2014年9月30日火曜日

御嶽山の噴火と火山噴火予知連絡会の無力

木曽の御嶽山が火山爆発し、登山中の多くの方々が犠牲になられた。心よりお悔やみ申し上げます。

それにしても許しがたいのが火山噴火予知連絡会という火山研究者集団。TVにその長と思われる者が登場し、ヌケヌケと、「水蒸気噴火は予知できない」という意味の発言をしていた。おいおい、そんな話は初めて聞くぞ、予知できないのならば常日頃から、そのことを広く明らかにしておくべきではないのかい――無責任極まりない。

同連絡会は気象庁の外郭か。そこにどれくらいの税金が投入されているか知らないが、水蒸気噴火が予知できないのならば、火山噴火はすなわち予知できないということに等しい。富士山、箱根山、三原山・・・関東地方に住む筆者の近くには、噴火の可能性がある火山が少なくないことを意味しないか。しかもそれらはかなり身近な存在だ。なかで富士山がその代表的存在。2013年に世界遺産に登録され、海外からも観光登山者が増加している。

登山はそもそも趣味の範疇にある。個人の趣味を強制的に奪うことはできない。登山には、悪天候、落石、滑落等に起因する事故もある。だから、登山者はそれらに対する備えをする。火山噴火が予知できないことが登山者に周知されていれば、火山に登る場合の必携品としてゴーグル、ヘルメット等が常識となっていた可能性もあるし、そんなもの要らないという登山家もいたことだろう。携行品にも強制は及ばない。ゴーグルやヘルメットを携行していても、火山爆発の規模や遭遇場所によって、死亡しないわけではない。ガスマスクというところまではいかないだろう。しかしそれでも、火山に登ることの覚悟はできた。噴火に遭遇する可能性はゼロではないのだと。

さて、今冬にも再稼働するとされる九州電力川内原発(鹿児島県薩摩川内市)の近くには、頻繁に噴火する桜島がある。今回の噴火以前、桜島が噴火する可能性は、筆者の素人認識では、御嶽山より高かった。たまたま、御嶽山のほうが早くに大規模噴火したまでだ。

安倍政権と同連絡会ははもちろん、今回の噴火があっても、川内原発の再稼働を強行するだろう。噴火の予知できない火山と、事故が起きても制御不能な原発の取り合わせほど、不気味なものはない。

3.11に代表される大地震及び大津波、大型台風、局地的集中豪雨、土砂崩れ、河川の氾濫、そして火山噴火と、日本列島は災害列島と化している。気候(気象)変動と地層・地殻の変動がいま同時的に日本列島を襲っている。しかも、科学はほぼなすすべを知らない。自然に対して人間の知が及ばないのは仕方がない。が、せめて自然現象の研究に従事する者(川内原発再稼働に関しては、火山噴火予知連絡会)は、謙虚に自分たちの知の限界を語ってほしい。自然現象を予知できないことは恥ではない。予知できないことを告白しないことの方が罪が重い。科学の限界を素直に語ることが、科学者の最低限のモラルというものだ。

人間が生み出しながら、人間が制御できない原子力発電所については、人間の知(=技術)がその制御を可能とするまで、稼働は控えるべきだ。少なくとも、地震予知及び火山噴火予知ができないという前提において、それに従事する科学者・専門家と呼ばれる者は、知の限界を体現する者として、原発の再稼働については反対の立場を表明することが期待される。

2014年9月19日金曜日

巡礼の道ツアー「旅友」と再会

2003年に参加した、サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の道ツアーの「旅友」と久々に再会した。

 再会したのは、65歳で浅草北部教会の牧師になられたOさんはじめ、4人が洗礼を受けている方だった。

 話題は信仰について、牧師のお仕事等、教会の内情など、普段は聞かれないものばかり。

なんとも奇妙な食事会となった。




2014年9月14日日曜日

朝日は謝罪会見で安倍ファシズム政権に恭順の意を表した

朝日新聞社が揺れている。「慰安婦問題」記事及び福島第一原発事故における「吉田調書」の記事において誤報を認め、謝罪会見をしたのだ。前者については実に32年前のことだという。誤報はあってはならないことだから、朝日新聞を擁護することはまったくできないが、筆者は、このたびの朝日の謝罪に違和感を覚えずにはいられない。なぜ、この時期に謝罪会見をしたのだろうか。

昨今、新聞が「社会の木鐸」であるとか、真実を伝える「報道機関」だと信じている人はおそらく少数派だろう。毎朝夕、家庭に配達されるこの不細工な印刷物は、ニュースの量、質、速度の面から考えても、時代にそぐわない。なんでこんなゴミに近い代物を日本人は購読料という形で買ってしまうのか不思議でならない。毎朝、食事をしながら新聞を眺め、政治、文化、家庭、娯楽、スポーツ等に区分された「情報」により、己の行く末に思いをめぐらすのが、日本人の身体化した「思想の形式」なのか。

3.11以降、筆者は新聞をやめた。ところが、家人の強い反対により再び購読し始めた。仕方がない。一度やめて、再び新聞を手にしたときの感慨としては、新聞というのは、印刷物(広告媒体)――しかも、かなり質の悪い――というものであった。

さて、謝罪した朝日新聞社である。日本の一部の知識人の中には、朝日新聞を左派だと信じている人がいる。だから、そのような朝日シンパは、このたびの問題をいま安倍政権の下で勢力を強めている右派(産経、読売、毎日、文春、新潮等)が、左派の頭目である朝日を屈服させようとして言論弾圧を仕掛けたのだと解釈している節がある。

だが、このような見方は、実にくだらない。朝日は左派ではないし、左派であったこともないからだ。アジア太平洋戦争前から開戦後にかけて朝日は戦争推進のキャンペーンをはっていた。開戦後は、大本営発表を垂れ流し続けていた。好戦、開戦、大日本帝国万歳の新聞だったのだ。

ところが敗戦後、こんどは平和と民主主義の旗手に変身した。その間、朝日新聞が戦争責任について国民に謝罪をしたとは聞いていない。

大日本帝国万歳から平和と民主主義への大変身がなぜ可能だったのかと言えば、朝日にはなんの哲学もないからだ。戦後は平和と民主主義の風潮に乗って、厭戦気分の残る日本国民に媚を売り、部数を伸ばしてきたにすぎない。32年前の慰安婦報道は、朝日の戦後の路線の延長線にすぎない。その路線が誤報を生んだのだ。日本の「進歩派」と呼ばれる一部大衆に迎合して、ガサに飛びついたまで。もちろん朝日の目的は部数拡大、拡販である。話題性があって、「進歩派」に受けることで、日本の「知性」を代表し、「平和と民主主義」を守る新聞だというポジションを維持したかったのだ。

原発事故における「吉田調書」報道においても、その名残が認められる。悪いのは「東電」なのだから、叩けば自分たちの株が上がるという思い上がりだ。

だが、かくも傲慢な朝日新聞が、なぜ、いま、謝罪に及んだのだろうか。慰安婦報道では32年間、報道機関の戦争責任という面では70年が過ぎようとしているのに、いまだ謝罪に及んでいない彼らが、なぜ突如、白旗を掲げたのだろうか。

巷間言われているのは、部数減だ。定期購読者の解約が止まらず、部数減に歯止めがかからなくなったらしい。これは朝日最大のピンチ。先述したように、新聞は広告印刷物であるから、部数が減れば広告収入も減額する。だから、謝っておこうという考えか。

もう一つ、筆者の見解にすぎないが、朝日がいよいよ、「進歩派」の看板を下ろそうと決めたのかなと察する。安倍政権が政権発足後から積極的に推進してきた裏の政策の一つにマスメディア封じ込めがあることはよく知られている。うるさいメディアを黙らせること、政権・政策批判をさせないという圧力をマスメディア(新聞、TV)にかけ続けてきた。

そもそも、朝日新聞は(朝日に限らないが)、そのときどきの状況に流される体質をもっている。前出のとおり、“鬼畜米英”から“平和と民主主義”、すなわち、野蛮から進歩への変身くらいはお手の物の新聞である。いまこの期に及んで、「進歩派」から安倍ファシズム政権に擦り寄ることくらいは平気の平左である。つまり、あの朝日新聞社長の謝罪会見は、安倍ファシズム政権に恭順の意を表するパフォーマンスだったのではなかろうか。いわば、朝日は朝日なりに、けじめをつけたのかもしれない。

朝日はかくして、産経、読売、毎日と横一線で並ぶ資格を得たのかもしれない。筆者は朝日新聞を読んでいないので、チェックのしようはないのだが、日本の大新聞すべてが、はっきりと安倍ファシズム政権に取り込まれたのならば、それは誤報よりも恐ろしい事態の到来だと言わねばなるまい。

2014年9月3日水曜日

『谷川雁 永久工作者の言霊』

●松本輝夫〔著〕  ●平凡社新書  ●880円(税別)

“かつて「難解王」と呼ばれた”(P8)谷川雁(1923~1995)――は、ある世代の者にとって、伝説の人である。詩人→突然の詩との決別宣言、日本共産党山村工作隊活動家→共産党離党、新左翼革命家、評論執筆、人妻・森崎和江と筑豊・中間への出奔と同棲、労働運動(大正行動隊、大正鉱業退職者同盟)指導者→新左翼運動・労働運動からの完全撤退、すべての表現活動の休止、言語教育会社(テック)重役就任→同社組合弾圧、テック退社、「十代の会」組織化運営、復活・・・

雁の履歴をこうして素描してみても、その実像を明確に把握することは難しい。雁と同世代であり、60年安保闘争を反日共系活動家として共闘した吉本隆明とは、詩作を出発点としたところなど、重なり合う活動領域・思想領域が認められるものの、二人を截然と分けるのは、雁が会社の重役となり、さらに組合弾圧を行った履歴にある。

これまでのところ、雁がテックという会社で具体的にどのような仕事を担い、何を志向していたのかについてはあまり語られることはなかった。テック時代の雁はベールに包まれ、そのことが雁の神秘化、伝説化を助長していた。本書は、テック時代の雁をかなり明確にしている点で、「谷川雁論」として新鮮な位置を占める。

著者・松本輝夫

本書の著者・松本輝夫(1943~)は、東京大学在学中、筑豊・中間にて雁と出会ったことを縁に69年にテック(1985年、ラボ教育センターと社名変更。本稿では知名度の高い「テック」にて通記することとする。)に入社し、同社労働組合活動に従事。その後、雁を追い出す形でテック(ラボセンター)会長に就任し、2008年に同社を退社している。退社後は谷川雁研究会(雁研)を起こして代表に就任。著者の経歴からみて、本書に書かれたテック時代の雁の姿については、信頼性が高いものと考えていい。

本書の構成

そんな雁であるが、彼は革命家であろうとしたときにおいても、マルクス・レーニン主義者ではなかったし、プロレタリア革命を志向したこともなかった。雁が思い描いた革命の主体は、“前プロレタリアート”と彼が呼んだところの炭鉱労働者、貧農民、被差別部落民、在日朝鮮人といった、当時社会の底辺の人々だった。谷川は共産党オルグ(山村工作隊)時代に出会った貧農民や、筑豊・中間への移住によって出会った炭鉱労働者等の中に無政府主義的暴力性を認めた。当時の日本においては、下層大衆の内に暴力的エネルギーが実在していた。雁は彼らに革命の可能性を仮託した。“前プロレタリアート”の原郷を探れば、ソヴィエト(評議会)よりも、アジアの小村(共同体)に行き着く。そういう意味で、雁は革命的ロマン主義者の群れに属していた。

さて、本書の構成は以下の通り。

・第1章:誕生(1923年)から西日本新聞社入社(1945年)まで
・第2章:新聞社入社から筑豊・中間に森崎和江を伴っての移住(1958年)まで
・第3章:中間移住から(株)テック入社(1965年)まで
・第4章:テック時代の雁の仕事(経営・販売・商品化)について
・第5章:テック時代の雁の創作(商品)について
・第6章:テック労組結成(1968)から雁の退社(1980年)の経緯
・第7章:テック退社から死去(1995年)まで
・終 章:3.11以降の日本における雁の意味を問う論考

雁は若くして子どもを亡くしていた

第1~2章の中で注目すべきは、雁が第一子(空也)を雁が27歳の時に亡くしていることである。もちろん、雁が20代半ばで結婚していた可能性も高い。ところが、空也の母(すなわち雁の妻と思われる女性)及び空也の死については、これまでの雁関連の出版物にある経歴、年譜には書いていない。筆者はもちろん本書において初めて知った。この件について著者(松本輝夫)は次のとおり書いている。

それにしても残念なのは、どの谷川雁年譜をみても、かくも大事件であった空也の死が記されていないことだ。それとの関連もある空也の母親との結婚についての記述も皆無。もしかしたら生前の雁が年譜に入れることを頑なに拒んだのかもしれないが、そうだとしても没後作成の年譜においても、結婚はともかく空也の死について触れていないのは、どう考えても大欠落といわねばならない。(P62)

表現者が若くして実子を亡くしたということは、そのことを契機として、以降の表現全般に大きな影響を及ぼす。雁の年譜作成におけるこの“大欠落”は、たとえば詩人中原中也が長男文也を亡くした事実を年譜に入れないくらい重い欠落と言わねばならない。中原中也を論ずるに、文也の死を抜きに語れないことは言うまでもないように、雁を論ずるに、空也の死を抜きには語れまい。子どもに対する執着は、雁が後にテックに入社し、子ども向けの言語教材の制作に注力したことと無関係ではあるまい。

雁と中也が亡くした子どもの名前に「也」の字がついているのは、偶然なのだろうか。加えて、雁と森崎和江の関係で言えば、雁は、夫のある森崎を奪ったかたちで筑豊・中間に移住した。中原中也と長谷川泰子の関係と対照すると、雁は中也から泰子を奪った小林秀雄の位置にあった。雁は中也のような“口惜しき人”ではなかった。

もう一つ注目すべきは、雁の兄であり民俗学者の谷川健一の影響である。雁が常に下部(原点)へと志向した思考方法は谷川民俗学に重なる部分もある。なお、雁の幼年期については、自伝『北がなければ日本は三角』(河出書房新書)に詳しい。

テック入社の経緯と雁の仕事

本書の際立った特徴は、前出のとおり、雁のテック時代を明らかにした、第4~6章にある。60年安保闘争において、当時最左派だったブント(共産主義者同盟)を応援し、その後に労働運動を過激に闘った雁が、なぜテックという民間企業に入社し、そこで重役に就任し業績を上げ、かつ自社の労働組合を弾圧し、そして同社から「追放」されたのであろうか。この変節ぶりは雁を論ずるにおいて、もっとも難解な部分だろう。

本書においては、雁がテックに開発部長として入社した経緯はわかる。

テック創業者一族(榊原巌・千代夫妻、息子の陽等)との縁によって入社した・・・。榊原巌・千代夫妻は篤実なキリスト教社会主義者、・・・二人とも日本社会党党員。千代は国会議員になったこともあり、巌は青山学院大学教授を長く務め、教会共同体の研究者でもあった。・・・この一族が、詩人としての雁、工作者としての闘争歴に相当な関心を寄せていたにちがいない。(P130~131)

では雁はテックでどのような仕事をしたのだろうか。本書における記述を大雑把にまとめると、雁は商品企画開発(物語)、販売網の整備(ラボ運動)を行った。テックとはどんな会社かというと、ラボ機という独特の言語学習機器開発と外国語習得教材の販売である。雁が行った商品開発とは、物語を使って子どもたちに英語を学ばせるというもの。その教材となった物語は、雁自らが原作を超訳して書き上げたものや、雁のオリジナル作品であった。音声吹込みに当たっては、C・W・ニコル、林光、間宮芳生、高松次郎、野見山暁治、江守徹、野村万作、岸田今日子、米倉斉加年らの役者、専門家を起用した。そして、雁のつくった教材は売れたのである。雁が子ども向けの物語に注力したエネルギーの源泉は、前出の空也を亡くした欠損の感覚の穴埋めだったかどうかはわからない。

それだけではない。むしろ販売方法が当時としては斬新で、テックは全国規模で「テューター」と呼ばれる女性英語教師を募集し、教室を開かせ組織化し、そこに子どもを集めて集団で英語を学ばせる方式(「ラボ・パーティー」)をとった。雁の入社後、雁の商品開発と販売網の整備により、テックは大きく業績を伸ばしたという。

さらにテックは東京言語研究所を立ち上げ、ノーム・チョムスキー、ローマン・ヤコブソンといった世界的権威の言語学者を日本に招聘し、『言葉の宇宙』という言語(学)研究誌も創刊した。これらの提案者は雁であろう。テック創業者・榊原一族による雁の採用は経営的には大成功した。

さて、この時代の雁の「成功」を神話化しないためにも、雁の業績を客観的に見直しておこう。雁が制作した教材テープについては、筆者は聞いていないのでその価値を評価できない。ただ、本書のとおりならば、商品のポジショニングとしては、いわゆる「本物指向」「高付加価値化」であり、それが当時の市場に受け入れられたものと考えていい。物語に固執した雁の創作の質については、筆者は評価する力量をもっていないので評価は行わない。

特筆すべきは、雁がつくりあげた販売方式と販売網(=テュータ―によるラボ・パーティー)である。この販売方式は、当時としては最新の方式であったように思われる。日本の高度成長期、アメリカのマーケティングが浸透するにつれ、ホーム・パーティー形式とねずみ講が合体したマルチ商法が流行して今日に至っているが、雁はそれとは無関係にホーム・パーティー販売を組織化した。雁が発案した「ラボ運動」の根源に、雁が九州の山村で組織化を夢想した「サークル村」があったことは確かだろう。

ラボ・パーティーが一挙に全国津々浦々に生まれていくのをみて、雁のなかでは個々のパーティーがかつて日本変革の夢を託した「サークル」と二重写しになっていたのではなかろうか。(P139)

しかしそうであったとしても、雁の思いとは裏腹に、ラボ・パーティーは商品を売るための場であり、革新的なマーケティング技術のひとつの範疇として当時機能していたに過ぎない。

また前出のテックが行った文化事業は現代の経営の用語で言えば、企業メセナである。企業の価値を高めるため、私企業が若手芸術家に対して助成したり、美術館を運営したりするのと同次元にある。雁が当時、自己実現しようと意図した商品開発、商品販売、文化事業等は、いまではあたりまえの経営手法でしかない。

事業の行き詰まりと雁のテック追放

順風満帆だった雁によるテック経営も市場における競争と淘汰の波にさらされる。つまり事業の行き詰まりである。経営の行き詰まりは労使問題として表出する。67年にテック労組が結成され、71年にテック(=雁)は労組を刑事弾圧する。その後もテックの組織混乱は続き、業績も低迷する。そして、79年、雁は榊原一族から解任されかけ、ついには80年、雁は同社を退社する。

雁がテックを出ていかざるを得なくなった理由は、雁が開発した商品が売れなくなったから。言語教育商品の多様化があり、テックの商品が時代に合わなくなったのだろう。雁が経営の一翼を担う者ならば、当然、売れる商品を開発し続けなければならなかった。それまでのラボ・パーティーに依存せず、新しい販売方法を考えなければならなかった。それがテックに従業する労働者に対する経営側(=雁)の義務であり責務であった。ところが、雁は商品ではなく自分の創作に固執した。

テックを私物化した雁

著者(松本輝夫)は雁のテック退社の理由について、(一)経営者で ありオーナーである、榊原一族(とりわけ二代目の陽)との不仲、(二)雁、陽がともに理念優先型で、経営者に求められる計画性、バランス感覚、自己抑制能力を軽んじる傾向が強かったこと、すなわち、雁、陽ともに経営私物化、公私混同の傾向が強かったこと、(三)労使関係のとりかたがなっていなかった――の3点を挙げている。そのうえで著者(松本輝夫)は、雁の経営者失格のエピソードとして、松本健一の『谷川雁 革命伝説』から引用して、次のように書いている。ちょっと長いが、しかも引用の引用だが、雁を知るうえで重要だと思われるので紹介しておこう。

75年3月、かつて『試行』を一緒に起こした三名のうちの一人でもあった村上一郎が自刃した際の通夜の晩のこと。埴谷雄高や吉本隆明らと10年ぶりに再会し、二次会は夜中の3時すぎまで続いたのだが、その飲み会が解散した際、松本健一に対して「ぼくは会社の車を待たせてあるから一緒に乗っていかないか」と誘って同乗させてくれたという。(谷川雁 革命伝説)
このくだりを目にしたとき、筆者(松本輝夫)はただちに雁は経営者として一番やってはいけないことをやっているのだなとやる瀬なく思ったものである。個人的な通夜参加に運転主付きの社用車で参加した挙句、延々と夜中の3時すぎまで待機させておくなんて経営者の風上にもおけないではないかと。しかも矢川澄子(翻訳家。雁を「神様」と敬愛して後に黒姫の雁宅近くに移住)の年譜をみると、松本健一をどこかで降ろした後には、なんと明け方彼女宅にも押しかけているのだから公私混同の極みだ。(P104~105)

雁が支配したテックはブラック企業だった

第三の労使問題も重要である。著者(松本輝夫)は、「テック労組が・・・賃金政策などをめぐって経営批判することに対して経営者側は過剰なまでの反撃と労組批判を繰り返すのが常だった」(P205)と述懐している。

雁は「ラボ・テープを愛せない者は組織担当であることはできないし、ラボにいることもおかしい」が口癖であり、筆者自身も雁から直接そう言われたことがある。仕事上は原理的に真っ当なことをいってはいるのだが、それが押しつけ、強制となると話は別だ。・・・当時のテックには、賃金政策においては全体として低賃金な上に異常に大幅な査定を実行、人事政策においてはテックの理念への同化が乏しいとみなされた者は干されるといったことが常態化していたのである。(P206)

ともあれ、テックの経営者としての雁には多々問題があったことは否めない事実だ。教育運動家、物語論の語り手、あるいはラボ・テープ制作者としての雁は神がかり的なひらめきとパワー、オルガナイザー能力を縦横に発揮してラボ教育活動の礎を築いたのだが、中小企業経営者としての雁には(本当はこう簡単には腑分けできないのだが)必要不可欠な器量の不足、そして不要な過剰や逸脱が山ほどあったということになろう。謎と矛盾のかたまり谷川雁の宿業であったというべきか。(P213)

当時のテックという会社は、いまで言うところのブラック企業そのものである。そして雁はそのブラック企業の経営の中心にいたことになる。雁にとってテックの従業員は何だったのか、雁の夢を実現するための手足にすぎなかったのか。かつて労働運動を指導した「革命家」の正体は、労働者を人間として扱わない、圧殺者であったということか。

元「革命家」の企業経営

筆者の読解力が不足しているからかもしれないのだが、本書を読了しても筆者が読み解けない謎が残っている。それは、雁がなぜ、何を目的として、テックに入社したのか――という点である。テックが制作・販売する商品が子ども向けの言語教材であることは既に書いた。そこに入社し仕事をするということと、雁がこれまで行ってきた運動及び思想とをどのように結びつけようとしたのだろうか。雁がかつて思い描いた革命の主体は“前プロレタリアート”だったはずだ。雁が“前プロレタリアート”を見捨てたのならば、そのことの思想的総括が必要だったのではないか。テックを創設した榊原一族からの入社要請だけで、「革命家」から「会社重役」に移行できるものなのだろうか。

日本においては、共産党員が離党後、会社経営者になることは珍しくない。セゾングループ総帥だった堤清二、読売新聞社主・渡邊恒雄が有名である。堤は経営者と文学者の二足の草鞋を履き、文化事業(セゾン美術館の創設運営等)にも熱心だった。一方の渡邊は、読売グループの「独裁者」と自らを称し、経営者に特化している。雁は渡邊よりもむろん、堤に近い。堤は雁と同じように、企業経営と文化を融合しようとした挙句、経営に行き詰まり、セゾングループから追われた。

雁はテックの言語教材にどのような可能性を求めたのだろうか。本書では「物語」だというが、言語教材の物語とラボ・パーティーが敷衍することによって、雁は日本が変わると夢想したのだろうか。時代は高度成長期とはいえ、雁は言語教材の物語とその販売網の拡大によって日本人が変わると考えられるほどの楽天主義者だったのだろうか。

仮に雁が子ども向けの教材と物語に日本の未来を託したのならば、テックから追い出された(表面上は円満退社)後においても、それに賭けるべきだった。ラボ・テープというメディアを失っても、ガリ版、手書きでいいから、物語をつくり続けるべきだった。ラボ・パーティーという子どもたちへの語りの場を失っても、私塾でいい、寺子屋でいいから、集められる範囲の子どもたちに向けて、物語を発信すべきだった。

・・・ラボ時代=沈黙・空白期という通説は虚妄でしかないが、しかし、こうした「伝説」が流布したのには他ならぬ雁の責任もきわめて大きいということ。彼自身がこの時代をほとんど封印して語らないままラボ後の人生を過ごしたのであるから、これは結果的には自己伝説化を図ったとみなされてもやむをえまい。(P19)

大正末から昭和初期生まれの男の人生

私事になるが、筆者には母方におじが3人いた。一番上(1916年生まれ)が中小企業経営者として財を成した。二番目は実家の酒屋を継いだものの放蕩をくりかえし、その挙句に区議会議員になり区議会議長を務めて引退した。一番下(1926年生まれ)は労農派マルクス主義に心酔し組合専従となり、結果、労働貴族となった。引退後は関連団体の相談役や顧問を務めて悠々自適の生活を送った。筆者のおじに詩人はいなかったが、3人ともロマン主義者で、そして「いつも威張って」いた。そして、(雁も)「いつも威張っていた」(鶴見俊輔、森崎和江、矢川澄子らの証言)(P256)らしい。世代的にも雁が1923年生まれだから、同世代と言っていいだろう。

世代論に還元する気はないが、筆者が勝手に描く人間・雁のイメージは、筆者の3人のおじを合体させたようなものとなる。雁は筆者の3人のおじの人生(会社経営、政治運動参加及び組合運動)を合算した以上の人生をたった一人で生きた。むろん、思想性や影響力において、雁と3人のおじとはまったく比較にならないのだが、目指した方向性及び注いだエネルギーの類型としては、けして異なっていないようにも思える。

谷川雁を伝説化してはいけない。その矛盾に満ちた一生を思想として読み通す努力がわれわれにはまだ、残されている。

2014年9月2日火曜日

9月

きょうはちょいと暑いけれど、ここ数日ですっかり秋めいてきた。

2014年も残り三分の一。

サッカーW杯で盛り上がったあとの脱力状態から立ち直らぬまま、終盤を迎えてしまった。

さて、恒例の猫の健康チェックから。

といっても、体重を測るだけだけれど。

まずNicoだが、6.1㎏で0.2㎏の増、そしてZazieは4.4㎏で0.1㎏の増。

ここのところ、微増微減を繰り返している。

健康だと思っていいだろう。

Nico

Zazie