2010年12月30日木曜日

この時期、

赤い実を付けるのはピラカンサス? 南天?





2010年12月27日月曜日

いよいよ

門松や 冥土の旅の 一里塚

週末は体調不良でダウン。やっと回復傾向に。原因は不明。街には、既に門松がたてられている。一年が終りに近づいた。

2010年12月16日木曜日

延命院





巨大な椎の木



@Nishinippori

2010年12月15日水曜日

柿の木ではない・・・




@Higashinippori

2010年12月9日木曜日

桜の木、伐採反対





「夕焼けだんだん」上の桜の木。伐採されるという話。そして、反対運動も。

「伐採反対」の短冊が。

2010年12月8日水曜日

眠り



@Yanaka

2010年12月6日月曜日

歌舞伎役者と元暴走族グループの関係は?

このたびの歌舞伎役者「殴打事件」に係る報道のあり方は、日本の権力・管理機構が行使する、“犯人づくり”のパターンを踏襲しているように思われる。この事件の当初の報道について筆者は、「松本サリン事件」のときの誤認逮捕を思い出した。あのときの報道とよく似ている。しかし、このたびの事件の最大の謎の一つは、歌舞伎役者と暴走族グループとの関係、彼らはどのような間柄なのか、ということに尽きる。

○「まちの喧嘩」に警視庁が捜査

歌舞伎役者が泥酔して引き起こした喧嘩、揉め事であるにもかかわらず、マスコミ、歌舞伎業界、警視庁が共同して、歌舞伎界の「人気者」を守ろうとしたような気配が感じられた。だが、その思惑は外れたように思う。三者共同の情報操作は失敗し、マスコミ報道の流れは変わった。ある企業は、アルコール中毒の疑いのある、事件当事者の一人・歌舞伎役者の出演するCMを中止した。当然である。市場の判断に淀みはない。市場はこの事件の背後の闇に気がついている。

当局は歌舞伎業界の「証言」を検証なしに受け入れ、警視庁が捜査を担当した。そして、当局、歌舞伎業界の意を受け、マスコミは一方的に「犯人」のおどろおどろしいイメージを報道し広汎に流布させた。TV、新聞、雑誌等の芸能マスコミが仕立て上げた“犯人像”は、以下の通り――六本木界隈を暴れまわるギャンググループに属している凶暴な性格の青年。外国人とのハーフ、プロサッカーのユースに所属していたが、途中で選手になることを諦め、暴走族に入会、そして・・・というようなものだった。

六本木、西麻布界隈には、暴力団予備軍のようなギャンググループが複数結成されていて、芸能人、外国人に絡んで暴行に及んだり金銭を巻き上げたりしているといわれる。おとなしく酒を飲んでいた歌舞伎役者が、いきなり、そのような輩に絡まれ、暴行を受け、商売道具の顔に重症を負った。これは大事件、犯人を逮捕しろ・・・というわけで、警視庁がその青年の逮捕状をとった。

○マスコミはなぜ、アル中・歌舞伎役者を善良な「被害者」と報じたのか

ところが、事件の詳細が関係者の証言で分かりかけてきた。どうも、重症を負ったとされる歌舞伎役者が深夜、飲食店で泥酔した挙句、立ち回りを演じたようだ。このたびの事件は、まちの喧嘩にすぎない。喧嘩両成敗が妥当だろう。ところが事件後、前出の通り、マスコミは、歌舞伎役者が一方的に暴行を受けたかのように報道し、警視庁が出動し、暴行したとされる青年に逮捕状が出た。

その間、その青年の身体的特徴や父親の国籍等の属性がマスコミを使って流された。そこには、“凶悪なギャンググループ”が歌舞伎役者を襲撃したかのような印象を人々に与えようとする意図が感じられた。当コラムにて既に書いたように、マスコミは、その青年の人権を著しく侵害した。

歌舞伎役者~当局~マスコミの3者が共同して、喧嘩相手を「傷害犯」に仕立て上げ、泥酔歌舞伎役者の愚行を隠そうとした疑いが濃い。

○当局が歌舞伎役者から事情聴取をしないのはなぜか

警視庁は、「被害者」である歌舞伎役者の容態が悪く、事情聴取ができないと発表したようだが、12月2日に放映された某TV局のスクープ映像によると、歌舞伎役者は、スエットのようなズボンに白い半そでのTシャツ1枚、12月初旬ながら気温17度前後の暖かい日とはいえ、当局の事情聴取を受けられない「重病人」の装いではない。

顔にはマスクをつけ、薄いブルーのニット帽姿で、プラスチック製とみられるベンチを両手で軽々と持ち上げて、4メートルほど先の日だまりへ運んだ。事件で負った全身打撲の影響はない。白衣を着た、担当医師と思われる人物と談笑し、単行本のような書物を読んでいた。先月29日に左ほおの陥没骨折など顔の整復手術を受けた跡が気になるのか、時々マスクをはずし手で左のほおをなでるしぐさも見せた。医師と談笑はできても、当局の事情聴取には応じられないというわけか。当局は有名人を優遇するのか。

警視庁は、歌舞伎役者を「被害者」として入院させ、「被害者」である歌舞伎役者に対して、○○に係る検査をせず、××が体内から抜ける時間を与えたとも想像できる。

○まちの喧嘩にどうして警視庁が大勢の人員を投入するのか

繰り返すが、このたびの事件はまちの喧嘩。せいぜい喧嘩両成敗、示談でいい。交番詰めの警察官が2~3名事件当夜にかかわれば充分な事案である。ところが、警視庁は事件発生から事件現場を封鎖し、鑑識はじめかなりの人員を投入している。愚かである。税金がもったいない。

警視庁は多くの未解決事件を抱えているのではないのか。そのなかには、人命が奪われた凶悪犯罪がかなりの件数含まれているのではないのか。泥酔した歌舞伎役者が引き起こしたまちの喧嘩ごときに、多数の人員を割く余裕があるのか。

警視庁は注目される事案、有名人がかかわったものを特別に扱うのか。有名人は特別扱いなのか。歌舞伎が日本の伝統芸能だからか。それとも・・・

○逮捕状の出た青年はなぜ、出頭しないのか

逮捕状の出た青年を警視庁が逮捕しない理由はわからない。マスコミ報道では、行方がわからないとされているが、それを信じる人はごく僅かだろう。

筆者は、「被害者」とされる歌舞伎役者側と加害者とされる側=「逮捕状」が出た青年の間で、なんらかの交渉が行われているものと憶測・推測する。当局も、交渉の時間を両者に与えているのではないか。今後、歌舞伎役者側が被害届を取り下げ、示談とするかどうかが注目される。

○裁判になれば、歌舞伎役者の「過去」と「事件当夜」のすべてが明らかにされる

歌舞伎役者側が被害届を“無条件”で取り下げると、この歌舞伎役者が当夜行ったことすべてが暴露されてしまう可能性が残ってしまう。歌舞伎役者にとって、公開されると困る情報を、「加害者」側が握っている可能性が高いからだ。「加害者」側がマスコミに事件の顛末を話し、彼らが保有している情報が公開されると、役者側にとって失うものが、甚大すぎるのではないか。

いまのまま、被害届を受理した当局が「加害者」を逮捕し起訴すれば、公判となり、役者側の事件当日の言動はもちろんのこと、過去の言動のすべてが法廷にて、暴露されることになる。筆者が加害者とされる青年の弁護士ならば、当該歌舞伎役者が当夜にとったすべての言動・行動を明らかにする。関係者すべての証言、証拠写真等を弁護側証拠として法廷に提出し、歌舞伎役者の「非」を傍証する。つまり、本件が一方的傷害事件ではなく、歌舞伎役者が泥酔して起こした結果=喧嘩となった必然性を傍証する。

簡単にいえば、本件が役者の挑発によって起こされた“喧嘩”であったと主張する。事件当日、本件を目撃した者にとどまらず、過去において、歌舞伎役者が泥酔してとった愚行の数々を知る者を弁護側証人とし出廷させ、一部始終を証言させる。

加えて、当夜の行動の一部を撮影した映像等があれば、それも弁護側の証拠として、裁判所に提出する。かかる複数の証言、証拠は、歌舞伎役者が一般市民ならば持ち合わせているはずの常識をわきまえない人物であること、一般人とかけ離れた人物であること、を明らかにすることだろう。

そのとき、歌舞伎役者側に立つ検事は、逮捕した青年の過去をもって、いかに凶暴な性格であったかを傍証するだろう。しかし、そのことが世間に知れ渡ったとしても、その青年が失うものは何もない。

○歌舞伎役者と「ギャンググループ」との関係

筆者は「殴打事件」に興味を感じない。殴り合いがどのような経緯で起ろうとも、酒の上の喧嘩にすぎない。

筆者の関心は、「被害者」とされる歌舞伎役者と、夜の「ギャンググループ」が、いかなる関係で結ばれているかにある。歌舞伎役者は、当日予定されていた記者会見を「体調不良」で取りやめながら、六本木、西麻布界隈を取り巻き連中と飲み歩いていたことがわかっている。彼が酒好きの枠を超えた人物であることは想像がつくものの、その後、彼は取り巻きから離れ、単身で「ギャンググループ」に会うため、事件のあった会員制の飲食店ビルに出かけていったと想像することができる。いったいなぜ、そのようなグループと接触しようとしたのか――飲み友達だからなのか、いやいや、彼らから「なにか特別なもの」を貰い受けることが目的だったのではないのか。

歌舞伎役者はいずれ記者会見を開くと関係者に語っているようだ。本人の口から、このたびトラブルとなった「ギャンググループ」との関係を明確に説明してもらいたいものだ。飲食店で偶然会ったとされているが、どうもそうではなさそうな気がするからである。

水面下で行われている両者の交渉では、歌舞伎役者側が被害届を取り下げる条件を巡って、協議を重ねているように思われる。その条件とは、①事件当時者(逮捕状が出た青年及びそのグループ)が、当夜起ったことのすべてを口外しないこと、②両者の関係を口外しないこと、ではないか。無論、②のほうが、交渉の肝となっていることは容易に推測できる。

2010年12月5日日曜日

「ウィキリークス」は世界を滅ぼすか

民間告発サイト「ウィキリークス」(創設者/ジュリアン・アサンジュ/39才)から、膨大な外交文書がインターネットを通じて公開されたことが話題になっている。わが国の場合、この問題については、ネット時代の脅威という観点から議論されることが多い。

また、先の尖閣沖中国漁船衝突映像が海上保安官の手によって動画サイトに投稿されたときは、TVに出演するジャーナリスト、野党政治家からは、国民の知る権利を大事にしろ、政府は国民に情報をすすんで開示すべきだという意見が出され、いまなお、世の大勢としては、映像を非公開とした民主党政府に批判が集中している。もちろん、映像が動画サイトに投稿されたことから、ネット時代の新しさとして話題となった。

「ウィキリークス」「尖閣ビデオ」の2つの問題は、「知る権利」と「国家の安全」の背反性、そして、インターネットという新しいメディアの脅威に議論が集中している。だが、まずもって、これらの観点だけで、ことの本質をとらえることが難しいと心得るべきだろう。

○はじめに秘密保持契約ありき

情報を秘密保持とするか、公開するかの関係を整理してみよう。企業間の取引等においては、当事者同士が取り決めをする。企業が何らかの取引をする際、取引先に、自社の情報の開示を必要とする場合がある。その場合、取引上知りえた情報を第三者、競合他社等に漏洩させないよう、相互に秘密保持契約を締結することが普通である。「秘密情報」は、英語でConfidential Informationと表現されるところから、自社の秘密情報を守る契約を、Confidential Agreementと呼ぶことがある。最近の日本のサラリーマンの間では、「CAを結ぶ」という言い方で、広く使われている。また、英米では、Non Disclosure Agreement と言われることも多く、「NDA」と呼称されるが、日本では「CA」のほうが広く使われているような気がする。

企業に限らず、自分たちが努力して開発した技術等を他者に盗まれることは、その存続を危うくする。そのことは、従業者を何千、何万と抱える大企業から、まちの小規模な飲食店に至るまで共通する。たとえば、繁盛しているラーメン店ならば、その味付けは秘伝であり、テレビの取材があっても、ここから先は「企業秘密です」なんていって、カメラを入れない。おいしいラーメンの作り方は“国民の知る権利”なんて論理は通用しない。“国民”がおいしいラーメンの秘密を知るためには、そのラーメンを食べて味を記憶し、その味付けを再現するため、様々な調味料等々を買い込み、実験、研究を重ねなければなるまい。それでも、素人の努力では、秘伝のスープに近づけない可能性のほうが高い。

○不正、犯罪は秘密保持契約の対象外

秘密保持契約は、当然のことながら、国家間同士の取引、交渉に適用される。国家同士が秘密保持契約を締結することはないけれど、それは外交ルールの基本中の基本である。

「ウィキリークス」は告発サイトであり、同サイトが成り立つ条件は、秘密情報を許可なく、持ち出す者が存在することである。通常、告発者と呼ばれるが、「ウィキリークス」に情報を提供する者は国家公務員等である場合がほとんどである。しかるに、国家(政府)と従業者(公務員)の間には、秘密保持契約が結ばれている。日本の場合、国家公務員法である。日本の企業の場合は、職務規程等であろうか。だから、告発者は、大雑把にいえば、契約に違反している者となる。

しかし、ことはそう単純ではない。国家、企業は、彼らが不正、不法、犯罪を行いながら、そのことを開示しないケースもあるからである。その場合、従業者(公務員、サラリーマン等)は告発を行う義務があるといって過言でない。政府や企業が行った、不正・不法・犯罪が秘密とすべき情報かというと、当然、「秘密」に該当しないから、不正を知る者の告発は義務であり、告発者は守られて当然であり、秘密保持契約の不履行に該当しない。

たとえば、イラク戦争において、アメリカ軍がイラク民間人をヘリコプターから銃撃し、多数死なせた映像が「ウィキリークス」によって公開されたケースは明らかに、米軍(人)の(戦争)犯罪が公開されたのであって、秘密保持契約の対象外である。米軍こそが裁かれるべきなのであり、映像告発者は人間としての義務をはたしただけである。

○アメリカを売った男――情報漏洩の根源にあるもの

告発とスパイ行為という、境界が紛らわしい概念がある。両者を截然と分離できるとは思わないが、参考となる素材を紹介しておこう。『アメリカを売った男』(原題:Breach、2007年、アメリカ)という映画である。この作品は、冷戦時代のアメリカで実際に起こった、ロバート・ハンセンによるスパイ事件を基にして作られた。原題のBreachを訳せば、(法律・義務・約束などの)違反、不履行、破棄となる。 a breach of contractならば契約違反、a breach of confidenceで秘密漏洩(ろうえい) 、a breach of trustで法律信託違反(受託者の義務違反)、背任となり、Breachという言葉の使い方から、映画のニュアンスが伝わると思う。クリス・クーパーが演じるロバート・ハンセンは、出世コースから外れた定年間近のFBI捜査官。詳しいストーリーは省略するが、この映画によって、人がスパイ行為を働く動機の一端を知ることができるのである。

米国ならばFBI、CIA、国防省・・・日本ならば、検察、自衛隊、海上保安庁、警視庁、警察庁・・・なんでもいいのだけれど、国家の機密を扱う部署に従事する者が、なぜ、冷戦時代の敵国であったソ連(当時)に自国の情報を渡すのかが、分かるような気がする。

スパイ行為の動機としては、①イデオロギー、②金銭、③個人的事情、などを、筆者ならば想像できる。①は、米国民でありながら共産主義者であって、ソ連を支持する者であるところから、米国政府の転覆を早めたいというもの、②は、スパイ行為が金になるから、③は、敵側に私生活上の弱み(不倫、不正等)を握られ、ゆすられて、敵側に情報を渡すはめに陥る――といったところか。

ところが、この映画のハンセン捜査官のスパイの動機は上記のいずれにも当てはまらない。彼にとって、「スパイ行為」こそが、自己の重要性の唯一の自己確認手段であった。FBIという組織内で出世コースから外れた男は、企業の出世コースから外れたサラリーマンと同じような鬱屈した気分に支配される。定年退職間近にして、彼に与えられた勤務室は小さく窓がなく、秘書官は若い捜査官一人きり。ハンセンが組織内で冷遇されていたことがわかる。

ハンセンは逮捕されるまで10年間以上も米国の敵国であるソ連(当時)にFBI情報を渡し続けたのだが、その主因が、自己の優越願望の実現であったことは明らかである。自分を重要人物として扱ってくれるのは、FBI(祖国)ではなく、ソ連(敵国)であった。彼はFBI内においては自らの気概を示すことができず、FBIの監視の目を盗み、欺き、祖国の機密を敵国に渡し、ソ連から重要人物として遇されることに気概の達成を感じていたのである。

冷戦時代(いまなおスパイは存在するのだろうけれども)にインターネットはなく、政府組織で上昇志向に失敗した官僚(捜査官)たちは、己の優越願望の達成をスパイ行為に代替したのである。その一方、インターネット時代の今日においては、スパイというリスクの高い犯罪は敬遠され、情報源が完全に隠匿できる「ウィキリークス」のような告発サイトを利用するようになった。

ハンセンはスパイによって、ソ連から報酬を受け取っていた。しかし、彼がスパイを働く目的・動機は、報酬ではなかった。彼が馬脚を現したのは、監視役の若い捜査官に「あなたは(祖国にとって)重要な人物ではない」という罵声を浴びせられたことからだった。ハンセンは若い捜査官の挑発に乗り、自らの重要性(気概)を証明するため、換言すれば、優越願望を達成するため、当局が張った網のなかでスパイ行為を働き、現場を押さえられるのである。

優越願望の達成に失敗した者が、自らの気概を示すため、冷戦時代においてはリスク覚悟でスパイとなる。今日のネット時代では、匿名が担保された告発サイトに情報を漏洩する告発者となる。両者は媒介手段を違えながら、自己の優越願望を満たすという同質性を、時代を越えて共有しているのである。

○「ウィキリークス」は潰せない

筆者は「ウィキリークス」が“正義”とは思わないが、国家を滅ぼす“悪”とも思わない。なぜならば、冷戦時代、多数のスパイが世界中に跋扈しながら、米国もソ連も日本も・・・、滅びなかったからである。ソ連が崩壊したのは自壊であって、米国のスパイの成果ではなかった。

現実の国家が、為政者にとって都合の悪い情報を開示していないことは明らかであるとはいえ、外交交渉では、公開しないことが外交カードとして有効である場合も多い。であるから、リアルタイムで何でも公開してしまえという論理も乱暴である。しかし、何年か先であれ、情報開示を前提とすれば、為政者による国家的犯罪、戦争犯罪、不正が抑止できる確率は高くなる。国家が善でない以上、国家の悪を告発する存在も重要となる。

「ウィキリークス」が潰されたとしても、第二、第三の「ウィキリークス」が現れるだろう。その理由は、国家内部、企業内部を問わず、前出の通り、なんらかのかたちによって、自己の気概を示そうとするのが、そして、他人に対して自己の優越願望を満たそうとするのが、人の性(さが)だからである。当局がいかなる手を尽くそうとも、国家秘密を漏洩(告発)する者が後を絶つことはない。

2010年12月2日木曜日

“アル中”“うぬぼれ”歌舞伎役者に天誅

○マスコミが、事件関係者の若者の人権を一方的に侵害

有名若手歌舞伎役者が泥酔して酒場で度を越して暴れまわり、たまたまその場に居合わせた血気盛んな若者がぶん殴った――というのが、今回の事件の真相のような気がする。ところが、事件直後の芸能マスコミ報道は、歌舞伎役者が酔った“色の黒い”男性をかいほうしようとしたところ、いきなり暴行を受けた、とされた。役者の父親(父親ももちろん歌舞伎役者)が、息子がそういっていると芸能記者等に話したらしい。酒のうえのもめごとにすぎないにもかかわらず、警視庁が動き出し、「犯人」とされる若者に逮捕状が出た。さらに、芸能マスコミは、「犯人」がJリーグサッカークラブ(ユースチーム)に所属していたこと、父親が日本人でないこと、などを報じた。これらの報道は明らかに、人権侵害だ。

○マスコミの蛮行に逆襲

マスコミは、歌舞伎役者側の「証言」を検証なしで報じ、「犯人」とされる若者に対するネガティブ・キャーンペーンを敢行し始めた。相変わらずだ。こういう「報道」を蛮行という。ところが、事件の目撃者が、一部マスコミに対し、事件の一部始終を語り始めた。証言者は、事件のあったバーの責任者や従業員だという。商売柄、彼らは客のプライバシーを他者に語ることはないのだが、芸能マスコミのあまりの一方的「報道」に義憤を感じ、事件当夜の歌舞伎役者の行動を語りだしたのだ。彼らの証言からは、若者が「犯人」とされる根拠は見出せないばかりか、歌舞伎役者のほうに事件を惹起させた要因が認められる。そして彼らの証言が、この事件に係る報道の流れを変えようとしている。

○刑事コロンボを知っていますか

かつて、『刑事コロンボ』という米国の連続ドラマが日本でも人気を博したことがあった。ストーリーはワンパターンで、完全犯罪(殺人)を目論んだ犯人をコロンボ刑事が逮捕するというもの。このドラマのおもしろさは、犯人は概ねWASPの成功者――たとえば、大企業の役員、有名医者、弁護士、元軍人、有名映画スター・・・であること、一方のコロンボ刑事は愛妻家で、汚いトレンチコート、ポンコツ車、愛犬、葉巻がトレードマークのイタリア系であることだ。

WASP=「勝ち組」が企てた完全犯罪を、イタリア系下層階級の刑事が知恵と機転で見破り、逮捕にいたるところが痛快なのだ。筆者のような庶民は、コロンボ刑事のファンだった。コロンボを愛した理由は、「勝ち組」の成功の裏には不正があるに違いない、彼らは成功のために善良な庶民を押しのけて(たとえば、法を犯して)、いまの地位を築いたに違いない、という確信に基づくものであり、翻って、私が成功しなかったのは、罪を犯さなかったからだ――なんて、見当違いの自己肯定に浸り、自己を慰撫する一助だったからかもしれない。

ことほどさように、「勝ち組」ではない筆者のような庶民は、「勝ち組」の挫折、敗北、破綻が嬉しくないはずがない。“他人の不幸は蜜の味”は、その他人の属性が成功者であることにおいて、倍加するといえないだろうか。

○まず反省すべきは、歌舞伎役者よりもマスコミのほう

この事件の真実を知る由もないのだが、看過できない面もある。第一に、前出のとおり、マスコミは事件関係者の一人の若者の人権侵害を平然と犯し、歌舞伎役者側の言い分を、なんの検証もなしに大報道したことだ。よしんば、その若者が元か現かしらないが暴走族であったとしても、それだけで、彼の過去や身体的特徴や親の国籍が特別に報道されていいはずがない。

○この歌舞伎役者には治療が必要

第二は、「被害者」とされる歌舞伎役者の酒癖の悪さが、事件までずっと、見過ごされてきたことだ。報道の通りならば、彼は、筆者は医者ではないものの、アルコール中毒であり、彼に必要なのは、顔の治療よりもアルコール中毒の治療だと思う。そればかりではない。報道によると、事件を引き起こした歌舞伎役者の酒癖の悪さは、関係者がみな知っていたという。しかるに、そのことを注意すべき肉親(とりわけ父親)、先輩、友人、知人は何もしなかったようだ。とりわけ、芸の師匠であるはずの父親の責任は重い。

○歌舞伎に対する助成金制度は即刻廃止せよ

詳しいことはわからないので、誤りであればご指摘いただきたいのだが、歌舞伎は文化庁から無形文化財に指定されているはず。無形文化財には国から、助成金が出ているのではないか。もし、国がそのような制度を設けているのであれば、即刻助成金制度の廃止が望ましい。税金の一部が役者の飲み代に使用されているのであれば、納税者として我慢できない。

○芸能人の事件に共通するもの――まわりはみな知っていた

最近、芸能人が引き起こした事件――朝青龍(暴行?)事件、押尾事件、酒井法子事件等々を含めて――には、共通する傾向が認められる。それは、事件が突発的に起きたのではなく、事件を引き起こした芸能人のそれまでの行動等において、必然性が認められるということだ。単純にいえば、事件が起きる前から、たとえば、酒のうえでの暴行が常習的に行われていた、あるいは、薬物を使用していた等々が、うかがわれるということだ。

たとえば押尾事件の押尾学被告の場合、保護責任者遺棄の罪に問われる前に、MDM等の薬物を常習的に使用していたようだし、酒井法子の場合も、夫婦で覚せい剤を常用していたことがわかっている。朝青龍事件の場合は示談が成立しているが、朝青龍はそれまでにも、酒席でほぼ常習的に暴行等を振るっていたことが報道されている。

○芸能人を“燃え尽きる”まで利用するものたち

芸能人犯罪の特徴は、その多くは、事件化して犯罪が報道されるまで、その不法行為が周囲では不問に付されていたことだ。それはなぜか、そのことが何を意味しているかを問わなければならない。

ここから先の記述は、筆者の想像であるから、間違っているかもしれない。それはともかくとして、おそらく、芸能人というのは、“売れている”あいだは、何をしても許されるのだと思う。それが不法行為であれ、周囲への迷惑行為であれ、弱い立場の者に対するいじめであれ、程度の差はともかく、世間一般では許されない言動が、“売れている”限りにおいて、とがめられることがない。しかし、大きな事件となって、警察沙汰になり、隠蔽できなくなってはじめて、それを契機として、当該芸能人のそれまでの「悪事」の数々が報道され始めるような気がする。

“売れている”芸能人を守っているのはだれかといえば、芸能プロダクションを筆頭とする芸能業界の関係者であり、TV、新聞、雑誌等に従事する芸能マスコミ関係者であろう。先般の相撲界賭博事件において、NHK記者が捜査情報を親方に流していたことが発覚したことでわかるように、芸能記者は、芸能人の人気に負ってその生業としている限りにおいて、芸能人と一体だ。だから、芸能マスコミは芸能人が“売れている”限り、芸能人を守る。ところが事件化して、当局が乗り出し、芸能人の悪事を守りきれなくなると、手のひらをかえすように、その芸能人を追い込んでいく。

このたびの事件でも、前出のとおり、マスコミは、「暴行」されたとされる歌舞伎役者の発言を検証することなく、役者に暴行を加えた「犯人」は、暴走族で、Jリーグユースチームにいた、色黒の26歳の男性だと報道した。マスコミは、明らかに、歌舞伎役者を守ろうとした。「暴走族」「ハーフ」「スポーツ選手崩れ」・・・というネガティブなイメージのレッテルを貼ったのだ。ナイーブ(うぶ)な茶の間の視聴者は、スポーツ選手として挫折したハーフの男の子が“ぐれた”挙句に暴走族になり、六本木、西麻布あたりの夜の街で芸能人に言いがかりをつけ、腕力に任せて凶行に及んだ、と認識する効果を狙ったことは明らかではないか。

しかし、事件現場にいた人々が、事件の一部始終を証言し始め、守りきれなくなると、マスコミは、歌舞伎役者のこれまでの酒癖の悪さを報じるという、方向転換をし始めたのだ。

芸能プロダクション、TV、新聞、雑誌等の芸能マスコミ関係者は、芸能人を走らせるだけ走らせてカネを稼ぐ。彼らは、芸能人が“売れている”限りにおいて放任し、やりたい放題にさせる。彼らは、“売れている”芸能人が感じているストレスやプレッシャーに関心を示すことがない。そして、芸能人が発する救済のサインや精神、肉体の磨耗の予兆を無視し続ける。

猛スピードを出して走り続ける自動車は、いずれ、ブレーキやタイヤに異常を生じさせる。しかし、異常や故障を承知しながら、修理に出すことがない。車を修理に出してしまえば、カネが稼げなくなるからだ。やがて、ブレーキが利かなくなり、エンジンは燃え尽き、車は事故を起こして大破する。そうなって初めて、この車はへんな音がしてました、ブレーキが甘かったような気がします、アクセルが・・・といって、車の数々の異常を明らかにするというわけだ。

○芸能界は無法でいいのか

一級、特級の芸能を常人が享受するためには、常人と違う世界が必要だという論理もある。芸能界というのは、法を超越した世界なのだから、多少の無法を許容しなければいけない、という論理だ。芸人、映画俳優、歌手、芝居の役者、相撲取りあたりがその対象となろう。芸の肥やしなのだから、××くらい仕方がない、というわけだ。

この論理を拡大すれば、政治家も該当する。力のある政治家ならば、彼らが多少法を無視したとしてもいいではないか、という風潮がつい最近までの日本にはあった。裏のカネをもらうこと、裏にカネをばら撒くこと、一夫一婦制を守らないこと、密約をすること、明らかに不要な公共工事を地元に誘致すること・・・卓越した政治力のおかげで人々の暮らし向きがよくなり、社会が安定するのならば、政治家の小悪には目をつぶろうという風潮だ。

ところが、マスコミは、ロッキード事件あたりを境にして、政治家の「不法行為」を許さなくなった。昨今の小沢一郎に対する、マスコミによる過度なネガティブ・キャンペーンも、その一例だろう。彼らは「不記載」という極微的「罪」に対して、起訴を求めている。

そこまでの無菌社会をマスコミが求めるのであれば、芸能界、角界にも彼らの無菌尺度を当てはめるべきだろう。一級、特級の芸を極める歌舞伎界の「プリンス」であろうとも、その者の普段の言動に明らかに異常が認められ、無法に係るのであれば、その「プリンス」を告発し、態度を改めさせるような報道姿勢をもつべきなのではないか。

○歌舞伎役者はまずもって「アルコール中毒」の治療を

この事件の主因は、アルコール中毒の疑いのある役者を治療しなかったことにある。彼の両親、配偶者、マネジャー・・・に責任の一旦がある。本人が自覚することは難しい。彼らは、事件当事者の役者に治療をすすめなかったばかりか、増長させた疑いもある。一方、役者を殴った若者も、酒席とはいえ、過剰だった。すべてが酒の上、で許されるわけではない。

さて、殴られた歌舞伎役者は、殴られた顔の治療とともに、アルコール中毒のほうも治したほうがいい。結論としては、この事件の処理としては、示談が妥当だと思う。

12.1



スカイツリーが高さ、500mを突破。

飛行船が接近。

あの、NYの悲惨な事件を思い出した。

2010年12月1日水曜日

六義園(Night Park)









@Komagome