2014年10月28日火曜日

ザハ・ハディド

東京オペラシティにて、ザハ・ハディドさんのデザイン展が開催されている。

新国立競技場のデザインに採用されたデザイナーだ。

ところが、選考過程の不透明性、建物が及ぼす周辺環境への悪影響や周辺景観との不調和性、

加えて建設及びメンテコスト等の非経済性に係る異議が続出している。

ザハさんのデザインについては個人の好みが働くが、国立競技場がある神宮外苑周辺にはそぐわない。

この人の作品はアジアでは中国、香港、韓国等にあって、日本にない。

そのあたり、日本の国威発揚として採用が決まったのならば、選考する側の考え違いだろう。





見終わった後、パブへ。

2014年10月21日火曜日

小渕優子は原発推進派によって「消された」のか

小渕優子経済産業相と松島みどり法相が20日、閣僚を辞任した。小渕優子は不適切な政治資金問題、松島みどりは地元選挙区で「うちわ」を配布した問題の責任を取った。松島の「うちわ問題」はさておき、小渕優子の政治資金問題については、不自然な印象が拭えない。

第二次安倍内閣が発足したのが9月3日。その後、9月18日に『赤旗新聞』が、9月23日に『日刊ゲンダイ』が、そして、10月16日発売の『週刊新潮(10月23日号)』が小渕優子のスキャンダルを報じた。以降、同誌の発刊を契機として、日本の全メディアが小渕優子の政治資金問題をスキャンダルとして大々的に一斉報道し始めた。各メディアの論調はそろって、“政治とカネ”という醜聞仕立てであった。

同誌の内容を大雑把にいうと、小渕優子関連の2つの政治団体が平成22年と23年、選挙区の後援会員らのために「観劇会」を東京の劇場で開催した際、劇場側に支払った費用が、参加した後援会員らから集めた会費を2年とも約1300万円上回っていることが15日、両団体の政治資金収支報告書からわかったというもの。

だが、小渕優子の2つの政治団体(小淵優子後援会と自由民主党群馬県ふるさと振興支部)の収支報告書」の公表日付は不明だが、少なくとも、『赤旗新聞』掲載の直前ではない。群馬県のホームページに掲載された政治資金収支報告書の最新の公表日は、平成25年11月25日であって、それ以降の更新はない。総務省のホームページの定期公表も平成25年11月29日が最後(平成24年分)になっている。 

いったいなぜ、いまになって小渕優子の政治資金収支報告書が問題視されたのだろうか。小渕優子が経産相に就任した本年9月3日から、『週刊新潮』がスキャンダルを報じた10月15日のあいだにいったい、なにがあったのだろうか。

日本のメディアは一切報じていないが、『ロイター』は10月17日に小渕優子経産相(当時)の動きとして、以下のとおり伝えていた。

[東京 17日 ロイター] - 小渕優子経済産業相は17日夕、電気事業連合会の八木誠会長(関西電力)と会い、老朽原子炉7基の廃炉判断を早期に示すよう要請した。「来年4月から7月に運転延長を申請する必要がある炉7基の取り扱いの考え方を早期に示していただきたい」と述べた。
八木会長は小渕経産相との会談後、記者団に対し、「取り扱いは各社の経営判断。それぞれの会社で検討していただきたい」と述べた。判断を示す期限についての質問に八木会長は「できるだけ早く示すようにしたい」と答えた。
対象の7基は、古い順に日本原子力発電の敦賀1号、関電美浜1・2号、中国電力島根1号、関電高浜1号、九州電力玄海1号、高浜2号。
八木氏は関電の対象4基について「検討を進めているが、現時点で決めたものはない」と話した。同氏は、今後、廃炉の際の財務面への影響を緩和するために、国に会計制度の見直しを求めたいとの考えを示した。
原発の運転期間に関する現行ルールは、運転期間を原則40年に制限しながらも、原子力規制委員会の認可を条件に20年間を上限に1回だけ運転延長が認められる。
すでに40年超の4基を含め、2016年7月時点で40年を超える7基を運転延長させるには、来年4月から7月までに規制委に申請する必要がある。その際、事業者は原子炉の劣化状況などを調べる「特別点検」を実施し、規制委の認可を得る必要がある。
小渕氏との会談に先立って行われて電事連の定例会見で八木氏は、特別点検には「数カ月はかかる」と述べた。(浜田健太郎)

また、10月21日の『東京新聞(朝刊)』は署名入り記事で以下のとおり報じている。

電力政策停滞も 再生エネ、原発…経産相の課題山積

小渕優子経済産業相が辞任し、後任に宮沢洋一氏が就く。(略)経産相が抱えるエネルギー政策の課題は多い。中でも太陽光発電を中心とする再生可能エネルギーを増やす議論は小渕氏が重視してようやく動きだした感があり、経産相の交代で政策が停滞する懸念がある。(略)経産省、電力会社ともに原発の再稼働を重視し、再生エネルギーを増やす対策を怠っていたが、9月3日に就任した小渕氏は電力各社の判断が妥当かどうかを専門家に検証してもらう部会を設置。背景には「電力会社の説明は本当なのかと疑った小渕氏の鶴の一声があった」(経産省関係者)という。中長期的な再生エネの拡大策も含めて議論は始まったばかりだが、経産相の交代で腰が折られる恐れもある。(吉田通夫)

小渕優子の後任には、宮澤洋一が決まったが、宮澤洋一はWikipediaによると、東京電力株を大量に保有しているというし、前出の『東京新聞』も、原発再稼働推進派として報じている。

『ロイター』及び『東京新聞』の報道からうかがえるのは、小渕優子は経産相に就任してから、原発エネルギー問題について、何かをしようとしたことだけは確かである。小渕優子は少なくとも、原発再稼働を検証抜きに推進するような政治家ではなかった。

安倍首相は、平成26年10月16日(現地時間)、第10回アジア欧州会合(ASEM)首脳会合等に出席するためイタリアを訪問し17日まで滞在した。つまり安倍が日本にいない間に、『週刊新潮』の小渕バッシング報道が始まり、その勢いは日本の全メディアによって燎原の火のごとく日本中に燃え広がったのである。この騒ぎを異国で知った安倍は急きょ予定を変更し帰国、事態収拾にあたったようだ。

つまり、小渕を任命した安部が不在の間に小渕バッシングは仕組まれ、安倍は小渕の首を切るために急きょ帰国したといえる。このことが意味するのは、小渕優子のスキャンダルに安倍は関与していないということ。安部の思惑とは異なるところで小渕優子の解任は準備され、そして実行されたものと推定できる。

総理大臣である安部を無視して大臣の首を挿げ替えることができるのはだれなのか。もちろんそれができるのは(小渕優子を経産省から追い出すことができるのは)、官・産の原発推進派であり、日本のマスメディアが後押しした結果にほかならない。

今回の小渕優子スキャンダルの発覚は、安部にまったくメリットがないわけではない。第二次安部内閣には、江頭聡徳防衛相、塩崎恭久厚労相、西川公也農水相の3つのスキャンダルがまだ控えている。さらにヘイトスピーチで知られる在特会との関係を疑われる閣僚が(女性閣僚を含めて)数人いる。同会との関係は、国際的スキャンダルに発展しかねない。

ここで、女性2大臣を切れば、世間も納得し、閣僚スキャンダル・ドミノの類焼を免れる目も出てくる。世間が注目する「女性」をあくまでも利用し尽くそうという魂胆である。国民が関心を失えば、野党の追及も迫力が薄れる。小渕優子だけではインパクトが低いので、ついでに、朝日新聞出身の松島みどりも切っておこうというわけか。残念ながら、日本国民は、権力の陰謀にナイーブ(うぶ)であり、メディアの扇動に乗りやすい。

2014年10月17日金曜日

アギーレの歴史的采配―日本ブラジルに惨敗

サッカー日本代表がシンガポールにおいてブラジル代表に0-4で惨敗した。日本の4失点は相手のエース、ネイマールにすべて奪われたもの。ネイマールをマークしてほかの選手に点を取られたのならばわからないでもないが、相手のエースに思うようにやられたとはみっともない。それにしてもお粗末な日本代表だった。北京で宿敵アルゼンチンと戦ったブラジル、一方日本はホームで格下ジャマイカと戦った。その両者がシンガポールにやってきたのだから、コンディションの面では日本に分があったはず。それでも歯が立たないのだから、日本は相当弱い。試合後の選手のコメントは、「収穫」やら「経験」やら「課題」やら。この大敗のあと、御託を並べている暇はない。闘争心をもって真剣に闘わなければ、日本はますます弱くなる。敗者のメンタリティーを醸成してはいけない。

日本サッカー界についに訪れた人材払底のサイクル

W杯ブラジル大会後の日本代表の試合ぶりを見ていて感じるのは、先のW杯で明らかになった世界との差ばかりではない。「パスサッカーからフィジカル重視」といったトレンドを論じるよりも、いま、日本人フットボーラーのなかに人材払底現象が見受けられることだ。ついに恐れていた事態がやってきた。ロシア大会に希望をつなぐ才能、資質を感じさせる選手が見当たらないのだ。

モチベーションを失ったブラジル組

第一に、ブラジル大会代表レギュラークラス(海外組=FW本田、FW香川/ブラジル戦では故障によりベンチ外、DF長友、GK川島、国内組=DF森重)がモチベーションを完全に失っていること。海外組には欧州からの移動という疲労もある。だから、ブラジル戦を休ませたのだろう。ジャマイカ戦でも短い時間の出場にとどまったFW柿谷(ブラジルでは控え)も、代表サッカーにおけるモチベーションを失っている。ブラジル大会に選ばれたことで満足したのか。そんな中、唯一闘う姿勢を貫いているのがFW岡崎だ。

学生アルバイト(武藤)に代表を奪われるJリーガーの無力

第二は、前出のいわば「過去の人」を追い抜くだけの新戦力が育っていないこと。そのことを象徴するのが「今売り出し中」のFW武藤だ。武藤は大学在学中という。Jリーグのトップクラスが学生アルバイトとは情けない。Jの選手はいったい何をしているのだ。学生アルバイトが代表に選出される現状を「プロ」が許しているとは論外。

それとも学生とは名ばかりで、勉学の方はサッカーで免除されているのか。もしそうならば、武藤が通っている大学にも問題がある。文武両道とは聞こえはいいが、大学生とプロサッカー選手の二足の草鞋をはくことは、世界のサッカー界ではまず、あり得ない。もっと言えば、この現状を異常だと思わないメディアがそもそも異常だ。大学生がアルバイトでJリーガーとしてやっていける日本のサッカー界のレベルとは・・・

たとえば、前出のブラジルのネイマールは武藤と同年齢だという。ネイマールはブラジル代表のキャプテンをはっているのだが、彼が大学生であることはおよそ考えつかない。プロフェッショナルスポーツのアスリートは年齢も学歴も関係ない。その分野でとにかく一流であることだ。だから武藤が大学生でバイトでサッカーをやっていることを非難するのではない。学生とプロサッカー選手を両立できる日本のプロサッカー界が不思議なだけなのだ。世界のサッカーリーグはそんなに甘くはないだろう。ましてやブラジル代表とバルセロナのレギュラーと、大学生を両立できるはずがない。

武藤が代表で「輝いている」現実が、日本のサッカーの最高峰リーグであるJリーグの低レベルを象徴している。だから、武藤に続く、MF柴崎、MF森岡、FW小林、DF塩谷のレベルも押して知るべし。

アギーレのここまでの功績は、日本代表が弱いことを白日の下に晒したこと

それにしてもアギーレは正直な人物のようだ。かつての代表監督ではできないような選手起用を行った。アギーレは、ブラジル戦に臨むにあたって、移動でコンディションの悪い海外組主力を思い切って外した。その結果明らかになったことは、いや、アギーレが明らかにしたことは、先述のとおりの日本代表の惨状にほかならない。アギーレは、日本のサッカーファン、いや日本代表に期待する日本国民に対して、日本代表のレベルの低さを明らかにした。日本のみなさま、日本のサッカーの実力はこの程度ですよ、過剰な期待をされては困りますよ、世界レベルとは、こんなにも開きがありますよ――というわけだ。これまでの代表監督は、サッカー協会、広告代理店(TVメディア)、スポンサーの手前、この事実を隠し続けてきた。

「岡崎中心」の日本代表をつくるしかない

では、ここまで弱体化した日本代表をどう再建したらいいのか。これはかなり難しい課題とはいえ、アジア杯は目前に迫り、そこで結果を出さなければ先に進まない。

奇策、奇手はない。現状の駒のなかで最強チームをつくるしかない。まず考えられるのは、前出のとおり、フィジカル的に強く、好調を維持し、しかも高いモチベーションをも維持しているFW岡崎を攻撃の中心、というよりも、チームの中心とするしかない。彼の闘争心、諦めない姿勢、運動量の多さをもって、チームを引っ張るしかない。岡崎の性格にキャプテンシーが備わっているか否かについては、会ったことがないのでわからないが、いま日本代表に必要なものすべてもっているのが岡崎であることだけは間違いない。

アジア相手ならば高さのあるハーフナーも武器になるはず

戦術的には、岡崎をワントップとするかサイドにおくかが第一の選択。筆者の見方では、アギーレが4-3-3を貫くと仮定するならば、ワントップに長身FWハーフナーをおいて、高さを武器としたい。長身選手が少ないアジア相手ならば、ハーフナーの高さは機能する。アギーレはハーフナーを招集しながら使わなかった。このことは疑問として残る。

本田はイタリアで結果を出しているのでそのまま右。岡崎は左となる。アンカーは「守備の職人」と言われる細貝で鉄板。

問題は細貝の前の列。どうもここが人材難のようだ。柴崎、森岡、田中、小林には情熱が感じられない。彼らに頑張ってもらうか、新たな戦力を探すしかないのだが、決め手となる選手はいない。強いて挙げれば、米本拓司(FC東京)か。

香川がこのポジションで真価を発揮するとも思えないので、香川は4-2-3-1に変化するまで控えになる。

SBは左が長友、右が内田。内田が代表引退ならば酒井高で仕方がない。酒井高のクロスの精度は大いに問題だが。

日本最大の弱点CBは、カテゴリーにこだわらず若手に切り替えろ

SBは森重、鈴木、水本らをそろそろ見切る必要がある。年功序列を排して、A代表に西野貴治(G大阪)、岩波拓也(神戸)、植田直通(鹿島)らを早く合流させたほうがいい。U21、U23、五輪といったカテゴリーにこだわりすぎるのは、日本サッカーの悪弊である。ブラジル戦の経験を彼らにこそ積ませたかった。

ブラジル戦で明らかになった日本代表の惨状。ここから立ち直るには、ディスパレートな精神力をもった選手を代表にできるだけ多く呼ぶ以外にない。

2014年10月5日日曜日

テレビ映画『ヒットラー』

昨日偶然だが、CATVでTV映画『ヒットラー』(原題:Hitler: The Rise of Evil、2003年、カナダ・CBCとアメリカ合衆国・CBSの制作)を見た。このTV映画がどこまでヒットラー及びナチズムの真実を伝えるものなのかは検証できないものの、事実だと仮定したうえで現代日本の情況と突き合わせてみると、今日の日本の危機が見えてきた。日本がファシズム到来に差し掛かっている現実に改めて驚愕した。

ヒットラーの演説はヘイト・スピーチで始まった

第一次大戦に従軍して負傷してドイツに戻ったヒットラー。彼が最初に接触した政治団体がドイツ労働者党であった。同党は後年、ヒットラーが党首に就任し国家社会主義ドイツ労働者党(以下「ナチ党」と略記)に改名された。ヒットラーが入党した当時、同党は数十人の愛国主義者党員で構成されていたにすぎなかった。

ヒットラーが同党の集会で最初に行った演説が、いまで言うところの“ヘイト・スピーチ”。演説といっても、小さなビアホールで開かれたもので、聴衆も十数人程度のものだったのだが。そこでヒットラーはドイツの純潔とユダヤ人及びユダヤ人に操られたとする共産主義者、社会主義者、社民主義者の排斥を訴えた。

ヒットラーの演説会は回を重ねていくうちに聴衆を集め、支持者を増やしていく。演説の内容はともかく、その訴求力は尋常でなく、彼は政治家として存在感を増していく。ヒットラーの排外主義と愛国主義は、敗戦とベルサイユ条約の巨額補償で疲弊したドイツ経済の下で呻吟する労働者、若者といった底辺層と、ドイツ経済の復興利権を独占しようと企む富裕層(ブルジュアジー)の支持を集めた。経済的に相反する底辺層と富裕層がヒットラーを支持したということは、日本の安倍政権(アベノミクス)が底辺層と富裕層に支持されている実態と重なり合う。

ヒットラーに抵抗した新聞人は収容所で処刑された

ヒットラーの台頭に危機を覚える知識人、言論人は少なくなかった。映画ではヒットラーに生命をかけて抵抗した新聞人(フリッツ・ゲルリッヒ)が主役である。ゲルリッヒはヒットラーが石油利権で英国と通じていたスキャンダルを暴いたところでナチ党に強制収容所に送られ、処刑される。

また、ヒットラーが反逆罪で収監されていたときに執筆した自伝『わが闘争』は、ヒットラーの台頭に利権を求めて近づいた穏健派出版人が請負わされる。ヒットラーに近づきすぎ、その狂気に危険を察した出版人は、妻をヒットラーに奪われ、英国に脱出する。ヒットラーが言論界、出版界をコントロールしていく様子は鬼気迫るものがある。

今日の日本では朝日新聞が「従軍慰安婦誤報問題」で謝罪をし、安倍政権にひれ伏した。併せて、朝日新聞OBの大学人が就職先の大学を追われる大事件が起きているが、メディアはその危機を伝えようとしない。右翼系週刊誌・月刊誌が排外主義を喧伝し、書店も排外主義者の著作物であふれている。TVメディアは事実上、安倍批判を自粛している。

メディア業界にあっては、公共放送の責任者は排外主義者が安部政権の意向で就任した。大手広告代理店は安倍政権の利益を代表する編成をTV局に強いている。新聞メディアの社主は安倍政権に従順な者で占められ、批判記事は掲載しない。右翼系出版社は「左翼叩き」「赤狩り」に地道を上げ、朝日新聞を血祭りに上げていて、そこを地盤にした排外主義的「知識人」が戦前の日本帝国主義を賛美し、嫌韓、嫌中を煽っている。産業界は大企業優遇政策実現のために、無批判的に安倍政権に大規模な政治資金を提供することを決めている。

全権委任法で憲法、議会を無力化

ヒットラーの権力奪取の過程は、順風満帆ではなかった。反逆罪で短期だが収監されたこともあった。また、議会、憲法、大統領(ヒンデンブルク)に代表される伝統的権力とも衝突を繰り返した。盟友関係にあった突撃隊との内ゲバ(粛清)も経験している。ヒットラーはその都度、陰謀(国会議事堂放火事件等)、議場退出による議会麻痺戦術等を駆使し、決められない政治(=議会)の無力を国民に訴求しつつ、「全権委任法」を国会で承認させたところで映画は終わる。ヒットラーの「全権委任法」は、憲法を無視し議会の議論を経ずに閣議決定で政策を進める安倍政権の政治手法と近似する。

ヘイト・スピーチ、排外主義、言論弾圧、陰謀・謀略、憲法・議会の無視(全権委任法)等と並べてみると、いまの日本がワイマル共和国下のヒットラーの政治手法を繰り返していることに気づく。また、ナチスの台頭とシンクロしてドイツの野党勢力が衰退していくことも同じような現象だ。

表は合法、裏は非合法の安部政権の二重の顔

だが、ヒットラーと安倍政権はまるで同じというわけではない。安倍は民主党政権の自壊から合法的に政権をとっている。民主党政権をワイマル共和国にアナロジーする見方もないわけではないが、ヒットラーのように暴力的に血みどろの権力闘争を繰り広げて権力奪取をしたわけではない。そこが違いであり、それゆえの怖さなのだ。

一見して民主的、合法的、非暴力的ファシズムであり、自身に熱狂的支持を伴わない、静的なファシズム支配の進行だ。しかし裏側では、ネットメディアにより周知された事実として、安倍及び現政権の中枢は排外主義勢力と地下水脈で親密な関係がある。合法領域では、安倍政権を支持する野党の一部には排外主義者、植民地主義者、軍国主義者が結集して、外側から安倍政権を支えようとしている。

日本が敗戦を犠牲にして獲得した平和主義と民主主義は、いま大きな危機にある。

2014年10月3日金曜日

『存在論的政治――反乱・主体化・階級闘争』

●市田良彦〔著〕 ●航思社 ●4200円+税

本書の副題「反乱・主体化・階級闘争」から連想されるような、マルクス革命論の再解釈ではなく、主に「1968年革命」以降、ヨーロッパにおいて花開いたポストモダニズムの共産主義思想に係る論考によって構成されている。

著者(市田良彦)はフランスにおいて、「マルチチュード」という思想誌の編集委員を務めていたとのこと。雑誌名“マルチチュード”とはいうまでもなく、ポストモダンの共産主義者の代表格、アントニオ・ネグリが提唱した革命主体の名称であり、同名の書物もある。著者(市田良彦)はネグリには強い影響を受けているようで、本書にはネグリ論が数本おさめられている。

ところで、マルクス主義を通過した者であるならば、本題にある〈存在〉と〈政治〉という言葉から、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の以下のような言説を連想するのではないか。

意識(Bewusstsein)とは決して意識的存在(das bewusste Sein)以外のものではありえず、そして人間の存在とはかれらの現実的な生活過程である。(P32)
*     *
意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。(P33)
*     *
意識ははじめからすでに一つの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるあるほかない。(P38)
*    *
もし幾百万のプロレタリアがかれらの生活関係に決して満足を感じないならば、またもしかれらの『存在』(Sein)がかれらの〔・・・〕現実において、そして実践的唯物論者すなわち共産主義者にとって大切なのは、現存する世界を革命し、既成の事物を攻撃し変更することである。(P59)
〔岩波文庫版〕

復習の意味で、マルクスのこれらの言説をとりあえず頭に入れておこう。さて、存在論的政治とはなんなのか――本書の帯にも書き抜かれている「まえがき」から引用する。

存在論的政治。すなわち、我々の生のあり方全般を深く拘束すると同時に、種別的にひとつの政治であることを手放さない政治。それは、生そのものを哲学的に考察すればことさら主題化しなくてすむ政治ではない。問題はつまり、文化や文明や経済や歴史、その他なんらかの人間的事象に置き換えれば「本質」を見極めることのできる「現象」ではない。もちろん、政治はいつでも表層的なものだ。・・・存在論的政治とは、現在の私にとって、この表層と深層が分岐する地点において生じる問題の名前にほかならない。それは、存在論的に「深い」次元が決定するような政治のあり方を指すわけではないのである。(P1~2)
(略)
存在論的政治は、積極的に日和見主義なのである。実践的には何も決定されていない、という原理から出発して、決定の方向を「世界」――生であれ経済であれ構造であれ――に対しそのつど問おうとする。どれだけ持続するのか分からない「世界の今」の傾向に寄り添おうとする。方向-傾向の特殊な「形態」を、表層と深層のあいだ、分岐点そのものに取らせる「歴史」を見ようとする。下部からの決定力が政治に特定の枠のなかにとどまらせることを許さないから、存在論的政治は固有の歴史をもつのだ。本書はこの歴史のなかにあるかぎりでの現在――主として1968年にはじまる――についても語ろうとするだろう。政治について「本質」から「歴史」へと視点を移動させ、「歴史」的分岐点を表層と深層のあいだに見定め、そこに「実践」を定位させることもまた、存在論的政治は求めている。(P4)
(略)
存在論的政治は、万人の救済と転生を信じる一個の狂気である。(P6)

著者(市田良彦)の立場は明確である。「フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消させる。しかし人間的本質はなにも個々の個人に内在する抽象体ではない。その現実においてそれは社会的諸関係の総和(ensemble)である」(前掲書/P237)、「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである。」(同/P238)。

存在論的政治とは――下部が上部を決定するという「決定論」を排したうえでだが――マルクスの言葉を言い換えたようなもののように感じる。

2014年10月1日水曜日

10月の猫

御嶽山の大噴火、大型台風の接近と、今月も波乱含みのスタート。

アベノミックスの失敗も明確になってきた今日このごろ、それでも安倍政権の支持率は低下しないのか。

不気味なのは、ファシズム到来の予兆・前兆。

若者が調子に乗って「右傾化」を楽しんでいるうち、それを利用する悪い大人がとんでもない日本国をつくりあげることになる。

排外主義、差別主義に浮かれているうちに、自分の居場所がなくなるのだ。

さて、今月の猫。

Zazieが4.8㎏(前月比400増)、Nicoが6.1(±0)。

Zazie

Nico