2022年12月13日火曜日

Revolution+1

 日本外国特派員協会主催の『Revolution+1』の試写会に行った。同協会会員の友人の同伴者枠を使わせてもらった。

この映画は安倍晋三を暗殺した山上徹也の生涯をドキュメンタリー風に仕上げたフィクションである。

上映後、プロデューサーの藤原恵美子、監督脚本の足立正生、主演の田本清嵐が、同協会会員のピオ・デミリアのMCによる記者会見に応じた。

会見で足立監督も認めていたけど、独自取材はしていないという。山上とその家族に関する情報は既に報道されたものの可視化(映像化)にとどまっている。

だが、足立はフィクションとして、幾つかの架空のエピソードを加えている。それが何かはネタバレになるから、公開できない。

また、この映画には意外な切り口がある。もちろん、それもネタバレになるから公開できない。記者会見で足立が胸を張って強調していたので、映画鑑賞の際には、そこに注目すべきだろう。そのことについては、今後、各方面で議論されるかもしれない。






脚本・監督の足立正生


主演の田本清嵐

MCのピオ・デミリオ



れいわ新選組はどこへ行く

 


 このたびの「れいわ新選組」(以下「れいわ」)の代表選挙。候補者の顔ぶれをみるかぎり、話題づくりと評されて仕方がない。大げさに考える必要はないという、冷笑的見方もあろう。だが、筆者は「れいわ」という政党の理念、同党が目指すところといった、本質を問う機会のように思われてならない。 

 

SNSに現れた右翼政党「れいわ」という批判 

 

 Twitterにこんな「れいわ観」が投稿された。 

 

古谷某の会見を見ると、れいわが右翼政党というのがよく分かる。本人たちも否定しないだろうが。でも真の愛国心など論じだした時点で、この国の多数派が安住するところの天皇を頂点とする差別構造は絶対に手放さないぞという意思表明とみるべきだろう。  

日本を立て直せじゃなくて、日本(=天皇や日の丸に象徴されるところのならず者国家)を潰せという人間でないと信用できない。  

天皇を擁護しながら、歴史修正主義に抗うとか、差別に反対だとか、🐎🦌(バカも休み休みというか、強盗殺人犯が生命の大切さを訴えるようなもので全く信用できない。必ず論理破綻する。  

真の愛国者の方々、自分たちは日本会議に代表されるような疑似保守とは違う、ヘーカもそういう連中を快く思っていないだと天皇に自分の願望を投影する。でも一切の政治的権能を持たないはずの天皇が自然人としてどういう「オキモチ」持ってようがどうでもいいこと。それとも天皇主権を復活させたいの?

 

 「れいわ」の代表選に古谷経衡が立候補したことに関する、匿名(PP氏)のツイートである。「れいわ」の事務局の説明によると、代表選への立候補資格は、「れいわ」に所属する国会議員1名以上の推薦があればいいという。つまり、「れいわ」内に〈保守〉を名のる古谷経衡と政治理念を共有する国会議員がいるということになる。それが誰かはどうでもいい。  

 「れいわ」について抱くイメージは支持者のなかでもまちまちだろうか。この政党は、国民に負担を求めず高福祉を実現しようとする政治集団だと考え、支持する者がいる。また、党首山本太郎が、国会で政府を容赦なく批判するさまをみて、痛快さを覚える者もいる。同じく山本が貧困者に対して無言で炊き出しをする姿にに共感・感動する者もいる。ここで共通するのは、党首山本太郎が体現する「れいわ」の現場主義、弱者に対する心遣いといった姿勢が世代を超えた「れいわ」支持の基盤をなしていると考えられることだ。すなわち、「れいわ」=山本太郎は倫理的であること、正義の側であること、弱者とともにあることだ。 

 

「れいわ」はノンセクト・ラジカルの幻影か

 

 その典型をなすのが団塊の世代の一部の層である。彼ら彼女らは、「れいわ」は日本における「1968年革命」の学生運動である全共闘の、いや、全共闘というよりもノンセクト・ラジカルのほうがいい、ーー そのノンセクト・ラジカルの幻影を見る。山本太郎とノンセクト・ラジカルの共通項は倫理的であろうとする態度である。ノンセクト・ラジカルは自己否定を掲げて政治参加した。大学生である自分たちが関係の絶対性において支配層に属していることに自覚的であったゆえ、それを否定することを確認したうえで体制批判、異議申し立てを行った。たとえば、平和憲法を是としながら、ベトナム戦争において米軍に加担している日本国への批判である。米軍に随伴する日本、換言すれば、戦後民主主義の絶対的矛盾を隠蔽しつつ平和や民主主義を語る支配層およびその同伴者である既成左翼、進歩的知識人らを批判(攻撃)の対象とした。  

  「れいわ」もまた、既成左翼とは一線を画している、いや、画してきた。いわば「孤立を求めて、連帯を恐れず」である。これは谷川雁の表現だが、ノンセクト・ラジカルは自分たちの置かれた、いや、自分たちを自ら孤立に追い込んだ状況をロマンティックに谷川の言説を借用して表現した。「れいわ」の孤立奮闘ぶり、野党第一党である立憲民主党との決別は、かつての前衛批判と相似的でさえある。 

 

「れいわ」の転換点 

 

 このたびの代表選は、「れいわ」にとてつもなく大きな亀裂を生む可能性を秘めている。自称保守の古谷経衡の立候補である。 

 代表選告示記者会見(文字起こし)によると、党外から立候補して話題を集めている古谷経衡が自らの立候補理由として、①自分は「れいわ」の基本的理念を共有する者であること、②「れいわ」しか、希望・期待が持てる政党がないこと、③しかしながら、「れいわ」は左派ポピュリズム政党という不当な評価を世の中から受けていること、④自分の理解では、「れいわ」こそが真の保守政党であること、⑤自分の政治姿勢である保守とは、人々の生活や暮らし、あるいは伝統等を守って、より良い社会に発展していこうという姿勢であること、⑥自分が代表になって、「れいわ」を左派ポピュリズム政党という不当な評価から脱却させ、真の保守政党、真の愛国者政党を目指すために様々な努力、党内改革を行っていこうと思ったことーーなどを表明した。また併せて、現状、保守とか愛国とか名乗っている者は胡散臭い似非保守であり、「れいわ」が本当の保守政党として羽ばたくには、自分のような外部の民間人が党を指導していけば中道的に見えることを挙げている。要は、自分が代表になって、「れいわ」を中道保守政党にモデルチェンジするというわけだ 

 

保守とはなにか 

 

 論を進める前に、〈保守〉を規定しないと誤解が生じる。古谷が言うように、日本会議や『月刊Hanada』などに集まる者も保守を標榜している。このグループも日本の伝統、古き日本の良さ、愛国を前面に出す。たとえば、「日本的家族主義」を遵守するという立場から、同性婚、夫婦別姓といった新しい家族制度のあり方に徹底的に反対する。そして、このグループの最大の特徴は対米従属を是とすることである。そこで、このグループを便宜上、「対米従属保守」と名づける。  

 その一方、古谷経衡、一水会らが目指す保守主義は、前出の通り、《保守とは、人々の生活や暮らし、あるいは伝統等を守って、より良い社会に発展していこうという姿勢である》といい、《真の保守、真の愛国者》を標榜するのであるが、「対米従属保守」と対立する論点は対米自立である。それゆえ、沖縄米軍基地を筆頭とする国内米軍基地撤去、日米安保条約の再考も視野に入ってくる。少なくとも日米行政協定の見直し、おもいやり予算廃止といった、あからさまな対米従属政策は即座に否定されよう。よって、古谷経衡の保守を「対米自立保守」と命名しておく。 

 

古谷経衡の「天皇」 

 

 この二つの〈保守〉に共通項はないのかというと、そんなことはない。古谷経衡は天皇(制)について、《天皇の必要性を1つだけ言うと天皇陛下は国民のシンボル。天皇陛下がいなかったら独裁者が出て「俺はこの国のシンボルになる」って奴が来たらとんでもない。皆さん頭の中にパッと浮かびますね「あの人」が国のシンボルだと言われたらとんでもないですね。こういう事を防ぐ》と主張しているので、天皇に関するかぎり、「対米従属保守」といまのところ変わらない。もっとも、「対米従属保守」が政権を取り憲法を改正し、象徴天皇制を改変して君主として絶対的権力を付与することになれば話は変わってくるが。  

 なお蛇足ながら、古谷経衡の天皇観を大雑把に批判するならば、これほど幼稚な「独裁論」を最近、あまりみかけない。戦前・戦中の日本では、天皇と政治家、軍部、官僚がもたれ合いながら、独裁国家を形成していたのであって、日米開戦時の総理大臣である軍国主義者・東條英機による独裁ではなかった。天皇制度は、独裁者の出現を抑止もしくは防止することができるような機関ではない。天皇が存在しようがしまいが、専制的、独裁的支配は可能なのである。 

 

「れいわ」は分裂するのか 

 

 「れいわ」のなかに、対米自立保守主義者が出現したことは筆者にとって驚きである。これをもって、党内分派が形成されたみるのは早計かもしれないが、「れいわ」のイメージの転換にあたる。だが、そのこと自体はけして悪いことではなく、「山本太郎個人商店」からの脱皮、個人崇拝・神格化が阻まれることにつながる。しかし、そうなるかどうかは、「れいわ」の党員等諸氏の判断に委ねられるわけで、それを見守るしかない。 

 「れいわ」内の政治的状況としては、山本太郎の下、一枚岩の党を是とする者か、その逆に、戦略的政党ではなく、予示的集合体を是とする者か、そのどちらかが多数を占めることになる。前者ならば、古谷は追放されるし、後者ならば、古谷が自由にその保守ぶりを党内から発信することになる。第三の可能性は、代表選に負けた古谷が「れいわ」との関係を清算することだ。この場合は、党内変化はなく現状維持である。 

 古谷とその推薦者たちが目指す「保守へ」という党勢拡大戦略は観念上容易に思えるのだが、筆者の直感からすると、かなり難しい。その理由を誤解を恐れず大雑把にいえば、有権者は、対米従属、対米自立を問わず、〈保守〉を梃子にして支持に傾くことはないからだ。古谷の保守主義を理解したうえで、「れいわ」支持を表明する有権者は少なく、むしろ、古谷の保守的言説が体制批判を緩めたように受け止められ、これまでの基盤票であった左派ポピュリストの支持を失う。リアルの政治(投票)においては、〈保守〉と左派ポピュリズムはトレードオフの関係にある。〈保守〉を引き入れて党勢を拡大するという戦略は、おそらく「れいわ」にとって、マイナスに作用するものと筆者は考える。 

2022年12月9日金曜日

砧公園

 世田谷美術館は広大な砧公園(旧砧緑地)にある。






祈り ・藤原新也(世田谷美術館)

 藤原新也の写真を中心とした表現展(写真、絵画、書、文筆)に行ってきた。

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と題された、インド・バラナシの火葬場で撮影された藤原の写真は衝撃的だった。

彼は780歳になったいまでも旺盛に表現活動を継続中である。