2005年10月10日月曜日

『キリスト教図像学』

●マルセロ・パコ[著] ●文庫クセジュ ●951円+税

私がキリスト教に係る芸術に興味を覚えたのは、ロマネスク芸術への関心がきっかけだった。ロマネスク教会を特集した写真専門雑誌をみたときから、11世紀から12世紀にかけて西欧全体に広がったこの様式に魅かれた。私がこれまで考えていた西欧の芸術のイメージと大きく異なって見えたからだ。

2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに至る「巡礼の道」に沿ってロマネスク教会を巡る観光ツアーに参加した。この目で見たロマネスク芸術は、これまで抱いてきた西欧およびキリスト教芸術の先入観を払拭させた。と同時に、キリスト教芸術――たとえば、教会入口のタンパンに彫られた彫像、内部の絵画、回廊の柱頭等に描かれた装飾には、一定の決まりごとがあることを知った。たとえば、鳩は精霊の象徴であること、最後の審判においてキリストの左には悪者を、右には選ばれた善者を振り分けることなどが挙げられる。キリスト教芸術のセオリーを知ることは、キリスト教芸術をより深く理解できることにつながるに違いない、というのが、私が本書を読もうとした理由である。

本書にそのような説明もないわけではないが、本書の目指したのは、キリスト教芸術に反映されたテーマの推移を通じて、信仰のあり方の変遷を辿ることではないかと思う。キリスト教芸術において描かれたテーマは、時代時代によって異なっている。そのことは、人々がキリスト教に求めた対象の変遷を示しているといえる。

先述したとおり、私がロマネスク様式に関心を抱いたのは、ロマネスク様式(という限定された期間)におけるキリスト教図像(芸術)の中に、非西欧的諸要素を抽出したいという考えにとらわれた結果だった。一方、本書は、キリスト教の初期から宗教改革による偶像禁止に至るまでの期間――換言すれば、キリスト教が具体の表出に支えられてきた時代――の信仰の流れを図像学によって、示したものだ。であるから、範囲が広すぎて、やや物足りない面もなくはないのだが、キリスト教芸術の豊穣さを見直すには、本書は必読の解説書の1つであることは疑いようがない。

『アイルランド幻想』

●ピーター・トレメイン[著] ●光文社 ●705円+税

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本書は11の物語の集成である。原題は “AISLING and Irish Tales of Terror”。AISLINGとはゲール語で幻影の意味。本書最後の物語のタイトルになっている。11の物語とも、アイルランドに伝わる伝説、古くからの言い伝え、神話、迷信、呪いなどを現代に置き換えて、ストーリーが展開される。別言すれば、本書はアイルランド奇譚集ともいえる。

たとえば第1話『石柱』は、盲目の音楽家の殺害を企てる妻とその愛人が、逆に、屋敷の庭に立つ古代の石柱に閉じ込められてしまう話。また、本題にも冠せられている11番目の『幻影(AISLING)』は、アイルランドの孤島に赴任した若き司祭が、島の自由奔放な女性に魅せられ、禁を犯してしまう話。若き司祭は自ら命を絶つのだが、生前、その島でやはり、自ら命を絶った先代の司祭の自殺のシーンが予告のように幻影となって現れる。

アイルランドが英国の植民地から独立を勝ち取ろうとしたとき、国家・民族のアイデンティティーとして「ケルト」を選び取ったことは『妖精のアイルランド』に書いた。『妖精のアイルランド』は、アイルランドの言説のネットワークとして、“チェンジリング”だけを取り上げているのだが、本書は、アイルランド各地の伝承、神話、迷信を集成している。海や島に住む悪魔、村や屋敷や教会を舞台にした、復讐、怨念、ティンカーの呪い(のろい・まじない)など幅広い。本書を通じて、アイルランドの農漁村に伝わる古い言い伝えをくまなく体験できる。とくにクロムウエル時代の圧政により、多数のアイルラン人が命を落とした「飢饉の時代」を舞台にした支配者英国人への復讐のホラーは、凄みがある。

物語のパターンとしては、因果応報に近い。堕落、裏切り、圧政といった悪事が、古代の神や被害者たちの呪いによって、報いを受ける。だからといって、説教臭い「道徳・倫理」の押し付けではない。

人間が悪に傾くことは避けようがない。自然すなわち情念に動かされてしまうからだろうか。だが、そのまま悪が放置され許されるわけではない。犯した罪はやがて、土着の超越的力により、裁かれることになる。裁きは、キリスト教(唯一神)のものとは異なり、はてしなく強大な超自然の力によってもたらされたり、小さく弱き者の強い呪いによって、罪を犯した者にやってくる。それらを迷信や幻想といって退けるか、伝統的(土着的)裁きの方法として受け入れ、教訓や道徳の基盤として人々の心に刻むかではないか。

人を律するのは、唯一神だけとは限らない。アイルランドはカトリックの国でありながら、カトリック信仰だけの国ではないようだ。21世紀、アイルランド本国でも、古代の伝承は迷信として退けられているのだろうが、それらを自らのアイデンティティーとして、つまり、精神、社会規範のあり方の1つとして、保存する力がいまのアイルランドにあるに違いない。その力が、本書のような形式の幻想文学を生んだのではないか。

後書きの解説によると、著者ピーター・トレメインは、またの名(本名)をピーター・べレスフォード・エリスといい、著名なケルト学者とのこと。小説はピーター・トレメインの名で書き、ケルト研究の書については、ピーター・べレスフォード・エリスの名で発表するという。本書を通じて、アイルランドの神話、伝説を勉強することができる。ケルト好きな方(ケルトマニア)に、ぜひの一読をおすすめする。

2005年10月3日月曜日

『下流社会』

●三浦 展 [著] ●光文社  ●819円(税込)

FI1917671_0E.jpg 日本は江戸時代(19世紀後半)まで強固な身分制社会であった。日本社会が「士農工商」と呼ばれた職業別に階層化されていたことはよく、知られている。1868年の明治維新は、旧来の身分制社会を解消したが、近代化が旧社会からの身分制度の残滓に加えて、富による社会の階層化を促進した。その結果、新たな、しかも、複雑な階層社会が日本に形成されることになった。明治期に形成された日本型階層社会は、戦後の高度成長期前まで続いた。

明治期の東京の最下層社会の実相については、『最暗黒の東京』(松原岩五郎著)、『日本の下層社会』(横山源之助著)などによりうかがい知ることができる。また、明治から終戦までの日本の下層社会については、『日本の下層社会』(紀田順一郎著)に詳しい。

終戦後、政治的変革と経済復興に伴い、とりわけ、1960年代中葉から開始された高度成長期、日本社会に大量の中間層が形成され、また同時に、福祉政策の充実に伴い、いわゆる「食うに困る」貧困層の存在は解消され今日に至っている。(もちろん、大都市におけるホームレス問題は解消されていないが)。だからといって、戦後高度成長期以降の中間層の肥大化が、戦後社会における日本の階層社会の不在を意味しない。その理由等は後述する。

明治から戦前までの日本社会においては、旧体制支配者(華族)、明治政府と直結したブルジョアジー(政商、後に財閥に成長)、それとは別に新たに形成された新興ブルジョアジーらが階層上位を独占した。その下位に官僚、大企業勤務者(ホワイトカラー)らが続き、町場の零細商人、単純肉体労働者、職人等々が下層を形成した。だから、大都市の下町と呼ばれる地域等の町内会の役員の座は、地元の商工業者で占められていて、サラリーマン層はそこに入り込むことができない。戦前、サラリーマンは月々の給与(サラリー)がきちんと確保された特権階級だったのだ。だから、いまだに町場の商工業者はサラリーマンと価値観を共有することができない。なお、最下層は定職をもたないルンペンプロレタリアートで、彼らの大多数は被差別者や農村部から職を求めて大都市にやってきた流民層だった。

明治から終戦まで、部分的な階層流動化や脱階層化があったものの、大雑把な階層構造は戦後の高度成長期まで残存した。

戦後、先述したように高度成長により、下層及び最下層が中間層に上昇したものの、階層の上位に変化はなかった。もちろん、ミクロにみれば旧華族や新興ブルジョアジーの没落や財閥解体があったけれど、戦後社会に明治以降の階層社会の基本構造が持ち越されたことに変わりなかった。ただ、戦後の高度成長期以降は、おおよその日本人が階層の差異に無自覚でいられた社会だった。なぜなら、日本社会において中間層が肥大化した高度成長期(1960年初)からバブル崩壊期(2000年)までの40年間は、国民の大多数が階層の下降よりも上昇を経験した例外的な時代だったからだ。社会階層が厳然と存在していたにも関わらず、だれもがその存在に無自覚でいられた「幸福な時代」だったとも換言できる。

さて、本書にもどろう。いま階層分化が劇的に進行しているとよく、言われている。フリーターや派遣社員と呼ばれる非正規社員の増大などの雇用環境が変化する一方で、IT産業における若手経営者の成功により、若年ニューリッチ層が台頭し、若年層の所得格差に激しい変化が起きている、と各方面で指摘されている。

結論を言えば、そのような変化が実際に起きていて、それに伴い、若年層における価値観の変化が並行して認められる。著者は新たに形成された若年層の価値観、年間所得などを総合して、「下流」と呼ぶが、下流は「食うに困る」かつての下層、貧困層とは異なっている。

自分以外の人間が何を考えているのかはわかりにくい。まして、階層だとかグループだとかクラスターと言われると、そんなものが実際に存在するのかな、とも思ってしまう。しかも、若年層に見られる新しい価値観が、経済格差の反映なのか、それとも、原因なのかを断ずる困難さを筆者は感じている。
 
たとえば、従来まで中間層に自動的に組み入れられたはずの若年層が、自らの価値観にしたがって、敢えて下層=「負け組」を選択しているのではないか。それとも、現在の社会システムの変化が、彼らを下層に振り分けているのか――という問いだ。

人間の価値観を定量的に調査し分類する(本書のような)専門的手法は、筆者には、魔法のように映る。親の職業やら学歴やら、消費の実態から価値観までがみごとなまでに整理され、そこから炙り出された結論は、日本社会の新たな分化の実態である。階層分化が織り成す模様は、中間層の二極化であり、とりわけ、30歳前後の若者(団塊ジュニア)の二極分化だ。「勝ち組」と「負け組」とが急速に分化し、それぞれの価値観にそった消費傾向、意識形成が認められるというわけだ。
 
高学歴の親をもった子供は高学歴になり、したがって、上層の親の子供は必然的に上層に振り分けられる。そのような社会システムが知らず知らずに稼動して、階層は固定化されていくのだろうか。

キーワードは、「自分らしく生きる」ということではないか。マルクスは、資本主義社会では疎外された労働を余儀なくされるが、共産主義社会では人々は疎外された労働から解放され、その結果、労働者の才能は無限に解放開花し、人々は労働者であるとともに、偉大な芸術家であることができる――というような意味のことを『ドイツイデオロギー』に書いた。

資本主義社会において、若者が「疎外された労働」に従事することを自覚的に拒否するのか、それとも、労働により富を得、権力を握ることを自覚的に「よし」とするかだ。問題は、労働一般に対する日本人のエートスに関わっている。具体的にはこういうことだ。企業に正規採用されれば、たとえば、本人が希望しない営業職に配属され人に頭を下げなければならなくなるかもしれない。自分はパソコンが得意だからといって、その分野に配属されるとは限らない。ならば、自分の好きなパソコンのスキルを生かして、派遣社員で生きていこう、と考えるのは不思議なことでもなんでもない。企業に入っても終身雇用ではない。ある時点で、会社にクビを切られるかもしれない・・・そのように考えることは自然だ。
 
一方で、「自分探し」が永続しているのかもしれない。本人の才能について、本人が客観的な判断がくだせないまま、理想の仕事を追い求めて、定職につかない若者が増大することもあり得る。その結果、若者のニート、フリーターが増大しているのかもしれない。

団塊前後の世代は、働き場所はいくらでもあったから、自分探し、たとえば、「革命幻想」や「芸術家」や「文学青年」「映画青年」・・・の夢がついえても、最後は企業が拾ってくれた。終身雇用制度に守られ、よほどの怠慢がない限り、会社からクビを切られる確率は低かった。入口はたっぷり開かれていて、出口はきっちり閉められていた。もちろん、閉ざされた企業の中で、「社会人」として我慢を強いられていたとは言え・・・それが、中流の実態かもしれない。ところがいまや、入口は狭く、実力主義とかで出口は限りなく広い。若年労働者が企業に正規(法的)に雇用されなくなったのだ。

本書が見出した“新たな階層集団=下流社会指向”について、マルクスの表現を借りるならば、本人の自覚は別として、彼らの選択した雇用形態が資本主義社会における“疎外された労働”を止揚しているとは今の段階では、もちろん言えない。ばかりか、結果的には “搾取された存在”として、 社会の下層に固定され続けることになる。

いま現在の労働フォームに適応できない若者がいることは仕方がない。すべての人間に階段を昇ることを強制できない。望んで下り階段を選択する者をだれもとめることはできない。ただし、そう断言するには注釈が必要だと思う、下り階段を自覚的に選択するならば・・・と。