琉球における原始的共同体=シマの権力構造が洗練化され、王府に反映し制度化されたものだ。基層をとどめる制度は琉球王府にあり、ヤマトの天皇制にはない、ヤマトの王権(天皇制度)は、基層において、いまのあり方とは異なっていた--という確信が、その正統性を疑う根拠とされ、琉球王府のほうに正統性を感じたのである。

さて、古代倭国の王国の1つである邪馬台国について、『魏志倭人伝』は、以下のとおり記している。
■その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。■ 

卑弥呼が統治したとされる邪馬台国の王権の構造もまた、女帝(姉)=卑弥呼と、それをたすけて統治に関与する男帝(弟)の並立にあった。卑弥呼は「鬼道につかえ」というから、宗教的な儀式や卜を旨としたに違いない。日本列島の某所にあったとされる古代王国・邪馬台国の権力構造は、後年樹立された沖縄王府のそれと同一であった。女帝・男帝の並立は、前出のとおり、古琉球のシマの統治形式を始原としたものが、琉球王府に制度化された統治構造である。

(1)沖縄とはなにか

沖縄の神話、民話、伝承によれば、シマ(始原の共同体)を起こした人間は一対の男女であり、その関係は兄妹だとされる。「おなり(姉妹の神)」「えけり(兄弟の神)」である。「おなり」は守護する者であり、「えけり」は守護される者である。「おなり」は「にーがん(根神)」となって次世代に継承され、これまた次世代へと継承されたシマの行政的首長(男性)=「にーつちゅ(根人)」を守り、この一対の男女によってシマは統治される。祖先崇拝が、沖縄の信仰の根幹をなす。

「おなり」はシマにおいて「祝女(ノロ)」として、神の言葉を伝え(神の代行者となり)、ムラの神事をとりしきり、かつ、共同体の成員の諸々の相談にのったり、厄除けをしたりして、ムラの安寧を維持する。沖縄では、女性は「おなり神」として、神の代行者であるばかりでなく、神そのものなのである。

シマには、神を祀る聖地があり、それは「御嶽(うたき)」と呼ばれる。「御嶽」はシマの根神が祀られることはもちろんだが、外来の神がオボツ山、カグラ山から降誕する聖なる空間である。外来の神は、海の彼方(=二ライ、カナイ)から、直接御嶽にやってくることもあるし、立神、岬を経て、山上であるオボツ、カグラに逗留し、シマの共同体の御嶽に祖霊神とともにやってくる。

前出の「おなり」たちは、現世において、外来の神を迎え、もてなす役割を負っている。「おなり」は外来の神と同衾することもある。また、始原の人間は、海の底もしくは海の彼方(二ライ、カナイ)からシマにやってきたのだから、死後は二ライ、カナイに戻るものと理解されている。シマの神観念は祖先崇拝と並んで、外来の神を迎えるかたちもとる。

祖霊神、外来神は人々に何をもたらすのかといえば、もちろん、富や健康をもたらすのであるが、西欧のサンタクロースのように、品物をもってやってくるわけではもちろんない。だが、農耕に重要な作物の種子や農耕具は、外来の神がもたらしたものだと伝承されている。

しかし、実際は、外来神がもってくるのは物質ではなく、「セジ」と呼ばれる霊力を人々に授ける。セジはヤマトでは「タマ」であり、タマは魂もしくは霊の字があてられる。ヤマトでは、霊力を授かる儀式をタマフリといい、怨霊を抱いた死者のタマが人々に悪事を働くことを恐れ、鎮魂に励むことをタマシズメという。

沖縄、ヤマトを問わず、人力の及ばない超越的パワーを人々は常々畏怖し、尊び、また、それを定期的に迎え入れ、歓待することによって、豊作、豊漁、安寧、子孫繁栄がもたらされると信じた。このような信仰の構造は、沖縄とヤマトの基層において異なるところがない。にもかかわらず、ヤマトで発展した神道は、女神の役割を遠ざけ、神職は男性に占有されるようになってしまった。また、明治維新以降の国家神道--その頂点とされる近代天皇制度においては、天皇は男性に限定されるようになった。しかし、日本の神話時代、古代を含めて、女神、女帝はいくらでもいたし、女帝ではないが、新羅征伐に霊威を発揮したことが伝承される、神功皇后を神女の代表的存在の一人として挙げることができる。もちろん、前出の卑弥呼が、「オナリ神」でなくてなんであろうか。

また、国文学者で沖縄学の研究者である折口信夫は『大嘗祭の本義』において、真床襲衾について考察を加えている。折口の説では、真床襲衾とは、大嘗祭の秘儀中の秘儀であり、その由来は古事記天孫降臨のニニギノミコトが赤子のまま降臨するさいに包まれていた布団のことだと説明している。さらに折口は、その布団が意味するものは、天皇が降臨する稲の霊と同衾することだ、と断じたのである。折口説の正誤を判断する力量はもちろん、もちあわせないものの、沖縄において、オナリを代行する祝女(のろ)がセジ(=たとえば稲の霊)を迎え入れ、それと同衾することは自然のことである。沖縄のノロ(祝神)の役割をヤマトの基層の信仰とみなすならば、折口の真床襲衾の解釈が根拠のないものだともいえない。

しかし、いずれにしても、ヤマトと沖縄は、基層において同根の信仰を形成しながら、時の経過とともに、袂を別ったのである。

(2)沖縄神事を代表する「イザイホー」

久高島において12年に一度の午年に行われる「イザイホー」は、沖縄の神事を最も代表するものの1つだと思われる。

久高島の集落はアガリ(東)の外間とイリー(西)の久高に分かれている。久高島は、沖縄島東南部に位置するため、古くから国人の畏怖と憧憬の対象である海上他界(二ライカナイ)に最も近い地点にあるとされ、対岸にある斎場御嶽(せいふぁうたき)と並んで、王権祭祀の二大祭場とされてきた。

イザイホーについて、本書「久高島と神事」湧上元雄[著]を参照しつつ、紹介をしておこう。

イザイホーとは、端的にいえば、島の女性祭祀集団の加入者儀礼であり、ナンチューホー(成巫儀礼)とも呼ばれる。「ホー」は呪法、儀法のホー、「イザイ」は、いざる、あさる、探る、の意で、神女の適格を判定する神判の意といわれるが、また一方、審判の意をもつとされる神事「七つ梯渡り(ななつばしわたり)」の神遊び始めた乙兼(うとうがた)の童名イザヤーによる、との2説ある。

イザイホーの概要と目的を整理しておこう(神事の詳細は、本書参照のこと)。

■久高島外間村には、始祖百名白樽(ひゃくなしらたる)と母加那志(ふぁーがなしー)夫婦の伝承があり、…(略)…「兄妹始祖型洪水神話」の類型に属している。天降り(あもり)、地中出現、津波からの生き残りを問わず、人の世の原夫婦は、原母(げんぼ)より生じた兄妹でなければならないという島建神(しまだてがみ)の伝承は、沖縄の「おなり(姉妹)神」信仰の基調をなすものであったといえよう。
それは、王権祭祀における国王と、そのおなり神の聞得大君、村落祭祀の根人と根神、家の祭りのえけり(兄弟)とおなり(姉妹)との関係においても、この原理は貫かれている。現行の門中(むんちゅう)祭祀でも、ウミナイウクディ(おみおなりおこで)とウミキーウクディ(おみえけりおこで)という一対の女神役を立てて、門中の祖霊を祀っている。
久高島のイザイホー祭りにおいても、加入儀礼を終えたナンチュ(初めて神女となった人)が、そのインキャー(いせえけりの転訛。勝れた兄弟の意)と対面するアサンマーイの儀式に、

タマガエーヌ ウプティシジ ウリティ イモーネ インキャートゥ ユティキャーシ(ナンチュに憑依した始祖霊が天降って、ナンチュの男兄弟と魂合いなされた)

というウムイ(神歌)が歌われる。
「タマガエー」とは、魂が上がった者、すなわち精霊(しょうりょう)の発動したナンチュのことで、「ウプティシジ」(おぼつせじ)は天津霊威(あまつせじ)、「ユティキャーン」は、行き逢って、の意である。ナンチュは亡祖母のシジ(セジ。霊威)を継承した者の意であるから、この儀礼は、兄妹始祖の原初の時代に立ち返って、おなりとえけりが魂合いをした、ということになろう。(P365~366)■

■イザイホーは、…(略)…冬至の太陽の死と再生という危機を呪術的に克服し、新たに祖霊のウプティシジを豊かに受け、生命力満ちあふれたナンチュが参加する神遊びによって、島の共同体や、わが子わが夫の平安・延命・繁栄の願望を現実化しようとした古代祭祀だったと思われる。(P386)■

聖地・久高島において、午年の11月15日から4日間に及ぶイザイホーは、そのスケールにおいて、また神事の演出の力において、出色のものである。また、4日間に盛り込まれたそれぞれの神事が意味するところは、沖縄・ヤマトの基層の信仰のあり方を示すものともいえる。しかしながら、島の過疎化が進み、1990年、 2002年のイザイホーは中止となっていて、1978年を最後に現在に至るまで行われていない。こんどの午年は2014年であるが、そのときイザイホーが行われるのかどうか心配である。

(3)海上の道

沖縄の稲作について触れておこう。前出の柳田国男は『海上の道』において、日本の稲作は南方から、琉球弧を、海路を使って渡ってきた集団により伝えられたものだと説いた。その後、最古の稲作遺構が北九州で発見されたこともあり、「南方説」は退けられ、朝鮮ルート、華南ルートが有力視されてきた。しかしながら、稲に関する科学的検査方法の進歩にともない、学会においても、南方説が復活する兆しをみせている。

本書の「西表島の稲作と畑作」(安渓遊地[著])では、先島で古くから栽培されている稲の種類が、ジャポニカ、インディカにも属さないブル種(ジャバニカ)に属することが推定されている。また、西表島で行われてきた牛を使った踏耕(ウシクミ)という農耕手法は、東南アジア~八重山~沖縄~ヤマト(種子島、南九州)を結びつける証拠の1つとなっている。

2010年9月2日木曜日

「小沢首相」で決まり

民主党代表選に立候補した菅直人首相と小沢一郎前幹事長による日本記者クラブ主催の討論会が2日、東京・内幸町で行われた。討論会をTV中継で見た印象としては、「小沢首相」で決まり、のように受け止められた。

菅首相は現職にもかかわらず、発言に内容及び迫力を欠き、リーダーシップの乏しさを露呈した。一方の小沢前幹事長には、政治主導推進の期待を感じた。

それにしてもお粗末なのが、討論会最後に用意された、政治記者から質問の時間。内容が情緒的で、小沢=政治とカネという、自分たちがつくりあげた虚像を前提とした質問に終始した。政治記者が、検察の調べ以上の証拠や情報をもっていないのであれば、イメージやレッテルに依拠した質問は厳に慎むべきだ。

日本のイエローペーパー、ゴシップ週刊誌の類は、憶測・推測で人を傷つけ、 販売部数を伸ばしてきたけれど、一般新聞、テレビまでもがそういった手法を引きずっている。「田中角栄=ロッキード報道」で定番化した週刊誌型報道が新聞・テレビに引き継がれ、はや40年以上が経過する。田中角栄をまっとうに評価しようという動きは、日本のジャーナリズム業界では極めて少数派のものだ。

日本の大手マスコミは、米国CIAのコントロールの下にある――というのが、筆者の仮説。