2006年4月25日火曜日

『奔馬 豊饒の海2』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●660円(税別)

FI2507533_0E.jpg物語は清顕の死から18年後(昭和7年)に始まる。昭和7年には「5.15事件」が起きている。この時期の社会状況としては、農村部は凶作続きで疲弊、都市労働者は大量失業と、混乱した。一方、財閥、政治家、官僚、軍部は癒着し利権に走り、人心は荒廃した。そのため、社会正義の実現と、天皇制原始共同社会建設を標榜する超国家主義者が直接行動に走り始めた。彼らの一部は実業家・政治家等を対象に、「一人一殺」のテロを実行した。「5.15事件」はこうした潮流の中で起きたものだ。

さて、亡くなった松枝清顕(第一巻『春の雪』の主人公)の親友だった本多は、大学卒業後、裁判官として大阪に赴任し所帯をもつ。本多は奈良の大神神社で行われた奉納剣道大会の主賓として招かれることになる。彼は大会で優勝した青年が松枝家で清顕に仕えていた書生・飯沼芝行の長男・勲であることを知る。勲の父=飯沼芝行は松枝家の書生時代、下女との密通により同家から放逐されたことは、第一巻に描かれていた。飯沼芝行は故郷鹿児島に戻り、その後、右翼結社・献靖塾の塾長となっていた。その息子・勲は國學院大學に通う学生で剣道の達人、熊本の神風連の乱を理想とする皇国青年だ。本多は、神社の境内の滝で身を清める勲の体を見る。勲の体にある印(3つの黒子)は、清顕の印と位置・数とも寸分違うところがない。本多は、勲が清顕の生まれ変わりであることを確信する。

『豊饒の海(全四巻)』は、『浜松中納言物語』を下敷きにした輪廻転生の物語。三島自身、そのことを第一巻末に注釈している。輪廻転生は仏教の教義だが、日本古来の宗教(神道)にも古い神が死んだ後、新しい神として生まれ変わる信仰が認められる。死と再生は、農耕民族が穀物のサイクル(種子-発芽-成長-結実-枯死・・・)から導き出した宗教概念だという説がある。穀物のサイクルに倣って、人々は尊き者(神)の死と再生(復活)を信じようとしたのだろうか。

本書では『神風連史話』(山尾綱紀著)という書物が物語の展開の上で、重要な役割を果たしているのだが、同書は三島由紀夫が創作した架空の書物。熊本を舞台にした「神風連の乱」(史実)と、創作である『神風連史話』の記述が一致するかどうかを判定する能力は筆者にはない。そこで、熊本県のホームページにある神風連に関する記載と『神風連史話』とを比較してみる。熊本県のHPには次のように記されている。
神風連は城内千葉城にあった林桜園の私塾「原道館」の門下生でつくる「敬神党」の別名。神風連は神道を重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体でした。明治9年(1876年)3月の「帯刀禁止令」の太政官布告、同6月の熊本県布達「散髪令」に憤激し新開大神宮に「うけい」を立て、挙兵を認める宣示が下ったとして、熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱です。同年10月24日夜、太田黒伴雄や加屋霽堅らに率いられた神風連170人余りは、熊本城内の藤崎八旛宮に集合し、鎮台司令長官種田政明や県令安岡良亮らを襲撃して、多くの官憲を殺傷しました。また、別の隊は二の丸の兵営を襲い、これを全焼させ鎮台側を大混乱に陥れましたが、与倉知実歩兵第13連隊長が、要人襲撃の難を逃れ戦場に現れると、鎮台兵は落ち着きを取り戻し反撃を始めました。かたや神風連は太田黒や加屋等が戦死して、指揮系統が乱れ、25日早朝には敗走。最終的には戦死28人、自刃86人を出して惨敗。残った者もほとんどが捕らえられました。この乱はあらかじめ各地の同士に伝えられており、10月27日には秋月の乱、同28日には萩の乱が勃発しました。

比較の限りでは、(三島が創作した)『神風連史話』は史実とは、大筋で違っていない。ただ、『神風連史話』では、神風連が剣(日本刀)を信奉・偏愛したことが強調されている。挙兵では彼らが神聖視する日本刀、槍等のみの武装にて熊本鎮台を襲撃したものの、銃器等の近代装備で武装した維新政府軍に逆に鎮圧されてしまう。剣は武士の魂であり、かつ、皇国思想における「三種の神器」の1つ。勲が剣道の達人に設定されており、剣は勲が信ずる皇国思想の象徴となっている。

「神風連」に心酔し要人暗殺による「世直し」を決意した勲は、陸軍中尉・掘と出会う。勲が中尉に『神風連史話』をすすめたことが縁となり、中尉と勲は固い信頼関係で結ばれる。中尉は陸軍に従軍する武闘派の皇族・洞院宮に勲を紹介する。洞院宮こそ、第一巻で聡子と勅許により結ばれるはずの相手だ。洞院宮は聡子と清顕の関係を知るよしもないのだが、清顕と聡子は、洞院宮の存在によって引き裂かれたことは事実。洞院宮は、勲の父・飯沼芝行が仕えた清顕を死に追いやった張本人。もちろん、勲がそんなことを知るはずもない。勲は直参のおりに、『神風連史話』を洞院宮に献上する。勲は宮に自分が信じる皇国思想を開陳する。宮は勲の熱情に強い衝撃を受ける。
勲は『神風連史話』を教本にして、決起のため20名の同志を集める。彼らは勲が説く要人暗殺計画に賛同し神前に実行を誓う。勲らは、献靖塾を支援してきた鬼頭中将の娘・槙子から資金的協力を得て、計画は順調に進むかに思われる。この間、勲、槙子は相思相愛であったのだが、それを互いに伝えることはできていない。

勲の計画は、財界人暗殺、東京銀行及び変電所の襲撃、戦闘機を使ったアジビラ撒布、を骨子としていた。ところが、決行直前、掘中尉が満州配属で決行から脱落。と同時に、軍関係の協力(戦闘機の使用)が得られないこととなる。軍の非協力を知ったことで、数人の仲間が脱落し、決行は危ぶまれたのだが、献靖塾の古手の塾生・佐和が急遽決起に参画することとなり、佐和のすすめで、財界人暗殺に計画を縮小する。計画の実効性が高まったことにより、同志の団結は再び回復する。勲は決起を前にして、槙子に実行日を打ち明ける。そして二人は互いの愛を確認する。決起の最終打ち合わせのため、佐和を除く全員がアジトに集まったところ、刑事が踏み込んでくる。勲らは全員逮捕され獄に入れられる。

勲の父・飯沼芝行は勲逮捕を本多に知らせる。知らせを聞いた本多は裁判官の職を辞し弁護士となり、勲の弁護を買って出る。本多には勲が清顕の生まれ変わりだという確信がある。彼が勲を助けることは、すなわち清顕を助けることにほかならない。弁護士となった本多は洞院宮を通じて、勲が国家反逆罪となる証拠文書の隠滅に成功する。裁判では槙子の偽証などもあり、勲は重罪を免れ保釈となる。

勲が釈放された日、勲の父(飯沼芝行)は、官憲に密告したのは自分だったことを、また、献靖塾の運営が、勲らが腐敗の根源だとして暗殺リストに掲げた財界人・蔵原武介の間接的献金により運営されていることを告げる。勲はまた、勲の父に決行の日を教えたのが槙子だったことを知る。勲は自分の純粋な思想と行動が「不純な」大人たちの現実主義により弄ばれていることに怒り、新たな直接行動敢行の決意を固める。蔵原武介の暗殺だ。彼は一人、蔵原の別荘に潜入し彼を刺し殺す。そして、自分も割腹自殺を図る。

本書の印象を書きとめておこう。

主人公・飯沼勲の思想と行動は、三島由紀夫が、「楯の会」を結成し、自衛隊市谷駐屯地に突入後、自決に至る事件(1973年)を連想させる。本書に描かれた勲の行動は、三島自身の自決とオーバーラップする。

本書には、三島が抱く思想が余すところなく描き出されている。三島の思想のエッセンスは、▽日本人の共同性の中心となる原始天皇信仰、▽知行統一としての陽明学、▽輪廻転生を保証する仏教、▽『葉隠』に代表される武士道――に要約されると思う。

三島は、日本人のエートスである上記4点を渾然一体化した宗教を始めようとしたに違いない。三島独自の自死の思想を展開する。恐ろしいことに、それらはいまなお日本人の思考・行動を律している。たとえば、年間3万人を超える自殺者の存在や、経済事件の中心となる人物の自殺の頻発、自死と等価と思われる殺人事件の頻発などが挙げられると思う。日本人にとって、自死は必ずしも避けるべき手段ではないばかりか、かなり身近なそれである。

もう1つは、人が思想に殉ずる純粋性(絶対性)と、実生活との妥協(相対性)の問題だ。三島は本書を通じて、イデオロギー及び信仰の実践に係る原理的問題提起をしている。人は信ずるところを実践しなければいけない。そのためには死を厭わない。それができないまま、実生活と折り合いをつけるのであれば、真の思想的実践者ではない。三島のこの論に従えば、この世は夥しい殉教者の死体で埋まるか、あるいは、思想的対立とともに開始された戦闘による多くの戦死者に取り囲まれるだろう。思想(理想)とは、生活において、なんであるのか・・・本書の問いかけはここに帰すると思う。

2006年4月13日木曜日

『春の雪 豊饒の海1』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮社 ●629円(税込)


FI2476527_0E.jpg本書は、三島由紀夫の遺作と言われる「豊饒の海(四部作)」の第一巻。大正期の華族(松枝公爵一家とその周辺)を舞台にした青春恋愛小説という体裁をとっている。松枝家は江戸時代、薩摩藩の下級武士だったが、維新革命の功績により公爵に準ぜられた。東京・渋谷に14万坪の大邸宅を構えるほどの権勢を誇っている。主人公松枝清顕は、学習院高等科に通う美貌の長男という設定だ。

清顕は明治の武断的気風から外れ、学生生活においてもおよそ空疎な感覚に支配された美青年。たった一人の親友・本多との交際しか外部との人間関係はなく、学業、実業、教養、芸術、政治といった上昇志向にはまったく興味を示さない。頽廃が滲む貴族のニヒルな美青年を主人公にしたところは、ドストエフスキーの作品を彷彿とさせる。本多は本書では清顕の親友の位置にとどまるが、『豊饒の海(四部作)』を通じた生き証人という重要な役割を担っている。

本書の粗筋をおさえておこう。18才の清顕は幼馴染の聡子(松枝家に隷属する綾倉伯爵の令嬢で、清顕と結ばれることを望んでいる)と淡い恋に落ちる。綾倉家は公卿の家柄だが、経済的に松枝家の庇護下にある。その聡子に宮家から縁組の話が舞い込む。松枝家及び綾倉家は宮家との縁組を歓迎し積極的に縁談を進めようとするが、清顕が聡子に特別な感情をもっている可能性を懸念して、縁組を決める前に清顕の意思を確認する。両親から聡子への感情を問われた清顕は、聡子への関心を否定する。松枝家・綾倉家は、清顕の意思を確認したうえで、聡子の宮家への輿入れを正式に受諾する。しばらくして、聡子と宮家の縁組に勅許が出た途端、清顕は聡子への愛を確信し、聡子を失うことに耐えられなくなり、聡子に愛を打ち明ける。聡子も清顕との愛に全身全霊を賭けることを選ぶ。

二人は禁断の恋に落ち密会を重ね、聡子に清顕の子が宿る。聡子の妊娠を知った松枝、綾倉両家は聡子に堕胎を強要し宮家との縁組を強引に進めようとするが、聡子は術後の静養先である京都の山寺で出家する。聡子の出家を知り困りはてた両家は聡子を精神病に仕立て上げ、宮家に破談を申し出、宮家もそれを受け入れる。監視状態の清顕は、親友本多の助けを借りて、聡子との再会を求めて京都へ向かう。清顕は聡子が滞在する山寺を何度も何度も訪問するが面会を拒絶され、ついには体力を消耗し肺炎を患う。病魔に取り付かれながら山寺を訪れる清顕だが、聡子との再会は適わない。ついに病床に臥した清顕は、電報を打ち親友の本多に助けを求める。本多は清顕を助けるため京都に出向き、聡子への面会を嘆願するが寺に拒絶される。本多は病気の清顕を伴い東京に戻るも2日後、清顕は20歳で命を落とす。

以上がメーン・ストーリーだが、松枝家を訪れたシャムの王子の話、松枝家の書生(下女と密通)の話、聡子のおつきの女と聡子の父・綾倉伯爵との密通の話等のサイドストーリーが、現在形、過去形で挿入されている。加えて、登場人物の口を借りた形式で、三島由紀夫の法学、仏教解釈などが教養主義的に散りばめられている。

この小説を読む上での基本的知識として、明治期に定められた華族制度を簡単に復習しておこう。華族制度は旧憲法下、皇族の下、士族の上に置かれ貴族として遇せられた特権的身分のことだ。1869年(明治2)旧公卿・大名の称としたのに始まり(旧華族)、84年の華族令により、公・侯・伯・子・男の爵位が授けられ、国家に貢献した政治家・軍人・官吏などにも適用されるに至った。1947年(昭和22)新憲法施行により廃止。

同じ華族でありながら、公卿出自と、政治家、大名、軍人、官吏を出自とする華族があった。本書の松枝公爵は華族の最高位に位置し、綾倉伯爵はそれより下位に位置するが、前者は武家、後者は公卿の出自になっている。綾倉家が公卿として皇室(雅)につながっている一方、松枝家には成り上がり(粗野)のイメージが付与されている。三島由紀夫は、華族制度の二極構造の一方(公卿)を肯定し、一方(武家)を否定する。大正期、宮家に通じる公卿系華族が新興の薩長藩閥勢力に凌駕された実態に、三島が大きな反発を覚えていることがうかがえる。

四部作を読了前なので、本書の印象を記すに留める。極めてグロテスクな小説だと思うものの、エンターテインメントとしてのレベルは高い。三島由紀夫は大正期の華族をサンプリングして、当時の日本社会に潜む、至上的、理想的、純なるもの――と、虚飾的、現実的、不純なるもの――とをつきつめる。明治維新が描いた国家像は、政治的には薩長連合政権による、天皇制国家として構想されながら、その実は薩長の武士的志向、外来志向、経済至上主義=不純なるものを取り込んだ連合体だった。明治から大正にかけて完成した日本帝国は、天皇制度を標榜としながらも、三島由紀夫が理想とする古代天皇制度、すなわち文化としての天皇中心国家ではなかったというわけだ。

清顕の内面はどうなのか。彼はその不純なるものを出自とすることで聡子を媒介にして、対極の純なるもの=絶対性に対峙してしまう。絶対性により喪失に直面することにより、自己の中に絶対的な愛を発見する。きわめてアイロニカルな設定だ。そして、己の絶対性を貫徹することで敗北する。この行動原理が革命的敗北主義だ。革命的敗北主義がもたらすものは死であり滅びである。清顕のアイロニーは天皇制度(勅許)の絶対性だった。清顕は勅許による喪失という「絶対性」により、生まれ変わった。だから、その生まれかわりが(宗教的に)担保されることが必要だ。ここで輪廻転生というテーマが示唆される。 -->

2006年4月1日土曜日

『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』

●佐藤幹夫[著] ●PHP新書 ●780円+税

FI2443608_0E.jpg 苦手な日本文学について書く。 筆者は村上春樹の小説のほとんどを読んでいる、熱心な“村上ファン”の一人だが、正直いって、本書を読んで驚いた。たとえば、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島の『夏子の冒険』という週刊誌に連載された小説を下敷きにして書かれたものだということを初めて知ったからだ。

また、村上春樹の『ノルウェイの森』の登場人物の一人・小林緑という名前は、なんと三島の『豊饒の海』に登場するジャオ・ピーの恋人・ジンジャン姫のイメージから命名されたものだと。

筆者には著者の指摘の是非を断ずる能力がない。だから、本書を読み進めるたびごとに、“ふぉー”と叫びたくなるほど驚いた。確かに、『羊をめぐる冒険』(村上)にも『夏子の冒険』(三島)にも“冒険”とあるから、村上が三島を下敷きにしたことは確かなことのようだ。著者の指摘は、日本文学を知る人からみれば、驚くに当たらないものなのかもしれないが。

そればかりではない。村上は三島の小説の構造、人物配置、テーマにおいても強い影響を受け、それを発展的に再構築したという。

著者によると、小説家とは自己のイメージを意図的かつ戦略的に創造するものだそうだ。村上春樹の場合、米国に滞在し、米国文学を翻訳し、マスコミを使って、自身がアメリカ的な生活をしているかのようなイメージを与えていて、しかも、雑誌のインタビューで、「自分は、日本文学を読まなかった」と語っているという。

村上の小説に登場するキャラクターそのもの、小道具として使われる音楽、クルマ、ファッション・・・などなど、その小説に設定された衣食住はアメリカ的だ。たとえば、モダンジャズ、ファーストフード、コンビニ(ドラッグストアー)などが小説の舞台であると同時に、記号化されたメッセージになっている。主人公がとる朝食はパン、ハムエッグ、サラダ、コーヒーであり、白いご飯に納豆、味噌汁ではない。村上春樹の文体そのものが「翻訳的」だ。著者によると、村上はあえて日本文学(=三島)の影響を意図的に隠蔽しているのだという。

しかし、どんなに「翻訳的」な日本語であっても、日本語は日本語である。日本がいまから138年前の明治革命以来、欧米文化を積極的に取り入れ、さらに、61年前の大敗戦以来、米国の支配下におかれ米国文化を取り入れてきたにしろ、日本列島に日本人らしき民族が現れ日本語を話し始めてから、何千年のときが経過している。近代日本文学はおそらく、表層の変化と基層の不変の間で揺れてきたに違いない。

本書では三島の『奔馬』と村上の『ダンス・ダンス・ダンス』の類似性の指摘を分析した後、その差異として、『奔馬』には決起行動(革命)、すなわち、腐敗、不正義に対する「闘い」が渇望され、一方の『ダンス・ダンス・ダンス』には高度資本主義社会すなわち無駄で無意味で幻想的なものとの「闘い」の可能性が探られているという。

三島も村上も「闘い」を描きながら、両者には闘いの「相手」、闘いの「質」、闘い「方」に大きな隔たりがあるというわけだ。三島の晩年は政治の季節だった。村上の登場は、学生運動が終息しマルクス主義が後退した時代だった。

さて、著者は、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫、村上春樹を一本の糸でつなぐ可能性を試行している。それが可能かどうかはわからない。可能・不可能というよりも、日本文学が日本語で書かれる以上、近代以降の小説家に基層の共同性を認めることは難しいことではない。村上が三島の小説の影響下で小説を書いた、という指摘も大いにあり得る。

日本の小説は、日本語で書かれる散文形式の1つ。時々の日本の小説には、過去現在の日本人小説家の互いの影響により、成立している。そこに換骨奪胎、本歌取り・・・が意識的にか無意識的にか行われることもあるし、日本の知識人の問題意識が意識的かつ無意識的に共有されることもある。結論は、“だからどうなんだ”ということ。