2014年6月27日金曜日

サッカー日本代表をめぐる危機的言語空間

サッカーW杯ブラジル大会グループリーグ(GL)が終了した。日本は1分け2敗の勝ち点1で、C組の最下位に沈んだ。十分予測されたこととは言え、残念な結果である。勝負に勝ち負けはつきものだから、負けは仕方がない。この敗戦を糧にして、日本のサッカー選手、関係者の今後の一層の精進を期待したい。しかし、代表サッカーにまつわる日本のスポーツメディアのあり方や選手の発言といった、サッカー日本代表に係る言語空間については、一言も二言も発言しておく必要がある。

「自分たちのサッカー」という超主観主義

「自分たちのサッカーをやるだけ」という言説は、もちろん、他国の有力選手がインタビュー等に答えるときに使う常套句であって、日本の代表選手がそれを真似ている言い回しにすぎない。使っている外国人選手に悪気もなければ、特別な意味もない。もちろん、それを真似る日本人選手も同様だ。大事な勝負を前にした選手がメディアに質問されて、まともに答えるわけがない。まちがって相手に礼を失する発言をしたら相手を刺激するだけ。逆に、手の内を晒すような表現も避けなければならない。そんな状況で生まれた便利な表現が「自分たちのサッカーをするだけ」というわけだ。

ところが、日本のサッカージャーナリズムおよびマスメディアにおいては、この表現が日本代表の戦い方、スタイル、戦略、戦術を規定するものとなって一人歩きしてしまった。日本代表が守備的戦法で南アフリカ大会でベスト16入りを果たしながら、その先に行けなかった反省から、「攻撃サッカー」を志向するという代表サッカーに係る批評パターンが定着し、「自分たちのサッカー」=「攻撃サッカー」というイメージがメディアにおいてほぼ常識化された。

選手たちはどう考えていたのだろうか。筆者はそのことを直接代表選手に質問したわけではないが、メディアでの発言から推察するに、選手・監督にとって、そのことは既成の事実として受け止められているように思えた。つまり、日本が攻撃力で勝利することが、選手・監督にとっての「自分たちのサッカー」だと。そのように意思統一されていたように筆者には思えた。つまり、海外の有力選手が便宜上使用する言辞が、いつのまにかメディアがつくりあげた日本のサッカーの「方向性」と融合し、選手たちを呪縛し始めたのだ。

この現象は、筆者には想像しがたいほどの驚きだった。例えば日本がコロンビアと戦ったGL第3戦、結果は1-4の惨敗だった。しかも相手は二軍だ。ところが、この試合こそが「自分たちのサッカー」という価値基準からすればW杯の中のベストゲームだったという総括が、日本の代表選手、メディア、サポーターから出されてしまっていた。この試合は、日本の玉砕戦法を相手コロンビアの二軍が赤子の手をひねるように逆手にとって、得点を重ねたという試合内容であって、それ以上の意味も価値も見いだせない。こういう大量得点差の試合というのは、大会においてありがちだけれど、日本にあったのは、“攻撃する”という精神(意思)だけ。実際、それがパフォーマンスとして外形化し結果に結びつかなければ、何の意味もない。そのことが一つ。

戦略・戦術は戦う相手に見合って変化するもの

「自分たちのサッカー」はまずできない、という前提で戦わなければならないのがW杯なのだ。そのことをGLB組の第1試合、スペイン-オランダ戦が実証している。前回王者のスペインに対して、オランダは5バックで守備を堅固に固めた。中盤でスペインの自由なパス回しを封じるためだ。オランダはスペインに先制されながらも、この形で逆転に成功し大勝した。オランダといえばかつてトータルフットボールを掲げた、攻撃的サッカーを行う代名詞的存在。その意味するところは、全員攻撃、全員守備。しかるに本大会では、守備にフィールドプレイヤー7名を割くという、守備重視で対峙した。スペイン戦の陣形が「自分たちのサッカー」なのかどうかは判断に迷うが、とにかく勝つことが重要なのであって、相手に応じた戦略、戦術を駆使することが勝ち残るために必要であるという結果は理解できる。

オランダのトータルフットボールはモダンサッカーの新たな地平の(幕開けの)象徴だった。そして本大会では、その当事者オランダが強敵スペインのパスサッカーをつぶすため、新たなスタイルを用いてきた。それを「フィジカル・サッカー」と便宜上定義しておこう。その詳細については、別に書くこととする。とにかく、サッカーとは常にある形を乗り越え進化してきたものだ。それがサッカーにおける弁証法だといってもいい。

逆の例もある。南米のある国のリーグ戦では、自分たちより実力の上のチームと対戦するときの作戦は、「相手のエースを削る」ことだと言われる。相手のエースを負傷退場に追い込み、それで勝利を得ようと。そんな作戦をとれば退場者を出すリスクもあるし、もちろん、そんな作戦はスポーツマン精神の視点から容認できない。だけれども、これもサッカーの現実の表れの一つなのだ。「自分たちのサッカー」という呪縛から日本サッカーを解き放さなければ、日本の強化は不可能である。

サッカーはフィギュアスポーツとは異なる

「自分たちの○○」で勝利をつかむスポーツもなくはない。その代表が、浅田真央ちゃんがやっているフィギュアスポーツ(スケート)だ。フィギュアの場合、相手とつかみあうわけではない。自分の蓄積してきた技術と力を舞台で100%(以上)発揮すれば勝つ場合もある。相手とやりあう必要はないかわりに、「自分のスケート」をやりぬくしかない。

また、相手ある競技だが、日本人が得意とする野球も「自分たちの野球」に徹することで、勝てる要素が高いものの一つと言える。たとえば、ノーアウト1塁で犠牲バンドという作戦に徹すること。相手にアウトを献上しても、塁を一つ進めるという考え方で勝とうとする。統計上は知らないが、日本野球ではこの形が好まれ、犠牲バンドは評価が高い。

フィギュアスポーツや守備と攻撃が分かれる野球のような競技を例外として、相手とやりあう競技の場合、相手の良さを消すことも作戦であり、そのために「自分たち」のスタイルの変更もあり得る。どんな相手でも自分たちのスタイルで戦って勝てると思うのは超主観主義であって、超主観主義を助長するような言語空間が、日本のサッカージャーナリズムに築かれていたことは日本の代表サッカーにとって、不幸だった。

現実を度外視して、夢を無媒介的に語る楽天主義的言語空間

結果論としてではなく、どこの国のリーグかを問わず、そこでの選手の成績が重要なのではないか。日本惨敗の戦犯は、本田、香川、長友、岡崎、長谷部、内田らの海外組であり、(SBを含めた)攻撃陣にあることはまちがいない。とくに大会前、「優勝」するとまでの大言壮語を吐いた本田の責任は重い。「出るからには優勝を狙う」と、言うのは結構だけれど、まずは目の前の1勝だろう。はったりで厚化粧した本田圭佑は、スポーツ選手としての美しさを欠く。

本田に限らず、自分たちの実力を過信して足元を見ず、はるか遠くの栄光を夢見て語るような傾向は、いったいいつごろから、この日本の言語風土に醸成されてきたものなのだろうか。夢を現実化しようと努力する姿勢に誤りはない。しかし、その途上のどのくらいの位置に自分が立っているかを自己検証するのも実力のうちだ。イタリアの名門ACミランで10番をもらったからといって、プレーをしていない者の実力が証明されたことにはならない。商売上、本田が10番をつければレプリカユニフォームの売上が上がり、日本企業のスポンサーが集まりやすくなることが、ACミランというクラブにとって重要なのだ。本田はジャパンマネーを集めるための広告塔、集金マシーンにすぎない。このことは香川にも言える。

本田がミランへの移籍でもっとも注目されたのは入団会見だった、という評価がすべてだ。本田の成績は入団後の19節から38節までのあいだの14試合に出場して、わずか1得点を記録したに過ぎない。そのような成績の選手がW杯で優勝を宣言することの虚しさが筆者には痛々しかったし、GLで敗退という結果を前にして、本田に対して発する言葉をもたない。

親善試合の勝利に浮かれるメディア、サポーター、監督・選手

日本が積み重ねてきた練習試合(親善試合、強化試合ともい言う。)の結果ほど当てにならないものはないことがわかった。たとえば、大会前、日本はコスタリカに勝ったが、日本に負けたコスタリカが死の組D組で1位となった。コスタリカは、ウルグアイ、イングランド、イタリアを押しのけてトップ通過である。だから、日本には潜在能力がある、と解釈することも自由だが、筆者はそんな楽観主義者ではない。

とりわけ日本国内で開催されるコンディションの悪い相手の親善試合は興行であって、相撲の地方巡業=花相撲のようなものだ。そのような試合がまるで参考にならないとは言わないが、参考にしすぎてもいけない。

日本は外国から招待を受けたならば(たとえば、コパアメリカとか)、とにかく出かけて、試合をすることだ。アウエーの試合数を増やさなければ、代表は強くならない。

そこで重要なのがメディアの批評能力ということになる。日本国内で開催される親善試合の相手の分析(たとえば主力がいるのかいないのか、コンディションはどうなのか、モチベーションはどうなのか)を正しくサポーター等に伝える役割である。日本の強化に資する試合でなければ、そのようなマッチメークを批判することも重要となる。咬ませ犬に勝って浮かれているようなメディアの言語空間が続く以上、日本は強くならない。

大手代理店主導の「代表バブル」の終焉

日本代表を弱くした責任のすべてが広告代理店にあるといは言わないまでも、「代表バブル」を膨らませた責任はTVを筆頭とするメディア(広告代理店)にある。視聴率の高い代表試合を売るために、彼らはサッカー協会と協働して、日本代表の虚像をつくりあげてきた。その手段の一つとなったのが、代表を取り巻く危機的な言語空間にほかならない。虚像、幻想、ミスリード。これらを集約したのが、サッカーの本質から乖離した、「自分たちのサッカー」という表現である。その言い回しが選手・監督・サポーターはもとより、日本国民すべてを呪縛し、相手と戦うサッカーという競技の本質を見失わせてしまった。

日本代表の再出発は、代理店主導の興行サッカーから、勝負にこだわるサッカー競技の原点に素直に戻るところから、始められなければならない。その一助となるのが、真のサッカー批評の立ち上げである。

2014年6月24日火曜日

雷が怖い猫たち

雷が鳴り響くや、猫たちが寝そべって寝ていた筆者に飛び込んできて、そのまま寝てしまった。

Zazieは胸の上、Nicoは足の間。

定位置である。



2014年6月22日日曜日

閉幕しない小保方劇場――小保方が現場復帰?

「STAP細胞」問題で小保方が論文の取下げを表明。あとは理研の処分発表を待つばかりと思われたが、ここにきて問題はより複雑化してきているようだ。

状況証拠は固まった?

いわゆる「STAP細胞」の作製実験に係る「不正の証明」としては、6月7日、理研の遠藤高帆・上級研究員が、小保方が作製に成功したとした「STAP細胞」は別の2種類のマウスの細胞だったという独自の解析結果の公表から開始された。

6月12日、理研改革委員会が、この問題は科学史における、世界の三大不正事件の一つに数えられるとしたたうえで、▽小保方に厳しい処分をくだすべきこと、▽笹井ら関係者にも厳正処分をくだすべきこと、▽理研のガバナンス強化、▽この問題の現場である理研発再生科学総合研究センターの解体、▽小保方の検証実験参加――を含めた提言をまとめた。理研改革委提言が奇妙なのは、小保方の厳正処分を求めている一方で、小保方の検証実験参加を促している点だ。このことは後述する。

6月16日、小保方を指導した若山照彦が同実験に使用されたマウスの第三者機関による鑑定結果を公表し、若山が小保方に渡したマウスと違うマウスが小保方によって「STAP細胞」の作製実験に使われたことを明かした。若山は小保方による「STAP細胞」の存在を否定した。

さらに同日、理研内の小保方の実験室の冷蔵庫からES細胞の容器が見つかったという報道があった。このES細胞と小保方が作製した「STAP細胞」の特徴が一致したという分析結果が理研内の研究者から公表された。

厳正処分といいながら検証実験参加とは?

ここまでで、もはや小保方が「STAP細胞」を実験段階で捏造したという不正に係る状況証拠は出そろったものと筆者には思えた。理研改革委員の提言が小保方の検証実験参加を含めたのは、「STAP細胞」は小保方の作為による捏造であることを前提とし、そのうえで、小保方が検証実験に参加してその作製に失敗したことをもって、小保方「単独犯」を固める理研に対するアシスト的提言だと考えていた。つまり、理研幹部(理事長を筆頭とする)に非が及ばないよう、この問題を小保方の次元でせきとめるためだ。

TVの警察ドラマでよく耳にする「泳がせ捜査」に近い。逮捕するに足る確実な証拠が不足している場合、犯人を自由にさせて監視し、犯人が証拠隠滅等の行動をとった現場をおさえる手法だ。小保方の捏造を確実なものとする最良の手段は、小保方が再度作製実験にトライし、その結果、それが「STAP細胞」なのかそうでないのかを判定するという方法ならば、だれもが納得する。小保方ができなければ、今回の騒動の責任はすべて小保方に帰する。理事長もセンター長も小保方の上司もすべて無罪放免という筋書きだ。反対に作製に成功すれば(その可能性はゼロだと筆者は思うが)、その成果は理研に帰するというわけだ。どちらに転んでも理研にマイナスはない。

それを裏づけるように、6月19日、野依理研理事長も小保方の検証実験参加を希望する旨の談話を発表している。野依は、改革委員会のきわめて建設的諸々の提言は反故にするつもりのようだが、唯一、小保方の検証実験復帰の事項だけは賛成というわけだ。そもそも理研改革委員会は権限をもたない。いわば、自由な外野席の声すぎない。提言を受けた野依理事長も、同提言に沿った改革に着手しようという意思はまったく表示していない。ところが、同提言のうち、小保方の検証実験参加の事項にだけは、奇妙に一致している。

小保方復帰は政府・自民党の強力な意向か

それだけではない。政府(下村文科大臣発言)も17日、「小保方さん自身が(「STAP細胞」の)あることを自ら証明しなければ・・・」という発言をした。すなわち、政府、改革委、野依理研理事長の三者が、小保方の検証実験参加については一致し、三者あいまって、小保方の復帰を強力に支持している。

下村文科相の意向を受け、野依理事長は、小保方を不正者と判定したうえで、不正者を理研に復帰させるつもりのようだ。トップが規程を無視して、不正者を現場復帰させる・・・これはどういうことなのだろうか。野依理事長は、理研の定めた規程と不正者の復帰という矛盾をどう整理するつもりなのか。超法規的措置を行うのか。

はたして小保方は理研と政府に追い詰められ、きわめてリスクの高い「STAP細胞」作製という検証実験の罠に乗るのか乗らないのか。それとも、法廷闘争に持ち込むのか。

理研が小保方に対してどのような処分をいつ、くだすのかが注目される。もちろん、処分に対して、小保方がどのような反応をするのか――大いに気になるところだ。

2014年6月13日金曜日

西村主審の笛がブラジル国家を救ったかもしれない--サッカーW杯開幕

サッカーW杯ブラジル大会が始まった。開幕試合は主催国ブラジルとクロアチア。ネイマールの活躍でブラジルが3-1で勝った。

W杯は「代理戦争」ではない

サッカーW杯が「代理戦争」と言われることがある。日本においては、サッカーを見ない知識人がこの言葉を乱用するので、大衆レベルで浸透してしまっている。しかし、この言い方は20世紀中葉まで通用していた概念であって、いまでは事情が違っている。東西冷戦の時代、中ソが対立しつつ共存していた時代、両陣営のどちらかに属していた国々は、がっちりと固められた構造の中で身動きが取れなくなっていた。そのため、国家の威信、国威発揚の手段としてサッカーを利用した。それが、“W杯は代理戦争”という概念を導きだし、有効的に流通もした。

ソ連崩壊とともに世界は変化した。東西冷戦の固定的枠組みは廃棄され、人々は自由に国境を越えるようになった。新自由主義、自由市場経済が行き渡るに従い、国境を越えてヒト、モノ、カネが移動するようになった。幸か不幸か、第三世界から先進国といわれる豊かな国々にヒトの移動が開始され、先進国に移民が定住し、第二世代、第三世代が誕生した。西欧の場合、その国を代表する選手の「民族」構成は多種多様になった。コーカソイド系民族国家であったイングランド、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等にも、アフリカ系、トルコ系、アラブ系等の選手が多数を占めるとともに、東欧、バルカン等周辺ヨーロッパの「民族」の祖父、祖父母をもつ選手が混在するようになった。

ドイツ代表ならば、エジルはトルコ移民の子孫だし、フランス代表ならば、すでに引退したがジダンが最も有名な一人であり、今回のW杯の代表に選ばれた選手の多くが、アラブ、アフリカ系である。イングランドはスターリング、ウエルベック、スモーリングと、プレミアリーグで活躍中の選手たちはみなアフリカ系である。イタリア代表にもバロテリというアフリカ系のFWがいる。ベルギー代表のヤヌザイは、ベルギー、イングランド、アルバニアの3か国の代表資格があったといわれる。

このような状況の中、サッカーW杯を利用して国威発揚を図ろうとすることは相当困難である。国家の威信を発露すること、すなわち国威発揚、すなわち「ナショナリズム」は、概ね人種・民族と国家が一つの幻想で結ばれていることで成立する。サッカーの代表選手はすでに脱領域化しており、そのことは民族国家、国民国家、国民経済を過去のものとしている。

サッカーがいちばんうまい国はどこか

サッカーW杯は、ではなぜ、世界中の人々を熱狂させるのか。その回答としては、これもまたよく言われることであるが、W杯とは、“どこの国が、サッカーが一番うまいか”を競うものだと。そのように世界は成熟し、サッカーの楽しみ方として定着しているのだと思いたい。どこの国の代表選手たちも、W杯では「国を背負って戦う」と口にする。この言い方は、表面的にはナショナリズムを体現するように聞こえるが、その中身はサッカーがうまいか下手かという威信=選手たちのプライドに帰着する。たぶんそうであろうし、そうであってほしい。

西村主審の笛がブラジル国内を安定化?

冒頭に記したように、今朝(日本時間)行われたW杯開幕戦は、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で撃破した。この勝利は、ブラジル国内の混乱をいったん、平常化することに寄与するだろう。

ところで、この試合の審判団は日本人が務めた。1-1で迎えた後半、主審の西村雄一は、クロアチアのペナルティーエリア内でブラジルのFWフレッジがクロアチアのDFロブレンとの接触で倒れたプレーでDFのファウルをとりPKを宣告した。それをブラジルのネイマールがなんとか決めて、ブラジルが勝ち越しに成功した。

この判定について、世界中から批判が湧き出た。負けたクロアチアはもちろん納得がいかないし、接触プレーに寛容なイングランドプレミア等の欧州リーグの審判らも、西村の誤審と断言しているらしい。TV観戦の筆者がビデオで確認した判断では、あれでPKはないとも思えた。

しかし、これでブラジルに勢いがつき、ブラジルが順調に勝ち進めば、ブラジル国内の治安は安定する。ブラジルがグループリーグで敗退しようものなら、「こんな大会に大金をつぎ込んで・・・」と、ブラジルの混乱という火に油を注ぐ結果になっただろう。西村のPK判定は、本人が意識していたかどうかは別として、政治的にはじゅうぶん意味があった。

ブラジルの混乱の主因はミルトン・フリードマンの経済政策

もちろん、ブラジルの混乱はW杯が主因ではない。ブラジルをはじめとする南米南部地域の政治と経済の不安定化は、ミルトン・フリードマンが主導した新自由主義の結果である。そのことの詳細は、ナオミ・キャンベル著の『ショック・ドクトリン』にある。筆者はナオミ・キャンベルに全面的に同意するので、ブラジル政府が行ってきた政治と経済運営には批判的立場をとる。だが、それを批判し、抵抗する手段として、W杯を人質にとることには賛成しかねる。W杯をとりまく世界の状況が成熟化と非政治化に向かっている流れを阻害したくないからである。W杯や五輪といった大規模スポーツイベントの開催がその国の経済運営と直結していることは承知の上で、敢えてスポーツ(文化)と政治を分離したい。そのほうが、混乱の根本的解決のための遠そうで近い道である、と信じているから。

2014年6月10日火曜日

6月の課題

当月が三分の一終わったいま、月間の課題を書くのはおかしな話だが、書いておく。

スピノザ精読である。

『神学・政治論』『エテイカ』

2014年6月6日金曜日

小保方劇場いよいよ終幕か――明かされた小保方マジック(錬金術)

いろいろと話題を提供してきた、理化学研究所と小保方晴子による「STAP細胞」騒動もいよいよ終幕に近づいたい。「STAP細胞は、ありま~す」と絶叫した小保方晴子もついにギブアップ。論文取下げに同意した。

小保方の息の根を止めた遠藤高帆(理研上級研究員)

小保方の息の根を止めたのは、すでに報道にあるとおり、小保方と同じ理研に所属する遠藤高帆・上級研究員の独自の解析結果であった。解析で問題としたのは「STAP細胞」を培養してできる幹細胞に係るもので、(A)「STAP細胞」を培養してできる幹細胞の種類についてと、(B)実験に使用されたマウスの種類に関する2点である。

(A)については、「STAP細胞」の論文で、小保方らが培養し「STAP細胞」として公開した遺伝子データが、胚性幹細胞(ES細胞)と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」の2種類の細胞を合わせて得られたデータだった可能性が高いという。小保方らは「F1」という種類のマウスから作り、胎盤にもなる能力があると論文に記載した。だが論文に付随してインターネットで公開された遺伝子の働き具合を示すデータを遠藤が解析したところ、ES細胞と、胎盤になる能力のある幹細胞「TS細胞」が混ざった特徴があった。

(B)については、もとになったマウスが「F1」ではなく、「B6」「CD1」という別の種類だった。これにより、STAP細胞の最大の特徴である胎盤に分化できる能力が「TS細胞」に由来していた可能性が浮上したという。

遠藤は5月22日、理研に解析結果を報告し「偶然や間違いで起きるとは考えにくく、意図的に混ぜ合わせた可能性がある」などと話したという。理研は「この結果だけでは「STAP細胞」の存否を結論付けることはできない」として、理研内の再現実験チームの検証結果が出てから慎重に判断する方針だという。

さて、純文系の筆者には(A)(B)の詳細はわからない。ただこの間、(A)についてはネット上で推測から断定に近い形で多くの専門家が指摘したこととかぶっている。(B)については、いち早く論文撤回を呼びかけた共同執筆者の一人若山照彦の発言が思い出される。フード付きトレーナー姿で取材に応じていた、あの若山だ。若山は「(「STAP細胞」)が信じられなくなりました」と発言し、マウスのすり替え疑惑をいちはやく指摘していた。

「STAP細胞」は理研による詐欺的プロジェクト?

それにしても気持ちが悪いのは、4月16日の笹井芳樹の会見である。笹井は、疑惑の論文の実験過程に自分は一切関与せず、実験は小保方と若山の2人が行ってきたことを強調していた。

筆者の推測では、笹井は小保方が若山を騙して、意図的にマウスのすり替えを行ったこと、および、小保方が2種類の細胞を混合して「STAP現象」を「作製」したことを、理研がメディアを集めて割烹着やらピンクの実験室の公開で「成功」をピーアールする前に知っていた可能性が高い。だから、笹井は不正発覚後、自分に非が及ばないよう、会見の場において実験過程(若山と小保方)と論文執筆過程(笹井と小保方)の役割分担をことさら強調したのではなかろうか。もちろん自分に疑惑が及ばないよう予防線を張るためであろう。

笹井の嘘を裏付けるのは、笹井が会見で繰り返し、「STAP細胞」の存在の可能性を仄めかしていたことである。笹井は「白紙に戻す」と言いながら、「STAP細胞でなければ説明できないことが少なからず存在する」と、検証実験の必要性を強調する一方で、暗にその存在を滲ませていた。

つまり、「STAP細胞」の存在可能性が残っている限り、笹井の作為=悪意=故意=嘘は発覚しない。発覚しない以上、笹井は処分される可能性が薄い。小保方は論文不正で処分されるが、自分は実験に関与していないことを根拠にして、シロだと強調したかったのだろう。

笹井の理研における立場および科学(業)界における実績は、かけだしの小保方と比べれば天と地ほどちがう。小保方がかりに「STAP細胞」を作製したと錯誤したとしても、笹井がそれを検証すれば、彼女の錯誤は発見できる。もっとも、小保方は錯誤ではなく意図的に、彼女独自のコツとレシピ(つまり先述のとおり2つの細胞を混合するなどの手法)を用いて、これまで200回近く「STAP細胞」の「作製」に成功した。小保方を取り巻く上司たちは小保方の実験結果をまるで検証せずに、それを信じた。なんとも不自然ではないか。つまり、少なくとも笹井は、小保方の作為=悪意=故意=嘘を承知で、「作製」を容認したのではないか。

「STAP細胞」騒動とは、小保方「単独犯」によるものではなかろう。少なくとも若山を除く論文の共同執筆者=小保方、笹井、丹羽(ネットではSE細胞を混入したのは丹羽仁史ではないかとの疑義が報じられている)等が関与した組織的詐欺行為、虚偽を前提とした「研究プロジェクト」であった可能性が高い。

平気で嘘をつく理研の研究者たち――理研を覆う倫理崩壊

それにしても末恐ろしいのは、理研という組織とその構成員である。小保方はもちろんのこと、彼女の上司である笹井、丹羽、そして自らの研究論文で画像改竄の疑惑を指摘されて調査委員長を辞任した石井俊輔にしても、彼らの表の厚顔ぶりは驚くべきものがある。彼らは平気で人前(記者会見)で嘘をつく。責任を逃れる発言を繰り返し、他人に罪を被せようとする。その態度にひるんだ様子が見られない。

恐るべきモラルハザード(倫理崩壊)が理研という組織に蔓延・進行している。彼らは、人前で平然と嘘をつく技術を、理研という組織で学んだことであろう。だがこともあろうに、彼らは税金で研究し、税金から給料をもらっている。理研は人前で堂々と嘘をつく技術を、税金を使って教え込む研究機関なのか。

筆者は小保方に対する厳正な処分は当然だと思う一方、やはり、理研をこのまま放置しておくことは納税者に対する裏切り、侮辱だと感じる。当然、そのトップである野依良治理事長は辞任すべきであり、「STAP細胞」に関与した笹井、丹羽等を解雇すべきだと考える。当然、理研は解体、再構築すべきである。

そして新しく生まれ変わった理研がまず研究すべきは、高性能の「ウソ発見器」であろう。理研の研究者、幹部の記者会見においては、「ウソ発見器」が重要な役割を果たす。

2014年6月1日日曜日

6月の猫


今日から6月。暑い。猫もバテ気味。

体重測定の結果を記録しておく。

Zazieが4.5㎏で先月比-0.1kg、

Nicoは6.1㎏で同じく-0.6kg。

2か月前(4月の体重)に戻ったみたいだ。