2009年6月27日土曜日

『吉本隆明1968』


●鹿島 茂 ●平凡社新書 ●1008円(+税)

1960年代後半、学生を中心とした全共闘運動及び新左翼運動の高揚期、吉本隆明の著作が多くの学生たちに読まれた。著者(鹿島 茂)は、本題の示す1968年に大学に進学した団塊の世代に属していて、その年、吉本の文芸評論に触れて心酔、以来、自分を“吉本主義者”と規定し、本書の執筆に至ったと本書内において告白している。

本題の「1968」という記号は、新左翼学生運動・全共闘運動に参加した世代からすれば、運動の最高揚期として受け止める者が多いであろうし、また、著者(鹿島 茂)のように、吉本隆明に初めて遭遇したメモリアルな年であると受け止める者もあろう。いずれにしても、「1968」は、団塊の世代にとって、そのときの情況をもっとも強く象徴する記号になっている。「1968」が意味するものについては後で触れる。

吉本隆明が当時の若者(=団塊の世代)を中心とした大量の読者を獲得し得たのは、そのときの学生運動の一時的高揚と、その後に訪れた急激な退潮という、極端に相反する情況と無関係ではない。

反日本共産党系左翼運動に参加した学生(全共闘運動を含む)たちを一括して“新左翼”と呼び、新左翼は、吉本が批判した旧左翼(日本共産党を含む世界の前衛党)と対立する立場をとった。新左翼は反日共系もしくは反代々木ともいわれた。日本共産党本部は東京・代々木に当時もいまもある。新左翼は、旧左翼として、ソ連共産党、日本共産党のみならず先進国の共産党すべてを否定した。その理由は、旧左翼=スターリン主義こそが、世界革命の阻害物だからだという理由からだ。新左翼党派の1つである革命的共産主義者同盟(革共同)は、「反帝・反スタ」を綱領に掲げた。当時の新左翼学生は、反スターリン主義という視点から、吉本隆明が文芸評論の中で展開した「転向論」における、日本共産党幹部、日本共産党系文学者及び社会学者への批判を当然のごとくに受け入れた。

しかし、本書が示すとおり、吉本隆明のスターリン主義者批判は、新左翼各派とは異なっていて、旧左翼前衛党幹部に内在する転向・非転向の問題を、新左翼のように、革命の方法論もしくはマルクス主義解釈の問題としてではなく、日本型知識人の問題として扱った。

吉本隆明が多くの若者に支持された理由は、吉本が日本共産党幹部(スターリン主義者)批判の急先鋒の立場をとったからだけではない。それよりもむしろ、学生運動の後退局面――多くの学生運動参加者が脱落したとき――彼らの離脱の正当性と、その拠り所として、吉本隆明が読み込まれたことによる。

本書では、吉本の初期評論である、転向論、高村光太郎論、「四季」派批判、ナショナリズム論(大衆の原像を含む)が扱われている。著者(鹿島 茂)が吉本の著作をいかに読んだかについて、著者(鹿島 茂)自身の出自、当時の境遇を交えて表明し解説する形式をとっていて、吉本隆明の解説書としては気負いがなく、わかりやすい。

著者(鹿島 茂)が横浜の酒屋の出身(=庶民階級)であることと、吉本が東京・下町の船大工の出身(=庶民階級)とがほぼ同一であることをベースにして、庶民階級出身者が高度な教育を受け知識を得て知識人となることで抱える二重性という概念が、吉本思想のキーワードの1つであると説明する。

吉本の初期の評論の内容については本書で解説されているので、ここでは触れない。そうではなくて、いまいちど「1968」という記号に戻って本書を考えてみたい。まず、吉本が既成左翼を過激に断罪する思想家として、「新しい左翼」に迎え入れられたのが1960年代だということ、ところが、68年を頂点にして、新左翼学生運動は退潮し、以降の吉本支持者は、学生運動から脱落した者であったということ――は既に述べた。この傾向を重視したい。

1969年以降、学生運動から脱落した者は、吉本隆明が提出した大衆の原像、生活者という概念を読みとることによって、敗北を自らに納得させたのではないか。吉本隆明を読むことによって、学生運動から離脱した後ろめたさから救われたのではないか。「1968」という記号を冠する意味はそこにあるのではないか。著者(鹿島 茂)が吉本隆明の著作に初めて触れた年だという意味だけならば、それは個人的シーニュにとどまる。

全共闘・新左翼運動から日常に戻った学生たちは、吉本によってどのように救われたのか――吉本は、本書にもあるように、前出の革共同を批判した。「反帝・反スタ」を綱領化したからといって、その前衛党がスターリニズムに陥らない保証はない。すなわち、吉本は新左翼学生が参加した、当時の新左翼=反スターリン主義を掲げた前衛党こそが、スターリン主義にすぎないことを60年代初頭に明らかにしていた。学生運動から脱落した学生たちは、自らの政治参加が必ずしも正しい選択ではなかった理由を、吉本の著作によって確認した。新左翼運動=反スターリン主義運動だと確信して参加した全共闘運動・新左翼学生運動のほうが、より厳格なスターリン主義だった。だから、そこから離脱することは、誤った選択ではない(かもしれない)と納得し得た。著者(鹿島 茂)は吉本の著作の一部を引用して、次のようにまとめている。

吉本は、(中略)スターリニスト崩れのデマゴギーよりも危険なのは、心底真面目で、どこまでもマルクス主義の理想に忠実で、すべてを耐え忍んできたことだけを生きがいにしてきた詩人・黒田喜夫のような存在であるとして次のように述べています。いささか長めですが、これは吉本思想の核の核に当たる部分ですので、しっかり読んでもらいたいと思います。


以下、『情況へ』(宝島社、1994、吉本隆明[著])から引用――

こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。(中略)われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方が根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。(中略)幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか。(P417~P418)


詩人・黒田喜夫のところに、新左翼運動指導者の像を代入すれば、1968年以降の新左翼学生運動が辿ってしまった悲劇がそっくり、出力する。新左翼の闘い方、新左翼運動家自身の心性、闘いが目指すもの、新左翼が掲げた綱領、倫理性、そして倒錯まで・・・そのすべてが吉本によって否定できた。そうなれば、自分たちが新左翼学生運動から脱落したことは、残って闘い続けている学友に引け目を感じることなく、けして間違っていないのだ、という安堵感が得られた。学生運動から脱落し、生活者として市民社会に潜入することはいたしかたないのだ、“先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者を目指すことが解放なのだ”と。

図らずも、1970年以降、先鋭化した新左翼党派は、内ゲバ、リンチ殺人、爆弾闘争、無差別テロ等に進み、日本の反体制運動の歴史に例を見ない多くの犠牲者をだして自滅した。それは、ロシア・東欧におけるスターリン主義国家群の消滅より早かった。吉本隆明の指摘どおり、新左翼が反スターリニズムを掲げながら、旧左翼よりも急進的スターリン主義に染まっていたことは明らかだ。

さて、著者(鹿島 茂)の問題意識は初期の吉本隆明の転向論・ナショナリズム論の解説だけにあるわけではない。著者(鹿島 茂)の本書執筆の動機及び目指すものは、本書の最後の「少し長めのあとがき」において明かにされる。

著者(鹿島 茂)が目指す方法論は、自らが属している「団塊の世代」が起こした全共闘運動・新左翼運動を解き明かすことだということを、吉本の思想を絶賛した本文を終えた後の「少しながめのあとがき」において、エマニュエル・トッド、グナル・ハインゾーンという2人の人口動態学者の名前を挙げて、種明かしをする。

著者(鹿島 茂)は、吉本隆明の『日本のナショナリズム』の立論が、トッドやハインゾーンの方法論に偶然にも近いことを発見したのだと思う。吉本隆明の『日本のナショナリズム』では、明治、大正、昭和の大衆歌謡から、ときどきの大衆のエートスの変化が浮き彫りにされる。その変化とは以下のとおりとなる。

  • 明治期:欠乏の時代(近代の黎明期、貧困、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体は維持・継続)
  • 克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”に、ナショナリズムが集中。
  • 大正期:現実喪失、現実乖離、幼児記憶の時代(資本主義の高度化、成熟期)。(明治期の家族的、農村共同体が崩壊したがゆえに、現実喪失、現実乖離し、幼児記憶として家族的農村共同体を感性でとらえかえす時期)
  • 昭和期:概念化の時代(大衆のナショナリズムが実感性を失い概念的な一般性に抽象化)

明治期、農村を逃れた日本の「近代人」は都市で、克苦勤勉、節約勤勉、立身出世、“お国のために”というナショナリズムで発露した。大正期になると、「近代人」は、逃れてきた農村の貧困の記憶、封建遺制、農村・家・家族・人間関係における共同体の体験は、幼児期の記憶や喪失感として現実乖離したものとする。さらに昭和期になると、「近代人ジュニア」にとって、親から聞かされた農村の共同体的生活が概念化=理想化され、ユートピア化する。これが、ウルトラナショナリズムとして結晶化(純化)する。農本ファシズムの成立である。ところが、農本ファシズムは、軍部・官僚の統制に基づく天皇制ファシズムに政治的には退けられ、精神的には取り込まれる。その結果完成したのが軍事ファシズムであり、軍事ファシズムの管理統制の下、日本は戦争になだれ込む。

戦後の団塊の世代の学生運動の高揚については、以下のような世代的変遷を辿る。
  • 戦前・戦中:戦前派世代(=団塊世代の親):、軍事ファシズム政権の下、天皇制ファシズム教育を受け従軍、戦争体験をする。
  • 戦後~30年代:敗戦後、戦前世代は復員。焼け跡、飢え、貧困下において生活を立て直す。アメリカ型民主主義教育開始。
  • 昭和40年代:戦後高度成長経済のもと、復員世代のジュニア(団塊の世代)が大学生に成長。識字率の高い高学歴層の出現。飢え、貧困は克服)
この団塊世代が過激な学生運動の主体、つまり、グナル・ハインゾーンがいうところのユース・バルジである。ユース・バルジとは、戦闘能力の高い15~25歳の青年層のこと。

本書では、吉本隆明の思想の解説と絶賛の終わりとともに、「団塊の世代とは何だったのか」という問いが始まり、“ユース・バルジ”という、あたかも宙吊りにされたかのような回答が現れ、終わってしまっている。もちろん、このエンディングは、著者(鹿島 茂)の続編の予告だと解釈できる。人口学、人口動態学を駆使した「団塊の世代論」に期待したい。

2009年6月26日金曜日

マイケル・ジャクソン

が亡くなった。ご冥福をお祈りします。

享年50歳は若すぎる。まだまだ、できたパフォーマーだと思う。

がしかし、筆者はマイケル・ジャクソンの楽曲として知っているのは、「スリラー」のみ。

もちろん歌えないし踊れない(笑)

いまでこそあの程度のビデオ映像はどうってことないのかもしれないが、当時はやはり衝撃的だった。

映像と音楽が一体化した新たな表現が成立したのだと思うが、あまりよくわからない。

2009年6月23日火曜日

イランの混乱は誠に残念



イランの大統領選後の混乱は、政府の統制により沈静化に向かっているようだ。

ゴールデンウイーク、筆者がイランを観光で訪れたとき、観光客の目からは、このような事態になることはまったく予想できなかった。

今年はイスラーム革命から30年の記念の年、それに大統領選挙が重なっていて、何か起るというのは結果論であって、筆者滞在中には、騒乱の気配はなかった。ガイドさんからは、優勢を伝えられていた現職大統領が再選されると聞かされていた。

確かにいま思えば、そのガイドさんの話の節々から、イラン国民が息苦しさを感じているふうではあった。でも、毎日、お祈りを欠かさないイランの人たちが、イスラームの指導者に反旗を翻すには至るまいと思っていた。

観光客には、その国の実情を知ることが難しいことを、改めて実感した。

写真は「世界の半分」と賞賛された、イラン第二の都市イスファハーンにある「イマーム広場」である。

2009年6月18日木曜日

『カラー版 イタリア・ロマネスクへの旅』


●池田 健二[著] ●中公新書 ●1000円(+税)

日本人がイタリア文化に抱く親密性は、古代ローマとルネサンスに二極化しているように思える。イタリア観光で人気のある都市といえば、おそらく、ローマ、ポンペイ、ミラノ、フィレンチェ、ヴェネチア・・・と続くのではないか。イタリアの高級ファッションブランド購入ツアーを除くとしても、日本人のイタリアへの関心は、古代ローマ時代とルネサンス時代に集約されよう。

イタリアにも、もちろん、中世という時代がある。イタリアの中世、すなわち、ローマ帝国がゲルマン系諸民族の侵入を受け滅亡した後、イタリアの地では、古代ローマ文化とゲルマン系文化の融合が進み、さらに、ビザンツ文化の影響も加わった。こう書くと、いかにも順調に時代が進んだように思えるが、ローマ帝国滅亡後、異民族の侵入で疲弊したイタリアが活力を取り戻すのは、西ヨーロッパ地域の回復期と同様、10世紀以降のことになる。ローマ帝国の東西分裂(395)から数えて、実に500年以上を要している。

本書が取り扱うロマネスク芸術の時代とは、11世紀以降、十字軍遠征の時代(1096年から約200年間)をピークとし、その様式がゴシックにとって代わられるまでの間、すなわち、中世初期に該当する。ヨーロッパの農業が安定し、人口が増え、新たな産業が興りつつあった時代である。

ローマ帝国末期、イタリアに侵入した主なゲルマン系民族について時代を追って記すと、まず始め、フン族に追われたゴート族が2~3世紀にローマ帝国内に移動しはじめ、5世紀にはローマを一時支配するに至る。さらに、6世紀にはロンゴバルト族の侵入が始まり、ロンゴバルト王国が建国された。イタリアのロンバルディア地方という名称は、ロンゴバルト人の土地という意味だ。さらに、カール大帝が率いるフランク族により、774年にロンゴバルト王国は滅亡し、フランク王国の支配を受ける。

そればかりではない。5世紀、ゲルマン系のバンダル族がカルタゴを本拠にして、南イタリア、シチリア島を含むバンダル王国を建国している。また、12世紀、傭兵としてやってきてこの地に土着したノルマン族が、ノルマン公国を建国している。さらに、海賊として脅威を与えたイスラーム勢力や、長期にわたって介入を繰り返した東ローマ(ビザンツ)帝国(=ギリシャ勢力)の影響を加えることもできる。

“ロマネスク”の語意は「ローマ風」ということになるから、ローマ帝国のお膝元であるイタリアならば、その開花は当然のことだと思いがちであるが、ロマネスク芸術の担い手は、本家の古代ローマ芸術を担ったイタリア人ではなく、カトリックを受容した、ゲルマン系民族であった。イタリアに根を下ろした彼らは、ローマ風を基礎にしながら、彼らの出自とする北方的要素と、ビザンツ、イスラーム等の東方芸術を融合させ、ロマネスク芸術を開花させたのである。

さて、本書で取り上げられているロマネスク教会等の所在地は、▽ロンバルディア地方=ミラノ、チヴェーテ、パヴィア、▽エミリア・ロマーニャ地方(パルマ、モデナ、ポンポーザ)、▽ヴェネト地方(ムラーノ、トルチェロ、ヴェローナ)、▽トスカーナ地方(ピサ、ルッカ、サンタンティモ)、▽ラチィオ地方(サン・ピエトロ・イン・ヴァッレ、カステル・サンテリア、バロンバーラ・サビーナ)、▽アプルッツォ地方(ロシィーロ、サン・クレメンテ・ア・カヴァウリア、ペテロッラ・ティフェルニーナ)、▽プーリア地方(トラー二、モルフェッタ、オートラント)、▽カンパーニア地方とシチリア島(サンタンジェロ・イン・フェルミス、カゼルタ・ヴェッキア、チェファルー)である。

その中で筆者が見たことのある建物は、ヴェネト地方のヴェネチアの離島トルチェロにあるサンタ・マリア・アッスンタ旧大聖堂のみ。ミラノ、シチリア島には行ったことがあるが、サンタンブロージュ教会(ミラノ)、サンティ・ピエトロ・エ・パオロ大聖堂(シチリア島)には寄らなかった、というよりも、その存在すら知らなかった。

というわけで、ロマネスク芸術というと、フランス、スペインを想起しがちであるが、イタリアもあなどれない。本書を手がかりにして、未知なるイアリア旅行の企てが可能となる。

なお、池田健二[著]の『フランス・ロマネスクへの旅』が同じ出版社の同じ体裁(中公新書)で刊行されているので、併せての一読をお奨めする。

2009年6月16日火曜日

イランが心配

イランが大統領選後、混乱しているようだ。報道によると、デモ隊に死者が出たらしい。筆者はゴールデンウイークにイラン観光をし、とてもいい思い出をもって帰国できた。なによりも、イランの人々が親切だったことが印象深い。 このような事件があると、「やはりイランは怖いところ」となってしまう。

写真は、ムサビ支持のデモ隊が集結したアーザーディー・タワー周辺。テレビニュースの映像で見た人も多いと思う。筆者滞在中は、車が素通りするだけで、人が集まって騒ぐような気配はまったくなかった。

2009年6月14日日曜日

インドの味





スポーツクラブの帰り、中華料理店で偶然、旧友のS氏と遭遇。
食事後、チャイを飲みに、インド料理店のDに入った。店内にはインドの調度品、神様等々が所狭しと置かれていて、異国情緒あふれている。 最近、その量が増えたような気がしないでもない。

2009年6月11日木曜日

『アーリア人』

●青木健[著] ●講談社選書メチエ ●1700円(+税)


イラン観光から帰ったばかりの筆者にとって、本書の刊行はグッド・タイミングであった。筆者はかねがね、アーリア人に関心を抱いていたし、イランを観光先に選んだのも、この目でアーリア人の国・イランを見てみたいという願望からだった。そればかりではない。これまで雑然と、断片的に仕入れてきたアーリア人に係る知識を、いつか整理したいとも考えていた。

まずもって本書読後の感想をいえば、本書は筆者の願望を満たすに十分な内容だった。アーリア人に関心を持つ人すべてに、本書(及び著者が同じ出版社から刊行した、『ゾロアスター教』を併せて)の一読をお薦めする次第である。

さて、観光中、筆者は日本語の上手なペルシャ系イラン人のガイド・Rさんに、「イランの人たちは、自分たちのことをアーリア人だと思っているのか」と尋ねてみた。Rさんは、「もちろんですよ、私たちの祖先は、ザグロス山脈の麓に住んでいて、それからイラン全土、インド、そして、ドイツに移っていったのです。」と、誇らしげに答えてくれた。

たった1人のペルシャ系イラン人の回答をもって、現代イラン人の標準的回答と断ずることは危険である。だが、筆者は、少なくとも、ペルシャ系イラン人は、自分たちのことをアーリア人の子孫だと自覚しているものと思う。ただ、気になったのは、Rさんがアーリア人の原郷を現在のイラン国内(イラン西南部)だと確信している点と、アーリア人がヨーロッパ全域に移動したのではなく、「ドイツ」という特定の国に移り住んだとしている点だ。筆者の勝手な推測だが、イランのある時期の国史教育は、アーリア人に関し、意図的・作為的改変を加えているように思える。このことについては、本書に即し、後に詳しく触れてみたい。

ペルシャ系アーリア人がイランにおいて覇権を確立したのは、3世紀、ペルシャ人の王朝である、サーサーン朝ペルシャの成立以降のことである。同朝をもってペルシャ語がイラン全土に普及する。ただし、ペルシャ人たちは自らの王朝のことを、エーラーンシャフル(アーリア人の領土)と呼んだらしい。エーラーンはイランと同じである。

イラン系アーリア人には、ペルシャ人、キンメリア人、スキタイ人、サカ人、サルマタイ人、アラン人、パルティア人、メディア人、バクトリア人、ソグド人、ホラズム人、ホータン・サカ人らがいた。それぞれの歴史については、本書に詳しい。

アーリア人の定義

本書に基づき、アーリア人を正確に定義しておこう。

近代以降の言語学の整理によると――
世界の言語は、①印欧語(インド・ヨーロッパ語)、②アフロ・セム語、③ウラルアルタイ語――の3体系に分類される。印欧語には、現在のヨーロッパ各言語、イラン語(ペルシャ語)、インド語(ヒンドゥー語等)が含まれ、アフロ・セム語には、ヘブライ語、アラビア語等が含まれ、チュルク(トルコ)語を含むアジアの諸言語は概ね、ウラルアルタイ語系に属する。余談だが、日本語はこの3体系のいずれにも属さない、謎の言語だともいわれている。

次に、近年の考古学を含む歴史学の整理を本書6Pに従って紹介すると――
紀元前3000年頃、印欧語を話すある部族が、中央アジアで牧畜生活を営んでいたことが認められ、彼らのうち、ヨーロッパに向かう集団と、中央アジアに残った集団とに、分岐した。このとき中央アジアに残った集団をアーリア人と称した。

紀元前1500年頃、そのアーリア人のうち、インド亜大陸へ進出し定住民となった集団と、イラン高原へ進出して定住民となった集団、中央アジアに残ってオアシス都市の定住民となった集団、中央アジアに残ってステップの騎馬遊牧民となった集団、に分かれた。そしてし、それぞれの地域の先住民と融合し定住した者と、遊牧を続けた者がいた。

以上の言語学と歴史学の成果をまとめると、次のような結論が得られる。

▽中央アジア・イラン、インド、ヨーロッパの各言語には共通性が認められる。これらの地域の言語は、共通の祖語から派生した可能性が高い。共通の祖語をインド・ヨーロッパ語(印欧語)と呼ぶ。
▽この祖語を話していた民族のうち、中央アジア・イラン・インドに移動した人々をアーリア人と呼ぶ。がしかし、ヨーロッパ人も後世、自らをアーリア人の子孫であると自称し始めたので、アーリア人の概念は混乱していて、今日も、その混乱は続いている。

ここまでのところで、誠に残念なのは、まずもって、アーリア人及びヨーロッパ人の祖語である古代言語が、インド・ヨーロッパ語(印欧語)と命名されたことだ。正確には、インド・中央アジア・イラン・ヨーロッパ語とされるべきであったのだが、それは無理としても、せめて、インド・イラン・ヨーロッパ語と、イランを含めたならば、アーリア人という概念をユーラシア的スケールで把握することが可能となり、後世に現れた狭隘なアーリア人イデオロギーの発生を防げたかもしれない。

二点目は、中央アジア・イランに関するアーリア人の歴史研究が日本に紹介される機会が少なかったことだ。

本書は、著者(青木健)がイラン、ゾロアスター教の研究者であることから、印欧語族のうち、中央アジア・イラン系アーリア人の歴史を扱っている。インドのアーリア人の歴史については、実に膨大な歴史書、解説書が出されているので、それらと本書をつき合わせることにより、アーリア人全体が把握されることになる。

なお、近年、ヨーロッパに台頭した「アーリア主義」は、白人至上主義、有色人種及びユダヤ人差別のイデオロギーと無関係ではなく、アーリア人という本題に即するならば、まったく避けるわけにもいかないようで、著者(青木健)は、ナチスドイツにおけるアーリア主義に簡潔に触れている。ナチズムにおけるアーリア主義の詳細は、他の専門書を当たる必要がある。

イランの歴史

イラン系アーリア人の歴史を追うということは、図らずも、イランの歴史を扱うことに逢着する。ここでイランの歴史を概観しておこう。

古代、現在の中東、イラク、イラン、中央アジア――いわゆる、オリエント世界を制覇した中心勢力は、謎のシュメール文明(紀元前9000年頃)の存在はともかくとして、メソポタミア文明(紀元前3000年頃成立)~アッシリア帝国(紀元前800年頃成立)を含め、セム語系民族であって、アーリア人が主役となるのは、その後のことであった。

先述のとおり、紀元前3000~1500年頃にかけてが、印欧語族の移動時期にあたり、現在のイラン・中央アジア、アフガニスタン・インド亜大陸、ヨーロッパ方面の先住民と融合が始まった。現代のイラン人は、印欧語系の言語=現代ペルシャ語を話すという意味では、イラン系アーリア人の子孫であるが、人種としては、その後、この地を支配したアラブ系、チュルク(トルコ)系、モンゴル系の人々との融合が進んでいるため、純粋なアーリア人ではもちろんない。

紀元前546年、イラン系アーリア人の一派であるペルシャ人は、イラン高原、中央アジア一帯に住む、他のイラン系アーリア人(パルティア人、メディア人・・・)を糾合し、ペルシャ帝国をつくりあげ、ギリシャ人と覇を競った。そのようすがヨーロッパ世界・古代ギリシャの歴史書に残された。以降、西欧中心主義の近代歴史学により、ペルシャ帝国はヨーロッパ世界と対立する世界(オリエント世界)の代表格として規定されている。 ついでに、ペルシャとはギリシャ語で、古代ギリシャ人がイラン高原南西部に住むイラン系アーリア人のことをそう呼んだことに由来する。古代ペルシャ語では、「パールサ人」という。

紀元前333年、アレキサンダー大王が率いたマケドニア(ギリシャ)によってペルシャ帝国は滅亡する。ペルシャ帝国の当時の首都ペルセポリスはアレキサンダーによって破壊され、イラン高原西南部のペルシャ人の勢力の源泉地域はもちろんのこと、旧ペルシャ帝国の版図はギリシャ側に制圧された。けれど、ペルセポリスは宗教・儀礼の都であって、政治・経済の機能をもっていなかった。これをもって、イラン系アーリア人が全滅したわけではない。

226年、ギリシャ勢力の後退を受け、ペルシャ人のサーサーン朝ペルシャが成立した。同朝の管理下、イラン系アーリア人の信仰であったゾロアスター教が同朝の国教となり、布教と体系化が進んだ。また、ペルシャ語がイラン全土の標準語として普及した。サーサーン朝ペルシャの時代に、イランのペルシャ化が進んだ。

7世紀、イラン系アーリア人に大変動が起こった。アラブ人・イスラーム教勢力の侵入だ。

651年、サーサーン朝は滅亡し、イランは、アラブ人による支配を受ける。そして、ゾロアスター教はイラン全土からほぼ一掃され、イスラーム教が信仰されるようになる。イラン系アーリア人のイスラーム化が進む。

アラブ支配の開始から今日に至るまで、イランはイスラーム圏に属し、現在は熱心なシーア派イスラーム教を国教としているが、アラビア語が標準言語として話されることはなかった。そして、冒頭のイラン人ガイドのRさんのいうとおり、現代のペルシャ系イラン人はアーリア人としての自覚をもっている。

イラン人のアーリア人としての自覚というものが、古代アーリア人の帝国樹立(アケメネス朝ペルシャ)~同朝滅亡(ギリシャ勢力による支配)~サーサーン朝の復古的成立~同朝滅亡(イスラーム勢力による支配)~イスラーム国家の成立という変遷に関係なく、一貫してイラン人の意識の中に根付いているものなのかどうかは疑わしい。

そのことは、本書第4章「イスラーム時代以降のイラン系アーリア人」(P.231)にて扱われている。本書によれば、近代以降、イラン人がアーリア人意識を高揚させ始めたのは、19世紀に成立した民族主義(ナショナリズム)の台頭と不可分ではなかった。民族主義は、国民国家という概念を構成する要件の1つである。

19世紀、それまで続いたイスラーム教徒チュルク(トルコ)人支配に代わって、イスラーム教徒ペルシャ人が国家の主導権を握る。そのとき以来、積極的に導入されたのがアーリア人という国民意識であった。

1925年、パフラビー王朝が成立すると、同王朝は「アーリア人の栄光」を国民に浸透しようと努めた。パフラビー王朝の下、イランにアーリア主義が高揚する。同王朝は、ナチスドイツと親密な関係を結んだ。

アーリア主義の流れは、1979年のイスラーム勢力によるイラン革命により頓挫するが、今日のイラン国民の意識から一掃されたわけではない。ペルシャ系イラン人には、革命前の体制を懐かしがる人もいるという。

1979年、イスラーム革命以降、イランはイランイスラーム共和国として、イスラーム教に基づく国家となった。現在のところ、イランイスラーム共和国の民族構成は、人口の5~7割がペルシャ人、2~3割がチュルク系遊牧民、残り1割をクルド人等の少数民族が占める。イランは実は、多民族国家なのである。そして、国民の過半数を占めるペルシャ人の意識の中には「栄光のアーリア人」が潜んでいて、642年の「ネハーヴァンドの戦い」(サーサーン朝ペルシャがアラブ勢力に敗退した戦闘)の屈辱は忘れていない。

ペルシャ人(=イラン系アーリア人)は、7世紀以降、支配者となったアラブの宗教であるイスラーム教(シーア派)を熱心に信仰しながら、その一方で、アーリア人の栄光を忘れがたく心に秘め続けるという、大いなる矛盾の中にある。

現代イランの為政者が国を束ねるため、多数派とはいえ、アーリア主義を持ち出すと、そのほかの民族の離反を招き、分裂の危機を促進する結果となりかねない。多民族国家イランの核になるものは、イスラーム教だけなのかもしれない。

日本人にとっても、ユーラシア大陸の中央部を出自として、インドからヨーロッパに飛散した「アーリア人」は、歴史ロマンを秘めた魅力的な民族概念である。しかし、アーリア人というものは、歴史的概念であり、また、イデオロギーとなっている。民族・部族としては、清算された概念である。これをイデオロギーとして用いることは、ナチスの先例のとおり危険である。

本書を読むことにより、アーリア人に関する基本知識を整理しておくことが重要である。そうすることにより、非歴史的な、イデオロギーとしての「汎アーリア主義」が相対化され、歴史ロマンの魅力に屈する悲劇から、人類は守られる。

2009年6月7日日曜日

靴のバーゲン

朝一番で、靴のメーカー・R社のファミリーセールへ。それほどの混雑でもなく、いい買い物ができた。 家に帰ってすぐに、スポーツクラブへ。日差しが強く、とても暑かった。

ところで、考えてみれば、もう6月も半ば。一年が半分、過ぎようとしている。陳腐な表現だけれど、光陰矢のごとしである。

2009年6月4日木曜日

昨晩、仙台出張から、

帰りました。連休のイラン観光をはさみ、福岡、広島、仙台と、日本の大都市3つを訪問しました。そこで改めて感じたのは、日本の「国力」です。イランに限らず、ヨーロッパの大都市と比べても、日本の大都市は活力があり、よく整備されています。米国は、10年ほど訪れていないので、比較対象から外しますが。

とりわけ、物販のパワーは他国を圧倒しています。こんなにもモノがあふれている国は、おそらく少ないというよりも、存在しないのではないでしょうか。そのことの象徴が、コンビ二です。便利このうえない存在です。コンビニが都市型インフラとして、日本人の生活を支えているといって言い過ぎではありません。

さて、反面、日本の都市に味わいがないことも実感します。人が住むこと、暮らすことにおいて、詩情を醸し出す源泉――路地や裏町や旧市街のもつ魅力が、日本の都市から失われています。

近代日本(人)の都市観では、古いことが汚いことの代名詞になってしまいました。