2022年5月31日火曜日

『新編 現代の君主』

 ●アントニオ・グラムシ〔著〕●上村忠男〔編訳〕●ちくま学芸文庫●1500円+税 

 本書は、イタリアのマルクス主義者、アントニオ・グラムシ(1891-1937)が、ムッソリーニ(ファシズム政権)により投獄されているあいだ、獄中にて書き残した「ノート」を集成したものである。
 グラムシが投獄されたのは1926年、ロシア革命から10年も経過していない。共産主義革命の勢いがヨーロッパを西進する中、革命後のソ連の動向、就中、レーニン亡き後におけるソ連の革命戦略定立をめぐる混迷を反映した言説も見受けられ、全編、緊張感にあふれている。〔後述〕
 本書に集成されたグラムシの記述の大部は、イタリア・マルクス主義研究の先駆者である、ラブリオーラ、クローチェ、ジェンティーレ及びフランスの革命的サンディカリスト、ソレルの言説を踏まえ、主に彼らに対する批判から持論を展開する構成になっている。そのため、彼らの思想を理解していないとわかりにくいのだが、本書の編訳者であり、巻末解説の執筆者である上村忠男の補足・訳注・解説が浅学の筆者には助けになった。それなくして本書の理解は不可能であった。
 なお、本題は〝現代の君主″であるが、 テーマは多岐にわたり、全編が君主論で貫通しているわけではない。よって、筆者が関心を示した部分に絞ってその感想とした。

人間とはなにか 

 Ⅰ章における「人間とはなにか」「構造と上部構造―その歴史的ブロック」「哲学・宗教・常識・政治」が本書のガイストである。その冒頭は文字通り、人間とはなにか、ではじまっている。グラムシの回答は以下の通り。

「人間の本性」とは「社会的諸関係の総体」であるというのが、かくては最も満足のできる答えである。なぜなら、この答えは、生成の観念、人間は生成する存在であって、社会的諸関係の変化に応じてたえず変化していくという観念をふくんでいるからであり、「人間一般」なるものを否定しているからである。じじつ、社会的諸関係は相手をたがいに前提しあっているさまざまな人間集団によって表現される。そして、その統一性は、弁証法的なものであって、形式的なものではない。(P21) 

 この回答はマルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』そのものである。そして、《まさしく歴史に「生成」という意味があたえられ、それが、統一性から出発することはしないが、それ自体のうちに可能な統一性の根拠をもっている「不一致の一致」というように把握されるならば、人間の本性は「歴史」である(そして、この意味において歴史イコール精神であるとすれば、人間の本性は精神である)ということもできる。だから「人間の本性」は個別的な人間のうちにはだれのうちにもみいだすことはできず、人間の歴史全体のうちにみいだすことができるのであって(したがって、「類」という語がもちいられることには、この語自体は自然主義的性格のものであるが、それなりの意味がある)》と続く。 

構造と上部構造 

 この単元を読む前に、マルクスの『経済学批判』の 序言(以下「序言」という)を頭に入れておくことが必要である。 

〔A〕人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
(略)
〔B〕社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が徐々にせよ、急激にせよ、くつがえる。
 このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常にくべつしなければならない。
(略)
〔C〕一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。 

(岩波文庫『マルクス経済学批判』/武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦〔訳〕。便宜上、抜き出し箇所を順にABCの符号を付した。) 

 マルクスのこの言説は、とりわけ20世紀における日本のマルクス主義運動において多くの論争を巻き起こしたし、革命的左翼各派における路線の違いを生じさせる主因ともなった。
 たとえば〔A〕については、上部構造は構造に規定されるのであるから、資本主義システムにおける文化・芸術は反革命的であり、その価値を一切認めないという、ブルジョア文化否定を党是とする党派を存在せしめた。同様に、プロレタリア革命(政治=上部構造)は経済=構造により規定されるという思い込みにより、経済決定論がうまれた。
 また〔B〕については、資本主義システムはいずれ矛盾をきたし、上部構造である政治、宗教、芸術、哲学は破綻するのだから、政治的変革はその危機におよんで画策することが正しい選択であるという、危機論型革命論をうんだ。
 〔C〕についても同様に、資本主義システムが終了する、つまり革命の時期は、物質的諸条件が現存しているか、それができはじめている場合にかぎって発生するということを根拠にして「待機論」をうんだ。
 グラムシはどのように「序言」を読んだのであろうか。グラムシはまずもって、《人間はイデオロギーの場において構造の諸矛盾を意識する》と解し、認識論的な意義をもつ主張だと、そして、《ヘゲモニーという理論的ー実践的原理は、認識論的意義をもつ》ものであるとした。ここでいうヘゲモニーとは、レーニンがロシア革命に際し、ロシア内における圧倒的少数派であるプロレタリアが、知識人、農民、小規模商工業者、兵士といった、それ以外の各層の者をプロレタリア側の主導のもとにおいた、ということを意味する。 

 イリイッチ(レーニン)は、政治の理論と実践を前進させたかぎりにおいて、(哲学としての)哲学をも(実際上)前進させたといってよい。ヘゲモニー装置の実現は、新しいイデオロギーの地盤をつくりだし、意識と認識方法の改革をひきおこすという意味では、ひとつの認識上のできごと、ひとつの哲学的なできごとである。(中略)新しい世界観に適合した新しい道徳を導入することに成功したとき、この世界観の導入も完了する。すなわち、ひとつの全面的な哲学的改革がもたらされるのである。(P28) 

 もうひとつは、構造と上部構造が〔歴史的ブロック〕を形成しているという考え方である。

 上部構造の複雑で不調和な(矛盾した)総体は生産の社会的諸関係の総体を反映している。ここからみちびきだされるのは、(個々のイデオロギーではなくて)ひとつの全体的なイデオロギー体系のみが構造の矛盾を合理的に反映しており、実践の反転〔※〕のための客観的諸条件がどのようなものであるかをあるがままに表現しているということである。イデオロギーの点で100パーセント等質的な社会集団〔※※〕が形成されたならば、このことは、この反転のための前提が100パーセント存在するということ、すなわち、「理性的なもの」が現に行為的に現実的なものであるということを意味している。この論証は、構造と上部構造とが必然的な相互関係(まさに現実的な弁証法的過程であるところの相互関係)にあるということに依拠している。(P29) 
※構造の反転については、編訳者である上村忠男が巻末解説で詳論している。それによると、《グラムシの関心が、上部構造が構造とのあいだに取り結んでいる関係が被規定的な反映の関係であるということよりむしろ、このことを踏まえたうえで、人間主体による実践的活動を介しての上部構造から構造への能動的な反作用の可能性のほうにむけられていることがうかがわれる。いわれるところの「実践の反転」ないしは「反転する実践」の可能性である。(P400~401)》
 ※※=社会階級のこと。検閲を考慮していいかえたもの(訳者注) 

現代の君主 

 本題の君主論である。ここでグラムシは、マキャヴェッリの『君主論』についてまさに論じているのであるが、そのことはさておき、現代の君主について、Ⅱ章〔現代の君主〕及びⅣ章〔「非政治的な」党形態について〕においてさらに扱い、それぞれ次のように定義している。 

 現代の君主、神話としての君主は、実在の人物、具体的な個人ではありえない。それはひとつの有機体でのみありうる。それはひとつの複合的な社会要素であって、それまで行動のうちにあらわれて部分ごとに自己を主張していた集合的意志がひとつのまとまった具体的な形姿をとりはじめたものなのである。この有機体は、歴史の発展によってすでにあたえられている。政党がそれである。政党というのは、普遍的かつ全体的なものとになろうとめざしている集合的意志のもろもろの萌芽がそこに要約されている最初の細胞なのだ。(P74)  

 ・・・『新君主論』の主役は、現代においては、個人的な英雄ではなくて、政党であることになろう。すなわち、そのときどきの条件に応じて、さまざまな国民のさまざまな国内関係のもとにあって、新しい型の国家を創建しようと意図している(そしてこの目的のために合理的かつ歴史的に創設された)特定の党であることになろう。全体主義であると自己規定している体制のもとでは、王室が伝統的にはたしてきた機能が、実際上、この特定の党によってひきうけられていることに注意すべきである。(中略)およそ党というものはすべて、ある社会集団、それもただひとつの社会集団の表現である。しかしながら、それらの特定の党が、一定の具体的な条件のもとにあって、あるひとつの社会集団を代表するのは、ほかでもない、それらが自己の集団と他の諸集団とのあいだいの均衡と調停の機能を遂行し、みずからの代表する集団の発展が同盟諸集団の同意と援助、さらには断固として敵対的な諸集団の同意と援助さえをもとりつけつつ推進されるよう努めるかぎりにおいてである。「君臨するが統治しない」国王または共和国大統領という立憲主義の定式は、この調停者の機能を表現した定式である。それは王冠または大統領を「あらわに」しないでおこうという立憲主義的諸党の配慮なのであって、統治行為については国家元首には責任がなく、内閣に責任があるということにかんするもろもろの定式は、直接に統治している人物やその党がなんであれ、国家は一体であり、非統治者の同意のうえに成立しているという一般的保護原理を具体化したものなのだ。 
 全体主義的な党とともに、これらの定式は意味をうしなう。ひいては、これらの定式にそって機能していた諸制度の力も減退する。しかし、機能自体はその党によって体現されているのであって、その党は「国家」という抽象的な観念を称揚しようとし、さまざまな方策を講じて、「不偏不党の力」という機能が依然として有効に作動いているかのごとき印象をあたえようとこころみるであろう。(P279~280)  

〔現代の君主=党〕とは何か 

 党とはなにかとグラムシは自問自答し、次のように回答する。 

 組織および党ということを形式的な意味ではなくて広い意味に理解する限り、どんな社会においても、だれ一人として組織されていない者はなく、また党をもたない者もいないということは、他の機会に記しておいた。この多数の特殊的な社会(=組織または党)は、自然的という性格と契約的または意志的という性格の、二重の性格をもっている。そして、これらのうちの一つないし複数のものが相対的または絶対的に優位を占め、あるひとつの社会集団の残りの全住民に対するヘゲモニー装置(または倫理的社会)を構成するのであり、これが狭く強制的な政治装置という意味に理解された国家の基礎をなすのである。(P281) 

 グラムシは党が国家であるという立場に立つ。この場合の党とはもちろん、共産党である。グラムシが目指す党とは、《全体主義政治であり、それは(一)ある特定の党の成員が以前には多数の組織のうちにみいだしていた満足のすべてをこの党だけにみいだすようにすること、すなわち、これらの成員の外部の文化的組織に結びつけているあらゆる糸を断ち切ること。(二)他の組織をすべて破壊すること、またはその党がそれの唯一の規制者であるひとつの体系の中にそれらを組み入れれること。P282 》。
  これらの言説は、プロレタリア独裁を換言したものであろう。グラムシの党に対する無限の信頼は、20世紀における失敗をふまえるならば、21世紀のこんにち、肯ぜられことはないと思う。

グラムシは全体主義者なのか 

 本書編訳者の上村忠男は、巻末解説において次のように書いている。 

 ・・・グラムシは・・・文字どおり、一個の全体主義的な社会の構想者でもあり続けたということである。そして、この面こそは、グラムシをして典型的に20世紀の思想家たらしめている面にほかならないのである。
 20世紀という時代は、社会思想的には、なによりも全体主義、あるいは「全体国家」のうちに、幸福な社会の実現の夢を託そうとしたことで特記される時代であった。(P414)

  20世紀前期に成立した全体主義の起源は、▽WW1(ナポレオンの出現という説もある)において欧州各国が必然的に構築せざるをえなかった総力戦体制の経験、▽そこから平時においても戦時体制に国家システムを改変する必要から発生したファシズム=専軍国家群(イタリア、ドイツ、日本)の誕生、▽ロシア革命によってうまれたソ連の誕生ーーであろう。そしてWW2以降、ファシズム国家群の消滅と同時に、▽ソ連の影響力が強まる中、冷戦下で発生した社会主義国家群、▽自由主義国家群が社会民主主義政策を積極的に取り入れて形成された福祉国家群ーーが、世界各国の全体主義化を加速させた。
 しかし、20世紀後半におけるソ連崩壊、東欧の民主化によって、21世紀に入るや、社会主義国家はおおむね消滅し、一方の自由主義圏は新自由主義の台頭により、福祉政策をおろし、弱者切り捨て国家に変容しつつある。現代を帝国主義の時代の再来だと断言する思想家もいる。そんななか、グラムシの思想を振り返る意義はあるのだろうか。現代の君主たる党(=共産党)の失敗をふまえ、全体主義に陥らない新しい社会主義の構築を模索するために乗り越えるべき思想家のひとりと考えるほかないのかもしれない。 

永続革命か一国社会主義か 

 ロシア革命の成功ののち、革命政権内部において、以降の革命路線についての模索があったことが知られている。ひとつはトロツキーの永続革命であり、もうひとつはスターリンの一国社会主義建設であった。結果において、スターリンがトロツキーを国外に追い出し(1929)、刺客を使って亡命先のメキシコでトロツキーを殺害(1940)したことで決着した。トロツキーは殺害されるまで、亡命先で第四インターナショナル結成に向けて奔走していた。一方のスターリンは革命に貢献したボルシェヴィキ幹部を大量粛清し、権力基盤を固めていた。こうしてみると、グラムシが獄中で本書にある「ノート」を書き続けていたとき、トロツキーは存命であるばかりか、革命政権の中枢に残っていた時代なのである。
 グラムシは、Ⅲ章「 情勢または力関係の分析について」のなかで、「政治の分野における機動戦(および正面攻撃) から陣地戦への移行」と題して、路線問題について詳述している。革命後の政治について、軍事用語である機動戦(正面攻撃)と陣地戦をもちだし、革命の永続化を前者に、そして一国社会主義建設を後者にたとえたのである。そのなかで、陣地戦から攻囲戦における勝利か敗北かが国の存立を決定するに等しい最終局面であることを強調している。つまり、史上初めて社会主義革命をなしとげたソ連の存続、すなわち、一国社会主義建設の成功か否かが、ロシア革命以降における世界プロレタリア革命の成否を決すると理解したのである。

 政治の分野においても機動戦(および正面攻撃)から陣地戦への移行が生じたこと。これは、戦後期が提起したもっとも重要な、そして正しく解決することの至難な政治理論の問題であるように思われる。これはプロスティン(トロツキー)がもちだした諸問題(永続革命)とむすびついている。トロツキーは、それが敗北の原因でしかない時期における正面攻撃の政治理論家であるとみなすことができるのだ。政治の分野におけるこの移行が軍事の分野において生じた移行と結びついているのは、ただ間接的であるにすぎない。陣地戦は無数の住民大衆に莫大な犠牲を要求する。だから、未曾有のヘゲモニーの集中、ひいては、反対者にたいしてより公然と攻撃姿勢をとり、内部解体の「不可能性」を永続的に組織するような、いっそう「干渉主義」的な統治形態になる。政治的、行政的、等々のあらゆる種類の統制、支配的集団のヘゲモニーの「陣地」の強化。こういったことのいっさいは歴史的ー政治的情勢の絶頂段階にはいったことを示唆している。というのも、政治においては「陣地戦」は、ひとたび敗北すれば決定的な意味をもってしまうからである。政治においては、決定的でない陣地の獲得が問題になっているあいだは、したがってヘゲモニーと国家のすべての資力を動員しなくてもすんでいるあいだは、運動戦がつづけられる。しかしまた、なんらかの理由でこれらの陣地が価値をうしない、決定的な陣地だけが重要性をもつようになったとき、そのときには攻囲戦に移る。それは圧縮された困難な戦争であって、忍耐と創意工夫の並々ならぬ資質が要求される。政治においては、攻囲戦は、その外観にもかかわらず、相互的である。そして、優勢なほうが自分の全資力をはきださなければならないという事実ひとつをとってみても、それが敵についてどれほどの計算をしているかが明らかになるのである。(P195~196) 

 実践の哲学(=マルクス主義)にしたがえば、それはその創始者が定式化しているところでもよいし、しかしまたとくにその最近の偉大な理論家が精密化しているところからすれば、国際情勢はその国民的〔=一国的〕な側面においてはどのように考察されるべきか、という点である。現実には「国民的〔一国的〕」という関係は、あるひとつの「独自」かつ(ある意味では)唯一の結合の結果生じているものなのであって、この結合は、もしもそれを支配し指導しようとおもうならば、そうした独自性と唯一性において受けとめられ、とらえられなければならないのである。たしかに、発展の方向は国際主義にむかっているものの、出発点は「国民的(=一国的)」である。そして動きだす必要があるのは、この出発点からである。しかし、展望は国際的である。また、そうでしかありえない。
(略)
  ・・・多数派(=ボリシェヴィキ)運動の解釈者としてのレオーネ・ダヴィドヴィッチ(=トロツキー)とベッサリオーネ(=スターリン)のあいだの根本的不一致はあるようにおもわれる。国民主義〔=一国主義〕という非難は、問題の核心にかんするかぎり、不適切である。1902年から1917年までの多数派(=ボリシェビキ)の努力を研究してみれば、その独自性が、国際主義からあいまいで(悪い意味での)純粋にイデオロギー的な要素をあらいおとし、それに現実主義的な政治的内容をあたえようとしたことにあることがわかる。(中略)国際的性格の階級であっても、狭く国民的〔=一国的〕な性格をおびている社会階層(知識人)や、それどころかしばしば国民的ですらなく、個別主義的で地域主義的な階層(農民)をも指導していくものであるかぎりで、ある意味ではみずから国民化〔=一国化〕しなければならないのである。(P210~211)  

 上村の訳注によると、トロツキーは、ロシアのような後進資本主義国家における革命は、プロレタリアートの主導によるブルジョア民主主義革命をもってはじまり、そのまま中断することなく、社会主義革命へと連続していかざるをえないこと、また、その革命は先進資本主義国のプロレタリアートによる社会主義革命へと連続的に発展し、その援助をうけることを必要としていること。 一方のスターリンは、レーニンの『帝国主義論』にある帝国主義の不均等発展から、社会主義革命の勝利も、それぞれの帝国主義国の段階ごとに個別に可能にされていく、すなわち、一国革命を目指すべきだと主張したとされる。
 グラムシは必ずしもトロツキーを支持しているわけではない。スターリンの一国主義が現実的であり、西欧における反革命の勢いは侮れないとしている。しかし、スターリンがボリシェヴィキ古参幹部を次々と粛清していた事実が、獄中にあったグラムシの耳に入らなかったことを理解しなければならない。グラムシの一国化とスターリンが自らの独裁をめざした「一国化」とは全く次元が異なるのである。
 引用にもあるように、《たしかに、発展の方向は国際主義にむかっているものの、出発点は「国民的(=一国的)」である。そして動きだす必要があるのは、この出発点からである。しかし、展望は国際的である。また、そうでしかありえない。》と、グラムとシは強調しているのであるから。(下線は筆者による) (了) 

 

2022年5月24日火曜日

東京国立博物館

 琉球展のついでに、東京国立博物館の全館をざ~と見学。

庭園がきれい。

表慶館


オリエント館

法隆寺宝物館

本館

庭園茶室

同上

庭園 池

特別展「琉球」

 沖縄本土復帰50周年記念「琉球」を見てきました。








2022年5月20日金曜日

いま世界は「帝国主義的段階」にある

 

演説するレーニン

ロシア革命(1917)をなしとげたボルシェビキ政権がロシア帝国に替わる国名としたのがソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)であった。この国名はすべてが抽象的一般名詞で構成されている。ご存知のとおり、ソヴィエトとは評議会という意味であり、古い地名や民族を意味する固有名詞はない。まさにプロレタリア国際主義である。USSRのもと、ロシア・ソヴィエト共和国(以下、共和国を略す)、ウクライナ、白ロシア、ラトビア、エストニア、リトアニア、モルダビア、アルメニア、グルジア、ウズベク、カザフ、アゼルバイジャン、キルギス、トルクメン、タジク等の共和国がその構成に加わった。

革命後、たとえば、いまロシアと戦争状態にあるウクライナの人たちは、自分の国をソ連と思っていたのかそれともウクライナと思っていたのか、あるいは、スターリンの生誕地であるグルジア(現ジョージア)の人はどうだったのか。いまそのことを確認するすべを持っていない筆者の想像にすぎないのだが、ソ連という抽象名詞が連なった国家名は、ロシア各地に住む人々にとって、重圧だったのではなかったかと。 

各共和国の人々がその重圧から解放され、USSRの民としてアイデンティティーを獲得したのは、WW2における対ナチス戦争勝利だったのではないか。その「偉業」はナポレオンの東進を阻んだロシア帝国の偉業に匹敵したと考えたかもしれない。そこから新しいソ連という国家の邁進が期待されたのだと思う。しかし、その夢はわずか40年弱でついえた。ソ連は崩壊し、前出の15のソヴィエト社会主義共和国は連邦形成から離脱し、独立し今日に至っている。ソ連の崩壊は1988-1991にかけてであった。かつての共和国は独立し、それぞれが、ゆかりのある固有名詞を冠した国名を名乗った。USSRは70年余で消滅した。 

さて、USSR崩壊後から30年余りののちに勃発したウクライナ戦争である。筆者が注目していた南部戦線マウリポリ。ウクライナ軍の別動隊アゾフ連隊が立てこもっていた巨大製鉄所が陥落し、アゾフ連隊兵士100名ほどが投降し捕虜となった。ロシア軍がネオナチ=アゾフ連隊との戦いに勝利したことで、プーチンが目的としたこの戦争のミッションの最低限を完了したことになる。この先の戦争の行方は、メディア報道にあるように、正面戦から陣地戦へとかたちを変え、東部・南部におけるウクライナ・ロシア国境付近における消耗戦に入るものと思われる。 


この戦争を開始する前、プーチンが創作した、ウクライナ軍事侵攻正当性に係る物語は、ロシア建国神話、正教、WW2における対ナチス戦争勝利であったといわれている。けれど、筆者はこの戦争をロシアの復古的表象とは考えていない。そのヒントを与えてくれたのが、柄谷行人の「1990年代の動向」(『ニュー・アソシエショニスト宣言』作品社版収録)であった。柄谷は1980年代以降、アメリカで開始された新自由主義政策は帝国主義であると断じている。そして、歴史の反復を120年周期と設定した。その根拠は柄谷の「交換様式」からくるものだが、その説明はここでは省略する。柄谷は世界資本主義(近代世界システム)の歴史的段階を上の表にまとめた(前掲書P49)。1990-120=1870、つまり、1930ー1990というわれわれ世代が経験した安定の時代が自由主義的段階であり、それを挟み、息苦しさを感じ始めた1990年以降いま現在が帝国主義的段階の時代だというのは実感を伴っている。帝国主義的時代の特徴をといえば、ヘゲモニー国家(アメリカ)の没落による新たなヘゲモニーをめぐる争いが生じる段階である。柄谷は次のように書いている。 

アメリカのヘゲモニーが揺らぎ始めたのは、1970年代からです。そして、それを揺るがしたのが(中略)日本とドイツでした。その後に、アメリカから新自由主義が出てきたのです。すなわち、新自由主義という「経済政策」は、アメリカがヘゲモニー国家として没落し始めた段階、そして新たなヘゲモニーをめぐる争いが生じる段階、すなわち、帝国主義的な段階に固有のものです。ゆえに、新自由主義は、自由主義とはまったく異なるものです。また、それはたんに諸国家が任意に選択するような経済政策ではありません。それは「歴史的段階」です。すなわち、ヘゲモニー国家が不在であるような段階です。(前掲書P50) 

帝国主義的段階における特徴的な表出について柄谷は次のように指摘する。

資本主義的な市場経済が進むと、階級格差や対立が生じます。それを、ネーション=国家が課税と再分配によって解消する。資本=ネーション=国家は、そのように、資本主義経済を永続させる装置です。1990年ごろ、ソ連の崩壊とともに流行した「歴史の終わり」とは、そのような装置の完成を意味します。
しかし、実は、まさにそのころから、資本=ネーション=国家はうまく機能しなくなったのです。なぜなら、このような装置がよく機能するのは、自由主義時代、すなわち、資本の蓄積が順調である場合だけだから。(中略)1970年代以降、資本の蓄積が困難になった。簡単にいえば、一般的利潤率が低下しました。そうなると、福祉や労働者保護といった要素は切り捨てられる。いいかえれば、「ネーション」の部分が切り捨てられて、資本=国家が剥き出しになる。そこから、新自由主義的な政策が出てくるのです。ネーションが回復されても、それは空疎で排他的なナショナリズムにしかならない。それは相互扶助的なものではありません。 

だから、1990年において〝終わった”のは、ソ連社会主義だけではありません。自由主義段階で可能であった社会民主主義ないし福祉国家もそうです。(同P51~52) 

柄谷が「1990年代の動向」を著わしたのが2014年4月のこと。なかに次のような予言めいた言説が含まれているので紹介しておく。《ここ(120年周期説)から、今後にどうなるかも予測することができます。現在が、ヘゲモニー国家が没落しつつある帝国主義的時代だとすると、どこが次のヘゲモニー国家となるか、あるいはそこにいたるまでに何があるか・・・放っておけば、もちろん世界戦争です。》 

プーチンが現段階で世界的ヘゲモニー国家をめざしているのかどうかは不明だが、少なくとも、旧ソ連時代の版図におけるヘゲモニー国家でありたいと望んでいることは確かであり、ウクライナ戦争もその帰結であろう。そしてプーチンが信じる過去に遡った神話の再生は、「空疎で排他的なナショナリズム」にほかならない。 

いま日本においては、帝国主義的段階の局地戦争を背景として、「空疎で排他的なナショナリズム」を標榜する右派ポピュリストと、かつての自由主義時代の福祉国家の再来を望む左派ポピュリストが先鋭な対立姿勢を大衆的にして、選挙戦の梃子としようとしている。選挙では左派に投票するしかないのだが、よしんば左派が勝利したとしても、そこから先の展望はない。 (了)

2022年5月14日土曜日

50年前の吉本隆明『南島論』を読み返す

沖縄本土復帰が政治課題として突出したいまから50年前、平林さんご指摘の通り、新左翼各派は沖縄解放、沖縄奪還という闘争方針をめぐって対立を深め、自派の正当性を証明しようと無意味なゲバルト闘争に明け暮れていた。そんななか、吉本隆明は『南島論』を掲げて両者の論争に割って入った。吉本は次のようにいう。 

琉球、沖縄の問題は、たんに米軍基地が存在して、土地の連中(注1)が迷惑しているとか、また基地の存在なしには経済的に成り立たない部分が多数存在するというようなことでもないし、また本土復帰なんていうことをいって、それで終わるということでもありません。本来的にいえば、彼らが彼ら自身(注2)で本土中心あるいはいってみれば天皇制統一国家中心に描かれてきた本土の歴史というものを、根柢から突き崩すだけの問題意識と、それから主要テーマの研究と学問と思想とをひっさげて、本土と一体になるのでしたら、それなりの意味あいがあるとおもうんですけど、そういうことをぬきにして本土に復帰したってどうっていうことはないわけです。つまり〈行くも地獄帰るも地獄〉というやつで、どっちにしたってあまりいいことはないにきまっています。復帰したとかんがえたとしても、本土からみると、ひとつの僻地とか辺境とか離れ島とか、そういうい意味あいのイメージしか持ちえないということなんです。(「宗教としての天皇制」『敗北の構造 吉本隆明講演集』弓立社版P21~22)
(注1)(注2)ともに沖縄住民のこと 

沖縄の歴史、および、当時も今も変わらない沖縄のおかれた情況に鑑みれば、吉本の発言は沖縄住民に対していかにも礼を失したものいいである。しかしながらこの50年間、沖縄の情況は 吉本のいうとおり〈行くも地獄帰るも地獄〉であった。観光客の目からすれば、インフラ整備が進み、こぎれいなリゾートホテルが立ち並ぶ南海の楽園のようにみえても、本土との経済格差は縮まる気配がない。もちろん、辺野古に代表される米軍基地問題は縮小よりも拡大に向かっている。そんな沖縄の人々に対して、《本土中心あるいはいってみれば天皇制統一国家中心に描かれてきた本土の歴史というものを、根柢から突き崩すだけの問題意識と、それから主要テーマの研究と学問と思想とをひっさげ》ることにどのような有効性があるのか――50年前のこの文言に新たに直面した筆者の戸惑いは大きい。吉本の無礼な沖縄住民に投げかけた発言のなかにこそ、日本革命の失ってはいけない視座があったことがあらためて直感されたのである。以下、〈南島論〉を大雑把にではあるが、読み返してみた。

(一)家族・親族・国家 

吉本の日本革命論は「南島論」へと展開する。吉本は南島の家族・親族・国家について論究し、南島の親族関係について、伊藤幹治の「八重山群島における兄弟姉妹を中心とした親族関係」から、沖縄の親族関係が父系・母系ではなく、双系であるという結論を援用し、かつ、親族関係の展開の過程で国家的な共同体へと転化する契機として兄弟姉妹関係の機軸を重要視する。父から長男という父系ではなく、母から長女でもなく、そのどちらもありうる双系。そして、兄弟姉妹関係というのは性的タブーであり、性的関係は禁忌とされるものの、親子よりは遠く、その関係は経済的、あるいは、契約的な関係に代替されて発展していくと考えれば、家族集団からの逸脱の始まりと考えていい。〔後述〕 

もう一つの国家成立の概念として、〈グラフト国家=接ぎ木国家〉を提示する。これはある共同体が発展して統一国家に至るという一元的発展だけではなく、複数の共同体(部族国家、氏族国家)が並立する中、そこに横あいからやってきた勢力によって統一国家ができあがる可能性を説明したものだ。つまり、われわれが抱く国家観念というのは、人民が長い歴史をもってそこに住み着き、いろいろな風俗、習慣を強固に持ち、その共同性が上へ上へ展開進化し、高度に洗練されていって統一国家を成立せしめるものだと無意識に思いがちだが、そうとは限らないということだ。日本における天皇制権力の種族的出自についても、騎馬民族説、北九州説、南中国・東南アジア説などが挙げられていて、断定できない段階にあるとされる。以上ふたつの要素から、いうまでもなく、「万世一系」「紀元二千六百年」「紀元節」などというものは、後年のつくり話、神話にすぎない。

(二)祖先崇拝・祖霊信仰と〈來迎神信仰〉 

次なる視点は、南島、本土を含めた宗教性の観念である。それは①祖先崇拝・祖霊信仰、②來迎神信仰の二つに大別される。①の特徴は、宗教性の観念が家族の共同性から逸脱しないこと。②は共同宗教であるということ。先述の通り、家族集団の共同性を逸脱したときに、共同体、あるいは国家の成立の契機が考えらえる。そして、この二つの軸は南島、本土の宗教に差異はない。 

さて、②の共同宗教は、〈宗教→法→国家〉への展開から考えるならば、宗教自体が権力となることを意味する。そういうものと、①の祖霊信仰との錯合がもっとも適切に現れてくるのが日本本土でいえば近代国家における天皇制、あるいは天皇における世襲祭儀(大嘗祭)である。いまわれわれの住む日本国は、ここから一歩も出ていない。 

(三)天皇即位儀礼大嘗祭の構造 

大嘗祭とは皇太子が新天皇になるための通過儀礼である。天皇となるためには、天皇霊を引き継ぐことが必須とされる。まさに祖霊信仰そのものなのだけれど、そこに共同宗教としての、つまり権力、宗教的威力の継承という要素がなければ意味がない。大嘗祭は秘儀とされ、その内容は不明であるが、民俗学者・折口信夫が『大嘗祭の本義』を著わし、新天皇が女性として稲霊と同衾する(真床追衾)という大胆な仮説を唱えたことが知られている。

吉本の解釈は、南島におけるノロと呼ばれる巫女の継承の儀式、それから13~14世紀ころに成立した琉球王国によって制度化されてきた聞得大君(キコエノオオキミ)という最高の巫女の継承の儀式と、天皇の世襲大嘗祭とは〈指向性変容〉(注3)の関係にあるとする。

(注3)指向性変容:吉本の造語で、身近なことについてなら、起こってくる事象をわりあい包括してとらえることができやすいが、身近でないところの問題の場合には、こぼれおちてくる事象があり、その事象はまったく偶発的な〈事実〉としてしか存在しないかのようにみえてしまうという矛盾のあいだの〈距離感〉、〈誤差〉というものをはっきりさせるための概念。関係の構造を把握することのなかで、あらゆる歴史的段階というものは、あらゆる地域的空間に、そしてあらゆる地域的空間というものはあらゆる歴史的な段階に、あるいは、あらゆる世界的な共時性というものは、あらゆる世界的な特殊性というものに、相互転換することができるという。この場合には、天皇の世襲儀礼である大嘗祭は、南島におけるノロの継承儀式及び聞得大君の継承儀礼と同じ構造としてみることができるということになる。 

この先、吉本は大嘗祭と南島の巫女の継承儀礼における宗教的権威の継承の仕方の同一性と差異性および本土の田の神などのそれについて比較詳論するのだが、その内容については省略する。

結論としていえるのは、南島の巫女の世襲儀式と天皇の世襲儀式とが同根であることになる。具体的には、▽天皇制というのは政治的権力、象徴的権力、社会的権力であると同時に、宗教的権力であること。▽宗教的権力である天皇制の問題の実体を解明する鍵が、沖縄における聞得大君の就任儀式にみる宗教的威力の継承の仕方から解明することができるとすれば、その意味もまた大きいということ。▽換言すれば、本土の歴史上であらゆる意味での最高権力の成り立ち方を解明する鍵のひとつが南島にあるということ。▽聞得大君の就任儀礼は南島では〈聞得大君の御新下り(オアラオリ)〉といい、その構造は天皇位の世襲大嘗祭とよく似たというかほぼ同じ構造であるということ。そして、▽聞得大君の神性(御託宣)によって、その兄弟が実際には政治権力を行使するという権力構造があったこと。 

(四)なぜ聞得大君の世襲儀礼を研究することが革命的なのか 

吉本は、南島の聞得大君の世襲儀礼と天皇の世襲大嘗祭が同根であるということをふまえ、それを研究することが、沖縄~本土を貫通する(宗教的)権力による支配構造、すなわち天皇制を覆す鍵であり、沖縄と本土の真の一体化を果すことにつながるのだという。 

聞得大君の継承儀礼にみる宗教的威力・イデオロギー的威力のふき込み方と、天皇の世襲大嘗祭の威力のふき込み方とは殆ど同じものだといえます。こういうふうにいうことは一つの意義があるのです。なぜならば、沖縄は本土の支配に甘ったれており、その裏がえしとして沖縄の人たちは、自分たちが見捨てられた後進地域だという一種の劣等感をもっているのが否定できない現状だとすれば、日本国家における千数百年保持してきた天皇位の世襲大嘗祭の構造と、沖縄の聞得大君の継承祭儀の威力のふき込み方が全く同根であるということの認識は、この沖縄と本土との歪んだ関係づけの仕方を消滅させる意義をもってくるのです。そのことをはっきりさせれば、本土の支配者が〈あいつらは片田舎の県民にすぎない、甘ったれているんだ〉といういい方に対して一つの爆撃となりえるし、沖縄の人たちがいわれない劣等感をもっている現状に対して、それを爆撃するという意義もあると思います。わたしの問題意識からすれば、沖縄の住民が日本人であるということは、申すまでもない前提になっています。だから、現在何が問題かというと、その前提全部を含めて、統一国家として歴史的に固持してきた千数百年という本土中心にみた日本国家の浅さを、根柢的にくずす仕方が、南島にもとめられるということだと考えます。(「南島の継承祭儀について」前掲書P96) 

南島論が日本革命論でなくてなんであろうか。

2022年5月10日火曜日

ロシア軍撤退の唯一の可能性とは

 ロシアにおける「対ナチス戦勝記念日」。プーチンは局面の転換を意味するような演説をしなかった。メディアが予測した「勝利宣言」なし、「戦争宣言」なし、「核を含む大量破壊兵器の使用予告」なし。今回の軍事侵攻が米国(NATO)、ウクライナ側によりもたらされたものだ、という従前のロジックを繰り返しただけだった。   さて、近代の戦争では局面を転換する戦闘が必ずあった。WWllにおける連合軍のノルマンジー上陸作戦の成功が名高い。アジア太平洋戦争では日本海軍が米海軍に負けたミッドウェー海戦。日露戦争における旅順攻囲戦(日本軍勝利)を入れてもいいかもしれない。
その反対に、戦況が膠着状態に陥ったまま、停戦を迎えたものとしては、WWlにおける西部戦線塹壕戦が名高い。独⇔英仏両軍が互いに塹壕に立てこもり、双方が攻撃と防御を延々と繰り返し、戦闘は開戦(1914)から終戦(1918)まで続いた。両軍どちらも軍事的優位を得られぬまま、独は国内事情〔注〕により講和に応じた。WWlにおけるドイツは「戦闘に勝って、戦争に負けた」といわれたという。「相撲に勝って、勝負に負けた」みたいだが。

〔注〕国内事情;ドイツ革命のこと。1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結としてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、帝政ドイツが打倒された革命である。ドイツでは11月革命ともいう。なお、ドイツ帝国はその影響で敗戦に及んだが、ドイツ革命は頓挫し、ワイマール共和国というブルジョア民主国家の成立で終わった。
塹壕戦には勝者も敗者もいない。主要な戦場となった仏北部ソンム河畔における4カ月半にわたった激しい塹壕戦「ソンムの戦い」は、最も凄惨な会戦の一つといわれ、戦死者は1日で57千人を数え、結局、双方合わせて40万人超の犠牲者を出した。戦場跡では悲惨な戦いの記憶が、今も語り継がれているという。 
 

そして現代のウクライナである。ロシアとしては、マウリポリの巨大製鉄所に立て篭もるアゾフ連隊(ネオナチ、白人至上主義者で構成)を殲滅して勝利宣言をし、講和に持ち込むというシナリオがあったかもしれないが、戦局がそれを許さないようだ。報道では、6月には米国(NATO)による各種高性能武器がウクライナに到達し、ウクライナの反転攻勢が「期待」されるという。いま(5月)が天王山である。ウクライナ軍がロシア軍に圧倒され敗北を決定的にするのか、逆にもちこたえれば、6月以降、ウクライナ軍が新型兵器を駆使して反撃し、ロシア軍は国境まで押し戻されるかもしれない。そうなれば、ウクライナ、ロシア双方の軍隊がウクライナ東部・南部で展望のない戦闘を繰り返すという膠着状態が複数年単位で継続する。犠牲者はさらに増え続けるだろう。 

 

ウクライナ戦争が終結する唯一の道がある。100年前のWWlの塹壕戦の終わり方の再現である。すなわち、ロシアの国内事情による、ロシアからの講和要請である。ロシア国民の不満、すなわち、「反プーチン革命」である。プーチンに政治的危機が及べば、ロシアは撤退せざるを得ない。


 もちろん、WWlにおける独敗戦の要因は複合的であり、国内政治以外にも、スペイン風邪、飢饉、国民の厭戦気分等を併せ考えなければならない。それらを総合して「革命」というかたちに結晶したと考えれば、いまのロシアに起こっても不思議はない。スペイン風邪→新型コロナ、米国(NATO)等による経済制裁という、似たような条件がないわけではない。

2022年5月6日金曜日

仏大統領選で躍進したルペン氏は何故「極右」と呼ばれるのか

 

フランス大統領選で敗北したルペン。彼女がなぜ極右と呼ばれのかという愚生の疑問に対する満足な回答が得られぬ中、なんと、そのものずばりの論考をネットで見かけた。『論座』にある「仏大統領選で躍進したルペン氏は何故「極右」と呼ばれるのか」(金塚彩乃 弁護士・フランス共和国弁護士)だ。この論考が愚生の疑問に対する回答として「正答」なのかどうかを検証する能力がない。だから、紹介としてお読みいただければ幸いである。 以下、その要約である。

(一)フランスの大統領制について 

金塚は今回の選挙について、以下のような前提を述べる。 

・・・ルペン氏が何故「極右」と呼ばれるのか、どのような「プログラム」を持っているのかということはあまり報道されていない。ルペン氏は様々な主張を行っているが、その根底にあるのは現在の第五共和制憲法の改正である。本稿ではその内容を紹介したい。

大統領の権限は絶大だ。首相及び国務大臣を任免し、閣議を主宰し、下院である国民議会の解散権を有するが、大統領自身は議会に対して責任を直接負うことはない。大統領は軍隊の長であり、条約について交渉し批准する権限を有する。そして、一定の事項について、国民投票を通じて立法をすることが可能となる。 

(二)ルペンが率いる国民連合について 

ルペンが父親が創設した「国民戦線」を引き継ぎ、2018年に党名を国民連合に改称すると同時に、党のイメージ戦略に取り組み、父親時代の過激な反ユダヤ主義や移民排斥、人工妊娠中絶反対などの主張を封印して党の「普通化」「脱悪魔化」を図り、父親の時代よりも広く支持者を集めてきたことはすでに報道済みだ。なお、現在、国民戦線は下院で8議席(577議席中)、地方議会で268議席(1837議席中)、3万人以上のまちで2名の首長(279人中)を擁している。欧州議会においても23人の議員を輩出している。 

(三)フランスの「極右」の定義 

いよいよフランスにおける極右とはなにか――である。金塚はフランスの研究者の団体であるCollectifによる「極右」の定義を紹介している。 

極右による世界観は有機体論、つまり社会を一つの生物のように見るところにある。一つの生命を持つ共同体は、民族、国籍あるいは人種から構成されるとし、「私たち」を強調する一方で他者を排斥し、普遍主義を拒絶する。違った文化を持った他者は、「私たち」が均質な共同体を作ることを阻害する邪魔者である。
また、現在の社会は退化しており、自分たちだけが救済者として社会を救うことができると考える。その際に社会を救う中心となるのは国民であって、救済者である指導者と国民との間に直接の関係性の構築を強調する 。
このようなナショナル・ポピュリズムは、フランスでは19世紀後半から今日まで脈々と存在し続けたが、この定義によれば、その中心を担うのが、現在は国民連合であると指摘される。 

もちろんルペンは、自分たちが極右であると呼ばれることを拒絶しているのだが、この定義によれば、その中心を担うのが、現在は国民連合である。ゆえに、ルペンも国民連合も極右と呼ばれるということになる。 

(四)ルペン(国民連合)の主張について 

①対EU政策

2017年の選挙で訴えていたEUからの脱退を封印し、EU法に対してフランス法を優越させることを訴えた。国境管理の見直しも求めている。国民連合の主張は、フランスによるフランス国境の管理である。現在EU圏内においては物流は自由になされることとなっているが、国民連合はフランス領域に外国からの商品を輸入するにあたり、フランス独自の管理の必要性を主張する。さらに、フランスのEU分担金の削減も国民連合は求めている。 

②対外国人政策 

自国民優先原則を打ち出す。そのなかで、雇用や住居、最低所得補償に関してはフランス人を優先することとし、国籍において血統主義を打ち出すことを主張している。移民に関しても厳格な政策の導入を主張する。難民認定についてもあまりに寛容になされていると指摘する。ルペンの主張によれば、フランスの法律で認められている外国人の「家族呼び寄せ」の制度の下、移民が親や子だけでなく、兄弟姉妹まで呼び寄せることが可能となっているが、その結果、フランスという国家ではなく、移民自身が誰を移民とするかを決定することができる状況が生まれていると訴える。ルペンは、大幅な移民政策の見直しが必要だと主張する。移民に関してもフランス到着後の申請ではなく、出発国のフランス領事館における申請を条件にするべきだと主張する。 治安強化のため、一般的な厳罰化や捜査機関の権限強化に加えて、犯罪を犯した外国人の強制送還の徹底を強調する。イスラム過激派に対しては、非宗教的国家というフランスのアイデンティティや憲法上保障される自由や権利を侵害する団体として、アイデンティティの攻撃という観点から批判がなされ、公的な場所でのイスラム過激派の主張の表明の禁止が目指される。イスラム過激派の主張を表明した帰化外国人からは、フランス国籍の剥奪も約束される。

③国内対策 

2019年からのいわゆる「黄色のベスト運動」の発端となったガソリンに対する付加価値税の軽減や、賃金の1割アップ、年金の支給開始年齢の60歳への引き下げなど、不況とインフレに苦しむフランスの低所得者層を対象とする公約を掲げた。 

要するに、ルペンは、フランスというアイデンティティの下、他者の排斥を叫び、EU秩序の否定や自国民優先主義など、現行の憲法上認められない主張を繰り返している。ルペンの主張を実現可能にするためには、国民と指導者との直接的な関係性を築くこととなり、ナショナル・ポピュリズムが称揚する国民投票の実施を国民に訴えたのである。このことがルペンをして、極右と呼ばれる所以である。 

(五)フランスにおける国民投票制度 

金塚は、フランスにおける国民投票制度を次のように紹介している。

フランス革命時においても「代表制」が重視されていたが、その後も国民投票に対する警戒心は強かった。ナポレオンが政権を掌握したのも、その甥のナポレオン3世が同様に権力を収奪したのもともにクーデタによるものだったが、いずれのクーデタもその後の「プレビシット」と呼ばれる国民投票によって正当化されてきた。このような経験から、イエスかノーだけで回答を迫られる国民投票は独裁者の手段であるとの見方が強い。 それでもなお、代表民主制が国民の意思から乖離することを避けるために、第五共和制憲法においては、一定の国民投票が予定されていた。それが憲法11条及び憲法89条である。
憲法11条においては、政府あるいは両院の提案に基づく大統領の発議により、公権力の組織、経済あるいは社会政策、公役務、憲法に反することのない範囲で、公的機関の運営に影響を有することとなる条約批准の許可に関して国民投票が可能であるとされ、国民投票の結果可決された法律は、15日以内に法律として公布されると定めている。
さらに、国会議員の五分の一以上及び有権者の十分の一の賛成があった場合に、法案を国民投票に付することができる(ただし1年以内に公布された法律を廃止することはできない)ともされ、国民の自発的意思によって国民投票を行い、国会を経由することなく法律を成立することが可能とされている。しかし、国民発議には少なくとも400万人の賛成が必要とされるなど、そのハードルは高く、まだ国民の発議による国民投票が実施されたことはない。また憲法89条は、憲法改正の際の国民投票を定めるが、フランスでは、五分の三以上の国会議員の賛成により国民投票を経ないで憲法改正をすることは可能であるとされ、国民投票による憲法改正は現行憲法ではほとんど実施されていない。 

(七)ルペンが狙う倒錯した憲法改正 

金塚は、ルペンの狙いを次のようにまとめている。

憲法11条による国民投票で、憲法を改正する内容を持つ法律を成立させることにより、憲法を改正するという、憲法が法律に優位するという法秩序を逆転させる手法だ。具体的には、現在のハードルをぐっと下げ、50万人の発議で国民投票を可能にすることを約束する一方、現在公権力の組織等に限られている国民投票の対象をすべての分野に拡大するとして、死刑やEU離脱の問題、国民優先の諸政策、イスラムのスカーフ着用問題なども国民投票の対象にすると主張している。
このような倒錯した憲法改正は不可能ではない。ド・ゴール大統領は1962年、大統領直接公選制を導入するために憲法11条に基づく国民投票を行い、その結果として憲法が改正されることとなった。これは憲法89条が予定してない違憲な改憲ではないかということが争われたが、憲法院は1962年11月6日の判決において、主権者国民が直接投票した法律について、違憲立法審査権は及ばないと判断をした。ルペンは、このド・ゴール大統領の手法を強調し、国民の声をより直接的に反映をさせる国民投票を一般化させるべきだと主張する。 

(八)今回の大統領選の最大の争点だったのは〈国民投票のあり方〉 

日本ではおよそ報道されなかったが、今回のフランスの大統領選で重要な論点となったのは、国民投票のあり方であった。なぜ、報道されなかったのか。岸田政権がめざす日本における憲法改正にとってマイナスだと判断されたからだろう。 

それはそれとして、ここで留意すべきは、ルペンのいう国民投票がどれだけの熟議を可能とするものなのか。また、外国人の問題や宗教の問題などを国民投票の争点とすることにより、国民の意見を聞くという形式を通じて、社会の分断を深める危険である。マクロン政権が試みた国民の意見を聞くという方法は、不十分ながらも、対象を限定しつつ、市民間の議論や熟議を促すものであった点が、社会的争点についてイエス・ノーという二者択一の判断を求めるルペンの国民投票のあり方と異なると言える。 

フランス行政法・EU法を専門とするトゥール大学のオーバン教授はこのような国民に対する態度の違いについて、「法治国家の中の国民か(マクロン)、法治国家に対抗する国民か(ルペン)」と表現する。代表民主制の中で直接民主制を導入するものとして日本でも評価される国民投票だが、それをどう使うかについて、フランスの大統領選挙は警鐘を鳴らすものでもある。 

(九)フランスの「極右」と極右的政治社会情況にある日本 

日本の報道においては、ルペン(国民連合)の主張については分析されることなく、フランスでの極右の躍進という部分のみが強調されていたが、その中心的なポイントは、自国民優先と国民投票という手法の一般化にある。このことは、欧州各国及びフランス特有の政治的危機ではなく、現在の日本の情況において、無視できない課題を突き付けている。 金塚は、日本の現状について次のように警告している。

・日本の外国人受け入れ について

フランスでは許されない、社会福祉政策における国籍条項は、日本の最高裁判決が覆されていない。なおルペン候補とともに極右の候補として大統領選に立候補したゼムールは、移民政策に関しては日本を見習うべきだとも主張していた。また、国民連合の前身である国民戦線の元幹部で当時党首だったルペンの父親のブレーンであったゴルニッシュ(実は、娘のルペンと党首の座を争った)は、日本法のスペシャリストであった。その影響がないとは言えない。
平成元年のいわゆる「塩見訴訟最高裁判決」は、「その限られた財源の下で福祉的給付を行うにあたり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許されるべきことと解される」としたが、ルペンの国民連合が主張する自国民優先原則と基軸を一にする。また、平成26年の最高裁判決も、生活保護の法的支給対象が日本国籍を持つ者のみを対象とすることを正当と認めている。つまり、国民連合の主張は、日本とは全く関係のない「極右」の主張ではなく、その中には日本ですでに実施されている政策すら存在する。移民政策や外国人政策に関しては、すでに日本で実施されているものについて、国民連合が求める憲法や裁判所の判断を覆すための国民投票すら、日本では不要の主張となっている。
国民連合のような「極右」の団体が、具体的に何を主張しているかを知らずに、そのまま「極右」と指摘することは、「極右」の主張が対岸の火事に過ぎず、私たちには関係ないという思考停止をもたらすリスクを抱える。極右の主張のコアとなる、ルペンが打ち出すような自国民優先の原則などをどのように考えるかは、すでに一定の分野においてフランスよりも自国民優先の原則が浸透している日本では、決して他人事ではない。重要なことは、フランスの大統領選のようなケースを通じて「極右」の主張の中身を検討し、それを外国の出来事としてではなく、自分たちの社会でも深く考えなければならない問題なのかどうかを、改めて問い直すことだろう。

つまり、日本の現行法体系のなかには、フランスでは許されないものがあるということ。フランスの極右が「日本を見習え」とフランス国民を扇動しているのである。 ルペンは大統領選で負けたとは言え、引退したわけではない。国民連合がこの先、パリに代表される都市とは異なる意識をもつ地方において、下院選挙や地方議会で議席数を増やす可能性も指摘される。(了)