2012年10月28日日曜日

ドラフト信仰から目覚めよ

日本プロ野球(NPB)の新人選択会議(ドラフト2012)が25日、東京で行われた。注目の藤浪晋太郎投手(大阪桐蔭)は阪神が、大学球界NO.1右腕の東浜巨投手(亜大)はソフトバンクが、それぞれ競合の末、交渉権を獲得した。1年浪人した菅野智之投手(東海大)は巨人が単独指名、大リーグ挑戦を表明している大谷翔平投手(花巻東)は日本ハムが指名した。

今年のドラフトの注目点は、以下のとおりであった。

(1)甲子園で活躍した藤波投手の交渉権を獲得するのはどこか。

(2)神宮のエース・東浜投手の交渉権を獲得するのはどこか。

(3)昨年、日ハムの指名を拒否した菅野投手を読売以外の球団が指名するのかどうか。

(4)米国メジャーリーグ入りを希望する高校生・大谷投手を指名する球団があるのか。

クリーンな藤波、東浜に拍手

(1)及び(2)については、複数の球団が指名をし、抽選の結果、藤波が阪神、東浜がソフトバンクと、両者納得の結果を得たような気がする。ドラフト前に、どこの球団から指名されても交渉に応じる姿勢を明らかにしていた2人の人気者に拍手を送りたい。天は、善なる心を持つ者に祝福を与えるものだ。

ドラフト破り菅野を「祝福」するマスメディア

一方、(3)については、読売が単独指名で交渉権を獲得し、指名の挨拶に出向いた原監督が用意した背番号付(19番)の読売のユニフォームを菅野にきせるところがTVに報道された。まるで、入団会見のようだ。スポーツジャーナリズムのみならず、マスメディアまでもが、菅野の読売単独指名を祝福するような報道をしていたことに筆者は驚きを覚えた。

菅野の場合、単純に言って、ルール違反、“ドラフト破り”だ。菅野はドラフト前に読売以外の球団から指名を受ければ米国行きだと牽制までした。そんな菅野の頑なな姿勢を前にして、読売以外の球団も菅野指名を控えた。

▽アマチュア野球の建前さえも崩して、浪人・菅野を野球部に抱え込んだ東海大学、▽東海大学と読売の不健全な関係を疑問視もせず、伯父~甥の親族愛という虚構を盾にして、読売・菅野の強引な一本釣りを美談に歪曲したマスメディア、▽他球団を黙らせた読売――の3者は、ドラフトの健全な運営を妨害・阻害するルール違反者ではないのか。

日ハムのドラフト方針を媒介にドラフトを再考する

さて、浪人して1年間迂回して一本釣りという読売のドラフト戦略の犯罪性に対する糾弾はこのくらいにする。話題を転換して、日ハムの大谷指名を媒介にして、ドラフトというものを改めて考え直してみることにする。

筆者の推論では、日ハムは、日ハムを除くすべての日本のプロ野球関係者(プロ球団経営者、スポーツジャーナリズムはもちろんのこと、われわれファンを含めて)とはまったく位相を異にした視点でドラフトを位置づけているように思える。日ハムのドラフト戦略をみると、われわれのドラフト信仰の払拭を促しているにようにさえ思えてくる。

日ハム、菅野、大谷と2年連続で「強行」指名を敢行

日ハムは2011年ドラフト会議において、読売を“逆指名”していた菅野を「強行」指名し、今年は前出のとおり、米国球界入りを表明していた大谷を「強行」指名した。ここで“強行”に敢えてカギカッコを付けたのは、それがマスメディアの強い思い込みの表象であって、日ハムがドラフトについて遵法の精神で取り組んでいる、と、筆者は考えるが故だ。

前出のとおり、日ハムは昨年、菅野の指名権を得たものの、入団交渉に失敗している。そして、本年も大谷の指名権を獲得したものの、入団に至る可能性は極めて低い(と筆者は考える)。その根拠は、仮に大谷が日ハムの説得に応じて前言の米国行きを翻すようなことになれば、それこそ、“日ハムとの密約”と評されても仕方がないからだ。そんなリスクを負う愚者はいない。大谷が日ハムの交渉に応じることは不可能なのだ。となると、日ハムは2年続けて、ドラフト1位指名を無駄遣いしたことになる。2年連続して、1位指名を空振りすることを承知で、なぜ、日ハムは今年も大谷を指名したのか。この空振りは球団強化のマイナスではないのか。

プロ志望届を提出した、その年の一番の選手を指名する

日ハムのドラフトに係る方針は、栗山監督が明言しているように、その年の最も優秀なアマチュア選手(※日本の場合、ドラフトにかかる高校生・大学生・社会人が純粋なアマチュア選手だとは言えないのだが、とりあえず、表向き、野球を職業としていないという意味)を指名することだという。この方針がぶれることはないとのことだ。だから、アマチュア選手側が抱える思惑――たとえば、読売以外は入団交渉に応じないであるとか、米国野球界入りを希望する等の事前の意思表明――を、日ハムは無視する。

ドラフト制度は、プロ野球志望届を提出した者を指名することなのだから、たとえば、菅野、大谷がその届を出した以上、プロ球団側から指名を受ける立場にあり、ドラフト会議終了後、交渉権を得たプロ球団が志望届を出した者と交渉することは自然である。だから、マスメディアが特定の選手について、「強行」指名という表現を用いることのほうが誤りとなる。ドラフト制度が、選手と球団の事前の密約や、両者の特定の思惑に基づき運営されることを排除する以上、日ハムの指名は強行でもなんでもない。むしろ、菅野、大谷のほうが、プロ野球志望届を提出しながら、公正なドラフト制度に則らずに特定の思惑の下に行動した、もしくは行動しようとしている“違反者”と見なされるべきなのだ。しかるに、日本のマスメディアは、ドラフト制度に則り行動するプロ球団=日ハムの指名を「強行」と異状であるかのように表現し、日ハムを、不自然な行動をしている者と見なすよう、世間を誘導しようとしている。

1位指名の空振りは補強にとってマイナスか

客観的に見れば、日ハムのドラフト制度に対する方針と行動は筋が通っていて、公正であり、チーム強化のベストの方針であることは理解できる。だが、その結果として、日本のマスメディアに守られたルール違反者から交渉拒否を受け続け、1位指名権を無駄遣いすることのマイナス面はどうなのだろうか。2011年、2012年と2年連続の空振りが、球団弱体化につながるのかどうか。次にそのことを検証してみよう。

今の段階で、日ハムが2年連続で1位指名選手から袖にされたことがマイナスかどうかを判断することは困難だ。だが、日ハムのチーム力低下に直結する可能性がないとはいえない。というのも、たとえば、読売の場合、今季優勝した主力選手の入団履歴を調べてみると、1位指名の威力を無視することは難しい。

具体例を挙げておこう。高橋由伸野手の読売入団の経緯を『ウィキペディア』より以下、引用する。

1997年ドラフトにおいて、中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズ、広島東洋カープを除く9球団の激しい争奪戦が繰り広げられる。高橋の出身地である千葉の千葉ロッテマリーンズファンが「高橋君にロッテへの逆指名入団を」と署名運動を繰り広げ、数万人の署名を集めたりもしたが、高橋本人は志望球団をヤクルトスワローズ、西武ライオンズ、読売ジャイアンツの3球団に絞る。ただ本人に「慶大野球部のように伸び伸びとしたチームがいい」との意向があったため、逆指名会見直前には読売新聞グループ傘下であるスポーツ報知を含めたいずれのマスコミも「ヤクルトスワローズに逆指名入団間違いなし」と報じていたが、本人の意思を超越した、周囲を巻き込みながらの壮絶な争奪戦が展開された結果、巨人を1位で逆指名入団する。会見では笑顔が一切見られず、目には涙を浮かべていたこともあり、巨人逆指名に至るまでの経過についても終始マスコミに取り沙汰されていた。2012年3月には朝日新聞の取材により入団時の契約金が最高標準額を大幅に超える6億5千万円であったことが発覚している。
阿部慎之介捕手は、2000年ドラフト会議において、ドラフト1位(逆指名)で巨人に入団した選手。逆指名制度は読売がドラフト形骸化を図って創設したもの。いまはもちろん廃止されている。

内海哲也投手の場合、同じく『ウィキペディア』によると、ドラフトでは複数球団による1位指名での争奪戦が確実視されていたが、祖父の内海五十雄が巨人の野手だったこともあり、ドラフト直前に巨人以外からの指名は拒否することを表明した。そのため、2000年ドラフト会議では、巨人が単独で3位以降で指名することが想定されたが、オリックス・ブルーウェーブが1位指名した。指名直後に仰木彬から電話を受けるなどしたため、一時はオリックス入団に傾いたが、高校時代にバッテリーを組んでいた李景一が巨人から8位で指名されたことで再び拒否の姿勢を固め、最終的には東京ガスへ進んだ。2003年、3年越しの願いが叶って自由獲得枠で巨人に入団。自由枠制度というのは当時、ドラフト形骸化を画策した読売が創設させた制度でいまはない。内海は言うまでもなく、ドラフト破りで読売入団した前歴の持ち主である。

また、長野久義野手も日大卒業後の2006年ドラフトで日ハムの指名を拒否し、社会人野球Hondaに入団、2008年ドラフトではロッテの指名を拒否し、Hondaに残留。2009年ドラフトで読売が単独指名を果たし、読売に入団した、これまたドラフト破りの前歴をもつ。

沢村拓一投手は、2010年ドラフト前に「読売以外なら海外」と宣言して、読売の単独指名を勝ち取った、これまた、事実上のドラフト破り選手。主力選手のうち、まともにドラフト入団したのは、2006年の高校生ドラフトにて堂上直倫のハズレ1位で指名した坂本勇人野手くらい。

つまり読売の現在の主力選手構成について大雑把に言えば、▽読売主導によりドラフト制度を形骸化した「逆指名」「自由枠」で「合法的」に獲得した選手、▽事前の「読売以外ならば入団拒否」宣言により、単独指名で読売入団に成功した選手、▽FAで入団してきた選手、--で構成されていると言って過言でない。読売の今季リーグ制覇は、戦力的にみると、逆指名、自由枠入団のベテラン選手、事実上のドラフト破り選手、FA枠入団の選手による混成軍だと分析できる。

高橋、阿部、内海、長野、沢村と、ドラフト破りによる戦力補強の威力はすさまじい。だが逆に言えば、この先、高橋、阿部、内海が加齢により力の低下が確実に予測されるところから、読売が既存の保有の選手の底上げをしない限り、チーム力は落ちることは確実だ。ならば、日ハムの場合、1位指名を2年連続で、しかも、この先も含めて、指名拒否にあいつづけるというのは、相当の戦力ダウンに直結すると判断できるように思う。

アマチュアNO1を入団させなければ――という呪縛

日ハムのドラフト方針は前出のとおり、「アマチュアNO1選手を指名する」だが、読売のドラフト方針は、「アマチュアNO1選手を手段を択ばず入団させろ」だ。

これは一見同一に見えるがまったく逆のドラフト戦略だ。詳しいデータを無視して直感的に言えば、ドラフトとは、日ハムの場合、複数ある戦力アップ方策の1つなのだが、読売の場合、戦力アップの唯一・至上の手段なのだ。

近年、FA制度が創設されたため、読売の戦力アップはドラフトとFAの2つに増えたが、旧弊に依拠して読売はそれでも、ドラフトに全力投球なままなのだ。だから、読売はなりふりかまわず、マスメディアを使って世論誘導してまで、アマチュアNO1選手をとりにいく。過去においては、逆指名・自由枠の創設(その裏で破格の契約金提示)、それができなくなった近年では、入団拒否、浪人(社会人野球入団等を含む)による、単独指名による事実上のドラフト形骸化を敢行してまでもだ。

読売をはじめとして、球界はドラフト信仰から目覚めよ

ドラフト関連記事はよく売れる、というのがスポーツメディアの常識らしい。確かに、そこに人間ドラマがなくはない。希望と現実の隔たり、くじという偶然性による将来決定、人間関係(先輩、後輩、親族)、選手の夢、願望、欲望・・・それが錯綜するドラフト会議がつまらないものだとは言えまい。

しかし、プロ球団における戦力アップはドラフトによるアマチュアNO1の獲得に限られるものではない。もちろん、アマチュアNO1は逸材であろうし、マスメディアに騒がれるだけの知名度があり、――いや、マスメディアが祭り上げる虚像のNO1かもしれないのであり、マスメディアがつくりあげる知名度なのだが、――そうした逸材を補強することは人気商売のプロ球団には財産になることを否定しない。

しかし、繰り返しになるが、それだけが補強手段のすべてではない。日ハムは、2010年ドラフトにおいて「ハンカチ王子」を1位指名で獲得したものの、彼は今季、伸び悩んだ。来季以降、「ハンカチ王子」の巻き返しもなくはないのだろうが、アマチュアNO1すなわち甲子園、神宮等のスター選手が必ず戦力になるとは限らない。そうした知名度のあるスター以外にも、優れた選手はいる。新人に限ることもない。トレードもあれば、球団に余剰的資金があればFAもある。

それだけではない。筆者の直感では、日本の野球人口に比して、プロ球団12というチーム数は少なすぎる。二軍を含めた24球団でもしかり。だから、才能を発揮する前に契約解除に至る選手も多い。そうした人材を再発掘するトライアウトの広汎な活用も重要となる。チーム強化の方策の中のドラフトはその入口の1つの制度であり、優勝な選手の指名権を引き当てれば補強が完了したというものではない。

ドラフトに係った逸材を1位指名することにキュウキュウとし、▽広汎なリクルーティング、▽育成システムの強化、▽トレード、▽FA制度の活用、▽トライアウト、▽海外無名選手の発掘・・・そしてなによりも、既存戦力の底上げといった方策を怠れば、チーム力アップにつながらない。読売を筆頭とする日本の球団の多くが、なによりもマスメディア及びファンが、ドラフト信仰、ドラフト1位指名神話におかされている間は、ドラフト制度の健全な運営すらままならない。

日ハムのように育成をコンセプトとしたチーム運営を図る球団が日本に出現したことで、日本球界に希望が見いだせるようになった。読売が続けるドラフトに係る悪弊を取り除き、選手育成で球団経営を健全化させる生き方がしめされようとしている。FAで高額年俸の選手を退団させ、若い低額の年俸の選手で勝てば、球団経営は親会社に依存しなくても、自立できる可能性が高まる。ドラフトは契約金の上限が定められた球団からみれば合理的な制度だ。それを遵法に徹して使いこなすことが今後、日本球界の健全経営の方策の一つとなろう。

読売が頑なにドラフト信仰におかされ続けるのは勝手だが、少なくとも、スポーツジャーナリズム、マスメディア、野球ファンよ、ドラフト神話、1位指名信仰から目覚めたほうがいい。

日本シリーズは因縁の対決に

 今年の日本シリーズは図らずも、読売VS日ハムの因縁の対決となった。このことは昨年のドラフトで菅野指名に絡んだものだけを意味しない。読売がドラフト信仰を頑なに持ち続け、アマNO1選手の指名=入団に手段を択ばない球団である一方、日ハムは、それを強化の一方策として相対化する球団だからだ。

また読売は、FAに積極的投資を惜しまないのだが、日ハムはダルビッシュをメジャーに売り飛ばしながら、既存戦力の底上げでリーグ優勝を果たした。かたや、潤沢な資金で選手漁りをするする読売、かたや、育成型で健全経営を目指す日ハム――どちらが日本一になるのか、興味は尽きない。

2012年10月23日火曜日

橋下の朝日再攻撃は、自身と維新の会の断末魔のあがき

橋下大阪市長vs朝日新聞グループ(『週刊朝日」』及び『朝日新聞』。以下、「朝日」」と略記)の抗争は、「朝日」側が謝罪文を出し、週刊誌の連載を中止することを宣言して終息するかにみえた。ところが、22~23日のツイッタ―において、橋下が“「朝日」の謝罪の仕方が悪い”というような意味の発言で問題を蒸し返し、再び「朝日」攻撃に打って出た。

繰り返すが、『週刊朝日』が連載として掲載した記事内容については、これまで、橋下本人が自身の街頭演説などにおいて、「けっこう、けだらけ…」発言等として大筋で認めてきたもの。いまさら、誹謗中傷、人権等々で非難するにあたらない。それでも橋下は「朝日」に猛抗議し「朝日」に対し取材拒否宣言をした。これを受けた「朝日」側は謝罪声明を週刊誌及び新聞に掲載し、連載も中止した。

橋下がそれでも「朝日」を許そうとしなかった背景には、この間の「朝日」との一連の喧嘩が大衆の支持をそれほど受けていないことを地方遊説で実感したためではないか。TV報道によると、橋下が維新の会として行った最初の地方遊説の地・九州各所における彼の人気は、直前に訪れた小泉進次郎に遠く及ばなかったという。維新の会を支持する層は、地元大阪もしくは東京といった大都市居住の人びとで、理性的というよりも感情的に状況判断をするような層なのではないか。維新の会が掲げる「維新八策」といった政策は地方から支持される内容ではない。橋下が掲げる「小さな政府」「自助の精神」は、政府の補助金や公共事業で食いつないでいる地方においては理解されにくい。地方において後援会組織や労組をもたない維新の会が、国政で勢力拡大を図るための足場を築くのはそう簡単ではない。「地方」が維新の会のアキレス腱なのである。

「朝日」との抗争とその勝利がそれほど浸透していない現実を理解した橋下は、この問題が尻つぼみで終われば、賞味期限切れまで打つ手が何もない。橋下及び維新の会の政治生命を延命させるためには、「朝日」イビリで社会の関心を引っ張るしかない。橋下の「朝日」叩きは、彼と維新の会の断末魔のあがきとも言える。

2012年10月21日日曜日

佐野眞一よ、沈黙せずに橋下に反撃せよ

橋下徹大阪市長(以下、肩書省略)は、朝日新聞出版が『週刊朝日』で連載を開始した「ハシシタ 奴の本性」の打ち切りを発表したことについて、19日夜、ツイッターに「これでノーサイド」と投稿した。これにて、橋下vs朝日の抗争は、橋下の全面勝利で終息した。

あっという間の事態終息である。拍子抜け、朝日側の覚悟の無さが情けない。橋下に対し、手段を問わず追い込むつもりなら、もっと書けと言いたくなる。こんな根性なしの週刊誌・『週刊朝日』は廃刊がふさわしい。所詮は親会社朝日新聞の子会社、新聞社の余剰人材の受け入れ先に過ぎないことが露呈した。

橋下と「朝日」の抗争は表面上終息したのだが、問題は残されている。連載の主筆であるノンフィクション作家の佐野眞一の立場である。佐野の作家としての評価はこの場では論じない。それはともかくとして、この連載を進めるに当たり、取材、表現の方向性を決めたのが佐野である可能性が高い。少なくとも佐野は、橋下側からの反論、同和問題について発生する紛争については覚悟していたはずである。覚悟のうえの取材と連載だったはずである。もちろん、連載のタイトルや「DNA」等の表現は週刊誌の編集者が考えたのであろうが、橋下の家系、親族を洗い出し、その周辺情報を取材し、そのことをもって橋下の政治手法を批判するという連載のコンセプトは、そのことが正しいかどうかは別として、佐野が主導した可能性が高い。ならば、作家・佐野眞一は沈黙してはならない。連載の主筆として、橋下の攻撃に反撃する義務がある。

「ノンフィクション」といえども、それはあくまでも虚構であり、創作である。現存する著名人の実名を使用しながら、そこに作家が想像やイメージを加えることにより、実像以上の人間性・人間力・ドラマ性を描くことで小説として成立する。この連載が“ハシシタ”として開始されたのは、そのことにより、読む側に小説=虚構性を暗示したとも考えられる。

この手の作品で有名なのが、『三島由紀夫-剣と寒紅』(福島次郎[著])ではないか。本題がしめす通り、この作品は三島由紀夫を実名にした小説で、作者の福島は自称“三島の恋人”である。福島は作品内に三島との同性愛の交情シーンを赤裸々に描いている。そのことで、三島の家族から抗議を受けた。福島が三島の「恋人」だったのかどうかは詳らかではない。がともかく、そのことは三島の研究者に譲るとして、この手の小説が世に刊行されることは珍しいことではない。

また、次元は異なるが、中上健二は自らの出自を路地(同和地区)として明らかにして、小説を書き続けた。そのことが彼の作品に翳りを与え、読む側にロマン主義的インパクトを与えたことも否定できない。 しかしながら、虚構性を全面的に出した小説という形式ならば、換言すれば、佐野が橋下を素材にした小説を書くのならば、『週刊朝日』という媒体の連載という形式は適当ではない。週刊誌は新聞に準ずるメディアであり、こうしたメディアの場合、小説は「新聞小説」「週刊誌小説」として記事とは明確に分離されて扱われるのが既存のルールであるからである。このたびの『週刊朝日』の連載は小説扱いではなく、情報として、NEWSとして、もしくは政治的キャンペーンとして扱われているのである。

朝日に完全勝利した橋下は、前出のとおり、ツイッターに勝利宣言(ノーダイド)し、自らが率いる維新の会の全国遊説に出かけて行った。結局のところ、「朝日」の“ハシシタネガティブキャンペーン”は、先の当コラムに書いたように、これまた、橋下応援歌で終わってしまった。橋下の朝日に対する完全勝利は、橋下及び維新の会の政策の良否とは関わりなく、その支持率を上げることだろう。橋下及び維新の会の台頭を危惧する筆者としては誠に残念な結果である。

2012年10月19日金曜日

橋下vs朝日 その抗争の核心

このたび突如勃発した橋下大阪市長(以下、肩書略)と『週刊朝日』の抗争については、幾つかの重要な問題が複層的に内在しているのでまずもって、それを整理しておこう。問題点は次のとおりである。

(一)なぜ、橋下が『週刊朝日』に噛みついたのか

(二)『週刊朝日』の記事による橋下攻撃は正当か

(三)マスコミ報道では洗い出せない橋下の本質について

以下、それぞれについて論じる。

なぜ、橋下は朝日に噛みついたのか

橋下が『週刊朝日』の記事にこの時期、噛みついた理由は、橋下が率いる日本維新の会の凋落傾向に歯止めをかけるためである。というのも、このたび『週刊朝日』が報じた内容は、大筋において、橋下自身が自らの演説で触れていたりして、すでに本人が認めているものであり、しかも、他の週刊誌、ネット等が報道したものばかりだからである。目新しい情報はない。

もちろん、『週刊朝日』の表現(見出し、レイアウトデザイン等を含めた)はどぎついものがあり、インパクトがなくはない。橋下批判としては、内容・表現においてきわめて品がない。橋下も品がないが、『週刊朝日』はそれよりも下劣である。そうであっても、報道の内容(情報の質)においては、橋下が許容できない範囲ではなかった。にもかかわらず、彼が大声でこの週刊誌に噛みついたのは、相手が「文春」や「新潮」ではなく、「朝日」であったからである。これ幸いとばかり、橋下は「朝日」に噛みついた。彼一流のパフォーマンスである。

橋下の手法は、既存政党、公務員、大手組合、大学教授・左翼等知識人、大手メディア(なかんずく『朝日新聞』)、大企業といった既存の権威を罵倒し批判することで、下積みの庶民の支持を獲得するというもの。この手法は、ナチス(ヒトラー)と同一である。ヒトラーも、知識人・労働組合(共産主義者・社会民主主義者)、大新聞、金融業者等を激しく攻撃し、それらを「ユダヤ人」という幻想に集約して大衆をまとめあげた。橋下も同じように、「朝日」という「高級ブランド」を相手にそれを攻撃し、大衆の支持を得ようとしている。

橋下にとってこのたびの『週刊朝日』のどぎつい橋下攻撃は、支持率低下からの反撃の好材料にほかならなかった。このことで、売上の心もとない『週刊朝日』の販売冊数が上がり、併せて、橋下=維新の会の支持率が上がれば、被害者はいないどころか、双方に益が出るというもの。

『週刊朝日』の報道の正当性

このたびの『週刊朝日』に限らず、『週刊文春』等が行ってきた橋下批判の手法は誤りであるばかりか、やってはいけないことである。橋下の父親や親族が同和系暴力団であった等のその出自に触れることで彼を攻撃することは、ましてや、DNAを持ち出すこと等は、橋下が批判したとおり、血脈主義、人種決定論と変わりない。大雑把に言えば、父親・親族に殺人犯がいれば、その子供は殺人犯になる――という論理に近い。「DNA」が人格を決定するという論理に科学的根拠がない。

そればかりではない。現行のマスメディアのルールでは、同和地区を特定するような記述は行わないのが一般的である。『週刊朝日』はそのルールにも反している。朝日側が謝罪文を出したそうだが、朝日新聞出版及び100%出資の朝日新聞の役員・社員は糾弾されてしかるべきであり、彼らには厳しい同和教育が必要である。

橋下の本質

このたびの『週刊朝日』に限らず、大新聞系、大手出版社系を問わず、複数の週刊誌が依拠している橋下批判の方法論は、彼の出自を表に出すことで彼の「危険性」を強調しようとするもの。暴力団、同和、両親の離婚、アウトサイダーに属する親族たち・・・と。

しかし、橋下というのは、以前、当該コラム(7.22)にて橋下を批判したところでも明らかにしたように、そうした劣悪な環境を自身が克服したところに根拠を置いているのであって、それを隠そうとするところにあるのではない。どころか、彼の出自の複雑さ、暗さを「売り」にしているのである。

橋下は、その劣悪な環境(母子家庭、貧困、同和地区、犯罪歴をもつ親族)を克服して今日の地位に登り詰め、更に上(総理大臣)を目指そうというのである。ならば、彼の出自が暗くおどろおどろしく、かつ、複雑極まりなく、犯罪や暴力団や同和の影がちらつけばちらつくほど、その暗部が深ければ深いほど、しかもそのことを大手メディアが報道すればするほど、大衆はそこにロマンを抱き、ロマン主義的英雄像を浮き彫りにするのである。

橋下による自身の「売り込み戦略」とは、貧困や犯罪に彩られた複雑な出自を伴いつつ、それを乗り越えて法律という正義を操る者=弁護士(※法律が正義か弁護士が正義を操るかは議論の余地があるが)になり、さらに政治家を目指し、成功しつつある――という自画像を大衆に安売りすることにある。

彼を支持する層は、いまの日本の社会・経済情勢において疎外された(=下層に甘んじ、もちろん、弁護士や政治家になれなかった)人々が主流であり、橋下が敵視する管理者(既存政党、公務員、大手組合=正規社員、大手メディア、学者・知識人・・・)に対してとる攻撃的姿勢、品のない罵詈雑言に拍手を送る者にほかならない。橋下の支持層は、管理者=エスタブリッシュメントと相反する人々である。彼らにとって橋下は、エスタブリッシュメントを出自としない“俺たちの仲間”なのである。

だから、再三述べるとおり、これまで、『週刊文春』等の大手出版社系週刊誌が行ってきた彼の“恵まれない境遇”を暴く「橋下批判」は、橋下の応援歌にすぎなかった。

このたびの『週刊朝日』も同様であるが、ただ一点異なっているのは、前出のとおり、彼の見かけ上の「天敵」である“朝日ブランド”が仕掛けてくれた「橋下」批判であり、賞味期限切れの彼と維新の会にとっては、朝日の仕掛けこそがビッグチャンスの到来だったのである。橋下がこの機を逃すはずがない。

シンプルにいえば、橋下の出自に基づいた批判はよろしくない。朝日も文春も新潮も含め、この手の批判はやめたほうがいい。だからといって、橋下の政治手法については断固として批判・批評を緩めてはならない。彼は危険な思想をもった政治家であることに変わりないからである。

2012年10月18日木曜日

気温が下がってきた

今日この頃、猫たちの動きが鈍り、人間にくっついてくるようになってきた。

夜になると、二匹とも人間のベッドの上で眠ることが多いし、昼間は布団に入って寝ることもある。

ベッドがお気に入り
布団の中で寝ることも

2012年10月16日火曜日

Zazieはバステト

古代エジプトの愛の女神「バステト」は猫。

Nicoのブラッシング

最初はブラシで
恍惚の表情
次は手でなでる
イイネ

上野

新装なったUENO3153のB2「鳥良」にてランチ
帰り道に通った都美術館
上野動物園裏門のチケット売場。現在は利用できない。こちらが正門だったという説もある。
同上

2012年10月9日火曜日

上野公園に稲穂

公園に田んぼが出現
実るほど、頭を垂れる・・・

2012年10月1日月曜日

Zazie, Nico(10月)

今日から、はや10月。

恒例の猫の体重測定結果を記録しておく。

Zazieが2.9㎏で200gの減、Nicoが6.1㎏で±0である。

Zazieの体重減が気になるところ。

Zazie
Nico