2014年7月29日火曜日

Nスぺ、「STAP細胞 不正の深層」

7月27日に放映された、「NHKスペシャル/『STAP細胞 不正の深層』」を見た。同番組を見た筆者の印象は以下の4点に集約される。


  1. 小保方晴子の「STAP細胞」に係る実験及び論文に不正があった証拠は概ね、そろっていることが確認できた
  2. 小保方の不正を許容しないグループが理研内部に存在している(理研内部の反小保方グループが同番組の制作に協力している)ことが確認できた
  3. 「小保方単独犯」ではなく、理研ぐるみの不正である(この問題のキーパーソンは笹井芳樹である)ことを確信した
  4. 小保方にフォーカスしすぎることは、「木を見て森を見ず」


1.不正の証拠

不正の証拠とはすでに報道された、マウスの差し替えやES細胞の混入等の事項である。純文系の筆者はこれらの証拠について詳論できない。ただ、提示された証拠は、科学コミュニティからのものである以上、小保方は科学者・研究者として、科学的に回答する義務がある。ところが小保方は弁護士を立てて引きこもるばかり。小保方が科学者・研究者ならば、それらの指摘に対して、自由に討論する場を設けてもいいはずだ。小保方の弁護士は、科学的指摘をすべて、「リンチ」「言いがかり」等の非科学的言語で退けようとしている。このような頑迷な態度は、科学が本来もつべき自由で創造的な議論、検証の場の創造を崩壊させる。

小保方は小保方で、乱暴なメディアの取材を恐れるかのような素振りで、代理人の法的権威の向こう側で沈黙するばかり。自分に非がないのなら、不正の証拠として提起された事項に対して正々堂々と反論するなり、議論したらいい。

2.理研内「反小保方勢力の存在

同番組において、理研の内部資料のコピー等が明らかにされた。小保方が若山研究室からES細胞を盗んだことを窺わせる証言や、小保方と笹井の「親密メール交換」までもが公開された。正直、これらの映像には驚いた。NHKが独自取材で集められるものではなかろう。

3.不正のキーパーソンは笹井芳樹

笹井は、理研再生科学総合研究センター副センター長の職にあり、小保方の「STAP細胞」論文の作成を全面的に指導したと言われている。また小保方と個人的に親しい関係にあり、情を通じていたとされる。再生科学分野の世界的権威者の一人であり、研究者としての実力、実績、知名度において、小保方をはるかに凌ぐ。小保方は海外の科学雑誌に2度ほど投稿しながら採用が見送られたが、笹井が論文作成を指導した途端、雑誌『ネイチャー』に採用され、それがこの問題の発端になったことはよく知られている。

笹井ほどの実力者がなぜ、小保方の不正に気が付かなかったのか――というのは誰もが抱く疑問である。笹井の説明では、実験過程は若山、論文作成過程は自分(笹井)だと単純に割り切きって抗弁しているが、科学論文は一般文書の校正、添削や、広告宣伝パンフレット・カタログ等のグラフィックデザインの手なおし作業ではなかろう。

同番組では、笹井は小保方の不正を承知していたことを示唆していたが、筆者もその視点に同意する。不正がばれれば、自分の科学者としてのキャリアに傷がつくし、それ以上の最悪のケースも想定されたはずだ。それを承知で、なぜかくも高いリスクをとったのか想像しにくいが、もしかしたら小保方への特別な感情と功名心が絡み合った結果かもしれない。人間は説明のつかない行動をとることがないわけではない。それが転落への道であったとしても。

4.「STAP細胞」問題発生の舞台

同番組の後半、あ、この問題の舞台となったのが、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(所在地:兵庫県神戸市中央区港島南町)、すなわち、神戸のポートアイランドであったことを再認識した。筆者はこのことを軽視していた。

Wikiによると、
ポートアイランドは、神戸市中央区、神戸港内にある人工島。1966年に六甲山の土で埋め立てが始まり、その後、2005年には神戸空港が新たにつくられた。
開島に合わせ、1981年(昭和56年)にポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)を開催。その後の地方博ブームのさきがけとなった。また、街開きにあたって博覧会を開催するという手法は横浜博覧会(横浜市・みなとみらい21地区)など各地で用いられるようになった。
阪神・淡路大震災の際には、島内全体が液状化現象で水浸しになって至る所に段差が生じた。市内の需要をカバーするため、一期地区に大量の仮設住宅が建設される。神戸大橋も橋脚にズレが生じただけではなく、水道管2本のうち通水していた1本(もう1本は将来需要を満たすために作られたもので通水されていない)が陥落して人工島の防災上の弱さを露呈した。
その後、一期地区は、その港湾施設の統合に伴って島の西部で旧バースの売却が行われ、神戸学院大学、神戸夙川学院大学、兵庫医療大学の3大学がキャンパスを新しく開設した。さらに、重機販売会社や中古車販売会社が集積して輸出を行う巨大中古車市場も設けられている。震災後、二期地区は土地の売却が進まずに問題となり、神戸市は、神戸医療産業都市構想を立案して医療機関や関連企業の誘致を図っている。その結果2009年(平成21年)8月現在では、理化学研究所など11の研究関連施設と158の医療関連企業が進出し、国内最大級の医療クラスターとなっている。2002年(平成14年)には三宮地域と神戸空港を結ぶ重要な都市軸上に位置している西側の区域が、「神戸ポートアイランド西地域」として政令による都市再生緊急整備地域に指定されている。

筆者の記憶で正確さを欠くが、ポートアイランドは華々しく「まちびらき」をした後、当時、神戸の有力な地場産業であったアパレルメーカー各社が本社を移転させ、〝ファッション都市神戸"の顔となった。ところが、ファストファッション等の台頭により、日本のアパレル産業に地殻変動がおこり、神戸の同産業は、ほぼ壊滅状態に陥った。1980年代の最盛期、ポートアイランドに十数社集積していたアパレルメーカーのうち、今日、残っているのは、ワールドほか数社にすぎない。

それに代わってポートアイランドに集積されたのが、前出のとおり、理化学研究所再生科学総合研究センターを中核とした医療研究機関と関連企業であった。同番組が報じているように、現在、理研同センターの別棟の建設が進められており、同時に医療関連企業の誘致も進んでいるようだ。

同番組によると、笹井は研究者として有能であるばかりか、国、企業との折衝能力に長け、一研究者という枠組みを越え、マネジャー、コーディネーターとして活躍しているという。笹井の役割は、研究費の支援要請であろう。笹井が問題発生後、マスメディアを集めて記者会見を行ったが、そのときの態度は自信に満ち溢れていた。彼は国、地方自治体、企業等との折衝の場数を踏むことで、交渉力を鍛え上げたのだろう。とりわけ資本との折衝は厳しいものがある。メディア関係者の手ぬるい追及など、笹井には恐れるに足らずだったのではないか。

われわれは、「STAP細胞」問題をみるとき、どうしても小保方晴子という、特異な小悪魔的キャラクターにフォーカスしがちである。その不正に目が行きがちである。それはそれで仕方がない。研究不正や論文不正が許されるはずがない。だが、小保方は、国、神戸市、理研が一体化した国策推進に偶然か必然かわからないが、巻き込まれた駆け出しの研究者にすぎない。

笹井の関与のエネルギーもその一環である。そしてその国策は、いま現在、アベノミックスとして肥大化し、強力なものとなっている。アベノミックスが立ち上がる前、神戸市は前出のとおり、神戸医療産業都市構想を立案して医療機関や関連企業の誘致を図っていた。この構想に後付けをしたのが、アベノミックスが掲げた国家戦略特区の一つ「医療等イノベーション拠点、チャレンジ支援(関西編)」であり、成長産業としての「医療産業都市構想や新たな市場の創出」であろう。後者の具体例として、▽世界共通の課題に取り組む中での新たな市場の創出 → 最新医療機器の認証の迅速化、最先端の研究開発を総合的に指揮する機関の創設 等が挙げられており、主要な成果目標(KPI)として、「医薬品、医療機器、再生医療の医療関連産業の市場規模を2020年に16兆円(現状12兆円)に拡大する」とある。

「STAP細胞」とはもちろん、再生医療の分野に属する。理研、笹井、小保方らが進めた研究は、まさに国策中の国策に格上げされたのだ。いや、笹井は格上げされたからこそ、「STAP細胞」にのめりこんだに違いない。そこにアベノミックスが掲げた「女性の活用」を加えてもいい。だから、6月12日に発せられた、「研究不正再発防止のための提言書」にあった、再生センターの解体(その物理的解体)はもちろんあり得ない。それは国策及び神戸市(ポートアイランドのテナント誘致計画)に反するからだ。

幕引きは、理研と小保方の談合的和解か

今日、科学研究とは、言うまでもなく、純粋に自立して存在することはできない。資本・政治に従属して、その方向性はいかようにも左右される。ときには、その結果までもが捻じ曲げられる。日本においては、その中立性・客観性を担保する制度、機関等は貧弱である。そればかりではない。原発事故や原発再稼働をみても、「安全性」に係る基準は、科学的判断だけに委ねられていない。

今日の科学者は、自分のしたい研究をするわけではない。研究の優先順位の第一は、資本のニーズにこたえることであり、政治もその手助けをする。「STAP細胞」はまさに、資本と政治が望むものだった。そこに「不正」が暴走する源があった。

理研が小保方を処分しない、いや処分できないのは、裁判闘争に至れば、不正に連座する者が数人の幹部に及ぶことを恐れているからだろう。加えて、国策にもひびが入る。小保方側(弁護団)は、理研を告発できる材料(証拠)を、小保方の不正の証拠を上回る数、揃えていることだろう。だから、理研(その背後にある国と神戸市)と小保方の間の落としどころは、和解である。しかし、このまま和解に至れば、理研の規程に反するばかりか、不正の解明抜きの談合ということになり、理研は研究機関としての信頼性を大いに損なう。

つまり、いま現在、理研と小保方の力関係において優位にあるのは、小保方の側であって、理研ではない。理研が優位に立って和解する条件は、小保方がこだわっている「STAP細胞」の実在を切り崩すことである。つまり小保方が検証実験に参加し、それが作製できなければ、小保方の劣位は決定的なものとなる。だが、そう簡単に結論に至らないで引き延ばし作戦がとられるにちがいない。ひきのばしの期間とは、事件の風化であり世間が関心を失うまでとなる。この問題が忘却され風化するに、そう長い時間はかかるまい、1年か2年で十分だろう。それまでの間に理研は組織と予算の拡大に成功し、ポートアイランドにおいては、先端医療関連企業のテナント誘致が進んでいる。処分を保留された笹井は、マネジャーとして、コーディネーターとして、これまでと変わらず、その手腕を発揮し、一方の小保方は一人、理研の隔離された実験室に閉じこもり、存在しない「STAP細胞」の再現実験をもくもくと繰り返し続けるというわけだ。

2014年7月25日金曜日

アギーレに期待しない

サッカー日本代表監督にメキシコ人のアギーレが就任する。8月に来日し、9月に予定されている国際親善試合(ウルグアイ戦/5日、ベネズエラ戦/9日)の指揮をとるという。

それに先立ち、日本代表(日本サッカー協会=JFA)はアディダス社との大型のスポンサー契約に合意している。また、このたびの親善試合も日本代表のメーンスポンサーであるキリン社の冠大会。かくして日本代表は、2018年ロシアW杯の開催に向けて、いつか来た道を歩みだす。

アギーレ・ジャパンは短命?

筆者の直観を申し述べれば、アギーレ・ジャパンは短命に終わりそうな気がする。なぜならば、アギーレが日本代表を取り巻くマーケティング的状況を理解することはあり得ないと思うから。おそらく、彼は純粋なサッカーの指揮官であって、大手広告代理店とJFAが共管する日本代表に嫌気がさし、早々に指揮を放棄すると思う。

逆に言えば、アギーレが監督を続けている状況とは、日本代表がブラジル大会と同じ状況にあることを意味する。ものわかりがよくなったアギーレとは、自身のサッカー哲学から外れ、代理店主導のカネまみれの日本代表のあり方と妥協している状況をいう。アギーレ一人に、JFAと代理店を黙らせる力はないだろう。

キリン杯のために「海外組」が犠牲に

さて、欧州のトップリーグの2014-15シーズンの開始日をみると、イタリアが8月31日、イングランドが16日、ドイツが22日になっている。前出のキリン社の冠大会は、欧州各国リーグの開幕直後に組まれている。日本代表の「海外組」がこの時期に欧州から日本に帰ってきて親善試合をすることで、彼らのコンディションを上向かせる要素は見いだせない。

キリン杯がFIFAの公認の大会だったとしても、「海外組」が日本に戻ることは、クラブにとっても選手にとっても、きわめて大きなマイナス行動となる。選手とクラブの間における拘束に係る契約の詳細を知らないが、なによりも、「海外組」にとって重要なのは、所属チームのレギュラーポジションを獲得すること、試合に出場することだ。開幕直後にチームを離れることのマイナスは計り知れない。

レギュラーこそが代表の条件

ブラジル大会惨敗の要因の一つに、代表主力選手が試合に出ていないことが挙げられる。いくら練習でフィジカルを上げても、公式戦では通用しない。代表強化の最善策の一つとして、個々の選手が、所属チームでリーグ戦という公式試合において、勝利に貢献すること、真剣勝負の経験を積むこと。これらのことがらは、ブラジルW杯惨敗によって、確認済みの事項だったはずだ。

日本のプロ野球には、「ブルペン・エース」という言い方がある。ドラフト上位で指名され、期待された投手。練習では素晴らしい投球をするものの、いざ試合に出ると制球を乱したりして勝てない。そうこうしていくうちに、チャンスが与えられなくなり、球界から去っていく。才能があっても、試合で発揮できなければ、プロではやっていけない。つまり試合で結果を残すことがプロスポーツ選手の最低限の存在証明なのだ。資格、過去の実績、ネームバリューやマスメディアの露出度ではない。

日本の海外組は「ブルペン・エース」と同じようなものだ。彼らはJリーグで活躍し、海外クラブと契約に至る。しかし、海外クラブでは試合に出られないまま、「海外組」という「資格」において日本代表入りする。彼らの役割は、海外クラブの広告塔、日本国内におけるCMタレントである。

公式試合で鍛えられていない精神と肉体は、W杯という真剣勝負では通用しない。むしろ、日本のJリーグでレギュラーをはっている選手に劣る。前者がブラジルにおける本田、香川、長谷部、長友、吉田であり、後者が大久保、山口、青山だった。

「海外組」の数少ないレギュラーでありながらブラジルに行けなかった2選手

「海外組」でレギュラーでありながら、W杯の代表選手に選ばれなかった事例もある。この事例は、ブラジル大会惨敗を検証するうえで、きわめて重要なものだ。代表選考に不正があったとは言わないが、選手の実力とは異なる力学が選考過程に作用したことの傍証となる。

ブラジル大会日本代表に残れなかったハーフナーマイクは、W杯後、オランダ1部からスペイン1部のコルドバに移籍した。彼はオランダ1部フィテッセに所属し、2年連続で10得点以上を記録した。オランダで実績を残しているハーフナーが代表から漏れ、イングランドやイタリアで1~2点しかとっていない「海外組」が、なぜ代表に選ばれたのか。

もう1人は、細貝萌だ。彼はドイツ1部ヘルタベルリンに所属し、13-14シーズンに33試合に出場している。その一方、日本代表キャプテンの長谷部は同じくニュルンベルグでわずか14試合の出場にとどまっている。しかもシーズン後半は故障であった。どちらが、ドイツ1部で活躍していたかは、その成績こそが物語っている。

筆者は、ブラジルW杯開催直前の代表選考発表の日から、繰り返し、ハーフナーと細貝が選に漏れたことに疑問を呈してきた。ザッケローニが代表監督を退いた今、その理由を技術委員長(現専務理事)に明らかにしてもらいたいものだ。

アギーレが真の監督の仕事に全うできる条件

さて、アギーレである。アギーレがJFAと広告代理店の横槍を退け、普通の代表強化に取り組むチャンスが皆無というわけではない。わずかではあるが、アギーレが代表監督の職を全うできる条件を挙げておく。

その第一は、日本惨敗の主因を日本のサッカージャーナリズムが真剣に取り上げ、その是正に向けたキャンペーンを行うことだ。つまり、日本国民が、日本代表のこれまでのあり方に疑問を呈すること。そうなれば、アイドル的な代表人気をつくりあげてきた広告代理店が、これまでとってきた日本代表に係るマーケティング戦略を後退させる可能性もないとは言えない。

そうなれば、国際親善試合に対する価値相対化も現実化する。親善試合に勝ってもそれが実力測定には当たらないという認識の一般化だ。親善試合とは、いわばボクシングの公開スパーリングのようなものだ、ということが国民レベルで理解が進めば、国民の関心のあり方が変わる。相手は練習不足かつ体重コントロールもしていない。交代枠は6人だから、ヘッドギア着用と同じだ。勝った、負けた、の話ではない。代表とは名ばかりの中身が知れれば、国民は不当表示だとJFAを糾弾するだろう。チケット代を返せと。

第二には、日本代表がブラジルで惨敗した結果、代表選手のタレント価値が低下したことだ。「海外組」に対する期待度、好感度は下落した。つまり、彼らをCMタレントとして起用する意味がなくなってきた。代表選手の媒体露出は低下し、JFA(広告代理店)も代表選手起用について、監督を束縛しなくなる。もちろん、キリン社及びアディダス社の影響は残るだろうが、ブラジル大会前ほどではないだろう。代表監督は代表選手の選出及び起用における自己裁量権はザッケローニのときよりも拡大する。

“アギーレ”は代表祭りが始まるぞ、の大号令

しかし、こう書きながらも、アギーレ日本代表監督就任の媒体の取り扱いを見る限り、筆者が挙げてきた条件とやらも怪しくなる。一部メディア(ネット及び活字媒体)には総括なしの監督選びを非難する見出しも散見するが、TVがまるで駄目だ。“アギーレ”は、これから4年間、代表祭りが始まるぞ、の大号令に聞こえる。

結論を言えば、9月のキリン杯までに外国ブランドの代表監督を就任させることが、(スポンサー様のため、広告代理店のために)JFAにくだされた大命令なのだ。4年後のロシア大会に期待できない。

2014年7月21日月曜日

行田、さきたま古墳群、氷川神社、川越

行田古代蓮の里


さきたま古墳群


氷川神社


小江戸川越



2014年7月20日日曜日

権力の側にある者は罰を受けない――小保方晴子問題と忍び寄るファシズムの暗い影

筆者は小保方晴子と理化学研究所が引き起こした「STAP細胞」問題について、あまりに軽く考えてきたことを深く反省する。「小保方劇場」というタイトルも金輪際使用しない。この問題は筆者が思っていた以上に深刻化し、かつ、いま日本国で起きている諸々の修正主義的傾向の一環となって表出している。それは倫理・正義・法体系といった、国家と国民に対する最低限の縛り・約束事の崩壊を伴う社会の変質の象徴である。端的に言えば、小保方晴子を免罪しようとする勢力の台頭は、ファシズム(的支配体系勢力)の台頭と換言できる。

理研は小保方の処分を留保し、理研復帰を容認

拙コラムで触れたとおり、小保方らの「STAP細胞」論文は撤回され、その前後に若山および理研内部研究者等の調査・検証により、「STAP細胞」の実験結果にも不正・捏造があったという客観的証拠が公表されていった。このままならば、小保方が「自白」をせず弁護士を立てて引きこもっている以上、理研が小保方に処分をくだし、それを不服とした小保方が法廷闘争にもちこみ、えんえんと裁判が続くのかな、そうなれば、われわれが知らない理研と小保方の怪しげな関係も明るみに出て、それはそれでおもしろいのかな、と理研の処分発表とそれに対する小保方側の反応が出る日を心待ちにしていた。

ところが、政府(文科相)・改革委・理研(野依理事長)の三者が、「STAP細胞」の存在に係る検証実験について、小保方の参加を支持しだしたころから、法廷闘争の雰囲気が消え、承知のとおり、実際に小保方が期限付きではあるが理研に復帰してしまった。理研は自ら備えた規程を自ら逸脱し、小保方に対する処分言い渡しを留保した。

早稲田大、博士論文調査委の驚愕の詭弁

その一方、7月17日、小保方の「博士論文」をめぐり、早稲田大学の調査委員会(委員長・小林英明弁護士)は、小保方の博士論文に数々の「問題点」を指摘しつつも、小保方の行為が「学位取り消しの規定にあたらない」と結論付けた。その説明はいかにも不自然で、草稿をあやまって提出してしまった、という小保方の言い訳を全面的に受け入れての検証結果であった。「学位取り消しに当たらない」という結論が先にあって、それを正当化するための詭弁で構成された、驚きの内容の調査結果であった。もちろん、最終的に判断するのは早稲田大学であるから(本日=7月20日現在)、「学位取消しに当たらない」と決定されたわけではないが、調査委の結論を大学が覆す可能性はない。つまり、小保方はここでも処分を免れた。

小保方の理研復帰(検証実験参加)と、早稲田大学(調査委)の「学位取り消しに当たらない」という判定には密接な関係がある。両者に共通するのは、いずれもが「小保方は処分されない」という、「STAP細胞」問題の最終結論に向けた、露払い的役割を担っている点である。

小保方は「STAP細胞」問題で処分されない――その論拠は

論文が取下げられ、不正の状況証拠が出揃っている以上、ノーマルな社会ならば小保方のクロが確定し、組織の規程に従って処分される。犯罪ならば法律で裁かれる。自白がなくても証拠によってシロ、クロが判断される。小保方の場合は、大学が定めた規程及び理研という政府系研究機関が具備する規程に従う。もちろん、不服があるときは規程ではなく法律に委ねることもできる。法廷闘争である。

だが小保方の場合は大学で処分を免れ、理研でも免れそうな状況にある。このことは明らかに、尋常ならざる圧力が小保方を処分する側(早稲田大学・理研)にかけられていると考えることが自然であろう。尋常ならざる圧力とは何かといえば、国家権力以外にない。なぜ国家権力が小保方を守るのか。

国策の誤りは「なかったことにする」という修正主義が横行

それは、国家が国家にとって不都合な事件、事案は、すべからく“なかったこととする”からだ。修正主義である。「STAP細胞」研究は国家プロジェクトであった(現在もそう)。それは理研という日本国直営の研究機関において発想されてものだからだ。国策の一環なのである。ところが承知のとおり、それは見事に頓挫し、世間の笑いものになった。理研(の一部機関の)解体までが提案され、小保方とその周辺の幹部研究者との醜聞までが公表されるに至った。これ以上のマイナスが及べば、すなわち、小保方及び論文共著者等が理研により処分されれば、国家の威信を著しく損なう。それだけは避けよう、というのが小保方を処分しない側の本心である。

原発事故、平和憲法、侵略行為、アジア太平洋戦争までもが修正される

この構造は「原発」と同じである。原発は国策であり、福島原発の事故は国家にとって、“あってはならない”ものだった。だから、「事故はなかったものとする」というのが日本国の基本姿勢である。この姿勢は政党・政権を問わない。「STAP細胞」問題も論文取下げで決着し、すべて「なかったものとする」というのが、国家の姿勢であり、その姿勢を堅持するために小保方は、不正を問われることなくいま、理研に復帰している。

原発事故においても、東電、経産省ほか、原子力発電の安全基準を審査してきた諸々の機関・委員会等に関わった者の責任が問われることはない。そしていま、福島原発事故は風化しつつあり、マスメディアによって、それがなかったこととする、記憶と記録の封じ込めが進行している。

日本国憲法についても同じような修正が加えられている。集団的自衛権行使容認が憲法改正を経ずに閣議決定で「合法化」されてしまう。満洲国建国、アジア諸国への侵略、アジア太平洋戦争の開始、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下もなかったこととする。「東京裁判」「戦後民主主義」「不戦の誓い」「戦争放棄」「永久平和主義」もなかったこととする。そればかりではない。日本人の戦没者数310万人の犠牲さえもなかったこととされようとしている。筆者にとって一世代前の人間がたかだか70年余前の戦争で310万人も亡くなったのである。そのことを忘却して、集団的自衛権の問題は議論できないのではなかろうか。現政権によって進行している日本国家の再編作業は「歴史修正主義」を基本としている点において、中国・韓国の指摘は間違っていない。

国策を担う者は処分されない

第二点目は、小保方が国家の側の人間であるからである。このことは前段の同義反復である。国家の側に属する者というのは、国策を担う者なのだから、同じことだ。だから処分されることがない。国家公務員、政治家、経営者、研究者、教育者・・・ジャンルを問わず、国家の側に属する者に官憲等の力は及ばない。ところがひとたび反権力側に押し出されれば、ジャンルを問わず排除される。その最適事例が田中角栄であり小沢一郎であり田中真紀子であり、鈴木宗男であり、佐藤優であり、ホリエモン・・・である。

小保方晴子が国家に属するようになったのは、彼女が発想した「STAP細胞」故であり、それに国家権力が捩じりより、小保方はもちろん国家の敷いた路線で彼女なりに頑張った。その頑張り方は実験結果の捏造、論文における画像の切貼り・無断転載など滅茶苦茶な作法を伴い、科学者倫理を逸脱したものに満ち満ちていた。だが、その仕事ぶりを糺す者は、少なくとも理研という政府系研究機関にはいなかった。学位論文でも然りである。早稲田大学が小保方の論文を適正に審査していたならば、彼女のキャリアはいまとは違ったものとなっただろう。そこに問題の出発点があったという者もいるが、筆者はそうは思っていない。早稲田でなくとも、どこかの大学が彼女の博士論文を通していただろう。(多少の時間的ズレはあったかもしれないが。)

小保方を止められなかったのは、日本各所の原発建設が止められななかったことと同じであり、事故後の原発再稼働の動きを止められないのと同じ構造である。

小保方晴子が備える「政治家」としての資質

国策にのった「STAP細胞」は国策により発信され、小保方の不正の発覚により頓挫した。しかしその張本人小保方を国家が処分することはない。これも噂だが、彼女の資質――科学者よりも「政治家」としてのそれ――を見越して、自民党が小保方を参院選候補者に立てるという説もあるらしい。

思えば、あれだけの状況証拠が後日明らかになりながら(本人は百も承知で)、「STAP細胞」はある、200回以上も製作した、と大勢のメディア関係者の前でミエを切った小保方の度胸と厚顔ぶりは、日本の「政治家」としての資質を十分に備えている。

科学コミュニティからの科学的指摘に一切耳をかさない忍耐力、いや鈍感力も然りである。政務調査費の使途を問われて絶叫号泣した兵庫県議会議員と比べてみれば、その存在感は圧倒的である。おまけに、いわゆる「女子力」とやらも備えているらしい。小保方が着用した洋服は売れるという説も聞いたことがある。つまり、これほどのタマはそう簡単に見つかるものではない、というのが選挙のプロの目なのではないか。自民党の比例代表名簿の上位者になれば、まず落選はない。自民党の比例代表獲得票数の増加も期待できる。

小保方が選挙に立候補するまで「STAP細胞」検証実験は終わらない?

もちろん、選挙戦まで、「STAP細胞」のあるなし(検証実験結果の公表)は留保され続ける。見つからない条件を挙げ続けてその修正を大義として実験を引き延ばせば、おそらく何年でも留保は可能である。何年もしないうちに、「STAP細胞」の不正も捏造も人々の記憶から消える。処分されない「女子力」の高い小保方晴子の虚像だけが人々の前に国会議員候補者として蘇るのである。それは筆者には悪夢に等しいが、そう思わない有権者の方が圧倒的多数だろう。小保方が日本の国会議会になったとしたら、まさに世の終わり(終末)である。

2014年7月18日金曜日

日本代表サッカーの暗部と深部

管見の限りだが、もっとも簡潔にして的確なサッカーW杯ブラジル大会の日本代表についての論評は、レビー・クルプ(元セレッソ大阪監督)のそれだろう。

筆者は全面的にクルプの論評を支持するし、そのとおりだと思う。ただ、クルプはその立場上、日本サッカー、なかんずく代表サッカーが陥っている構造的問題についての論及を控えている。彼には、日本において仕事をする機会がまだ残されているからだ。彼はセレッソ監督時代に現マンチェスターUTの香川真司を育て、次いで清武弘嗣、柿谷曜一郎、山口蛍を育てて代表に送り出している。その手腕については、だれもが認めるところ。だから、クルプを代表監督に推挙する声すらある。日本のサッカー協会との関係悪化は望むまい。

日本サッカー協会の問題点

(一)協会の担当者は責任をとってまず辞任すべき

というわけで、クルプが触れなかった日本代表の問題点である。まず、協会がブラジル大会惨敗の責任をとろうとしないことだ。もちろんまだ検証の段階だという言い訳はとおる。そう簡単に敗北の原因究明はできません、という主張もありだろう。しかし、負けたことは事実なのだから、協会として、敗退が決定した時点で代表強化の職にあった者は辞任すべきだ。いきなりトップというわけにはいかないだろうから、まずは技術委員長が辞めるべきだ。

W杯南アフリカ大会終了後からブラジル大会に至るまでの4年間、技術委員長が日本代表を実質上マネジメントしてきた。その具体的一歩が代表監督選びであり、ザッケローニの招聘であった。ザッケローニの代表監督招聘は結果的には失敗だった(失敗の詳細については後述する)。

(二)誤った強化策

次に問われるべきは、強化策のあり方であり、その失敗の構造改革なしでは先に進めない。なかで重要なのが、強化試合の組み方だ。日本代表が日本国内で海外の代表チームと行う親善試合(=強化試合、練習試合)のあり方だ。

親善試合は(TV視聴率が高く、また、種々のメディアの注目度が高いため)広告代理店にとってドル箱のイベント(マーケティング上の)になっている。そのため、海外の代表と銘打って、調整不足の海外「代表チーム」が強行日程で試合をするケースが軒並みだった。しかも、日本と欧州等のサッカー日程の違いから、有力選手が集まらないケースも少なくなかった。それでも試合開催時には国歌が演奏され、大使等が観戦に訪れ、代表戦の体裁だけが整えられる。

それだけではない。代表戦というだけで盛り上がる日本の脳天気「代表サポーター」が多数集まり、公式戦さながらの応援をしてくれる。メディアもやってくる「海外代表」の実態を報道しない。有力選手が不在でもそのことを報じない。

玉石混交の「代表」選手で構成された「代表チーム」が日本にやってきて、日本代表と試合をするだけで、サッカー協会には巨額のカネが集まり、代理店にとっては価値の高いイベント(コンテンツ)として高く売れる。TV局は高視聴率が取れ、印刷媒体も売れる。日本代表の国内親善試合は、概ね日本の勝利で終わり、スタジアム、あるいはTVの前の「代表サポーター」が満足する。

協会、代理店、メディア、「サポーター」の4者にとってウイン・ウインの国際親善試合だが、もちろん日本代表チームの強化には結びつかない。加えて、欧州から日本に帰国する日本代表の「海外組」も長距離移動でコンディションを壊しクラブでのレギュラー争いに負ける要因となる。つまり、カネもうけにはなるが、代表強化には何の益もないのが「国際親善試合」の実態なのだ。こんなことは、サッカーを知る者には承知のことだが、カネの力には勝てない。このビジネスモデルを協会が諦めなければ、代表強化は無理だ。なぜ、海外組がたかが親善試合に呼ばれるのか、そのことは後述する。

(三) メディアに巣食うサッカー「解説者」を自称する“太鼓持ち”たちを一掃せよ

サッカー解説者と称して、いったい何人の“太鼓持ち”コメンテーターがTV出演したことか。中継中に大声で叫ぶだけの応援団的なコメンテーターの方が多数派だ。根拠のない対戦予想が花盛りで、「3-0」で日本勝利が定番化している。うち幾人かはサッカー解説をする者もいるものの、いずれ日本サッカー協会等から「お声」がかかる身だから、日本代表を批判する者は極めて少数派となる。

例外はセルジオ越後ただ一人。彼は日本サッカーに対して実にクールな立場を堅持し続けている例外的存在だ。セルジオ越後がいまの立場を堅持できるのは、サッカー協会やJリーグに取り込まれる可能性を自ら否定しているからだろう。セルジオ越後を除いたコメンテーターは就職がかかっているのだ。

この状況を換言すると、日本には専門職としてのサッカーコメンテーターは、セルジオ越後以外存在しないということ。もちろん、サッカーを専門的に扱うメディアもない。前出のとおり、代表サッカーを支配しているのは大手代理店である。メディアは代理店に隷属しているから、代理店が(コンテンツとして)大切にしている日本代表を貶めるような記事・報道を控える。

だれからも、どこからも批判の矢が飛んでこないのが、日本代表という存在なのだ。代表は大手広告代理店のメディア支配に守られている。この体制を脱して、日本代表を自由に批判し、その問題点を糺すようなメディア環境(サッカージャーナリズム)が日本に醸成できれば、日本代表のあり方は、そう長い時間を要さず、変えていけるかもしれない。

ブラジル大会前、“太鼓持ち”の多くは、日本代表がグループリーグを悠遊突破し、ベスト8に入ると予想していた。景気づけのつもりなのか、本心なのか、保身なのか・・・代表というお座敷を盛り上げるのが彼らの仕事なのだからそれはそれで仕方がないとはいえ、根拠のない楽観論にはウンザリ。彼らを一掃することも、代表強化の周縁的事業の一つとなる。

大手広告代理店の負の影響力

(一)スポーツメディア支配から、代表支配へ

その実態について確実な取材していないので、以下の記述は推定にすぎない。だが、そう考えた方が自然だと思うので書いておく。その根拠は以下の4点だ。
  1. 日本代表試合が広告代理店にとって有力なコンテンツになった
  2. その結果、無益な海外チームとの親善試合が国内で興行目的のイベントとして仕掛けられた
  3. メディアも大手代理店の意向をうけ、代表批判を控えてきた
  4. W杯はその総集編とも呼ぶべきビッグイベント
大手広告代理店がW杯までに仕込んできたものとは、日本代表の価値を高めることだ。その結果、日本代表は国民的支持を得て、その動向には、国民的関心事にまで高まった。代理店はそれを事業化する。代表選手のCM(タレント)起用である。代表試合に出場する選手、とりわけ「海外組」を、CMタレントとして起用し、スポンサーからCM制作料と媒体料を稼ぐ。スポンサーへの見返りに、代表試合にはCM起用した代表選手を先発で起用する。選手の露出を高めて宣伝効果を高めることだ。その総集編=大舞台が4年に1度のW杯である。


(二)代表選手選考、戦術への介入

広告代理店が代表選手の選考や戦術に影響を及ぼすとしたら、どうだろうか。そんなことは不可能だと考えるか、いやそんなの常識だよ、と考えるか。前者のようなナイーブ(ウブ)な観点の「代表論」は、筆者にとって魅力がない。つまり、前者の立場のカテゴリーの代表論は、前出のレビー・クルプの代表論で言い尽くされているからだ。

今回のW杯の日本代表、とりわけ試合に出場した選手たちの顔ぶれは、CMキャラクターとしてメディアに露出した顔ぶれとシンクロしている。実力がある選手だから海外に移籍し、メディアの話題となり、そのことを価値としてCMに起用されるというのが自然の流れだ。だれもがそう考える。

ところで、W杯ブラジル大会のMVPがメッシ(アルゼンチン)だったことには、だれもが疑問をもった。メッシが大活躍した記憶がないからだ。しかし、彼がアディダスの契約選手だったとわかれば、驚かない。同社はW杯の有力スポンサー企業である。

日本代表の背番号10はアディダスとの契約選手で受け継がれている(例外は2002年:トルシエが代表から外した中村俊輔)。もちろん現在の背番号10の香川真司もアディダス契約選手。

本大会に臨む前の香川真司はどうだったのか。イングランドで試合に出られず、日本代表試合でも活躍していない。香川真司に代わる人材はいなかったのか?こうしたメーカー等とスポーツ選手との密接な関係は、日本代表にも認められる。余談だが、筆者は圧力に屈せず中村俊輔を代表から外したトルシエをその一点で評価している。

(三)代表選手選考およびその起用とCM出演の関係性

本田圭佑はW杯開催前後、NTTドコモ(携帯電話)、オリンパス(カメラ)、ミンティア(菓子)、キリン(ビール)、ユニクロ(衣料品)、マクドナルド(外食)、TBC(エステ)、コカコーラ(飲料)、ベンツ(自動車)等々のTVCMに出演している。ほかにも、スポーツメーカー、腕時計、サングラス等のメーカーとの専属契約もあるという。こうしたCM契約と出演は広告代理店の主たる業務である。

その本田圭佑だが、彼は本業のサッカーでは調子が上がっていなかった。おそらく選手としてのピークも下り坂にさしかかったのではないか。ACミラン移籍後は点がとれない。フィジカルもおかしい。それでも本田圭佑は日本代表の中心選手として君臨し続けた。

日本代表監督のザッケローニは、香川真司と本田圭佑を攻撃の中心としたチームづくりをしてきた。しかしながら、彼らの調子が上向かないことが現実となった時、それに代わる人材と戦術に切り替えるチームづくりを怠った。とたとえば、本田圭佑を経由しないセンターフォワード(CF)を基点とする攻撃スタイルを模索する道筋もあった。CF候補としては、豊田陽平、ハーフナーマイク、佐藤寿人、川又堅碁がいた。ザッケローニは代表選考において、彼らを排除した。その背後に代理店と結託した日本サッカー協会(技術委員長)がいたことは想像に難くない。また、本田圭佑が彼らを個人的に排除したとも言われている。ザッケローニは、トルシエが中村俊輔を切ったような強硬的選考を回避した。前出の「ザッケローニの失敗」とは、このことをさす。

長谷部誠にも同じことがいえる。彼もキリンレモン(飲料)、ニベア(化粧品)、ボルビック(飲料)、アテッサ(時計)、日本ユニセフ協会等のTVCMに出演しており、書籍の刊行もある。ドイツではレギュラーもおぼつかなく、しかも故障あがりでありながら、彼が実力以上に評価されたのは、キャプテンシーというよりも広告代理店にとって重要だったからではないか。その影響で代表選考から漏れたのが、細貝萌だ。彼はドイツでレギュラーであり、実力では長谷部誠を大きく上回りながら、日本代表に残れなかった。

大手広告代理店が海外組をCMキャラクターとして企業に売り込み契約をし、その見返りとして、日本代表試合に出場させてメディア露出を保証する。そんな仕組みで日本代表ビジネスが成り立っているとしたら、日本代表はサッカーをする前に負けている。CM出演が実力に優先するような代表サッカーの構造を改革しなければ、日本は強くなれない。

ロシア大会に向けて何をなすべきか

(一)海外ブランド漁りが大好きなサッカー協会(技術委員長

ザッケローニというイタリア高級ブランドに手を出して失敗した日本サッカー協会は、W杯敗北の検証も終わらないうちに、こんどはメキシコブランドに触手を伸ばしているという。メキシコのサッカー事情を知らない筆者だが、体格は日本人と同程度で小柄ながらW杯ではつねにベスト16以上をキープしているという。海外移籍が盛んでなく、メキシコ国内リーグで活躍する選手を主体とした代表チームづくりが特徴だという。

(二)ロシア大会は国内組が主力か

W杯で不調だった日本代表だから、海外移籍は前の4年間より盛んではなくなる傾向になろう。W杯終了後に海外移籍が決まった代表選手は柿谷曜一郎だけ。欧州サッカーにおける来季(14-15シーズン)、本田圭佑(イタリア)、香川真司(イングランド)のリーグ戦出場機会はさらに減少するだろう。2人とも海外遠征メンバーとして残るのが精いっぱいではないか。

この2選手がリーグ戦に出場する機会は激減するだろうが、もちろん契約解除には至らない。彼らはジャパンマネーの集金マシーンであり広告塔だからだ。「海外組」=実力のある選手、という等式に疑問をもつべきなのだ。モダンサッカーを動かすのは選手の実力もあるが、カネの流れも重要なのだから。

ドイツは世界王者となったため、優秀な海外選手の流入も増えそうだ。当然、清武弘嗣、大迫勇也、乾貴士、岡崎慎司、酒井高徳、酒井宏樹、長谷部誠、原口元気、細貝萌らがレギュラーとして保証されたわかではない。海外組でほぼレギュラーがとれそうなのは、内田篤人(ドイツ)と長友佑都(イタリア)しかいないのではないか。

(三)日本代表の暗部に目を向けなければ強くはなれない

そんななか、国内リーグ選手を中心とした日本代表づくりという状況を迫られるのならば、メキシコに目を向けることも悪くない。だが、メキシコ代表には、大手広告代理店が介入するような環境は絶無だろう。外形的サッカー情報でメキシコサッカーとその監督に適格性が見いだせたとしても、日本代表の暗部と深部に向けて構造改革がなされなければ、どこのだれが監督になっても変化は期待できない。代理店の圧力を排除できるような人物ならば、国籍、サッカー観はあまり関係ないような気もする。そう感じるほど、日本の代表サッカーは腐っているということだ。

猫族の世界

ペットを飼う楽しみはいろいろある。 観賞用、愛玩用、癒し効果・・・人それぞれである。 筆者の場合、下の画像にある2匹の猫について、目的をもって飼い出したわけではない。 このことは以前に書いたことだが、ある日、突然、猫が拙宅に存在したのだった。 だから、目的をもって飼育を始めたのではなく、とにかく追い出すわけにいかないから、共存したのである。

共存してからというもの、猫族の魅力を新鮮に発見して驚くばかりである。 それは筆者には未知の領域だった。 なかで興味深いのは、猫族とのコミュニケーションのあり方だ。 猫族は人間と交信する。 声、仕草、近づいて注意を促す・・・方法は多種であり、彼らの目的によって、それぞれ使い分ける。

筆者は、犬は人になつくが、猫は人になつかないと思っていた。 ところが猫は犬以上に愛情が深い。意外と飼い主に気を遣うのである。

たとえば、熱帯魚、亀、トカゲといったペット類の場合、餌や水をあげるだけで終わってしまう。おもしろみはない。一方、猫とのやりとりは複雑であり、しかも犬のそれとも違う。猫の行動、言動?は論理性に乏しく、一貫性はない。矛盾だらけなのだ。それでも最後は、友情と愛情の世界で落ち着く。猫とはいかにも、不思議な生き物なのである。




2014年7月15日火曜日

W杯ブラジル大会閉幕

ドイツの強さは総合力

サッカーW杯ブラジル大会がドイツの優勝をもって終了した。北中南米開催のW杯で欧州勢が優勝したのはドイツが初めてのこと。しかも、セミファイナルでブラジルを、ファイナルでアルゼンチンを退けての栄冠であるから価値が高い。

ドイツ優勝の要因はいくつかあろう。才能のある若手がまさに旬の勢いで本大会に臨んだこと。GKの鉄壁の守備。高い組織力と規律、そしてフィジカルの強さ。戦術の巧みさ、選手層の厚さ等々・・・列挙すればきりがない。

いわゆる総合力が勝り、攻守のバランスがとれていたことだろう。言い古された言辞ではあるが、勝った方が強いわけであって、2014年時点において、ドイツが世界で一番サッカーの強い国である。

日本の“実力”は、出場国中、下から数えて1番目か2番目

本大会の総括はすでにスポーツメディアでなされていて、それに付け加えるものはない。ただ、はっきりしたのは、日本の実力のなさ。日本の力は、本大会出場国(32か国)中、下から数えて一番目か二番目という事実。もちろんこれは結果論を含んでの評価だが。

世界サッカーの進化のスピードは、日本が思う以上に早かった。前回南アフリカ大会終了からの4年間、日本はその変化についていけなかった。日本サッカーの関係者が、本田圭佑がまき散らした毒素に染まり、謙虚さを失い、自信過剰になり天狗になっていた。この事実を真摯に受け止めなければならない。

日本の話題はサポーターのゴミ拾いのみ、というさびしさ

思えば、開幕戦のブラジル-クロアチア戦は、日本人の主審が裁いた。さっそうと登場した日本人主審だったが、ブラジルのFWのダイブに騙されてPK判定をしてしまい、世界中から非難を受けた。

グループリーグ(GL)C組の日本は1分け2敗の勝ち点1で同組最下位に沈み、日本代表は早々と日本に帰国した。

本大会における日本がらみの話題と言えば、日本人サポーターのゴミ拾いという寂しいもの。選手も審判もだめで、ゴミ拾いの日本人が称賛されるという珍現象だけが開催国メディアの注目を集めた。

日本サッカーのガラパゴス化

日本人の主審がブラジル選手のダイブに簡単に騙されたのは、日本人主審のミスという次元の問題ではない。日本人の審判団が仕事をするJリーグに問題の根源がある。つまり、Jリーグのガラパゴス化である。日本のトップカテゴリーであるJリーグは、世界サッカーの潮流とは無関係に、独自の進化を遂げている。主審の判定基準で言えば、接触プレーに著しく厳しい。タックルで倒されれば(ボールに向かったものでも)、倒れた側に必ずファウルが与えられる。正当なショルダーチャージでも(選手が倒れれば)、倒された側にファウルが与えられる。

激しい当たりにはすぐイエローが出され、選手は退場を恐れて激しいプレーを控えるようになる。そればかりではない。日本のサッカー風土がお嬢様サッカー風のパス主体の試合を好むところから、激しいチャージを行う選手は、審判、ファン、メディア、選手間で嫌われる。その結果、Jリーグの選手は球際の競り合いに極端に弱い。この現象は、JリーグクラブがACLで勝てなくなったことで実証されている。

お嬢様サッカーはアマチュアの少年サッカー、中高大の学校クラブ活動でじっくりと醸成される。お嬢様サッカーは、プロのクラブのユースチームでも、指導者が同じような指導方法なので、是正されない。フィジカルの強さよりも、ボール捌きが器用で上手な選手がレギュラーになり、おとなしく闘争心のない試合を10代で繰り返す。

強いフィジカル、闘争心をもった代表選手が必要

本大会に日本代表に選ばれた選手をみると、似たようなタイプの選手ばかり。これはザッケローニが選んだのか広告代理店が選んだのか定かではないが、戦い方の幅を感じさせない選手ばかり。そしてその共通点は、みなフィジカルが弱いこと。

サッカーは格闘技的要素もあるが、相手を倒すことにフィジカル強化の目的があるわけではない。拙コラムで何度も繰り返すように、(相手との)競り合い、走りあい、ボールの奪い合い――に必要なフィジカルを身につければいいのであって、筋肉をつけて大きくなればいいというものではない。大型化が必要なのはゴールキーパー(GK)とセンターバック(CB)。この2つのポジションは、身長が高いほうが有利だが、それ以外のポジションは必ずしも大型であればいいというわけではない。

フィジカルの強さを実効性の高いものとするのは、強い精神力・闘争心である。本大会において世界の代表選手は、その点ではるかに日本を凌いでいた。日本代表選手は、精神力・闘争心で世界に引けを取っていた。今後の日本代表の強化ポイントは、フィジカル強化、精神力・闘争心の鍛錬となろう。簡潔に言えば、W杯という舞台は戦いの場であるということだ。「自分たちのサッカー」をなんて寝言を言っていたのでは勝てないということだ。

We will play our own brand of football.(自分たちのサッカーをするだけ)

このことは拙コラムですでに書いたことだけれど、「自分たちのサッカーをする」という言い回しは、We will play our own brand of football.の日本語訳であって、この言い回しは外国人選手・監督等が試合前のインタビュー等に答えるときの常套句の一つにすぎない。この言い方に深い意味はない。日本人選手の間では「がんばります」が意味をもたない常套句の一つとして定着していたし、「最善を尽くします」と言うのもあった。だが近年、これらの常套句が陳腐化してきたので、気の利いた言い方の一つとして、「自分たちのサッカーをするだけ」が流行りだした。

しかし、いかにもばかげているのは、この空疎な常套句が、日本のサッカーの方向性を決定してしまったことだ。日本は攻撃的サッカーで勝たなければいけないと。このカラクリについては、すでに拙コラムで繰り返し書いてきた。

本大会を見ると、強豪国は相手次第で多様な戦略・戦術・選手起用を試行してきたことがわかる。そして、最後には、もっとも攻守のバランスのとれたチーム(ドイツ)が勝ち残った。勝負事というのは、そういうものだ。サッカーに「勝利の方程式」があるわけではない。いまの日本人のサッカーの実力で「自分たちのサッカー」で相手に勝ち切れるほど、世界は甘くない。相手によって、やり方はいろいろある。W杯においてなによりも大切なのは、監督・選手が、勝ち抜くために必要な選択を重ね、それを実行することにある。

守りを蔑ろにしたチームは上には行けない。筆者が今大会もっとも印象に残ったチームは、日本と同じC組で退場者を出しながら日本と引分け、最終戦、コートジボワールを追加時間のPKで退けGLを勝ち抜けたギリシャである。

2014年7月11日金曜日

がんばれアルゼンチン!

王国の悲劇

準決勝最初の試合はブラジル-ドイツ。この試合についてはすでに多くの論評があり、言い尽くされた感がある。1-7という大差のブラジルの敗北をどう評価すべきなのか。どこかの監督の言葉どおり、「サッカーは非論理的」なのだろうか。

スポーツ評論のすべては結果論だ。スポーツが試合前に論理的に結果が判明していたならば、それを見る価値はない。スポーツは現在進行にのみ意味と価値のあるドラマなのだ。だから、ブラジルの大敗を予想した者がいないのは当然だ。筆者は本大会の優勝者をブラジルと予想した。戦力的には難のあるチームだったが、ホームの利があると信じたからだ。

ドイツ戦の敗因は

エース、ネイマールの欠場、守備の要、Tシウバのサスペンションによって、ブラジルが苦戦するであろうことはだれもが予想できた。それでも、1-7のスコアは想定外だった。

拙コラムで書いたことではあるが、こういう大会では、大差の試合が起こらないわけではない。本大会グループリーグ(GL)において、前回王者のスペインがオランダに1-5で大敗しているし、わが日本もコロンビアに1-4で惨敗している。前者は精密機械(スペイン)の歯車が狂い、制御不能に陥ったためだ。後者はGL敗退寸前に追い詰められた日本が、ノーガードで前に出たためだ。それでも、スペイン、日本ともに7失点はしていない。そればかりではない。ドイツに大敗したのがブラジルでなければ、たとえばアジアの日本とか韓国だったら、さほど話題にもならなかっただろう。W杯史上まれな大差の敗北の当事者が王国ブラジルだったことが衝撃だった。

ブラジルが大敗したこの試合、ドイツの良いところはいくつか指摘されている。先取点のスクリーンプレーは各メディアがとりあげているように、実に頭脳的で見事なものだった。だが、ドイツの良さだけで、大量7点が上げられるとは思えない。やはり、ブラジルに自壊現象が生じた、と考えるべきだろう。

コロンビア戦の“削りあい”がすべて

ブラジル大敗の要因は、ベスト4をかけた南米対決、コロンビア戦にあった。ブラジルは2-1でコロンビアに勝ったが、試合内容は褒められたものではなかった。この試合のファウル数は54(ブラジル31、コロンビア23)あり、イエローはともに2枚だった。ブラジルに出されたそのうちの1枚が、前出したとおりTシウバに出された。

ベスト4のもう一方、ドイツ-フラン戦のファウル数は33(ドイツ15、フランス18)、イエロー2(ドイツ2、フランス0)だった。多くも少なくもない数字だろう。ファウルやイエローは審判の主観に負うが、それでもブラジル-コロンビア戦におけるブラジルのファウル数は異常数値だった。

自らが仕掛けた削りあいでブラジルはコロンビアには勝ったものの、その代償は、ブラジルに重くのしかかることとなった。ネイマールがコロンビアDFのハード・ブリッツを受けて骨折し、以降出場不能となった。その背景として、この試合の主審がファウルに寛容であり、多少の“削りあい”を容認したからだ。そのなかで、両チームの選手にハードな接触プレーが誘発された。やられたらやりかえせ、主審の笛の範囲の接触はOKなのだからと。

その結果、ブラジルの守備の要、キャプテンのTシウバは、通算2枚目のイエローをもらい、準決勝に出場できなくなってしまった。この結果は南米サッカーの光と影の象徴だ。彼らの悪しき伝統“削りあい”という影の部分が、開催国ブラジルを覆った。

セルフ・コントロールに失敗したブラジルの選手たち

そればかりではない。GLから決勝トーナメント(T)を通じて、ブラジル選手の異常な興奮ぶりが目に付いた。PK戦勝利による涙、コロンビア戦におけるファウルの多発などなど、開催国のプレッシャーに自制(セルフ・コントロール)がきかなくなる寸前まで追い詰められた感があった。

ブラジルの選手の精神状態は、引っ張られすぎて切れる寸前のゴム紐のようなものだったのではないか。そしてドイツ戦である。試合開始早々、どちらかといえば、ブラジルは興奮状態がプラスに働いて、好調のように見えた。よく言われる、「試合の入り方としては悪くなかった」というやつだ。ところが、セットプレー(前半11分)でドイツに先制点を奪われたところで、ブラジルの選手たちの精神状態は、興奮状態から不安もしくは焦りへと変わりつつあったのではないか。そして前半23分に失点すると彼らの緊張、不安、焦りは一挙にしかも重層的に高まり、ゴム紐はぷつんと切れた。つまり、瓦解した(29分までの6分間で4失点)。

結果論として、ブラジル大敗の分析は合理的に説明がつく。サッカーは、けして非論理的ではない。しかし、ブラジルが序盤で先制点を上げていたら、ブラジル選手の興奮度はエネルギーに変換していたかもしれない。その結果、大敗したのがドイツだったかもしれない。どちらに転ぶかは、神のみぞ知るところなのだ。

南米サッカーの秘められた力=堅守

ブラジル大敗の翌日行われたオランダ-アルゼンチン戦は、前日とは実に対照的な試合となった。両チームともに昨日の試合の衝撃を引きずって試合に臨んだようだ。そのことを一言で言えば、“恐怖”だろう。両チームとも過度な攻撃性を抑制し守備的になった。アルゼンチンはオランダのリアクション・サッカーを警戒し中盤を省略、オランダの3バックの両側のスペースにロングボールを供給する作戦に出た。中盤からの攻撃はメッシ一人にお任せ。そのメッシに対して、オランダは最大3人で守った。

オランダも得意のリアクション・サッカーを封じられ、しかも、頼みのロッベンがサイドのスペースに走りこまないため、チャンスがつくれなかった。この試合のファウル数は25(オランダ15、アルゼンチン10)、イエローは3(オランダ2、アルゼンチン1)だった。前出のブラジル-コロンビア戦と比べれば、ファウル数は半分以下。いかに接触プレーが少なかったかがわかる。“削りあい”を回避し、ケガ及び先制点を恐れた。

アルゼンチンの守備の要、ハビエル・マスチェラーノの好プレーも特筆されるべきだ。この選手、身長はそう高くないが、粘り強さ、スタミナ、走力、判断力、ポジショニングに優れていて、オランダの決定機をことごとくつぶした。体格に恵まれない日本人が模範としたい選手の一人だ。

両チームがリスク回避のマネジメントを優先したとはいえ、南米の伝統である堅守が、フィジカルのオランダを止めた試合だと言える。メッシばかりに目を奪われがちなアルゼンチンだが、南米特有の守りのDNAをいかんなく発揮した。ブラジル-ドイツ戦とは異なる、緊張感のあるいい試合だった。

決勝戦はドイツ有利だが、筆者はアルゼンチンに勝ってほしい

条件からすれば、決勝戦(日本時間・14日早朝)におけるドイツ有利は動かない。準決勝はブラジルに90分の楽勝。しかも休養日は、対するアルゼンチンより1日多い中4日。ブラジル相手の大勝は選手に自信を与えたはずだ。アルゼンチンはオランダと延長戦(120分)を戦っての中3日。これは苦しい。

それでも、アルゼンチンに希望があるのは、メッシが元気でいることだ。いまのところ、故障、ケガの情報はないし、コンディションも悪くなさそうだ。守備の要のマスチェラーノも健在だ。準決勝のブラジルは、ネイマール(攻撃の要)、Tシウバ(守備の要)を欠いてドイツに敗れたが、アルゼンチンはどちらの要も試合に出場できる。オランダを封じたアルゼンチンの守備が崩壊しなければ、僅差の勝利が期待できる。もちろん、決勝点はメッシの信じられないプレーによる得点というわけだ。

筆者は、アルゼンチンに優勝してもらいたい。なぜならば、W杯の歴史を振りかえると、30年ウルグアイ大会=ウルグアイ優勝、50年ブラジル大会=ウルグアイ優勝、62年チリ大会=ブラジル優勝、70年メキシコ大会=ブラジル優勝、78年アルゼンチン大会=アルゼンチン優勝、86年メキシコ大会=アルゼンチン優勝、94年アメリカ大会=ブラジル優勝と、北中南米開催のW杯では、南米勢が優勝しているからだ。この地勢的サイクルからすれば、今回南米ブラジル開催の優勝国は、アルゼンチンでなければならない。

南米開催のW杯において、欧州(ドイツ)が優勝することはあり得ない。ここでドイツが優勝すれば、サッカーの覇権は欧州ということになってしまう。そんな事態だけはなんとしても避けなければならない。がんばれ、アルゼンチン!

2014年7月6日日曜日

W杯、ベスト4をかけた死闘

南米対決となったブラジル―コロンビア戦は、壮絶な戦いとなった。その前に行われた欧州対決、ドイツ―フランス戦が規則に基づく競技であるならば、南米対決は規則に基づく戦闘のように思えた。

展開は序盤で先制点を上げたブラジルが優位。だが試合内容は点差とは関係ない。両チームの個々の選手同士がせめぎ合う、潰し合いだった。とりわけブラジルのネイマールとコロンビアのロドリゲスに対するブリッツは厳しかった。

この試合を裁く主審が競り合いに寛容で、イエローカードをなかなか出さない。Jリーグの審判だったら、イエローが何枚だされたかわからない。だが、両チームがこの試合の主審の笛を基準として争った代償は、勝ったブラジルにとって、大きなものだった。ブラジルのエース・ネイマールがコロンビアの選手の後ろからのチャージを受けて背骨を骨折し、試合に出られなくなってしまったのだ。

ネイマールが受けたバックチャージは、TV映像(のビデオ)を見る限り、それほどのものに見えなかった。打ち所が悪かったのだろうか。もちろん、チャージしたコロンビアの選手にイエローは出ていない。プロレス技のフライングニーバット、空中飛び膝蹴りのような格好だった。ビデオで見る限り、バックチャージだからイエローの対象だろう。

南米サッカーの守備は厳しい。南米は攻撃陣に多彩な技を繰り出すタレントが豊富だから、守備陣も自然と厳しくならざるを得ない。やらっれっぱなしだったら、選手を続けられなくなる。守備の選手が生き残るには、きわめて厳しい環境のようだ。

こんな試合を見せられると、日本代表の試合ぶりのおとなしさが際立ってしまう。日本選手はサッカーは上手なのだろうが、生き延びるためのサッカーをした経験はないのではないか。海外組といっても、海外クラブをクビになったら、Jリーグに戻ってスターでいられる。J1がだめならJ2・・・引退すれば解説者、コメンテーター、タレント・・・と生き延びられる。日本代表に選ばれ、W杯に出ればそれで安泰なのだ。

南米選手の堅い守備のDNAが、W杯という晴れ舞台でも呼び起こされる。勝つために何をするのか、負けたコロンビアだが、彼らが「自分たちのサッカー」をしたことだけは、間違いない。

2014年7月4日金曜日

サッカー日本代表への提言

ブラジルW杯はベスト8が決定。5~6日(日本時間)の朝にベスト4が決まる。ベスト8には、グループリーグ(GL)各組の首位チーム(ブラジル、コロンビア、フランス、ドイツ、オランダ、コスタリカ、アルゼンチン、ベルギー)が残った。コスタリカ以外は順当な結果だ。コスタリカ以外ならば、どこが優勝してもおかしくない。

世界の代表選手は闘争心が旺盛

GLから決勝トーナメント(T)における出場国のサッカーを見ていて感じるのは、日本代表のそれとの違いだ。パス、クロスおよび選手の走りにおけるスピードの違い、競り合いの強さの違い、高さの違い、持続力の違い・・・いわゆるフィジカルの違いだ。そして忘れてはならないのが、日本以外のチーム(選手)の集中力の高さだ。勝とうとする意思の強さは、代表選手のプライドの高さに直結している。一言でいえば闘争心の違いだ。

終盤になると足を痙攣させる選手も目に付く。味方、敵を問わず、動けなくなった選手の脚を伸ばしてあげるシーンは、おなじみの光景になっている。日本のGL3試合において、脚が痙攣するまで走った日本人選手はいたのだろうか。管見の限りだが、見かけなかった。脚を痙攣するほど走らなかったのか、鍛錬しているので痙攣しないのか、筆者は前者だと感じている。

「リアクションサッカー」が今大会のキーワード

以前の拙コラムで書いたことだけれど、世界のサッカーのトレンドは明らかに、フィジカル重視になってきている。攻守の切り替えの速さ、裏に飛び出す速さ、ゴールに向かう速さ、いわゆる走力(のスピード)は、現代サッカーの必要絶対条件の一つになっている。もちろん、パス、クロスも速い。速いパスをうまくトラップする技術も必要だし、クロスに合わせられる身体的強さ、反応・判断力も求められている。

攻守の切り替えが速いということは、カウンター攻撃が主流だと換言できる。GLでパスサッカーのスペインを粉砕したオランダの監督が、自らのサッカーを「リアクションサッカー」と臆面もなく表現した。その「リアクションサッカー」は、Jリーグではネガティブな古い戦法だと言われていて、そこからの脱却、すなわち、自分たちが仕掛けるサッカーを目指していたから皮肉なものだ。その影響は日本代表が掲げた「攻撃的サッカー」にも言える。日本はいつの間にか、一周遅れのトップランナーになっていたのだ。間抜けな話だ。

ファンファーレ監督の言うところの「リアクションサッカー」は、相手がボールをもった瞬間から攻撃が開始される。相手ボールを奪う強いプレス、たとえ奪えなくともミスを誘発し、マイボールにしたその瞬間、攻撃が始まる。相手ボールをマイボールにする確率は、守備に人数を割くことだ。それが5バックの採用だろう。

日本代表選手となる条件 

ボールを奪ったならば、それを一気に相手ゴールまで運ぶ。この一連の動作を書くことは簡単だけれど、それを90分間続けることは極めて難しい。持続力の強さが必要だ。これらを総じて「リアクションサッカー」と呼び、それを可能にする基盤が選手のフィジカルの強さということになる。

日本代表がこのトレンドに乗ることは必要なのだろうか。もちろん、このトレンドに乗らなければ日本は世界で勝てない。今後、日本のサッカー選手が日本代表となる条件の第一は、強いフィジカルをもっていることとなる。

CBの重要性

「リアクションサッカー」の説明としては、ここまでで半面が終わったにすぎない。残りの半面は、守りの強さだ。もちろんその要となるのは、センターバック(CB)。CBで重要な要素は、第一に「高さ」ということになろう。例外もある。16強に入ったチリだ。チリは先発全員が身長180cm以下という特異なチームだった。そんなチームがないわけではないが、日本のフィジカルエリートの体格の平均身長に鑑みて、180~190cm台のCBを育成することはそれほど難しくない。むしろ、チリのようなDFをつくることの方が困難だろう。Jリーグならば、神戸の岩波拓也が代表クラスのCBになる可能性を秘めている。

ボランチの弱体化が日本の敗因の一つ

守備において重要なのが守備的MFだ。守備的MFでチーム力は決まると言っても言い過ぎでない。もちろん、強いフィジカルが求められる。

日本がブラジルで惨敗した要因の一つが守備的MFの選手の代表選考にあった。ザッケローニが日本代表を率いてから、W杯予選、親善試合を重ねるうち、人材が豊富といわれる日本の中盤に変化が起きていた。長谷部(キャプテン)・遠藤で鉄壁だと思われていたこのポジションに、コンフェデ大会あたりから綻びが生じていたのだ。

第一は、長谷部のケガ、第二は遠藤の衰えだ。ザックジャパンは「本田のチーム」だと言われるが、全体から見れば、「長谷部のチーム」だ。その長谷部が長期離脱し、本番にはいちおう間に合ったものの、GL3試合にフル出場してチームを牽引するまでのフィジカルの回復は無理だった。遠藤の場合も、アジア地区予選終了後、急激に衰えを見せ始めた。そこで若手の山口、青山を起用して親善試合に臨んだが、完成するに至らなかった。ボランチのポジションにおける筆者の序列は、ナンバー1に細貝萌、2位山口、3位青山であったが、ザッケローニは細貝を評価しなかった。

本田と心中せざるをなかったザッケローニ

ザッケローニは日本代表監督に就任して以来、パス回しを基本にした「攻撃サッカー」を戦い方のコンセプトにしたが、それは本田を中心にしたチームという意味でもある。長友、香川がいる左サイドを基点として、中央の本田が決定的な仕事をするというイメージだろう。そのような組立には、守備的MFの遠藤の攻撃的センスが不可欠だった。つまり、本田と遠藤は有機的関係なのだ。

この本田中心のイメージは、第一に前線のセンターフォワード(CF)にボールを集めるポストプレーの可能性を排除した。2014W杯に向けて、日本代表におけるワントップの候補選手としては、大久保、豊田、ハーフナー、佐藤寿、川又らが挙がって当然だったが、ハーフナーの場合は本田が意図的に代表選考を妨害したとの情報も流れている。そのため、日本のワントップは柿谷、大迫、大久保に落ち着いたが、3選手とも似たようなタイプで、ポストプレーに迫力を感じさせないことに共通項が見いだせる。しかも、大久保の代表選出は、W杯開催の直前だった。ザッケローニは本大会直前、本田の調子が上がらないことに焦り、急遽、大久保を代表に選んだのだと思う。

それでも大久保は本番のコートジボワール戦、ギリシャ戦においてトップではなく、サイドで使われた。本田のイメージは、サイドでできた基点に自分が積極的に絡み、▽自分が得点を上げること(この形は、初戦のコートジボワール戦で実現している。)、▽決定力のある右サイドの岡崎に決定的パスもしくはクロスを上げること、▽相手ファールを誘って自分がフリーキックを決めること――の3パターンだったに違いない。いずれのシーンも自分をビッグクラブに引き上げる原動力となる。本田の上昇志向(=利己心)にチームが利用されるということだ。

一方、世界のサッカートレンドは、日本のW杯前最後の親善試合ザンビア戦の勝ち越し得点シーンであるボランチ(青山)からトップ(大久保)への最速パスのような速い攻めの流れにシフトしていた。ザッケローニはそのことにおそらく気が付いていた。気が付いていながら、(青山のように)FWに速いパスを供給できるセンスをもった守備的MFを攻撃の基点にするサッカーを構築することができなかった。時間がなかったのだ。ザッケローニは、本大会に臨んだ日本代表チームの欠陥を承知していたと思う。たぶん、コンフェデ杯のころには、これではだめだと感じていたと思う。だが、いまさら遠藤~本田に象徴される「攻撃サッカー」を更新するサッカーを身に着ける時間がないことも承知していたのだろう。ザッケローニは本田の回復を信じて、彼との心中を決意した。

日本はコートジボワール、ギリシャには勝てた

結果論でなく、日本が入ったC組はコロンビアが群を抜いていて、残りの日本、ギリシャ、コートジボワールの力は拮抗していた。しかもコートジボワール戦、ギリシャ戦は日本に有利な形で試合が展開していた。コートジボワール戦では先制できたし、ギリシャ戦では相手に退場者が出るという幸運に恵まれた。

勝利に執着できなかった日本代表の精神的弱さ

そればかりではない、この2チームはチームづくりとしては古風で、コートジボアールには組織力が欠如し、ギリシャには攻撃に係る戦力・戦術が欠如していた。つまり、本大会のベスト8に残ったチームが持つ規律、組織力とチーム・バランスが欠如していた。それでも日本が勝てなかったのは、日本選手に闘争心とフィジカルが欠けていたからだ。脚が痙攣するほど、走らなかったからだ。勝負に対する執着心、攻撃性、集中力が不足していたからだ。チームのために献身するという意識が希薄だったからだ。

本田がコンフェデ杯ころから、「個の力」を重視した発言をしだしたころから、日本代表のサッカーは何かを失った。サッカーは個人の上昇志向の道具ではない。中心選手の中に、自分を高く売るために代表を利用しようという魂胆が見え隠れするような者がいれば、チームは弱体化する。

結論として言えば、これからの日本サッカーを背負うことができる人材に必須の条件は、「個」よりも「チーム」の勝利のために献身する精神をもった者の出現ということに尽きる。個人の夢を第一義にする利己的存在ではなく、チームへの献身を第一義とする精神性を発揮できる存在ということになる。ビッグクラブへの道は、その結果として自ずとついてくるものだ。

そのような人材を育成するためには、日本代表として、興行的親善試合を減らし、勝負にこだわった試合をできる限り多くセットし、勝つための訓練を積み重ねるしかない。

2014年7月1日火曜日

7月

2014年が半分すぎた。

国内はあわただしい。

集団的自衛権容認を閣議決定するファシズム安倍政権。

憲法も議会も民意も無視するこの男、

日本をどうしたいというのだ。

こういう状況になってくると、やはり、党の必要性を思い知らされる。

最後は権力闘争、権力奪取の手段を問わず、党がなければ先には進まない。

<自立>、マルティチュード、サバルタン・・・

と言っても、反ファシズム運動には、党の存在が不可欠のように思える。

マスメディアの報道姿勢も不可解。

完全に安倍政権にコントロールされている。

どんな取引をしたのだろうか。




さて、7月の猫の体重測定記録。

Zazieが4.3キロ(前月比-200g)、Nicoが5.9キロ(同-200g)。

二匹とも200g減ったか。