2008年12月23日火曜日

『図説アーサー王百科』

●クリストファー・スナイダー〔著〕 ●原書房 ●2800円(+税)


アーサー王の物語については、日本人にとってわかりにくい。アーサー王の物語といっても、アーサーいう人物を主役にした一貫性のあるストーリーの展開があるわけではない。アーサー王が主役であることもある。また、ランスロット、マーリンといった、アーサー王とつながりのある者が独自の物語を展開させる場合もあるし、アーサーと関連して登場する場合もある。また、トリスタンとイズーの物語のように、まったく別世界で物語が展開する場合もある。

日本において、これに近いものといえば、『平家物語』が思い浮かぶ。2つの物語の類似点の第1は、先述したように形式にある。『平家物語』はいろいろな物語の集合体であって、それぞれが独立した展開をみせている。アーサー王の物語も同様に、いくつかの話の集合体である。

第2は、共に、宗教的世界観に規定されている点である。『平気物語』は仏教的世界観――諸行無常、因果応報等に基づいているし、アーサー王はケルトの原始宗教、後世のキリスト教の教えを取り込んでいる。

第3は、後世への影響という点。どちらも、後世の作家たちが物語を原型にして、それに新たな創造を加え、解釈と改変により、新しい物語を紡ぎだしている。もちろん、その影響は文学者ばかりではなく、大衆レベルに行き渡り、サブカルチャーの主役としても、生き続けている。

一方、そのスケールは比較にならない。『平家物語』はたかだか日本(語)に限られた範囲で普及したものにすぎないが、アーサー王の物語は、今日の英国(イングランド、ウェールズ、スコットランド)、アイルランド、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、東欧といったヨーロッパ全域から、さらに、オリエントにまで広がりをみせている。物語がもっているパワーにおいても、アーサー王のそれは群を抜いている。

アーサー王の物語の原型の成立は5~6世紀だと推定されているが、そのころのヨーロッパは、ゲルマン民族の大移動期に重なっている。ローマが支配したブリテン島は、ローマ帝国の衰退と共にゲルマン民族の侵入を受けるようになる。アーサー王とは、そのころ、ゲルマン系のアングロ・サクソン族等の侵略に抗した、ケルト系先住民(ブリトン人)の王の一人をモデルにしているという説がある。その王と臣下の武勲を讃えたものである。

ところが、アングロ・サクソン族がブリタニアを征服した後、アーサー王の物語は、ブリトン人の敵=侵入者であり、新たな支配者であるアングロ・サクソン族に受け入れられる。この点は、スケールこそ違うものの、敗者・平家の物語が、勝者・源氏の世の中で敷衍する現象に近い。 ゲルマン系の各民族の移動と連動して、アーサー王の物語は、ヨーロッパ各地に広まっていく。そして、成立期にはブリトン人の異教(ケルトの宗教)的要素が盛り込まれたアーサー王の物語の中に、キリスト教的要素が混入する。

キリスト教が物語の中に混入するプロセスは、注意を要するところなので、順を追って書いておこう。 まず、古代ブリタニアの先住者はケルト系のブリトン人で、ケルトの古代宗教を信仰していた。ところが、BC43年以降、ローマ帝国の支配が始まる。以来400年にわたり、ブリタニアはローマの属州の1つであり続けた。その間、伝説では紀元1世紀、アリマタヤのヨセフにより、キリスト教がこの地に布教されたといわれている。しかし、ブリトン人はキリスト教徒に改宗したものの、ケルト的異教の要素も色濃く残した。アーサー王の物語に中にキリスト教と異教的要素が混在しているのはそのためである。

紀元400年を境に、ゲルマン系諸族の侵入が激しくなる。侵略者としてやってきたゲルマン系アングロ・サクソン族は、異教徒であった。ブリトン人はだから、キリスト教徒として、異教徒であるアングロ・サクソン族と戦った。つまり、アーサーは、キリスト教徒の王として異教徒と戦った英雄という側面をもっていた。 ブリトン人とアングロ・サクソン族の戦いは、後者の勝利にて終結する。この間の紀元400~600年を本書では「アーサー王の時代」と読んでいる。一般には、英国史における暗黒時代と呼ばれる、混乱と破壊の時代であった。

ブリタニアの支配者となったアングロ・サクソン族は、当地においてキリスト教に改宗した。そして、キリスト教徒の王であるアーサーを自分たちの王として受け入れようと努めた。アングロ・サクソン族のブリタニアにおける正当性は、キリスト教とアーサー王(という伝説の英雄)により担保された。 アングロ・サクソン族に限らず、ヨーロッパ各地に侵入したゲルマン系民族は、カトリックに改宗した。そして彼らの影響によって、各地にちらばったアーサー王の物語の中にキリスト教の物語が加えられ、アーサー王の物語は変容・発展する。さらに、中世に入ると、ヨーロッパに成立した騎士道のエートスが加えられ、アーサー王の物語が整備・完成にされていく。

さて、本書を読むことにより、英国(イギリス)という概念の曖昧さが一枚一枚はがされ、素のブリタニアの顔が現れると同時に、アーサー王の物語の誕生から今日までの成長の姿が、確認できる。「アーサー王」こそが、西欧の姿そのものではないか。原始ヨーロッパ→ケルト→ローマ→ゲルマン、また、異教→キリスト教→近代思想という、それぞれの要素から構成された今日のヨーロッパを遡る道は、アーサー王の物語の成立から今日に至る文学的継承を遡る道に並行している。

本書は、アーサー王の物語の解説書として、わかりやすさにおいて、出色の書である。アーサー王に興味を覚えた者ならば、まず一番に読むことをおすすめする。 (2008/12/23)

2008年11月15日土曜日

『Italia イタリアの歓び 美の巡礼北部編』

●中村好文 芸術新潮編集部〔編〕 ●新潮社 ●1300円(+税)


観光旅行は事前の情報の収集のいかんによって、変わる場合がある。まっさらなまま当地に赴き、真直ぐな感動を覚える人もいるだろうが、かなりの感性の持ち主であって、筆者のような凡人は、なかなかそうはいかない。逆に、旅行後、観光情報雑誌を読み返していて、あれ、あそこに行ってなかった!なんて後悔することもある。

本書は、観光王国であるイタリア(北部)を紹介した、写真情報誌。イタリア北部は観光資源の豊富な地域で、高級ブランド好きな日本人が大好きなミラノや、世界でもトップクラスの観光地・ヴェネチア、フィレンチェなどが含まれている。本書はそういう超有名な観光地を一味変わった視点でとりあげる。たとえば、ヴェネチア紹介では、エッセイスト・須賀敦子の『地図のない道』の舞台となった場所を、彼女の文章の引用と、写真で紹介する。

さて、本書を評する視点からは外れるが、観光の“歓び”というのは、以下のようなところにあるような気がする――どんな都市の裏道にも、歴史とそこに関わった無数とも言える人間のドラマが隠されている。巨大な宗教施設や都市施設は当然のことながら、人の目を引くけれど、朽ちた建物がひしめく迷路のような細道には、暮らしの重みや生活の詩がある。美しさの基準はひとさまざまである。ヘルダーリンは、“人は詩的に住まう”と言った。

ある個人がたまたまそのとき持ち合わせた気分や恣意的空間解釈によって、無名の地が意味のある場所にとって変わる。人はそのような輝きの認められる場所に出会うため、旅行を続ける。そういうふうに考えるならば、本書に取り上げられた場所が新たな観光地である必然性はない。観光する主体が、その主体ごとに意味ある場所に出会える可能性があるからだ。つまり、旅の発見の可能性を一冊の写真集にまとめるならば、本書のような体裁におさまることもある、ということにすぎないのだと思う。もちろん、そこから重要な示唆を受けることもあるだろ。
(2008/11/15)

2008年11月11日火曜日

『地図のない道』 須賀敦子全集第3巻

●須賀敦子〔著〕 ●河出文庫 ●1100円(+税)


本書は、著者・須賀敦子(1929-1998)がヴェネチアについて書いたエッセイ。本書を読んだ動機はこの秋、筆者がヴェネチアに観光旅行したことによる。

著者・須賀敦子は、イタリア留学中にイタリア人男性と結婚するも、夫君に先立たれ、単身イタリア滞在を続け、翻訳・イタリア文学研究等に従事した。その傍ら、多数のイタリアに関するエッセイを日本で発表した。イタリア研究者であるから、ヴェネチアについても、一介の観光旅行者とは異なる視点がばらまかれている。

たとえば、本書の中の『ザッテレの川岸で』において、そのことは顕著だ。このエッセイの大筋は、著者・須賀敦子がヴェネチアの街中の水路に、「Rio Degli Incurabili(治療のあてのない)」というサインを発見したところから始まる。もちろん、イタリア語のわからない筆者のような観光客には、そんなサインが目に入ろうはずもない。著者・須賀敦子はそのサインから、ヴェネチアの歴史の中に隠された多数の娼婦の存在を発見していくことになるのだが、ヴェネチアの娼婦を巡る著者・須賀敦子の“知的冒険”については、本書をお読みいただくほかない。ただし、この“知的冒険”を、語学に堪能なイタリア通の知識のひけらかしと感じるか、それとも、知的冒険として著者(須賀敦子)に同伴するかは、読む側の勝手であって、どちらかが正しいとも言えない。

前者に立つならば、ヴェネチアの中世以降の繁栄の陰に、多数の娼婦が存在したことは常識だ、というだろう。「Rio Degli Incurabili」という、日本人にとって不気味なイタリア語が掲げられた病院跡を発見した視線の鋭さは認められても、「だからどうなんだ」という意見にも蓋然性がある。

著者・須賀敦子のヴェネチアにおける「発見」を、日本(東京・浅草)におけるイタリア人に置換して考えてみよう。つまり、こういうことだ――東京の外国人観光地のメッカの1つである浅草を訪れた日本語に堪能なイタリア人が、浅草の外れの千束で吉原大門という地名を「発見」したとする。この辺りの地名は千束なのに、なぜここが「吉原」なのかと疑問をもち、いろいろ調べた結果、20世紀まで、ここは「吉原」という地名で、巨大な遊郭が存在し、江戸時代には「遊女」「おいらん」と呼ばれた娼婦が多数存在し、悲惨な生活をしていたことを突き止める。このことは、日本語が堪能なイタリア人の“知的冒険”であることは間違いないのだが、日本人の大多数にとっては、千束が吉原であり、遊郭地帯であったことは周知の事実なのである。吉原は単純すぎるというのならば、「谷根千」ブームに沸き外国人観光客が多数訪れるようになった、文京区・根津に遊郭があったことを、なんかのきっかけで外国人が発見する、という、“知的冒険”に組み替えてもいい。

『ザッテレの川岸で』というエッセイに限らず、著者・須賀敦子の“発見”は、著者自身のイタリア研究に係る奮闘・奮戦記であることが否めない。「だから、須賀敦子のエッセイは取るに足らない」と評するつもりはない。異文化研究には困難が付きまとうものだ。ヴェネチア人にとっての常識が、日本人にとってはまるで不可解であることが少ないはずがない。困難な異文化研究のプロセスについて、研究者の謙虚な挑戦の結果として読むものに伝えられるか、それとも、傲慢な知識のひけらかしとして伝えてしまうかは、研究者の人格に起因する文体に現れる。筆者は、須賀敦子の文体がどちらに属するかの判定を控えたい。ただ、著者・須賀敦子のエッセイを読んでイタリア観光に臨めば、その観光はより深いものとなることは間違いない。観光情報として、本書の貴重さが損なわれるものではないことを確信している。 (2008/11/11)

2008年8月5日火曜日

『未来派左翼』(上下)

●アントニオ・ネグリ〔著〕   ●NHKブック   ●各920円+税


本書は、ネグリがインタビュアー(ラフ・バルボラン・シェルジ)の質問に答える形式となっている。質問と回答は、これまでのネグリの思想的中核をなすキーワード――帝国、生政治、マルチチュード、共(common)といった用語を基に進んでいくものの、世界情勢、イタリア左翼についてといった情況にも及ぶ。イタリアの左翼に関する言及は日本人に馴染みにくい部分もあるが、日本と酷似したとも読めるため、読者は経済のグローバル化の進捗と左翼の政治的関係を再認識することになろう。ネグリの回答はわかりやすく読みやすい。

まず、ネグリの既成左翼批判の核心部分を引用しておこう。
 19世紀末から20世紀初頭にかけての〈技術的構成〉は、自分の仕事の手順だけでなく工場全体の生産サイクルも完璧に理解している専門労働者というものでした。そしてこれに対応する〈政治的構成〉は評議会制であり、また、その後のソヴィエト制でした。つまり労働者たちは生産サイクルの指揮管理を自分たちで引き受けることを要求したわけです。1930年代に大きな危機が起こります。その危機をきっかけとして新たに現れることになった〈技術的構成〉が、大衆労働者です。
 大衆労働者とは、労働のティラー主義的な組織化にしたがわされ、工場内で疎外され、複雑化した生産サイクルの全容をもはや把握しきれなくなった労働者のことです。これに対応する〈政治的構成〉は、賃金と福祉体制の管理運営をめぐる社会闘争でした。福祉体制の管理運営が、所得を社会的に再配分するための鍵と  して求められたのです。しかしまたそれは、生産的な〈共〉が取り戻される最初の契機ともなりました。
 そして今日、われわれは、さらに別の労働の〈技術的構成〉を前にしている。つまり、非物質的なサービス労働、協働にもとづく認知労働、自己価値形成を行う自律的労働といったものです。そしてこれに対応する〈政治的構成〉はとえば、こうした労働を政治的に代表するものは不在であり、左翼はこのゲームの埒外に身を置おいているわけです。(上巻P203~204)
ネグリがポストモダンの変革主体として想定しているのは、引用部分の第3節にあるところの、非物質的なサービス労働、協働にもとづく認知労働、自己価値形成を行う自律的労働に従事する者である。欧米のみならず、日本の既成左翼も同様に、彼らの組織化に失敗している。日本を含めた欧米先進国の労働は、フォーディズム型労働から、ポストフォーディズム型労働に、そして、工場の生産ラインに従事する“プロレタリアート”から、ネグリのいう“マルチチュ-ド”へと変容しているのだろう。

がしかし、旧来型に分類される大衆労働は今日、第1に、第三世界の労働者に委ねられている、と規定すべきではないか。中国等のアジア・アフリカ・中南米・東欧等の近代化の途上にある国々は世界の工場と呼ばれ、これらの国々の労働者は、先進国の資本の下(に設置された工場や流通の現場)、もしくは、新しく自国に育った資本の下で働いている。

そればかりではない。彼らのうちの多くが移民もしくは不法就労というかたちで国境を越え、先進国において、フォーディズム型労働に従事している。フォーディズム型労働は、国際的分業にさらされているのではないか。

第2に、新自由主義経済下の先進国においては、労働者は正規労働者と非正規労働者という二極の身分に制度化され、非正規労働者は、前出の移民労働者とともに、先進国における旧来型労働に従事している。非正規労働者の多くは、派遣労働者と呼ばれる。日本、米国のように労働者の流動性を認める体制下では、彼らの生涯総所得額、雇用の安定性等において、正規労働者に比べて劣っているのが実態である。ネグリが指摘するように、資本家が工場という内部に労働者を同一の要件の下で管理する時代ではないことは確かである。労働者像は多様化している。20世紀中葉以降発生した“大衆労働者”が、19世紀末の“工場労働者”に培われた階級意識で団結することは難しく、さらに、非物資的労働――この際、ひらきなおって「オフィスワーカー」及び「サービス労働者」と規定すれば――に従事する者が、“大衆労働者”と連帯することも難しい。

そのうえで、いま世界規模で起こっている労働者の変容は、①管理型・情報型・非物質的労働に従事する労働者の輩出、②国際分業に基づく、第三世界労働者のフォーディズム型労働への強制、③先進国内における非正規労働者の大量発生と固定化、および、非正規労働者の大衆労働への強制、として現れているのではないか。②、③を総称して、「プレカリアート」(不安定労働者)と呼ぶのだが、ネグリは、①~③をマルチチュードとして一括し、多様化した労働者が連帯できる環を見出そうとする。その意図は間違っていないものの、①と②③の連帯の環がいささか明瞭でない。シアトルやジェノバの反乱では、3者が共闘したとネグりは言うが、オフィスワーカーとパリ郊外(バンリュー)の移民がいかにして、連帯可能なのか、わかりにくい。日本の現実に即して言えば、①-②-③のそれぞれが切断され、階層として固定化され、たとえば、①は資本家(起業家)との差異を縮めている一方で、②③の不安定性からくる生存の危機が深刻な社会問題となっている。
(2008/08/05)

2008年7月19日土曜日

『十字軍という聖戦』

●八塚春児〔著〕 ●NHKブックス ●970円+税


中世に行われた十字軍の遠征に関するこれまでの定説から、われわれはいくばくかの固定的イメージを抱いていて、それを疑うことを知らなかった。本書はその固定的イメージの解体を試み、十字軍の実態に近づくことを試行した書である。十字軍研究の最近の成果を踏まえ、通説を批判するスタンスは強烈で、かなり刺激的な内容となっている。

本書によれば、十字軍遠征の目的は、カトリック教会とそれ以外の勢力圏との関係に規定された事業(プロジェクト)であるという。

その関係とは、第1は〔西欧〕⇔〔ビザンツ〕、第2が、〔キリスト教圏(西欧及びビザンツ)〕⇔イスラム圏。第3が、西欧内部における〔カトリック〕と〔異端〕、第4が、西欧内部における教皇権(聖権)と諸侯権(俗権)となる。以上が、本書の基本コンセプトである。

歴史上の出来事を説明することは難しい。今日の価値観に基づいて説明できるものもあるし、そうでないものもある。当事者の修正もあるし、後代の修正もある。十字軍遠征という事業は、であるから、主体をカトリック教会のみに一元化することができない。カトリック教会と諸侯(世俗勢力)の共同事業であり、複数の諸侯の共同性ももちろんであり、世俗勢力においては、それぞれが抱えた事情により、十字軍という共同事業に加わったり加わらなかったりした。十字軍遠征の目的も参加者も、それぞれ異なっている。表面上、中心にカトリック教会があり、贖有(免罪)が事業推進の力となったことだけが変わらない。

十字軍の時代の世界――西欧、地中海沿岸、小アジアに至る地域――の情勢は、カトリック教会(西欧)とビザンツ教会(東方)とが並立した時代だった。先述のとおり、このことは重要で、十字軍が開始された主因の1つといえる。2つの宗教勢力は、自陣の勢力拡大を目指すことにより生じる対立の力学と、同じキリスト教であるという結束の力学を、互いに内包していた。

であるから、第1回十字軍のように、トルコ=イスラム勢力の台頭というキリスト教世界の外部に対して両者(カトリックとビザンツ)は共同、共存の意識を醸成し、聖地(エルサレム)奪還を主題化し、ビザンツ側から西欧に対して、十字軍派遣の要請になり、両勢力は共同してイスラム側と戦った。

また、一方、第4回十字軍では、十字軍(西欧)はイスラム勢力掃討を中止し、コンスタンティノープルを占領するという、「転換」が図られている。十字軍が敵と味方を180度転換させた。この「転換」の理由は本書に詳しい。また、キリスト教内部においては、アルビジョア十字軍に代表されるように、同じキリスト教でありながら、十字軍が異端(カタリ派)討伐に向かった。

宗教上の対立――キリスト教とイスラム教、ビザンツに対する親和と反発、キリスト教内部の異端(カタリ派)と正統(カトリック)の争闘――という側面で十字軍事業が説明されそうに見えるのだが、それは一元的解釈である。たとえば、第1回十字軍に参加した諸侯には、もはや西欧内に領地を相続できない第二子以下の場合が認められ、彼らはエルサレム占領後、その周辺に十字軍国家を建国している。また、アルビジョア十字軍の場合、北フランス諸侯勢力による、南フランス諸侯勢力の掃討という、フランス統一の軍事的目的が見出される。

十字軍はこのように、西欧内部の問題解決手段として「発明」された、政治的・軍事的行動であり、プロジェクトである。だから、中世初期からその終わりに至るまで、十字軍というプロジェクトが有効である限り、目的も構成者も異なって、何度も繰り返された。

本書の主題とは離れるが、本書は宗教(キリスト教)の教義が時代とともに変容することを指摘している。この指摘は極めて重要なものなので、そのポイントを引用しておこう。

原始キリスト教(聖書)の成立期、キリスト教は相手と戦うこと、復讐すること、暴力を行使することを禁止した。汝殺すなかれと。ところが、キリスト教が国家(ローマ帝国)に取り込まれたとき、国家宗教(カトリック教会)は、原始教義から乖離した。宗教が国家と結びついたとき、国家の敵は、宗教の敵として規定される。宗教は国家目的――軍事行動を補完する役割を担う。

だから、今日において、宗教に基づく政治勢力の存在は危険このうえないものといえる。宗教が平和や人道を説いていたとしても、宗教政党として国家運営に携わったとき、宗教的教義は機能しなくなる。いまから1000年前に起こったキリスト教の変質が、宗教と国家の関係をわれわれに説明してくれている。十字軍は、そのよき事例の1つである。西欧というキリスト教圏においては、暴力を否定する宗教を国民が信じていたにもかかわらず、聖戦と冠された暴力=殺戮が正当化され、実際に何度も行われたのだ。(2008/07/19)

2008年7月9日水曜日

『蒼ざめた馬』

●ロープシン〔著〕  ●岩波現代文庫  ●1000円(+税)


帝政末期ロシアの革命思想

著者(ロープシン)は、本名ボリス・ヴィクトロヴィッチ・サヴィンコフ(1879~1925)といい、20世紀初頭、ロシアのエスエル(社会革命党)のテロ専門組織・エスエル戦闘団の指導者の一人でありながら、ロープシンというペンネームで小説を書いた。彼はテロリスト集団の指導者サヴィンコフという顔と、文学者ロープシンという、2つの顔をもっていた。

まず、本書が書かれた当時のロシアについて簡単に説明しておこう。当該説明は、『サヴィンコフ=ロープシン論』(川崎浹〔著〕)を参考にした。ちなみに、川崎浹は『蒼ざめた馬』の訳者で、『サヴィンコフ=ロープシン論』は、岩波現代文庫版『蒼ざめた馬』に収録されている。

「ロシア革命」(1917)は、レーニン率いるボルシェビキ(多数派の意/ロシア社会民主労働党左派)によって行われたことは知られているが、ボルシェビキが革命の主導権を握ったのは、革命成功直前からであって、帝政ロシアの専制政治(ツアーリズム)に対する闘争の初期段階は、共産党以外の政治勢力によって主導されていた。

反ツアーリズム運動の魁となったのは、1870年代から80年代にかけて行われたナロードニキ運動だ。この運動は、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」というスローガンをかかげ、貴族階級に属する知識人青年によって担われた。彼らは、自ら農村に入りこんで、政治意識の遅れた農民たちを啓蒙しようと試みた。貧困で苦しむ農民の意識を変えなければ、ロシアは変わらないと考えたのだが、彼らの行動や考え方(アナーキズム、テロリズム)は農民にはなかなか理解されなかった。

19世紀末のナロードニキ運動の失敗から停滞を余儀なくされた反ツアーリズム運動であったが、1905年、ロシア革命の序章とも呼ぶべき民衆の反乱「血の日曜日事件」が勃発し、ロシアの反政府運動は再び高揚期に入った。

サヴィンコフ=ロープシンが属したエスエル(社会革命党)は、ナロードニキ運動の影響のもとに結党された政党で、運動の母体をロシアの農村に求めた。党の指導者層も同様に、貴族階級の若い知識人だった。エスエルは、1905~1906年にかけて第1回党大会を開催し、その中でサヴィンコフ=ロープシンは、テロを担当する組織(戦闘団)を分党することを主張し、アゼフとともに戦闘団再建に着手した。戦闘団は、内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェ、モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺事件後、セバストポリで逮捕された。サヴィンコフ=ロープシンは裁判直前に逃亡に成功、欠席裁判のまま、死刑判決を受けた。

1908年、アゼフがスパイであることが発覚。サヴィンコフ=ロープシンは戦闘団の指導者となり、首相として革命派に対する徹底的な弾圧で知られたストルイピンの暗殺やテロ遊撃隊の結成を計画するが、これは成功しなかった。エスエル第2回党大会で戦闘団代表を辞任し、その後、パリに移った。以後もニコライ2世の暗殺計画を準備するが未遂に終わった。

1917年、レーニンによるロシア革命が成功。ソヴィエト政権の成立とともに、エスエルは、メンシェビキとともにボルシェビキとの権力闘争に敗れ、革命の主体から遠ざけられた。レーニンの死、スターリンの台頭とともに、サヴィンコフ=ロープシンは革命政府と対立を深め、白軍(反革命軍)に従軍し、赤軍(ソヴィエト政府軍)と戦った。白軍は、ロシア革命の成功を脅威と感じる国外の援助を受けながらも軍事的に敗北。サヴィンコフ=ロープシンもソヴィエト側に逮捕され、投獄後、自殺したとされているが、その死についてはいまなお、謎が多いという。

サヴィンコフ=ロープシンの活動歴から、彼の政治信条を大雑把に評せば、軍事至上主義=テロリストであって、政治的指導者ではなかった。レーニンが現実の統治手法として、ソヴィエト(労働者・兵士・農民を連合した協議会)を用い、さらに。国家統治の最強組織である国軍を革命側に引き寄せる構想をもったことに反し、サヴィンコフ=ロープシンは過激な運動=テロ戦術の実行者の位置にとどまった。専制政治の暴力に対して、人民の暴力(テロ)の正当性を政治信条としただけのように思える。

ソヴィエト革命後、サヴィンコフ=ロープシンは、先述のとおり、彼の思想信条である、ロシア農本主義に根ざした白軍に従軍したけれど、白軍の実体は、反革命を援助する国外勢力の資金援助の下に結集した君主主義者、民族主義者、全体主義者、反共的自由主義者らの野合集団であった。サヴィンコフ=ロープシンの最後の居場所として、白軍が最適だったとは思えない。

本書に触発されてロシア革命前後のロシア近代史を振り返ったとき、19世紀末の帝政ロシアにあって、アナーキズム(無政府主義)とテロリズムが革命運動の主な潮流となった理由が理解しにくい。前出のとおり、エスエルが展開した冒険主義的政治運動を担ったのは、貴族階級の若い知識人だった。彼らが、ツアーの圧政に苦しめられた人民、とりわけ、塗炭の苦しみにあった農民に対し、深い同情を示したということはもちろんだが、それ以上に、世紀末思想から貴族階級に蔓延した厭世観、ロシア貴族特有の騎士道精神、ロシア的土地主義から切り離された貴族階級知識層のアイデンティティー喪失、キリスト教的自己犠牲の精神・・・等が、渾然一体となって、ロシアの若き知識人の間に独特の倫理観が育まれ、ロシア流テロリズム思想が誕生したのではないかと考えられる。

ジョージとワ―ニャ――対比的テロリスト群像

本書の構図は、テロリズムを構築する2つの柱――自己滅尽の基に醸成された虚無からのテロリズム志向と、倫理的・キリスト教的人類愛からのテロリズム志向の対立に求められる。本書では、熱心なキリスト教徒であるテロリスト・ワーニャが後者を、そして、主人公(ジョージ)が前者を代表する。もちろん、ワーニャもジョージも、サヴィンコフ=ロープシンの分身であり、ジョージはワーニャへの思慕を断ち切れない。後者は要人暗殺計画の実行中に人妻との不倫に走り、その夫を決闘の末、殺害してしまう。この挿話は、後者のテロリズムの目的が何であるのか、革命のためのテロなのかどうかを疑わせるに十分な示唆になっている。死を決意し、自らを「革命」の捨石と自覚してテロを敢行する後者の生き様は耽美的であり、闘争の中、不倫を演ずる姿は理屈抜きに格好がよい。若い知識人がいってみれば、ダンディズムによって、テロに走ったという想像も成り立つ。

しかし、実際の政治過程にあっては、エスエル戦闘団内部が「美的」であったとは言えない。エスエルの指導者がスパイであったことが発覚したことは一度や二度ではなかったし、密告、裏切り、内部闘争もあったと思われる。エスエル自体が秘密警察に操られた組織だったという説もある。テロが帝政内部の権力闘争に利用されたというわけだ。サヴィンコフ=ロープシンがスパイだったという証拠は史料的にあり得ないが、サヴィンコフ=ロープシンが逮捕されずに逃げ切れている点が素朴な疑問として残る。テロリストが変装や偽名を使用しているとはいえ、帝政ロシアの警察組織が一度追い詰め、取り逃がした爆弾所持のテロリストに、直後のテロの実行を許している点が不自然このうえない。

サヴィンコフ=ロープシンはスパイではなかったが、彼のテロは、当局によって事前に察知されていた可能性を否定できない。テロの実行が官許の下だったとしたら、サヴィンコフ=ロープシンの政治家としての評価は下がるかもしれないが、彼が残した文学の価値が損なわれるわけではない。 (2008/07/09)

2008年5月25日日曜日

『新左翼とは何だったのか』

●荒 岱介[著] ●幻冬舎新書 ●740円+税


このような本が書かれ、売られ、世に出たことを悲しく思うし、また、残念でならない。その理由から記す。

(1)新左翼運動とは多数の死者を出した、日本政治史おける特異な運動

まず、確認しなければならないのは、およそ半世紀わたる新左翼運動というものが、日本の近代政治運動史上、他に例を見ないほどの、夥しい死を伴った政治過程であったことだ。著者(荒岱介)が新左翼運動における死者の存在を深く自覚しているのならば、本書のような、軽く、表面的かつ安易な新左翼論が書けるはずがない。「売らんかな」の編集者にそそのかされたとはいえ、かつてブントの機関誌『理論戦線』に多数の「革命論文」を執筆した著者(荒岱介)は、本書を世に出したことにより、その晩節を汚した。

出版社にしてみれば、「新左翼」という本題でこの価格ならば、団塊世代が買うだろうというマーケティングのもと出版したのだろうが、本書のような記述はジャーナリストには許されても、運動家だった著者(荒岱介)には許されない。

本書によると、新左翼運動の内ゲバで命を落とした活動家の数は113人だという。さらに、自殺者、社会復帰不可能な重傷者等を含めれば、犠牲者の数はもっと多い。内ゲバによる多数の死者に、リンチ殺人、国家権力との実力闘争による犠牲者を加えれば、新左翼運動というのは、日本の政治史において、極めて特異な位置を占めることに気づかなければ嘘だ。本書に限らず、新左翼・全共闘関連で出版される書物の多くが、そのことに無自覚である理由がわからない。

(2)若者が新左翼運動に参加した理由が不明確

次に、なぜ多くの若者が新左翼運動に参加したのか、という解明が本書では不十分すぎることだ。新左翼運動の最高揚期である1960年代後半から1970年の初めまで、全共闘を中心に、東京で開催された数回の政治集会には常に5万人近くが結集し、封鎖された学園(大学・高校)は112校にも達したという。

本書では、新左翼運動高揚の理由を、60年安保闘争で既成左翼政党(社共)の限界が露呈したこと、ベトナム戦争の激化、沖縄問題、日米安保条約、公害問題・・・といった政治課題が山積したことと説明しているが、本当なのだろうか。

著者(荒岱介)の分析は、いってみれば、“風が左に吹いたから、若者が左にいった”という説明に過ぎない。ベトナム戦争の悲惨さをテレビ映像で見て反戦に目覚めた若者も多かろう。反戦が良心に基づくものである以上、良心が新左翼運動の出発点だった、という説明は有効だ。

だが、当時の新左翼の指導者は、良心的反戦運動を反革命的と規定していたはずだ。つまり、かつて著者(荒岱介)らが提唱したレーニン主義に基づく新左翼的運動理論からすれば、反戦で目覚めた大衆を世界革命に領導することが前衛党の役割だったはずだ。

だから、“新左翼運動とは何だったのか”という説明については、左に吹いた風を、新左翼前衛党が利用して一時期高揚を見たものの、新左翼各派の前衛党指導者の理論と運動方針が誤ったため多くの犠牲者を出して消滅(自滅)した、ラディカルな政治現象だった――と説明すべきなのであり、それ以外の物言いはまったく不要だ。

余談だけれど、「良心」というものについても懐疑が必要だ。「良心」は左にも右にも振れる。新左翼運動という不幸な政治過程を真に反省する気があるのならば、世の中に吹く風に靡けば、その先に不幸が招来することが大いにあり得る、という結論が導き出されるはずだ。新左翼運動が反省すべきは、世の中の風に靡かずに将来を見通すにはどうすればいいのかを自らといまの若者に問うことだ。これから吹く風は、左へと向かうとは限らない。たとえば、良心に基づき、右に向かわないためにはどうしたらいいのか。その回答の1つが、吉本隆明が指摘した自立であり、北川透が提唱した生活者の思想だった。この2つの提起がいまなお有効かどうかは議論の余地があるものの、当時の新左翼運動批判の代表例として、いまの若い読者にそれらの存在くらいは知ってほしい。

(3)新左翼政党とその「理論家」の罪と罰

著者(荒岱介)のようなかつての新左翼の「理論家」にいま求められるのは、新左翼運動がそのとき吹いた風に靡き、若者に誤った未来を提示したこと、及び、新左翼各派の政党指導者がそのとき提唱した(革命的)世界観、(革命的)運動論、(革命的)人間論、(革命的)未来論のすべてがでたらめだったこと――について懺悔することではなかろうか。

ところが、著者(荒岱介)の書きぶりからは、三派系全学連の運動(10.8羽田、佐世保、王子、第一次三里塚、10.21国際反戦デー)から、全共闘運動までの新左翼運動は正しかったが、それ以降の日本赤軍、爆弾闘争、連合赤軍、革共同の内ゲバは正しくないかのようなニュアンスが伝わる。がしかし、このような書きぶりは、自己正当化にすぎない。三派系全学連の運動と、連合赤軍事件の根は同じものだ。その根とは、新左翼各派の前衛党が内包した病理であり、先述したとおり、新左翼各派の前衛党が提唱した、(革命的)世界観、(革命的)運動論、(革命的)人間論、(革命的)未来論の誤謬に他ならない。

万が一にも、かつての新左翼運動家及びそのシンパが、本書を読んで当時を懐かしみ、本書に書かれた諸々の政治運動に自らが参加したことを誇らしく感じたとしたら、それこそが、本書が世に出たことの大きな罪の一つといわなければならない。新左翼運動は、全共闘運動を含めて、そのすべてが反省の対象となる。新左翼運動が獲得した地平は何もない。新左翼運動の罪を連合赤軍、革共同の内ゲバ、爆弾闘争・・・に転嫁するのではなく、新左翼全体がその生成から発展過程において、共通に内在していたところの誤りを解明しなければ、本題の「新左翼とは何だったのか」という問いに答えたことにならない。

新左翼の当事者が、新左翼に関する、「売れる本」を書いてはいけない。(2008/05/25)

2008年4月15日火曜日

『ゾロアスター教』

●青木 健〔著〕 ●講談社叢書メチエ ●1500円(+税)


 

聖火とは何か

世界中で、北京五輪聖火リレーに対する抗議行動が続いている。その聖火は、プロメテウスが火を盗んで人間に伝えたギリシア神話の話と関連付けられるのが常である。火は人間の知性の喩えでもある。ギリシア神話の中のプロメテウスの話は以下のとおり。

≪プロメテウスはゼウスの目を盗んで火を盗み人間に伝えた。それを知ったゼウスは怒り、プロメテウスを生きたまま野に曝し、野鳥に肝臓を食わせる罰を与えた。プロメテウスは不死であったから、永遠に野鳥に内臓を食われ続ける責め苦を負った≫

筆者は、聖火とプロメテウスが関連して語られるのは後代のことだ、と考える。ギリシア人は、古代アーリア系民族の一派で、彼らの原始宗教に聖なる火を崇める信仰があり、オリンピックの聖火の起源もそこに求められるものと思っている。余談だが、プロメテウスが内臓を野鳥に食われる罰をゼウスから負ったというのは、古代のアーリア人に、死者を曝葬する風習があったことの伝承だとも考えている。

さて、本書のテーマ・ゾロアスター教は、現在のイランに住んだアーリア人の宗教で、日本語で拝火教と呼ばれるとおり、聖なる火を崇拝したことで知られている。「アーリア人」という民族は、世界史上において、ロマンに満ち満ちたもの――少なくとも筆者には、世界史上における最大の関心事の1つ――と言って過言でなく、長年興味を抱き続けてきた。

印欧語族とアーリア人の定義

いまから8千~4千年ほど前、ユーラシア大陸の中央部を原郷とする、ある民族(仮りに「A族」とする。)が理由はわからないが移動を開始した。「A族」の移動先は、(一)イラン高原北部、黒海付近、(二)インド亜大陸、(三)ヨーロッパ-であった。そして、移動先の先住民と融合・定住した。もちろん、原郷にとどまった者もいただろう。彼らは元来が遊牧騎馬民族で、農耕民のような定住民ではなかった。

「A族」が移動後定住した先が特定できる理由は、その言語である。(一)で成立し現在に至るペルシア語、その周辺のアルメニア語、クルド語、そして、(二)で成立したヒンドゥー語等、(三)のヨーロッパ諸言語――ケルト系諸言語、ギリシア語、ラテン語系で後世に完成したイタリア語、仏語…、ゲルマン系の独語、英語・・・には共通性が認められ、各言語は「A族」の言語と融合して形成されたものと推定されている。

「A族」の言語及びそれと融合してできた各言語は、今日の言語学において、印欧語(インド=ヨーロッパ語)」と、また、古代「A族」で話されていた言語を印欧祖語と呼んでいる。

「A族」のうち(一)と(二)が古代ギリシアの歴史家から、「アーリア人」と呼ばれた。「アーリア」とは、「高貴な」という意味で、「A族」は自らを「高貴な人々」と呼んでいたものと思われる。「A族」は、広義の意味におけるアーリア人である。

言語学上、広義の「アーリア人」が移動し定住した各地の先住民の言語の大枠は消滅し、広義の「アーリア人」の言語の大枠が残存している。ということは、広義のアーリア人のほうが先住民族より政治権力上優位にあった、と推定する学者がいる。社会構成上、広義のアーリア人が先住民を支配したと主張しているわけだ。そこから、アーリア人をめぐる誤解と神話が後世に発生した。

人類は、広義のアーリア人の概念を政治的に利用した不幸な歴史を体験している。20世紀、ナチスドイツは、「第三帝国」を担うドイツ人(ゲルマン人)をアーリア人の直系と任じ、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)等を劣等民族として抹殺を図った。ナチスは、ヨーロッパ先住民と融合したアーリア人を征服者=優性民族と考えた。アーリア人という民族名を積極的に使用したナチスは、アーリア人を金髪碧眼の白人種と定義したが、まったく根拠はない。今日、アーリア人を人種的に定義することはできない。

カースト制度が残る21世紀のインドにも、アーリア人=征服者=優性民族の思想が残っている。カースト上位のインド人はアーリア人をインド先住民(=ドラビダ人等)を征服した優性民族と位置付け、色の白いインド人をアーリア人の直系とし、彼らがカースト上位を独占し、低位カースト層を差別するイデオロギーとして利用している。

いまのところ確実なのは、▽ヨーロッパ、インド亜大陸、イラン付近の諸言語の話し手の共通の祖先として、広義のアーリア人と呼ばれる民族が存在したこと、▽広義のアーリア人の祖語が先住民の祖語より優位に保存されていること――だけだと思われる。

かくのごとく、アーリア人という民族概念は、手垢どころか、人類の血にまみれた悲惨な過去を背負ったものとなっているのだが、歴史探求としては、古代アーリア人に係る調査研究は重要であり、本書のように彼らの宗教に関する研究は、ユダヤ=キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教(仏教)の基層として、それらに多大な影響を与えた原始宗教を知るという意味で、極めて重要である。

本書は、先述したようなアーリア人概念の混乱を避けるため、広義のアーリア人を扱わない。著者(青木 健)は、西方(ヨーロッパ)へ移動し独自の発展をとげたアーリア人及びアーリア系の人々、すなわち、現在のヨーロッパ人には関与せず、東方(イラン高原及びその周辺並びにインド亜大陸)に移動後定住した、狭義のアーリア人を扱う。言ってみれば、本書は、狭義のアーリア人の宗教=ゾロアスター教の調査研究である。

ちなみに、現在の「イラン」という国名は、「アーリア」を意味する「エーラーン」の転訛である。後出するが、「エーラーン・シャフル」といえば、アーリア人が住まうところという意味になる。

ゾロアスター教とは何か

管見の限りだが、本書のように平易かつ簡潔に整理されたゾロアスター教の研究書を他に知らない。ゾロアスター教成立を境として、狭義のアーリア人の宗教を知ることは、実は、広義のアーリア人の基層の思想・宗教のみならず、民俗・生活を知るという意義がある。なぜならば、本書が詳述するように、ゾロアスター教は、当時、イラン高原周辺の原始宗教を取り込んで成立したからである。古代アーリア人の宗教を探るということは、ヨーロッパ史のみならず、世界史を考えるうえで、最も重要なアプローチの1つである。

ゾロアスター教とは、どのような宗教なのだろうか。開祖はザラスシュトラ・スピターマ。成立は紀元前12~9世紀、中央アジア~イラン高原東部のことである。ザラスシュトラ・スピターマの教えを大雑把に言えば、「善悪二元論」。善の極には、創造主にして叡智の神・アフラー・マズダー(光)を頂点にして、その下に6大天使を侍らせた。一方、悪の極には、大悪魔・アンラ・マンユ(闇)を頂点にして、6大悪魔を対置した。そして、善と悪が対立・戦闘を繰り広げ、信仰によって善が勝利するという体系を作り上げた。その詳細は後述する。

しかし、ザラスシュトラ・スピターマの単純な二元論では、それまでにあったアーリア人の諸々の神が切り捨てられてしまう。これでは、民衆の支持を得られない。そこで、ザラスシュトラ・スピターマの死後、後継者たちがアーリア人の神々を教祖の二元論と調和させつつ取り入れて体系化したのがゾロアスター教だという。

アーリア人の原始宗教は多神教で、火、風、大地…といった自然神崇拝が主流であったし、古代アーリア人に限らず、原始宗教では日常規範と宗教規範は分離していないため、古代アーリア人の間では、曝葬、最近親婚、諸々の呪術的善行の励行が宗教的規範として行われていた。ザラスシュトラ・スピターマの後継者たちは、こうした民俗的日常規範をゾロアスター教の教義の一環に取り入れた。さらに、世界の終末思想、救世主思想、最後の審判なども、古代アーリア人の原始宗教の影響であり、ザラスシュトラ・スピターマの教えにはなかった。

白魔術儀式

そればかりではない。ゾロアスター教が今日人々を魅了する所以は、それがオカルト的な魔術を伝えるからだろう。それは、以下のとおり、ゾロアスター教呪術儀礼の4分類と呼ばれる。

一.ハオマ草の受益を絞って、聖火の前でアフラ・マズダーに奉げるヤスナ祭式
二.悪の勢力から身を守る一連の浄化儀式
三.古代アーリア人の間で一般的だった人生上の通過儀礼
四.古代アーリア人の間で一般的だった年中行事
これら儀式の詳細は本書を参照していただきたい。

国教化と拝火神殿の成立-サーサーン朝ペルシア時代

サーサーン朝ペルシア(224~651)時代、ゾロアスター教は同朝の国教となり最盛期を迎えた。この時代に経典の整備、教団の組織化等が進んだが、なかで重要なのが、欽定『アベスターグ』の成立だろう。これはゾロアスター教の宇宙観を典型的に示すものなので、本書から引用しておこう。

≪太古の昔、宇宙は善なる光の神アフラー・マズダーの世界と悪なる暗黒の神アンラ・マンユの世界に分離していた。その間に虚空の神ヴァ-ユが挟まって、両者に接点はなかったらしい。しかし、ある時、暗黒の勢力が光の勢力に挑戦して、虚空が消滅し、善悪の要素が混合した。そこから、現在我々が生きているこの世界が生まれたのである。
当初、両者の戦闘は霊的な次元(メーノーグ界)で行われていたとされる。しかし、次第に実力行使に移って、この物質的な次元(ゲーティーグ界)での破滅的な大戦争が勃発した。(中略)ともかく、こうして、アフラー・マズダーは、自らを防衛するためにつぎつぎに善なる創造物を繰り出し、アンラ・マンユは、それを攻撃するべく悪の反対創造を展開した。第一の戦闘は天空、第二は大地、第三は河川、第四は植物、第五は家畜、第六は最初の人間ガヨーマルト、第七は火、第八は恒星天、第九はメーノーグ界の神々と悪魔、第十は星辰で、それぞれの善と悪の創造物が戦う。(中略)
最後に、世界が7つの州として形成され、その中心にアーリア民族が住まうエーラーン・シャフルが存在し、伝説的なカイ王朝がそれを統治したとされる。≫
(※筆者注:「カイ」はギリシア語の「X」のことだが、それと関係があるかどうかは不明。)

欽定『アベスターグ』の第20巻『チフルダード』等で古代アーリア人の神話的歴史が展開されるのだが、最初の人間が球形をしていたり、植物から兄妹が誕生して最近親婚をしたり悪龍が登場したりと荒唐無稽だが、神話としては面白い。そして、ゾロアスター教を象徴するは拝火神殿が、この時代に建設された。

ゾロアスター教の危険な部分

ゾロアスター教には危険な要素がある。筆者はこの宗教を認めない。その理由の1つが「アーリア至上主義」である。ゾロアスター教は古代アーリア人の原始宗教を取り入れたことは本書が指摘するところだが、その中に古代アーリア人の不浄観と清めの意識がある。古代アーリア人は、自分たちが住まう地域=エーラーン・シャフルの外部を悪・不浄の地として差別した。その結界を守るのが聖火だった。

ここで冒頭に掲げた、オリンピックの聖火に戻る。中国共産党首脳陣がゾロアスター教を知っているのならば(間違いなく知っていて確信的なのだが)、彼らは古代アーリア人にならって、聖火でエーラーン・シャフル(中国領土)の外側=他国を浄化しょうと企んでいる。世界の人々はだから、中国の聖火に反対するのである。何がなんでも、中国による世界浄化を阻止しなければならないと。

2つ目は善悪二元論だ。善悪二元論のゾロアスター教は、古代、一神教のキリスト教と厳しく対立したという。だが、西欧キリスト教の基層にある古代アーリア主義がキリスト教に二元論を持ち込んでいる。正統と異端、キリスト教と非キリスト教、十字軍とイスラム教徒、自由主義と共産主義、そして、西欧キリスト教的民主主義とイスラム的過激主義(テロリズム)・・・こうした二元論は、実態と乖離した幻想的善悪二元論に基づいている。

3つ目は、階級制度だ。古代アーリア人社会は階級制度をしいていたのだが、ゾロアスター教もそれを固定化した。本書によると、古代アーリア人は、神官階級、戦士階級、庶民階級――に仕切られていたという。インド亜大陸でアーリア人の宗教として独自に発展したヒンドゥー教もカースト制度という階級を固持した社会であり、イランも三階級社会だという。欧米でも、上流階級(旧貴族階級)、労働者階級、の階級制度が残っている。

前出のとおり、古代アーリア人は、3つの地域に移動した。その1つである、ヨーロッパの基層としての「アーリア性」については、本書では触れられていない。が、ヨーロッパの基層の「アーリア性」がナチズムのような過激な表象とならないまでも、欧米主導の世界に色濃く影を落としているように思えてならない。その意味で、ゾロアスター教への興味は尽きることがない。

今日のゾロアスター教

サーサーン朝ペルシアがアラブイスラム勢力によって滅ぼされると同時に、ゾロアスター教も廃れ、イラン高原一帯の信仰はイスラム教にとって代わられた。

同地域のアーリア人もアラブ系と融合し、さらに後年東方から移動してきたテュルク族(イスラム教に改宗した)とも混合し、アーリア人という民族は滅亡した。そもそも、アーリア人に限らず、21世紀、純粋・単一の人種、民族の概念は幻想にすぎない。

イスラム勢力との融合を拒否した、イラン高原一帯のゾロアスター教徒は、インド亜大陸に移動(亡命)し、現地の人々から、パールシー(「ペルシアから来た人」という意味)と呼ばれ、今日に至っている。

21世紀、全世界のゾロアスター教徒数は、40万程度(イラン3万、パキスタン26万、インド18万、中国不明)と推定されている。 (2008/04/15)

2008年4月6日日曜日

『フランス・ロマネスクへの旅 カラー版』

●池田健二〔著〕 ●中公新書(中央公論新社) ●1,000円(+税)

ロマネスク芸術とは、11~12世紀、北方ノルマン人・イスラム勢力の侵入が沈静化しようやく秩序を回復した西欧社会に花開いた芸術様式をいう。ロマネスクとは、“ローマ風の”という意味だが、ローマ芸術の復興を意味するものでもなければ、キリスト教芸術の全面的開花という説明でおさまりきれる様式でもなかった。

ロマネスクは、中世前期西欧が、(一)キリスト教信仰と西欧の基層であるケルト、ゲルマンの異教的・前キリスト教信仰が並存していたこと、また、その一方で、(二)東方・イスラム文明との接触という、空間的拡大を獲得していたこと、――を今に伝えている。

ロマネスクがキリスト教の信仰拠点である教会・聖堂・修道院等を表現の場として花開いた芸術様式でありながら、西欧キリスト教世界を空間的・時間的に越えたところに大きな特徴があるのであって、この特徴こそ、中世前期の西欧世界においては、キリスト教が絶対的かつ単一的宗教権威でなかったことを傍証するものである。

前出のとおり、ロマネスク芸術を滋養した場所は、まさしくキリスト教だった。教会・聖堂等のファサード部分のタンパン回廊の柱頭・壁面に施された浮彫、天井部分に描かれたフレスコ画、写本などがロマネスク芸術の表現物だった。ロマネスクはキリスト教の布教を制作目的とした。文字が普及していない中世前期においては、キリスト教を布教しようと思えば、まずは口頭による説教に依拠しただろう。その後、教会建立が進むにつれて、聖書の一節、聖人の奇跡等を民衆に示すための布教装置として、浮彫、絵画等が用いられた。そうして、ロマネスク様式がキリスト教布教の流れとともに、西欧一帯を席巻した。

ロマネスク芸術が制作された当時、西欧においては、聖遺物信仰と聖遺物を保有する教会を巡る巡礼が盛んだった。スペインのサンチャゴ教会は、聖人ヤコブの骨を遺物として保有することで民衆の信仰を集め、巡礼の終着地点として発展した。サンチャゴ教会の巡礼に向かう巡礼ルートはフランスのパリを基点としたものがあり、本書に紹介されたフランスのロマネスク芸術は、巡礼地を結ぶ交通の要衝に建立された巡礼路教会のものが多い。

さて、本書では、フランスのブルゴーニュ、オーヴェルニュ、プロヴァンス、ラングドッグ、ルシヨン、リムーザン、ポワトゥー、ベリー、の8地方のロマネスク教会が紹介されている。それぞれに地方並びにその地のロマネスク教会及びそれぞれのロマネスク芸術がもつ宗教的意図の解説が施され、ロマネスク入門書として最もわかりやすいものの1つだろう。

ただ、ロマネスクと西欧の基層信仰とのかかわりについて、まったく言及していない点に不満が残る。本書の対象地域であるフランスは古代ガリアと呼ばれ、ケルト人の支配地域だった。本書にも紹介されている、ベリー地方・オルレアン郊外のサン・ブノワ・シュル・ロワール修道教会の柱頭に施された異形の神像は、先住のケルト民族の信仰が キリスト教に習合したことを証明するものとして、よく知られている。口から伸びている植物の長い茎から、この像はケルトの神・ケルヌーノスであると推測されているのだが、本書ではそのような紹介がない。

また本書には紹介されていないが、フランスを代表するキリスト教の聖地・モンサンミッシェルやサンドニ教会の一部にもロマネスク装飾が残されていて、このいずれもが、ガリア人の聖地だったことが知られている。 (2008/04/06)

2008年4月5日土曜日

『ルポ貧困大国アメリカ』

●堤 未果〔著〕 ●岩波新書(岩波書店)●700円(+税)


横須賀でタクシー運転手殺人事件があった。この事件で逮捕された脱走米兵はナイジェリア国籍だった。このことに違和感を覚えた人は少なくないはずだ。米軍になぜ、アフリカのナイジェリア国籍の人がいるのか、そして、日本で脱走を企てた挙句、殺人事件を起こしてしまったのか。

その答えは、本書に見つけられるかもしれない。徴兵制がなくなった米軍に入隊する者は、▽高卒で職を得られず、生活できなくなった米国の若者たち、▽永住権が取れない移民、▽病気や失業で多額な借金を背負った生活者・・・たちだという。この中には、サブプライムローンの破綻で家を失い多額な借金を背負った人々も当然、含まれるだろう。

ブッシュ政権の米国で吹き荒れる新自由主義経済は、社会に様々なヒズミを生み出した。公共部門で進む民営化により、命・生活に直結する医療費が高騰、ひとたび入院すれば多額の借金を背負う。インフラ整備や自然災害監視の予算が削られ、ハリケーン等の天災が起きれば、下層の人々が真っ先に命を落とし、家を失った人は社会の最下層に追いやられる。それだけではない。過度な競争により失業者が増加し、正規雇用が減少し、ワーキングプア、ホームレスが増加する。

大卒でなければ、まともな職が得られない。経済的に恵まれない若者は教育資金を捻出するため教育ローンを組むか、奨学金を利用する。ところが、卒業しても優良企業に就職できるとは限らない。就職できなければサービス業に時給労働で職を得るか、派遣社員になるしかない。当然、借金は返済できない。こうして、大学卒の多重債務者として、彼らは社会の下層に追いやられる。

そんな彼らの前に登場するのが、軍のリクルーターだ。リクルーターは甘言を弄して若者を軍に誘い、過酷な訓練で彼らを殺人マシーンに変え、イラク等へ送り込む。労働ビザや永住権が取れない移民も、概ね同じような進路をとる。

そればかりではない。米国には軍事専門の派遣会社が設立されており、米国のみならず世界中の貧困層を戦場に送り込んでいる。戦争の民営化だ。戦争派遣社員の仕事は軍事物資の輸送等の後方作戦ばかりでなく、戦闘専門の「社員」までいるという。新自由主義経済が米国国内ばかりでなく、世界を格差社会にし、下層に落とされた人々を兵士として、戦争に送り込む。経済戦争の敗者が、実際の戦争要員である軍(兵士)や派遣社員兵士として、戦場に送り込まれる。ブッシュ政権下の米国~世界には、経済と戦争が密接に関与しあっている。

横須賀の殺人事件の犯人として逮捕されたナイジェリア人が「神の声を聞いた」、と供述したと言われているが、もしかすると、逮捕されたナイジェリア人にPTSD(Post-traumatic stress disorder)の可能性もある。過酷な訓練もしくは実戦経験によって人格破壊され、心に傷を負い、日本で脱走し、人を殺してしまった――可能性がないとはいえない。アメリカンドリームを追って、アフリカから米国までやってきたこの殺人犯は、もしかしたら、民営化が進む米国社会の犠牲者である可能性を否定できない。

さて、本書は、夢の国・米国の実態を詳細に報じた、渾身のルポルタージュ。日本の巨大マスコミ――資金も人材も豊富なはずの――がなし得なかったルポを、一人のジャーナリストが見事にやってくれた。本書のような良質なルポによって、私たちは日本のマスコミが報じない、米国の影を知ることができる。

新自由主義、規制緩和、民営化、構造改革は幻想だ。「良い資本主義」と「悪い資本主義」の2つがあるかのような報道は間違っている。日本の資本主義が米国の資本主義より劣っているわけでもなければ、勝っているわけでもない。日本の株が下がろうと、日本売りが始まろうと、いいではないか。焦って米国の真似をするなかれ。いまの米国を理想としないことだ。

かつて、日本が戦争に敗れてから復興が進んだころ、米国のホームドラマが日本国を席巻した。庭付きの立派な家、大きな冷蔵庫、車、飼われている犬までがでかかった。ハンサムな人格者である父親、美人で心優しい母親、理想の家庭ではぐくまれていく子供たちの成長が、貧しい日本人を圧倒した。1960年代まで、日本人の「理想」が、米国にあった。

ところが、レーガン政権誕生を萌芽にして、ブッシュ政権下の「9.11」以降、急速に進められた臨戦体制下の新自由主義経済政策は、本書に示されたとおり、米国社会の理想的家庭=中間層を破壊した。一握りの富裕層と貧困層に社会を二極化した。そして、先述のとおり、貧困層を兵士として戦場に送り込み、さらに、戦争を国家から分離し民営化するという、究極の戦争システムを構築した。

日本では、この期に及んで、米国が民間活力を使った、理想の「小さな政府」であるかのような幻想が振りまかれている。「米国のような、米国のように・・・」という悪魔の声が、毎日のように、テレビから聞こえてくる。

そのような中、日本でも派遣社員問題やワーキングプア問題が浮上した。日本が格差社会であることは、だれもが認めるところだ。日本政府とマスコミの次の一手は、借金苦の若者を自衛隊に入隊させ、そして・・・でないことを確信でいないことが恐ろしい。
(2008/04/05)

2008年3月31日月曜日

『帝国―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性―』

●アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート〔著〕 ●以文社 ●5600円+税

<帝国>という言葉は古くて新しく、<帝国主義>という言葉が新しいようでいて古い。後者については、左翼、マルクス主義陣営では、レーニンの『帝国主義論』に規定され、20世紀初期から中葉までの間、たとえば、“○○帝国主義粉砕”というスローガンで広く流通してきた。ここでいう「帝国主義」とは、国民国家成立前からの欧米列強による第三世界への侵略・植民地主義、国民国家成立以降は、資本主義国家による発展途上国の属領化をいう。大航海時代から第二次世界大戦の終わりまでは、スペイン、ポルトガル、欄、英、仏等の西欧列強が、そして、ベトナム戦争までは、米国が帝国主義国家を代表してきた。さらに、社会主義革命後のスターリン主義国家であるソ連、中国を赤色帝国主義国家と呼ぶこともあった。

前者の代表はなんといってもローマ帝国であろうが、最後の帝国としては、第一次世界大戦後滅亡した、オーストリー=ハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)、オスマン帝国が挙げられるものの、帝国は国民国家成立後の近代以降には、地球上に存在していないというのが常識的認識だろう。

では、なぜ、いま(ポストモダンの時代)において、<帝国>なのか。

冷戦終結後、アメリカの一極支配といわれる。だから、いまはアメリカ帝国が世界を支配していると考えるのは早計である。<帝国>をアメリカのヘゲモニー抜きで語ることは不可能だが、アメリカを頂点とした帝国が世界を支配しているわけではなく、帝国は、グローバルなネットワークによって形成されている。帝国はだから、アメリカであり、日本であり、ロシア、英、仏、中国、インド・・・である。

帝国を牽引するアメリカは、英仏等から遅れて帝国主義国家として、アジア(フィリッピン等)の一部を支配していたのだが、帝国主義としてのアメリカの終わりは、1968年、ベトナム戦争で軍事的な敗北が決定した時点だった、と著者は言う。乱暴に言えば。1968年をポストモダンの開始年だと言っていい。

帝国の時代すなわちポストモダンの時代とはどんな時代なのか。

生権力が人びと(マルチチュード)を支配する時代だ。帝国主義の時代の社会は、規律社会と呼ばれる。人びとは、工場、監獄、病院等諸施設に従属することによって、身体的、精神的に馴致させられ生きている。だから、たとえば、労働者が工場を自主的に管理すれば、革命が成就されるという考え方もできた。

一方、ポストモダンの社会は、管理社会と呼ばれる。人びとは生そのものを権力によって管理される。規律社会の産業労働者はフォード主義、テーラー主義に基づき、一定時間で繰り返しの労働に従事し、高い生産性を上げることを強いられた。一方の管理社会における労働者は、時間(オフとオンの差異がない)に縛られず、情動的、情報的な労働――物質的生産に限定されることがない労働に従事する。管理社会は、柔軟で絶えず変化するネットワークにより、マルチチュードの脳を直接的に組織化する。それが、生権力(生政治的支配)の大きな特徴である。ポストモダンの世界を変革する主体は、プロレタリアート(規律社会の産業労働者)から、マルチチュード(生権力に管理された多数者)に変容したというわけだ。

《今日のポストフォード主義的な、情報化した生産体制に対応する労働者の闘いの局面において出現しているのは、社会労働者という形象である。社会労働者という形象には、非物質的労働者の多様な糸が編み込まれている。社会的協働という闘技場は柔軟かつノマド的に生産を行う場であるが、この闘技場にあって、大衆的知性と自己価値性とを結び付けている構成的権力こそが、今日において基調となっているものなのである。言いかえれば、社会労働者の行動目標は、構成を企図することなのである。今日の生産の母体のなかで、労働の構成的権力は以下のものとして自らを表現することができる。すなわち、人間の自己価値化(世界市場全域での万人に対する平等な市民権)として、協働(コミュニケートし、言語を構築し、コミュニケーション・ネットワークを管理する権利)として、そして政治的権力、つまり権力の基礎が万人の欲求の表現によって規定されるような社会の構成として、である。労働の構成的権力は、社会労働者や非物質的労働を組織化するものであり、マルチチュードによって指揮される生政治的統一体としての生産的かつ政治的な権力を組織化するものである――一言でいえばそれは、活動状態にある絶対的デモクラシーのことである。(P.508)》

これが、ポストモダンの革命のイメージというわけか。 (2008/03/31)

『月蝕書簡 寺山修司未発表歌集』

●寺山修司[著] ●岩波書店 ●1,800円+税



60~70年代、疾風怒濤のごとく駆け抜けた寺山修司(1935~1983)――彼の仕事は文学・演劇・映画といった、芸術の各ジャンルを超えた巨大なものだった。既存のアカデミズム・文壇を超えた“アンダーグラウンド”という寺山の仕事場は、時代状況を投影した鏡のようなものであって、特定のジャンルに拘って積み上げられた既存芸術とは大きく異なっていた。

<私>の寺山体験を僭越にも書かせていただければ、寺山の登場~最盛期~晩年に居合わせながら、寺山に関心を示すに至らなかった。彼の詩・評論等については、通俗ぶりが鼻について好きになれなかったし、実験的演劇・映画についても趣味に合わず、それを忌避した。寺山への無関心は、<私>の人生における最大の後悔の1つと言って過言でない。

<私>から遠い存在であった前衛・寺山だったが、唯一の例外が短歌だった。現代短歌の豊饒さを<私>に教えてくれたのは、寺山であった。沖積舎版『寺山修司全歌集』(以下『全歌集』という。)は<私>の愛読書の1つであり、齋藤史、村上一郎、岸上大作、福島泰樹、道浦母都子といった現代歌人の作品を読むきっかけになったのも、『全歌集』の影響だった。

さて、寺山は全歌集発刊を最後に、表向きは短歌創作を休止した。短歌創作休止の理由は、前衛の旗手である寺山が日本の伝統的韻文を創作し続けることは、自身の売り出し戦略にそぐわないという判断が働いたものかもしれないし、短歌という表現形式に限界を感じたからかもしれない。しかし、そのような愚かな推測に反して、寺山が全歌集刊行以降も、短歌創作を続けていたということは、寺山研究では定説であったらしい。

2008年初頭、あまりにも唐突に、『月蝕書簡-寺山修司未発表歌集』(以下「本書」という。)が発刊された。このことは、寺山が短歌を清算しなかったということ――定説の正しさを証明したことになる。

本書についての最大の興味は、寺山が全歌集以降、短歌に新しい企てを持ち込んだか否か――ではなかろうか。本書から、寺山の短歌に対する実験、試行、錯誤、断念、撤退のプロセスを読み取れるならば、という期待はだれもが抱くに違いない。

本書がそのような期待にこたえているかといえば、「ノー」だと思う。本書に掲載された作品の基本モチーフは、全歌集の域を越えない。それゆえ、寺山が未完として、封印した可能性もある。ただ、寺山が短歌創作を継続していたということは、短歌に描かれた世界が彼のアイデンティティであったことの傍証になるかもしれない。

ならば、そこから分岐した寺山の前衛とは何だったのか・・・という問いが、<私>の中で循環する。 (2008/03/31)