2017年12月31日日曜日

大晦日忘年会

旧友のSさん宅にて忘年会。

名酒にたくさんのおいしいごちそうが揃いました。




2017年12月28日木曜日

ジャックがきた

イギリスのロックミュージシャン(ドラマー)、ジャックが日本のバカンス中、わが家に遊びに来た。

2017年12月27日水曜日

ますます闇が深まる日馬富士暴行事件

今回の事件について、整理しておこう。

日馬富士暴行事件の問題点を10項目に整理する

  1. 相撲界から暴力が一掃されないのは、この業界が相撲部屋という封建遺制を残しているからであり、親方―兄弟子―弟弟子・・・という上下関係を維持した家父長的家制度を残存させているためであること
  2. 家父長制に貫徹する秩序体系は儒教であって、儒教では近代的法制度よりも、親子関係のような自然的上下関係に規定された倫理的関係が優先されること
  3. その結果として、親の躾、親方の指導等における上から下への「教育」においては、近代法体系では排除される暴力が容認されること
  4. 日本的儒教秩序が維持されている相撲部屋に外国人であるモンゴル人が入門したとき、彼らは日本社会に適応するよりも、相撲部屋の秩序に適応することを余儀なくされたこと、その結果、モンゴル人力士は日本人力士よりも純粋培養的に儒教倫理を身に着けてしまっていること
  5. 今回の暴行事件に限らず、相撲協会は公益法人であるにもかかわらず、事件、問題を公にすることを躊躇し、協会内部で問題解決を図ろうとする傾向が強いこと
  6. 相撲協会の「危機管理委員会」はあくまでも協会内部の組織であって、協会に不利になるような情報を隠蔽しがちなこと
  7. 被害者である貴ノ岩の親方である貴乃花は、相撲をスポーツとしてとらえずに、相撲を国体思想に融合させる、極右思想の持主であること。彼はスポーツとイデオロギーを一体化させるナチズムに近い考え方の持ち主であること
  8. 大相撲は近代スポーツではなく、相撲一座の興行であって、勝負には互助、忖度等(一概に「八百長」ともいえない)があり、スター力士をつくって相撲一座の人気を維持する側面があること
  9. 相撲に神事の側面を認めるが、それはあくまでも民俗における神事のステージであって、相撲協会が一つの神に仕える神事を代行する役割を太古から担っているとは、歴史的、民俗学的、宗教学的に根拠がないこと
  10. 江戸期に成立した相撲興行は見世物的要素が強く、相撲取りはアウトサイダーであったこと。相撲が「日本の伝統」と認識されるようになったのは明治維新以降であり、日本帝国主義の補完的イデオロギーである復古的ナショナリズム浸透の役割を担ったこと
相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造は問題を見誤る

筆者は今回の暴行事件について、相撲協会Vs.貴乃花親方という対立構造でとらえるのは問題を見誤ると考える。つまり、どちらかが正義であるともいえないと。

貴乃花親方が暴行事件を公にして相撲協会の暴力体質を暴き、相撲協会を近代化する正義の味方だともいえない。もちろん、隠蔽体質が強く、公益法人の要件を備えていない日本相撲協会の公益財団法人認定は取り消されるべきだとも考える。


メディアは数字を稼げばいいのか

問題はそれだけではない。今回の暴行事件を必要以上に歪めたのは、テレビのワイドショー、スポーツ新聞、週刊誌だと思われる。彼らは、自ら進んで相撲協会サイド、貴乃花サイド双方が仕掛ける情報戦の道具となり下がり、リークを繰り返し、闇を深めた。彼らはそのことにより、視聴率、売上を稼いだ。事業者なのだから稼ぐことは当たり前だと開き直るのかもしれないが、数字を稼ぐためならば何をしてもいいわけではない。メーカーならば製品の品質を保証する義務があるように、情報を商品にするテレビ、新聞、週刊誌には、彼らが提供する情報の品質を保証する義務がある。

リーク情報にとびついて、それを書きなぐるのが仕事なのかといいたい。メディアに必要だったのは、まずもって、相撲界に暴力が根絶されない理由を問うことだった。相撲協会、相撲部屋、親方、力士の実態が明らかにならなければ、今回の問題の本質には迫れないはずだ。

本質に迫れない日本のメディア業

大相撲には表に出てこない側面がある。チケット問題、八百長問題、協会内権力闘争が内在したまま、今回、暴力体質が表面化した。相撲界の問題が表面化したとき、世間は一時的に疑義を向けるが、メディアの追及は常に中途半端であり、問題の根っこには迫らない。

また、前出のとおり、今回被害者側である貴乃花親方が極右思想の持主であり、弟子にその思想を注入しているという悪しき情報も副産物として表面化した。思想・信条並びに信仰は自由なのだから、だれが何を信じようと構わないという見方もあろう。しかし、いま現在の相撲界における部屋制度(のなかの親方と弟子という閉鎖的関係)において、弟子に思想・信条並びに信仰の自由が保障されるとは考えにくい。貴乃花親方に聞くべきは、「(協会の)聴取に応じるか否か」ではなく、彼が自らの思想を弟子に「強要しているか否か」ではないのだろうか。

2人のジャンさん

先月遊びに来たジャンさんが、友達のジャンさんを連れて遊びに来た。30日にフランスに帰国するとのこと。


2017年12月20日水曜日

パンダスケートリンク

パンダの赤ちゃん一般公開で沸き立つ上野・御徒町。

御徒町駅南口前に、臨時のスケートリンクが設営されていた。





2017年12月19日火曜日

丸ごとチキン


ギョ、朝、台所にこんなものが。

家内の友人が集まる忘年パーティーに出すものとか。

ああ、驚いた。

2017年12月17日日曜日

日本サッカー界にとって誠に残念な12月

Jリーグが川崎フロンターレの逆転優勝で終了。それをもって一時期盛り上がりを見せた日本国内のサッカー界だったが、UAEで開催されたクラブワールドカップ(CWC)にアジア王者として出場した浦和が初戦で開催国枠出場のアルジャジーラに0―1で惜敗。さらに本田圭佑が所属するパチューカ(北中米王者)も南米王者のグレミオに負けて3位決定戦に。(※パチューカはアルジャジーラに勝って3位を確保したが、この試合、本田は出場しなかった。本田が出なかったからパチューカが勝ったとはいわないが、皮肉なものである。)

国内では東アジア(日本、韓国、中国、北朝鮮)の王者を決めるE1最終戦で日本代表が韓国代表に1-4という歴史的かつ屈辱的敗北で韓国に優勝をさらわれた。日本サッカー界にとってはなんとも後味の悪い2017年末である。

浦和の惜敗――これがサッカーだ


ACLを苦労して制した浦和が開催国枠のクラブに負けた。もったいない敗退ではあるものの、このパターンは日本開催の大会で何度も繰り返されてきた。昨年の日本開催大会で鹿島が演じた事例が思い浮かぶ。鹿島が欧州王者のレアルマドリードを追い詰めて日本中がわきあがったものだった。冷静に考えれば、サッカーに限らず、スポーツ全般におけるホーム優位の特性が再現されたに過ぎない。逆にいえば遠征先で勝つことの難しさ、アウエーで勝ててこそ、真の実力者といえる。

本田圭佑は本当に輝いたのか

パチューカは初戦(準々決勝)、アフリカ王者のウイダード・カサブランカに延長の末、1-0で辛勝したものの、準決勝で南米王者のグレミオに0-1で負けた。本田は2試合に出場して得点なし。カサブランカ戦ではいい動きを見せた場面もなくはなかったが、得点シーンに絡んだわけではない。続くグレミオ戦、その後半、本田の姿はテレビ画面から消えていた。

仮にこの2試合の本田のパフォーマンスを日本人以外の選手が見せたと仮定したならば、何の話題にもならなかったに違いない。2試合を見た日本人の誰一人覚えていないに違いない。日本人であるわたしたちは日本人選手の本田に注目するが故に、彼が目立ったように錯覚するのである。この2試合をもって、ロシアW杯における日本代表の右サイドを本田に託すという結論を筆者は保留する。

国内組の「実力」の証明

E1最終(韓国)戦は“国内組”日本代表の状況を白日の下に晒した。実力、気力において、韓国との差は明らかだった。引分以上で優勝と日本優位の条件だった。しかも、試合開始早々、PKで先取点をもらった。日本にとってこれ以上ない好条件がそろった展開になるとだれもが信じた。ところが、その後の状況は見てのとおり、高さに弱い日本の守備の弱点をつかれ、簡単に同点に追いつかれると、なすすべのないまま失点を繰りかえし敗退した。

さて、日本代表とはいえ、E1には海外組及び浦和の選手は招集されていない。つまり浦和の西川(GK)、興梠(FW)、槙野(DF)、柏木(MF)といったA代表クラスが招集できなかったというハンディが日本側にはある。けれども、海外組の招集がないのは韓国も同じだから、日韓の国内組代表選手の対決という構図でほぼいいと思う。その結果の日本代表の惨敗であるから、韓国の方が日本より全体のレベルとして上位にあるという結論が引き出せる。

ハリルホジッチの不可解な選手起用

韓国戦、ハリルホジッチ監督に常識では考えられない采配があった。その一つは、植田の右サイドバック(SB)起用である。この起用は韓国戦の前からだった。しかしタイトルのかかった韓国戦まで継続したのは、力のある韓国相手に植田の力量を見極めたかったからだと筆者は推測する。

その植田だが、テレビ解説のY氏が指摘した通り、常に位置取りが高く(相手のDFラインに近づきすぎるため)、攻撃のスペースを自身で消していた。いってみれば、SBとしての基本がなっていなかった。クラブチーム(鹿島)でも経験のないポジションだから、植田を批判するつもりはない。

大雑把にいえば、SBとはスペースに向けてラインに沿ってスピードをつけて駆け上がるポジション。植田のように前に張りすぎれば、SBの基本的機能は喪失する。高さのあるSBがサイドで起点をつくるという役割もなくはないが、ライン近くで、頭で起点をつくるプレーは効率的ではない。その場合は足元だろう。

ではなぜ、ハリルホジッチはそんな植田を使い続けたのか――植田と槙野の選択に係る結論を引き出すためだったのではないか――と筆者は推測する。槙野は先の欧州遠征でセンターバック(CB)として、安定したプレーをした。その槙野は右SBもできる。つまり、代表候補のDFとしてほぼ内定状態にある吉田麻也、及び、この試合でキャプテンを務めた昌子源に次ぐCBの三番手は槙野だと結論付けたかったのだと推測する。もちろん植田がロシアW杯の代表に選出されないと断言できるわけではないが、槙野と植田を比較すれば、槙野のほうが、ユーティリティーが高いとの結論は出た。

二点目は、大量リードされた局面で守備的MFの三竿健斗を交代で投入したこと。この交代は意味不明。理解できない。敢えて邪推するならば、このときすでにハリルホジッチは試合を捨てていたと推測するほかない。若手に経験を積ませた、ということか。いやほかの理由はないのか。

ハリルホジッチの深謀遠慮

因縁の韓国戦での惨敗。当然、ハリルホジッチ監督解任の声は高まる。叩かれて当然の試合内容である。しかし、ハリルホジッチは惨敗を通じて、重要なというか、彼の腹の内で燻っていた「反ハリル派」に対するメッセージを発したかったのではないか、と推測する。それは、「国内組を使え」という一部サッカーコメンテーターの声に対する反撃でもある。

日本のサッカーメディアの代表批判にはパターンがある。「海外組」で負けると、「国内組」を使えという声が高まること。攻撃陣を海外でプレーする選手で固めた試合に無得点で負けると、「Jリーグ得点王の〇〇をなぜ呼ばなかったのか」と。海外で試合に出ていない選手よりも、国内で活躍している選手を使えともいわれる。

このような凡庸な決めつけにも根拠がないことはない。海外クラブと契約しても、ベンチ外やベンチ要員で試合に出ていない選手はコンディションが悪くて当然だし、試合勘もない。だからそのような選手を名前だけで代表に招集することはやめるべきだ。かつて、「海外組」というブランドで代表チームを構成して失敗した代表監督がいたし、「海外組」と日本企業のCM契約を媒介した大手広告代理店からの圧力もあるから、協会が代表監督に圧力をかける。代表監督も職を失いたくないから、協会に忖度する。

さて、韓国戦である。前出のとおり、この試合は必然的に純粋国内組で代表選手を構成せざるを得なかった。国内組の実力を測るには絶好の機会である。そこでの惨敗。反ハリル派は批判の常套句である「国内組を使え」が口に出せない。その逆に、ハリルホジッチにしてみれば、これまで無媒介に「国内組」と叫び続けてきた反ハリル派の強弁を一蹴できる。「負け」をもって、反ハリル派への逆襲を試みたのではないか。

ハリル解任、勢いを増す

このようなハリルの開き直りは、彼の立場をより悪くした。反ハリル派は、ハリルホジッチ解任に向かうほかない。海外組で負ければ、国内組を使えと批判できるが、国内組で負ければ、批判の対象はハリルホジッチ本人に向けられる。反ハリル派にしてみれば、それ以外に批判の材料はないのだから。国内組、Jリーグで活躍した選手を…と強弁したサッカー評論家諸氏は、彼ら自身の論理的破綻を棚に上げ、ハリルホジッチの監督の力量への批判に向かう。かくして、この期に及んでハリル解任が強まることになる。

ハリル解任はハイリスク

ロシアW杯開催まで半年余りのこの時期、代表監督の交代にどれだけの効果が期待できるのか。ハリルホジッチの速い攻撃が日本に合わない、フィジカルの弱い日本人選手にデュアルを求めても仕方がない…などなど、時代遅れの批判がやかましいが、ハリルホジッチの言説はモダンサッカーの基本であって、彼独自のサッカー哲学ではない。世界のサッカー水準を日本代表に求めることは当然である。

問題は、日本サッカーの最大公約数であるJリーグがそこに達していないことである。岡崎や香川がクラブで活躍できるのは、所属するクラブチームのなかで居場所を得ているからである。そのことは、チームに調和した存在であると別言できよう。かれらが日本代表で活躍できないのは、所属するクラブチームの他の選手が彼らの特性を引き出せる力がある一方、日本代表の他の選手からは協力を得られていないからである。日本代表と調和していないからである。サッカーはチーム・スポーツであるから、個の力がいくら強くてもそれだけでは勝てない。フォルランが入団したセレッソ大阪やポドルスキが入団したヴィッセル神戸が即優勝できなかったように。

その反対に、居場所を得れば無名の選手が才能を開花させることもある。Jリーグで並の評価の選手が海外で億単位の報酬を得る選手に成長する可能性もある。だから、歴代の外国人日本代表監督のだれもが、Jの選手に海外移籍を勧めてきたのだと思う。

弱い国内組は日本サッカー界の歪みの投影

監督交代は劇薬に等しい。それを契機としてチームが再生することもあるし、より悪化して死に至ることもある。代表チームの場合、どちらかというと、後者のケースの方が多いように思う。国内組の実力とやらは、韓国戦の惨敗で明白になった。この惨敗はハリルホジッチだけの責任ではない。Jリーグのぬるま湯的環境、国内選手の臆病さ、フィジカルを求めてこなかった日本のサッカー指導方法、広告代理店主導の代表選手選考、サッカーメディア業界における論理性を欠いた定型化した代表監督批判の横行、そして幾度となく繰り返されたW杯本大会における敗退の責任を取らないサッカー協会の存在などなど・・・が、その原因であり、複合的なのである。だからそれを完治するには時間がかかる。代表監督を解任すれば解決するような安易な問題ではない。

日本サッカーはまるで勢いを失っている

筆者はW杯ロシア大会のアジア予選を日本が突破できたのは、ハリルホジッチの手腕によるものだと確信している。しかし、本大会のグループリーグを突破できるとは思っていない。世界との差は広がっている。

日本代表がロシアW杯グループリーグで敗退した場合、その責任は監督がとることになろう。それは必然である。だがそれだけで終われば、それこそトカゲの尻尾切り。真の反省はなく、新しい代表監督探しが始まり、4年に一度のお祭り騒ぎで日本中が騒然となる。このような意味のない循環を繰り返しても、日本サッカーは強くならない。W杯開催前に敗退の責任のあり方をかわしてもそれこそ無意味だが、進歩だけはしてほしい。日本サッカー界の無意味な循環をどこかで止めなければならない。

2017年12月6日水曜日

日馬富士引退を残念がる倒錯した相撲ファン心理の根拠を探る

世の中を騒がせている日馬富士の暴行傷害事件。警察の書類送検も今週中とされ、起訴が濃厚だというのに、被害者よりも引退した加害者である日馬富士のほうに同情が集まる状況に変わりない。筆者には相撲ファンの心情がまったく理解できなかったのだが、彼らの心情の出どころについて、自分なりに見当がついたので、以下にまとめてみた。

逮捕されなければ「いいひと」

それはただただ、日馬富士が逮捕・拘留されなかったからではないかと。警察がむやみに人を逮捕拘留するのは危険であり、やってはいけないが、今回に限れば、日馬富士が逮捕されていれば、相撲ファン、日馬富士ファンの「引退残念」の勘違いはなかったはずと。

これまで、芸能人、スポーツ選手といった、いわゆる有名人の警察沙汰は珍しくなかった。だが、人々の記憶に残ったそれは薬物関連が大半であろう。薬物関連は証拠隠滅されやすいから、警察が被疑者を逮捕拘留することは当然の措置である。一方で今回のような暴行傷害事件では被疑者に逃亡の可能性がない限り、逮捕拘留しない。(だから今回、日馬富士を逮捕しなかった警察の措置は正しい。しかしながら筆者は敢えて、暴言を吐こうと思う。)


日馬富士が自由に街を闊歩している映像がテレビで放映されるその結果として、人々は日馬富士を被疑者と認識しない。その一方、薬物関連で逮捕拘留された酒井法子、清原和博、ASKAらについては、彼らが容疑者でありながら、すでに「犯罪者」だと認識する。ゆえに彼らに同情する人は少数にとどまる。暴行傷害と覚せい剤取締法違反を比較すれば、前者の方が重罪である。人々は逮捕拘留された者は犯罪者として断罪し、そうでない者には同情を寄せる。日馬富士の引退を残念だと平然と発言する。


テレビがつくりだす日馬富士擁護発言

テレビに出てくる相撲ファンの発言は、テレビ制作側の意図のもとに放映される。無作為に撮影され、放映されたものではない。相撲ファンのなかで、日馬富士の引退を当然だとする者の数と、それを残念がる者の数は統計化されていない。もちろん国民全体の受け止め方は世論調査を待つしかない。

テレビ局にとって相撲人気は捨てがたい。テレビ局は、日馬富士を批判する者の発言を抹殺し、引退残念発言が世間・巷の大勢だと思わせるため、日馬富士擁護発言を放映する。あたかも、それが国民の声のごとくに。

つまり、テレビは逮捕されない人はまだ「いいひと」だと視聴者に印象付け、加えて、日馬富士を擁護するファンの声を選んで放映することで、日馬富士を守りつつ相撲協会の暴力体質を隠蔽する。

テレビが「逮捕=犯罪者」とする、危険な印象操作

筆者は冒頭で、警察がむやみに人を逮捕拘留することは危険だと書いた。さらに、逮捕されただけでその人を犯人、罪人だと認識することも危険だと書いた。さて、このたびの日馬富士暴行傷害事件報道、とりわけテレビのそれを注視すると、日馬富士が「逮捕されないゆえに」、「日馬富士さん」と敬称付きで呼ばれていることがわかった。前出の清原ほか芸能人は、逮捕された時点で、「清原容疑者」と呼ばれた。

山城 博治沖縄平和運動センター議長
このことからわかるように、逮捕=犯人という印象付けを行っているのは実はテレビである。今日、安部政権下においてテレビによる印象操作、洗脳が強まっている。権力はテレビを使って、都合の悪い者を逮捕・長期拘留しようとする。たとえば。森友学園疑惑に関連して、逮捕、長期拘留されている籠池夫妻。彼らは疑惑の渦中にある安部首相夫妻にとって都合が悪い存在である。また、沖縄反基地闘争リーダー山城議長も運動の沈静化を狙った安倍政権により、逮捕・長期拘留されている。どちらも、危険な逮捕及び長期拘留である。

日馬富士暴行事件から見えてくるのは、相撲協会とテレビなどマスメディアの癒着であり、公益財団法人でありながら、隠蔽体質、暴力体質が改善されない相撲協会の姿であり、相撲界の闇であり、報道と人権の関係である。大げさと思うなかれ、このような状況を放置すれば、いずれ自分の首が絞められることになる。

2017年12月2日土曜日

忘年会

学生時代の友人との忘年会 @新潟の酒処 越州・新橋

いろいろとたいへんな年齢になりました。












2017年12月1日金曜日

呆れた相撲協会の「中間報告」ー日馬富士暴行事件ー

日馬富士暴行事件について、相撲協会から「中間報告」(以下「報告」という)が出た。その内容に客観性がない。協会は、被害者側からの聴取がないから「中間」という理屈のようだが、加害者に有利な情報を集めて、日馬富士の暴力はやむを得なかったという印象を一般に与える操作・意図がミエミエである。協会によるこのような印象操作こそ、貴乃花親方が最も恐れていたことだろう。

中間報告は相撲協会による「物語」

「報告」の根本的欠陥は、客観性に乏しいこと。たとえば、事件当日に被害者である貴ノ岩がとったとされる態度、行動についてはすべて、加害者側の一方的・主観的な供述を鵜呑みにしているように思える。別言すれば、日馬富士が暴行に及んだのは、態度の悪い貴ノ岩に対する躾・教育の度が過ぎたことによる、というストーリー性を帯びていることである。この協会側のストーリー性については、日馬富士の引退会見とみごとに同調している。日馬富士は引退会見で、“(態度の悪い)弟弟子(貴ノ岩)に対して、躾・礼儀を教えようとしてそれが度を越し暴行に及んだ”という意味の発言を繰り返していた。しかも会見において、貴ノ岩に対する謝罪は一言もなかった。

協会にとって都合の悪い事実は素通り

それだけではない。「報告」が素通りしている点として、事件のあった集まりが出身高校(鳥取城北高相撲部)の親睦だといわれながら、同校OB以外の出席者として、加害者の日馬富士、白鵬、鶴竜(モンゴル出身3横綱)が同席した理由について、明確にしていない点を挙げておきたい。同校OBは関脇の照ノ富士、被害者の貴ノ岩、石浦の3力士だけである。他の参加者である同校関係者とはどのような人々なのか、筆者には知る由もないが、高校相撲部の集まりに、モンゴル人横綱3力士が同席したのは、OB会にかこつけて、貴ノ岩に何ごとかを知らしめるため――特別な目的があったから――ではないのか。

白鵬、鶴竜、照ノ富士の現役三力士が日馬富士の暴行を止められなかった理由も明らかでない。暴行が一“瞬のできごと”であったとは、常識的に考えにくい。「報告」でも、日馬富士の暴行の手口について、最初は平手、さらにカラオケのリモコン、そして酒瓶(すべって凶行に至らなかったという)へと、エスカレートしている。「報告」では、日馬富士が酒瓶に手がかかったところで白鵬が止めた、としているのだから、酒瓶までは白鵬ほかが、日馬富士の暴力を容認していたことが手に取るようにわかる。

貴乃花親方の徹底抗戦で協会の思惑が瓦解

「日馬富士が、貴ノ岩の素行の悪さを糺し、礼を教えるために手をあげた」という協会の「報告」は繰り返すが、協会の作成した虚構の物語にすぎない。協会は、「日馬富士引退→関係者聴取終了→中間報告→書類送検→検察処分決定→危機管理委員会(最終)報告」をもって幕引きし、初場所(東京興行)を迎えたかったのだと思われる。ところが、貴乃花親方の徹底抗戦で、中間報告は不完全なものとなった。そこで焦って、加害者擁護の一方的「報告」を作文したように思える。

さらに、日馬富士の引退会見会場における、伊勢ケ浜親方及び日馬富士自身の、それこそ礼を失した態度・発言があり、千秋楽から理事会に至るまでの間の白鵬の首をかしげたくなる暴言がたびたびあり、(週刊誌による)白鵬共犯説、モンゴル会による八百長疑惑が噴出しはじめた。

協会側による、お抱え相撲記者等を使っての印象操作は逆効果となり、テレビの良識的コメンテーターからは協会批判が頻発している。協会お抱え相撲記者の摩訶不思議な協会擁護発言はむしろ、一般大衆の協会に対する不信を増幅するに至っている。

テレビは、ナイーブな相撲ファンの〝気持ち”よりも相撲界の〝暴力体質”を批判しろ

カルト的相撲ファン、国技・神事として相撲を神聖視する人々、娯楽として相撲を楽しみたい高齢者、格闘家として力士をリスペクトする格闘技ファン…がいてもいい。そうしたナイーブな相撲ファンが協会、日馬富士を信じ、貴乃花親方を批判するのも構わない。だが、そういう声を背景にして、そこに甘えて、メディアが暴力を許容するならば、おかしなことになる。メディア、とりわけ、テレビ及びスポーツ紙は、「日馬富士問題」で数字をあげている。この問題が長引き、人々が関心を失わないことが彼らの関心事であって、協会の暴力体質批判は二の次三の次ともいえる。

加えて、テレビ及びスポーツ紙は相撲が彼らにとってこれからも優良コンテンツであってほしい、と思っているはずである。だから、熱戦だとファンが信じた取組みが、実は、八百長だったと思われれば、相撲のコンテンツとしての価値は滅減する。相撲が――かつてテレビのドル箱でありながら、社会があれはショーだと悟った瞬間に凋落した――プロレスの歩んだ道を辿ってほしくないと思っているはずである。マスメディアの姿勢が、相撲界を甘やかし、ここまで腐敗させた主因なのである。