2023年2月17日金曜日

『古代都市』

 フェステル・ド・クーランジュ〔著〕 白水社 ●6800円(本体6602円)

 

印欧語族の宗教

  クーランジュ(1830 - 1889)は、原初の宗教のあり方が死者(祖先)崇拝として始まり、それを基盤として家族宗教が成立したと考えた。祖先崇拝とは、死者の肉体は朽ちても魂(霊)は埋葬された地下世界で生前と同じような暮らしを続けるという信仰に基づく。霊魂にたいして家族が尊敬と崇拝をつづけるかぎり、霊魂は家族を守り、かつ、安寧、幸福、富を約束する。ゆえに残された家族は、祖先にむけて、生前同様、御馳走、酒、そして祖先がめでた品々をそなえ続ける。家族の祈りの場は、家族の生命を維持する神聖な場所=竈(かまど)であり、火(聖火)と水(聖水)も併せて祈りの対象となる。そればかりではない。祖先が眠る場所は家族の聖なる領域であり、隣人等が侵入することが許されない。なぜならば、隣の家族にはその祖先すなわち別の神が住んでいるのだから、隣人との境界はおかすべからざる区分線として、それを監視する神もいた。
 この宗教はヨーロッパ人の祖先とされる印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)すなわちアーリア人と呼ばれるものの信仰である。なお、アーリア人は中央アジアを原郷とし、やがて西のヨーロッパと東のインドに移動した部族と、イラン高原あたりにとどまった騎馬民族だとされる。現在ではインド・イラン・ヨーロッパ語族という言い方に変わりつつあるようだが、本稿では従来の印欧語族もしくはアーリア人の表記で統一する。 フランス人のクーランジュにしてみれば、印欧語族は遠い祖先にあたる。またフランスは古代ガリアと呼ばれたローマの属領であった。本書はクーランジュが自らのルーツを探し求めながら認めた可能性もなくはない。

父は祭司である 

 印欧語族の家族宗教を執り行う者すなわち司祭は父の役割とされた。家族はいうまでもなく、父・母・子どもで構成される。子供は母から産まれるのであるから、母親が家族の中心となって不思議はない。ところが、クーランジュが研究対象とした前出のアーリア人においては母ではなく父が家族の主権者(男系)であり、最初に生まれた男児に家族宗教の主権が引き継がれる。その理由について次のように説明する。 

 ・・・注意しなければならないひとつの特長がある。それは家族宗教が男系にしかつたえられなかったことである。これは、うたがいもなく、男子だけが子孫を生産するという思想に関連していたにちがいない[.]原始時代の信念では、生殖力は父だけに属すとおもわれていた。父だけが生命の神秘な原質を有し、生命の火花をつたえると信じていた。このふるい思想の結果として、一家の祭祀はつねに男系にだけつたえられ、女は父や夫の仲介によってこれにあずかるにすぎない。死後でさえ、女は祖先崇拝と神殿の儀式において、男子と同じ待遇をあたえられないことが規定されていた。この思想はさらにまた私法や家の構成にも種々の重要な結果をまねいたが、それは章をおってのべることにしよう。(P72

 引用のとおり、著者クーランジュが、本書第一編「古代の宗教」第四章「家族宗教」の最後に予告した、父そしてその長男へと引き継がれる家族宗教の構造こそが本書を貫く基本概念であることに注目する必要がある。
 父が家族宗教の司祭となった理由はなんなのだろうか。常識的には、父=成人男性は体力にすぐれ、外敵から女子供を守ることができる、あるいは、獲物を狩る能力が高いためと解釈されるかもしれないが、そうではなく、あくまでも祭祀の中心すなわち宗教的権威が備わっていたからだという。 

 古代家族の成員を結合したものは、血統や感情や体力よりもさらに強力な […] 竈と祖先との信仰である。そしてこの信仰は、全家族を現世生と他界とを通じて一体となるにいたらせた。古代の家族は自然の結合である以上に、宗教的な結合であった。(P77

父による宣誓の言葉という儀礼的行為

  産まれてきた子供は、もともと女性の胎内に宿り、やがて出産する。子供の親は母であることは疑いようがない。にもかかわらず、父のほうが母よりも親権において優先する。ここが本書の肝にあたると筆者には思えるのだが、この部分に関するクーランジュの説明はじゅうぶんではない。「宗教的な結合」で片づけてしまった感を否めない。そこを大胆に解釈したのが大田俊寛である。大田は次のように書いている。 

 ・・・母親と子供の関係が誰の目にも明らかであるのに対して、父親と子供の関係は、実はきわめて不確かなものである。しかし […] 宗教の「発明」とは言わば、このような「父の不確かさ」を、融通の利く制度性へと巧みに転化させることであった、と考えらえることができるだろう。
 古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立するとされたのである。(『グノーシス主義の思想』(P38

  さてここで、アーリア人の家父長制(パターナリズム)と、日本の天皇制を含む世界規模の男系君主制との共通性を思い浮かべることが避けられない。また、2000年代初頭から始まった、現代日本における戦前の家父長的家族制度回帰へのバックフラッシュ(日本会議、統一教会等)を関連づけたい誘惑にかられるわけだが、その関係を考察・検証するに足る能力・知力を筆者はもちあわせていない。よって本稿では見送ることとする。

古代の社会と宗教

 クーランジュは古代人の時代を次のように想像する。「おのおのの家に祭壇があり、その周囲に家族が集う。竈の周囲に、家族は毎朝、毎夕祈りをあげるためにあつまる。昼は一同竈をかこんで祈祷と灌祭ののちに経験なきもちで神と食事をともにする。そして、家族はどんな宗教上の儀式にも、祖先から伝承する賛歌をうたう。」 

 古代人にとって正規の社会を建設することがどんなに困難であったかをおもわなければならない。きわめて雑多で気ままで移り気なこれらの人類のあいだに、社会的な関係を確立することは容易ではなかったであろう。彼らに共通の規則をあたえ、命令を発し、服従を承諾させるためには、また、情念を理性に屈服させ、個人の理性を公共の理性に服従させるためには、物質的な力よりもさらにつよく、利害関係よりもさらにとおとく、哲学的理論よりもさらに確実で、因襲そのものよりも不変ななにものかがなければならなかった。それはあらゆる人の心の底に根をおろして、全能な権力をもって支配するものであるべきであった。
 このなにものかが、すなわち信仰であった。人の霊魂に対してこれより強力なものはない。信仰はわれわれの精神の所産であるが、随意に変更することはできない。信仰はわれわれの創造になるものであるが、われわれは、そのことにすら気づかない。信仰は人間的なものではあるが、われわれはこれを神であると信じている。信仰はわれわれの力の結果であるが、われわれよりもはるかに強力である。信仰はつねに心の中にあって決してはなれることなく、たえずわれわれにはなしかける。信仰が服従を命ずるときはこれにしたがい、義務を指示するときはこれに服する。人類は自然を征服できるが、自分の思想には奴隷のように屈従する。
 さて、古代の信仰は祖先崇拝を人類に命じた。祖先崇拝は家族をひとつの祭壇の周囲にあつめた。これから最初の宗教や最初の祈願、義務の観念および道徳が生じ、所有権が設定され、相続順位が確定したが、あらゆる私法と家族制度のすべての規則もここから派生したのであった。ついで、信仰が大きくなり、人々の結合もこれにならって大きくなった。人類はめいめいのあいだに共通の神があることを知るにしたがって、ますます大きな団体に結合する。家族内で発見され設定された諸規則が順次に支族や都市に適用されていった。(P193194

  古代人の宗教の特質とその効果とは、人知を絶対の観念にまで向上させることでもなく、あくなき人間精神に光明の道をひらいて、そのはてに唯一の神を瞥見させることでもなかった。この宗教は小さな信仰とめんどうな宗礼とわずらわしい儀式との不調和な集合であった。それは意味をもとめるべきものでもなく、反省し理解すべきものでもなかった。宗教という言葉の意味は、現在とはまったくちがっていた。この言葉によって、われわれは一連の教理と神についての教義とわれわれの内部や周囲にある神秘に対する信条とを意味するが、古代人にあっては、義務となって絶大の権力をふるった。宗教は奴隷をつなぐ鎖のような、実質的な紐帯であった。人間はみずから宗教をつくって、かえってそれに拘束された。そして極度に宗教をおそれて、これを推理することも議論することもできず、また正視することさえかなわなかった。神々や神人や死者は人間に物質的な礼拝を要求したので、人々は小心翼々として負担をはらい、そして神々の友情を維持しようとした。というよりむしろ、神々から敵視されないように心をくだいた。(P247

家族から支族、部族への拡大 古代都市の成立

  こうした時代が何年、何世代、何世紀続いたのかはわからない。やがて同じ祖先の神を祀る家族はおおきな集団を形成し、氏族から支族、そして部族へと拡大する。部族は一カ所に集住し、共通の祭壇(竈)を据え、都市を建設する。都市のなかに祭壇と竈を中心とした神殿(聖域)を築く。クーランジュはそこを「都会」と呼ぶ。この訳語はなじみにくいのだが、「都会」の意味する内容を理解するしか仕方がない。都市では、部族に共通する神につかえ、祭祀を執り行う王が選ばれる。王を選ぶのは部族の長であり、彼らは貴族階級を形成する。ここまでが古代都市の完成の経緯である。
 一方、家族宗教すなわち祖先崇拝に変化がおとずれる。人びとは、祖先すなわち神という信仰から、より巨大なものを神として戴くようになる。自然である。人知・人力が及ばない強い風雨、洪水、火山噴火、険しい山、海、巨木といった自然とその景観、太陽、月、星といった天体に神を見出していく。さきまわりして言えば、それらをも統べる唯一絶対の神へと宗教は変容していくのであるが、それはかなり先のことである。 

古代、都市を律したのは竈の宗教だった

 都市の誕生にあたり、都市自身がその採用する政治形態を考え、法律を求め、制度をえらんだと想像してはならない。法律が制定され、政府が樹立されたのは、かような方法によったのではないからである。都市の政治制度は都市そのものとともに、日をおなじうしてうまれた。都市の成員は、めいめい自分のうちにこの制度をもっていた。これはめいめいの信仰と宗教のうちに萌芽として存在していたのである。
 宗教は竈がつねに最高の祭司をもつことを命じた。祭司の職が数個の竈を兼任するのは、宗教のみとめることではなかった。家族の竈には、その家族の父である祭司長があり、支族の竈には「クーリオ」または「フラトリアルコス」があり、各部族もおなじく宗教上の首長をもち、アテナイ人はこれを部族の王とよんだが、同様に都市の宗教にも神官長がなければならなかった。
 この公共の竈の祭司は国王という名をおびていたが、また他の称号もあたえられた。彼はなによりもまず市長館の祭司であったから「市長」とよばれ、ときにはまた「執政官」ともいわれた。この国王・市長・執政官などの種々の名称のもとには、とくに祭祀の首長としての人物をみとめなければならない。彼は竈を維持し、犠牲奉献をなし、祈祷をとなえ、正餐を司会するものであった。
 イタリアとギリシアの古代の国王が、国王であると同時に神官であったことはあきらかである。(P255

  この君主政体の構成原理はきわめて単純で、[...]君主政体は祭祀の法則そのものから派生した。聖火の竈をすえた都市の建設者は、当然最初の神官であった。そのはじめにあっては、世襲こそ祭祀授受の不変の法則であった。竈が家族のものであると都市のものであるとをとわず、宗教はこれを維持する権利が父から子へつたわるべきであると命じた。神職はしたがって、世襲的で、権力もこれにともなったのであった。(P258259
  古代都市の首長や国王は力でその地位についたのではなかった。その地にまず国王となったものが、幸運な軍人であったというのも真実ではない。王権は、アリストテレスがはっきりいっているように、竈の礼拝から由来した。宗教は家族の首長をつくったと同様に、都市の王もつくった。信仰は、絶対的でかつ命令的な信仰は、竈の世襲的な祭祀を、同時に聖器の保管者とし、神々の守護者とした。かようなものに対しては、どうして服従をためらえたであろうか。国王は神聖な存在であった。(P259
 都市は戦時にあってもっとも勇猛なものや、平時にあってもっとも手腕があり、もっとも正義をおもんずるものをもとめずに、神々から寵愛されるものを希望した。(P267
 (ギリシア人・ローマ人・インド人にあっては)法律がはじめ宗教の一部であっ(た。(P272

  人は良心にたずねて、「これはただしい、これはただしくない」というべきではなかった。古代法はこのようにしてうまれたのではない。人は神聖な竈が宗教上の法則によって父から子へつたえられると信じていた。家屋はそのため世襲財産となった。父を畑にほうむったものは、死者の霊魂が永久にその畑を所有し、子孫に永遠の礼拝を要求すると信じていた。その結果、死者の領地であり犠牲奉献の祭場である畑は、一家の譲渡できない財産となった。宗教は「息子は祭祀を継続するものであるが、娘はしからず」という。これに応じて法律は「息子は相続し、娘は相続せず。男系の甥は相続し、女系の甥は相続せず」という。法律はこのようにしてうまれた。法律はもとめてえられたのではなく、自然にあらわれたもので、信仰の直接かつ必然的な結果であった。人間相互の関係に適用された宗教そのものであった。(中略)古代人の真の立法者は人間ではなく、そのいだいていた宗教的信仰であったからである。(P274

  ・・・古代の都市で人々が自由を享受していたというのは、人類のあらゆるあやまりのうちでももっとも奇妙なあやまりである。古代人は自由という観念の片鱗さえももたなかった。古代人は都市とその神々に対抗して、わずかな権利でも手にいれようとは決して考えなかった。われわれはやがて政府が何度か改造をかさねたことをのべるであろう。しかし、国家の性質は依然としておなじで、その至上権はほとんど減少しなかった。政府は君主政体、貴族政体、民主政体と名をかえたが、これらの革命はどれもひとびとに真の自由、すなわち個人的自由をあたえたものではない。公権を有し、投票をなし、行政官(アルコン)を任命し、執政官となる権利を有する、これがいうところの自由であった。しかし人々は依然として国家に隷属していた。古代人、とくにギリシア人は、つねに社会の重要性とその権利とを誇張したが、これは社会がその初期におびた神聖な宗教的特質から由来するものであったことはうたがうべくもない。(P327

革命

  完成をみた古代都市であるが、やがて次の変化が起こる。クーランジュはそれを革命と名づけた。古代都市の内部変化を準備した要因はいくつかあるが、古代家族における相続権が長男にしかなかったことが挙げられる。次男、三男等は土地すら宗教的に相続できなかった。前述のように、家族宗教は祭祀を執り行う父から長男にのみ、司祭としての宗教的権威に併せて財産が受け継がれた。それ以外の息子、娘、妻に正式な財産継承の権利が生じなかった。そのため、宗家は分家と宗家の被護民、さらに、その下にいる奴隷を所有するという、膨大な人数の団体を形成していたのである。その一方、相続できない分家のなかには没落を余儀なくされるものも少なくなく、そのとき、被護民、奴隷も放り出された。下層階級が発生したのである。〔後述〕

 ・・・古代の家族は、自身の神々と祭祀と祭司と行政官とを抱合したもので、これよりも堅固に構成された組織を創造することはできない。また、古代の都市もきわめて強大で、独自の宗教と守護神と独立した祭司職とをもち、人々の霊魂と肉体とに号令して、現代では国家と教会とに両分されている二重の権力をあわせもち、現代の国家にくらべてはるかに強固なものであった。もし社会のうちに文字どおり永続を目的としてつくられたものがあるとすれば、それこそまさしくこのような社会である。しかし、この社会も、人間のいとなむすべての事柄とひとしく、一連の革命を経過しなければならなかった。(P332

 クーランジュは革命の起源を紀元前7世紀以降だと推論する。革命の主因は、人知のおのずからなる発展にともない、おおくの歳月のあいだに生じた思想上の変遷。これが古代の信仰を抹殺すると同時に、古代の信仰によって築かれた、かつそれが唯一の支柱となっていた社会組織を同時に倒したこと、都市の組織から除外された人々の階級があった(事実)こと〔前述〕。この階級はそのためにくるしみ、都市の組織をこわすことに重大な関心をもって、たえず戦いをいどんだ。
 言うまでもなく、古代の社会は階級と差別と不平等で貫かれていた。父-長男が祭祀・司祭・相続・支配を独占していた。家父(パーテル)と分家(パーテルをたどれる階級=パトリキウス)は従属的関係にあった。また、僕卑といわれる家に隷属する「被護民」または「傭奴」といわれた。パーテルをもたない階級が存在した。僕卑は何代たどっても僕卑であった。長兄(パーテルの直系)分家=パトリキウス(パーテルをたどれる階級)僕卑(パーテルをたどれない階級)という順位である。
 さらに古代都市には庶民という階級が形成されていった。庶民とは戦争に敗れて隷属させられた元住民という後代発生説)と、家族宗教をもてない、もしくは、もたない人びと(私生子、祭祀・祭司を執り行えなくなった家族、罪悪をおかし竈に近づけなくなった者、などなど)。つまり古代の家族宗教成立に同時発生した集団という説の2説があるが、その両方かもしれない。古代都市は〈貴族&被護民〉〈庶民〉という構造を有していた。 

古代の階級差別は宗教からうまれた

 ギリシア人、イタリア人、インド人の祖先がいまだ中央アジアでともに生活していた時代に、宗教が「祈祷は長子がささぐべし」と命じたからである。これから万事について長子の優越性が生じた。おのおのの家族においても長子の家が神官となり支配者となるべき家であった。しかし、長子の家は弟たちの分家をも相当考えにいれていた。分家は長子の家が断絶したあかつきには、かわって祭祀をまもるべき予備軍であったからである。宗教はまた被護民や奴隷をすら多少は考えにいれた。彼らも宗教上の儀式を補佐したからである。しかし、庶民はすこしも祭祀にたずさわらないものであるから、宗教はまったくこれを眼中におかなかった。階級の別はかように固定されたのである。(P344345) 

 第一次革命は、政治上の権威を国王から貴族がうばうものであった。宗教上の権威のもと、あらゆる権力を掌握していた国王だったが、やがて、実力を蓄えた貴族(部族・支族の長)によってその座を追われ、祭司の職におかれるという権力の交代がおきた(第一次革命)。宗教的権威=王権の座は維持したが、実権を失って、神職という限定的地位におかれるようになった。宗教的権威によって一元化されていた国王の権力は有力な貴族集団の手(テセウス)に移った。 

 「テセウスはアテナイの政治をかえて、君主政体から共和政体にあらためた」というのである。アリストテレス、イソクラテス、デモステネス、プルタルクスなどはみなそういっている。かような表現はやや虚偽的であるが、そのうちには一応の真理がふくまれている。テセウスは、伝説のいうように「最高の権威を人民のてにゆだねた」のであった。ただ伝説が保存した「人民(デーモス)」という言葉はテセウスの時代には、デモステネスの時代に見るようなひろい意味をもっていなかった。この人民すなわち政治団体は、当時では、貴族階級のことにほかならなかった。すなわち氏族の首長全体をさす言葉であった。(P351) 

 たとえばアテナイでは、王権(宗教)と執政官(政治)の並立から、9つの部門へと権力が分散化した。これを「9執政官の時代」(国王+軍司令官など8つの部門の長すなわち8執政官の並立)という。 

第二次革命

 王権を滅ぼした第一次革命は、政治の外形を変更したにすぎなかった。下層階級はこの革命に参加していないのだが、都市という貴族的に構成された共同団体に変化が訪れる。まず人々が結合して都市を構成するようになると同時に、古代の首長の権力は当然減少する。家族のなかで最高の権威をもっていた家長だが、都市のなかでは一個の成員にすぎなくなったからである。下層の者は、家族の長である貴族の権威の低下をみるようになる。そして、貴族(氏族)社会の家族結合の条件であった長子権が消滅した。この変化がいつごろ、どのように起きたかは明らかにされない。クーランジュは、《この変化はまずある家族の内部に徐々におこり、さらに他の家族にもおこり、ついには全部の家族におよんで、いわばだれも気づかないうちに完成したのである。それにより、分家は独立し家族宗教の核は消えた。

 この氏族の解体は重大な結果をのこした。きわめてかたく結合し、強力に組織され、かつ絶大な権力をもっていた古代の宗教的家族は、永久にその力をよわめられてしまった。この革命は他の種々の変革を準備し、かつそれをさらに容易にしたのである。(P370) 

第三次革命

 都市に次の革命(第三次革命)が準備される。家族組織が解体し、宗教的権威を失った貴族だが、彼らは自らの階級の法律と宗教と政治的社会の維持にきゅうきゅうとし、他方に下層階級を主体とする結合が生じ、互いが敵対する分断と対立が表面化するようになった。そして庶民階級は貴族階級に対抗するため、かつて権力の座を貴族に奪われた国王を支持したのである。都市において、下層階級は自ら首長をえらび、それを国王と呼ばず僭主と呼んだ。この呼称は宗教的権威を含まない。つまり祭祀に由来しない権威、宗教によって確立されたのではない権力を意味するものであった。
 そのことと同時的に下層階級の経済的地位の向上があった。下層階級は土地を耕す以外の仕事、すなわち職人、船乗り、製造人、商人が生じ、そのなかから富裕なものが出現した。 

 実に奇妙な新現象である! かつては氏族の首長だけが土地を所有していたのに反し、いまは以前の被護民や庶民階級のものがとみさかえて、その富を誇示するようになったばかりかでなく、驕侈の風潮は、庶民をとませるとともに、貴族を貧困におとした。おおくの都市、とくにアテナイでは、貴族団体に属する一部のものが、みじめなほどの窮乏におちている。おもうに、一社会において、富の所在が、変わりつつある場合には、旧来の階級的序列は逆転する寸前にあるのである。(P392 

 もうひとつの変化は戦争における戦術の変化だという。都市の歴史の初期段階の戦闘は兵車や騎馬が主力だった。歩兵は役立たず尊重されなかった。兵車や騎馬を独占したのが貴族階級だった。貴族は「騎士」の称号をあたえられた。ロムルス(ローマ建国の伝説上の初代王)の「騎馬親衛隊」すなわちローマ初期の騎士はすべて貴族であった。しかし、歩兵が次第に重要性をおびるようになった。武器製造の進歩と軍規の改善により、歩兵が騎兵を凌駕するようになったのである。ローマの軍団兵、ギリシアの装甲歩兵は騎馬よりも機動性に富み、その操作も容易であった。そしてそれらを構成したのが庶民だったのである。《一国の社会的・政治的状態はつねにその軍隊の性質および組織と関連するものである。(P393)》
 庶民の家族はみずから竈をすえた。その火はみずから点じたか、あるいは他からの聖火をもらってきたものであっただろう。その家族は貴族にならって祭祀と聖殿と守護神と神職とをもつようになった。また、家族は家族の祭祀をもたないかわりに、都市の神殿を拝祀することができた。ローマでは、竈をもたず、したがって家族の祭祀をもたないものどもは、クイリヌスの神に生贄をささげた。上流階級が下層階級をちかづけることを承知しないときには、自分たちのために神殿を建立した。 

 紀元前6世紀からギリシアおよびイタリアにはいってきた東洋の祭祀は庶民から熱心にむかえられた。それは仏教のように、どんな階級や人民をも差別しない宗教であった。最後には庶民はしばしば貴族からなる支族や部族の神々と類似した崇拝の対象をつくることがあった。(P394) 

 ローマでも同様であった。都市内部では貴族と下層階級の分断と対立がしばらく続いたが、けっきょくは下層階級の要求がすべて受け入れられ、貴族階級は宗教上の優越までもうしなった。彼らと庶民とを区別するものはまったくきえて、貴族階級は単なる名称か追憶にすぎないものとなった。他のすべての都市と同様に、ローマの都市の基調をなしていたふるい諸原則は全部跡をたった。ひさしいあいだ人間を支配し、階級の別を確立していた古代の世襲的宗教は、もはや外形をとどめるにすぎなくなった。庶民は共和時代と王政時代とを通じて四世紀のあいだこの宗教とたたかい、ついに征服したのである。(P424) 

都市政体の消滅

 古代都市の変遷を大雑把にふりかえると、まずきわめて古い宗教がはじめ家族をつくり、ついで都市をなした。その宗教はまずはじめに家族の法則と氏族の政治を設定し、さらに都市の法規と政治を確立した。国家は宗教と密接にむすびついていた。すなわち国家は宗教から生じ、宗教と混同されていた。そのために、初期の都市では、政治上の制度はすべて宗教上の制度であった。祝典は祭祀の儀式とみられ、法律は神聖な形式にほかならず、国王と行政官は神官であった。また同様の理由により、個人の自由はまったく知られず、人は自分の良心をさえ都市の絶対権のほかにおくことができなかった。さらにまた、国家が一都会の範囲にかぎられ、建国のさいに国家の神々が定めた囲墻(いしょう)をこえて伸びることができなかったのもこの理由にもとづく。おのおのの都市は単に政治上の独立ばかりでなく、独自の祭祀と法典をもっていた。宗教も法律も政治もすべて都市を単位とした。都市は唯一の活力で、それより上に位するものも、下に位するものももたなかった。国家間の結合もなく、個人の自由もなかった。(P484) 

 クーランジュはこのように総括したのち、このような政体がどうして消滅したのかを明らかにする。その理由のひとつが精神的・知的事実の部類に属し、もうひとつは物質的事実の部類に属するという。前者は信仰の変化であり、後者はローマの制覇(帝国の成立)である。これらの変化はどちらも紀元前5世紀のあいだいに発展し完成した。
 ギリシア人を例にとると、人々は、デルフィーやデロスなどの大きな神殿にひきつけられ、地方的な神々への礼拝をわすれた。また、神秘教とその教義が空虚で無意味な都市の宗教を軽蔑する習慣をあたえた。神の概念も変容した。人々はジュピターの名で呼んでいた多数のちがう存在が、けっきょくはただ一体のおなじ存在にすぎないことをついにさとった。神がひろく人類全般に属し、宇宙を支配するものであることも理解されるようになった。詩人は都会から都会へと巡礼し都市のふるい賛歌のかわりに、天と地の偉大な神々の伝説をうたった。これは芸術の所産、自由な想像になるものであった。
 つぎに現れたのが哲学である。ピタゴラス、アナクサゴロスはすべての人類と実在を支配する「英知」の神の存在を理解していた。その後に現れた詭弁学者、ソクラテスそしてプラトン、クリトン、アンティステネス、スぺウシポス、アリストテレス、テオフラストスその他多くの学者は、政治学に関する論文を書いて、国家の組織、権威と服従、義務と権利などの大問題を人々の前に示した。続いて犬儒学派、ストア派が議論を進めた。ゼノンは各個人が市民としてではなく単に人間として権威をもっていること、法律に対する義務以外に自分に対する義務があること、および最高の功績は国家のために生きかつ死ぬことではなく、徳をつんで神をよろこばせることと教えた。 

ローマの制覇

(1)ローマ初期の拡大

 ギリシアとイタリアにあった無数の都市のうちで、とくに一都市だけが傑出して他のすべてを征服しえたことは、一見はなはだおどろくべきことのようにおもわれる。しかし、この重大な事件も、人間がいとなむあらゆる事象を決定する、ありふれた理由により説明できる。つまり、ローマの賢明さは、どんな種類の賢明さもそうであるが、そのであう有利な環境を十分に利用した点にあった。(P494) 

 クーランジュによると、ローマは雑多な種族が連合して結合していた都市であったという。ラテン人、トロイア人、ギリシア人、サビナ(サビニ)人、エトルリア人である。ローマの最初の王はラテン人であったが、第二の王は、伝説が伝えるところによれば、サビナ人、第五代の王はギリシア人の息子、第六代はエトルリア人であったという。言語おいてもラテン語が主流であったが、ギリシア起源をはじめ多種多様であり、そもそも「ローマ」という名称もトロイアの言葉であるという説もあるという。家系、血統、祭祀も多種多様で、ローマの家族の名称がその種々の起原の雑多さをしめしている。結果、ローマ人の国家的祭祀もまた多種多様の集合で、そのおのおのがローマをどこかの国民と結びつけていた。 

 ローマの住民は各種族の混合であり、その祭祀は多数の祭祀の集合であり、国家の聖なる竈は多数の竈の連合であった。ローマは国家の宗教によって他のすべての都市の宗教から孤立させられなかった唯一の都市であるといっても過言ではない。ローマはイタリアとギリシアとの全体と関係していて、ローマ人の竈にちかづかせられない国民はほとんどなかったのである。(P497) 

 BC753350年が、ローマ初期の拡大期にあたる。都市宗教がいたるところで勢力をふるっているあいだは、ローマは幾世紀にわたってその政策を宗教に順応させた。ローマの拡大戦略の第一は隣国サビナ人と結婚する権利を得ることだとされる。サビナは現在のローマの北部にある都市である。ローマの最初の王ロムルスがサビナの祭祀を執行し、そのあいだにサビナの婦人を略奪したという伝説が残っている。その後、ローマは長い戦闘の期間に突入する。まずアルバを征服しアルバがラティウム(現在のローマの地にあった都市(ラテンの語源でもある)の30の植民地に対して行使していた権利と主権を受けつぎ、母市としての地位を得る。サビナとロムルスが合体して強力なローマになったのである。
 ローマが強大化した主因は、クーランジュによると、征服したすべての国民を自国に合体させたことにあるという。ローマは占領した都会の人民を本国につれかえって、徐々にローマ人にした。それと同時に、征服した国々へ植民をおくり、この方法によって全世界へローマの種をまいた。また、ローマの政策の特色のひとつとして、近隣の都市のあらゆる祭祀をとりいれたことである。ローマは他のどんな都市よりもおおくの祭祀と守護神をもつことが、ローマの念願であった。

(2)ローマの主権獲得の顛末

 ローマが各都市の神々をとりこむことによって、けっきょくのところ、いたるところの都市制度を破壊し消滅させた。 

 ローマの都市が時代をおうてどのように発展したかというと、《ローマは元来貴族と被護民とをもつにすぎなかったが、ついで庶民階級がこれにくわわり、さらにラテン人、イタリア人をあわせ、最後に地方諸州の人民を包含した。この大変動をきたすには単に征服だけでは十分ではなく、緩慢な思想上の推移や、歴代皇帝の慎重でしかも不断の譲歩や、個人的な利害関係の圧力が必要であった。そしてあらゆる都市が徐々にきえさり、最後にのこったローマの都市そのものもいちじるしくかわって、十二の大国民がひとりの宗主のもとに結合されるようになった。都市制度はこうして崩壊したのである。(P523) 

 そして、クーランジュは《この都市制度(古代都市制度のこと)のかわりにどんな政治組織があらわれたか、この変化がその初期にはたした人民に有利であったかどうかということは、この書物の関知するところではない。われわれは古代人の設定したふるい社会形態が永遠に消滅したかぎりとして筆をおかなければならない。(P523)》と結んだかにみえたが、最終章として、「キリスト教が政治の諸条件にあたえた変革」をつけくわえている。 

 キリスト教の出現は、従来の宗教より高尚で、物質的性質のすくないものとなった。昔の人々は人間の霊魂や自然の偉力を神としたが、いまや神は、その本質において、人間の性質および自然の世界とはまったく関係のないものであると考えられはじめた。神は画然と可見の自然のそとに、そしてまたそのうえにおかれた。いまや神は唯一のもの、無限なもの、普遍的なものとしてあらわれ、その唯一の神だけが世界に生命をあたえ、人の心にある崇拝の欲求をみたすべきものと考えられはじめた。
(中略)
 キリスト教は […] 特定の家族の宗教でもなく、特定の都市ないし民族の宗教でもなかった。キリスト教は特殊な一階級や一団体の宗教ではなく、その出現のはじめから人類全体にむかってよびかけた。イエス・キリストは弟子たちに対して「行きて、すべての国々の民におしえよ」といった。(P528529) 

 この普遍性こそが、キリスト教と旧約という聖典を共有し唯一神を信ずるという共通点をもつユダヤ教との決定的ちがいである。ユダヤ教はユダヤの民しか信仰できない民族宗教であり、ユダヤの神殿にはほかの民族ははいれない。キリスト教の神は人類共通の神、人類は共通の父からでたものである。
 キリスト教のもうひとつの特長は、政治に無関心であったことである。イエスは「余の権威は現世を支配すべきものではない」と教え、宗教と政治とを画然と区別した。「カエサルのものはカエサルにかえし、神のものは神にかえせ」とつけ加えたのである。それと同時に、キリスト教は利害関係に関与しなかった。
 クーランジュの「キリスト教」はローマ皇帝コンスタンティヌス一世がミラノ勅令を発する(311年)以前の黎明期のものであり、キリスト教がローマ帝国の国教となったこととそののちのキリスト教については触れていない。そのことも「
この書物の関知するところではない」のであろう。(完)