2008年7月19日土曜日

『十字軍という聖戦』

●八塚春児〔著〕 ●NHKブックス ●970円+税


中世に行われた十字軍の遠征に関するこれまでの定説から、われわれはいくばくかの固定的イメージを抱いていて、それを疑うことを知らなかった。本書はその固定的イメージの解体を試み、十字軍の実態に近づくことを試行した書である。十字軍研究の最近の成果を踏まえ、通説を批判するスタンスは強烈で、かなり刺激的な内容となっている。

本書によれば、十字軍遠征の目的は、カトリック教会とそれ以外の勢力圏との関係に規定された事業(プロジェクト)であるという。

その関係とは、第1は〔西欧〕⇔〔ビザンツ〕、第2が、〔キリスト教圏(西欧及びビザンツ)〕⇔イスラム圏。第3が、西欧内部における〔カトリック〕と〔異端〕、第4が、西欧内部における教皇権(聖権)と諸侯権(俗権)となる。以上が、本書の基本コンセプトである。

歴史上の出来事を説明することは難しい。今日の価値観に基づいて説明できるものもあるし、そうでないものもある。当事者の修正もあるし、後代の修正もある。十字軍遠征という事業は、であるから、主体をカトリック教会のみに一元化することができない。カトリック教会と諸侯(世俗勢力)の共同事業であり、複数の諸侯の共同性ももちろんであり、世俗勢力においては、それぞれが抱えた事情により、十字軍という共同事業に加わったり加わらなかったりした。十字軍遠征の目的も参加者も、それぞれ異なっている。表面上、中心にカトリック教会があり、贖有(免罪)が事業推進の力となったことだけが変わらない。

十字軍の時代の世界――西欧、地中海沿岸、小アジアに至る地域――の情勢は、カトリック教会(西欧)とビザンツ教会(東方)とが並立した時代だった。先述のとおり、このことは重要で、十字軍が開始された主因の1つといえる。2つの宗教勢力は、自陣の勢力拡大を目指すことにより生じる対立の力学と、同じキリスト教であるという結束の力学を、互いに内包していた。

であるから、第1回十字軍のように、トルコ=イスラム勢力の台頭というキリスト教世界の外部に対して両者(カトリックとビザンツ)は共同、共存の意識を醸成し、聖地(エルサレム)奪還を主題化し、ビザンツ側から西欧に対して、十字軍派遣の要請になり、両勢力は共同してイスラム側と戦った。

また、一方、第4回十字軍では、十字軍(西欧)はイスラム勢力掃討を中止し、コンスタンティノープルを占領するという、「転換」が図られている。十字軍が敵と味方を180度転換させた。この「転換」の理由は本書に詳しい。また、キリスト教内部においては、アルビジョア十字軍に代表されるように、同じキリスト教でありながら、十字軍が異端(カタリ派)討伐に向かった。

宗教上の対立――キリスト教とイスラム教、ビザンツに対する親和と反発、キリスト教内部の異端(カタリ派)と正統(カトリック)の争闘――という側面で十字軍事業が説明されそうに見えるのだが、それは一元的解釈である。たとえば、第1回十字軍に参加した諸侯には、もはや西欧内に領地を相続できない第二子以下の場合が認められ、彼らはエルサレム占領後、その周辺に十字軍国家を建国している。また、アルビジョア十字軍の場合、北フランス諸侯勢力による、南フランス諸侯勢力の掃討という、フランス統一の軍事的目的が見出される。

十字軍はこのように、西欧内部の問題解決手段として「発明」された、政治的・軍事的行動であり、プロジェクトである。だから、中世初期からその終わりに至るまで、十字軍というプロジェクトが有効である限り、目的も構成者も異なって、何度も繰り返された。

本書の主題とは離れるが、本書は宗教(キリスト教)の教義が時代とともに変容することを指摘している。この指摘は極めて重要なものなので、そのポイントを引用しておこう。

原始キリスト教(聖書)の成立期、キリスト教は相手と戦うこと、復讐すること、暴力を行使することを禁止した。汝殺すなかれと。ところが、キリスト教が国家(ローマ帝国)に取り込まれたとき、国家宗教(カトリック教会)は、原始教義から乖離した。宗教が国家と結びついたとき、国家の敵は、宗教の敵として規定される。宗教は国家目的――軍事行動を補完する役割を担う。

だから、今日において、宗教に基づく政治勢力の存在は危険このうえないものといえる。宗教が平和や人道を説いていたとしても、宗教政党として国家運営に携わったとき、宗教的教義は機能しなくなる。いまから1000年前に起こったキリスト教の変質が、宗教と国家の関係をわれわれに説明してくれている。十字軍は、そのよき事例の1つである。西欧というキリスト教圏においては、暴力を否定する宗教を国民が信じていたにもかかわらず、聖戦と冠された暴力=殺戮が正当化され、実際に何度も行われたのだ。(2008/07/19)

2008年7月9日水曜日

『蒼ざめた馬』

●ロープシン〔著〕  ●岩波現代文庫  ●1000円(+税)


帝政末期ロシアの革命思想

著者(ロープシン)は、本名ボリス・ヴィクトロヴィッチ・サヴィンコフ(1879~1925)といい、20世紀初頭、ロシアのエスエル(社会革命党)のテロ専門組織・エスエル戦闘団の指導者の一人でありながら、ロープシンというペンネームで小説を書いた。彼はテロリスト集団の指導者サヴィンコフという顔と、文学者ロープシンという、2つの顔をもっていた。

まず、本書が書かれた当時のロシアについて簡単に説明しておこう。当該説明は、『サヴィンコフ=ロープシン論』(川崎浹〔著〕)を参考にした。ちなみに、川崎浹は『蒼ざめた馬』の訳者で、『サヴィンコフ=ロープシン論』は、岩波現代文庫版『蒼ざめた馬』に収録されている。

「ロシア革命」(1917)は、レーニン率いるボルシェビキ(多数派の意/ロシア社会民主労働党左派)によって行われたことは知られているが、ボルシェビキが革命の主導権を握ったのは、革命成功直前からであって、帝政ロシアの専制政治(ツアーリズム)に対する闘争の初期段階は、共産党以外の政治勢力によって主導されていた。

反ツアーリズム運動の魁となったのは、1870年代から80年代にかけて行われたナロードニキ運動だ。この運動は、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」というスローガンをかかげ、貴族階級に属する知識人青年によって担われた。彼らは、自ら農村に入りこんで、政治意識の遅れた農民たちを啓蒙しようと試みた。貧困で苦しむ農民の意識を変えなければ、ロシアは変わらないと考えたのだが、彼らの行動や考え方(アナーキズム、テロリズム)は農民にはなかなか理解されなかった。

19世紀末のナロードニキ運動の失敗から停滞を余儀なくされた反ツアーリズム運動であったが、1905年、ロシア革命の序章とも呼ぶべき民衆の反乱「血の日曜日事件」が勃発し、ロシアの反政府運動は再び高揚期に入った。

サヴィンコフ=ロープシンが属したエスエル(社会革命党)は、ナロードニキ運動の影響のもとに結党された政党で、運動の母体をロシアの農村に求めた。党の指導者層も同様に、貴族階級の若い知識人だった。エスエルは、1905~1906年にかけて第1回党大会を開催し、その中でサヴィンコフ=ロープシンは、テロを担当する組織(戦闘団)を分党することを主張し、アゼフとともに戦闘団再建に着手した。戦闘団は、内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェ、モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺事件後、セバストポリで逮捕された。サヴィンコフ=ロープシンは裁判直前に逃亡に成功、欠席裁判のまま、死刑判決を受けた。

1908年、アゼフがスパイであることが発覚。サヴィンコフ=ロープシンは戦闘団の指導者となり、首相として革命派に対する徹底的な弾圧で知られたストルイピンの暗殺やテロ遊撃隊の結成を計画するが、これは成功しなかった。エスエル第2回党大会で戦闘団代表を辞任し、その後、パリに移った。以後もニコライ2世の暗殺計画を準備するが未遂に終わった。

1917年、レーニンによるロシア革命が成功。ソヴィエト政権の成立とともに、エスエルは、メンシェビキとともにボルシェビキとの権力闘争に敗れ、革命の主体から遠ざけられた。レーニンの死、スターリンの台頭とともに、サヴィンコフ=ロープシンは革命政府と対立を深め、白軍(反革命軍)に従軍し、赤軍(ソヴィエト政府軍)と戦った。白軍は、ロシア革命の成功を脅威と感じる国外の援助を受けながらも軍事的に敗北。サヴィンコフ=ロープシンもソヴィエト側に逮捕され、投獄後、自殺したとされているが、その死についてはいまなお、謎が多いという。

サヴィンコフ=ロープシンの活動歴から、彼の政治信条を大雑把に評せば、軍事至上主義=テロリストであって、政治的指導者ではなかった。レーニンが現実の統治手法として、ソヴィエト(労働者・兵士・農民を連合した協議会)を用い、さらに。国家統治の最強組織である国軍を革命側に引き寄せる構想をもったことに反し、サヴィンコフ=ロープシンは過激な運動=テロ戦術の実行者の位置にとどまった。専制政治の暴力に対して、人民の暴力(テロ)の正当性を政治信条としただけのように思える。

ソヴィエト革命後、サヴィンコフ=ロープシンは、先述のとおり、彼の思想信条である、ロシア農本主義に根ざした白軍に従軍したけれど、白軍の実体は、反革命を援助する国外勢力の資金援助の下に結集した君主主義者、民族主義者、全体主義者、反共的自由主義者らの野合集団であった。サヴィンコフ=ロープシンの最後の居場所として、白軍が最適だったとは思えない。

本書に触発されてロシア革命前後のロシア近代史を振り返ったとき、19世紀末の帝政ロシアにあって、アナーキズム(無政府主義)とテロリズムが革命運動の主な潮流となった理由が理解しにくい。前出のとおり、エスエルが展開した冒険主義的政治運動を担ったのは、貴族階級の若い知識人だった。彼らが、ツアーの圧政に苦しめられた人民、とりわけ、塗炭の苦しみにあった農民に対し、深い同情を示したということはもちろんだが、それ以上に、世紀末思想から貴族階級に蔓延した厭世観、ロシア貴族特有の騎士道精神、ロシア的土地主義から切り離された貴族階級知識層のアイデンティティー喪失、キリスト教的自己犠牲の精神・・・等が、渾然一体となって、ロシアの若き知識人の間に独特の倫理観が育まれ、ロシア流テロリズム思想が誕生したのではないかと考えられる。

ジョージとワ―ニャ――対比的テロリスト群像

本書の構図は、テロリズムを構築する2つの柱――自己滅尽の基に醸成された虚無からのテロリズム志向と、倫理的・キリスト教的人類愛からのテロリズム志向の対立に求められる。本書では、熱心なキリスト教徒であるテロリスト・ワーニャが後者を、そして、主人公(ジョージ)が前者を代表する。もちろん、ワーニャもジョージも、サヴィンコフ=ロープシンの分身であり、ジョージはワーニャへの思慕を断ち切れない。後者は要人暗殺計画の実行中に人妻との不倫に走り、その夫を決闘の末、殺害してしまう。この挿話は、後者のテロリズムの目的が何であるのか、革命のためのテロなのかどうかを疑わせるに十分な示唆になっている。死を決意し、自らを「革命」の捨石と自覚してテロを敢行する後者の生き様は耽美的であり、闘争の中、不倫を演ずる姿は理屈抜きに格好がよい。若い知識人がいってみれば、ダンディズムによって、テロに走ったという想像も成り立つ。

しかし、実際の政治過程にあっては、エスエル戦闘団内部が「美的」であったとは言えない。エスエルの指導者がスパイであったことが発覚したことは一度や二度ではなかったし、密告、裏切り、内部闘争もあったと思われる。エスエル自体が秘密警察に操られた組織だったという説もある。テロが帝政内部の権力闘争に利用されたというわけだ。サヴィンコフ=ロープシンがスパイだったという証拠は史料的にあり得ないが、サヴィンコフ=ロープシンが逮捕されずに逃げ切れている点が素朴な疑問として残る。テロリストが変装や偽名を使用しているとはいえ、帝政ロシアの警察組織が一度追い詰め、取り逃がした爆弾所持のテロリストに、直後のテロの実行を許している点が不自然このうえない。

サヴィンコフ=ロープシンはスパイではなかったが、彼のテロは、当局によって事前に察知されていた可能性を否定できない。テロの実行が官許の下だったとしたら、サヴィンコフ=ロープシンの政治家としての評価は下がるかもしれないが、彼が残した文学の価値が損なわれるわけではない。 (2008/07/09)