2023年9月18日月曜日

2023シーズン、日米プロ野球あれこれ


MLB篇

(一)超人はいなかった 

 大谷翔平がDL( disabled list)入りしたことで、彼の今シーズンは終了した。シーズン前のWBCからエンジン全開で突っ走ってきた彼を蓄積疲労が襲い、報道では身体の二カ所(肘と脇腹)に故障が発生したようだ。故障の軽重についてはわからないが、肘の手術という選択肢もあると聞いている。過熱報道していた日本のTVは〝大谷ネタ″が切れたところで、代わりに、NPBセリーグ優勝監督の「あれ」に切り替わって今日に至っている。 

 筆者は大谷の二刀流について2017年以来拙Blogにて懸念を表明してきたものの、その成否をこんにちまで結論づけられずにいたのだが、いま、懸念から失敗と断言する。二刀流は現在のベースボールでは不可能だと。  

 ベースボールの歴史はおよそ200年。1846年6月19日に、米国ニュージャージー州ホーボーケンにおいて最初のベースボールの試合が開催されたとされる。この6月19日は、現在の野球の基本となるルールで初めて試合が行われた日であることから、「ベースボール記念日」もしくは「ベースボールの日」と呼ばれているという(Wikipedia)。以来、たびかさなるルール変更が加えられ、MLBを中心に、概ね10人制で行われるまでに進化した(NPBのセリーグは9人制)。 

 

(二)分業化(打者と投手の分離 

 

 筆者が関心を抱いているのは、野球は分業化したのか、そうでないのかという点だ。およそ200年の歴史のなかでほぼ確立したスタイルが、投手と野手の分離だった。このことは明白だ。1試合およそ130~140球を投げる投手はもっとも過酷なポジションだ。DH制度が普及する前は、投手は打席に入っても三振か凡打で終わることが許されていた。そのかわり、1試合完投することが求められたのだが、故障者が多数出たことから、先発投手は100球を目途に降板し、複数のリリーフ投手が受け継ぐというスタイルに移行した。こんにちのMLBでは、完投は負担が大きいとされ、先発100球、中4日のローテーションが確立し、先発が降板した後は、中継ぎ、抑えが試合を終わらせる。NPBでは、先発投手は中6日、100球が目途とされている。投手、打者の分業制に反旗を翻したのが大谷の二刀流だったが、大谷に故障が頻発したことにより、彼の野心は頓挫したと断言できる。広大な北アメリカ大陸を移動するMLBの環境では、身体への負担が大きすぎたのだ。  

 攻撃陣の分業化の具体例としては、指名打者(DH制度)の導入が挙げられる。9人制の場合、投手も打席に入るが、10人制では投手は打席に入らず、そのかわり、守備に就かない打撃専門の打者が加わった。さらに状況に応じて、代走(走塁専門)、守備固め、代打といった控え選手の活用もなされている。 


NPB篇

 

(一)ユーティリティー(複数の守備をこなせる)プレイヤーの是非 

 

 分業化に反するのが、野手におけるユーティリティー・プレイヤー(複数のポジションを守れる能力をもった選手)が求めらる傾向だ。複数のポジションを守ることが出場機会を増やすとされ、そのような能力をもつ選手が一軍に上がれる条件の一つなっている。NPBでユーティリティー能力を厳しく選手に求める球団が読売巨人軍だ。今シーズン打撃好調の岡本は、三塁、一塁、左翼とポジションを転々とした。売り出し中の秋広は外野と一塁、坂本は遊撃から三塁、門脇が三塁、遊撃、二塁を兼任している。控えの中山が遊撃、三塁、二塁、若林が一塁、二塁、三塁、外野が守れる。しかし、読売の現在の順位は4位と低迷している。もちろん、ユーティリティーだけが順位を決定しているわけではないが、まったく影響がないともいえない。 

 

(二)守備の固定化が是と出た阪神タイガース 

 

 読売と対極的なのが優勝した阪神タイガースだ。阪神の内野は、大山(一塁)、中野(二塁)、佐藤(三塁)、木波(遊撃)で、内野守備位置はほぼ固定されて優勝を迎えた。一塁手と三塁手はファンに近いため花形ポジションといわれ、ON(一塁・王、三塁・長嶋)の事例が名高い。阪神は一塁・大山、三塁・佐藤のスター選手が7月15日以降、固定された。佐藤の打撃好調と三塁守備固定の相関性は証明しにくいが、結果としてはそれが打撃好調につながったといえる。逆にいえば、打撃好調だから守備位置が固定されたともいえる。 

 

(三)NPB球団中、最強の戦力をもった「原巨人」の失墜  

  

 豊富な戦力を擁し、毎シーズンセリーグ優勝候補とされている読売が今シーズンも低迷し、リーグ優勝を逃した。投手陣の未整備がその主因だとされるが、試合中における采配においても、首をかしげたくなるようなシーンが目立った。原の勘違いは、「勝負に徹する」という哲学を誤って理解している点にある。たとえば、今シーズン打撃開眼したとされる秋広の扱いだ。彼をクリーンアップ(三番)に抜擢したまではよかったが、得点機(たとえばノーアウト1塁、2塁の場面)で送りバントのサインを出して秋広が失敗するという場面があり、成功しても次の打者が凡退するというケースもあった。秋広は打撃とは異なる次元で自信を喪失した。さらに、打順も3番、5番、下位と、ころころ変更され、とうとう控えになってしまった。クリーンナップでも犠牲バントで塁を進めて勝とうとする原の采配は「非情采配」「勝ちにこだわる」という高評価があるようだが、筆者には選手を信頼できない証にしかみえない。  

  

若手外野手が伸びない

  

 かつて読売の外野は人材豊富といわれ、他球団からうらやましがられた。ところが、今シーズン終盤では、左翼に三塁からコンバートされた岡本、中堅が丸、右翼に梶谷である。しかも出戻りのベテラン長野が先発するという試合も少なくなかった。FAがらみの3選手と本職以外1選手が先発を独占している。シーズン終盤、岡田の登用もあったが結果は出ていない。プロパーで本職の外野手はどこに行ってしまったのだろうか。    

 近年、もっとも期待された若手のひとりが、2021年、育成で最多本塁打数を記録し大活躍した松原だ。ところが、2022シーズンから不調に陥り、今シーズンも二軍落ちが続いた。重信もそのひとり。2015年ドラフト2位指名を受け入団したもののレギュラーに定着できず、いまや代走専門だ。重信は、肝心なところで走塁でも失敗が続いている「もっていない」選手。今シーズン、現役ドラフトで入団したオコエはシーズンはじめ、レギュラーに定着化したと思われたが、その後尻切れトンボで二軍落ち。岡田、萩尾も一軍では結果が出ていない。  

  

構想なき「チームづくり」  

  

 読売の若手外野手が伸び悩んでいる主因は、FA等による補強によるものだと筆者は考えている。その象徴が中田翔の獲得だった。中田は日ハム在籍のとき、ある選手とトラブルを起こし、放逐された過去がある。それを拾ったのが読売で、今シーズンはそれなりの実績を上げたが、安定した戦力だとはいえない。まずケガが多い。あの体型からすれば、「第二の清原」だと思われても仕方がない。シーズンをとおした活躍はあり得ない。ポジションは一塁しかできない。彼がいるから原(監督)は強打を期待して先発に使う。結果、秋広は外野に追いやられ、岡本は必然的に本職の三塁に定着した。ところが、坂本が衰えて遊撃から三塁に転向させざるをえなくなった。この選択はいたしかたないが、この体制はせいぜいあと2~3シーズンの時限立法だ。坂本がレギュラーから外れた時点で、三塁・岡本、1塁・秋広が固定され、門脇がこの先も遊撃のレギュラーがつづけられる見通しが立ったところで、読売の内野陣は安定期を迎える。ちょうど優勝した阪神とほぼ同型の布陣が完成する。つまり、2023年から先の数年間は、読売の内野陣は発展途上にある。戦力が整っていない。  

  

中田外しを決断せよ  

  

 ならば、この過渡期をどうすごすか。筆者ならば、来季、中田を代打要員として、一塁・秋広、二塁・吉川尚、三塁・坂本、遊撃・門脇で固定させる。そのうえで外野陣の再構築を図る。現在の外野の戦力を、岡本を別格として、ⓐ 岡田、萩尾、松原、重信、オコエ、若林のグループ、ⓑ梶谷、丸、長野のFA等のグループ、Ⓒ ブリンソン、ウォーカーの外国人グループ--に3分類する。現在のところの実力、実績からみて、ⓐグループはⓑⒸと比べてそうとう見劣りする。岡田、萩尾は時間がかかりそう。来季もけっきょく消去法でベテラン頼みになるか、ブリンソン、ウォーカーを上回る外国人と契約するしかない。つまり、左翼・岡本、中堅・丸、右翼・長野、梶谷もしくは新外国人。松原、重信、オコエ、若林のうち複数選手は来季の契約更新が難しそうだ。読売の外野陣の完成への道のりは遠いし、前途は多難だ。  

  

厳しい投手陣  

  

 読売球団の課題は投手陣の再編だ。先発陣については、菅野が限界に近づき、期待された外国人も期待外れ、頼れるのは戸郷、山崎の2投手だけだった。ブルペンも厳しい。抑えの切り札・大勢がWBC以降、故障でベンチを外れた。もともと故障をもった投手だけに来季以降、完全復活があるかどうかわからない。ブルペン陣の誤算としては、高梨が後半息切れ、新人の船迫がシーズン終盤、どうにか台頭したものの、全体として不安定なまま、シーズン終了に至りそう。   

 思えば、エース候補と期待された桜井が昨シーズンをもって引退し、彼と同世代の鍬原、畠が消えた。その下の世代の高橋優も一軍定着を果たせず、消えようとしている。さらに、鍵谷、大江、高木京が消え、今村も来季の構想には入れにくい。それに代わるべき世代としては、赤星、横川、平内、田中、菊池、堀田に期待が集まるが、今季、及第点をもらえる者はいなかったし、来季も未知数のままだ。外国人のグリフィン、ビーディ、バルドナード、メンデス、ロペスのうち来季契約更新するのはだれだかわからない。文句なしで及第点をもらえる助っ人は見当たらなかった。

  

来季、先発メンバー

  

先発メンバー順を考えてみると--  

  

1.坂本(三)  

2.門脇(遊)  

3.秋広(一)  

4.岡本(左)  

5.丸 (中)  

6.大城(補)  

7.梶谷(右)  

8.吉川(二)  

9.XX(投)  

  

 となり、2023シーズンと変わらないが、読売がこの打順で固定できれば、今季優勝した阪神とほぼ同型となる。1.坂本⇔近本、2.門脇⇔中野、3.秋広⇔森下、4.岡本⇔大山、5.丸⇔佐藤輝、6.大城⇔ノイジー、7.梶谷⇔坂本誠、8.吉川⇔木波。むしろ下位では読売(大城、梶谷、吉川)のほうが、阪神(ノイジー、坂本誠、木波)より破壊力で上回る。  

 しかし投手陣については、先発=(金・土・日)戸郷、山崎、XX、(火・水・木)菅野、YY、ZZで、XX=赤星、YY=メンデス、ZZ=グリフィンが候補だが、どうしても3枚足りない。  

 ブルペンは、リード=(船迫-中川(バルドナード、高梨)-大勢)、ビハインド=(今村、平内、松井、田中、鈴木、田中、直江)の2パターンが必要だ。もちろんビハインドからリードへ、また、その逆の移動もある。  

 投手陣の再建は 、先発として3投手の補強が必要。クローザーは大勢が第一候補。7回を中川でつなぎ、8回を任せられるパワーピッチャーが必要。そこが埋まれば、船迫を僅差のビハインドで起用できる。とにかく保有している若手の成長が急務。投手のベンチ入りは8人。先発も不安だが、ブルペンにまわる7投手の構成が今シーズンより強力になる見込みはいまのところうすい。〔完〕  

2023年9月15日金曜日

映画『福田村事件』

●森 達也〔監督〕 ●佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦〔脚本〕●「福田村事件」プロジェクト〔製作〕 

 

★この映画はフィクションである 

 映画『福田村事件』は、ドキュメンタリー映画監督として知られる森達也の(監督による)フィクション作品である。題名・監督から連想すると、当該事件に係る情報を追った森達也が、事件の関係者(加害者村民、被害者および事件の目撃者の家族・親族等)をたずね、伝聞情報を取材のうえ入手し、映像として構成・編集して開示したのではないかと思うかもしれないが、そうではない。森達也は、拙Blogの直前投稿・辻野弥生による著作、『福田村事件』の巻末にこう書いている。 

ジャーナリズムの拠って立つ基盤は怒りと悲しみだ。何も装飾することなく真直ぐに、辻野はその姿勢を明示する。まさしく渾身の一冊だ。
映画はフィクションだ。エンタメの要素も強い。だから実在しない人もたくさん登場する。物語を紡ぎながら事実を補強する。
でもそれは史実とは微妙に違う。〔後略〕(特別寄稿/『A』『A2』から福田村事件へ/森達也〔著〕/『福田村事件』/五月書房新社P242) 

 本作を見たことで当該事件に係る新事実がわかるわけではない。当該事件に関する情報については、いまのところ、辻野弥生が著わした前掲書におさめられたものを超えるものはないと、筆者は考えている。だから、本作のみで当該事件を語り、解釈することは危険である。森達也独自の事件解釈であり、創作であり、森達也本人が書いているように、そこには「エンタメ的要素も強い」。
 とはいえ、森達也が本作をつくらなかったならば、福田村事件がいま、ここまで世間に認知され、暗い記憶が呼び起こされることはなかったのではないか。併せて、辻野弥生の同名の書籍が求められることもなかったのではないか。既存の大手メディアは当該事件をスルーして、おざなりの「関東大震災100年」を報じたのではないか。筆者はその観点から、本作を評価する。 

★農村(共同体)における女性差別

 福田村事件とは、1923年(大正12年)9月6日、関東大震災(同年9月1日)直後の混乱時において、香川県からの薬の行商団15名が千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀で地元の自警団に暴行され、9名(8名という記録がある)が殺害された事件である。 この行商団は被差別部落の者であり、そのため農業に従事できず、日本中を旅する遊動の民である。当該事件の詳細、背景、主因、内容、事件後等については、前掲書のとおりなので、ここでは省略し、ここからはフィクションとしての映画について書く。
 事件のあった当時の福田村の人口はわからないが、Wikipediaによると、暴行殺戮に加わった村民――攻撃側人数, 約200人とある。当該事件には、福田村と隣接する田中村の住民も加わっていたということがわかっているから、村の人口規模を推し量ることもできよう。福田村をクリシエに表現すれば、のどかな日本のどこにでもある農村ということになるのかもしれないが、いまから100年前の日本の農村(共同体)が、外形的にはいくらのどかに見えようとも、その内部には、人と人との関係においてつくられた暗部を秘めている。その第一が女性差別である。

男は外に出て敵と戦って生き、活動し努力しなければならない。女性は主体ではない。女性は自ら生産にたずさわることなく、ただ生産する者の身の廻りの世話をやくだけだ。それは、はるか昔に消え失せた閉鎖的家内経済の時代の生きた記念碑である。女性にとって、男性から強制的に割り当てられた分業体制は、有利なものではなかった。女性は生物学的な機能を体現し、自然を象徴する者としてイメージされたが、この自然を抑圧することによってこそ、この文明に栄えある称号が授与されるのである。はてしなく自然を征服し、調和にみちた世界を無限の狩猟区に変えることが、数千年にわたる憧れの夢だったのだ。男性社会における人間の理念は、この夢に添ったものだ。これが人間が鼻にかけてきた理性の意味だったのだ。(『啓蒙の弁証法』ホルクハイマー、アドルノ〔著〕岩波文庫 P510~511) 

 福田村ももちろん、例外ではなかった。村の女性たちは男性の下位に位置づけられ、人権を制限され、しばし男性の暴力によって抑圧されていた。その一方で、ホルクハイマー、アドルノがいう「生物学的な機能」を体現し「自然を象徴する」存在とみなされながら、女性は男性が規定した地位に甘んじていたわけではない。女性の反撃は、たとえば性愛の行為において男性を軽蔑し、ときにパートナーを裏切り(不倫)、男性を苦しめもした。それが平凡な農村(共同体)の実相なのだ。日本の一部の知識人はその実相について自然的といい、土着的といい、情念と形容した。
  農村にかぎらず、いかなる共同体においても、日常的に抑圧された女性、その女性に裏切られ苦しむ男性ーーのふたつの性が交差することによって醸成されるルサンチマンが鬱積していた(る)。
 そればかりではない。農村(共同体)においても他者に対する優越性を誇示する虚言や、過剰な自己顕示、威圧(的態度)が渦巻いていた。弱者はこうした抑圧に苦しみルサンチマンを抱き、ときに小さな暴力(酒席での殴り合い、取っ組み合い、言語による誹謗中傷、噂話による解消・・・)で発散することもあったし、それが殺傷事件に発展することもあったかもしれない。それでもそれらの暴力は村内の犯罪として、いわばどこにでもある事件としておさめられていたと思われる。がしかし、かかるルサンチマンを軽んじてはいけない。

★近代的国家と自然の併存 

 100年前の福田村すなわち近代初期の日本の農村は、自然(土着)のままの共同体ではない。ここ福田村にも自治(村長)があり行政が機能していた。もちろん警察官が常駐し、村-郡-県-国家との関係も構築されていた。村民の職業も農が大多数を占めていたとはいえ、商工業者、物流従事者等の民もいた。そして、大正デモクラシーの高揚と並行して、進歩的知識人(映画では村長、植民地朝鮮統治から帰村した元教師夫婦)もいた。また近隣の都市部には野田の当時の基幹産業であったキッコーマン醤油工場の従業者による労働運動もあった。また、プロレタリア演劇を志す社会主義者いたし、水平社運動もあった。そして、新聞社(報道機関)が新聞発行を続けていた。そのうえで、植民地から労働力として日本に移住させられた外国人(朝鮮人)が福田村が位置する千葉県東葛飾郡あたりでは珍しくなかった。
 本作では、村民による香川からの行商団殺戮事件の背景・経緯については、ほぼ辻野弥生が著わした史実に忠実に描かれている。

★本作における女性の役割 

 北丸雄二は、本作と女性の関係を次のように批判的に論評している 。

「不逞鮮人」たちの復讐に戦々恐々の個々の被害妄想は、匿名の濁流となって氾濫し始める。それでも「個」を維持する登場人物が3人います▼夫が出征中に船頭と契った寡婦、植民地支配と提岩里(チュアムリ)教会事件の罪悪感を抱えて内地に戻った東洋拓殖重役令嬢、もう1人は千葉の地方紙の女性記者。あの圧倒的な男性社会の時代の「空気を読まない」女たちです。しかしこの3人は架空です。なぜなら不貞の女はあの時代には声を持たず、重役令嬢は罪悪感を抱えるはずもなく、女性記者は当時ほとんど存在しなかった。3人はつまり、現代の視点から本作に送りこまれた日本の良心として存在しています▼ここでふと疑問が湧きます。彼女たちは「良心」と同時に「免罪符」としても機能してしまうのです。専制的な家父長制と村社会の男どもの集団的愚かさの「罪」を、この女性たちに都合よく贖わせている。 (映画『福田村事件』/北丸雄二〔著〕/本音のコラム/東京新聞/2023.9.15朝刊)

 本作に登場する架空の3人の女性の設定に係る北丸の批判は、もっともだと思う。確かに当該事件の重さに比べれば、いかにもとってつけたようなわざとらしさが拭えない。本作はフィクションだと監督の森達也が予防線を張ろうとも、不自然さを感じる。だが、果たして3人の女性たちは良心であり「免罪符」なのだろうか。北丸がいう、①夫が出征中に船頭と契った寡婦 ②東洋拓殖重役令嬢が、良心を代表するように思えない。唯一、3人目の③地方紙の女性記者は、今般における日本のマスメディアの腐敗に抗する良心的ジャーナリストを彷彿させるものだと思う。それは、政権への忖度が蔓延る記者クラブにあって、唯一人抵抗する、東京新聞の望月衣塑子記者を連想させる。森達也のサービス精神のようにも思える。 

4人目の架空の女性 

 筆者は北丸が挙げた3人の架空の女性よりも、虐殺事件の発端となった、行商団のリーダーに対して斧で一撃を加えた、4人目の架空の女性のほうが重要だと思う。①②の女性が演じる性的シーンは、森達也がいう「エンタメ的要素」の具現化であると同時に、前出のとおり、抑圧された女性の性愛をつかった抵抗だと解釈したい。
 では、第4の女性はなにを意味するのか。それを読み解くカギは、事件後、同村を後にする行商団の生存者と第4の女性が村境と思われる橋の上で対峙するラストシーンにある。両者から、救いようのない苦悶と悔恨の表情が読み取れる。それは、行商団の生き残った者が第4の女性に対して、「なぜ逮捕されなかったのか?」という叱責の次元のものではないし、第4の女性の表情からは、反省とか謝罪を超えた、とりかえしのつかない行為に及んだ、無念さと自己否定が読み取れる。
 行商団は被差別部落民という抑圧された民である。第4の女性は男性優位の共同体の中で貧しく、当時の日本帝国による専軍的資本主義によって、夫を東京に出稼ぎに取られた、抑圧された民の一人である。本来ならば、両者は共に闘う仲間のはずだった。後者にあっては、日本帝国内務省の流した「不逞鮮人」のデマと、内務省通達によって先鋭化した在郷軍人、消防団、青年団によって、期せずして、抑圧されている者が、抑圧されている者を私刑に処す発端をつくってしまった、という悔恨の念に満ち、前者にあっては、不条理な仲間の死に直面した戸惑いと怒りのそれである。抑圧された民は分断され、集団的ルサンチマンが集団的暴力に転換し、それが誤解・錯誤ではすまされない悲劇を生んだのだ。100年後のいま、かかる悲劇のメカニズムを映像として追体験することは、けして無駄ではない。〔完〕

2023年9月9日土曜日

『福田村事件』

  ●辻野弥生〔著〕 ●五月書房新社 ●2000円+税 

 福田村事件のことを知ったのは高校時代の友人との久々の飲み会だった。それはいまから一年半前位くらいだっただろうか、いまとちがって「関東大震災100年」の機運はなく、もちろん映画の公開もなかったころのことだ。現在(2023年9月)とは情況を異にしていたにもかかわらず、旧友二人がなぜ、当該事件のことを知っていたのだろうか。その答えを当人たちに直接聞く前に、本書を読んでみてその回答を得たような気がした。その理由については後述する。
 さてその福田村事件とは、1923年(大正12年)9月6日、関東大震災(同年9月1日)直後の混乱時において、香川県からの薬の行商団(配置薬販売業者)15名が千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀で地元の自警団に暴行され、9名(8名という記録がある)が殺害された事件である。 


 福田村・田中村事件 

 ここからの記述は東京在住者でないとわかりにくいかもしれないが書く。筆者が高校生の頃、東京都立高校は学区制をしいていた。筆者が属していた学区は中央・台東・荒川・足立の4区で構成されていた。筆者の世代が高校を卒業し所帯をもつようになると、都心より不動産価格が低い東京近郊に新居を構えることになる。なかでも東葛(船橋市・市川市・松戸市・野田市・柏市・流山市・我孫子市・鎌ケ谷市・浦安市)とよばれる地域のうち、松戸、柏、流山、鎌ヶ谷の戸建住宅を求めた者が多かった。東葛とは旧東葛飾郡の略称で「トウカツ」と発音される。現在では、常磐線・千代田線による複々線化で都心と結ばれ、都心へのアクセスはいっそう良くなっている。その後、地価高騰と宅地開発の進行により、野田、安孫子、浦安も東京近郊住宅地へと変容した。なお、同じ東葛でありながら、市川、船橋に居を求めた同窓生は管見の限り、見当たらない。
 当該事件の福田村は現在の野田市だが、本書によると、福田村に隣接する田中村(現・柏市)の住民も殺害にかかわっていたというから、当該事件は正確には、「福田村・田中村事件」と呼ぶべきであるという。偶然かもしれないが、前出の当該事件を知っていた二人は柏市に家を買いいまなお在住である。一人はリタイア後民生委員を務め、もう一人は高校卒業後にドロップアウトして絵描きをしている。時間的余裕がでてきたところで在住する「柏市史」を紐解くようになり、そこに記録された当該事件にふれた気がしてならない。 

北総鉄道と朝鮮人 

 当該事件当時における東葛の政治的中心都市は松戸だったが、産業的にはキッコーマン醤油を擁する野田だった。現在の東武野田線は当時、北総鉄道(現在の北総線とは別経営、別路線)といい、醤油運搬の足として陸路による鉄道が求められ、その敷設のため朝鮮人労働者が駆り出されていた。また、醤油工場建設に従事していた朝鮮人もいたし、近隣河川の土木工事に従事する者もあり、野田周辺に在住する朝鮮人の数は少なくなかった。 


事件の背景

 

(一)朝鮮人虐殺と並行して行われた社会主義者、アナーキスト虐殺

 大震災に乗じて朝鮮人虐殺が引き起こされる要件については、本書第一章に叙述されている。その要件を整理する前に、震災に便乗して国家権力が行使した不法弾圧を認識しておく必要がある。震災の混乱のなか、①社会主義者十数人を殺害した亀戸事件(9月3~4日)、②中国人留学生王希天殺害事件(9月12日)、③アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らを殺害した甘粕事件(9月16日)などが挙げられる。①③はよく知られているが、②については本書の脚注を引用しておく。 

※中国人労働者が多く住んでいた東京府南葛飾郡大島町(現在の東京都江東区大島)で在日中国人を助ける運動をしていた中国人留学生の王希天が、軍隊によって殺害された事件。(本書P22) 

 つまり、大震災直後の混乱の中、民間による朝鮮人大量虐殺と並行して、国家によるアナーキスト、社会主義者等への虐殺が敢行されていた事実を踏まえておく必要がある。この事実は、ナオミ・クラインの名著『ショック・ドクトリン』のとおりであり、惨事に便乗して国家権力がふだんでは行うことのできない不法・不当かつ暴力的・強権的権力を行使したのである。 

(二)日本帝国権力者たちの〝恐怖″ 

 日本帝国は震災後すぐに戒厳令を発した。復興よりも「治安」を優先した。なぜか――震災前の日本帝国をとり巻く内外の情況がそうさせたのだ。
 まず韓国併合(1910)から9年後の1919年に朝鮮で起こった独立運動、「三・一運動」である。これに対して日本帝国は現地の朝鮮人7,500人を殺害し、負傷者1万6千人、4万6千人を検挙した。
 国内では1918年、富山から米騒動が起こり、全国に波及した。この時期、社会主義運動、労働運動、普選運動、部落解放運動、婦人運動などの民衆運動の盛り上がりがあった。
 その根源が1917年、ボルシェヴィキによるロシア革命だった。この拙稿においては、ロシア革命が与えた日本帝国と日本の革命運動、社会運動への影響の詳細を省略し、革命後のロシア帝国・ロマノフ家の処刑にふれるにとどめる。
 革命を成功させたボルシェヴィキは、ロシア皇帝ニコライ2世の妻と5人の子供、そして皇帝家族の幽閉先に同行することを選んだ人すべてを、1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館で銃撃・銃剣突き・銃床で殴るなどによって殺害した。
 天皇を頂点とする日本帝国の権力者は、ロマノフ家の処刑にショックを受けたように筆者は思う。震災直後に無産者革命(在日の植民地人民、国内の労働者・農民が大同団結した)が起り、それが成功すれば自分たちは惨殺されるのだと。日本帝国権力者がそう思うのも自然なのである。なぜなら、1909年、明治維新の元勲であり初代首相の伊藤博文が満州ハルビンの駅頭にて朝鮮人安重根(アンジュンクン)によって暗殺されていたからだ。伊藤は朝鮮人からすれば、朝鮮侵略の張本人である。日本帝国の権力者は、殺(やら)れるときは殺れるのだ、と警戒心を強めたに違いない。 

民衆の自然発生的暴力か政府により組織された暴力か 

 今般、大震災後100年という節目の年を迎えたことを機に、当該事件の知名度が高まり、併せて朝鮮人虐殺に対する関心も高まった。そのことを悪いとは思わないが、筆者は一抹の不安を感じている。当該事件は、震災の混乱によって、日本人が日本人を朝鮮人と誤認して殺戮したという論調があることが気がかりなのだ。日本人が日本人を殺戮する=A級殺戮、日本人が朝鮮人等の外国人を殺戮する=B級殺戮という等級づけをしていないか。誤認であれ同調圧力であれ、被害者の国籍を問わず私刑による殺戮はすべて悪なのであって、当該事件を含む惨事便乗型の暴力の根源を探らなければならない。その結論をまずもって申せば、震災直後に起きた人民殺戮事件は、国家権力により準備され、民衆がそれにこたえた組織された暴力である。その理由を次に述べる。 

戒厳令、自警団、デマ情報 

 当該事件があった東葛地域は大震災の被害を受けたものの、帝都・東京に比べればそれほどではなかった。東葛は人口が密集する東京に比べれば、田園地帯が広がり人口密集が低く、大規模火災を免れた。その反面、東葛に居住する朝鮮人は少なくはなかった。前出のとおり、震災当時、《(千葉)県内には北総鉄道建設や利根川第三期改修工事などに当たる土木工夫、飴の行商など、390名の朝鮮人が居住していたが、その多くが東葛飾郡に居住していた(本書P189)》という。
 当該地域の住民を恐怖に陥れたのは、《帝都の大火災とともに発生した強風にあおられ、貯金通帳、株券、教科書、畳表などの消失片が松戸近郊まで飛んできた(本書P189)》ことだという。だが、そればかりではないのである。消失片とともに飛んできたのは「デマ」であった。だが間違えてはいけない。ここでいう「デマ」とは自然発生的に人の口から口へと伝えられる、いわゆる流言蜚語の伝達の類ではない。帝都中心部から東葛の野田までは、徒歩でおよそ9時間を要する。大惨事のさなか、わざわざ自家用車等の交通手段を用いて帝都から野田まで「デマ」を口伝えすることはありえない。帝都からの避難民がデマを飛ばしたという可能性もあるが、筆者は口伝えではない情報伝達手段が「デマ」の源泉だと考える。その論拠となる内務省が発出した「デマ」(の打電の原文)が本書に掲載されているので転載する。 

呉鎮副官宛打電 九月三日午前八時十五分了解 

 各地方長官宛             内務省警保局長 出 

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし。 

(姜徳相・琴秉洞編『現代資料6 関東大震災と朝鮮人』所収「船橋送信所関係資料文書」より) 

  九月三日午前、通信網が絶ち切れたなか、内務省警保局長の名で、全国にこのようなデマを次々と打電したのは、行田の船橋海軍無線送信所だった。この電文は、内務省が単なる流言を流言としてではなく、事実と認めたことを物語っており、朝鮮人による暴動説はがぜん真実性を帯び、さまざまに尾ひれをつけながら、またたく間に全国にひろがった。一日の午後には早くも流言が発生しており、警視庁や警察各所がとらえたものから拾ってみると、次のようなものがある。 

  • 社会主義者及び鮮人の放火多し 
  • 昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものである 
  • 鮮人二百名、神奈川県寺尾山方面の部落に於いて、殺傷、掠奪、放火等を恣にし、漸次東京方面に襲来しつつあり 
  • 鮮人約三千名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延付近に来襲し、今や住民と闘争中なり 

(本書P49~50)》 

 このような流言蜚語をうけて、地域の在郷軍人、消防団、青年団が自警団を組織し、刀剣、竹槍、鳶口などで武装し、朝鮮人などに暴行を加え、ついには殺戮に及ぶという狂気の行為が随所で繰り広げられた。前掲した流言の発生源を特定できないものの、筆者は内務省の意を受けた者たちによる意図的なものではないかと推測する。 

千葉県内における殺戮の記録 

 本書に記された千葉県内における自警団・民衆により虐殺された記録を転載すると以下のとおりである。 

①9月3日・東葛浦安町(1名=日本人)、②東葛馬橋村馬橋停車場(6名=朝鮮人)、➂葛馬橋村新作地内(1名=朝鮮人)、④東葛浦安町(2名=朝鮮人)、⑤3~4日・東葛安孫子町(3名=朝鮮人)、⑥4日・東葛八幡町(2名=日本人)、⑦千葉市(2名=朝鮮人)、⑧東葛葛飾村(4名=日本人)、⑨印旛郡成田町(2名=日本人)、⑩香取郡滑川町(2名=朝鮮人)、⑪香取郡佐原町(1名=日本人)、⑫東葛流山町(1名=朝鮮人)、⑬東葛浦安町(2名=日本人)、⑭東葛船橋町警察署付近(10数名=朝鮮人)、⑮海上郡三川村(1名=日本人)、⑯東葛船橋町九日市非難病院前(3名=朝鮮人)、⑰東葛船橋町九日市(38名=朝鮮人)、⑱東葛中山村(13名=朝鮮人)、⑲5日・東葛行徳村(3名=日本人)、⑳東葛中山村(3名=朝鮮人)、㉑千葉郡検見川町(3名=日本人)、㉒6日・東葛福田村(8名=日本人)

〔※東葛=東葛飾郡、カッコ内は殺された人数。福田村の殺害者数は実際は9名(胎児を含めると10名)だがこの記録では8名〕(本書P105~108)

 こうして見ると、日本人が殺害された数はけして少なくない。無差別殺戮とは 言えないものの、自警団・民衆の常軌を逸した行動がうかがえる。また、4日以降、殺害者の数が格段と多くなっていることから、前出の内務省の「デマ情報」の発出(打電)が3日であったことから、虐殺行為を誘発した可能性がないとは言えない。 

「新たな戦前」 

 「新たな戦前」とはタレントのタモリがいま現在の世情をとらえた、いかにもエスプリの利いた表現である。タモリの表現を借りて、当該事件が起きた当時を想像すると、その当時もまた「新たな戦前」ではなかったのか。関東大震災(1923)は、【明治維新後の戦争の時代/1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年の第一次大戦参戦】と【昭和期におけるアジア・太平洋戦争=日中戦争/1937年・太平洋戦争/1941年】の狭間に当たる時期に発生した自然災害だった。つまり、当時においては、次なる大戦争を目前に控えた、まさに「新しい戦前」に起きたと惨事だと言える。

(一)惨事の中、大衆は戦争を準備し戦った

 大惨事のさなか、大衆の心は新たな戦争を準備していた。彼らの「敵」は、日本帝国が侵略を計画していた東アジアの中国という外国であり、そこに住まう東アジアの民にほかならなかった。帝国の兵士として海をわたる前に、まず国内の不逞外国(人)を実体的な「敵」とみなし、殲滅するべく武装し、仮想「敵国人」として朝鮮人を標的にして戦争を仕掛け、そして、暴力的に勝利した。その過程で誤って日本人も殺害したのである。
 この草根の暴力を組織したのは内務省であり、その意を受けた地域のリーダーたちだった。彼らに率いられた地域住民は自警団に参加し、武勲をあげるべく「勇敢」に行動した。その蛮勇と蛮行を恐怖心によるパニックあるいは同調圧力で片づけるわけにはいかない。在郷軍人、消防団、青年団の参加者は「戦争」として、自発的に殺戮に参加した。そして、このような野蛮なパトスが、その後のアジア・太平洋戦争時において、戦場となった中国、東南アジアの民(非戦闘員)に対する残虐行為へと引き継がれた。 

(二)事件の顛末 

 著者は、福田村事件の裁判について書いている。殺害に関与した村民の被告に対する判決は、 以下のとおりである。 

東葛飾郡田中村  

 懲役十年 一人  

 同 三年 二人  

 同 八年 一人  

東葛飾郡福田村  

 同 六年 一人  

 同 十年 一人  

東葛飾郡田中村  

 同 三年 一人  

(「東京日日新聞」大正十三年九月四日付/本書P185)  

 著者は《震災時における他の殺戮事件では執行猶予が多いなかで、収監という重い刑が処せられた》と、そして続いて、《1926年12月25日、大正天皇の死去により、福田村事件の被疑者8名も、第二審から2年5カ月後に全員恩赦で無罪放免になっている。》と書いている。そして、このような結果の主因は、殺戮された被害者が被差別部落の人だからだと結論づけている。「敵」は外国人ばかりではなく、国内の被差別部落の民をも含んだものだった。
 本書に掲載された当該事件の公判記録には、《不逞鮮人のために国家はどうなることかと憂への余りやったような次第です〔後略〕》という被告の証言があるのだが、筆者はこの証言がとても気にかかった。続けて、著者は、《(また公判を)取材した記者は、「訊問に対して答える被告たちの答弁内容や態度を「他事の様に冷々淡々と」「呑気なもの」「勇壮活発なもの」「演説口調」といった語句で批判的に伝えている。(本書P183)》と書いている。
 そんな加害者たちを地元民は支援し、なかには刑期を終えた後に地方議会の公職に就いた者さえいたというのである。福田村事件の被害者は、福田村民と日本帝国により二度にわたって殺害されたのである。

(三)殺害対象は自分たちと異なる「敵」 

 福田村事件においてしばしば議論になりながら、その解を求められないアポリアの一つが、①香川の行商団を誤って朝鮮人だと認識し殺害に及んだのか、それとも、②日本人と知りながら殺戮に及んだのか――という設問である。当該事件はながらくタブーとされ、当事者は口を閉ざし、行政もふれずに記録もおざなりでこんにちに至ってしまったため、決定的証言を得られないままである。だから、本書のような力作を世に出した著者(辻野弥生)もその結論を出さずにいる。
 前出の公判記録で村民の被告は「不逞鮮人」と証言しているから、朝鮮人だと誤認したように思えるが、香川の行商団だと認識していたと証言したら、意図的に同朋を殺したことを自白するようなものだから、この発言を頭から信用することはできない。真相を解明することは困難となった。 

(四)憂国 

 よくよく考えてみるに、このアポリアの解を求めることは、あまり意味をなさないのかもしれない。朝鮮人と間違えられて日本人が殺された例は、この福田村事件のほかにも、震災直後の政府調査「鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯」の中で、日本人死傷者は関東地方(福島1件を含む)で89名、うち死者は東京25名、千葉20名など、計58名とされている(本書P3および前掲のP105~108)。
 ようするに、民衆は惨事にあって自分たちと異なる外形、話し言葉、態度を示す者を暴力的に排除することを優先してしまったのだ。過剰な防衛意識が前出の「国のため=憂国」へと変異し内面に形成されたのであり、それを増幅したのが内務省発の不逞鮮人の暴動警戒を呼び掛ける「デマ」情報だった。そこから、人々は日本刀、竹槍、鳶口で武装し、「敵」を暴力的排除すべく邁進した。
 繰り返しになるが、それを草の根レベルで組織化したのが在郷軍人、消防団、青年団であった。おそらく彼らは善意の地域貢献団体だったのだろう。善意の集団が暴力的殺人集団、すなわち「軍隊」にいともたやすく変容したのである。福田村事件から学ぶべきは、その変容過程の検証と確認であり、変容を止める対策である。換言すれば、規律権力の内面化のメカニズム解明であり、そこに介在する憂国のパトスといかに抗うかということに尽きる。 

幻想の共同体から距離をおく 

 当該事件を含む「敵」の排斥から殺戮にいたるような悲劇を繰り返さないために必要なのは、一にも二にも、国家という幻想の共同体から距離をおくこと以外に思いつかない。「憂国」ではなく、もっと普遍的な価値と立場に自己を置くこと以外にない。大震災直後の大混乱のなか、自己及び家族、そして国家を防衛するという意識が醸成されることは避けがたいように思う。がしかし、自身と家族の安全確保とともに、他者の救命・救援、復興への献身を優先する方向に自身を導けば、当該事件のような暴力への加担を免れるばかりか、蛮行を阻止する側にまわることができる。そのことは、惨事に対して無防備でいいということではない。〔完〕