2019年12月31日火曜日

大晦日、今年最後の忘年会

S&Mさん邸にて今年最後の忘年会


2019年12月30日月曜日

くつろぐネコ

いつのまにか猫がそろって押入れに。

リラックスしている。

2019年12月29日日曜日

トレーニングギア

スポーツクラブは年末年始休館。

しばらく使用しないトレーニングギアの手入れを。


「花相撲」はみたくないーU22日本、ジャマイカに爆勝

U-22日本代表 9-0 U-22ジャマイカ代表〔12月28、日トランスコスモススタジアム長崎〕

東京五輪メダル獲得を狙うU-22日本代表が同ジャマイカ代表に大量得点をあげて勝利した。下のカテゴリーでしかも親善試合とはいうものの、代表戦における9点差試合は記憶にない。

ジャマイカは弱すぎた

この結果はもちろん日本が強かったからではなく、相手が弱すぎたから。この試合をもって日本が世界レベルにあると思う人は少数だろう。日本のメディアも結果を淡々と伝えただけで、大騒ぎはしていない。ジャマイカは、▽闘争心、▽技術、▽戦略、▽戦術…がなかった。遠路はるばるやってきて、試合をするモチベーションがなかったのだろう。TV中継のアナ氏の言説によれば、ジャマイカは既に五輪予選で敗退しており、このカテゴリーにおけるチームづくりを始めたばかりだという。筆者の推測にすぎないが、日本の大学選抜より弱いのではないか。

花相撲もしくは咬ませ犬

これは興行であって、強化ではない。いわゆる「花相撲」「咬ませ犬」の範疇に属する。マッチメークする日本サッカー協会にまっとうな強化の意識があれば、もっとましな相手を選んだだろう。

協会は代表スポンサーである飲料メーカーのために、海外チームとマッチメークする必要に迫られた。海外ならヨーロッパ、南米がいいのだが、この地域のリーグ戦はクリスマス休暇もしくはオフシーズンで代表チームを送り出すことが難しい。相手チームが見つからない中、たまたまジャマイカからOKがでたのではないか。

協会及びメディアは詐欺に近い

ここで問題とすべきは第一に、ジャマイカを選んでしまった日本サッカー協会の力量(情報収集力、交渉力、コネクション)のなさ、事なかれ主義だ。第二に、試合前に対戦相手を評価できない(しない?)日本のスポーツメディアのスポンサー第一主義。両者は、安くない代表チケットを購入するナイーブ(うぶ)な代表サポーターを騙しているに等しい。ナイーブな代表サポーターは、相手は「代表」なんだからそれなりの準備をして日本にやって来ると思って当然だ。ところが蓋を開けてみたら、日本の学生選抜より弱いし、闘争心も見せない。日本のゴールラッシュで喜ぶ者もいるのだろうが、本来のスポーツの楽しみ方ではない。このような詐欺に近い興行試合が続けば、代表サポーターもチケットを買わなくなる。親善試合はテレビでいいや、となる。

繰り返すが協会トップ及び代表監督を代えないと・・・

この試合は勝ったが、A代表は先のE1大会決勝で韓国に圧倒された。気力、体力、戦略・戦術で韓国に一蹴された。この試合を境に、森保ジャパンに対する批判が強まった。筆者にしてみれば、批判のタイミングが遅すぎるのだが、それでもここにきて、メディアもサポーターもやっとのこと、森保の代表監督としての力量に不安を覚えてきた。そしてこのたびの、U22における犯罪的花相撲だ。協会の強化プランの底の浅さが露呈している。日本の代表サッカーが悪い方、悪い方へと流れている。

2019年12月18日水曜日

ランチ会

学生時代の友人とランチ会。

ドクターストップで酒が飲めなくなった者のため、真昼間、鰻丼を食した。


2019年12月7日土曜日

忘年会 2019

2019年最初の忘年会は大学時代の友人たちとのもの。

毎年1回しか再会しない者が多くなってしまったが、1回でも会えればいい。

暗い話題が多くなってしまったが、笑い飛ばせる関係は心地よい。




2019年11月22日金曜日

森保更迭まったなし

サッカー日本代表(森保ジャパン)が危ない。森保が監督を兼任するU22日本代表がコロンビアに0-2で完敗(11/17)、W杯アジア2次予選ではアウエーでキリギスに0-2で勝ったものの内容は悪かった(11/14)。次いで日本で行われたベネズエラ戦は1-4の惨敗(11/19)。この試合は、元代表、Jリーガー、A代表控え組で臨んだ試合だったので接戦になると予想されたけれど、これほどの大差になるとは思ってもいなかった。一方、U22代表はA代表にも選手を送りこんでいるベストメンバーで臨んだ試合だっただけに、ショックは大きかった。

仕上げてきた相手には勝てない日本

この3試合に共通しているのは、相手がコンディション調整をして試合に臨んだこと。キリギスはホームだから当然のことだが、遠路はるばる南米から来日した2チームがきっちりと仕上げてきたのには驚いた。コロンビア、ベネズエラとの2試合は、現状の代表の力を計るに誠に適正なテストマッチとなった。

森保批判なしは代表ブランドの低下の証左

直近の日本代表の3試合の結果ならば、マスメディア、代表サポーターから代表監督更迭の大合唱が起きても不思議ではないはずなのだが、反応は鈍い。かつての外国人監督であるハリル、ザック、オシム、ジーコ、トルシエ・・・に向けられた厳しい批判は森保には向けられていない。

なぜなのか――その第一の理由は、日本代表ブランドの低下である。日本のスポーツ業界では、世界大会であるラグビーW杯とプロ野球のプレミア12があって、どちらも日本代表が好成績を上げた。この2大会に比べれば、サッカー日本代表試合とはいえ、親善試合及び格下相手のアジア2次予選への関心は薄くなる。試合があったことを知らなかった「サッカーファン」も多かったと聞く。

森保に魅力なし

このような外在的要因のみならず、森保という人間に魅力がないことが第二の要因である。前出の外国人代表監督にはメディアを通じてだが、日本(人、文化…)とのあいだいに緊張関係があった。彼らが外国人であるため、異文化との遭遇に緊張を強いられた結果だけではない。彼らには、緊張関係を生み出す言葉があった。トルシエの「フラット3」、オシムの「ポリバレント」、ザックの「自分たちのサッカー」、ハリルの「縦に速いサッカー」。ジーコには言葉はなかったけれど、彼の現役時代の実績が緊張感を与えた。

一方、森保はどうだろうか。彼の試合後のインタビューは、Jリーグの試合の後の監督と変わらないほど淡々としていて、面白みがない。世界のサッカーと相渉るために森保はどんなサッカーを目指しているのか。少なくとも筆者には、いまだにそれがわからない。代表選手選考についても森保の描く戦略・戦術から逆規定された結果だとも思えない。調子が良い、ネームバリューがある、得点を上げた…選手がなんとなく代表に呼ばれ、なんとなく試合をして解散していくだけの日本代表チームなのである。

東京五輪の準備はできていない

2019年秋冬は、A代表のスケジュールからみれば閑散期である。しかし、五輪代表にしてみれば来年に五輪を控え、戦術の徹底、メンバーの見極めにおける重要な季節のはず。五輪代表がどんなサッカーをするのか、期待をしていたサッカーファンは少なくなかったはずである。このまま森保が五輪代表とA代表の監督を続けることは危険極まりない。五輪で敗退、A代表でアジア予選落ちという、日本サッカー界、最悪の結果を招くこともあり得る。

森保を批判できないマスメディアと代表サポーター

森保に対する批判が抑制されている別の理由は、マスメディア及び代表サポーターが日本人監督を熱望していたから、という側面を否定できない。自分たちが望んだ日本人監督をおいそれと批判できないとうわけだ。

しかし、日本サッカー協会が日本人監督を選んだのは、協会内の権力闘争の結果にすぎない。これまで日本代表に外国人監督を招聘してきたのは原~霜田のライン。原が先の会長選で田嶋(現会長)に負け、原、霜田は協会を追放された。二人を失った日本サッカー協会には外国人監督を招聘するコネクションを同時に失ってしまった。つまり、森保監督就任は、外国人監督を呼べないから日本人監督という消極的選択にすぎなかった。

日本人サッカー指導者は世界レベルに達していない

日本サッカーが国際的になったことを筆者も認めるが、それは選手レベルであって、指導者(とりわけ監督業)については三流レベルにとどまっていると思っている。たとえばJリーグにおける監督更迭の後任にコーチが就任するケースが多いことに戸惑っている。監督業とコーチ業は全く異なる職業であるはずだが、監督経験のないコーチが即監督に就任する日本サッカーの常識が信じられない。欧州、南米のリーグではほとんどない。

世界の一流リーグで指揮を執った日本人監督は皆無

そればかりではない。選手レベルでは欧州の一流リーグ(イングランド、スペイン、ドイツ、イタリア、フランス)で活躍する選手も見られるようになったが、監督は絶無であり、その実現可能性はもしかしたら半世紀では果たされないように思うほど低い。そのことからみて、日本代表チームにはまだまだ、外国人監督の力が必要なのである。岡田や西野がW杯で実績を上げたという意見もあるかもしれないが、4年間、チームづくりからアジア予選を戦い抜いてベスト16に勝ち上がった監督は日本人、外国人を問わずいない(トルシエは日韓大会代表監督だが予選免除。岡田はオシムの後任の南アフリカ大会代表監督、西野はハリルの後任のロシア大会監督)。

いまなお日本人選手に必要な外国人監督からの外部注入

森保に日本サッカーを世界に導く経験はない。海外の代表と戦術で相渉る力量もない。彼にあって外国人監督にない能力は、日本語力だけである。それがチームの親和性を高めたりチームの相互理解を深めることはあっても、実力は上がらない。いまの日本選手には外国人監督による外部注入を必要としている。

2019年11月13日水曜日

旧友の誕生日にしてわれらの結婚記念日

というわけで、かつての谷中「よっとくれ」の同志たちがお祝いに駆け付けてくれました。

ありがとう。



2019年11月2日土曜日

日本版「FEMA」の可能性

東日本を襲った台風19号の被害状況が今なお報道され続けている。一日も早い復興を祈るばかりである。

治水が王であるための条件

世界4大文明(インダス川、ナイル川、黄河、チグリス・ユーフラテス川)の歴史が示すとおり、河川は氾濫により人々を恐怖に陥れる一方、肥沃な土壌をもたすことで富(農業生産力の向上)を築いた。そのことが、文明発達を促進してきた。国を治めるということは、治水、灌漑、すなわち河川をコントロールすることだった。そのことが為政者、王たるための要件であった。

治水ができない日本の首相

翻って日本の現政権(そのトップ安倍)をみると、河川の氾濫に無策である。このことをもってしても、安倍は為政者トップの資格がない。もちろん、諸々の点で彼は総理大臣である資質に欠けているのだが。

国交省河川局は無為無策

今日、日本の災害対策は崩壊している。大型公共事業を仕切る国交省、とりわけ同省河川局は利権の草刈場と化していて、住民の安全を守るための事業を疎かにしている。気象庁は警報を発するだけ。「命を守る行動を」という呼びかけは間違ってはいないが、具体性がまったくない。災害がふりかかったときの避難方法、および、被災後の救済については市区町村(地方自治体)任せ。国が動くとしたら、自衛隊の派遣にとどまる。市区町村の職員はよくやっていると思うけれど、市区町村レベルのヒト、モノ、カネには限界がある。要するに、災害に対する総合的司令塔の不在、すなわち、災害に対して一貫した対策を取れる組織が日本にはない。

米国におけるFEMAの創設とその失敗

そこで思い出されるのが米国のFEMA (アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の存在である。FEMAは1974年、カーター大統領により大規模災害に対処するため、連邦政府(大統領)直轄の省庁横断的組織として創設された。その後、ブッシュ政権時代の2003年、国土安全保障省に編入され、2005年の大型ハリケーン、カトリーナの被災に及んでは全く機能せず、今ではその存在は忘れ去られた感がある。

アメリカにおけるFEMAの失敗は、大統領直轄から国土安全保障省への編入という「格下げ」が主因なのか、ほかに原因があるのかについては、研究の余地がある。とはいえ、いまの日本の大規模災害無策状態を脱するため、「日本版FEMA」の創設は有効か、という議論があって然るべきだと思うが、そのような雰囲気はいまの日本にない。その理由は、新自由主義の強い影響化にある日本、すべてが「自己責任」で片付けられるからである。加えて、役所を大きくすることに対する懸念、税金のムダ使いという批判の空気が強まっているからである。

日本では省庁横断的組織は機能しない?

「日本版FEMA」創設に対する懸念の根拠はそればかりではない。日本でも新設の横断的省庁は成功しない事例が多いことである。霞が関に新設される横断的省庁は、各省庁からの出向者で構成される。出向者は本籍の利益を誘導することが行動原理となるため、本来とるべき国民優先の政策が実現しにくい。


災害対策に不向きな霞が関の職員たち

もう一つ、霞ヶ関の職員は秀才揃いだが、かれらは調整力や事務力は高いが、災害現場に出かけて行って汚れ仕事をしたり、臨機応変に物事に対処する能力はなきに等しい。つまり災害現場で力を発揮できるような資質に欠ける者がほとんどである。

さはさりながら、『日本版FEMA」がアメリカで創設された当時のように大統領直轄、日本ならば首相直轄の省庁として創設されるならば、はかりしれないメリットがある。


そのメリットとは、先の台風19号来襲のときのように首相がラグビー観戦するようなことは絶対にできなくなるし、いつぞやのように、豪雨予報が発せられるなか、首相が取り巻きと都内で高級フランス料理を食するようなこともありえなくなる。

前出のとおり、日本版FEMA(緊急事態管理庁)のトップは安倍首相その人なのだから。

2019年11月1日金曜日

首里城焼失

10月31日午前2時41分、世界遺産の首里城跡に復元された正殿で、火災報知器が反応し、警備会社から「火が出ている」との通報があった。

消防車約30台、隊員約100人による大規模な消火活動が行われたが、火の勢いは弱まることはなく、正殿と北殿、南殿など計7棟が消失。午後1時半ごろに鎮火した。

オキナワはヤマトの基層

首里城の焼失は誠に残念であるが、少し見方を変えて、オキナワのもつ歴史的、民俗的重要性についてふり返ってみよう。

吉本隆明の『南島論』にあるように、沖縄王朝の祭祀はヤマトの天皇制度が継承するそれの先行形態を保持していた。ヤマトの天皇は男系だといわれているが、元をただせば、女王が霊的権威を司り、男王が俗的権威を司るという、二元的権威で構成されていたのである。このことは『魏志倭人伝』の倭の女王(卑弥呼)に係る記述によって裏づけられる。沖縄も、そしてヤマトも、本来、霊的権力は女系が司っていたのである。

大嘗祭の本義

折口信夫の『大嘗祭の本義』によると、天皇霊の継承の儀礼は、次期天皇(皇太子)が女性化して稲霊(男性)と同衾することで受け継がれるという。一方の沖縄では、聞得大君(沖縄神道最高神女=ノロ)と呼ばれる霊的最高権威者の霊威継承は、沖縄本島最大の聖地である斎場御嶽において行われ、その就任の儀式である「御新下り(うあらうり)」は、琉球の創造神との契りである聖婚(神婚)儀礼と考えられている。折口のいう、稲魂との同衾と同一である。ヤマトの場合は、天皇が女性〈性〉と男性〈性〉を兼ねるところに特色がある。

首里城とは何か

沖縄史の一時代、琉球王国の栄華を象徴する復元施設・首里城のこのたびの焼失は前出のとおり誠に残念であり、悲しい現実である。しかし、見方を変えれば、首里城は中華文明を強く意識してつくられたいわばハコモノものであり、沖縄の古来の祭祀、信仰を重視する愚生の思いに比べれば、その心の痛みはそれほどではない。

沖縄の信仰の聖地である本来の御嶽は、森のなかにひっそりと、簡素なただ小ぶりの石が数個置かれただけの狭い空間にほかならない。豪勢な王宮とはほど遠い。

消失するオキナワの言語、祭祀、秘儀

愚生の憂いは、例えば、斎場御嶽から臨まれる神の島、久高島の祭礼の「イザイホー」の消失であり、石垣島などで行われる「赤また、黒また」といった秘儀の消失がささやかれる今日の情況であり、そしてヤマト語によるオキナワ方言の駆逐である。これらはハコモノではない、沖縄の人々の生活過程、幻想過程、基層的価値観に基づいて息づいてきたものだと確信する。首里城の焼失は残念であるが、オキナワはすでに消えつつある。

2019年10月27日日曜日

SB、読売をスウイープー2019 NPB日本シリーズ

NPB(日本プロ野球)日本シリーズがあっという間に終ってしまった。結果は、パのリーグ戦2位でCSを勝ち上がってきたソフトバンク(SB)が、セリーグ同優勝の読売を4-0で退けたというもの。4戦をみた感想は、読売の弱さが際立っていたということに尽きる。セリーグとパリーグの野球の違いということが言われ続けているが、本シリーズがそのことを実証したように思えた。

SBと読売に力の差はあるのか

7試合の短期決戦だけで、チーム力を云々するのははばかれる。主力選手の調子が上がらないチームは日本シリーズで勝てないことが多いからだ。とりわけ打者はリーグ戦で3割超の成績を残していても、日本シリーズでは1割台というケースも珍しくない。いわゆる「逆シリーズ男」と呼ばれるやつだ。読売の主力、坂本・丸がずばり「逆シリーズ男」になってしまった。だが、読売の敗因はそれだけだろうか。たまたま、坂本と丸の調子が悪かったからなのだろうか。

4試合の内容を見ると、SBは、読売の主軸に限らず全選手を研究していることがうかがえた。そのことは甲斐のリードに全面的に表れていたように思う。データがあっても、投手が相手打者の弱点を突く投球技術がなければ役に立たないのだが、SBの投手はそれができたということで、それが結果に反映した。

読売の主軸はパリーグの投手を打てない?

SB投手陣が短期戦とはいえが読売の主軸を抑えることができた一方、セリーグ5球団投手陣にそれができない理由はなんなのだろうか。坂本、丸、岡本の2019シーズンの球団別成績を見てみよう。

坂本を抑えたセの球団は阪神、中日

以下に示すのは、2019シーズンにおける、読売の主軸、坂本・丸・岡本の球団別の打撃成績だ。

・DeNa:坂本=.389(8)、丸=.273(7) 、岡本=.253(5)
・阪神:坂本=.258(5)、丸=.283(8) 、岡本=.260(6)
・広島:坂本=.340(6)、丸=.290(3) 、岡本=.240(5)
・中日:坂本=.271(8)、丸=.323(2) 、岡本=.198(2)
・ヤクルト:坂本=.392(11)、丸=.293(3)、岡本=.356(7)

◎パシフィックリーグ(交流戦3試合)
・西武:坂本= .250(0)、丸=.273(0) 、岡本=.154(0)
・SB:坂本=.182(0)、丸=.462(11)、岡本=.167(1)
・楽天:坂本=.182(1)、丸=083(0)、岡本=.500(1)
・ロッテ:坂本.143(1)、丸=.383(0)、岡本=.273(1) 
・日本ハム:坂本=.273(0)、丸=083(1)、岡本=.308(1)
・オリックス:坂本=.083(0)、丸=.417(2)、岡本=.300(2)

こうしてみると、坂本は交流戦(3試合)においてパの投手陣に完璧に抑えられていることがわかる。短期戦では打者の好不調の要素が強く影響し、打撃成績における一定の傾向を読み取ることは難しいとは思うものの、セリーグ投手陣との対戦成績と比較すると、その差があまりにも大きいことに驚く。坂本はパリーグの投手を打っていないという事実。彼の交流戦の成績としては、日ハム相手に打率.273が最高で、SB、楽天、ロッテ、オリックス相手では打率1割台の低率だった。

その一方で、坂本はセリーグのDeNa、広島、ヤクルト相手に打ちまくっていて、驚異的な成績を残している。坂本に打たれた3球団は、その無策ぶりを反省してほしい。とりわけヤクルトは、坂本に.392と4割近くまで打ち込まれた挙句、岡本にも3割5分台の高打率を残された。ヤクルトの投手・捕手、投手コーチ・バッテリーコーチ等のレベルの低さが気になる。

DH制のあるパリーグのほうが優位なのか

日本シリーズで完敗した読売の原監督が、セとパの野球の違いをDH制度の有無に求めていた。DH制によって野球のレベルが上がるという理屈は信憑性が高い。DH制によってチームの打撃力が上がるから、投手はそれに対応すべく技術を高めるというわけだ。さらに、僅差でリードされている試合、セリーグなら投手に代打を送らざるを得ないから、投手の投球イニング数は少なくなる。試合を通じて投手が経験を積む機会が失われるし、一試合に対して責任をまっとうしなくなる。極論だがDH制なら、投手は僅差のビハインドゲームでも完投するチャンスが生まれる。さらに、継投も計算しやすい。先発投手の降板は、僅差のビハインドだろうと、リードしている状態であろうと、原則、球数で決められる。

攻撃面では言うまでもなく、守備力、走力に難があるベテラン野手をDHで使えば、攻撃力が高まる。セリーグなら投手の打席でワンアウトが計算できるが、DH制なら気を抜ける打順はない。

しかしここまでは、DH制を敷けば、長期的にチーム力がアップするという話だ。

日本シリーズのように、9人制とDH制が混在する短期決戦の場合はどうなのか。素人考えでは、普段、9人制で試合をしているチームがDH制になっても困る要素は少ないと考える。むしろ、投手が打席に入るセのほうがDH制をとらない試合において有利だろう。走塁、犠打、打撃でパリーグの投手よりセリーグの投手のほうが経験値が高いからだ。

読売の完敗の主因はDH制とは無関係

読売は選手層が厚い。他球団ならば主軸を打つ選手が控えや二軍にいる。だが、よくみると、バランスが悪い。外野陣で丸、亀井を除くと、ゲレーロ、陽、重信、石川、立岡がレギュラー争いをしている状態で、走攻守のバランスのよい選手はいない。

内野陣はさらに深刻だ。坂本(遊)は不動だが、野球の花形である三塁・一塁が固定できていない。MLBの黒歴史の一つに、アフリカ系選手はどんなに実力があっても、三塁・一塁のレギュラーになれなかった時代が長く続いたことがあった。それくらい、三塁・一塁はチームの顔であり、守備・打撃に力がある人気選手が務めたのである。日本球界では読売のONの存在がそのことを証明している。

2019シーズンの読売は、一塁に阿部か岡本(一時期は捕手の大城)の併用で固定できず、しかも、三塁はMLBから移籍したビヤヌエバがレギュラーになれず、岡本、山本、田中、若林の日替わり状態だった。読売はFAで多くの選手を取るけれど、一塁と三塁に関してはなぜか危機感がないまま、リーグ優勝したのである。読売のFAの効果は、広島の丸を獲得して、広島を弱体化させたにすぎない。

二塁については、以前から指摘されていた通り、弱体なままシーズンに突入してしまった。期待された吉川尚がシーズン早々に離脱すると、このポジションも田中、山本、若林、増田らが日替わりで務めた。

こうしてみると、DH制が採用される日本シリーズの読売の布陣については、DHに阿部を起用するのではなく、一塁=阿部、二塁=田中、三塁=岡本、遊撃=坂本で固定し、DHには、ゲレーロ、陽、大城を相手投手に合わせて起用したほうが破壊力が増したような気がする。原監督が阿部をDHに起用したため、岡本が一塁だと、三塁が不在、岡本が三塁だと一塁が不在になって、DH制の優位性を生かせなかった。その副産物として、若手野手(山本、若林)が守りでミスをして、SBに付け入るすきを与えてしまった。

原監督の不可解な選手起用

原監督の選手起用はそれだけではない。第3戦における戸郷投手の起用だ。同点で迎えた4回、鍵谷から新人の戸郷にスイッチ。その戸郷はシーズン登板わずか2試合の新人投手。戸郷は才能のある本格派右腕投手だと思うが、シリーズ3戦目、負ければ王手をかけられる重要な試合でのリリーフ登板は荷が重すぎる。SBを甘く見たのか。

筆者は、この起用について、原監督のシリーズ敗戦を予見したエクスキューズの用意だと思えた。原監督は福岡での2連敗を受けて、SBと自軍との力の差を実感した。つまり「勝てない」ことを悟ったのだと思う。そこで原は負けても、「若手に経験を積ませた」という評価を得たかったのだと思う。どうせ負けるのなら、せめて自分が「優れた監督」であるというファクトを残そうとしたのだと思う。

敗戦の根本は読売のチームづくりの失敗

2019シーズンの原監督のチームづくりは完全に失敗だった。それでもセの5球団の不甲斐なさに助けられ優勝できたため、チームづくりの失敗が表に出なかった。

失敗の実例を挙げよう。前出のとおり、内野手不足だ。引退間近の阿部の後継者は不在なまま。しかも、シーズン前、阿部は「捕手に専念」するはずだった。つまり構想では1018シーズンで大化けした岡本を一塁に固定し、三塁はビヤヌエバでいく構想だったのだが、ビヤヌエバは失速し二軍に落ちた。そこで捕手の大城を一塁に起用してまでして急場をしのいだ時期もあった。二塁もしかり。吉川尚が故障すると、その後が埋まらない。前出のとおり、本シリーズでは田中はそれなりの成績を残したが、山本(ノーヒット)、若林(ノーヒット)、増田(打席なし)は、レギュラーにはまだまだ。セリーグではどうにか通用した彼らだが、田中を除くと、SBの150キロ近くを投げ込む剛腕投手陣に手も足も出なかった。

おまけに、セリーグの弱体投手陣を打ち込んだ、坂本、丸、岡本は完全に沈黙。2本の本塁打を打った亀井も通算では.286にすぎなかった。リーグ優勝で見えてこなかった読売の弱点が、SBというパリーグの球団を媒介にして、白日のもとに晒された。

読売の選手はフィジカル、メンタルが弱い

読売の弱さは、基本的には選手個々のフィジカル面、メンタル面の弱さにある。SBの選手にはしたたかさ、雑草のような強靭さがあった。SBの主軸には育成出身者が多い。そうでなくても、SBの選手はレギュラーを取るには厳しい競争を経なければならない。読売の選手もそうだけれど、FAやMLBで移籍してきた選手が不調で二軍に落ちたままの状態になってはじめて、仕方なく首脳陣が一軍に呼んだ若手がレギュラーになっている。

選手の素質の見極め、育成方法、起用方法、フィジカル強化、メンタル強化について、読売は甘い。というよりも、セントラルリーグ全体がぬるま湯状態なのかもしれない。

2019年10月15日火曜日

オーストリア旅行

今月の2日から15日まで、オーストリア観光に行ってきました。

12日に帰国の予定でしたが、日本を襲った大型台風のため帰路の飛行機が飛ばず、ウイーンで3日も足止めを食らいました。

同じホテルに延泊できたので、その分、ゆっくりウイーン観光ができました。

ウイーン

ザルツブルク

グラーツ

ザンクトウオルフガング

2019年9月29日日曜日

猫、太る

Nico(白猫)の体重を計ったらなんと、7.5kg。

このBlogで体重測定を記録していた当時(2015年)は確か、6.5kg程度だったから、4年間で1kgの増加となった。

自然増か肥満か――とくに餌の量を増やしたわけではない。運動不足かな。


2019年9月18日水曜日

絶望の「二刀流」ーー大谷、膝の手術でシーズン終了

9月13日、大谷翔平(MLB)が左膝蓋骨の手術を受けた。全治まで8~12週間かかる見通しだ。大谷の病状は二分膝蓋骨と呼ばれ、生まれつき膝の皿が1つではなく、2つに割れている体質だったという。手術で割れた皿を1つに戻すのであろうか。とにかく今季の試合出場は絶望、彼の2019シーズンは終了した。

打者専念でも不本意な成績

2019シーズンの成績は、打率.286(106試合、384打数、110安打)、18本塁打、62打点、51得点、35四死球、110三振、12盗塁という結果に終わった。二刀流を封印しDHに専念したにもかかわらず、不本意な結果に終わった。昨年の肘、今シーズン後半には膝と、プロ野球選手としては選手生命に係る部位の手術なだけにおおいに心配だ。

膝の悪化は「二刀流」による蓄積疲労が主因

大谷の身体の変調の原因については、医学的知識皆無の筆者の直観にすぎないが、日本での2013~2017年の5シーズン(日本ハム時代)の「二刀流」にあると考えている。筆者は拙Blogにおいて常々、「二刀流」は無理だと書いてきた。繰り返しになるが、打者と投手は野球という同一の競技にありながら、異なる運動だ。日本での5シーズンにおける過剰な練習による身体的負担が蓄積したうえに、MLBに移籍。そしてその直後にやってきた、肘の故障と手術による「二刀流」の挫折、加えて、環境変化や過酷な移動を伴うMLB生活で心身の疲労が蓄積し、それまで発症しなかった膝にまで故障が及んだと考えられる。

専門化して進化してきたベースボールの歴史

大谷が来シーズン以降、「二刀流」に固執するならば、彼のプロ野球人生は儚いもので終わるだろう。プロ野球、就中、MLBを甘くみてはいけない。野球という競技は進歩に進歩を重ね、ダイナミックな変容を遂げてきた。先発投手の球数制限、分業制、新球種開発、スピードガン、rpm(回転数測定)などの機器の発達…があったし、この先も変化があろう。野手においては、投手、捕手以外の複数ポジションをこなせる能力が求められる一方、DH制度の導入により、打撃のスペシャリストが誕生した。この期に及んで、野手と投手の兼任――「二刀流」はあり得ないポジションなのだ。

大谷にとってMLB生き残りの正念場

MLBにおける大谷を取り巻く環境は、日本のメディアが流す好意的報道ほど、甘くないと思われる。「二刀流」が不可能と判断されれば、大谷は打者か投手かの選択を迫られる。野手の経験がない大谷は守るところがないため、DH専門の打者としてMLB業界で生きていかなければならない。そうなると、打率、本塁打、打点で求められる成績は一層厳しい数値となる。

大谷の「二刀流」を引っ提げたMLB移籍はここまでのところ、大失敗だ。彼の願望、夢への挑戦は、甘かった。「二刀流」という変則的選手である大谷と契約を結んだエンゼルスの計算は、筆者の想像だが、短期的な営業成果を期待したものにすぎなかったのではないか。アメリカの打算的なスポーツビジネス界は、金の卵を産まなくなったアヒルを見切るのも早い。

投手専念がベスト、打者ならば日本に早期復帰を

大谷はどうしたらいいのか。エンゼルスとの契約が残っている期間にコンディションを整え、投手か打者かの一本化を決断(当然のことながら練習もどちらかに一本化)すべきだ。筆者は肘の故障が完治しているのならば、投手に専念すべきだと思う。投手としてMLB挑戦を続け、挫折した段階で、日本球界に復帰したらいい。肘の状態が悪く、投手として専念できないようならば、直ちに日本球界にDHとして復帰すべきだろう。とにかく、大谷が野球を続けられる進路を探るべきだ。

2019年9月13日金曜日

セリーグは読売優勝がほぼ決まり(攻撃編)

日本プロ野球(NPB)セリーグの優勝は読売にほぼ決まった。天王山といわれた2位横浜との3連戦(9/10・11・12)で2勝1敗と勝ち越し。最低でも2勝を狙った横浜に引導を渡した。

筆者の開幕前の予想では優勝が広島、2位が読売、3位が阪神で横浜は4位予想だったから、筆者の予想がまるで外れたことを反省するとともに、横浜の健闘を称えなければなるまい。

なおCSについては、筆者は同制度に反対の立場なのでコメントはしない。

読売の想像を絶する選手補強

醜い弁明になるが、筆者の開幕前予想は本心ではなかった。読売の優勝は確実だと思っていたのだが、読売の金満補強――FAで丸(広島)、炭谷(西武)を、さらに中島(オリックス)、岩隈(MLB)、クック(MLB)、ビヤヌエバ(MLB)の獲得――に反発し、こんな球団に優勝してもらいたくないと思っての順位付けだった。

読売のチームづくり(選手集め)は極めて異常だった。シーズン途中においても、クローザーのクックが使えないとみるやデラロサ(3A)を獲得。宮國、田原、戸根がダメだとわかると鍵谷(日ハム)、藤岡(日ハム)、古川(楽天)を獲得した。他球団ならレギュラークラスの選手が二軍にひしめく分厚い戦力を整え、登録・抹消を繰り返して、一軍に新鮮な戦力を供給しつづけた。このような選手集めは球団努力といえる反面、計画性の乏しい豊富な資金に任せた放漫型球団経営ともいえる。

分厚い選手層(攻撃陣編)

攻撃面では坂本、丸、岡本の2番、3番、4番の主軸の固定に成功したものの、1番は亀井が定着するまで試行錯誤が続いた。その亀井については後述する。

5番から8番まではそれこそ日替わりで登録、抹消が繰り返され、シーズンを通してレギュラーは定まらなかった。ちなみに5番~8番の4枠に主に起用された野手は、陽(日本ハム)、ビヤヌエバ(MLB)、ゲレーロ(MLB)、阿部、重信、立岡(ソフトバンク)、石川(日本ハム)、中島(オリックス~3A)、大城、田中俊、若林、増田大、山本、炭谷(西武)、小林・・・と多彩であった。もちろん、一人の選手が1シーズン、交代なしで出ずっぱりということはあり得ないのだが、数字的に見ると、平均で4枠に各4選手弱が出場した計算になる。別言すれば、他球団ならレギュラー級の選手を3人以上保有しているのが読売という球団なのだ。

今シーズン、読売がここまでのリーグ戦で主導権を維持できたのは、主力に故障が少なかったからだろう。彼らがケアに心掛けたこと、メディカルスタッフの充実もあったのではないか。加えて、シーズンを通しての好調は維持できなくとも、短期間では結果を出した新戦力の台頭にも注目される。前半のビヤヌエバ(新入団)、後半のゲレーロ(2年目)、一塁と捕手を兼任した大城(2年目)、重信(4年目)、若林(2年目)らの活躍だ。

1番亀井で広島型攻撃スタイルを確立

さはさりながら、筆者は読売の躍進の最大の功労者は亀井だと思っている。これまでの亀井といえば、実力がありながら故障で欠場するシーズンが続いたのだが、今シーズンは規定打席に達している。

亀井―坂本―丸は、昨年までセリーグで三連覇を成し遂げた広島のタナ・キク・マルに似ている、というよりも、もっと強力だ。読売の攻撃スタイルはカメ・サカ・マルから岡本に続く。広島の場合は鈴木誠也だ。鈴木と岡本では鈴木の方が上だが、1番から4番までの総合力は読売の方が、破壊力がある。今年、広島は丸が読売に移籍し、田中が不調だった。つまり今年の広島の攻撃力不足は、丸と田中が抜けた分の大幅マイナスだった。

阿部(読売)の存在は昨年までの新井(広島)に対応

それだけではない。今年の読売と昨年までの広島の類似点は阿部⇔新井の対応関係だ。読売の阿部は、常時出場こそ叶わなかったが、勝負所で先発、代打の双方で存在感を示した。阿部の代打コールは東京ドームの雰囲気を変えたという。そのフィーリングは、昨年までの広島の新井の存在にぴったり合致する。広島の新井は昨年、引退して今シーズンはいない。

攻撃面に限れば、今年の読売は、昨年までの広島がつくりあげたパターンを踏襲してリーグ制覇を成し遂げようとしている。その反対に広島は、田中の不調、丸の移籍、新井の引退で攻撃力を減退させ、3つの穴を埋められなかった。

横浜の弱さは選手層の薄さに起因する

終盤まで読売を追い込んだ横浜はどうだろうか。攻撃面に限れば、ロペス、筒香、ソト、宮崎の攻撃陣は強力だが、それ以外の選手が数段落ちる。選手層が薄い。打順の1番から3番までが固定できず、流れがなく、一発ホームラン頼みであった。天王山の読売戦では、読売を戦力外とされた中井が1番なのだから、残念というほかない。さらに、読売を猛迫したときの正捕手・伊藤光と3塁・宮崎がケガで欠場した途端、連敗を屈してしまった。

下位球団の責任

読売の球団別の対戦成績(2019/09/12現在)を見ると、横浜とは11-11のドロー、広島には9-13の負け越しで、前出の「本家」には今シーズンの負越しがすでに決定している。

一方、下位の3球団、阪神に14-8、中日に13-9、ヤクルトに11-7の勝ち越しとなっている。読売は、下位球団に対して取りこぼしをしなかったといえるが、筆者は下位3球団が読売をアシストしたと考えている。とりわけ阪神の6つの負越しは由々しき問題だ。

※投手編については改めて考察する

ハイビスカスティーがお気に入り

最近飲みだしたハイビスカスティー。

健康にいいらしい。

色がきれいだが、もちろん100%ナチュラル。

2019年9月9日月曜日

猛烈台風が直撃

大型台風が関東地方を直撃。

猛烈な風が街路樹等をへし折った。





2019年8月22日木曜日

猫は眠る


2019年8月19日月曜日

浅草

家族で浅草にて食事会


浅草寺夜景

浅草散策



2019年8月14日水曜日

『一九八四年』

●ジョージ・オーウエル〔著〕 ●ebookjapan(新装版) ●720円(税込)

本書は1949年に書かれた近未来ディストピア小説の古典であり、数あるディストピア小説の中の最高傑作のひとつといわれている。

オーウエルが描いた「1984年」の世界

「1984年」、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアと呼ばれる3つの超大国が分割統治し、それらの3国が三すくみの戦争状態にある。主人公ウインストン・スミスは、かつての英国が属するオセアニアの国民である。オセアニアは「1960年」ごろに起こった革命によって成立し、〈ビッグ・ブラザー〉と呼ばれる独裁者が支配している。その国家イデオロギーは〈イングソック〉と呼ばれる。この語はEngland Socialismを略したものだという。

オセアニアは、〈党中枢〉という上層(全人口の2%)、〈党外郭〉という中層、そして〈プロール〉と呼ばれる下層(同85%)の三層構造の階級社会である。〈プロール〉はいわば番外地であり、革命前の、すなわち現在の自由主義国家におけるような自由が許されている一方、犯罪、売春、麻薬等が横行していて人々は貧しい。

ウインストン・スミスは中層=〈党外郭〉の中の真理省記録局という官僚組織に属している。オセアニアには、愛情省、潤沢省という行政機構がある。真理省は歴史の修正、過去の変造、統計及び政治家の演説等の記録を状況変化に即して訂正・更新する事務を行っている。愛情省はスパイ活動及び反逆者の取締り、謀反、反乱等の未然防止、反逆者の拷問等で思想的矯正を行う機関であり、一度逮捕されれば、裁判抜きの強制収容所送り、処刑を命ずることができる。潤沢省は食料管理を司る。

オセアニアの社会では、〈プロール〉を除く全国民がテレスクリーン及び隠しマイクロフォンによって監視されていて、〈ビッグ・ブラザー〉に反逆するような不穏な動きを示すと、前出の愛情省によって拷問を受け、転向が強要された挙句、処刑または強制収容所送りとなって、その存在は抹消される。

そればかりではない。家族間にも密告制度が張り巡らされていて、子供が両親を密告する「スパイ団」がある。また地域には、〈地域住民センター〉〈パトロール隊〉が組織・運営されていて、それらによって、人々の一挙手一投足は監視される。男女間の恋愛、結婚、性行為等についても〈反セックス同盟〉という組織によって管理される。また、〈思考犯罪〉、すなわり〈ビッグ・ブラザー〉に対する反逆を心の中で想像するだけで、想像した者は〈思考警察〉によって取り締まられる。

こうしてみると、このディストピア小説は1949年当時、第二次大戦の戦勝国のひとつとして軍事的、政治的、経済的に著しい台頭をみせた全体主義国家で、秘密警察、密告制度、強制収容所等を統治の源泉とするソ連をイメージしたものだと考えられる。しかし、ソ連の存在なくして本書は書かれなかったと思うものの、必ずしも、ソ連型全体主義批判に一元化できるほど単純な建付けではない。その理由は後述する。

ウインストン・スミスは〈イングソック〉に疑問を持ち、〈ビッグ・ブラザー〉に謀反を企てようとしている秘密結社に近づこうとするが失敗し、捕らえられ、拷問を加えられ、恋人を裏切り、転向を……

「1984年」と2019年の日本

本書が描いた「1984年」から今年で35年が経過した。オーウエルがモデルとしたと思われる全体主義国家・ソ連はすでに消滅している。ソ連に近似した国家として北朝鮮、中国が挙げられるが、世界全体がこの2国に近づくような危機的状況にはない。だからといって、本書の歴史的使命が終わったとか、内容的に意味をなさないとかの批判は当たらない。本書のディストピアは、本書が書かれた1949年当時の状況において、オーウエルが自身の可能なかぎりの想像力を使って描き出した国家権力と個人の関係の最悪なあり方である。それはイデオロギーを超えて抽出された、権力と個人の本質的関係にほかならない。だから、それが古くなることもなければ、陳腐化することもない。

今日の日本において、安倍政権の下で行われているのは歴史の修正であり、教育の戦前回帰(全体主義化)である。モリカケ問題では、財務局の職員が記録(文書)の改竄命令に抗して自死した。外務省、厚生労働省、内閣府等では記録(文書)の廃棄、書換えが日常化している。国の統計は政権の都合のよいように書き換えられ、偽造されている。首相が「私と妻が関与していれば議員も首相も辞める・・・」というような意味の発言をしておきながら、その記録は公文書としては消去されたに等しい。もちろん関与していることが証明されているにもかかわらず、首相が辞めることはない。これらの事象は、本書の主人公・ウインストン・スミスが勤務する真理省で日々行われている「事務」と異なるところがない。権力者は、都合の悪い歴史、記録を抹消し更新し、過去と現在の整合性を図っている。
昨日を起点としてはるか昔まで続く過去が現に抹消されているんだ。(略)すでにぼくたちは、革命について、そして革命前の時代について文字どおり何の手がかりもなくなっていると言っていい。記録は一つ残らず廃棄されるか捏造され、書物も全部書き換えられ、絵も全部描き直され、銅像も街も建物もすべて新しい名前を付けられ、日付まですっかり変えられてしまった。しかもその作業は毎日、分刻みで進行している。歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかで党が常に正しいんだ。(第二部5)
ディストピアというのは、過去を失うこと、現在の他になにもないという、“セラミック”のような日常の強制である。本書が書かれた時代にテレビは普及していなかったけれど、現在の日本では権力にのっとられたテレビによって過去が書き直され、テレビが写しだす現在のなかで常に安倍政権が正しいとされる。前出の〈思考犯罪〉は、安倍政権が法制化した共謀罪に似ている。
党の世界観の押し付けはそれを理解できない人の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしていようが、かれらなりにそれを受け容れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているかに気づくほど社会の出来事に強い関心をもっていないからだ。理解を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするか、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを何も残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の身体を素通りするのと同じなのだ。(同)
もうすぐ消費税率が上がる。先の参院選で一部野党から反対の意見提出があったものの、有権者は安倍政権に対して「NO」を示さなかった。党の世界観の「押し付け」は、今日の日本の場合は、テレビに出てくる芸人、政府お抱えエコノミスト、コメンテーターらの発言に依っている。彼らが「財源が足りない」といえば、視聴者はそれを鵜呑みにする。そのほうが楽なのだ、「害が及ばない」のだ。“消費税率アップ反対”が身体の中で異化現象を起こすことが拒否され、議論や行動が大衆化することはない。日本の視聴者の脳味噌は小鳥ほどに小さい。

日本の公務員が陥っている〈二重思考〉

日本の霞が関の役人たちは、権力者の望む方向に合わせて、記録を改竄し国会で証言する。彼らに自責の念はないのか――その回答が本書に示されている。本書ではそれを〈二重思考〉と称している。「1984年」の世界では、〈ビッグ・ブラザー〉は全能であり、党は過ちを犯さない――とされる。だから、黒は白であると〈ビッグ・ブラザー〉がいえば、そのとおりになる。

2017年、モリカケ問題で国会に参考人として呼ばれた財務省の幹部職員は、事実をすべて否定した。一般には黒とされる事実を白と強弁した。故意に嘘を吐きながらしかし、その嘘を心から信じているかのようであった。都合の悪くなったことは全て忘れること、客観的現実を否定すること――「1984年」の〈二重思考〉と変わらない。いまの日本の公務員は〈ビッグ・ブラザー〉=〈安倍政権〉に屈している。

拷問と裏切りと思想的転向と

「1984年」、愛情省の一室に拉致されたウインストン・スミスが、尋問者の拷問によって3本の指を4本だといわされるシーンが執拗に描かれる。拷問の描写は緻密かつリアルであり恐ろしい。そこでは、転向の問題が提出されている。権力側は反逆者を逮捕・拉致して思想の転向を強要する。その手段が暴力、薬物、精神的圧迫を駆使した拷問である。今日、拷問は日本のみならず世界中で行われている。ナオミ・クライン著の『ショック・ドクトリン』を読めば、冷戦後の世界で拷問が日常化されていることがよくわかる。

2019年の日本では、なにもしていない人間が警察によって逮捕されたときの恐るべき体験がSNSで報じられている。警察は無実の者を逮捕し、長時間、尋問を繰り返した。逮捕された者が「尋問はいつおわるのか」と聞くと、警察は「罪を認めればおわる」と答えたという。2019年の日本は『一九八四年』となんら変わらない。

権力の暴走に対して人はいかにしてそれに抗うか

権力と人民の関係はイデオロギーの右左に関わりなく、「権力を行使する側」と「権力に抗する側」の関係に還元される。権力側は、肉体的及び精神的な拷問によって、抗する側に転向を迫る。

過酷な拷問を受けながら、ウインストン・スミスは朦朧とした頭の中で一片の真理にたどり着く。拷問で転向して生きながらえたとしても、拷問に屈せず処刑されたとしても、権力側は自分を抹殺することに変わりないのだと確信する。

権力側の拷問者は〈ビッグ・ブラザー〉と〈イングソック〉を信ずるのかと問い詰める。スミスはそれを否定し、「宇宙には何か――わたしには分かりませんが精神とか原理といったようなもので――あなた方が絶対に打ち勝つことの出来ないものがあるんです」と答える、そして、それを『人間』の精神です」といい換える。

権力はその維持のために人間の精神を否定する。権力は肉体やモノではなく、精神を含むすべてを奪う。本書が問うたのは、それにいかにして抗うか、抗い得るのか――ということである。個人が権力の暴走を阻むことは可能なのかと。

その回答を具体的に示すことは難しい。戦略・戦術として語り得ないからである。しかしながら、ウインストン・スミスが拷問のなかで思いついたもの――権力そして権力が振りかざすイデオロギーより上位にあるもの――たとえば、共同体の規範、親子の情、相互の義、精神性といったものに殉ずることは可能かもしれない。

本書が描いた「1984年」の権力、〈ビッグ・ブラザー〉はほぼ完璧で、洗練された権力維持システムを構築しているかのように見える。それはほぼ完全に社会と人民をコントロールすることに成功しているかのように見える。その姿は、今日の中国、北朝鮮、シンガポールに、あるいは新自由主義が支配する米国に代表され、日本を含む先進国に、断片的ではあるが似ている部分があるかもしれない。そのなかで人民が権力の暴虐を阻むための方策は、権力を分散化するシステムを構築するしかない。そのことが「2019年」のわれわれの喫緊の課題となる。

2019年8月6日火曜日

誕生日カラオケ

愚生の誕生日、娘と親友夫婦がお祝いカラオケ大会を開いてくれた。



カラオケの後はタイ料理

タイの不思議な飲料、「スパイ」

2019年7月31日水曜日

『死民と日常 私の水俣病闘争』

●渡辺京二〔著〕 ●弦書房 ●2300円+税

水俣病は熊本県水俣市に本拠を置く新日本窒素水俣工場(チッソ)が有機水銀を含んだ工場を沿海に排出したことにより発生した公害事件だ。チッソが1950年代後半の操業から有機水銀を含んだ工場排水を沿岸海水に垂れ流した結果、そこで獲れた魚を食した沿岸漁民が主に病に侵された。原因不明の奇病が発症したにもかかわらず、チッソは自社の責任を否定し続け操業を停止しなかった。

有機水銀により神経を犯された患者の症状は、地獄絵と評するがふさわしいほど独特で凄惨を極めたものだった。患者の苦しみが写真・映像等で広く報道されることにより、チッソを糾弾する声が日本全国から上がった。

著者(渡辺京二)は、チッソを糾弾し被害患者を支援する団体の一つである「水俣病を告発する会」の会員として水俣病闘争に関わった。当時、総評、共産党系等の支援団体は、被害患者の多数派が補償について厚生省(当時)裁定に一任する旨の意思表明に従い、裁判闘争に移行した。その一方、「告発する会」は、チッソ側と直接補償交渉を行う闘争方針を掲げた「自主交渉派」と呼ばれる被害患者団体を支援した団体である。「告発する会」は東京のチッソ本社を一時占拠するなど、精力的な闘争を持続した。

「革命の主体」の発見

著者(渡辺京二)は、「告発する会」の自主交渉の闘争になぜ、同伴したのか。彼の闘争参加の目的・根拠はなんだったのか。本書ではそのことが明らかにされている。
「銭は一銭もいらん。会社のえらか順から、死人の数だけ有機水銀ば飲んでくれれば、それでよか」。
(略)
前掲の(患者の)言葉は、ひくにひけぬ断崖に追い詰められた下層民の腹のすわりを示したものである。
(略)
良識とか秩序とか共同社会の利益とかにからめて、圧服させようとするものに対し、こちらはそういうものによって無拘束であること、勝負はどちらかが倒れるまでの真剣勝負であることをいい切ったものである。すなわち、抑圧された下層生活民のアナーキーな情念が噴出しているのだ。(「現実と幻のはざま」P14)

著者(渡辺京二)は水俣病被害患者が出た水俣市沿岸部で生活を営む漁民を〈下層民〉と表記しているが、別の章でそれに注釈をつけている。
それ(下層民)はかならずしも貧困や隷属を意味しない。
(略)
彼らは……彼らなりの海浜の民としての「栄華」をたのしみ、いまだかつて資本に隷属したことのないものの誇りを抱いてきたのである。
(略)
彼らを下層民と規定するのは、彼らが日本近代社会の組織的法則の強制力によって、社会下層に沈殿する疎外者として解体されたからである。彼らはその漁民共同体を解体されつつも、けっして日本資本制社会の支配関係に統合され尽くすことはなかった。彼らに対する解体疎外の作用は、ついに水俣病という激烈な様相をとりつつ完結した。彼らはこうして日本近代社会の疎外者から、それへの叛逆者として転生する。(「死民と日常」P33-35)
市民社会と流民型労働者

水俣病闘争は全国から支援を受けたと前述したが、その内実は複雑だった。水俣市は水俣病発生当時、人口4万5千超の小さなまちである。市の財政はチッソに全面的に依存していた。水俣市民の大半はチッソの工場労働者等として、及び、その関連で生計を立てている事業者等であり、著者(渡辺京二)が下層民と規定した水俣病患者が続出した沿岸部漁民とは異質な生活基盤を築いていた。そのため、水俣市民は水俣病患者を差別したばかりか、公害補償でチッソ工場が撤退することを恐れ、水俣病闘争に反目した。水俣の工場労働者(プロレタリアート)が水俣病患者(下層民)に敵意を抱いていたことも事実なのだ。
(水俣病患者のなかの)自主交渉派の患者に対する水俣市民有志の攻撃ビラの中に、一市民の発言として「あいつらは弱った魚を食べたから奇病になったのはこれは事実じゃ。やっぱり本当の漁師が専門に取って、金を取って喰わせる魚を食わんとが一番悪かったごとあるなあ」と……。(「流民型労働者考」P42)
水俣湾沿岸部の漁民に水俣病患者が多く出たことはすでに書いた。その彼らは、九州の資本主義産業にひかれて出郷したものの、近代産業労働者として定着することに失敗し、「なになに流れ」という家を構えてふたたび村を構成した者だという。出郷と流着のメカニズムの構造が水俣病患者への差別の根底にあった。

彼らは、「わが国の近代市民社会を構成する正統的な市民生活形態(官吏、サラリーマン、大企業労働者、知識的職業人、軍人等々)のたどりつくことができなかった意識上の流民形態(「流民型労働者考」P48)」として水俣湾沿岸に定着し、そして水俣病患者になってしまった。

賤民化した流民を統合した戦前の天皇制

著者(渡辺京二)は、水俣病患者を多数出した漁村地区の存在形態と国家意識を次のように素描する。この箇所は著者(渡辺京二)の革命論の肝というべきところなので、長文を引用する。
それならばこのようなわが水俣漁村地区の流民の意識そのものはどういう規定においてとらえられるだろうか。故郷から放逐されながら正統的な市民社会の構成に加わることができないその周辺的な位置のゆえに、彼らの意識は中核において矛盾にひきさかれ、一方ではそこから放逐されたところの故郷=農村共同体へのノスタルジーとなって現れ、他方では、近代から疎外されているだけになおさら強烈な近代へのあこがれとなって現れる。この意味で流民とは、安定した部落共同体的支配と都市における近代市民統合とのはざまに陥没した意識のありかたであり、つねに何ものかに慕いよる意識のヴェクトルであるということができよう。このつねに何ものかに慕いよる流民する意識を把握するものこそ戦前社会における天皇制であった。
戦前段階における日本資本制の基本的特徴は全国民を市民社会的関係において編成しつくすことがまだ不可能だったという点にある。……わが近代資本制国家は天皇制というイデオロギー的装置によって、これら下層民を近代市民社会的関係に適応する正規の構成員となんら変わらぬ平等な臣としてその支配に統合したのである。
(略)
戦後社会は憲法的擬制と利益配分体系によってそれ(全生活民)を国民として統合しようとする。しかし天皇制的統合から解き放たれた流民は、近代市民社会の原理によって統合されないままに戦後社会の漂流者となる。なぜなら、小作農民は出郷せざる土着の正統的住民として農協を通じて、労働者は労働諸法によって正統性を保証された大労組通じて、それぞれ戦後社会の正統的メンバーとして市民意識を獲得していったのに対して、流民的意識はそのような市民社会的構成に編入され、市民的論理によって教育されることを無意識にこばむことにおいて、戦後社会の域外の民としてとどまったからである。(「流民型労働者考」P52-53)
「流民型労働者」が自主交渉グループの中心

自主交渉闘争の担い手となった患者を著者(渡辺京二)は次のように評している。「もちろんこのグループの患者には古典的な流民の意識圏にふくまれる人びともいるわけだが、すくなくとも自主交渉闘争の中心的な担い手だった川本輝夫さん、佐藤武春さん、江郷下一美さんの三人には前述のような流民的意識の古典態をつきぬけたところがあり、……彼らの意識類型をひとつのカテゴリーとして設定するなら、「流民型労働者」という……言葉がもっとも適切であるように思われる。(「流民型労働者考」P55)

流民型労働者の日常と水俣病

水俣に限らず、農村部から出郷して大都会に出た者のなかにも、前出の官吏、軍人、サラリーマン、労働者等になることがかなわず、大都市型流民となった者が存在した。彼らは山谷(東京)、釜ヶ崎(大阪)に代表される寄せ場といわれる簡易宿泊街に漂着し、日払いのその日暮らしの単純労働に従事したし、いまでもその形に変化はない。

では、大都市型流民と水俣の流民型労働者との違いはなにか。前者が完全に自然と分離しているのに対し、後者は自然(海=漁業、土=農業)との接点を持ち続けている点だろう。本書では、土本典昭監督の記録映画「水俣―患者さんとその世界」のなかの水俣病患者である「流民型労働者」の老人がタコ漁をするシーンが紹介される。著者(渡辺京二)はタコ漁をする老人の姿に水俣の流民型労働者の自然を基盤とした膨大な日常的部分によって構造づけられた存在を見る。
生活者の日常の位相は、彼らの上にそそり立つ経済・政治・法などもろもろの諸制度、諸機構の位相とまったく異なっており、その支配をうけつつも、核心部分にはけっして侵入を許さない頑固さを保ち続けている。……その日常の位相が日本近代の市民社会組織を根底から否定するものであり、生活民の自立した闘争としての水俣病闘争がそのような水俣病下層民の生活の位相に根拠をおかざるをえないことを暗示しているのである。(「死民と日常」P29-30)
大都市型流民と水俣の流民型労働者を比較して優劣をつけるわけではない。大都市には、自然と切断された大都市型の生活があり、水俣には、自然と接合した水俣型の生活があったというだけの話である。水俣の流民型労働者は、水俣病を媒介して、水俣の生活の位相を根拠にして、水俣病闘争を闘い抜いたということである。

水俣病闘争の時代

水俣病闘争が展開された1960年代後半から1970年代前半にかけては、日本社会のなかに反戦平和主義が強く意識され、かつ、高度経済成長の歪みが各所に噴出していたことから、労働組織や市民運動の力は現在よりも強かった。加えて、学生運動等の革命運動も活発であった。前者は革新勢力とよばれ、社会党・共産党が指導部となっていた。しかし、両党は水俣病闘争を自党の勢力拡大を目的として介入していたため、患者(被害者)よりも党利を優先する傾向にあった。また、後者は、既存左翼を否定する新左翼各派が指導し、革命運動の一環として水俣病闘争に関与していた。

著者(渡辺京二)らの自主交渉闘争派支援者は、新旧左翼勢力の政治利用とは一線を画し、自主交渉派患者に無条件で同伴することだった。
水俣病闘争は成立の日から今日まで、患者の存在を原点とし、その意志を一切の規準とするということを不可侵の原則として進められてきた。それはたんなる運動のモラルであったのではなく、水俣下層民の存在と意識の深層から自立する運動以外に水俣病闘争はありえない、という基本的な方法論・認識論であった。(「『わが死民』解説」P112)
谷川雁と渡辺京二

著者である渡辺京二(1930-)の運動論は、谷川雁(1923-1995)の影響を受けていないだろうか。渡辺は旧制熊本中学に在学し、現在も熊本市に在住して執筆活動等を行っている。渡辺が水俣病闘争に参加したのも地縁が働いている可能性が高い。谷川雁は水俣の出身、民俗学者で本書にも登場する谷川健一は雁の兄である。

渡辺と谷川がどのような関係にあったのかは、本書からはうかがえないが、東京において、年長の谷川雁が渡辺京二を支えたことがわかっている。渡辺が雁の思想的影響を受けたことはまちがいない。

ただ、谷川雁は水俣病問題について、石牟礼道子(1927- 2018)に宛てた私信のような形式で短文を書いていて、その内容を大雑把にいえば、『苦海浄土』の著作で水俣病を世に知らしめた石牟礼道子批判である。雁も石牟礼も水俣出身者である。

一方、著者(渡辺京二)は熊本県在住ではあったが水俣出身ではないものの、石牟礼の『苦海浄土』を世に出した編集者であり、関係性は雁より強かったのではないか。雁の短文を読む限り、石牟礼道子をめぐる距離は、谷川雁と渡辺京二とでは微妙に異なる。

著者(渡辺京二)は水俣病患者が多発する漁師部落の歴史的な成りたちを石牟礼道子の談話「流民の都」から提供してもらったと書いている(「流民型労働者考」P42)。「流民の都」によると、同地域の流民は、薩摩、天草、アメリカ、アルゼンチン、南洋、フィリピンなどに出ていきながら、そこから帰ってきた人たちが定着して村になっていたところで、それぞれの家は「なになに流れ」と呼ばれ、定着した流民は長崎造船所等の大工場のなかの単純労働に従事する者として、生計を立てていたという。

「流民の都」を読んだ著者(渡辺京二)は、「そもそもある程度発達した準位の資本制を導入せざるをえない後進国の場合、出郷した農民がそのままでは能率的な労働力になりにくいのは当然のことで、平均的な工業プロレタリアートの形成のかわりに、労働力として劣弱な部分が選別されていわば賤民化される現象は、なにもわが国の場合にかぎった話ではない。(「流民型労働者考」P47)と全面肯定し、「水俣市周辺地区の漁民――それは水俣病患者の主層であるのだが――は、わが近代資本制の分解力の一定の準位の結果として、農村共同体(故郷)から放逐されながらついに近代的労働者として定着できず、……流民化し都市周辺に漁民、労務者、小商人などの形で定着する(「流民型労働者考」P47)」と結論づけた。

一方の谷川雁は水俣について次のよう書いている。
水俣は移住民・流民の町です。あなた(石牟礼道子)の親も私の親もそうです。それゆえ新しい民への差別がいちじるしい。
(略)
チッソ工場進出以前に、この一帯には田畑も定職もない農村遊民がいくらも存在していて、かれらが工場に吸いよせられるまで、この主なき浜辺はかれらの遊びとも仕事ともつかぬ行動圏だったのですから。……村の日雇いより八銭安く、会社勧進(乞食)とよばれ、道でも顔をそむけられた〈南九州の神武たち〉とその子孫、これが精神の純粋種としての〈第一の水俣〉です。
(略)
〈第二の水俣〉は水俣病患者の層です。かれらは身体性に富んだ思想的な発言で都市住民をおどろかしたが、あなたのいうように、ちっぽけな泉水にひとしいあの海との接触だけで言葉を養ってきたとはいえません。かれらをきたえたのは〈第一の水俣〉の白い眼です。
(略)
〈水銀以前〉の水俣を、あなたは聖化しました。……それが〈水俣病〉の宣伝にある効果を与えたのも事実です。
しかし患者を自然民と単純化し、負性のない精神を自動的にうみだす暮らしが破壊されたとする、あなたの告発の論理には〈暗点〉がありませんか。小世界であればあるほど、そこに渦巻く負性を消してしまえば錯誤が生じます。なぜなら負性の相克こそ、水俣病をめぐって沸騰したローカルな批評精神の唯一の光源ですから。
あなたの水俣には底面の葛藤がありません。結局のところ病の狂乱のただなかへ古い神話性をよびもどすことで終わった。(『〈非水銀性患者〉水俣病・一号患者の死』(1990年6月「すばる」/『谷川雁の仕事(上)』P210)
谷川雁の石牟礼道子批判が本書と関係があるものか、といわれるかもしれない。が、谷川雁によれば、本書の著者(渡辺京二)が定義した「流民労働者」が基層の民ではなく、〈第二の水俣〉だといい、それを先験的に原初的革命主体だとすると見誤る、ということだけはいえる。

だが、石牟礼を批判した谷川雁も石牟礼批判の前に『農村と詩』(1957年1月『講座現代詩』Ⅲ)で次のように書いていたが。
無名民衆の優しさ、前プロレタリアートの感情……それらを理念として表現すれば東洋風のアナルコ・サンジカリズムとでも呼べばいいと思う。……日本のコミュニズムは日本それ自体の土壌に発生した前コミュニズムの内在を明らかにすることなしには一歩も前進することはできない。それはもっとも初歩的な弁証法の原理である。(『谷川雁の仕事』P102)
基層、古層、下層、故郷、出郷、流民、無名民衆、前コミュニズム、前プロレタリアート……といった概念は聖性を纏った、ロマン主義的魅力にあふれていて、それらに抵抗することは難しい。しかも、原点だと確信したものがそうでないこともある。その結果、思わず思想的錯誤を犯し、足をすくわれることもある。

2019年7月27日土曜日

隅田川花火大会

浅草の隅田川花火大会。

ベランダから見えたのはほんのわずか。

2019年7月17日水曜日

『苦海浄土 わが水俣病』

●石牟礼道子〔著〕 ●講談社文庫(新装版) ●690円+税

本書については、巻末解説『石牟礼道子の世界』(渡辺京二)及び『水俣病の五十年』(原田正純)においてすべて尽くされていて、つけ加えることはなにもない。とりわけ前者は、著者の近くにあって、しかも本書を実質上、世に送り出したともいえる渡辺京二の言説であり、解説以上の価値と内容がある。

『苦海浄土』の多様性

本書にはいくつもの顔がある。▽水俣病を発病させた新日本窒素水俣工場(チッソ)の企業犯罪を告発する側面、▽被害者の病状や苦痛及び被害者の生活苦を代弁する側面、▽水俣病と闘い続けた反公害運動のプロセスを開示する側面、▽土着=被害者である漁業者等⇔市民=チッソという大企業に生活を依拠している工場労働者及び地域事業者等の敵対的関係、▽公害に対して企業寄りの姿勢を堅持した行政(自治体、厚生省、警察)の犯罪性の告発…などを読み取ることが可能である。

『苦海浄土』の今日性

水俣病の被害者が出てから解決までおよそ半世紀を要したばかりか、水俣病の原因が、チッソによる有機水銀が溶解した工場排水であると認定されたにもかかわらず、同社は操業を続け、排水を止めることがなかった。行政も事実上、操業を黙認していた。このことは、新自由主義経済の強欲資本主義が席巻する今日の状況に通じている。そればかりではない。3.11で崩壊したはずの「原発安全神話」が復活し、日本各地の原発再稼働ばかりか、原発輸出、原発再建設の話までが出始める今日の経済社会状況にも通じている。

日本の公害は過疎地、辺境と呼ばれているところで発生することが多い。原発も然りである。過疎地や辺境の人々の暮らしを豊かにするという建前で大工場(原発)が誘致され、資本は雇用を増やし、消費を増やし、税収を増やし、インフラが整備されることで地域に貢献していると喧伝する。実際、そのような面を否定はできない。

ところがその一方、公害が発生し(原発事故が起こり)、企業の犯罪性が露見するや否や態度を硬化させ、原因の科学的究明を盾に時間を稼ぎ、被害を増大化させる。行政も資本の側に立ち、操業停止をみおくる。補償交渉は長期化し、補償がまとまるまでにおよそ半世紀を要する。

福島原発事故による被曝被害が科学的(医学的)に証明されるまで、半世紀以上を要するとするならば、世代を超えた被害を認めることなく、一次加害者及び被害者はこの世の人ではなくなる。恐ろしいことだ。

『苦海浄土』の本質

筆者を含めた多くの、いやおそらくすべての読者は、前出の渡辺京二の解説のなかの一文に衝撃を受けるであろう。それは、「実をいえば『苦海浄土』は聞き書きなぞではないしルポルタージュですらない。」(P368)という部分である。本書に溢れるようにおさめられた水俣病被害者の声が聞き書きではない、と知らされ、後方から頭を殴られたような思いがするにちがいない。本書は一見ドキュメンタリーのような体裁をとりながら、石牟礼道子の創作だというのだ。渡辺は石牟礼道子を「記録作家ではなく、一個の幻想詩人」(P378)といい、「この作品(『苦海浄土』)は石牟礼道子の私小説であり、それを生んだのは彼女の不幸な意識だ」という。

その理由や渡辺がいう本書の〈世界〉がどのようなものなのかについては、本書を及び解説を熟読して、読者諸氏それぞれがそれぞれの思いをめぐらすことが重要である。

さて、渡辺京二の解説と異なる位相において、著者(石牟礼道子)の立ち位置を筆者なりに推測する根拠は、「第一章 椿の海」に収められた「死旗(しにはた)」の次の箇所である。
・・・僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられなければならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうかもしれぬが、私の故郷にいまだたち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアミニズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(P75)
近代への呪術師と自己規定した石牟礼道子。水俣の風土とそこに生きる生命の根源からの声なき声が彼女に憑依し、『苦海浄土』という文学作品に昇華したのだとしたら、近代的な文学の方法論を超越した文学の成立を本書に見出すことが可能である。

2019年7月14日日曜日

屋形船

根津のダイニングバー、NCの夏季イベント「屋形船」に参加

浅草吾妻橋、アサヒビール本社

浅草吾妻橋、船着き場

乾杯

カラオケ大会

お台場

お台場

お台場

2019年7月12日金曜日

Jack Atherton(イギリスのミュージシャン)と彼のご両親が拙宅に遊びに来てくれた。