2009年7月30日木曜日

男だって虹みたいに裂けたいのさ




というのは、谷川雁の詩の一節である。

日曜日、虹が2つ見えた。

2009年7月26日日曜日

絶不調に

土・日はいつも、午前中にスポーツクラブに行って汗を流すことにしている。

土曜は、胸、背中、脚、日曜が肩、腕、腹といった感じ。

昨日(土)は、ベンチ、背中、脚とも力が入らない。ガス欠のような感じで、重さが伸びない。

今日(日)は休むつもりだったが、軽めで、ストレッチの感覚で筋トレをやり、クールダウンで水中歩行と、脚のストレッチをやってきた。

ところが、家に帰る途中、歩き始めてから数分後、右脚に鈍痛。先週の火曜日、雨の日、トルコ料理、ビール、ワインを飲んで帰宅途中に出た痛みと同じものだ。

脚の付け根あたりの筋肉が壊れた感じだ。普段はなんでもなく、ちょっと歩くと痛みが出る。

安静しかないかな。

2009年7月23日木曜日

『帝国以後―アメリカ・システムの崩壊』

●エマニュエル・トッド (著)       ●藤原書店   ●2500円(+税)


アメリカこそが、世界にとって問題となりつつある

「アメリカ合衆国は、世界にとって問題となりつつある。」(P19)本書はこう書き出されている。刊行は2002年9月、米国がイラク侵攻(2003年3月)を行う前の年に当たる。その前年に「9.11事件」があり、米国はアフガニスタン侵攻(2001年10月)を開始していて、イラク戦争準備中であった。

“テロとの闘い”に向けて高揚した米国のようすが世界中に報道されるなか、フランス人の著者(E・トッド)は、アメリカ・システムの崩壊を明言した。実際のところ、以降の米国は、2008年秋のサブプライム・ローン問題からリーマン・ショックに始まる経済危機に見舞われ、今日、その経済・社会は混迷を極めている。本書は、そういう意味で、「米国の没落=帝国以後」を予言した感がある。

2009年、ブッシュが退任し、オバマが国民の期待を集めて新しい大統領になったものの、いまのところ、オバマ大統領の内政・外交政策はあまり明確でなく、米国が真に「Change」したかどうかはよくわからない。本書に従い、1990年代から2001年の「9.11事件」に至る本書の分析を現段階で読み込むことは、過去の名著を読むことではない。本書は、米国=帝国の崩壊が明確になったいまだからこそ、改めて意義をもつ。

「9.11事件」発生後の世界については、冷戦時代と変わらず、米国の存在を抜きにして語ることはできない。米国は、その友好国に対して、共産主義国家群の脅威に代わって、テロリズム(概ねイスラム圏と規定)や、イラン、北朝鮮の脅威に備えて、協力して対峙しなければならないと主張し続けている。友好国である日本、西欧、オセアニア等の先進国は、そのことにほぼ同調してきた。

米国を考慮しない世界平和構築の道筋が描けないものの、だからといって、米国が世界にいくつか現存する脅威に対し、総括的(帝国として)に拮抗しながら、世界秩序を維持する者であり続ける(米国=帝国による世界統治)という見解も成り立たない、というのが、著者(E・トッド)の見方である。

自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である

さて、著者(E・トッド)の世界観は、フランシス・フクヤマとマイケル・ドイルの立論に依拠している。フクヤマは、「歴史は意味=方向を持ち、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である」と、また、ドイルは、「自由主義的民主主義国間の戦争は不可能である」という法則を導いた。トッドは両者の法則に賛同しつつ、その動因として、「識字化と出産率の低下という2つの全世界的現象が、民主主義の全世界への浸透を可能にする。」(P62)という法則を導き出した。ただし、世界には識字化と出産率の低下が認められない地域が残っていて、しかも、高い識字率が社会に定着するまでの過渡期において、その社会は軋みのように、暴力、内乱等の発生を伴うとも言っている。この考え方は、ポーランドの人口動態学者グナル・ハインゾーンが唱えた、「ユース・バルジ」の概念に近い。だが、著者(E・トッド)の世界観からすると、世界は今後、いくつかの地域においてなんらかの軋み、痛みを伴いつつも、民主主義の浸透と定着に伴い、戦争の発生の少ない、安定化に向かうことになる。

ところが、米国、とりわけ、ブッシュ前大統領の時代においては、イラクに侵攻し、パレスチナにおけるイスラエル軍の暴力を容認し、イラン、北朝鮮に軍事介入をほのめかし、さらには、イスラム圏のウズベキスタンに米軍を駐留させ、アフガニスタン、パキスタンに対して警戒心を募らせた。さらに、タリバーン、アルカイーダといったグローバルなテロリズム勢力との間断のない闘いを掲げ、軍事的警戒を緩めないでいる。米国は、唯一の世界帝国として、今日、世界を脅かす「暴力」「テロリズム」と対峙する責任を全うするといい、その温床となる(と米国が規定する)イスラム国家に軍事的侵攻を準備し続けるのである。

帝国の崩壊――経済的依存、軍事的不十分性、普遍主義の後退

著者(E・トッド)は、帝国(米国)のシステム崩壊について、「経済的に依存し、軍事的には不十分、そして、普遍主義的感情の後退」(P176)という、3つの観点を挙げる。

(1)米国が抱える巨額の貿易赤字

米国経済が自ら生産することなく工業製品は輸入に依存し、貿易赤字に窮しつつ、2008年秋までは、順調のようにみえた。米国は消費国として、世界の工業国から製品を輸入し続けていた。米国経済の順調の要因について、著者(E・トッド)は、世界中の金融資本の流入の増大によって支えられてきたという。世界のマネーが、米国に流入する理由は、米国が安全な投資先であるという思い込みと、金持ちのための国家(米国)という仕組みによる。米国がつくりだした金融のルール、会計基準をもち、世界最大の軍事装置という切り札をもっているためでもある。

(2)演劇的軍事行動

米国が核保有を含み、世界で最強の軍備を誇るということは通説に近い。しかし、米国社会は、他国を守るための帝国の戦争遂行の結果として、若い米国民兵士の犠牲者を出し続けることを容認しない。著者(E・トッド)は、ベトナム戦争後の米国の軍事行動を、「演劇的」軍事行動と呼んでいる。第一次イラク戦争、アフガン侵攻、イラク侵攻もそうであった。「演劇的」軍事行動とは、米国が負ける(もしくは米軍兵士に多大の犠牲を出す)可能性のある勢力を相手に選ばないということである。現在のところ、米国が勝てる相手がイスラム圏である理由は、イスラム圏諸国の軍事力が極めて脆弱なためである。ブッシュ政権の時代、米国が敵視したのは、イラク、イラン、キューバ、北朝鮮等であるが、キューバ、北朝鮮は小国であり、イラクの軍事力は米国の軍事力と比較すれば非対称的である。核武装を終えたイランは、(今年の大統領戦後、都市の若者を中心に混乱がみられたものの)、基本的には安定化に向かっている。著者(E・トッド)にいわせれば、世界の脅威とはなりえない国々ばかりなのである。

(3)普遍主義の後退

「悪の帝国」とか「悪の枢軸」とか、その他諸々のこの地上の悪の化身についてのアメリカのレトリックは、あまりの馬鹿馬鹿しさで――時とその人の気質によって――笑わせもするだろうし怒鳴らせもする。しかしこれは冗談で済ますべきものではなく、真剣にその意味を解読しなければならない。それはアメリカの悪への脅迫観念を客観的に表現しているのだ。その悪は国外に対して告発されるが、現実にはアメリカ合衆国の内部から生まれているのだ。(P170)


では米国社会内部に生まれている悪とは何かということになる。それを一言で言えば、普遍主義の後退ということになる。≪帝国というものの本質的な強さの源泉の1つは、普遍主義という、活力の原理であると同時に安定性の原理でもあるもの、すなわち人間と諸民族を平等主義的に扱う能力である。(P146)


普遍主義の対極には、差異主義がある。差異主義がアングロ・サクソンの統治の仕方の特徴だという見方もあるし、著者(E・トッド)もそれを認めている。大英帝国ではそうであったと。しかし、著者(E・トッド)は、「アメリカのケースは、普遍主義と差異主義という対立競合する2つの原理に対するアングロ・サクソンの二面性を極端かつ病的な形で表現している」(P149)と断言する。

米国の歴史には常に他者が存在した。そして、それらを壊滅させるか隔離する。最初はインディアン(アメリカ先住民)、そして黒人である。インディアンと黒人を排斥することで、アイルランド人、ドイツ人、ユダヤ人、イタリア人移民が(アングロ・サクソンの)同等者に取り込まれた。そして、日系人(アジア)、ヒスパニック、アラブ人・・・が、順送りに排斥・統合されてきている。この差異主義が、黒人大統領・オバマによって断ち切られるかどうかは今後の動向を見なければ、なんともいえない。少なくともブッシュ政権までは、世界のイスラム諸国に向けられた敵意は、米国社会内部のアラブ人に向けられているものに同調している。第二次世界大戦中、日系人が強制収容所に隔離されたことと変わらない。

ユーラシアとアメリカ

著者(E・トッド)は、ユーラシア(旧大陸)とアメリカ(新大陸)が対立軸に至るとはいわないまでも、歴史の長短を指標に、相容れないものと感知しているかのように思う節がある。とりわけ、ロシアとヨーロッパの接近を予言し、現に本書刊行後、急速に両者は接近した。

一方、先のG8では日本とロシアの接近は阻まれ、「領土問題で進展なし」が大々的に報じられた。ロシアはいまだ、日本の敵なのである。だが、ヨーロッパに近づいたロシアを警戒する米国が、G8を舞台に両者を明確に切断した結果だといえなくもない。日本はいまだに、崩壊する帝国のよき僕である。

イスラム圏が識字化と出産率の低下という動因をもって安定化するのならば、自由主義的民主主義国家が世界を覆うことだろう。米国の軍事的役割は今以上に低下し、戦争のない世界が実現するのだ。そのときこそ、F・フクヤマの「歴史の終わり」がやってくることになる。

2009年7月22日水曜日

『1Q84(1・2)』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●各1800円(+税)




『1Q84』(村上春樹[著])を遅まきながら、読み終えた。報道によると、本書刊行時においては、書店で品切れ状態が続いたという。筆者も村上春樹のファンで、数少ない同世代作家として、デビュー以来、愛読してきた。エッセイ、翻訳等を除いて、小説についてはすべて読んできたはずである。

しかし、ある時期のある作品をターニングポイントにして、あまり熱心な読者ではなくなってしまった。それが『海辺のカフカ』であったかもしれないし、それ以前のものだったかもしれない。

熱が冷めた理由がこちら側にあるのか、作家の側にあるのか、あるいはその両方にあるのか定かではないのだが、ここのところの村上作品に関しては、読み始めた途端に、“ああ、またか”という落胆のような感想を抱かずにはおれない。

ご承知のとおり、最近の村上作品は、現実社会の規範、法、道徳等を逸脱していることが前提となっている。荒唐無稽なファンタジーであり、関係性といったものが都合よく剥離されている。またその一方で、物質(商品)、歴史、感情、欲望といったものはリアリティーを失っておらず、両者のバランスが実に巧みであり、読者はリアリティーとファンタジーが混淆した“村上ワールド”を無理なく受け入れることができる。そのことを「仮想現実」(バーチャル・リアリティー)と表現してもかまわないのかもしれないが、小説という媒体の特徴として、TVゲームよりは現実の度合いが強まっているのではないかと思われるが、そのことはたいした問題ではない。

■1Q84=1984はいかなる記号か――

『1Q84』という本題がジョージ・オーウエルの『1984』に符合することは明らかである。同書は1949年に書かれたもので、1984年という近未来がスターリン主義もしくは全体主義に支配された様子を描いた。本書は、2009年から1984年という過去を描いたわけで、「Q」は同書のパロディの気分を持ち合わせている。つまり、オーウエルの予言は外れたと。

本書は前作に引き続き、知的エンターテインメント小説である。教養主義的レトリックが組み込まれていて、本書を読み終えた者には、さまざまな解釈が可能となる。筆者が知る限りでは、本書発刊後において、下記の解釈がなされていると聞いている。

▽魯迅の『阿Q正伝』の「Q」と、本題の1「Q」84の「Q」の符合が意味するものは何かという議論
▽この小説中で『空気さなぎ』をことあげした、ふかえりという少女を共同体の権力の一方の極である宗教的権威、すなわち、『魏志倭人伝』中の卑弥呼(巫女)に代表される女権に喩え、国家の起源を暗示するとの解釈
▽本書内に出てくるカルト教団の“リーダー”と主人公の一人・青豆とのやりとりの中に、前出の“リーダー”が『金枝篇』を引用しながら自らの死を望む展開は、文字通り、王権論そのものであるとの解釈
▽本書内の小説『空気さなぎ』のさなぎ=繭(まゆ)は、折口信夫が唱えた“真床追衾”をイメージすることから、天皇の生と死に関わりなく、天皇霊を絶え間なく継承する、日本の天皇制の起源を暗示するとの解釈

ほかにもあるようだが、それらを拾い上げてみても、本書の書評になりえないと思うので、例示にとどめたい。

さらに、読者が共有する歴史的記憶を喚起する本書の記述は、読者に対して、強烈なインパクトを与える道具として機能する。前出のカルト教団は、小説では、新左翼残党→「タカシマ塾」→「さきがけ」→「武闘派」と「コミューン派」へ分裂、武闘派→「あけぼの」→武装蜂起で壊滅、「さきがけ」は教団を設立――という変異を辿るのだが、この変遷は、新左翼(毛沢東主義派=連合赤軍)運動、山岸会、オウム真理教という反体制運動を連想させる。実際に存在した反体制集団を連想させるものを小説に登場させることは、読者の心中に理屈抜きの“おぞましさ”を喚起する効果がある。同様に、青豆の親が入信していた「証人会」は「エホバの証人」という宗教団体を連想させる。このように、現実と虚構が、作家のセンスによって微妙に調合されたのが、本書の全体的特長といえる。

“1984”とは、オウム真理教から喚起された年号(記号)だと解釈できる。前出の「さきがけ」は、著者(村上春樹)が、オウム真理教を意識したものである。オウム真理教は1984年、麻原彰晃(本名・松本智津夫)が後に「オウム真理教」となるヨーガ道場「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めたときである。著者(村上春樹)は、オウム真理教が1995年に起こした無差別殺人テロ「地下鉄サリン事件」の被害者等を取材し、『アンダーグラウンド』をまとめている。      

■欲望を肯定した結果、もたらされたもの

面白い小説だと思う、だが、危険な兆候も示している。この小説では、全開された欲望が物語の基底をなし、それが議論も懐疑もなく許容されているからである。

本書の面白さは、奔放なイメージにある。登場人物は、それぞれの欲望に規定され、道徳、善悪、倫理、法を超えてしまう。主人公の一人・青豆という女性は必殺仕置人である。彼女は、DV(ドメスティック・バイオレンス)に傷つけられた女性の復讐のため、男たちを殺害することが裏の仕事になっている。

もう一人の主人公、小説家志望の天吾という青年は、ふかえりというカルト教団のリーダーの娘がつくった話をリライトする内なる欲望に耐えられず、小松という編集者の企てに乗ってしまう。編集者小松も、世の中を騒がしたいという欲望のまま、天吾に不法行為をそそのかす。他の登場人物も概ね同様である。本書に登場する人物すべてが、道徳、善悪、倫理、法を超える。

そもそも、それらは欲望がもたらすリスクを制御するためのものだ。この小説は、共同体と個人が交わす法(手続き、規制)、セルフ・コントロール(道徳、倫理)を無視することをもって前に進む。この小説の主な登場人物は、一般的な性道徳を逸脱していて、そのことは欲望が全開されたことの象徴的表現だともいえる。

それだけではない。主人公の一人・青豆の幼馴染の親友(大塚環)、同じくシングル・バーで知り合った(あゆみ)、もう一人の主人公である天吾のセックス・フレンドの人妻(安田恭子)、カルト教団から逃亡した少女(つばさ)、そして最後には、主人公(青豆)までが死んでしまう。なぜ、女性の登場人物ばかりが「生きられない」のか。この作家の女性観が投影されているのかもしれない。

この小説では、法を超えた欲望が登場人物の置かれた環境に大きな揺らぎを与える。規制、社会的制裁、圧力等の関係がもたらす諸問題を簡単に捨象することが可能であるから、登場人物は自由である。たとえば、殺人はいとも簡単な行為となっている。19世紀のロシアの小説では、社会にとってまったく意味のないと青年が確信する高利貸しの老婆の殺害と、それによってもたらされた殺人者の青年の罪の意識が、長編小説を構成した(『罪と罰』)。ところが、一方の21世紀の“ムラカミ・ワールド”では、殺人の罪と罰が問われることはなく、女性主人公の属性の1つにしかすぎなくなってしまっている。簡単に人を殺せるスキル(技術)が、主人公の重要な属性になっている。そのことは、特別なパワーを付与されたテレビゲームのキャラクターと同じようなものであり、エンターテインメントとして、読む人に癒しや快楽を与える。

■パラレルワールドは後半、メルトダウン

この小説の特徴の1つは、「パラレルワールド」にある。2人の主人公、青豆と天吾の物語が交互に繰り返される。そして、2つの物語が重なり合い、やがて、青豆と天吾の純愛というテーマが浮上する。

青豆は、少女をレイプし続けるといわれている宗教団体の教祖(=リーダー)を殺害するというミッションを受け、リーダーと対峙する。リーダーは、自分が殺されることの交換条件として、青豆の命を差し出せ、そうでなければ、天吾を殺す、と青豆に迫る。青豆は、天吾を救うためリーダーの提案を受け、リーダーを殺害した後に自殺する。前出のとおり、純愛は貫徹される。

一方、それとはまったく別に、物語の後半では、天吾の出生の秘密と父権というテーマが唐突として出現する。それは、この小説のパラレルに展開された大部分の物語のどちらにも重ならない。青豆と天吾の双方の未来に関しては、リトル・ピープルという説明のない存在が関与している(らしい)と考えるしかないのだが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。というのは、リトル・ピープルに係る説明が一切なされないからである。

収拾のつかないままの“イメージ”が、作家によって小説の中に投げ込まれる。そして、まったく無媒介的に、説明のないまま、物語は終わる。天吾の父の死の床に、さなぎ(繭)に包まれ、10代の青豆が再生するという場面をもって。

こういう終わり方は、無責任な感じがする。作家が物語に関与するキャラクターを創造したならば、それらが果たす機能や役割を読者に明らかにするのが普通だと思う。この小説の場合、リトル・ピープルという説明のつかないキャラクターが、異物のように残される。それが作家の意図なのか、収拾のつかなかった結果なのかはわからない。説明できないもの、超越的なものなのだ、という考え方もあるかもしれない。運命や宿命はリトル・ピープルが操っているのだから、俗人の行く末はそれに任せろといっていることに近い。それだけで片付けるとすれば、けっきょくはシニシズムではないか。この小説(の登場人物)は、現実社会の倫理、規範、経験という、法を支えていた要となる実体を、相対的な差異を提示しあうゲームや戯れの中に、還元してしまうだけで終わっている。読者は、小説が提示する差異を楽しみ、かつ、癒されるのだが、実際は、差異をその内部で相対化しうる、実態の同一性に支配されているにすぎないのである。読者がそうであるということは、作家もそのような内部のなかで、小説を書きあげていることになる。

2009年7月16日木曜日

暑いな

梅雨が終わり、夏が来た。しかも、いきなりの盛夏の到来である。

そんなわけで、体調が悪い。まず、原因不明で、右足のふくらはぎあたりが、夕方になると痛み出す。もしかすると、レッグプレスのやりすぎか。

次に、夕飯後すぐに睡魔に襲われる。目が覚めると、午前1時前後だったりする。そこからもう一度、寝なおしになる。

2009年7月12日日曜日

選挙

きょうは都議会選挙。清き一票を投じてきた。

まず、筆者は都知事が嫌いである。生理的に好きになれない。議会が知事に対する勢力として、知事の打ち出す政策等に抵抗してほしい。とりわけ、新銀行の愚策を粉砕してほしい。

もちろん、この選挙は、総選挙に連動している。麻生政権はうんざりなのだから、政権交代のプロローグとして、自民党・公明党には勝ってほしくない。

2009年7月10日金曜日

アーサー王とイラン系アーリア人

昨晩は、衛星放送で映画『キング・アーサー』を見た。この映画が封切られたとき、ぜひ見なければと思っていたのだが、忙しさにかまけ、気がついたときには上演している映画館がなかった。もちろん、レンタルビデオという手もあるのだが、放置したまま記憶から薄れ、今日に至ってしまった次第である。朝刊のテレビ欄で『キング・アーサー』の放映を知ったとき、落し物が出てきたようなうれしさを覚えた。

さて、この映画の粗筋やら、スタッフ、キャスト等については映画専門サイトもあることなので、ここでは触れない。筆者が“おもしろいな”と思ったのは、この映画では、アーサーがサルマタイ人で、ローマ帝国の傭兵としてブリテン島に送り込まれた重装騎兵軍(騎士団)の長という設定であったことである。

以下、『アーリア人』(青木健[著]、講談社選書メチエ)に従い、サルマタイ人について解説をしておこう。

サルマタイ人というのは、前1世紀から後1世紀にかけて、ウクライナ平原に現れたイラン系アーリア人であって、同じイラン系アーリア人のスキタイ人とは異なる。サルマタイ人は、西アジアに進出を図ろうとしたスキタイ人とは異なり、東欧へ進出しようとして、ハンガリー平原でローマ帝国と交戦し、状況によってはローマ帝国の傭兵となった。傭兵の中には、ローマ皇帝・マルクス・アウレリウスによって、ブリテン島の北方守備に送り込まれた重装騎馬兵軍もあり、現在、イギリスではサルマタイ人の遺跡が出土しているという。

イラン系アーリア人とアーサー王を結びつけた研究として、『アーサー王伝説の起源』(C・スコット・リトルトン+リンダ・A・マルカー[著])が思い出される。

「アーサー王=サルマタイ人」説というのは、フランス人の中世学者ジョエル・グリスヴァルドが唱えたもので、現代のオセット人(コーカサス人)が保持する英雄バトラスの叙事詩と、15世紀にトマス・マロリー卿によってつくられた『アーサー王の死』とが類似することから導き出されたものである。そればかりではない。アーサー王の物語で重要な地位を占める騎士ランスロットの語彙は、“ロットのアラン人”ではないかという仮説が、マルカーによって提起され、「ランス・ア・ロット」を語彙とするケルト起源説に一石を投じた。アラン人もイラン系アーリア人の一派で、4世紀後半、フン族の襲来によって西方へ飛散し、ローマ帝国内に逃げ込んだことはよく、知られている。

こうして、リトルトンとマルカーは、グリスヴァルドの説を発展的に引き継ぎ、アーサー王の物語の起源は、イラン系アーリア人の文化にまで遡れるという趣旨の、『アーサー王伝説の起源』を書き上げた。

なお、同書の原語タイトル、From Scythia To Camelotは、誤解を生じやすい。到達点である「キャメロット(Camelot)」は、アーサー王の王国、ログレスの都のことで、アーサー王はこの地にキャメロット城を築き、多くの戦いに出陣したところであるから問題はない。ところが、出発点である「スキタイ(Scythia)」が誤解のもとである。サルマタイ人、スキタイ人、アラン人はイラン系アーリア人という次元では同類であるものの、活躍した時代にはずれがある。また、“スキタイ”という地名にも普遍性がなく、スキタイ人、サルマタイ人が生活圏とした地域は、ウクライナ平原の黒海沿岸地方であって、この表現のほうが正しい。

2009年7月9日木曜日

『自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来』

● グナル・ハインゾーン〔著〕 ● 新潮選書 ●1400円(+税)

ある地域(国家)の人口動態を分析してみると、15~23歳の人口幅が大きな幅(山)=総人口の30%以上)を形づくると時期があり、その幅(山)をユース・バルジという。ユース・バルジが現れた地域(国家)では、戦争、内戦、動乱等が発生する。(もちろん、ユース・バルジが現れるためには、急激な出生数の増加が必要であるから、その前に、いわゆる、ベビーブームが起こっていることになる。)。


つまり、一人の男(父)が結婚して子供を2人以上設ければ、二男、三男・・・は相続の対象からはずされ、「ポスト」を求めて争う。「ポスト」を求めるユース・バルジは戦闘能力の高い青年層であるから、そのエネルギーが戦争、内乱、動乱等を発生する。――本書の要旨を大雑把にいえば、こんなところだろう。

古代、ヨーロッパではゲルマン民族の移動が起り、ローマ帝国の衰亡を招いた要因の1つに数えられている。民族移動の主因が人口増(本書流にいえばユース・バルジ)であったかどうかはわかっていないが、人口増だとする説も有力である。

また、10世紀から250年間にわたって行われた、西欧諸国によるイスラム圏に対する十字軍派兵の背景には、そのころの西欧における農業技術の高度化による食糧事情の安定があるといわれている。食糧事情の安定により出生率が高まり、若年人口が増加したとき、長男以外の二子、三子…らが居場所を求めて東へ動き始めた、という説明に説得力がないとは言えない。

また、本書では、15世紀に開始された大航海時代とそれに続く西欧の南北アメリカ、オセアニア、アジア等に対する植民地支配の歴史をその証明事例に用いている。本書は、西欧が世界の覇権を握ることになるエポックメーキングな年を、1493年(コロンブスの新大陸発見の翌年)に求めている。

本書による、大航海時代の西欧の人口推移は以下のとおりである。
コロンブスを生んだポルトガルの場合、100万人(1500年)から200万人(1600年)にほぼ倍増、スペインの場合、600万人(1490年)から900万人(1650年)に1।5倍の増、オランダの場合、70万人(1490年)から200万人(1640年)に3倍増、イギリスの場合、350万人(1450年)から1600万人(1600年)へと4倍強に増加しているという。(本書・P159~P170)

地球規模のパワーバランスの大転換が15世紀(1492年のコロンブスによる新大陸発見)であったという本書の指摘については、筆者も賛同したい。だが、本書も指摘するとおり、西欧が大西洋を西に目指さなければならなかった理由は、東側をチュルク(オスマン・トルコ帝国)勢力によって封じ込まれたためだ。

1453年5月29日、オスマン帝国(オスマン・トルコ)のメフメト2世によって、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡している。古代からのローマ帝国が最終的に滅亡したのだ。このことは何を意味するのかといえば、古代からヨーロッパ世界が覇権を握っていた地中海が、アジア=チュルクによって奪い取られた、ということである。西欧は、東方(地中海の覇権)を失ったから、西方(大西洋)に転ぜざるを得なくなった。そして、「新大陸」を発見したのである。が、しかし、コロンブス(西欧)が目指したのは、あくまでも東方=インドであって「新大陸」ではなかった。コロンブスが、新大陸がインドでないことを知ったのは、発見後、しばらく経ってからであった。

日本の場合、明治維新(1868)後、すなわち江戸時代(封建制社会)が終わり、近代社会が開始されたときの総人口が3,500万人であったものが、日清戦争、日露戦争、朝鮮半島併合、中国進出を経て、真珠湾攻撃開始時(1941)における総人口は7,500万人にまで膨張していたともいう(P188)。このような人口増に伴って、当然のことながらユース・バルジもほぼ相関して増加していることになる。

また、日本では、アジア・太平洋戦争の敗戦直後(1947~1950)、ベビーブームが起こり、1960年代になって、その人口分布にユース・バルジが現れた。その世代は、日本では「団塊の世代」と呼ばれ、1960年代後半、火炎瓶、木材(当時「ゲバ棒」といわれた。ゲバとはゲバルトのこと)、投石等を伴った、過激な学生運動が引き起こされている。

日本においては、19世紀末から20世紀初頭にかけたユース・バルジ現象がアジア・太平洋=侵略戦争を引き起こし、その一方、20世紀中葉のユース・バルジ現象は、急速な経済成長と学生運動(=サブカルチャーの活性化)という、国内異変を引き起こしたことにとどまった。事象はまったくちがうものの、ユース・バルジが、日本の現代史において、特筆すべき「異変」を引き起こしたとはいえる。

米国でもほぼ同時期にベビーブームが起こり、1960年代後半、彼らは「ベビーブーマー」と呼ばれるユース・バルジとなって、公民権運動、ベトナム反戦運動等の政治運動と、自然回帰を目指したヒッピー運動と呼ばれるコミューン運動をほぼ同時期に繰り広げた。ただ、この時期、米国の場合は日本と違って、米国政府がベトナム紛争に積極介入し、社会主義国家である北ベトナムに対する軍事行動を起こしていた。米国のユース・バルジのうち、学生を中心とした上層階級は国内で反戦運動・ヒッピー運動を展開し、その一方、徴兵に応じた下層階級はベトナム戦争に従軍したのである。

さて、本書は、ユダヤ(米英)側による、ユダヤ的世界戦略に基づく、イスラム圏攻撃の正当化を目的としたものだと考えられる。

本書の趣旨を別言して繰り返せばこうなる――ユース・バルジを抱えるのはイスラム圏だ、だから、イスラム圏は、(西欧が大航海時代に行ったように)、世界制覇を目論むに違いない、だから、非イスラム圏(西欧、北米、中国、インド、東アジア)は、共同して彼らに立ち向かう努力(=武装)を怠ってはならない、と。

今日、内戦、内乱等を抱える地域(=発展途上国)というのは、国内産業が未成熟なため、弱く不安定な経済力しか持ちえず、そのため、国内に抵抗勢力を抱えることになってしまう。それらの地域の人口分布を見ると、いわゆる“先進国”とは異なるのであって、人口分布も国内の不安定要因の1つであるともいえる。発展途上国の多くがなぜ、今日のような脆弱な経済力しか持ち得ないのかといえば、本書も指摘するように、15世紀から開始された西欧側による植民地支配があり、西欧側による収奪があったことも大きい。植民地支配におけるモノカルチャー、さらに、西欧を中心とした資本主義経済の発展がグローバルな経済格差を生じさせた。そのような地域が、イスラム教圏であるところの、中東、アフリカ、アジアの多くであり、イスラム圏以外では、インド(ヒンドゥー圏)、東南アジア等(仏教圏)、南アメリカ(カトリックキリスト教圏)である。そのような地域を西欧=北に反して、「南」と称する。そして、かかるグローバルな格差を「南北格差」といいい、その問題を「南北問題」と称している。

本書は、悪意ある、反イスラムキャーンペーンの書である。本書の悪意は、ユース・バルジを今日のテロリズムと結び付けている点にある。人口減少に陥ったヨーロッパ先進国が移民を受け入れざるを得なくなった。本書によると、その移民の二世たちがテロリストになるのは、彼らの母国がユース・バルジを抱えているからだ、というのである。移民の出身地(母国=イスラム圏)の人口分布がユース・バルジを示しているから、移民の子供たちもまたユース・バルジであり、危険な存在である、と。このようにして、西欧の移民受入国の国民を、移民排斥もしくは移民差別へと煽動するのでる。本書は、“ユース・バルジ”という人口マジックを用いた、イスラム蔑視の“とんでも本”にすぎない。

2009年7月7日火曜日

大阪


昨日、大阪から戻りました。(土・日・月)

仕事場は中ノ島の某会議場。ホテルは隣接するRRホテル。高級イメージのRRホテルですが、朝食付き一泊7500~8000円とかなり値ごろ感があります。

川がきれいなところですが、ハコモノが林立して、潤いのない地域。

そんなわけで、福島駅ちかくまで歩いて、居酒屋で、牛筋(土手焼き)、バッテラをいただきました。

2009年7月1日水曜日

大須観音

尾張名古屋の注目スポットといえば、大須観音商店街でしょうか。東京の下北と巣鴨を併せたような、新旧が両立する、混沌としたところがいいです。

なんといっても大須観音


なんのお店でしょうか。


名古屋B級グルメの代表格




渋い大須演芸場