2019年11月22日金曜日

森保更迭まったなし

サッカー日本代表(森保ジャパン)が危ない。森保が監督を兼任するU22日本代表がコロンビアに0-2で完敗(11/17)、W杯アジア2次予選ではアウエーでキリギスに0-2で勝ったものの内容は悪かった(11/14)。次いで日本で行われたベネズエラ戦は1-4の惨敗(11/19)。この試合は、元代表、Jリーガー、A代表控え組で臨んだ試合だったので接戦になると予想されたけれど、これほどの大差になるとは思ってもいなかった。一方、U22代表はA代表にも選手を送りこんでいるベストメンバーで臨んだ試合だっただけに、ショックは大きかった。

仕上げてきた相手には勝てない日本

この3試合に共通しているのは、相手がコンディション調整をして試合に臨んだこと。キリギスはホームだから当然のことだが、遠路はるばる南米から来日した2チームがきっちりと仕上げてきたのには驚いた。コロンビア、ベネズエラとの2試合は、現状の代表の力を計るに誠に適正なテストマッチとなった。

森保批判なしは代表ブランドの低下の証左

直近の日本代表の3試合の結果ならば、マスメディア、代表サポーターから代表監督更迭の大合唱が起きても不思議ではないはずなのだが、反応は鈍い。かつての外国人監督であるハリル、ザック、オシム、ジーコ、トルシエ・・・に向けられた厳しい批判は森保には向けられていない。

なぜなのか――その第一の理由は、日本代表ブランドの低下である。日本のスポーツ業界では、世界大会であるラグビーW杯とプロ野球のプレミア12があって、どちらも日本代表が好成績を上げた。この2大会に比べれば、サッカー日本代表試合とはいえ、親善試合及び格下相手のアジア2次予選への関心は薄くなる。試合があったことを知らなかった「サッカーファン」も多かったと聞く。

森保に魅力なし

このような外在的要因のみならず、森保という人間に魅力がないことが第二の要因である。前出の外国人代表監督にはメディアを通じてだが、日本(人、文化…)とのあいだいに緊張関係があった。彼らが外国人であるため、異文化との遭遇に緊張を強いられた結果だけではない。彼らには、緊張関係を生み出す言葉があった。トルシエの「フラット3」、オシムの「ポリバレント」、ザックの「自分たちのサッカー」、ハリルの「縦に速いサッカー」。ジーコには言葉はなかったけれど、彼の現役時代の実績が緊張感を与えた。

一方、森保はどうだろうか。彼の試合後のインタビューは、Jリーグの試合の後の監督と変わらないほど淡々としていて、面白みがない。世界のサッカーと相渉るために森保はどんなサッカーを目指しているのか。少なくとも筆者には、いまだにそれがわからない。代表選手選考についても森保の描く戦略・戦術から逆規定された結果だとも思えない。調子が良い、ネームバリューがある、得点を上げた…選手がなんとなく代表に呼ばれ、なんとなく試合をして解散していくだけの日本代表チームなのである。

東京五輪の準備はできていない

2019年秋冬は、A代表のスケジュールからみれば閑散期である。しかし、五輪代表にしてみれば来年に五輪を控え、戦術の徹底、メンバーの見極めにおける重要な季節のはず。五輪代表がどんなサッカーをするのか、期待をしていたサッカーファンは少なくなかったはずである。このまま森保が五輪代表とA代表の監督を続けることは危険極まりない。五輪で敗退、A代表でアジア予選落ちという、日本サッカー界、最悪の結果を招くこともあり得る。

森保を批判できないマスメディアと代表サポーター

森保に対する批判が抑制されている別の理由は、マスメディア及び代表サポーターが日本人監督を熱望していたから、という側面を否定できない。自分たちが望んだ日本人監督をおいそれと批判できないとうわけだ。

しかし、日本サッカー協会が日本人監督を選んだのは、協会内の権力闘争の結果にすぎない。これまで日本代表に外国人監督を招聘してきたのは原~霜田のライン。原が先の会長選で田嶋(現会長)に負け、原、霜田は協会を追放された。二人を失った日本サッカー協会には外国人監督を招聘するコネクションを同時に失ってしまった。つまり、森保監督就任は、外国人監督を呼べないから日本人監督という消極的選択にすぎなかった。

日本人サッカー指導者は世界レベルに達していない

日本サッカーが国際的になったことを筆者も認めるが、それは選手レベルであって、指導者(とりわけ監督業)については三流レベルにとどまっていると思っている。たとえばJリーグにおける監督更迭の後任にコーチが就任するケースが多いことに戸惑っている。監督業とコーチ業は全く異なる職業であるはずだが、監督経験のないコーチが即監督に就任する日本サッカーの常識が信じられない。欧州、南米のリーグではほとんどない。

世界の一流リーグで指揮を執った日本人監督は皆無

そればかりではない。選手レベルでは欧州の一流リーグ(イングランド、スペイン、ドイツ、イタリア、フランス)で活躍する選手も見られるようになったが、監督は絶無であり、その実現可能性はもしかしたら半世紀では果たされないように思うほど低い。そのことからみて、日本代表チームにはまだまだ、外国人監督の力が必要なのである。岡田や西野がW杯で実績を上げたという意見もあるかもしれないが、4年間、チームづくりからアジア予選を戦い抜いてベスト16に勝ち上がった監督は日本人、外国人を問わずいない(トルシエは日韓大会代表監督だが予選免除。岡田はオシムの後任の南アフリカ大会代表監督、西野はハリルの後任のロシア大会監督)。

いまなお日本人選手に必要な外国人監督からの外部注入

森保に日本サッカーを世界に導く経験はない。海外の代表と戦術で相渉る力量もない。彼にあって外国人監督にない能力は、日本語力だけである。それがチームの親和性を高めたりチームの相互理解を深めることはあっても、実力は上がらない。いまの日本選手には外国人監督による外部注入を必要としている。

2019年11月13日水曜日

旧友の誕生日にしてわれらの結婚記念日

というわけで、かつての谷中「よっとくれ」の同志たちがお祝いに駆け付けてくれました。

ありがとう。



2019年11月2日土曜日

日本版「FEMA」の可能性

東日本を襲った台風19号の被害状況が今なお報道され続けている。一日も早い復興を祈るばかりである。

治水が王であるための条件

世界4大文明(インダス川、ナイル川、黄河、チグリス・ユーフラテス川)の歴史が示すとおり、河川は氾濫により人々を恐怖に陥れる一方、肥沃な土壌をもたすことで富(農業生産力の向上)を築いた。そのことが、文明発達を促進してきた。国を治めるということは、治水、灌漑、すなわち河川をコントロールすることだった。そのことが為政者、王たるための要件であった。

治水ができない日本の首相

翻って日本の現政権(そのトップ安倍)をみると、河川の氾濫に無策である。このことをもってしても、安倍は為政者トップの資格がない。もちろん、諸々の点で彼は総理大臣である資質に欠けているのだが。

国交省河川局は無為無策

今日、日本の災害対策は崩壊している。大型公共事業を仕切る国交省、とりわけ同省河川局は利権の草刈場と化していて、住民の安全を守るための事業を疎かにしている。気象庁は警報を発するだけ。「命を守る行動を」という呼びかけは間違ってはいないが、具体性がまったくない。災害がふりかかったときの避難方法、および、被災後の救済については市区町村(地方自治体)任せ。国が動くとしたら、自衛隊の派遣にとどまる。市区町村の職員はよくやっていると思うけれど、市区町村レベルのヒト、モノ、カネには限界がある。要するに、災害に対する総合的司令塔の不在、すなわち、災害に対して一貫した対策を取れる組織が日本にはない。

米国におけるFEMAの創設とその失敗

そこで思い出されるのが米国のFEMA (アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の存在である。FEMAは1974年、カーター大統領により大規模災害に対処するため、連邦政府(大統領)直轄の省庁横断的組織として創設された。その後、ブッシュ政権時代の2003年、国土安全保障省に編入され、2005年の大型ハリケーン、カトリーナの被災に及んでは全く機能せず、今ではその存在は忘れ去られた感がある。

アメリカにおけるFEMAの失敗は、大統領直轄から国土安全保障省への編入という「格下げ」が主因なのか、ほかに原因があるのかについては、研究の余地がある。とはいえ、いまの日本の大規模災害無策状態を脱するため、「日本版FEMA」の創設は有効か、という議論があって然るべきだと思うが、そのような雰囲気はいまの日本にない。その理由は、新自由主義の強い影響化にある日本、すべてが「自己責任」で片付けられるからである。加えて、役所を大きくすることに対する懸念、税金のムダ使いという批判の空気が強まっているからである。

日本では省庁横断的組織は機能しない?

「日本版FEMA」創設に対する懸念の根拠はそればかりではない。日本でも新設の横断的省庁は成功しない事例が多いことである。霞が関に新設される横断的省庁は、各省庁からの出向者で構成される。出向者は本籍の利益を誘導することが行動原理となるため、本来とるべき国民優先の政策が実現しにくい。


災害対策に不向きな霞が関の職員たち

もう一つ、霞ヶ関の職員は秀才揃いだが、かれらは調整力や事務力は高いが、災害現場に出かけて行って汚れ仕事をしたり、臨機応変に物事に対処する能力はなきに等しい。つまり災害現場で力を発揮できるような資質に欠ける者がほとんどである。

さはさりながら、『日本版FEMA」がアメリカで創設された当時のように大統領直轄、日本ならば首相直轄の省庁として創設されるならば、はかりしれないメリットがある。


そのメリットとは、先の台風19号来襲のときのように首相がラグビー観戦するようなことは絶対にできなくなるし、いつぞやのように、豪雨予報が発せられるなか、首相が取り巻きと都内で高級フランス料理を食するようなこともありえなくなる。

前出のとおり、日本版FEMA(緊急事態管理庁)のトップは安倍首相その人なのだから。

2019年11月1日金曜日

首里城焼失

10月31日午前2時41分、世界遺産の首里城跡に復元された正殿で、火災報知器が反応し、警備会社から「火が出ている」との通報があった。

消防車約30台、隊員約100人による大規模な消火活動が行われたが、火の勢いは弱まることはなく、正殿と北殿、南殿など計7棟が消失。午後1時半ごろに鎮火した。

オキナワはヤマトの基層

首里城の焼失は誠に残念であるが、少し見方を変えて、オキナワのもつ歴史的、民俗的重要性についてふり返ってみよう。

吉本隆明の『南島論』にあるように、沖縄王朝の祭祀はヤマトの天皇制度が継承するそれの先行形態を保持していた。ヤマトの天皇は男系だといわれているが、元をただせば、女王が霊的権威を司り、男王が俗的権威を司るという、二元的権威で構成されていたのである。このことは『魏志倭人伝』の倭の女王(卑弥呼)に係る記述によって裏づけられる。沖縄も、そしてヤマトも、本来、霊的権力は女系が司っていたのである。

大嘗祭の本義

折口信夫の『大嘗祭の本義』によると、天皇霊の継承の儀礼は、次期天皇(皇太子)が女性化して稲霊(男性)と同衾することで受け継がれるという。一方の沖縄では、聞得大君(沖縄神道最高神女=ノロ)と呼ばれる霊的最高権威者の霊威継承は、沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において行われ、その就任の儀式である「御新下り(うあらうり)」は、琉球の創造神との契りである聖婚(神婚)儀礼と考えられている。折口のいう、稲魂との同衾と同一である。ヤマトの場合は、天皇が女性〈性〉と男性〈性〉を兼ねるところに特色がある。

首里城とは何か

沖縄史の一時代、琉球王国の栄華を象徴する復元施設・首里城のこのたびの焼失は前出のとおり誠に残念であり、悲しい現実である。しかし、見方を変えれば、首里城は中華文明を強く意識してつくられたいわばハコモノものであり、沖縄の古来の祭祀、信仰を重視する愚生の思いに比べれば、その心の痛みはそれほどではない。

沖縄の信仰の聖地である本来の御嶽は、森のなかにひっそりと、簡素なただ小ぶりの石が数個置かれただけの狭い空間にほかならない。豪勢な王宮とはほど遠い。

消失するオキナワの言語、祭祀、秘儀

愚生の憂いは、例えば、斎場御嶽から臨まれる神の島、久高島の祭礼の「イザイホー」の消失であり、石垣島などで行われる「赤また、黒また」といった秘儀の消失がささやかれる今日の情況であり、そしてヤマト語によるオキナワ方言の駆逐である。これらはハコモノではない、沖縄の人々の生活過程、幻想過程、基層的価値観に基づいて息づいてきたものだと確信する。首里城の焼失は残念であるが、オキナワはすでに消えつつある。