2020年3月31日火曜日

やっと膝の

上に乗るようになった猫(Nico)。わが家に来た時から警戒心が強かった。なんとかそれを解こうと努力した結果である。
9年間も要した。





2020年3月27日金曜日

日本人の特異なスポーツ観

 新型コロナウイルスの影響で、およそのスポーツが中止を余儀なくされている。去年のいまごろは、日本プロ野球、Jリーグ、そして海の向こうスポーツ中継を含め、メディアの大部分がスポーツコンテンツで占められていたことを懐かしく思う。

そしてなによりも、東京オリンピック、パラリンピック(以下「東京オリンピック」と略記)の延期が決まった。そこで、日本人とスポーツの関係について、大雑把な総括をすることにした。

1964年東京オリンピックとその時代

1964年に東京オリンピックが開催された当時、日本人はそれが世界平和実現と人類融和の祭典だと確信していた。聖火リレーは、古代から伝わる儀式だと信じていた。ところが、実際の聖火リレーは1936年、ナチス政権下で行われたベルリン・オリンピックにおいて、ヒトラーが「アーリア人」の優越性を誇示する演出として初めて取り入れたものにすぎなかった。

オリンピックは当時、崇高なアマチュア精神を体現する場だと伝えられていた。オリンピックにおいては、勝負は二の次、「参加することに意義がある」と。プロ・スポーツはカネのためにやる汚いもの、その反対にアマチュア・スポーツは自身の鍛錬、他者との共存、友情を育む場、アマチュア精神の延長線上として、世界平和、人類みな兄弟の実現が込められていた。

なお、アマチュアスポーツの代表として、英国起源のラグビー(当時はオリンピック競技ではなかったにもかかわらず)は特別な地位を占め、「ノーサイド」が勝負を超越した崇高な精神を象徴する記号と見做され、ラグビーは英国紳士のスポーツとして尊敬されていた。

オリンピックは巨大商業イベント

オリンピックとなると、日本人の多くが1964年当時の認識のままでとどまっている。延期が決まる直前の聖火リレーに多くの人が集まり、聖火がいまだ神聖視されていることを証明した。テレビで紹介される一般大衆のインタビューでも、オリンピックが平和の祭典だと信じている台詞が紹介されていた。

ところが、最初の東京オリンピック開催から半世紀以上が経過した今、スポーツそれ自体が巨大マーケットを形成するに至っている。世界規模で巨大化したスポーツ用品メーカーの成長はいうまでもない。オリンピック開催に伴い、都市インフラ事業、施設建設事業、都市開発事業・・・が動き出す。放映権料、スポンサー料、広告宣伝費といった、メディア関連のカネが動く。オリンピックを運営するIOCに巨額の資金が還流し、国や都市の政治を動かすまでに至っている。IOCを頂点として、開催都市に設置された組織委員会等は巨大利権の巣窟と化し、そこを通じて、関連事業者等が潤う仕組みが確立されている。

それだけではない。オリンピックは、その時々の政治権力によって、狭隘な民族主義、国家主義を醸成する手段として利用されてきたことも忘れてはならない。

日本人は、オリンピックが巨大な商業イベントであることに目をつぶり続けるのだろうか、オリンピックを前にすると、多くの日本人が思考を停止する。ナイーブ(うぶ)な日本人のままでよいのか。

オリンピックの前で思考停止する日本人を育てたのは、大手メディア事業者(テレビ、新聞、広告代理店など)だ。彼らがオリンピックの受益者の一つであるからであり、彼らが自らを守ると同時に他の受益者を守るからだ。彼らがメディアを使って洗脳を続けるからだ。

プロレス、そのナイーブな熱狂

1960年代前半までの日本における人気「スポーツ」の一つがプロレスだった。日本人、とりわけ男性は、ショーであるプロレスに本気で熱狂し、「最強レスラー」力道山の決め技「空手チョップ」を天下の宝刀と崇め奉っていた。

大衆の憧れで、世界最強の男のはずの力道山だったが、東京オリンピック開催の前年、暴力団組員とのトラブルで刺殺されてしまった。力道山を無敵の英雄だと信じていたプロレスファンは、驚き落胆した。それでも、プロレスが真剣勝負のスポーツであるという思い込みは消えなかった。当時の日本人はやはり、ナイーブ(うぶ)だった。いま、プロレスがスポーツだと確信している人は、筆者のまわりにはいない。

「巨人、大鵬、卵焼き」から地方活性化へ――日本プロ野球

1964年頃のスポーツ界といえばなんといっても、「巨人、大鵬、卵焼き」だ。この標語のようなフレーズは、当時も今も変わらぬ人気スポーツである、プロ野球と大相撲の当時の状況をいい当てたもの。「巨人」はいうまでもなく、プロ野球の読売ジャイアンツ、「大鵬」は大相撲の横綱大鵬関だ。だれもが巨人と大鵬を卵焼きのように好きだ、という意味をもつ。

当時の巨人は、強打のON(王貞治、長嶋茂雄)を擁し、V9(連続日本一)の記録を伸ばしていた時代だった。そのころのプロ野球はドラフト制度・FA制度はなく、潤沢な資金を使える巨人は有望新人をほぼ全選手、入団させることができたばかりか、他球団の有力選手をトレードで獲得することができた。つまり、戦力に著しい均衡を欠いての連続日本一だった。

加えて、読売グループの一つである日本テレビ系列が巨人戦を独占放映し、テレビの野球中継は巨人戦しか流れていないような時代だった。セリーグの場合、巨人Vs.5球団、パリーグはセリーグのマイナーリーグという位置づけだった。視聴者が巨人を応援するしかない、という仕掛けが読売グループによって構築されていた。巨人戦の入場券は、プラチナチケットと呼ばれ、読売新聞を購読するとそれがもらえるという仕掛けが用意されていて、読売新聞の部数拡大に寄与していた。

プロ野球はいまでも、人気スポーツであり続けているが、取り巻く環境は変化した。ドラフト制度の施行により、戦力不均衡が是正され、巨人に限らず、どの球団もV9はまず不可能となった。読売=巨人=東京※の一極集中から、各球団のフランチャイズ分散が次のとおり促進された。

日本ハム/札幌(北海道)、楽天/仙台(東北)、西武/埼玉、DeNA/横浜/ロッテ/千葉、中日/名古屋、阪神・オリックス/大阪~神戸、広島/広島、ソフトバンク/福岡(九州)。※巨人・ヤクルト/東京

プロとアマの境界の消滅と「甲子園」幻想

スポーツにおけるプロとアマの領域も曖昧になった。というよりも、もはやアマチュア・スポーツという概念が消滅しつつある。ところが、プロ野球に並ぶ、いやそれ以上に人気のあるスポーツ・イベントが高校野球だ。高校のクラブ活動で野球をする、いわゆる高校野球部の全国大会は特別に「甲子園」とよばれ、モンスター級のイベントに成長している。主催者は高野連、朝日新聞(夏)、毎日新聞(春)で、両社は新聞のみならず系列のテレビ、雑誌等を駆使して、PRを展開する。その人気に便乗して他のメディアも競って報道する。

甲子園大会を構成する高校野球部に所属する選手たちは当然、アマチュアで、報酬はない。ところが、甲子園に出場する高校生は、あたりまえのクラブ活動のレベルを越え、長時間、プロ選手並み、いやそれ以上のハード・トレーニングに毎日明け暮れる。強豪校は、中学野球、リトルリーグで活躍している選手を好条件で入学させ、指導力を見込まれた専門コーチにつけて超高校生級選手に仕立て上げる。強豪校で鍛えられた高校生は卒業後、プロ野球チームに入団し、翌シーズンでレギュラーを獲るまでの完成度を示す。

強豪校に入学できる生徒に与えられる恩恵として、学費免除、寮費(食費等生活費)免除、用具の無償提供、学業免除?…などが挙げられる。現ナマは支給されないが、彼らが高校3年間、純粋手弁当でクラブ活動を行っていたわけではない。

それでも甲子園を愛する多くの日本人は、「甲子園」について、純粋アマチュア高校生による、無私な野球大会だと信じて疑わない。誠に奇異な「甲子園」幻想が継続している。

メディアの洗脳がつくりあげるスポーツ幻想

オリンピックと「甲子園」は――その実態について、日本人が知りながらなのか、それとも、知らずになのか、判断しきれぬものの――神話・幻想として、日本人のスポーツ観、価値観に沁み込んでいるという点で共通する。この神話・幻想を支え維持する仕組みは、巨大メディア産業が構築したものであり、彼らが情報や報道という建前で大衆に一方的に流布したにすぎないのだが、大衆はそれをあたかも普遍的な理念や価値のごとく受け止めてしまう。このような構図を一般に洗脳という。

1964 ~2020年までの半世紀余り、日本人にとってのスポーツとはなんであったのか。この先も、ナイーブ(うぶ)な日本人であり続けるのだろうか。

2020年3月24日火曜日

文京・桜散歩

小石川植物園から駒込吉祥寺へ、桜を目当てに散策。

(1)小石川植物園温室の蘭


(2)同満開の桜



(3)播磨坂さくら並木


(4)駒込吉祥寺



2020年3月23日月曜日

『ベルク「風土学」とは何か 近代「知性」の超克』

●オギュスタン・ベルク 川勝平太〔著〕 ●藤原書店 ●3000円+税

本書は、▽ベルクによる〈ベルク風土学〉の講演録、▽ベルクと川勝の対談、▽川勝による、“近代「知性」の超克”と題された、古今東西の存在論の素描的論稿――で構成されている。

ベルク風土学における風土とはなにか

(一)風土という言葉のもつイメージ

風土という言葉は、日本においては、雰囲気または空気感のような意味で使われる。たとえば日本的政治風土であるとか、日本的企業風土とかいった具合である。その場合、前者では日本の政治の特性が(民主主義政治の先進国と一般に思われている)欧米諸国と著しく異なることが暗黙の裡に示唆され、後者ではその会社独特のやり方、考え方、社員の行動類型などが暗示される。どちらも、日本の政界内及び企業内に閉ざされたまま醸成された――普遍的なものと相反する――独特の思想・行動・倫理等を総合した概念として用いられる。

〈風土病〉という言葉もある。これは、「地方病ともいわれる。ある特定の地域に限定して、継続的に発生し、その地域の地理、気候などの地勢的因子に密接な関係をもつ特定疾患をさす。(ブリタニカ国際大百科事典)」のであるが、ここで注目したいのは、私たちが風土病という言葉から受ける感じ方である。風土病という表現は、後進性、未開性、不潔感、恐怖感といった、かなりドロドロとしたイメージを与える。風土病と地方病とを比べると、前者は後者より、反知性、前近代、地域性、後進性を強調する。風土という表現には、本書副題にある“近代「知性」”と正反対の関係が暗示される。しかしだからといって、本書が土着的・情念的視座から、近代「知性」の超克を試行するものではない。このことについては後述する。

(二)ベルク風土学における風土とはなにか
風土は、そのアイデンティティを他から隔てる実態ではなく、人間と物の間にあるひとまとまりの関係です。ここで言う物とは、人間の風土の場合ですと、私たち自身が関わっているすべてのもの――人間の存在の条件となり、また人間の存在が条件づけるものということになります。
ここで、重要な区別について述べておきたいと思います。風土(milieu)と環境(environment)の間には大きな違いがあり、それを反映した風土学(mesology)と生態学(ecology)の間にも、大きな違いがあるのです。この区別は、前世紀の前半に生物学の観点からも立証されています。(P15)
ベルクはこう述べた後に、和辻哲郎、ヤーコブ・フォン・ユクスキュルス(自然学者)、アンドレ・ルロワ=グーラン(人類学者)を援用して、次のように風土学における風土を定義づける。とりわけ、ベルクがもっとも影響を受けた和辻哲郎の『風土』の序言の冒頭「この書(『風土』)のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである」という言説に触発されて、
風土学にとっては、人間の風土性の半分は、技術的で象徴的な社会身体であるのみならず、必然的に生態系に根付いているため、生態的・技術的・象徴的な体系でもあります。従って、社会身体よりもむしろ、風物身体――すなわち私たちの風土であると言えましょう。動物身体からこの風物身体への展開は、生物圏から風土総体への展開に相当します。(略)
個人の動物身体と集合的な風物身体の動的結合である人間の風土性の「構造契機」は、歴史的なプロセスとして作用するため、空間的であるゆえに風土と風土総体を構成するのですが、同時に時間的なものでもあります。技術体系を通じて、このプロセスは、世界の果てまで私たちの身体性を展開します。(例えば、私たちは・・・火星の石を拾たりすることができます。しかし同時に象徴(シンボル)は、動物身体の中に世界を圧縮します。ニューロンの結合によって、私たちの肉体のうちに世界を再現するのです。
手短に言えば、技術は人間の身体を宇宙化し、同時に象徴は世界を身体化するのです。この展開・圧縮を通態化(trajection)と呼んでいます。これは環境から私たちの風土をつくりだし、私たちの風土性を構築するのです。
このような運動は、自然史(進化)の上に積み重ねられる人間の歴史のなかに刻み込まれたある方向に進みます。そしてそれは、その時々に関わる人々――歴史によってその風土に存在する人々――にとって特有の意味を持ちます。
(P18~19)
ここでベルク風土学のキーワードである通態化という方法的言語が出てきて、風土が定義されるのだが、ベルクを初めて読む読者にとってはわかりにくい部分だと思うので、筆者なりに解釈してみる。

通態化の英語表記は〈trajection〉で、辞書にはtransportationの古語とある。その意味は交通、輸送、運送である。ジエイソンン・ステイサム主演の映画『トランスポーター(英題/The Transporter)』は「運び屋」と訳され、A地点からB地点にモノを運ぶイメージが強いが、transportation expenses といえば、交通費である。交通費は一般に往復である。会社務めの人が受け取る交通費は家と会社の往復の金額。つまりtransportationはA地点⇔B地点の往復移動の意味をもつ。

先の引用にあったベルクの展開と圧縮の〈展開〉とは、身体が宇宙(=世界)に往たり(展開)することを、また〈圧縮〉とは、象徴により世界が身体に来たり(圧縮)することだと解釈することもできる。

ベルク風土学の目的

これらを踏まえ、ベルクは大胆な結論を述べる。
従って、私たちの風物身体、すなわち風土や歴史において、すべてのことが通態的です。主観的あるいは客観的でありながら、さらに、主観的かつ客観的でもあるということです。それは必然的に事実を、すなわちUmgebung(客観的な環境)を前提としている限りにおいて客観的です。しかし同様に、必然的に私たちの存在を前提としている限りにおいて主観的でもあります。私たちの存在は、このUmgebung(環境)を、風土(Umwelt)すなわち私たちにとっての現実にみあうように解釈しているからです。(P19)
Aであり非Aでもあること――については、本書で再三、引用される容中律の論理(meso-logic)によって説明される。容中律の論理は、日本人の哲学者、山内得立が東洋に由来するレンマの論理から、西洋のロゴスの論理を批判したもの。ヨーロッパ思想の淵源、アリストテレスの『論理学』においては、「選択肢Aと非Aを前にして、Aと非Aが同時にあるという第三の可能性はない」とされ、これを「排中律の法則」という。ところがベルクは、テトラレンマ(tetralenma)――四論法の論理で「排中律」を退ける。テトラレンマでは、第一段階は肯定(AはA)、第二段階は否定(Aは非Aではない)、第三段階は両否定(Aでもなく非Aでもない)、第四段階は両肯定(Aと非Aの両方を同時に認める)、という四段階をもつ。

ベルクは、西洋の伝統が、第一段階と第二段階より進んでいないとし、「排中律の法則」が生態的・技術的かつ象徴的な私たちの風物身体を外閉していると主張する。Aが同時に非Aであるという象徴性を想定することを認めないからだと。そして、排中律が関係(=物や他の人々が私たちに持つ意味や現実、または私たちが他者に対してもつ意味や現実を見出す、通態性と風土性の両方)を外閉するゆえ、克服すべきだとする。そして、風土学の目標を次のように定める。
問題は、私たちのあらゆる知識をどう止揚(Aufuhebung)していくかです。・・・現代の精神的枠組みを改め、望ましい人間世界の物事の現状を反映した風土学を思い描くことが、早急に求められます。これが風土学の目標とするところです。(P20~21)
ベルクは前出の〈現代の精神的枠組み〉を〈MCWP〉(Modern-Classical Western Paradigm)と別言し、それに代わるパラダイム=風土学を提言する。
(〈MCWP〉がもたらした)近代二元論の抽象作用は、排中律の法則とその様々な属性(機械論、還元主義、分析主義、個人主義、定量主義、資本主義、産業主義など)と相俟って、今日「第六次大量絶滅期」と呼ばれるものを誘発しているばかりでなく、社会的な絆を断ち切り、風景を破壊するという局面まで――換言すれば人類の運命を左右する宇宙性の喪失を招くところまで来ているのである。このような脱宇宙化に対抗し持続可能性を確保するために、私たちは人間存在を再宇宙化し、最具体化し、再び地球に結びつけなければならない。これが、まさに風土学の目的とするところである。(P72)
〈ベルク風土学とは何か〉という本題に対し、「〈MCWP〉がもたらした分断を超える通態化である」と回答できる。

2020年3月15日日曜日

2020 日本プロ野球(NPB)順位予想

新型コロナウイルスの影響で先が見えない世界のプロスポーツ界ーー東京五輪の開催すら危ぶまれている。日本プロ野球(NPB)も開幕が遅れ、開催日すら決まっていない。開幕したとしても、交流戦、オールスターゲーム、CSが流れる可能性もある。そのような状況で順位予想といっても、あまり意味がないかもしれないのだが、例年どおりの日程を遅れながらも消化したと仮定して、順位予想をたててみよう。

筆者の2019予想は大外れ

筆者の昨シーズンの予想は、
〈パリーグ〉
1.日本ハム、2.楽天、3.ソフトバンク、4.西武、5.オリックス、6.ロッテ
〈セリーグ〉
1.広島、2.読売、3.阪神、4.DeNA、5.ヤクルト、6.中日
であったのだが、実際の順位は、次のとおりだった。
〈パリーグ〉
1. 西武、2.ソフトバンク、3.楽天、4.ロッテ、5.日ハム、6.オリックス
〈セリーグ〉
1.読売、2.DeNA、3.阪神、4.広島、5.中日、6.ヤクルト

パ、セともまったく外れた。CSでパリーグはソフトバンクが勝ち上がり、セリーグはペナントを制した読売が順当に勝った。日本シリーズはソフトバンクが読売を退け、日本一に輝いた。

2020シーズン順位予想

〈パリーグ〉
1.ソフトバンク、2.楽天、3.西武、4.日ハム、5.ロッテ、6. オリックス
〈セリーグ〉
1. 広島、2. DeNA、3.読売、4.中日、5.阪神、6.ヤクルト

ソフトバンクが強い

パリーグのソフトバンク優勝については、万人に異論がないところだと思う。戦力的に見て群を抜いている。昨シーズン、不出来だった柳田が復帰。2020の春、東京五輪予選で出遅れていたキューバ勢が、開幕が後ろにずれたことにより、間に合うという幸運にも恵まれた。

2位以下は難しい。楽天、西武、日ハム、ロッテはほぼ互角。絶対エース的存在の則本を擁する楽天が優位とみた。最下位候補のオリックスは才能のある選手が投打に散見するが、監督が悪すぎる。いわゆる「動きすぎ」の采配傾向が顕著で、走塁死が多い。盗塁、ヒットエンドランは成功すれば気持ちがいいし、監督の名采配として評価されるが、リスクも高い。現監督には、その見極めができていない。
 
セリーグは混戦模様、広島が抜けだす

セリーグのチームの選手層を比較すると、だれが見ても、読売の打撃陣については文句なくリーグナンバーワンとみるはず。とはいえ、弱点がないわけではない――内野陣(一塁、二塁)に不安が残る。プロ野球における一塁と三塁は攻撃の中心選手が担うポジション。読売の黄金時代を支えたONは一塁、三塁でそれぞれ不動だった。

三塁を岡本で固定すると、一塁がいない。オープン戦ではベテランの中島が先発しているが、シーズンを通して出られるとは思えない。捕手登録の大城、外野登録の陽、三塁とかけもちで岡本の3選手が中島のバックアップとなるのか。チームの顔となる岡本は、三塁で固定したいところだろう。

二塁は吉川尚がレギュラーに一番近いが、故障のリスクが拭えない。山本、若林、田中俊、増田では心もとない。

それでも、たとえば、1.吉川尚(二)、2.坂本(遊)、3.丸(中)、4.岡本(三)、5.亀井(左)、6.パーラ(右)、7.大城(捕)、8.中島(一)、9.(投手)もしくは、1.亀井(左)、2.坂本(遊)、3.丸(中)、4.岡本(三)、5.パーラ(右)、6.大城(一)、7.田中俊(二)、8.小林(捕手)、9.(投手)といった打順は強力である。

先発投手は駒不足

問題は先発投手陣で、菅野(11勝)-サンチェス(実績なし)-田口(0勝/3勝は中継ぎの成績)-高橋(5勝)-戸郷(1勝)-桜井(8勝)(鍬原、今村(3勝)、メルセデス/8勝/故障中)と並べてみても計算が立たない。
※( )内は2019先発勝利数。合計39勝

投球フォームを改造した菅野だが、昨年と同程度の成績で終わる。昨年、新人ながら5勝をあげた高橋だが、新人で左腕のチェンジアップ投手の翌年の成績は下がることが多い。戸郷、桜井は才能のある右腕だが、オープン戦では調子が上がっていない。韓国リーグからやってきたサンチェスは未知数。走者を背負ってのセット&クイックの制球力に不安が残る。早期に克服すれば5勝は上げられる。田口には、2017年の13勝程度の期待がかかるが、期待のしすぎというもの。

となると、2020は、菅野(10勝)、サンチェス(5勝)、高橋(2勝)、戸郷(2勝)、桜井(4勝)、田口(5勝)、メルセデス(6勝)程度となり(合計34勝)、山口俊(15勝)が抜けた穴は埋まらないことはもちろんのこと、昨年より勝ち星は減る。

その反対に、リリーフは戦力がアップした。デラロサ、ビレイラのダブルストッパーはリーグナンバーワン。大竹、中川、澤村、高木京と、セットアッパー陣の駒は豊富。ビハインドゲームでは、鍵谷、古川、藤岡、宮國、田原と実績のある投手が控えている。

ではなぜ3位に順位を落としたかといえば、先発投手陣のコマが揃っていないことに尽きる。高橋が左ひじの違和感を訴えているというから、今年の成績はもっと下がる可能性もある。

広島、DeNAは戦力が微増

読売より上位にランクづけした広島、DeNAも万全ではないが、広島は菊池が残留し田中も復帰するので、戦力ダウンを免れた。DeNAは筒香の抜けた穴をオースチン、倉本、佐野、梶谷らが埋める活躍をする可能性が高い。阪神は相変わらずの貧打線、中日は、投手陣、とりわけセットアッパー、クローザーが定まらない、バレンティンが抜けたヤクルトの3球団のBクラスは必至だ。

読売が戦力ダウンし、広島、DeNAが戦力をややアップしたと思われるので、順位を入れ替えた。

2020年3月11日水曜日

新型コロナウイルス考

世界に広まる新型コロナウイルス感染
新型コロナウイルス(以下「COVID-19」と略記)が世界的に蔓延する予兆を前にして、それについてどう考えどう行動すべきかについて、以下、明らかにしてみたい。

未知なるものを前にすれば、「科学的発言」すら相対的である

いまのところ、COVID-19の正体はつかめていない。よって、防御法、治療法は確定していない。いまできるのは、PCR検査実施による感染者の発見、感染者の積極的隔離、重症者(肺炎症状)に対する点滴、呼吸器等といった入院治療ーーである。HIV治療薬の投与が有効であるという事例が報道されたが、決定打ではない。

各国の対応もまちまちである。日本はPCR検査の実施に消極的で、感染者数は世界レベルで見ると低い。発症元の中国(武漢)と地政的、経済的に近く、中国からの観光客が多数訪れる日本(514人)が、中国から遠隔の地であるイタリア(917人)より感染者数が少ないことに違和感を覚えるが、統計上はそのとおりなのである。(2020/03/11現在)

COVID-19の脅威についても定かではない。不顕性感染者が圧倒的に多いことから、恐れる必要はないという説もあるし、30代の発症者が重篤化した事例をもって、警戒を強めよという説もある。また、死亡率はインフルエンザより低い、といういま時点のデータをもって、過度な反応を戒める専門家もいれば、今の段階では死亡率は確定できないとする専門家もいる。

COVID-19に対するシニシズム(冷笑主義)の台頭

COVID-19はインフルより怖くない――との主観に基づき、「コロナ騒ぎ」を冷笑する文科系「知識人」も台頭している。彼らの論拠は概ね、死亡率の低さである。筆者は未知の感染症の恐ろしさは死亡する人の数の多寡ではないと考える。言うまでもなく、世界で、そして日本で、毎日、たくさんの人が亡くなっていて、その原因は特定できるし、また、説明がつく。自然死、疾病、事故、自殺、事件・・・だと。

一方、未知の感染症の場合、先が見えない恐怖がある。このたびのCOVID-19の場合も、先述の通り、その特性、治療法、防御策がわからないという点で共通する。過去、「スペイン風邪」の流行で、日本人約39万人が死亡した事例がある。COVID-19が「スペイン風邪」より弱いと確言する論拠はいまのところ、見つかっていない。

それゆえに、生活者は政府及び感染症専門家に期待をするし、その施策、情報、発言に敏感になって当然である。冷笑主義者は、COVID-19の死も、インフルエンザの死も、交通事故の死も、死に変わらんじゃないかーーと発言するが、そういう発言は現時点では有害だと思う。未知のウイルスは、時間経過に伴う変異が予想されるからだ。

COVID-19に対する基本的態度

現時点における筆者のCOVID-19についての立場を端的に言えば、シニカルにもならないし、いたずらに恐れることもない、となる。注視したいのは次の点である。

  • 日本政府のトップ及び厚労省は未知の感染症にどれほどの対処能力があるかの見極め、
  • COVID-19の恐怖を盾にして、政府がそれを政治利用するかどうか、
  • 生活者がいかなる行動をその中で選択していくか

今後、いま以上にこれらについて最大限の関心を払っていきたいと思う。また、睡眠、栄養を十分とり、免疫力を高め、感染しても重症化しないような体力をつけるよう、心がけるつもりである。

2020年3月10日火曜日

新会陳皮

杭州出身で東京に住んでいる章さんファミリーが雨のなか、拙宅に遊びに来てくれた。

お土産はなんと大きな瓶に入った新会陳皮。

新会陳皮とはミカンを原材料とした漢方薬で、お茶に混ぜて飲む。

効用は咳止め、肺炎予防だ。

新型コロナウイルスに効き目があると持ってきてくれた章さんの心遣いに感謝。

2020年3月8日日曜日

和気清麻呂、猪、そして盲目の人

今から十数年前、京都出張の際、御所の近くのホテルに前泊した。翌朝、打ち合わせまで時間があったので、ホテル周辺を散策したのだが、そのとき、とても不思議な体験をしたのでお話ししよう。

偶然通りかかった神社、入口周辺に猪の絵が飾られていた。百人一首の読み札に描かれた、あの画風だ。縁起を読むと、清麻呂が朝敵に囲まれて窮地に陥ったとき、猪が彼を助けたことを顕彰してこの神社を建立したとあった。狛犬ならぬ、コマ猪が控えている。本殿に向かおうとしたとき、私を背後から呼び止める声がした。その男性は「自分はどこにいるのか」というような意味の問いを私に発した。驚いた私だが、その人が白杖こそ持っていなかったものの、目が不自由であることを理解した。年齢は60代後半~70代くらいか。小柄できちんとした身なりだった。

「わたしたちは、舞台の横にいて、こちらが正殿です」とその人を正殿の方向に導いた。するとその人は正殿に進み、やおら祝詞をあげ出した。意味はわからなかったが、その声は澄んでいてとても力強かった。祝詞が終わったあと、私はその人と一緒に境内を歩くことにした。「ここに大きな猪の像があります」と像を叩くと、その人は猪の尻尾、後脚、胴体…頭部、耳、そして鼻先を丁寧に撫で回し、満足したように笑った。次は清麻呂の像である。それは台座の上にたてられていたため、その人の背丈では清麻呂の足からすねくらいまでしか届かなかったが、その人は確認するように撫でた。

さほど広くない庭に出て、「向かいに、猪のぬいぐるみや玩具が集められた小屋がありますが」といったところが、その人は興味を示さなかったのでベンチに座った。

「私は出張で東京から来たもので、近くのホテルに泊まっていて、これから仕事です」と改めて挨拶をした。するとその人は私に何度も礼をいい、私の上腕から肩、背中を触り、「なにかスポーツをしてはりますか」と尋ねたので、「筋トレを」と返すと、「よろしーな」と笑った。「そろそろホテルに帰ります」というと、「ホントにええモノを見させてくれはって・・・」と何度も頭を下げた。いいモノを「見た」というその人の言葉が私の胸を刺した。

その人と別れ正殿の方に戻ろうと歩き出してふと、気がついた。「あの人、目が見えないのだ、帰りは大丈夫かな」と振り返った。が、その人の姿はなかった、あれ、どこにいったのかなと戻って見回したがいない。

ホテルに戻る道すがら、そういえば、あの人、私に声をかけてきたときも、足音とか気配がゼンゼンしなかったなーーあの人の顔、神社の前に飾られていた、和気清麻呂の絵と似てたなーーと、不安のような、困惑のような感情が私を包んだ。

以来、その神社は「和気清麻呂神社」と私の中で記憶されていたのだが、Facebookへ の投稿を機会に、〈護王神社〉と訂正され、足腰の守護神であるという情報も付け加わった。

(写真は護王神社HPより転載)