2018年1月17日水曜日

『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』

●矢部宏治 ●840円(本体)●講談社現代新書

朝鮮戦争がいまの日本の国の形を決定

本書は、これまで著者(矢部宏治)が企画した著作物及び著書を簡潔(新書版)にまとめたもの。著者(矢部宏治)は、今日の日米関係を決定し固定化した要因は朝鮮戦争(1950年6月~)の勃発を契機とする、と規定する。この認識に筆者は全面的に同意する。

1945年、日本帝国は自ら始めたアジア太平洋戦争で連合国に敗れ、米国(軍)の支配下に置かれた。その後、形式的もしくは表面的独立(1951年)を果たしたけれど、独立と同時に米国と締結した安保条約及び密約によって、日本は米国(軍)の属国となり、今日に至っているという著者(矢部宏治)の論証についても、筆者は全面的に同意する。

朝鮮戦争は、大戦直後の米国の日本についての認識――極東の非軍事国家、米国から見た西太平洋において脅威を与えない存在であればいいという――を根本的に覆し、対日政策を180度回転するほどの見直しとなる契機となった。米国は、「平和国家日本」という対日政策を取り下げ、冷戦に対応できる軍事拠点として再構築した。米国に隷属させるための諸々の法的縛りを日本にかけ、日本は米国の属国となりはてた。

日本の官僚は優秀だといわれるが、戦後の日米関係に限れば、その能力の欠如は残念を通り越している。敗戦国という状況を差し引いても、米国の利益優先に盲従した姿が嘆かわしい。

冷戦は20世紀末に終了し、今日、米国にとって脅威であったソ連邦は崩壊し、中国も国際秩序の中に統合されている。米国が極東に軍隊を止めおく理由はなくなったはずである。20世紀末の冷戦終結を受けて、米国が極東外交において何をなすべきかといえば、およそ半世紀にわたった朝鮮戦争の休戦状態(休戦協定は1953年7月に締結)から、南北朝鮮の緊張を緩和する、平和条約の締結であったはず。

しかるに、冷戦終結から今日に至るまで、米国は北朝鮮との休戦状態を解除せず、南北朝鮮の分断を継続し、朝鮮半島の平和を拒絶してきた。その理由を明らかにしない限り、著者(矢部宏治)が積み上げてきた歪んだ日米関係解消の道筋も明らかにされないのではないか。

極東における米軍にとって2つの過酷な戦争

20世紀、米国は極東において2つの過酷な戦争を戦った。その一つは日本帝国とのアジア太平洋戦争であり、2つ目が北朝鮮・中国共産軍との戦いである。前者においては、日本帝国によりハワイが奇襲されているし(日本軍の奇襲を米国が予知していたかどうかの議論はここではおいておく。)、後者においては、共産軍の攻勢によって米軍は一時、朝鮮半島南部、釜山近くまで後退させられた。

前者の米軍戦死者数は11万人弱、後者は約4万5千人といわれている。ちなみに20年間続いたヴェトナム戦争(1955年11月~1975年4月)の米軍戦死者数は5万8千弱というから、3年間という短期の朝鮮戦争が米国にとっていかに過酷な戦争であったかが推測できる。

二つの戦争から米国が――否、米軍にとって、というべきか――果実として得たものは何なのか。併せて15万人にも及ぶ戦死者を出して米軍が獲得したもの、すなわち戦利品とは何なのか。米軍が絶対に手放したくないものこそが、日本及び韓国の領土内にあまねく軍事基地を置き続けられる権益であり、日韓両国の軍隊を米国の指揮の下、米国の国益のための戦闘に駆り出せる権益の確保ではないのか。

そう考えると、朝鮮戦争がいまなお休戦状態にあり、今日ますます、緊張が高まっている理由も明らかとなる。(北朝鮮がどんな国なのか、同国民がきわめて悲惨な状況にあるかについては、報道により、想像できる。筆者の願いは南北が民主的政権の下に統合されることである。たとえば、東西ドイツが統合できたように。なお、北朝鮮問題について論ずるのは、拙Blogの本筋から外れるのでこれくらいにとどめる。)

冷戦後も維持されている米軍の巨大利権――軍事基地、軍の指揮権、地位協定

韓国の事情は詳らかでないが、本書に記述されている日米関係を見る限り、日本はローマ帝国の支配下にあった属州、属国そのままである。
米軍機に(日本の)航空法の最低高度の規定は適用されません。なんと米軍の訓練マニュアルでは、オスプレイ(MV22)は最低高度60メートルでの訓練が想定されており、すでに高江では、それ以下の超低空での飛行訓練が日常になっているのです。
さらに最大の問題は、なぜこうしたオスプレイのための新しいヘリパットが、わざわざ高江の集落をグルリと囲むようにつくられているかというと、それは高江の住民や家屋を標的(ターゲット)に見立てた軍事訓練を行うためなのです。(P50)
(略)
・・・日本だけは・・・敗戦後70年以上たってもなお、事実上、国土全体が米軍に対して治外法権化にあるのです。(P60)
21歳の米兵が、46歳の日本人農婦を基地のなかで遊び半分に射殺した「ジラード事件」(1957年:群馬県)では、その日米合同委員会での秘密合意事項として、「〔日本の検察が〕ジラードを殺人罪ではなく、傷害致死罪で起訴すること」
「日本側が、日本の訴訟代理人〔検察庁〕を通じて、日本の裁判所に対し判決を可能なかぎり軽くするように勧告すること」
が合意されたことがわかっています(春名幹男『秘密のファイル』共同通信社)。
(略)
ジラード事件のケースでいうと、遊び半分で日本人女性を射殺するという悪質性にもかかわらず、検察は秘密合意に従い、ジラードを殺人罪ではなく傷害致死で起訴し、「懲役5年という異常に軽い求刑をしました。
それを受けて前橋地方裁判所は、「懲役3年、執行猶予4年という、さらに異常に軽い判決を出す。そして検察が控訴せず、そのまま「執行猶予」が確定。判決の2週間後には、ジラードはアメリカへの帰国が認められました。(P122~123)
すべての日本人は、本書に示されたこの2つの実例を噛みしめるべきである。日本国民が声を上げない限り、米軍は沖縄はじめ日本各所において、傍若無人の振る舞いをやめない。“日本を守ってもらっているのだから、それくらいは仕方がない”というのは奴隷の思想である。安倍首相が進めようとしている憲法改正は、自衛隊が米軍の指揮の下、米国のための戦争を可能とする布石にほかならない。ローマ帝国支配下の蛮族が徴兵され、ローマのための戦争に駆り出されたように。

中国からお客様

中国杭州と東京で活躍中の章一(Zang Yi)ファミリーが遊びに来た。


2018年1月14日日曜日

母十三回忌

母の十三回忌があった。

法事の後、「笹乃雪」(鶯谷)にて食事




2018年1月5日金曜日

『ソビエト連邦史』1917-1991

●下斗米伸夫 ●講談社学術文庫 ●980円(税別)

本書はビャチェスラフ・モロトフ(1890-1986)という人物を通して、ソビエト連邦の歴史を見直すというもの。モロトフについては、浅学の筆者の知るところではなかった。彼はロシア革命時のボルシェビキ党の一員だったが、それほどの活動家ではない。彼が政治的手腕を発揮したのは、レーニン亡き後、スターリンが権力を掌握した後のことだ。彼はスターリンの忠実な腹心として、スターリンの政敵を粛清する任務を着実に実行し、革命後のソ連のナンバー2に上り詰めた政治家だった。


本書の構成は、「序章 党が国家であった世紀」のなかの“案内”(P17~22)において簡潔にまとめられているので、以下に要約しておこう。

第1章 ロシア革命、ソビエト国家成立
第2章 ロシア共産党の組織
第3章 「新経済政策(ネップ)」
第4章 スターリン体制と大粛清
第5章 モロトフ外相就任から第二次大戦終結までの戦争と外交
第6章 ソ連の超大国化と冷戦の時代
第7章 スターリンの死とモロトフの失脚
第8章 フルシチョフ~チェルネンコ時代
第9章(終章) ゴルバチョフ書記長のペレストロイカ(91年の崩壊、ソ連邦の最後)

ロシア革命はプロレタリア革命だったのか

20世紀中葉、時の思想潮流を席巻したマルクス主義の洗礼を受けた世代にとって、ソビエト史のなかでどうしても注目してしまうのは、〈ロシア革命→スターリン体制と大粛清〉までの前半であろう。本書のロシア革命に係る考察は、連邦崩壊後の情報公開の影響もあって、当時とは異なる視点が散見される。革命から100年が過ぎたいま、ロシア革命の見直しという視点からも本書は必読だと思われる。

20世紀中葉の政治状況を体験した者にあって、ロシア革命は神聖な政治的インシデントにほかならなかった。当時のソ連邦に係る評価は以下のような感じだった――ロシア革命はレーニンを指導者としたボルシェビキ(共産党)がツアー専制のロシア帝国を打倒し、世界で初めて労働者国家(ソ連邦)を樹立した。

ところがレーニン死後、スターリンがロシア共産党のトップになったところで、レーニンが確立した革命思想(マルクス=レーニン主義及び世界革命戦略)に著しい修正が加えられ、同時にトロツキーに代表される革命的マルクス主義者が粛清されることにより、ソ連邦は官僚専制国家に変容した。ソ連邦はマルクス主義国家ではなく、スターリニズム国家であるから、帝国主義と同様に打倒すべきであると。大雑把にいえば、ロシア革命は神聖であったが、革命後、スターリンによって世界の共産主義化が妨げられた。その結果、資本主義が延命していると。

革命の主役――最も西欧的急進派と伝統的農村

それでも当時、ロシア革命がプロレタリア革命であったかどうか、素朴な疑問がなかったわけではない。まず、帝政ロシア下においてブルジョア階級及びプロレタリア階級が十分に形成されていたのかどうか。本書によれば、ロシア革命当時の帝政ロシアにおけるプロレタリア人口は、全人口の3%にすぎなかったという。

本書ではそのことについて、実に端的な言説を導き出している。「革命は既成秩序からはずれた異質なものどうしを瞬時に媒介する。最も西欧派的な急進派の潮流が、レーニンを媒介にして、革命化した伝統的農村と融合する」(P46)。

著者(下斗米伸夫)のこの言説は、二月革命によってもたらされた混乱、すなわち、二重権力の下、レーニンが革命の主導権を掌握しつつ、十月革命を準備し決起し革命を成し遂げるに至る過程を新たに表現したものだと思われる。混乱と呼ばれる二月革命なくして十月革命はなく、その二月革命が階級を超えた多数者(農民、兵士、労働者…)の自然発生的蜂起だったのならば、それをプロレタリア革命と呼ぶべきなのか。

本書では、ロシア革命が組織されたプロレタリア革命でなかったことが結論づけられる。ロシア革命が労農統一によって成し遂げられたというのは常識だが、本書はそれとは異なる視点から踏み込んでいる。この結論は、ロシア革命を輝かしいプロレタリア革命だと神聖視していた世代を落胆させるものでもある。

レーニン指導後の革命=十月革命は、レーニンというキャラクターが国民の大多数を占める農民(兵士)を惹きつけた結果なされた。そのことは、「第3章 新経済政策(ネップ)」に記述された「農村戦争」により逆証明される。革命政府が仕掛けた「農村戦争」こそ、ロシア革命の複合性及び特異性の証明であり、同時に、革命の一方の主役「農民」が切り捨てられる過程であった。前出の、革命時、レーニンを媒介に融合した異質なものの片方=伝統的農村が、革命新政府によって消去される。

ロシア革命を担ったロシア正教の古儀式派

ロシア革命を成し遂げた革命勢力の多様性については、革命の三番目の主役であるロシア正教古儀式派の登場で明らかになる。

レーニンの革命的スローガンが「全権力をソビエトに」であったことはよく知られている。20世紀中葉に青春時代を過ごした者にとってこのスローガンは、労働者が地域ごとにソビエトを形成し、プロレタリア権力を地域的に成立させる政治過程を明示するものと理解して当然だった。ところが、本書ではソビエトを構成した多数派として、ロシア正教の古儀式派という信仰者集団の存在が明らかにされる。プロレタリア革命で形成されたはずの〈権力機関=ソビエト〉にロシア正教の一分派が出てくるのは違和感がある。しかし、浅学の筆者には著者(下斗米伸夫)の言説を検証する力がない。よってそれを受け入れるしかない。各地につくられたソビエトの内実が古儀式派の組織を母体としていた、という結論は驚きだ。
古儀式派とは17世紀のロシア正教会での論争で異端とされた古い信仰者集団である。古儀式派は「モスクワは第三のローマ」と信じ、ロシア帝国と一体化した正教主流派を「アンチ・クリスト」と批判、このため正教会を追放された。
この流れの信徒数はこれまで想定された以上であり、また定義にもよるが人口のかなりの多数をしめたと思われるものの確たる人口調査はない。主として拠点のモスクワをふくめ、ボルガやウラル、シベリアにまで広がった。いな、中国や日本もふくめた海外でも知られていた…しかしロシア革命後、とくにスターリン体制の下で抑圧される。
(略)
ロシア正教におけるプロテスタントとして禁欲的なこの人々は、しかし19世紀後半までに繊維工業の大半を支配する生産者階級となっていた。無神論者であったモロトフをふくめ、ボリシェビキ党などにもこの流れの環境で育った人々が入り込んだ。この古儀式派の理解なくしてはいまや正確なロシア史、ソビエト史は考えられないほどだ。(P17)
ソビエト連邦とはなにか

革命から崩壊までのソ連邦について、本書は「党が国家であった時代」と集約する。党とはもちろん共産党のことだが、それがイデオロギー的共同性だけで団結していたわけではなかった。革命直後は、革命の指導者集団という画一性はあったが、スターリンが権力を掌握し大粛清を行い、戦時下共産主義(スターリニズム)を確立した後から、イデオロギー論争が党内から消滅する。党幹部、党員、官僚、民衆…だれもがスターリンの暴圧を恐れ、指導層批判を忌避した。

党内では、それぞれの属性によって、それぞれの集団が信用できる要素に基づきつつ微妙にグループ化を進める。その一つが前出の古儀式派であり、出身地であり、民族であったりする。ユダヤ系であるがゆえに指導層に上り詰めたかと思えば、それゆえに排除されたりもした。それぞれの属性がパワーエリートを形成し、党幹部の座を狙い、利権獲得に奔走する。そしてそれぞれが、ネポティズムによって絡み合い、党を蝕んでいく。

ソ連邦の崩壊

スターリン死後、フルシチョフのスターリン批判から「世界の超大国ソ連」の時代を経て、停滞の時代、ソ連邦の崩壊までの後半は、その腐敗と堕落のひどさに読むに堪えなくなる。西側との宥和とその反動としての締め付け――の繰り返し。変わらぬ弾圧・強制収容所送り、強制移民…世界で初めて誕生したはずの「プロレタリア国家」の惨めな腐敗・崩壊過程が記述される。党が国家であろうとする悪足掻き、党が国家であるために、国民が犠牲になるさまともいえる。
ソ連時代を通じて、政治的要因によって法的根拠なく処断された者は、1150万人に及ぶ、と法律家のクドリャツェフは指摘する。ただしそれは公式に登録された数字だけであって、この体制の犠牲者は全体で8000万人という数字をあげる学者もないわけではない。筆者(下斗米伸夫)は、この数字は過剰だと考えるが、まだ、どのような検証可能な数字も提出されていない。(P267)
ロシア革命とソ連邦については、まだまだ分からないことだらけというわけだ。