2015年1月30日金曜日

“I am Kenji”は愚かな猿真似

ISIS(イスラム国)に日本人2人が捕虜となり、うち1人が殺害された後、もう1名の日本人の解放をめぐり、いまヨルダン及び日本とISISが交渉のさなかにある。そんななか、捕虜Gの友人と称する多くの日本人が“I am Kenji”のボードを掲げて解放を呼びかけている。このことについて、TV出演した日本人イスラム研究者が、“I am Kenji”は、解放にプラスにならないから、やめたほうがいい――という趣旨の発言をした。筆者もこの研究者の指摘に全面的に同意する。友人の命を助けたいという気持ちは理解できなくもないが、この手法はナンセンス。TV出演した研究者が言う通り、なによりも、この行為がイスラム圏の心情をまったく理解していないことの証左だから。

イスラム教徒から嫌われている「フランス」を真似ては救出にマイナス

“Iam Kenji”とはいうまでもなく、“Je suis Sharlie”の真似。フランス・パリにある諷刺週刊誌「シャルリー・エブド」社で12人が殺害されたテロ事件の犠牲者を悼むフランスの集団が掲げたスローガンだ。

報道にあるとおり、「シャルリー・エブド」襲撃事件のきっかけは、同誌が預言者ムハンマドを中傷したことに端を発している。日本を含む非イスラム圏においては、ムハンマドへの中傷は表現の自由だされているが、筆者はそうは思っていない。同誌のやっていることは、ペンの暴力だ。メディア業界が行うペンの暴力、言葉の暴力は確かに人を殺傷することはないが、人の心を十分痛めつけることができる。

同誌は無神論的立場から、宗教をも中傷・揶揄の対象とすると言われているが、「シャルリー・エブド」の編集者たちはユダヤ教の狂信的信者であり、ユダヤ教以外を排斥するため、イスラム教等の他の宗教を馬鹿にした表現を平然と行い、それを「諷刺」と称していると筆者は推測している。

イスラム諸国からみれば、「シャルリー・エブド」という雑誌は許容しがたい存在だ。たとえば日本人が天皇を同性愛者にした「諷刺」漫画を描かれたらどういう気分になるだろうか。それも「表現の自由」なんだ、と寛容になれるだろうか。日本人には雑誌社を襲撃するだけの勇気はないが、イスラム教徒の中には直接的暴力に向かう者もいる。

いま日本人に求められているのは、「表現の自由」という教条主義に陥ることではない。異なる宗教、異なる主義主張を認め合うことではないのか。いまある宗教を侮蔑する行為は厳に慎むべきだ。

このような背景に鑑みれば、ISISに限らずイスラム教信徒から嫌われている「フランス」の猿真似をすることは得策ではないばかりか、直ちに中止すべき表現行為にほかならない。マスメディアもこの手の解放呼びかけの報道を控えたほうがいい。

英米が喧伝する「人命の非対称性」を認識せよ

あるNGOが公表しているイラク戦争の犠牲者の統計によると、その79%がイラク民間人で12万7,980人。残りの約2割が米軍兵士やイラク人治安関係者・武装民兵だという。うち、米軍主導の有志連合軍によって直接殺害された民間人は1万4,705人だという。

また、昨年7-8月、イスラエル軍によるパレスチナ・ガザ地区の殺戮によって生じた犠牲者はパレスチナ人2,140人、イスラエル側は兵士64人、一般市民6人と言われている。つまり、米国によるイラク戦争やイスラエルによるパレスチナ人虐殺により、多数のアリ、アブドゥーラ、オマール、イスマエール・・・が命を落としているのである。人命が第一とするならば、わたしたちは、イラク戦争及びパレスチナ・ガザ地区におけるアラブ人虐殺を前にして、“Je suis Abdullah” am Ali”を叫ぶべきなのだ。

日本人人質事件の不可解さ

さて、ISISによるこのたびの人質事件については既に多くの報道がなされている。報道を読んでみると、不可解さが拭えない。まず、日本人のYがシリアに渡ったのが昨年の7月28日。翌月の8月14日に米国がISIS掃討のための空爆を開始していて、同月14日にYはISISの捕虜となっている。報道によるとYは民間軍事会社を設立しているというから、シリア入国は民間人として軍事行動に参加するか情報収集のためだと推測される。ネット上には小銃を携えたYの写真が流れていることから、Yの目的は前者であり、それ故、筆者はYをISISの捕虜と表記する。

もう一方のGはフリージャーナリストと言われている。彼は昨年10月25日、ISISに捕虜になったYを救出するという目的でシリア北部のISIS支配地域に単身「入国」したが、その後連絡が途絶えた。あくる年の1月25日、ISISが身代金を支払わなければ日本人の人質YとGを殺害するという脅迫動画をネットに投稿したことから、2人がISISに捕えられたことが明らかになり、今日に至っている。ところが、ネットに囚われの身が投稿される前、ISISからGの家族宛等に身代金要求があったことがわかっている。当然、日本政府も二人の誘拐を承知していたはずだ。

その間、日本のAB首相がISISと対峙するヨルダン、エジプト、イスラエルを支援する目的で中東を訪問。1月17日にカイロにて、これら3国に2億ドルの支援を約束する演説を行った。また、アラブと厳しく対立するイスラエルにおいて、AB首相はネタニヤフ首相と日章旗とダビデの星が輝く「六芒星旗」を背景に親密ぶりを世界に発信している。両国はテロ対策について連携強化の共同表明を発している。

ABが日本の首相として、イスラエルと極端な親密ぶりをアピールしたことは異例のこと。日本の中東外交が大きく変容しつつあることを象徴している。戦後、自民党政権下において、日本の対アラブ外交は親イスラエルの米国と一線を画し、親アラブを貫いてきた。アラブの産油国が石油輸入国の日本の命運を握っているという現状認識からであり、米国との同盟関係にあっても、日本とアラブとは友好関係が築かれていた。ところが、ABが前出のとおり、米国主導の有志連合に積極的に加担し、人道支援という名目の実質ISIS掃討のための軍事支出の肩代わりを明らかにしたことから、アラブの日本観は大きく変化することが懸念される。

イスラエルはもちろんのこと、ヨルダンは正統カリフの継承をめぐり、ISISと因縁浅からぬ間柄である。日本のヨルダン支援は、ISISを刺激するに十分なものとなった。(※ISISとヨルダンの因縁の関係については、1月30日・東京新聞朝刊の記事が簡潔にまとめられているので一読をお薦めする。)

ABのイスラエル、ヨルダン、エジプト訪問と今回のISISによる誘拐殺人事件との関係をどう見たらいいのか。一部報道にあるように、ISISがYとGを捕虜とし、取引の材料として事件化したことと、ABの中東外交は大いに関係がある。ISISに限らず、アラブ民族派にとってイスラエルはもちろん、同じアラブにあってヨルダンは敵である。イスラム同胞団を与党として投票により政権の座に就いたモルシを軍事クーデターにより打倒したエジプト現政権も米国の傀儡とみなしている。親米ヨルダン及び米国傀儡のエジプトが日本からも支援を受けるということは、ISISにとっては見逃すことができない。加えて、イスラエルとの親密ぶりだ。AB外交のアラブ敵視により、日本国民はISIS等のターゲットになり続けることを覚悟しなければならなくなった。

YとGの隠されたミッション

さて、YとGである。この2人には報道されていないミッションが託されていたようだ。前出のとおり、Yのシリア入国は民間軍事会社設立と無関係ではない。どころか、その運営の一環であろう。軍事会社というのは戦争屋である。その内実はハリウッド映画によってしか知るよしもないのだが、要人警護、軍事物資の物流、戦闘(傭兵)・・・と、戦争に関連するものならなんでも受注するらしい。その経営者(実績はないとはいえ)が戦闘地帯を一方の勢力に同行して銃を所持してうろつけば、敵対する勢力に捕えられて不思議はない。

不可解なのは、Yの資金の出どころだ。日本では現在需要がないと思われる民間軍事会社に出資する企業・個人がいるのだろうか。日本のどういう筋からYに資金が流れたのかも知りたいものだ。

もう一人の人質Gは人道主義的カメラマンだと報道されているが、彼のミッションがYの救出であったということは大いなる謎だ。ISISに単身乗り込んで渉りあい、Yを救出できるとは思えない。筆者の推測だが、GはY救出を個人的事業としてではなく、国家レベルの権威のもとに遂行しようとしたのではないか。ISISからYを連れ戻す、連れ帰るというのは事前に相手とのネゴシエーションができていなければ不可能だろう。Gは国家レベルのネゴシエーションを経てISISにYを引き取りにでかけたのだったが、何かの理由により、ISISとの合意が破棄され、Gも囚われの身となった、と考えられる。

ISISは、英語ができるGにこの先の利用価値を見いだした。もう一方の英語が喋れないYは、ISISに利用価値を見出されず、あっさりと処刑されたようにも感じるし、Yが軍事行動に参加した敵国軍人だったから処刑したとも考えられる。

Gはともかく、Wには北大生が逮捕された「私戦予備および陰謀の罪(刑法93条)」が適用されてしかるべきだったのではないか。民間軍事会社経営者が咎めなしにシリアに渡航できた一方、北大生が「私戦予備罪」でシリア渡航前に逮捕されたのは合点がいかない。


2015年1月27日火曜日

『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』


●矢部宏治〔著〕 ●集英社インターナショナル ●1200円+税


本書読了後、ふと、三島由紀夫のことが頭をよぎった――などて天皇は人となりたまいし――『英霊の聲』『文化防衛論』で展開した、戦後民主主義批判、戦後の象徴天皇制批判である。三島と本書は見事に通底する。

戦後民主主義批判を行ったのは、三島だけではない。60年安保闘争後から60年代末に湧きあがった新左翼運動も戦後民主主義批判を行った。

しかし、三島や新左翼の戦後民主主義批判は本書ほど洗練されたものではなかった。当時は日米間の外交文書の公開はじゅうぶんではなく、また、GHQによる日本統治に係る研究も今日の水準とはほど遠かった。なによりも、当時の戦後民主主義批判は情念的であって、GHQの占領政策や日米安保法体系について検証する姿勢を欠いていた。とはいえ、時代の限界性を伴いつつも、三島は昭和天皇の“人間宣言”に戦後日本の欺瞞を直観的に自覚しそれを作品化し、新左翼は日米安全保障条約に日本の戦後体制そのものの欺瞞を直観的に政治課題として「安保粉砕」を叫んだ。本書にて展開された戦後民主主義批判と当時の情念的それ(三島と新左翼)は、結論において同じである。そのことは本書を読んでみれば納得できると思う。

本書のテーマは、本題に示されたとおりきわめて明確である。「原発再稼働問題」と「基地問題」が国民の思いとは反対の方向に体制側(政治・行政・司法・学界・マスメディア等)によって、進められていくのはなぜなのか。

それだけではない。著者は、次の素朴な疑問――民主党が政権をとって首相となった鳩山由紀夫が米軍・普天間基地の県外または国外への「移設」を言い出したところ、鳩山政権はあっというまに崩壊した――その謎を解きたい――ということも、本書執筆の動機だという

本書はそうした体制(権力)の推進力――根拠を明らかにしていく。その謎の解をここに書いてしまえばいわゆる“ネタバレ”になるから書かないが、ヒントとして、「日米安全保障(安保)条約」「日米地位協定」「日米原子力協定」そしてそれらに記されていない「密約法体系」を挙げておく。これらを総称して著者は「安保法体系」という。さらに注目すべきは、「日米合同委員会」なる組織である。

この日米合同委員会のメンバーがその後どうなっているかを調べてみると、このインナー・サークルに所属した官僚は、みなそのあと、めざましく出世している。とくに顕著なのが法務省で、省のトップである事務次官のなかに、日米合同委員会の元メンバー(大臣官房長経験者)が占める割合は、過去17人中12人。そのうち9人は、さらに次官より格上とされる検事総長になっているのです。
このように過去60年以上にわたって、安保法体系を協議するインナー・サークルに属した人間が、必ず日本の権力機構のトップにすわるという構造ができあがっている。ひとりの超エリート官僚がいたとして、彼の上司も、またそのまた上司も、さらにその上司も、すべてこのサークルのメンバーです。逆らうことなどできるはずがない。だから鳩山さんの証言にあるように、日本国憲法によって選ばれた首相に対し、エリート官僚たちが徒党を組んで、真正面から反旗をひるがえすというようなことが起こるわけです。(略)
彼らは日本国憲法よりも上位にある、この「安保法体系」に忠誠を誓っていたということです。(P52)

「安保法体系」に異議を唱えて検察テロに倒れた政治家といえば、田中角栄、前出の鳩山由紀夫、小沢一郎、細川護熙が思い浮かぶ。最近では小渕優子もその可能性が高い。いずれの者も“政治とカネ”の問題に端を発し、検察が動き、マスメディアが失脚に世論誘導し、政治生命を止められる、という構図である。それが「日米合同委員会」によって執行されている証拠を示すことはできないが、日本国の現実は、70年間に及んで、日本の国益よりも米国の国益に従っているのである。

本書はこうした日米関係が構造化された歴史的経緯について、日本の敗戦時から遡って明らかにしていく。本書を読むと、日本の戦後体制が構築されていくさま(たとえば、昭和天皇の人間宣言、日本国憲法の制定等)が、米軍の占領戦略、権益確保、そして「東京裁判」との関係で進められたことがわかる。それらに関連するキーワードとして、戦勝国(連合国)による「敵国条項」も覚えておこう。

本書は誠に示唆多き書である。戦後70年の節目の今年、日本を見直すという意味で必読の書である。本書が、なぜかマスメディアからも学界からも取り上げられることがなく無視されるのか。その理由も本書を読めば理解できる。ぜひの一読をお勧めする次第である。

2015年1月25日日曜日

写真集ができた

娘が、筆者のモロッコ旅行の写真を本にしてくれた。

我ながらなかなかの出来だ。

いつもPC上で見ている写真が紙になると、価値観が変わる。

ありがとう。






2015年1月23日金曜日

モーリのクリエイションクラブ展「神々のマスク」

不思議な展覧会である。


全国の美術、芸術とは無縁の人々が、部活動というかたちで創作した手づくりのマスク・100点余が集まった。

マスク、すなわち神である。

コラボレーション美学(国籍、性別、年齢を問わず、イキイキ活動する人々から生まれた美しい世界)と呼ばれるこの活動は、毛利臣男が提唱し、広げているもの。

毛利臣男はイッセイミヤケのファッションデザイナーおよびファッションショー演出を担当した後、モーリス・ヴェジャール、パリオペラ座のバレエ衣装等、世界のデザイン界で活躍するアーチスト。

その活動はいわゆるジャンルを越えている。

日本では猿之助の「ヤマトタケル」の舞台衣装を手掛けたことでよく知られている。

筆者は彼が三宅一生のところで仕事をしているときに出会った。

さて、展覧会の印象。マスクはそれぞれ個性的で、個別的であるが、どうやら地域ごとに似通っている。

唐津のもの、山口のもので、アイデンティティーを感じる。さらに神としての同一性も感じられる。

このことは人が神を外化するときに、無意識の集合性として表象する結果なのか。

そこに日本人の基層の神が潜んでいるのかもしれない。

なにやらユングのようだ。








毛利臣男



この展覧会はさらなる発展が期待される。

世界を見渡せば、独特のマスク文化をもつメキシコが、そして、アフリカ・マリ共和国のドゴン族の仮面のダンス、チベット仏教の仮面劇(筆者はインド北部のラダック地方で見たことがある)も思い浮かぶ。

ラダック地方の仮面ダンス(筆者撮影)
ユーラシア、アフリカ、アメリカ大陸とのマスクの共演・・・が

2015年1月16日金曜日

猫は寒がりである

筆者が就寝すると、猫は筆者のベッドにやってきて、脚元で眠ろうとする。

 猫が二匹とも狭いベッドに上がるとなると、窮屈で眠れない。

いつのまにか無意識のうちに猫たちを払いのけているようだ。

それでも、二匹は筆者の脚元を避け、二匹くっついて筆者のベッドの上で寝る。

人間の体温が伝播していて暖かいに違いない。






2015年1月2日金曜日

Happy New Year 2015

あけましておめでとうございます。

ひどい2014年がやっと終わった。

今年はいいことがあるといいな。

というわけで、新年は猫の体重測定から。

Zazieが4.3㎏(前月比+100g)、Nicoが6.1kg(同-100g)。

誤差の範囲だろう。

寒いので2匹ともくっついてくるし、布団の中に入ったり乗ったりでたいへん。


Zazie

Nico