2016年1月31日日曜日

谷中の火事!

本日午前10時少し前、拙宅裏手墓地を挟んだ民家から出火。

その30分後に消防により鎮火した。

その模様を拙宅ベランダより写真撮影した。

突然、古い民家が炎を上げて燃え上がった

火はおよそ30分後に消えた

消防による、鎮火後の現場検証






2016年1月24日日曜日

『フランシス子へ』

●吉本隆明〔著〕 ●講談社 ●1200円+税

日本の思想史に燦然と輝く巨星・吉本隆明(1924-2012)。その死の3カ月前、吉本の最愛の猫フランシス子が死んだ。「僕よりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった」(P3)。フランシス子という名前は吉本の次女・ばなながつけた。一時ばななに引取られたのだが、馴染まず、吉本のもとに戻ってきたという。

この猫とはあの世でもいっしょだなという気持ちになった

吉本が愛したフランシス子への慈しみの感情が溢れんばかり語られている。少しだけ紹介しておこう。

平凡きわまる平凡猫だっていえば、それが当りまえだっていう気がします。
(略)
だけど、僕とは相性がよかった。
(略)ぼんやり猫だったけど、そのぼんやり加減が僕とはウマがあった。(P10-11)
猫というのは本当に不思議なもんです。
猫にしかない、独特の魅力があるんです。
それはなにかっていったら、(略)自分の「うつし」がそこにあるっていうあの感じ・・・(P20)
死ぬ前の3日間くらいは僕の枕元であごのところや腕のところを枕にして、かたときも離れませんでした。
(略)
・・・この猫とはあの世でもいっしょだなという気持ちになった。・・・きっと僕があの世に行っても、僕のそばを離れないで、浜辺なんかでいっしょにあそんでいるんだろうなあって。(P22-23)

猫好きの者ならば、じゅうぶん了解できる思いである。とりわけ、“この猫とはあの世でもいっしょだなという気持ちになった”という言葉はいい。筆者も猫を飼っているけれど、あの世まで一緒だとは思ったことがない。

猫が自分の「うつし」とは?

フランシス子は、「毛が薄くて、触るとあばら骨の感じがわかるみたいな、痩せた印象」(P9)の猫だったらしい。前出の「うつし」というのは外見ではなく内面的なものをいうのだろうけれど、吉本本人が「(フランシス子の)痩せた体も、面長な顔も、自分とそっくりだという気がしないでもない」(P16)と外見が似ていることを認めている。

筆者は吉本と面識はないが、二度、見たことがある。最初は学生時代、某大学の大講堂で、吉本の講演会の聴講者の一人としてであった。そのときは演壇との距離が相当あったので、表情すらよくわからなかった。けれど、遠目ながらもずいぶんと痩せていて小さな人だなという印象をもった。

2度目は20年位前、暗黒舞踏家・土方巽(1928-1986)が開設したアスベスト館(2003年に閉館)のリニューアルオープンのイベントだった。吉本は中上健二と対談をした。筆者は取材の仕事だった。質問の時間もなく、黙って二人の語りを聴くだけだったのだけれど、そのときはずいぶんと至近距離で吉本を見ることができた。吉本は土方巽を評して、“土方は胎児の身体の縮み具合や、日本の農民の湾曲した脚や腰を舞踏にとりこんでいて、それは西欧近代が求めた機能的で美しい理想の身体と対極をなす”というようなことを発言したように記憶している。吉本の印象は最初のときと変わらず、やはり、痩せて小さな人だなと思った。

この吉本の「痩せている」という印象は、谷川雁が著した『庶民・吉本隆明』のなかの一節、「蝶ネクタイなど逆立ちしてもうまくない貧乏性の世代があるものだ。その貧乏な世代の貧乏神が吉本だ・・(こっち=谷川雁は)なんとかして馬小屋のかたすみで絢爛たる交響曲でも聞いてみようと苦心しているのに、妙に節くれだったやつが門口にあらわれて、棟つづきの隣家のことをわめいたり、おまえらのやっていることは幻想だとぶつくさいったりする」であるとか、「彼(吉本隆明)の文章たるや陰気で皮くさくて骨っぽくて・・・」といった辛辣な表現の影響かもしれない。とまれ、吉本の外見からは「痩せた、骨ばった」という印象が拭いきれない。

とにかく吉本は猫を愛したようだ。猫といえば直観的で、「理屈どおりいかないんですよ、猫は」(P15)といいながら・・・

夢の中のような、詩うような語り口

本書は、▽本題のとおりの愛猫フランシス子について、▽同志、村上一郎への思いから始まる戦中派論、▽ホトトギスをめぐる実在の確認の困難性について、▽親鸞について――のパートに区分される。しかし、本書ではそれらがとりとめのない吉本の語りの調子で流れていく。その流れは雑然としたものであって、もちろん論理的関連はない。

というのは、本書はもともと『十五歳の寺子屋 ひとり』という4人の男の子女の子が吉本隆明の話を聞くという出版社の企画のなかで実現したものだからだという(P120/「吉本さんへ あとがきにかえて」瀧晴巳)。あとがきを書いた瀧晴巳は、吉本の語りを本にまとめたライターである。

15歳の少年少女に村上一郎の自害の話はきついとは思うものの、そのとりとめのなさ、雑然とした流れが晩年の吉本の姿を再現するような臨場感を読む側に伝える。本書末に吉本の長女・ハルノ宵子が「瀧さんの文章は、あの頃の父の夢の中のような、詩うような語り口がよく再現されている」と評している。むべなるかな。

2016年1月17日日曜日

『老人と猫』

●ニルス・ウッデンベリ〔著〕●アーネ・グスタフソン〔イラスト〕●エクスナレッジ●1600円+税

著者(ニルス・ウッデンベリ)がどのような人物なのか、筆者は全く知識を持っていない。カバー折り返しにある著者略歴及び本文によると、医師免許を持ち、心理学と生命観における実践的研究の教鞭を執っている、スウエーデン人の大学教授とのこと。本書から、著者(ウッデンベリ)が自然科学のみならず、文学・歴史等に関しても深い教養をもった人物であることがうかがえる。

日本においても猫好きの知識人、文化人は数多い。夏目漱石、内田百閒、吉本隆明を浅学な筆者でも挙げることができる。本書では西欧のそれとして、T・S・エリオット、ジャン・コクトー、ドリス・レッシング(ノーベル文学賞受賞者)が紹介されているが、ほかにも多くの猫好き知識人、文化人がいるに違いない。

猫好きは知識人に限られるわけではない。筆者のような凡人にも猫は愛されていて、かくいう筆者も猫を2匹飼っている。だから、著者(ウッデンベリ)の猫に対する思いや描写については共感できる部分も多い一方、これはちょっと思い込みが強すぎるのではという部分もある。

猫は突然、家にやってくる

猫に関する著者(ウッデンベリ)と筆者の具体的な違いの一つは、飼っている環境である。前者は北欧の都会の真ん中に居を構えているとはいえ、あたりは自然に恵まれ、その中で放し飼い状態のようだ。広大な庭を舞台として、野ネズミを捕ったり野鳥を追いかけたり、木に登ったりしたあと、ねぐらと餌と飼い主のぬくもりを求めて家に帰ってくる。まったくもって、自由奔放な暮らしぶりだ。一方の筆者の猫たちは東京・下町のたいして広くないマンション暮らし。筆者の猫たちは家の外に出たことがない。

二番目は猫との出会いの仕方である。前者の場合は、猫が突然やってきて、“私(猫)、あなたに飼われることに決めました”とでもいうように、庭にある小屋で暮らし始めたという。寒い北欧の冬を迎え、著者(ウッデンベリ)は猫を家に入れ、キティと名付け、食事を与え・・・と、だんだんと猫と抜き差しならぬ関係を築いていく。大雑把にいえば、本書は猫に篭絡された知識人の思いの数々ということになる。
わが家の猫

筆者の場合は、家内が突然、どこからか子猫1匹を家に持ち込んだのだ。カフカ流に記せば、“ある日、帰宅すると家の中に猫がいた”。2匹目も同様に、1匹目の猫の登場から数日後に私のもとにやってきたのである。同様に記せば、“1匹目の猫がやってきてから数日後、ご婦人2人が1匹の猫を連れて家にやってきて、私に猫面接試験を受けさせ、2人が「OK」を出した結果、2匹目の猫との同居が決まった”といった次第。これらの「猫事件」は2011年のことだから、筆者の猫歴ははや5年目にならんとしている。

「猫は飼わない」はずが猫好きに

共通点もある。著者(ウッデンベリ)も筆者も猫を飼う気がなかったこと。前出のとおり、著者(ウッデンベリ)と筆者の猫との出会いは全く異なるのだが、猫を飼うきっかけは、偶然というか他動的だった。著者(ウッデンベリ)も筆者も猫に限らず、(動物を飼うことは)「責任を伴う」し、「旅行に行けなくなる」し、「死んだらペットロス」に陥るから絶対に飼わない、と決めていた。それだけではない。著者(ウッデンベリ)も筆者も幼年期は動物好きで犬やいろいろな小動物を飼った経験をもっていること。それが、少年期から思春期にかけて、“動物はもう一切飼わない”と決心したこと。

猫と人間との関係の歴史

さて、前出のとおり、猫に対する考え方や思いに関しては、著者(ウッデンベリ)と筆者の間に違いもあれば、同意するところもある。猫の神秘性、愛らしさ、不思議さ等については本書にてゆっくり味わっていただければよい。ただ本書の中で、筆者が著者(ウッデンベリ)の「猫論」にもっとも敬服した点があり、ぜひとも紹介したい。それは猫と人間の関係に係る考察である。著者(ウッデンベリ)によると、一般に猫が人間に愛される存在となったのは、西欧においては現代になってからだという。著者(ウッデンベリ)が主張する猫と人間の関係の歴史について以下に概略を示そう。

  • 猫はアフリカのどこかを原産地として誕生し、自然の中で小動物等を捕獲して生きていた時代
  • 人間の自然界への進出に伴い、猫の餌となっていた小動物は減少。その代り、人間が暮らす場所の周辺に鼠等の小動物が増加。猫は人間が貯蔵する穀物に集まる小動物を目当てに、人間界と接触を深めた(人間も猫が害獣を駆逐する益獣と認識する=猫の半分家畜化・半分野生猫化)時代

猫は野生及び半家畜状態で生きてきた時代が圧倒的に長かったのである。


西欧社会では18世紀まで猫は危険視され、「勤勉」な犬が尊重されていた

このような時代を経て、現代、世界中で猫が人間の身近な存在となったのだが、それまでの西欧では、猫は危険視される存在だったという。動物学者のカール・フォン・リンネ(1707-1778)すら「猫とベッドで寝ると人間は必ず病気になる」と評したというし、1800年代においても、「猫は鼠を捕る以外は害獣」だと動物学者のスヴェン・ニルソンは記したそうだ。そのニルソンは、「家猫によって、数匹の子羊が殺された」「ゆりかごで寝ていた赤ん坊が猫に殺された」「猫が老人を襲って大怪我を負わせた」という「事例」を紹介しているという。

この時代(1800年代)、動物の行動に道徳的意味をもたせたわけである。人間界にもっとも身近な生物は犬と猫である。犬は狩猟、牧畜、警護、愛玩・・・と、人間に無限に奉仕する。ところが猫は鼠を駆除するが、それ以外はマイペースである。勤勉な犬が尊重され、怠惰な猫は嫌われた。犬の忠実さ、人間のすべての要求に従う性格が評価されたわけだ。

20世紀初頭、自由と反抗のシンボルとして「猫派」が台頭

しかし1900年代初頭、猫に対する認識に大転換がおとずれる。著者(ウッデンベリ)はジャン・コクトー(1889-1963)がいったとされる「犬より猫の方が好きなのは警察猫というものがないからにすぎない」という言説を引用し、自由で社会的地位に無関心で反逆をよしとするインテリ層に、猫はじょじょに支持されるようになった、と説明する。

現代日本においても、自由で束縛を嫌う猫は、集団に対する帰属意識が強く人間に忠実な犬に比して、その手の人間に強く支持されている。いわゆる「猫派」と「犬派」の対立である。社会的に成功した人の多くは、勤勉(そう)に人間に尽くす犬を尊重する。そのような人は、自分に忠実な犬の行動に対して、自分に服従して仕事をこなす部下の姿を重ね合わせているかもしれない。絶対的に信頼できる犬こそが最善の友(ペット)なのだ。

一方、社会的帰属意識が薄く、自由で反抗的で孤独を好む人々にとっては、猫の勝手かつ気儘な性格や、単独行動を好み、怠惰を旨とするその姿に自分を重ね合わせようとする。猫のように生きたいと。それが「猫派」の心情である。

けっきょく猫についてはわからないことだらけ

なるほど、目から鱗である。著者(ウッデンベリ)が展開する、猫が人類に愛される理由の解説は説得力が高い。このような解説に共感される人も少なくないだろう。しかし、猫が愛される理由は、その手の人間が多数派とはいわないながらも市民権を得たことによるのだろうか。猫と人間が接触したころから、人間は猫の愛らしさ、率直さ、両義的で不思議な魅力にとりつかれたのではないだろうか。それが猫の対人間に対する戦略だったのか、生来の性格なのかはわからない。猫について理論的に説明することは不可能なのだから。猫はなにもしゃべらないのだから。著者(ウッデンベリ)もそのことを強調する。その点を含め、読後の感想としては、著者(ウッデンベリ)に同志的共感を覚えずにはいられない。2人とも、猫にいとも簡単に篭絡された人間であることだけは確かであり、そこがかけがいのない共通項であり、多くの猫派の自覚だからである。

2016年1月11日月曜日

カルチョッフォとオリオ ディ オリーヴァ

イタリア・ミラノ在住のYさんが帰国のおり、拙宅に宿泊していった。

そのときのお土産がカルチョッフォ(アンティチョーク)とオリーブオイル。



2016年1月10日日曜日

『戦争の谺 軍国・皇国・神国のゆくえ』

●川村 湊〔著〕 ●白水社 ●2800円+税

昨年(2015年)は戦後70年に当たったため、アジア太平洋戦争及び戦後についての論文が各方面から多数発表された。加えて安倍政権が推し進めた臨戦態勢構築(安保法制)についての議論も国民的規模で噴出した。昨年は“戦争・戦後論”の花盛りの年となった。本書刊行もおそらく、その脈絡にあるのだろう。

本書巻末の初稿一覧によると、本書掲載論稿は、著者(川村湊)が1996~2006年にわたって著したものの集成である。内容としては、▽敗戦直後論、▽戦中論、▽戦後論、▽戦争(戦中・戦後)文学論――に分類される。(※各稿タイトルは本文末目次に掲出)

〝70年余の戦争の時代″と〝70年の「平和」の時代″

わが国の対外戦争の発生を歴史年表で調べると、明治維新(1868年)以降に頻発することは小学生でも知っている。それ以前の対外戦争といえば、豊臣政権が朝鮮等に出兵した「文禄・慶長の役」(1592-1593、1597-1598)、そして、元寇(モンゴル軍来襲)とよばれる文永の役(1274)、弘安の役(1281)まで遡る。

明治維新前、日本はおよそ600年間に2度の対外戦争しか行っていなかったのだが、明治維新以降、▽日清戦争(1894-1895)、▽日露戦争(1904-1905)、▽第一次世界大戦(1914-1918)、▽シベリア出兵(=ロシア革命干渉/1918-1922)、▽アジア太平洋戦争(日中戦争/1937-1945、太平洋戦争/1941-1945)と戦争を常態化させた。しかもその間、日韓併合、台湾統治といった、近隣諸国に対する植民地支配も行った。

とまれ1945年8月、日本は連合国に無条件降伏する形で終戦を迎え、以来70年間、「平和」状態を継続させ今日に至る。およそ400年間の「平和」の時代、維新から77年間の戦争の時代、そして、アジア太平洋戦争敗戦から70年間の「平和」の時代を経て、日本はこの先どうなるのだろうか――という素朴な疑問を抱えつつ本書を読んでいった結果、おぼろげながら、その答えが見えてきた。その答えは、かなり悲観的なものだったのだが――その理由については後述する。

間違って生きたのか、なにも変わらずに生きたのか

本書の書評としては、池田浩士の「運命と定めて責任問わず」(東京新聞書評欄/2015年11月22日)が、管見の限り最も的確なものの一つだと思われる。「私たちは戦後を間違って生きてしまったのではないか? これが、本書を貫いて流れる基本的テーマだ」と、池田はいう。

本書に係るこの言説は、1868年以降の日本の戦争の時代(77年間)と1945年以降の敗戦後の時代(70年間)をふり返った時、そこにいかなる連続性と非連続性(断絶)が見て取れるのか――と換言できる。池田浩士のいうように、“間違って生きてしまった”のか、それとも“変わらずに生きてしまった”のか。池田浩士がいうように前者ならば、選択を誤った結果という自覚性が認められ、多少の救いが見いだせる。だが、後者ならば、戦争も戦後も自然過程にあり、この先永遠にアジア・太平洋戦争に係る反省、否定の契機を失ったまま、すべてが肯定されて日本人は生きることになる。日本史における、戦前、戦争、植民地支配、敗戦、平和、天皇制ファシズム、戦後民主主義・・・そして、生と死すらも〈自然〉に溶解する。先に悲観的な見通しと述べた所以はそこにある。

本書の最初の論稿(「トカトントン」と「ピカドン」)には、以下のとおりショッキングな事実が書かれている。

栗原貞子は書いている。「占領下の21年8月6日、『原爆を忘れて復興しよう』と被爆者の苦しみや遺族の悲しみをよそに、どのような乱痴気騒ぎが行われたか。町内会はシャギリ、山車、俵もみ、仮装行列などを行って『ピカッと光った原子のたまにヨイヤサーとんで上った平和の鳩よ』と3日間踊って歌ったのである。
まだ、瓦礫と焦土のままのヒロシマの街に、花電車が走り、山車が繰り出され、仮装行列が練り歩いて歌って踊ったというのは、何か悪夢のなかの幻想の出来事のようにも思えるが、事実だった。(略)原子爆弾という「人類最終兵器」が、「世界平和恒久平和」を作り出すというマジック。しかし、あろうことか、広島の生き残った市民たち(日本人たち)は、そうしたアメリカと日本の支配層が共同製作した大マジックに拍手喝さいを送ったのである。(P14~15)

米国(軍)によるヒロシマへの原爆投下は、大量殺戮であり戦争犯罪である。当時の広島市の人口35万人のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したという(「WikiPedia」より)。米国が自らの犯罪を隠蔽し合理化しようとも、日本人ならば永遠に、原爆投下した米国に対する憎悪を拭い去ることはできないはずだ。しかし、著者(川村湊)の驚きのとおり、広島市民は、原子爆弾を、平和を作り出した“原子のタマ”として崇めたのだ。

この驚きの行動を解明するカギは、第一に、戦争責任を回避する思考回路であり、第二に、戦争を〈自然〉と同一視する日本人の戦争観である。これらが自らの戦争責任及び戦勝国米国の戦争犯罪を追及する姿勢を去勢してしまった。

日本人にとって戦争・敗戦とはなんだったのか

著者(川村湊)は本書「ああ、長崎の鐘が鳴る」において、キリスト教信仰と天皇崇拝を融合させた戦前派クリスチャンの永井隆の著作にふれて次のように書いている。

天皇も国民も、等しく戦争の犠牲者なのであり、国民の苦難と苦痛を天皇も共にしている。国民に、今回の戦争を引き起こした責任がないとしたら、天皇にもそれはないのであり、あるとしたら、それは国民みんなにもあるのだ。それが「一億総懺悔」という現象の底にある思想にほかならない。
それは昭和天皇やその側近としての官僚、そして軍人・政治家・産業人たちを免責し、免罪する根拠として存在する。昭和天皇の「人間宣言」のなかにある「朕(=天皇)と爾等(=国民)」の〝麗しい″関係は、昭和天皇までも「戦争犠牲者」として規定し、その戦争責任を免責するという永井隆のような「現人神」観に基礎を据えられていた。(P48)

著者(川村湊)は、本書「戦後文学者のアジア体験」において、文芸評論家の井口時男が、“『黒い雨』は井伏鱒二の最大の天地異変小説である”という断言を受けて、被爆小説として高名なこの文学作品について次のように書いている。

「黒い雨」の場合、天地異変は、世界を地平から横殴りに照らし出した一瞬の強烈な光と爆音爆風、広島上空にむくむくとたちのぼった巨大なキノコのような、あるいはクラゲのような奇怪な形の雲、そして雷鳴響く黒雲の下の黒い雨の夕立、としてあらわれる。
(略)
「天地異変」であり、「怪物」であるようなもの。これが広島の「非戦闘員」の庶民たちが受け止めた「原子爆弾」についての、きわめて優れた文学的描写であることは間違いないが、それがまた総力戦に巻き込まれた日本の国民たちの戦争に対するとらえ方の「限界」であることを示している。
(略)
・・・もちろん、「戦争」は「天変地異」の出来事であったとしても、天災そのものではない。それは自然災害のようにやむをえないものではなく、人為的に、人工的に引き起こされる災害であり、「原爆投下」のように明らかにそれに関与し、決定し、実行した人間がいる「人災」なのである。(P262-263)

このような日本人の態度は、3.11と同時並行して勃発した福島原発事故に対するそれに通じている。3.11は大地震及びそれによって引き起こされた大津波自然災害であるが、福島原発事故は明らかに人災であり、電力会社及びそれを監督する政府の防災対策におけるミスから発生した。ところが、政府及び電力会社はその責任を問われることがない。マスメディアも自然災害のごとく報道し、国民もそれらを容認している。

戦後の「歪み」と「ねじれ」の淵源

著者(川村湊)は日本の戦後体制に係る結論を次のように書いている。

戦争は、第一義的には交戦権をもち、宣戦布告ができる者、それをした者が全責任を負うべきものである。だが、日本の戦後はその最高責任者を、すなわち昭和天皇裕仁を免責することから始まった。連合国側に「国体護持」の条件を受け入れさせようとして、いかに「無条件降伏」の受諾を悪足掻き的に遅らせたか。もし、日本の戦後社会に「歪み」や「ねじれ」といったものがあるとすれば、その淵源はそこにあるはずだ。戦争の幕を上げ、戦争の幕を引いた者に「戦争責任」がないのだとしたら、その上意下達の軍隊組織における絶対的な命令により、そして、その下賜された武器によって戦争を行った者たちに、責任や罪責など生じようもないのである。戦後の「無責任体制」の「ねじれ」や「歪み」を象徴しているのは、まさにこうした最高責任者としての昭和天皇が免責されるという、超法規的な時代・社会の出発点にあるのである。(P298)

著者(川村湊)が下した結論に同意する。そのとおりだと思う。ただ戦争直後、天皇を免罪することで自らを免罪することにした――というのは、疲弊した敗戦国民の主体的かつ選択的行為だったのだろうか。

戦後すぐの天皇の「人間宣言」、平和憲法制定等の民主化路線については、米国(GHQ)と日本の戦後体制を率いた政治勢力との間における利害関係の共有の結果、すなわち、巧みな占領政策としての性格が色濃い。日本国民を支配しコントロールするツールとして、(人間)天皇制度と戦後民主主義を合体させて機能させることが必要だった。そしていまなお、日本国は占領軍(米国)とそれに従属する勢力のコントロール下にある。その一方、それを下支えしているのが、日本国民が戦前から不変に維持するメンタリティーである。

日本国民の不変のメンタリティーとは、戦争中、「一億一心」「進め一億火の玉だ」「進め一億」「一億玉砕」を叫び、戦後は、「一億総懺悔」「一億総白痴化」を経て、戦後70年の昨年(2015)には、「一億総活躍」が安倍内閣の経済政策(アベノミックス「新三本の矢」)として提唱されている。言葉尻ではなく、「一億」で国民を一律に束ねたい安倍政権の政治姿勢を積極的に批判する国民世論が湧きあがらない。

「一億・・・」に代表される全体主義、前出のとおり、戦争をも〈自然〉に韜晦させてしまうロマン主義、そしてそれらの頂点に君臨する天皇制度――これら「三本の矢」が、日本の戦前、戦中、戦後を通貫している。そしていま、日本(人)は確実に、新たな戦争に向けて歩を進めている。

本書本題は『戦争の谺』とある。谺とは音や声が山や谷などの側面にぶつかって跳ね返って聞こえる現象をいう。この現象を媒介するのは木に宿る霊、木の精霊だという。日本において、戦争を媒介するのが日本人にとりついた全体主義、ロマン主義、天皇崇拝の霊ならば、それらを除霊する思想的営為こそが国民一人一人に求められている。

〔目次〕
Ⅰ 「トカトントン」と「ピカドン」-復興ヒロシマ論
Ⅱ ああ、長崎の鐘が鳴る―復興ナガサキ論
Ⅲ 沖縄のユーリー-敗戦後オキナワ論
Ⅳ 「鬼畜米英」論
Ⅴ 「八紘一宇」論
Ⅵ 天皇と植民地の子供たち
Ⅶ 天皇とセヴンティーン
Ⅷ 国家は鎮護することができない
Ⅸ ゴジラが来た!
Ⅹ 戦後文学者のアジア体験
Ⅺ 事変化の“戦争文学”
Ⅻ 軍旗と勲章

2016年1月6日水曜日

新年会

学生時代からの友人と拙宅にて新年会。

一年に一度会うかどうかという関係だが、疎遠という気がしない。


原発被害アピールのウエアに身を包むY君

2016年1月5日火曜日

寺町(谷中)の正月

谷中は寺町であって、仏教において新年は格別なものではない。

とはいえ、各寺院は新年の装いをこらす。




新年とは無関係

2016年1月1日金曜日

Happy New Year 2016

新年あけましておめでとうございます。

元旦の朝のささやかな食卓。

今年が良い年でありますように。