●出井康博〔著〕 ●新潮文庫 ●700円+税
松下政経塾について考えるということは、野党第一党である民主党について考えることにほかならない。
同塾の政治家のことは、テレビを通じてしか知らない。多くが民主党に属していて、テレビの露出で顔を売り、気の利いたコメントで有権者をひきつけ選挙に当選しようとする魂胆がミエミエだ。ワイドショー、お笑い番組、討論番組、クイズ番組等々、彼らには番組選択の指針がない。とにかく目立てばいい・・・。
国会議員がメディアを通じて、国民に政策等を直接語ることは間違っていない。他党と議論することも正しい。けれど、日本のテレビ番組には真面目な政治番組は少ない。同塾出身のある民主党議員は、テレビのバラエティー番組において、闇勢力との関係を取りざたされたことのある保守系の元国会議員を「センセイ」と呼び、じゃれあっている。こんな情景を塾の創設者である故・松下幸之助は、草葉の陰で何と思うか。
故・松下幸之助が創設した同塾は構想から今日まで、多くの政治家を輩出した。中に国会議員も多数含まれている。その意味で、幸之助の計画は失敗していない。だが、この成果は、同塾の自律的成果とはいえない。本書が指摘するとおり、「政治改革」の嵐が吹き荒れた当時の勢いに負っている。細川護熙が率いる日本新党が台風の目となり、自民党単独政権を倒した。新党に結集した若手議員が同塾出身者だった。今日の隆盛は、その当時の果実をいまなお享受している結果ではないか。
日本新党に結集した若き政治家たちは、“堕落”した自民党とは異なる、真正の保守政党を立ち上げるという野望を抱き、そのとおりの結果を出した、いや、立ち上げるつもりだったと言った方が適切かもしれない。いま思えば、当時の政治改革=小選挙区制の施行は、戦後政治の分岐点だった。
小選挙区・政党助成金等の新制度は、〔自民党〕対〔もう一つの保守政党〕による二大政党制確立を目指したものだったが、日本の革新=社民主義の息の根を完全に止めるという、大いなる副産物をもたらした。日本の革新政党が真に労働者の味方であったかという本質的問題はあるものの、細川護熙が首相として率いた与党連合(日本新党・新進党・公明党)から、自・社・さ連合政権の誕生、さらに、自民党・公明党連合政権の誕生という第ニ波、第三波により、日本の革新政党は概ね死滅した。この激動を縫って、同塾から、若い政治家が国政選挙に当選し、いま、民主党に寄り集まるに至った。これを偶然の妙というべきか、幸之助の陰謀と見るかについては、どちらとも言えない。が、結果として、日本には革新を標榜する政党は存在しなくなり、資本の側に好都合となった。
さて、本書が提供する同塾にまつわる情報のうち、興味深いものの一つは故・松下幸之助の政治への関心ぶりだ。日本有数の電機メーカーの創業者にして“経営の神様”と呼ばれた松下が当時、自民党政権に幻滅していたことが本書から窺える。松下は、自民党について、農を基礎にした土着政党だと認識していたふしがある。幸之助は、メーカー(製造業)にして全国販売網(代理店制度)を構築した経営者だ。彼は、事業者の経営感覚で日本国をマネジメントしなければ日本は滅びる、という危機感をもっていたようだ。それが、政経塾創設につながり、塾から新党結成、政権奪取の構想となった。
本書の冒頭、著者(出井康博)が、引退した細川護熙に幸之助との関係を直接問う場面が出てくる。松下政経塾と日本新党(その前身の「新自由主義連合」)との関係の有無だ。細川はその関係を否定する。この否定はポーズなのか。もし、細川新党が幸之助の影響で誕生したものならば、幸之助の政治への野望は成功したことになるのだが・・・本書の“おもしろさ”はこの一点、すなわち、幸之助と細川護熙の関係の究明にある。細川新党は幸之助の影響下で構想されたのかどうか――については、本書を読んでほしい、だから結論はここに書かない。
もう1つ興味深いのは、同塾と今日の民主党の関係だ。政治改革以降、同塾出身の政治家は、民主党が受け入れるという構図ができあがっている。先述したように、同塾の設立趣旨は自民党に成り代わる政党であるから、塾生が自民党に入党することはあり得ない。せいぜい、新自由クラブ、日本新党あたりまでが受け皿として相応しかったように思う。
民主党は、▽小沢一郎党首に代表される自民党経世会、▽旧民社党(旧同盟系)、▽旧社会党(旧総評系)、▽市民運動活動家、を含む寄り合い所帯だ。同塾に入って政治家になろうとする人間と、市民運動を母体にして政治活動に踏み出した人間や組合幹部から政治家になった人間とが一党の綱領を共有することは困難に近い。これが第一の不幸だ。たとえば、偽メール事件で退陣した前代表・前原誠司は、京都大学のK教授の弟子だ。K教授と言えば、日本版ネオコンだ。メール事件を直接引き起こした永田議員は同塾出身者ではないが、前原誠司・野田佳彦の執行部2人は同塾出身者だった。このときの執行部の無能・無策ぶりは記憶に新しいし、メール事件がなければ、民主党は、BSE問題、耐震偽造問題等々で窮地に追い詰められた小泉政権を打倒できたかもしれない。倒幕の絶好機を塾の2人が逃すという失態をやらかした。同塾出身者は明治維新を理想とするらしいのだが・・・
次なる不幸は、政経塾が金持ちの経営者である松下幸之助の思いつきに端を発し、松下家の後継者問題が塾運営に影響を与え、さらに、その運営が稲盛和夫(京セラ名誉会長)の影響にさらされたことだ。稲盛和夫は、『カルト資本主義』(斎藤貴男著)に詳しく書かれているとおり、極めて特異な経営者だ。本書が指摘するように、松下幸之助、稲盛和夫が崇拝するのは中村天風という宗教家だ。その意味で、松下、稲盛を近代的経営者と呼ぶことに躊躇する。しかも、政経塾が中村天風の影響下にあるパトロンや幹部職員に支えられている現実を無視できないし、民主党の議員にも天風信奉者がいることが懸念される。
天風を崇拝する日本型経営者を近代的経営者と呼ばない。大雑把な話、資本主義的経営すなわち、近代的経営には、徹底した成果主義を価値観とする米国型経営と、労使の取引で経営を進める西欧型(社民主義)経営がある。この2つは相反する外観を見せながら、資本と労働の対立という基本原理を共有している。
一方、日本型経営は労使の対立は会社=家(ウチ)という共同体的概念の中でメルトダウンしている。近代的経営(労使対立型)と日本型経営のどちらが正しいのか、またどちらが働く者(多数)に幸福をもたらすのかについては、いま問題にしない。ここでは、一方(西欧)が近代的経営であり、一方(日本)が共同体的経営にあるということを確認しておく。
結局のところ、政経塾を論ずることの意味は、民主党が働く者の見方なのか、そうでないのかを確認する作業に帰着する。民主党結党の際に、水と油ほども異なる政治信条をもった小沢一郎と菅直人を結びつけたのが稲盛和夫であることを、本書で初めて知った。その稲盛和夫の経営哲学は、社員を「社畜化」することだ。「社畜」というのは、経営者に対しどこまでも従順である労働者のことだ。社畜になれば、労働組合運動はもってのほかだし、労働者の権利も主張せず、経営者に心酔して身を粉にして働く。松下幸之助はそういう意味で、経営の神様だった。稲盛和夫は幸之助を範とした。「経営の神様」という意味は、労働者をマインドコントロールして無力化することだ。松下政経塾は、そのような経営哲学をもった幸之助の発想によって生まれた政治家養成機関だ。そして、同塾で純粋培養された政治家が、日本の最大野党である民主党に参集している。この事実をどう考えるか。
さらに言えば、先述したとおり、民主党結党の裏には、稲盛和夫というカルト資本家がオルガナイザーとなり、小沢一郎と菅直人を結び付けた。この2人の手打ちによって、日本の勤労者圧殺の企みの道が大きく開けたことになる。いま、民主党は野党第一党として、自民党を補完している。民主党の中に労働組織は埋没している。民主党は、労働者を「社畜」として扱う経営者が創設した塾を出た野心家たちによって、牛耳られようとしている。民主党は、ここまで紆余曲折を経ながらも、野党第一党として存在している。その存在理由は、民主党が、日本の勤労者を封じ込める圧殺装置の役割を果たすが故なのだ。
今日、ワーキングプアと呼ばれる最下層労働者の悲惨な暮らしがマスコミに取り上げられるようになった。ところが、本書を読む限りでは、同塾出身の政治家は、選挙のときに役立つか、役立たないかを物事の価値判断にしているらしい。松下政経塾を出た民主党の若手政治家は、ワーキングプアをどう見、どう考えるか。おそらく、彼らにはワーキングプアの存在は目に入っていない。だから、もちろん、考えていない。 (2006/12/11)
2006年12月11日月曜日
2006年12月7日木曜日
三島由紀夫――その生と死
●村松剛〔著〕 ●村松剛 ●500円(昭和46年5月第一刷)
どのような本であっても、読み進めるうちに一箇所くらいはなるほど、と思わせる記述にぶつかるものだ。
本書は三島由紀夫の生前、三島の最も近くにいた、といわれる保守系文化人の一人の手になる三島由紀夫論だが、三島論としては平凡だ。壮士ぶった保守系文芸批評家だった著者(村松剛)だが、三島の自決を知ったときの慌てぶりが尋常でなかったことがうかがえる。三島に同志的つながりを感じていたのは著者(村松剛)ばかりで、三島は村松に決行を知らせなかった。本書を読む限り、決行当時、三島を理解する者は皆無だったようだ。
さてさて、冒頭に記した、なるほどと思わせるのは、著者(村松剛)が三島の戯曲『わが友ヒトラー』を評した文中――「政治というものは、川に橋をかけたり物価を調整したりする技術である。」(P104)という箇所だ。この表現は、著者(村松剛)のオリジナルではないようなのだが、目から鱗が落ちた。
著者(村松剛)は、ヒトラーを芸術家とみなし、政治に美・理念・理想を求めると、とりかえしのつかない誤りが生じるというような意味の記述を続ける。著者(村松剛)はヒトラーの狂気を芸術家という資質に求めている。この見解には賛同しかねるものの、ヒトラー、スターリン、ポルポト、毛沢東らの人類史的な誤謬の根源には、橋をかけること、物価を調整することよりも、人類の理想の追求があったことは間違いない。政治(家)が、美・理想・ユートピア思想から逆規定して現実を修正し始めたとき、虐殺・戦争・粛清が回避できなかった。著者(村松剛)は政治の逆説的メカニズムに気づいている。
このような観点にたてば、戦後の日本の保守政治はただひたすら、川に橋をかけ続けてきたことになる。日本の戦後の保守政治とは、そのような政治であったし、いまでもそうだ。東西冷戦当時、日本は結果的には西側に属したけれど、イデオロギーとして積極的に西側を選択したわけではない。平和主義、自由と民主主義の名の下に、かつての、国体、大東亜協栄圏、国粋的美・伝統文化の継続性も忘れたのが、戦後政治だったし、軍事(武)までも米国に依存した。橋をかけるために、政治は国富から予算を奪い取り、業者間の談合で「物価」を調整してきた。日本人にとって、政治とは技術だった。その結果として、日本人は莫大な富を得ることに成功した。
三島が攻撃したのは、そのような日本の戦後政治のあり方であり、そこにどっぷりと漬かった日本のマルティテュードのあり方だった。三島は戦後の否定者として、まず、日本型政治に規定された自衛隊に代わって、美しい軍隊を求めた。技術に勤しむ日本の戦後政治家に代わって、潔い(美)壮士のごとき政治家を望んだ。
いま、「美しい国」という政治のキャッチが新しい。政治に関して、美を求める政治家が登場したとするならば、日本人は全体主義の到来を覚悟しなければならない。だが幸いにして、「美しい国」を掲げる首相は凡庸であり、ヒトラーのような「芸術家」ではない。このキャッチフレーズはまやかしである、幸いにも。 (2006/12/07)
どのような本であっても、読み進めるうちに一箇所くらいはなるほど、と思わせる記述にぶつかるものだ。
本書は三島由紀夫の生前、三島の最も近くにいた、といわれる保守系文化人の一人の手になる三島由紀夫論だが、三島論としては平凡だ。壮士ぶった保守系文芸批評家だった著者(村松剛)だが、三島の自決を知ったときの慌てぶりが尋常でなかったことがうかがえる。三島に同志的つながりを感じていたのは著者(村松剛)ばかりで、三島は村松に決行を知らせなかった。本書を読む限り、決行当時、三島を理解する者は皆無だったようだ。
さてさて、冒頭に記した、なるほどと思わせるのは、著者(村松剛)が三島の戯曲『わが友ヒトラー』を評した文中――「政治というものは、川に橋をかけたり物価を調整したりする技術である。」(P104)という箇所だ。この表現は、著者(村松剛)のオリジナルではないようなのだが、目から鱗が落ちた。
著者(村松剛)は、ヒトラーを芸術家とみなし、政治に美・理念・理想を求めると、とりかえしのつかない誤りが生じるというような意味の記述を続ける。著者(村松剛)はヒトラーの狂気を芸術家という資質に求めている。この見解には賛同しかねるものの、ヒトラー、スターリン、ポルポト、毛沢東らの人類史的な誤謬の根源には、橋をかけること、物価を調整することよりも、人類の理想の追求があったことは間違いない。政治(家)が、美・理想・ユートピア思想から逆規定して現実を修正し始めたとき、虐殺・戦争・粛清が回避できなかった。著者(村松剛)は政治の逆説的メカニズムに気づいている。
このような観点にたてば、戦後の日本の保守政治はただひたすら、川に橋をかけ続けてきたことになる。日本の戦後の保守政治とは、そのような政治であったし、いまでもそうだ。東西冷戦当時、日本は結果的には西側に属したけれど、イデオロギーとして積極的に西側を選択したわけではない。平和主義、自由と民主主義の名の下に、かつての、国体、大東亜協栄圏、国粋的美・伝統文化の継続性も忘れたのが、戦後政治だったし、軍事(武)までも米国に依存した。橋をかけるために、政治は国富から予算を奪い取り、業者間の談合で「物価」を調整してきた。日本人にとって、政治とは技術だった。その結果として、日本人は莫大な富を得ることに成功した。
三島が攻撃したのは、そのような日本の戦後政治のあり方であり、そこにどっぷりと漬かった日本のマルティテュードのあり方だった。三島は戦後の否定者として、まず、日本型政治に規定された自衛隊に代わって、美しい軍隊を求めた。技術に勤しむ日本の戦後政治家に代わって、潔い(美)壮士のごとき政治家を望んだ。
いま、「美しい国」という政治のキャッチが新しい。政治に関して、美を求める政治家が登場したとするならば、日本人は全体主義の到来を覚悟しなければならない。だが幸いにして、「美しい国」を掲げる首相は凡庸であり、ヒトラーのような「芸術家」ではない。このキャッチフレーズはまやかしである、幸いにも。 (2006/12/07)
2006年12月3日日曜日
21世紀のマルクス主義
●佐々木力〔著〕 ●ちくま学芸文庫 ●1,300円(+税)
わが国では、企業は過去最高益を記録する好景気にもかかわらず、労働者の暮らしはいっこうに良くならない。どころか、残業代カット、リストラ、医療費等の負担増で苦しめられている。若者にまともな働き口がなく、パートや派遣といった劣悪な労働条件で雇用されている。下流社会、下層社会、格差社会が固定的に形成されようとしている。
一昔前なら、こうした状況は、搾取という概念で説明されたものだ。労働者は搾取されていると。賃金、雇用、労働条件等の決定のメカニズムは、[企業(ブルジョアジー)]対[労働者(プロレタリア)]の階級対立という概念だ。ところが、20世紀末、ソ連・東欧の自由化による、「社会主義国家」の消滅以降、わが国においては、社会主義、マルクス主義の思想的潮流は完全に消滅してしまった。もちろん、階級対立の概念も、喪失してしまった。新自由主義経済、市場万能主義が幅を利かせ、「勝ち組」と呼ばれる一握りの資本家に富が集中する社会を容認するムードが、徐々にだが間違いなく人々の心を覆っている。
一方、消滅した旧社会主義国家のソ連はロシアと名乗り、自由と民主主義を旨とする国になったはずだが、現実には、政府を批判した複数のジャーナリスが殺害されたり、国家機密を知る元情報部員が亡命先のイギリスで暗殺されるという、恐怖政治が支配する国になってしまった。いまのロシアは、旧KGB幹部であるプーチン政権下、自由と民主主義どころではない。マフィア、秘密警察と結託した、暗黒国家になってしまった。
自由と民主主義のリーダーであるはずの米国は、国内的には人種差別、治安悪化、富の独占という諸問題を抱えたまま、国外では、対テロ戦争という大義名分の下、持続的侵略戦争国家へと変貌してしまった。ブッシュ政権の米国こそ、典型的な帝国主義国家と規定できる。
資本主義の矛盾が露呈する今日、そして、地球規模の(グローバルな)帝国主義の時代にあって、ロシア革命を成功させたレーニン主義、トロツキイ主義、そして、その原理としてのマルクス主義による、反帝国主義運動の再編がグローバルに求められている。
さて、著者(佐々木力)は、21世紀初頭、「9.11事件」以降の世界情勢を、米国帝国主義という野蛮と、それに抗する反米テロリズム勢力という野蛮――の軍事的対立の構造にあると説明する。この説明は極めて妥当だと思われる。イスラム勢力の一部が米国帝国主義に対して、“聖戦=テロリズム”を展開している現実をだれもが認めざるを得ないものの、それは“野蛮”に抗する“もう一つの野蛮”であって、けして、帝国主義を止揚する思想と運動になり得ないと。
20世紀、第二次世界大戦の終結を境として、世界は帝国主義国家(資本主義)群と労働者国家群の対立――冷戦の時代として構造化された。この構造の一方の極である労働者国家群(東側)の指導的立場であったのがソヴィエト連邦であった。ソ連は1917年、帝政ロシアを革命によって打倒して誕生した社会主義労働者国家だった。以降、今日まで、ソ連、共産主義・社会主義、マルクス主義は同義とみなされている。
ところが、ロシア革命後、レーニンの死後、ソ連共産党を率いたスターリンが行った政治は、マルクス主義、共産主義とは無縁の全体主義だった。その政治システムをスターリン主義と呼ぶ。スターリン主義国家はソ連を筆頭にして、東欧、アジア、アフリカにまで誕生したものの、今日、それらの国々の体制は変容し、東アジアの社会主義の大国である中国も「社会主義市場経済」を採択し、事実上、世界は資本主義体制に概ね一元化されている。こうした事象をもって今日、共産主義、マルクス主義イデオロギーは消滅した、と言われている。
著者(佐々木力)も、20世紀末に消滅した労働者国家群(東側)を、マルクス主義とは無縁の全体主義国家(スターリン主義国家群)と規定する。この規定は、特別新しいものではない。1960年代後半、先進国と呼ばれる資本主義国家群(西側)でスターリン主義批判が相次いだし、労働者国家群を構成する東欧(東側)で、「ハンガリー革命」(1956年)と「プラハの春」(チェコスロバキア、1968年)という、2つの反ソ運動が起きている。日本では、1960年代初頭に日本共産党と決別した新左翼政党として、共産主義者同盟、革命的共産主義者同盟等が結党され、60年代後半に全共闘運動等の新左翼運動が展開された。米国、西欧においても、同様の運動が展開された。しかし、西側先進国で相次いで台頭した反スターリン主義政治勢力は、自国帝国主義政権の打倒に失敗したことはもとより、旧左翼・社会民主主義勢力を凌駕するに至らないまま自壊した。また、先述した東側における反ソ運動も、ソ連の軍事力に押さえ込まれ、指導者は投獄され、スターリン主義政府打倒の達成までに20年の歳月を費やした。
とりわけ、日本の反スターリン主義運動は、運動の過程で自らをスターリン主義に純化するという誤謬を犯し、大衆の信頼と支持を失ったまま今日に至っている。この部分の十分な反省がなければ、マルクス主義の復興は至難の業だといわねばならない。
抑圧された反ソ運動のエネルギーは1989年~90年代初頭の自由化運動として花開き、ソ連、東欧は、ときの「社会主義」政権打倒を成し遂げた。ところが、ソ連の民衆はスターリン主義政府打倒(自由化)を実現したものの、その後の望ましい国家体制として、経済の自由主義原則である「混乱した資本主義」を選択するにとどまった。その結果、自由化の名のもとに急激な競争社会が形成され、新たに誕生した国家は▽国家権力を奪取した一部政治家、▽自由競争下で急成長した一部資本家、▽秘密警察の残党、▽マフィア――らによって構成された、ならず者国家であった。先述のとおり、ロシアでは、プーチン政権を批判するジャーナリスト等が秘密警察の手によって暗殺されている。これらの勢力は自由化の名のもとに国家権力を奪取したのだが、彼らが行っている政治は、旧体制(スターリン主義)の時代に培った自由化圧殺のノウハウを駆使して民衆を抑圧・弾圧し、ジャーナリスト等を抹殺する恐怖政治にほかならない。そればかりではない。ロシア政府(プーチン政権)は、チェチェンにおいて、ロシア政府に抗する多数の民衆を、民族浄化にも等しい大規模な軍事行動により圧殺している。
本書が「新左翼」と呼ばれた、反スターリン主義勢力のマルクス主義解釈と異なる点はどこか。著者(佐々木力)はロシア革命後のソ連がスターリンの指導の下、社会主義とは似て非なる体制に変容したと認識する。その点は、新左翼と変わりない。そして、スターリンに追われたトロツキイの「永続革命」を基本とする点で、著者(佐々木力)は、トロツキストの流れを汲む。
経済政策としては、ロシア革命後のネップを容認するものの、スターリンの「新5カ年計画」を統制型経済(=スターリン・モデル)と批判し、それに代替するものとして、トロツキイが提唱した、生産者+消費者(市場)の自立性を保証した「トロツキイ・モデル」による社会主義経済の選択を挙げる。また、政治システムとしては、「プロレタリア独裁」を根源的民主主義、プロレタリア民主主義として再定義する。さらに、資本主義に対する今日的対立軸として、環境社会主義を掲げる。これらが、著者(佐々木力)の言うところの、21世紀のマルクス主義の大雑把な新解釈となるであろう。革命の主体についても触れておこう。マルクスは革命主体を19世紀の労働者に限定して求めたが、著者(佐々木力)は、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが論じた、グローバルなマルチチュードを、マルクス主義革命を担う者として想定しているようだ。
先述したとおり、現在の日本において進んでいる経済、労働に係る諸現象は、階級対立の概念でなければ説明ができないし、解決の糸口が見つからない。このような中、マスコミ(田原総一郎を筆頭に)は、マルクス主義、社会主義の死滅ばかりを強調し、労働組合運動までも誹謗中傷する。もちろん、日本の労働運動に非がなかったわけではないが、組合運動は働く者の基本的権利の1つだ。マスコミ及び反動的コメンテーターの言説は、搾取を容認し、弱者を切り捨て、帝国主義を支持するものだ。彼らは、「悪い資本主義」を批判し、「良い資本主義」を見つけ出そうとする。が、「良い資本主義」はこの世に存在しない。
南米に誕生した反米政権、ヨーロッパの根強い反米社民主義、東アジアに生まれた新経済圏構想などなど、グローバルに見ると、米国の帝国主義に追随しない勢力が、微小ながら認められる。この先、マルクス主義復興はないとは言えない。 (2006/12/03)
わが国では、企業は過去最高益を記録する好景気にもかかわらず、労働者の暮らしはいっこうに良くならない。どころか、残業代カット、リストラ、医療費等の負担増で苦しめられている。若者にまともな働き口がなく、パートや派遣といった劣悪な労働条件で雇用されている。下流社会、下層社会、格差社会が固定的に形成されようとしている。
一昔前なら、こうした状況は、搾取という概念で説明されたものだ。労働者は搾取されていると。賃金、雇用、労働条件等の決定のメカニズムは、[企業(ブルジョアジー)]対[労働者(プロレタリア)]の階級対立という概念だ。ところが、20世紀末、ソ連・東欧の自由化による、「社会主義国家」の消滅以降、わが国においては、社会主義、マルクス主義の思想的潮流は完全に消滅してしまった。もちろん、階級対立の概念も、喪失してしまった。新自由主義経済、市場万能主義が幅を利かせ、「勝ち組」と呼ばれる一握りの資本家に富が集中する社会を容認するムードが、徐々にだが間違いなく人々の心を覆っている。
一方、消滅した旧社会主義国家のソ連はロシアと名乗り、自由と民主主義を旨とする国になったはずだが、現実には、政府を批判した複数のジャーナリスが殺害されたり、国家機密を知る元情報部員が亡命先のイギリスで暗殺されるという、恐怖政治が支配する国になってしまった。いまのロシアは、旧KGB幹部であるプーチン政権下、自由と民主主義どころではない。マフィア、秘密警察と結託した、暗黒国家になってしまった。
自由と民主主義のリーダーであるはずの米国は、国内的には人種差別、治安悪化、富の独占という諸問題を抱えたまま、国外では、対テロ戦争という大義名分の下、持続的侵略戦争国家へと変貌してしまった。ブッシュ政権の米国こそ、典型的な帝国主義国家と規定できる。
資本主義の矛盾が露呈する今日、そして、地球規模の(グローバルな)帝国主義の時代にあって、ロシア革命を成功させたレーニン主義、トロツキイ主義、そして、その原理としてのマルクス主義による、反帝国主義運動の再編がグローバルに求められている。
さて、著者(佐々木力)は、21世紀初頭、「9.11事件」以降の世界情勢を、米国帝国主義という野蛮と、それに抗する反米テロリズム勢力という野蛮――の軍事的対立の構造にあると説明する。この説明は極めて妥当だと思われる。イスラム勢力の一部が米国帝国主義に対して、“聖戦=テロリズム”を展開している現実をだれもが認めざるを得ないものの、それは“野蛮”に抗する“もう一つの野蛮”であって、けして、帝国主義を止揚する思想と運動になり得ないと。
20世紀、第二次世界大戦の終結を境として、世界は帝国主義国家(資本主義)群と労働者国家群の対立――冷戦の時代として構造化された。この構造の一方の極である労働者国家群(東側)の指導的立場であったのがソヴィエト連邦であった。ソ連は1917年、帝政ロシアを革命によって打倒して誕生した社会主義労働者国家だった。以降、今日まで、ソ連、共産主義・社会主義、マルクス主義は同義とみなされている。
ところが、ロシア革命後、レーニンの死後、ソ連共産党を率いたスターリンが行った政治は、マルクス主義、共産主義とは無縁の全体主義だった。その政治システムをスターリン主義と呼ぶ。スターリン主義国家はソ連を筆頭にして、東欧、アジア、アフリカにまで誕生したものの、今日、それらの国々の体制は変容し、東アジアの社会主義の大国である中国も「社会主義市場経済」を採択し、事実上、世界は資本主義体制に概ね一元化されている。こうした事象をもって今日、共産主義、マルクス主義イデオロギーは消滅した、と言われている。
著者(佐々木力)も、20世紀末に消滅した労働者国家群(東側)を、マルクス主義とは無縁の全体主義国家(スターリン主義国家群)と規定する。この規定は、特別新しいものではない。1960年代後半、先進国と呼ばれる資本主義国家群(西側)でスターリン主義批判が相次いだし、労働者国家群を構成する東欧(東側)で、「ハンガリー革命」(1956年)と「プラハの春」(チェコスロバキア、1968年)という、2つの反ソ運動が起きている。日本では、1960年代初頭に日本共産党と決別した新左翼政党として、共産主義者同盟、革命的共産主義者同盟等が結党され、60年代後半に全共闘運動等の新左翼運動が展開された。米国、西欧においても、同様の運動が展開された。しかし、西側先進国で相次いで台頭した反スターリン主義政治勢力は、自国帝国主義政権の打倒に失敗したことはもとより、旧左翼・社会民主主義勢力を凌駕するに至らないまま自壊した。また、先述した東側における反ソ運動も、ソ連の軍事力に押さえ込まれ、指導者は投獄され、スターリン主義政府打倒の達成までに20年の歳月を費やした。
とりわけ、日本の反スターリン主義運動は、運動の過程で自らをスターリン主義に純化するという誤謬を犯し、大衆の信頼と支持を失ったまま今日に至っている。この部分の十分な反省がなければ、マルクス主義の復興は至難の業だといわねばならない。
抑圧された反ソ運動のエネルギーは1989年~90年代初頭の自由化運動として花開き、ソ連、東欧は、ときの「社会主義」政権打倒を成し遂げた。ところが、ソ連の民衆はスターリン主義政府打倒(自由化)を実現したものの、その後の望ましい国家体制として、経済の自由主義原則である「混乱した資本主義」を選択するにとどまった。その結果、自由化の名のもとに急激な競争社会が形成され、新たに誕生した国家は▽国家権力を奪取した一部政治家、▽自由競争下で急成長した一部資本家、▽秘密警察の残党、▽マフィア――らによって構成された、ならず者国家であった。先述のとおり、ロシアでは、プーチン政権を批判するジャーナリスト等が秘密警察の手によって暗殺されている。これらの勢力は自由化の名のもとに国家権力を奪取したのだが、彼らが行っている政治は、旧体制(スターリン主義)の時代に培った自由化圧殺のノウハウを駆使して民衆を抑圧・弾圧し、ジャーナリスト等を抹殺する恐怖政治にほかならない。そればかりではない。ロシア政府(プーチン政権)は、チェチェンにおいて、ロシア政府に抗する多数の民衆を、民族浄化にも等しい大規模な軍事行動により圧殺している。
本書が「新左翼」と呼ばれた、反スターリン主義勢力のマルクス主義解釈と異なる点はどこか。著者(佐々木力)はロシア革命後のソ連がスターリンの指導の下、社会主義とは似て非なる体制に変容したと認識する。その点は、新左翼と変わりない。そして、スターリンに追われたトロツキイの「永続革命」を基本とする点で、著者(佐々木力)は、トロツキストの流れを汲む。
経済政策としては、ロシア革命後のネップを容認するものの、スターリンの「新5カ年計画」を統制型経済(=スターリン・モデル)と批判し、それに代替するものとして、トロツキイが提唱した、生産者+消費者(市場)の自立性を保証した「トロツキイ・モデル」による社会主義経済の選択を挙げる。また、政治システムとしては、「プロレタリア独裁」を根源的民主主義、プロレタリア民主主義として再定義する。さらに、資本主義に対する今日的対立軸として、環境社会主義を掲げる。これらが、著者(佐々木力)の言うところの、21世紀のマルクス主義の大雑把な新解釈となるであろう。革命の主体についても触れておこう。マルクスは革命主体を19世紀の労働者に限定して求めたが、著者(佐々木力)は、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが論じた、グローバルなマルチチュードを、マルクス主義革命を担う者として想定しているようだ。
先述したとおり、現在の日本において進んでいる経済、労働に係る諸現象は、階級対立の概念でなければ説明ができないし、解決の糸口が見つからない。このような中、マスコミ(田原総一郎を筆頭に)は、マルクス主義、社会主義の死滅ばかりを強調し、労働組合運動までも誹謗中傷する。もちろん、日本の労働運動に非がなかったわけではないが、組合運動は働く者の基本的権利の1つだ。マスコミ及び反動的コメンテーターの言説は、搾取を容認し、弱者を切り捨て、帝国主義を支持するものだ。彼らは、「悪い資本主義」を批判し、「良い資本主義」を見つけ出そうとする。が、「良い資本主義」はこの世に存在しない。
南米に誕生した反米政権、ヨーロッパの根強い反米社民主義、東アジアに生まれた新経済圏構想などなど、グローバルに見ると、米国の帝国主義に追随しない勢力が、微小ながら認められる。この先、マルクス主義復興はないとは言えない。 (2006/12/03)
2006年11月23日木曜日
ゴシックとは何か
●酒井健〔著〕 ●ちくま学芸文庫 ●900円(+税)
先に当コラムで取り上げた『中世ヨーロッパの歴史』の書評において、ホイジンガが中世という時代をフランボワイヤン(火焔様式)ゴシックにたとえた一文を紹介した。では、ゴシックとは何か――そこに関心が向かうのは当然のこと――それが本書を購入した理由にほかならないのだが、本書は誠に示唆多き書。いろいろな意味で勉強になった。己の無知蒙昧・思い込み等を本書によって、訂正させられた次第。以下、本書から学んだポイントをまとめてみよう。
著者(酒井健)は、ゴシック様式とは先住ヨーロッパ人(ケルト人、ゲルマン人)による、森(大自然)の再現だという。この指摘が、ゴシックの本質のすべてをあらわしているように思える。自然を模した装飾をキリスト教会に取り入れる手法は、先のロマネスク様式に始まっていた。そこでは、怪獣・精霊、乱茂する草木、異教(自然神)の神像等が、キリスト教会堂の柱頭やタンパンに装飾されていた。今日、ロマネスク教会を訪れれば、キリスト教会でありながら、キリスト教以前の異教の面影を発見することができる。
ロマネスクからゴシックに移行すると、教会堂の外観に飛躍的変化が訪れる。ロマネスク教会は、ずんぐりとした丸みを帯びた低層の建物だが、ゴシック大聖堂は、高く、巨大な建築物に変化する。ゴシック大聖堂は、建物の一部が森の高木を象徴し、内部が森の中を、そして、森に満ち溢れる霊性を備えた者たち――例えば、想像上の怪獣・精霊、乱茂する草木、自然神等が外観、内装の装飾によって付加される。ゴシック様式の建築物は、ロマネスク以上に、森という原始ヨーロッパ人が抱いた信仰の原点を強力に表現する。
キリスト教信仰の拠点であるはずの大聖堂が、なぜ、異教的なのか――11世紀、フランスの人口の9割が農民で、彼らの信仰はキリスト教(表向きキリスト教であっても)以前の自然信仰者だった、というのがその答えだ。
12-14世紀、ゴシックの時代の中世ヨーロッパ人の信仰は、キリスト教布教前の自然神、偶像崇拝にとどまっていた。だから、教会側は彼らの信仰を尊重しキリスト教を習合させた。その代表例がヨーロッパに広く分布するノートルダム教会だ。ノートルダム信仰は、古ヨーロッパにあった地母神信仰の変容だ。キリスト教の普及に伴い、地母神信仰は聖母マリア信仰として確立した。聖母マリア信仰は、各地にノートルダム寺院を誕生させたのだが、それはゴシックの時代に重なっている。ノートルダムを直訳すれ、“我々の婦人”という意味になるが、聖母マリアのことを指す。
ゴシック以前、ロマネスク教会は農村部に建立された。一方、ゴシックは都市に建立された。前者の信仰者は農村に住む農民だった。ゴシックの時代になると、人口増加に伴う農民たちは、概ね開墾が終了した農村部を追われ、都市に流入した。そして、故郷の自然への憧憬の念は、自然崇拝を基にした大規模な大聖堂に吸い寄せられた。それが、ゴシックの時代の信仰の基調をなした。
都市に花開いたゴシック大聖堂は、キリスト教布教の根拠であると同時に、都市の匿名の民衆の祝祭の場だったという。大聖堂でいったい何が執り行われていたのか。中世の都市では、日々、演劇的・祝祭的日常を送っていた。大聖堂では、たとえば、そこに仕える司祭さえもが、都市民衆の笑い・嘲笑の対象だった。ヨーロッパ文明の源の1つとしてキリスト教が挙げられるが、かの地に根付いた“キリスト教”が異教的要素を抱えたものであることを知る。
さて、ゴシックとは、“ゴース人(の)”という意味であることはよく、知られている。「ゴース人」は日本の教科書では「ゴート人」と書かれることが多いが、「ゴース」「ゴート」はもちろん同一だ。命名者は、ルネサンス期のイタリア人だった。ところが、実際のゴシック建築は12世紀ころのフランス北部に起源を発する様式で、その後、14世紀にかけて、フランス各地、ドイツ、イタリア、スペイン等に伝播した。その作業を担ったのは各地の諸族であって、ゴート人ではない。
ゴート人とは、5世紀、フン族に追われて東方からローマ帝国領内に侵入したでゲルマン系民族の1つ。西ローマ帝国を滅亡に追い込み、イタリア、スペインにそれぞれ東ゴート王国、西ゴート王国を建国したが、遅れてヨーロッパに侵入を開始したフランク族等及びイスラムによって滅亡させられた。12-14世紀にゴシック大聖堂を建立したヨーロッパ人は、同じゲルマン系であるが、ゴート人ではない。
ルネサンス人はなぜ、そんな基本的誤りを犯したのか。その誤解・誤記はどこから来たのかというと、ルネサンス期のイタリア人がゲルマン系の美術様式を軽蔑したことだという。“ドイツ人”と“ゴート人”はルネサンス人にとって同義だと。彼らの美意識にそぐわない北方様式は、すべてドイツ起源であり、ドイツ人とはすなわち、ゴート人なのだというのがルネサンス人のゴシック評価だった。
ルネサンス人の美の理想は、比例、均衡、均整、合理主義だった。ゴシックは有機的大自然を模倣した様式だった。だから、ルネサンス人はゴシックを忌み嫌った。ルネサンスを代表する表現様式に遠近法(一点透視法)があるが、この技法はまさに、外観(美)を比例の関係に求めたものだ。それだけではない。一点透視法の発見は、客体(対象)と主体(芸術家)の分離を前提にしている。中世美術では、対象を描く主体は対象の内部にあって外部にない。だから、事物はすべて同じ大きさで描かれるか、特別な意味を持つ対象が大きく描かれる。
ところが、ルネサンス期になると、主体は対象の外に立ち、遠くにあるものは小さく、近くにあるものは大きく描かれるようになる。描く主体と描かれる対象は分離する。遠近法の定着と主客の分離こそ、芸術家の誕生にほかならない。芸術家=個人は、自然、モノ、自然神の帰属から離れ、独立した存在として、世界を描く。対象から、主体が独立すること、すなわち、芸術家の発生だ。それまでの表現者は、建築技術者、技能者、職工であって、自然、神、支配者・・・に帰属していた。それが、ルネサンス期になると“芸術家はそこから独立した。権力者から援助を受けていても、表現は自由だった。ルネサンスが“人間主義”と呼ばれ、近代へと通じる所以だ。もちろん、ルネサンスの“人間主義”は近代以降の個人主義とは異なるけれど、ゴシック批判・反発が中世の終焉を告げているともいえる。
本書読了後、かつて観光で訪れたゴシック大聖堂の数々――ノートルダム寺院(フランス・パリ)、ミラノ大聖堂(イタリア)、ルーアン大聖堂(フランス)、サンサヴァン大聖堂(フランス・サンマロー)、ブルゴス大聖堂(スペイン)、レオン大聖堂(スペイン)・・・の威容かつ異様な姿が思い浮かぶ。
(2006/11/23)
先に当コラムで取り上げた『中世ヨーロッパの歴史』の書評において、ホイジンガが中世という時代をフランボワイヤン(火焔様式)ゴシックにたとえた一文を紹介した。では、ゴシックとは何か――そこに関心が向かうのは当然のこと――それが本書を購入した理由にほかならないのだが、本書は誠に示唆多き書。いろいろな意味で勉強になった。己の無知蒙昧・思い込み等を本書によって、訂正させられた次第。以下、本書から学んだポイントをまとめてみよう。
著者(酒井健)は、ゴシック様式とは先住ヨーロッパ人(ケルト人、ゲルマン人)による、森(大自然)の再現だという。この指摘が、ゴシックの本質のすべてをあらわしているように思える。自然を模した装飾をキリスト教会に取り入れる手法は、先のロマネスク様式に始まっていた。そこでは、怪獣・精霊、乱茂する草木、異教(自然神)の神像等が、キリスト教会堂の柱頭やタンパンに装飾されていた。今日、ロマネスク教会を訪れれば、キリスト教会でありながら、キリスト教以前の異教の面影を発見することができる。
ロマネスクからゴシックに移行すると、教会堂の外観に飛躍的変化が訪れる。ロマネスク教会は、ずんぐりとした丸みを帯びた低層の建物だが、ゴシック大聖堂は、高く、巨大な建築物に変化する。ゴシック大聖堂は、建物の一部が森の高木を象徴し、内部が森の中を、そして、森に満ち溢れる霊性を備えた者たち――例えば、想像上の怪獣・精霊、乱茂する草木、自然神等が外観、内装の装飾によって付加される。ゴシック様式の建築物は、ロマネスク以上に、森という原始ヨーロッパ人が抱いた信仰の原点を強力に表現する。
キリスト教信仰の拠点であるはずの大聖堂が、なぜ、異教的なのか――11世紀、フランスの人口の9割が農民で、彼らの信仰はキリスト教(表向きキリスト教であっても)以前の自然信仰者だった、というのがその答えだ。
12-14世紀、ゴシックの時代の中世ヨーロッパ人の信仰は、キリスト教布教前の自然神、偶像崇拝にとどまっていた。だから、教会側は彼らの信仰を尊重しキリスト教を習合させた。その代表例がヨーロッパに広く分布するノートルダム教会だ。ノートルダム信仰は、古ヨーロッパにあった地母神信仰の変容だ。キリスト教の普及に伴い、地母神信仰は聖母マリア信仰として確立した。聖母マリア信仰は、各地にノートルダム寺院を誕生させたのだが、それはゴシックの時代に重なっている。ノートルダムを直訳すれ、“我々の婦人”という意味になるが、聖母マリアのことを指す。
ゴシック以前、ロマネスク教会は農村部に建立された。一方、ゴシックは都市に建立された。前者の信仰者は農村に住む農民だった。ゴシックの時代になると、人口増加に伴う農民たちは、概ね開墾が終了した農村部を追われ、都市に流入した。そして、故郷の自然への憧憬の念は、自然崇拝を基にした大規模な大聖堂に吸い寄せられた。それが、ゴシックの時代の信仰の基調をなした。
都市に花開いたゴシック大聖堂は、キリスト教布教の根拠であると同時に、都市の匿名の民衆の祝祭の場だったという。大聖堂でいったい何が執り行われていたのか。中世の都市では、日々、演劇的・祝祭的日常を送っていた。大聖堂では、たとえば、そこに仕える司祭さえもが、都市民衆の笑い・嘲笑の対象だった。ヨーロッパ文明の源の1つとしてキリスト教が挙げられるが、かの地に根付いた“キリスト教”が異教的要素を抱えたものであることを知る。
さて、ゴシックとは、“ゴース人(の)”という意味であることはよく、知られている。「ゴース人」は日本の教科書では「ゴート人」と書かれることが多いが、「ゴース」「ゴート」はもちろん同一だ。命名者は、ルネサンス期のイタリア人だった。ところが、実際のゴシック建築は12世紀ころのフランス北部に起源を発する様式で、その後、14世紀にかけて、フランス各地、ドイツ、イタリア、スペイン等に伝播した。その作業を担ったのは各地の諸族であって、ゴート人ではない。
ゴート人とは、5世紀、フン族に追われて東方からローマ帝国領内に侵入したでゲルマン系民族の1つ。西ローマ帝国を滅亡に追い込み、イタリア、スペインにそれぞれ東ゴート王国、西ゴート王国を建国したが、遅れてヨーロッパに侵入を開始したフランク族等及びイスラムによって滅亡させられた。12-14世紀にゴシック大聖堂を建立したヨーロッパ人は、同じゲルマン系であるが、ゴート人ではない。
ルネサンス人はなぜ、そんな基本的誤りを犯したのか。その誤解・誤記はどこから来たのかというと、ルネサンス期のイタリア人がゲルマン系の美術様式を軽蔑したことだという。“ドイツ人”と“ゴート人”はルネサンス人にとって同義だと。彼らの美意識にそぐわない北方様式は、すべてドイツ起源であり、ドイツ人とはすなわち、ゴート人なのだというのがルネサンス人のゴシック評価だった。
ルネサンス人の美の理想は、比例、均衡、均整、合理主義だった。ゴシックは有機的大自然を模倣した様式だった。だから、ルネサンス人はゴシックを忌み嫌った。ルネサンスを代表する表現様式に遠近法(一点透視法)があるが、この技法はまさに、外観(美)を比例の関係に求めたものだ。それだけではない。一点透視法の発見は、客体(対象)と主体(芸術家)の分離を前提にしている。中世美術では、対象を描く主体は対象の内部にあって外部にない。だから、事物はすべて同じ大きさで描かれるか、特別な意味を持つ対象が大きく描かれる。
ところが、ルネサンス期になると、主体は対象の外に立ち、遠くにあるものは小さく、近くにあるものは大きく描かれるようになる。描く主体と描かれる対象は分離する。遠近法の定着と主客の分離こそ、芸術家の誕生にほかならない。芸術家=個人は、自然、モノ、自然神の帰属から離れ、独立した存在として、世界を描く。対象から、主体が独立すること、すなわち、芸術家の発生だ。それまでの表現者は、建築技術者、技能者、職工であって、自然、神、支配者・・・に帰属していた。それが、ルネサンス期になると“芸術家はそこから独立した。権力者から援助を受けていても、表現は自由だった。ルネサンスが“人間主義”と呼ばれ、近代へと通じる所以だ。もちろん、ルネサンスの“人間主義”は近代以降の個人主義とは異なるけれど、ゴシック批判・反発が中世の終焉を告げているともいえる。
本書読了後、かつて観光で訪れたゴシック大聖堂の数々――ノートルダム寺院(フランス・パリ)、ミラノ大聖堂(イタリア)、ルーアン大聖堂(フランス)、サンサヴァン大聖堂(フランス・サンマロー)、ブルゴス大聖堂(スペイン)、レオン大聖堂(スペイン)・・・の威容かつ異様な姿が思い浮かぶ。
(2006/11/23)
2006年11月17日金曜日
村上春樹はくせになる
●清水良典〔著〕 ●朝日新書 ●720円+税
村上春樹論には難解なものが多いが、本書は平易であり平凡に近い。新書という制約か。いままで論じられた村上論の範囲内にある。本書の村上論を以下、4項目にまとめておこう。
時代とともに変化する作風
著者(清水良典)によると、村上春樹は時代とともに変容できる作家だという。戦後を大雑把に区画する事件と村上作品とを照合してみると、
・全共闘運動=1970年前後=『風の歌を聴け』~ほか
・バブル経済=1990年前後=『国境の南、太陽の西』~ほか
・阪神大震災、オウム事件=1995年以降=『アンダーグラウンド』『約束された場所で』『神の子どもたちはみな踊る』
・9.11事件=2001年以降=『海辺のカフカ』ほか
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』等(3部作)は、全共闘運動及びほぼ同時期に起こった文化運動の退潮及びそれに参加した若者の退行的気分を扱ったものだった。だから、村上春樹を全共闘作家と呼んだ文芸評論家がいたし、いまもいる。また、村上自身もその体験を持続的テーマとして選び取っていることと思われる。つまり、その作風は時代を回避する姿勢だった。
ところが、バブル経済の崩壊以降の地震、オウム事件を境にして、村上は突然、社会に関心を持ち始め、大事件に関連した作品を発表する。
そしてその次の変化は、2001年の「9.11事件」の勃発を契機としている。この事件を境に、村上は、米国が進める「戦争」に諦念を抱く世界規模の「大衆」の気分を「癒す」作風に転換する。『海辺のカフカ』の発表だ。本書は『海辺のカフカ』に寛容だが、この作品が売れ出したころ、批判的な評論が続出した。
村上作品に共通するもの
村上の小説に出てくるキャラクターに共通するのは、欠損の感覚、言語に対する不信の表明、精神の不安、心の病・・・をもつ人であり、自殺者、死者も多い。しかも、小説の舞台には、生と死の境界のようなイメージが漂っていて、生者と死者の境界はない。世界は「この世」「こちら側」と「あの世」「向こう側」に設定されていて、二つの世界の往来は自由。小説は現実のようであり、夢のようであり、現実と幻想・空想はあいまいなままだ。現代のおとぎ話、寓話(アレゴリー)ともいわれる。
そればかりではない。理性や科学で説明できない闇、暗黒、偶然性といったブラックホールが準備されている。
登場人物は、ジキルとハイドであり、両性具有者であり、自己であると同時に他者であったりする。
小説の中に組み込まれた謎解きのような仕掛け、暗喩、直喩、象徴も村上作品の特徴だ。“これは、もしかしたら、あのことかもしれない・・・”と、読者が自由に想像する楽しさが散りばめられている。だが、ミステリー作品のような確かなロジックに貫かれているわけではない。謎解きの仕事を作者が放棄しているため、その意味で、“イメージの垂れ流し”という批判を免れない。
村上春樹と日本の文壇
日本の文壇と無縁の作家というのが村上の特徴らしい。著者(清水良典)は、村上の作品の転位は、村上が東京~米国~東京と転居したことと結び付けられるという。村上の日本脱出は、日本の文壇(出版社と作家の関係を断ち切る。日本の文学は出版社からの受注生産だという。)との空間的遮断が目的であり、そこでの創作活動が成果を上げた後、再び日本及び日本語への回帰を果たすため、帰国し今日に至っているというのだ。
「9.11」以降
村上春樹に限らず、いかなる作家も「9.11」以降の世界の行く末を予言することはできない。作家は、時代に漂う気分を作品化することはできるが、世界を直接変える仕事をするわけではない。
著者(清水良典)は村上の近作、『アフターダーク』に今後の村上作品の方向性を読み取っている。著者(清水良典)がそこで持ち出したキーワードは、「回帰」だ。どこに回帰するのかといえば、1970年前後の日本ではないか、という。この「予言」は当たるのだろうか。
(2006/11/17)
村上春樹論には難解なものが多いが、本書は平易であり平凡に近い。新書という制約か。いままで論じられた村上論の範囲内にある。本書の村上論を以下、4項目にまとめておこう。
時代とともに変化する作風
著者(清水良典)によると、村上春樹は時代とともに変容できる作家だという。戦後を大雑把に区画する事件と村上作品とを照合してみると、
・全共闘運動=1970年前後=『風の歌を聴け』~ほか
・バブル経済=1990年前後=『国境の南、太陽の西』~ほか
・阪神大震災、オウム事件=1995年以降=『アンダーグラウンド』『約束された場所で』『神の子どもたちはみな踊る』
・9.11事件=2001年以降=『海辺のカフカ』ほか
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』等(3部作)は、全共闘運動及びほぼ同時期に起こった文化運動の退潮及びそれに参加した若者の退行的気分を扱ったものだった。だから、村上春樹を全共闘作家と呼んだ文芸評論家がいたし、いまもいる。また、村上自身もその体験を持続的テーマとして選び取っていることと思われる。つまり、その作風は時代を回避する姿勢だった。
ところが、バブル経済の崩壊以降の地震、オウム事件を境にして、村上は突然、社会に関心を持ち始め、大事件に関連した作品を発表する。
そしてその次の変化は、2001年の「9.11事件」の勃発を契機としている。この事件を境に、村上は、米国が進める「戦争」に諦念を抱く世界規模の「大衆」の気分を「癒す」作風に転換する。『海辺のカフカ』の発表だ。本書は『海辺のカフカ』に寛容だが、この作品が売れ出したころ、批判的な評論が続出した。
村上作品に共通するもの
村上の小説に出てくるキャラクターに共通するのは、欠損の感覚、言語に対する不信の表明、精神の不安、心の病・・・をもつ人であり、自殺者、死者も多い。しかも、小説の舞台には、生と死の境界のようなイメージが漂っていて、生者と死者の境界はない。世界は「この世」「こちら側」と「あの世」「向こう側」に設定されていて、二つの世界の往来は自由。小説は現実のようであり、夢のようであり、現実と幻想・空想はあいまいなままだ。現代のおとぎ話、寓話(アレゴリー)ともいわれる。
そればかりではない。理性や科学で説明できない闇、暗黒、偶然性といったブラックホールが準備されている。
登場人物は、ジキルとハイドであり、両性具有者であり、自己であると同時に他者であったりする。
小説の中に組み込まれた謎解きのような仕掛け、暗喩、直喩、象徴も村上作品の特徴だ。“これは、もしかしたら、あのことかもしれない・・・”と、読者が自由に想像する楽しさが散りばめられている。だが、ミステリー作品のような確かなロジックに貫かれているわけではない。謎解きの仕事を作者が放棄しているため、その意味で、“イメージの垂れ流し”という批判を免れない。
村上春樹と日本の文壇
日本の文壇と無縁の作家というのが村上の特徴らしい。著者(清水良典)は、村上の作品の転位は、村上が東京~米国~東京と転居したことと結び付けられるという。村上の日本脱出は、日本の文壇(出版社と作家の関係を断ち切る。日本の文学は出版社からの受注生産だという。)との空間的遮断が目的であり、そこでの創作活動が成果を上げた後、再び日本及び日本語への回帰を果たすため、帰国し今日に至っているというのだ。
「9.11」以降
村上春樹に限らず、いかなる作家も「9.11」以降の世界の行く末を予言することはできない。作家は、時代に漂う気分を作品化することはできるが、世界を直接変える仕事をするわけではない。
著者(清水良典)は村上の近作、『アフターダーク』に今後の村上作品の方向性を読み取っている。著者(清水良典)がそこで持ち出したキーワードは、「回帰」だ。どこに回帰するのかといえば、1970年前後の日本ではないか、という。この「予言」は当たるのだろうか。
(2006/11/17)
2006年11月16日木曜日
性と暴力のアメリカ
●鈴木透[著] ●中央公論新社 ●840円(税別)
アメリカ合衆国における性と暴力を考察した書だ。筆者(鈴木透)は、現在の米国おける性と暴力について、両者に共通する原理及び相互関係を見出そうとする。著者によると、ヨーロッパから米国にやってきた移民たちは、広大な未開拓の大地を処女に見立てた。米国の性と暴力は、広大な処女地を開拓した開拓民の精神と肉体の記憶に求められるという。
もちろん、それだけではない。性については、建国期、英国から移住してきた清教徒(ピューリタン)の性に対する謹厳な態度と、英国のヴィクトリア的伝統である、「女性は家」の慎ましさの強制の伝統が土台となっている。また、暴力については、連邦政府の統治が行き渡らない開拓地では、私法、私刑、民間武装、自警団の伝統が根付いた。
新大陸における移民による国づくりという、特殊な国家形成を為した米国だが、今日まで、性と暴力とでは、まったく異なる道を辿っている。性については、性の解放に向けて(もちろん、革命と反動の振り子現象を繰り返しつつも)、概ね解放路線で進捗している。米国における性の課題といえば、人工中絶、同性愛、異人種間(黒人と白人等)の性愛、女性の社会進出、離婚問題等であろうが、これらに対する社会の関心度、マスコミの取り上げ方、議論の仕方、法制度の整備の状況はきわめて公明正大であり、かつ、まともである。
ところが、暴力となると、まったくといっていいほど、制御に向けた動きは封じられる。著者(鈴木透)がいうように、暴力の突出した形態を戦争だとするならば、独立戦争以来、メキシコ戦争(カリフォルニアを強奪)、南北戦争と続き、その後、20世紀初頭まで続いた孤立主義を経て、第一次大戦参戦、第二次大戦(その後の朝鮮戦争を含む)、冷戦期における核兵器開発、中東戦争、ベトナム戦争、パナマ侵攻、そして、21世紀に入ると、「9.11」以降の対テロ戦争(アフガン、イラク侵略戦争)まで、戦争を続けている。こうした、米国の直接的軍事行動を、開拓時代の死刑の伝統で説明できるのだろうか。
20世紀以降の米国の軍事行動は、米国経済に占める軍事産業の割合の増大と関係しているのではないか。米国経済、米国社会が軍事産業への依存度を高めるに従い、米国の世界規模での暴力(戦争)が恒常化したのではないか。軍事産業の拡大が地域の雇用を増大させ、地域経済を活性化させている。米国経済・社会は、軍事産業抜きには立ち行かない。
もちろん、米国の「草の根」暴力主義は、銃器野放し状態の「銃社会」が象徴する。性が連邦政府の権限拡大に伴い、解放に向かったにもかかわらず、連邦政府の権限拡大は、暴力規制=銃規制にはまったく機能しなかった。その理由は何か。米国民がいまだ、二挺拳銃のカウボーイ意識を引きずっているとは思えない。なぜなら、新大陸開拓の移民国家である、カナダ、オーストラリアは、銃を完全に規制したからだ。連邦政府の権限拡大は、米国を専軍政治=軍事産業依存型経済体制=軍事国家に変貌させた。そして、暴力の場を世界に拡大させた。その原因は、おそらく複合的な要素の結合だろう。それを解明しなければ、米国の暴力の源泉を解明したことにならない。
なお、米国の自警団、テロ集団として、KKKと並んで特記すべき存在として、「ブラック・リージョン(黒い軍団)」を挙げておきたい。米国の暴力を扱う本書で、まったくその存在に触れられていないのは誠に残念だ。
「ブラック・リージョン」とは、1030年代、米国オハイオ州に生まれた秘密結社。元KKKメンバー、反共産主義者、人種差別主義者らで構成された、ナチスを髣髴とさせるカルト集団。黒いマスクと黒の法衣のようなコスチュームに身を固め、ユダヤ人、黒人、カトリック教徒を「米国の敵」と看做し、テロの標的とした。不況下のデトロイトに進出し、右翼的大企業であるフォード社らと結託し、多数の労働組合幹部を殺害した。
「ブラック・リージョン」の構成メンバーは、警察官、政治家、裁判官、公務員等の社会の中枢に属する層に浸透したが、ある殺人事件をきっかけに米国社会がこの組織暴力を追い詰めるに至る。裁判で関係者が有罪判決を受け組織は壊滅するものの、連邦政界との関係は不問にふされ、さらに構成員名簿がいつの間にか消失するなど、不可解な部分も多い。
「ブラック・リージョン」を通じて、1930年代の米国に、ナチスドイツと同質のファシズムが台頭していたことを窺い知ることができる。「ブラック・リージョン」を知る人は、第二次大戦直前の米国を「反ファシズム」「自由と民主主義の国」と言い切ることに、躊躇を感じる。「ブラック・リージョン」のテロがおさまってから10数年後、日本を占領した米国もまた、ファシズム体質を宿す国だったのだ。戦後日本における、米国=民主主義国家という幻想(=無媒介な米国崇拝)も、民族主義的反感も、どちらも危険というほかない。
いまや、米国はまさに、「ブラック・リージョン」に染まったた感がある。
(2006/11/16)
アメリカ合衆国における性と暴力を考察した書だ。筆者(鈴木透)は、現在の米国おける性と暴力について、両者に共通する原理及び相互関係を見出そうとする。著者によると、ヨーロッパから米国にやってきた移民たちは、広大な未開拓の大地を処女に見立てた。米国の性と暴力は、広大な処女地を開拓した開拓民の精神と肉体の記憶に求められるという。
もちろん、それだけではない。性については、建国期、英国から移住してきた清教徒(ピューリタン)の性に対する謹厳な態度と、英国のヴィクトリア的伝統である、「女性は家」の慎ましさの強制の伝統が土台となっている。また、暴力については、連邦政府の統治が行き渡らない開拓地では、私法、私刑、民間武装、自警団の伝統が根付いた。
新大陸における移民による国づくりという、特殊な国家形成を為した米国だが、今日まで、性と暴力とでは、まったく異なる道を辿っている。性については、性の解放に向けて(もちろん、革命と反動の振り子現象を繰り返しつつも)、概ね解放路線で進捗している。米国における性の課題といえば、人工中絶、同性愛、異人種間(黒人と白人等)の性愛、女性の社会進出、離婚問題等であろうが、これらに対する社会の関心度、マスコミの取り上げ方、議論の仕方、法制度の整備の状況はきわめて公明正大であり、かつ、まともである。
ところが、暴力となると、まったくといっていいほど、制御に向けた動きは封じられる。著者(鈴木透)がいうように、暴力の突出した形態を戦争だとするならば、独立戦争以来、メキシコ戦争(カリフォルニアを強奪)、南北戦争と続き、その後、20世紀初頭まで続いた孤立主義を経て、第一次大戦参戦、第二次大戦(その後の朝鮮戦争を含む)、冷戦期における核兵器開発、中東戦争、ベトナム戦争、パナマ侵攻、そして、21世紀に入ると、「9.11」以降の対テロ戦争(アフガン、イラク侵略戦争)まで、戦争を続けている。こうした、米国の直接的軍事行動を、開拓時代の死刑の伝統で説明できるのだろうか。
20世紀以降の米国の軍事行動は、米国経済に占める軍事産業の割合の増大と関係しているのではないか。米国経済、米国社会が軍事産業への依存度を高めるに従い、米国の世界規模での暴力(戦争)が恒常化したのではないか。軍事産業の拡大が地域の雇用を増大させ、地域経済を活性化させている。米国経済・社会は、軍事産業抜きには立ち行かない。
もちろん、米国の「草の根」暴力主義は、銃器野放し状態の「銃社会」が象徴する。性が連邦政府の権限拡大に伴い、解放に向かったにもかかわらず、連邦政府の権限拡大は、暴力規制=銃規制にはまったく機能しなかった。その理由は何か。米国民がいまだ、二挺拳銃のカウボーイ意識を引きずっているとは思えない。なぜなら、新大陸開拓の移民国家である、カナダ、オーストラリアは、銃を完全に規制したからだ。連邦政府の権限拡大は、米国を専軍政治=軍事産業依存型経済体制=軍事国家に変貌させた。そして、暴力の場を世界に拡大させた。その原因は、おそらく複合的な要素の結合だろう。それを解明しなければ、米国の暴力の源泉を解明したことにならない。
なお、米国の自警団、テロ集団として、KKKと並んで特記すべき存在として、「ブラック・リージョン(黒い軍団)」を挙げておきたい。米国の暴力を扱う本書で、まったくその存在に触れられていないのは誠に残念だ。
「ブラック・リージョン」とは、1030年代、米国オハイオ州に生まれた秘密結社。元KKKメンバー、反共産主義者、人種差別主義者らで構成された、ナチスを髣髴とさせるカルト集団。黒いマスクと黒の法衣のようなコスチュームに身を固め、ユダヤ人、黒人、カトリック教徒を「米国の敵」と看做し、テロの標的とした。不況下のデトロイトに進出し、右翼的大企業であるフォード社らと結託し、多数の労働組合幹部を殺害した。
「ブラック・リージョン」の構成メンバーは、警察官、政治家、裁判官、公務員等の社会の中枢に属する層に浸透したが、ある殺人事件をきっかけに米国社会がこの組織暴力を追い詰めるに至る。裁判で関係者が有罪判決を受け組織は壊滅するものの、連邦政界との関係は不問にふされ、さらに構成員名簿がいつの間にか消失するなど、不可解な部分も多い。
「ブラック・リージョン」を通じて、1930年代の米国に、ナチスドイツと同質のファシズムが台頭していたことを窺い知ることができる。「ブラック・リージョン」を知る人は、第二次大戦直前の米国を「反ファシズム」「自由と民主主義の国」と言い切ることに、躊躇を感じる。「ブラック・リージョン」のテロがおさまってから10数年後、日本を占領した米国もまた、ファシズム体質を宿す国だったのだ。戦後日本における、米国=民主主義国家という幻想(=無媒介な米国崇拝)も、民族主義的反感も、どちらも危険というほかない。
いまや、米国はまさに、「ブラック・リージョン」に染まったた感がある。
(2006/11/16)
2006年11月3日金曜日
『中世ヨーロッパの歴史』
●堀越孝一[著] ●講談社学術文庫 ●1350円(税別)
中世ヨーロッパが停滞の時代、暗黒の時代と呼ばれたのは遠い過去のこと。いま中世が活力に満ち溢れた躍動的時代として、現代人を魅了する。
ヨーロッパ中世の見直しは、理性、自然科学、国民国家を柱とした近代・現代の反措定の意味をもっている――現代の閉塞状況は、中世という不動の体系を尋ねることによって、抜けられるのではないか――現代人は中世に羨望を抱きつつ、その面影を残すヨーロッパの古い街並みを旅することを好む。もちろん筆者もその中の1人。
ヨーロッパ中世の成立は、西ローマ帝国の滅亡(476)、ゲルマン系フランク族の王クローヴィスのカトリック改宗(498)に始まる。5世紀をもって、ヨーロッパの中心軸が地中海から内陸へと徐々に移動を開始する。北方から移動したゲルマン諸族が内陸に分権国家を築き、軍事的俗権と、汎ヨーロッパ的教会権力という聖権の結合が進む。
北方民族の移動は8~9世紀のノルマン人の侵入をもって、また、東方からの侵入は9世紀のマジャール人の侵入で一段落する。ヨーロッパ世界はイスラム、モンゴル、トルコといった台頭する非キリスト教圏勢力との緊張を保ちつつも、10世紀以降、安定期を迎える。その時代、ヨーロッパは十字軍という、聖(キリスト教信仰)と俗(軍団)が二重化した騎士団を組織して、東方へと膨張する。
14世紀中葉の黒死病大流行が中世の終わりを告げた。人口の30%近くを失うという自然災禍の発生は、これまでヨーロッパ中世を支えた物質と精神の両面に変容を強いた。前者は古代・中世に貫徹していた、「もの」本位の経済を衰退させ、貨幣本位の経済を促し、同時に諸侯分権から国王への権力集中を加速させた。また、後者については、教会の絶対的権威への懐疑が深まり、信仰の内面化を進めたかもしれない。中世の終焉を黒死病の流行に一元化できないにしても、その影響の大きさをだれも否定できない。
本書はヨーロッパ中世の魅力を伝える格好の入門書。著者(堀越孝一)は、ヨーロッパ中世について、ホイジンガを引用して、フランボワイアン・ゴシックにたとえる。フランボワイアン・ゴシックとは火焔様式と呼ばれるゴシック建築の一様式をいう。その姿は自然物と想像力とに彩られた外縁の装飾性を特徴とする。ヨーロッパ中世のたとえとしては、まさに核心をついている。フランボワイアン・ゴシックを見た者もまた、中世世界の不思議な魅力にとりつかれてしまうに違いない。
(2006/11/03)
中世ヨーロッパが停滞の時代、暗黒の時代と呼ばれたのは遠い過去のこと。いま中世が活力に満ち溢れた躍動的時代として、現代人を魅了する。
ヨーロッパ中世の見直しは、理性、自然科学、国民国家を柱とした近代・現代の反措定の意味をもっている――現代の閉塞状況は、中世という不動の体系を尋ねることによって、抜けられるのではないか――現代人は中世に羨望を抱きつつ、その面影を残すヨーロッパの古い街並みを旅することを好む。もちろん筆者もその中の1人。
ヨーロッパ中世の成立は、西ローマ帝国の滅亡(476)、ゲルマン系フランク族の王クローヴィスのカトリック改宗(498)に始まる。5世紀をもって、ヨーロッパの中心軸が地中海から内陸へと徐々に移動を開始する。北方から移動したゲルマン諸族が内陸に分権国家を築き、軍事的俗権と、汎ヨーロッパ的教会権力という聖権の結合が進む。
北方民族の移動は8~9世紀のノルマン人の侵入をもって、また、東方からの侵入は9世紀のマジャール人の侵入で一段落する。ヨーロッパ世界はイスラム、モンゴル、トルコといった台頭する非キリスト教圏勢力との緊張を保ちつつも、10世紀以降、安定期を迎える。その時代、ヨーロッパは十字軍という、聖(キリスト教信仰)と俗(軍団)が二重化した騎士団を組織して、東方へと膨張する。
14世紀中葉の黒死病大流行が中世の終わりを告げた。人口の30%近くを失うという自然災禍の発生は、これまでヨーロッパ中世を支えた物質と精神の両面に変容を強いた。前者は古代・中世に貫徹していた、「もの」本位の経済を衰退させ、貨幣本位の経済を促し、同時に諸侯分権から国王への権力集中を加速させた。また、後者については、教会の絶対的権威への懐疑が深まり、信仰の内面化を進めたかもしれない。中世の終焉を黒死病の流行に一元化できないにしても、その影響の大きさをだれも否定できない。
本書はヨーロッパ中世の魅力を伝える格好の入門書。著者(堀越孝一)は、ヨーロッパ中世について、ホイジンガを引用して、フランボワイアン・ゴシックにたとえる。フランボワイアン・ゴシックとは火焔様式と呼ばれるゴシック建築の一様式をいう。その姿は自然物と想像力とに彩られた外縁の装飾性を特徴とする。ヨーロッパ中世のたとえとしては、まさに核心をついている。フランボワイアン・ゴシックを見た者もまた、中世世界の不思議な魅力にとりつかれてしまうに違いない。
(2006/11/03)
2006年9月18日月曜日
『三島由紀夫文学論集1』
●三島由紀夫〔著〕 ●講談社文芸文庫 ●1300円+税
三島由紀夫は好きな作家ではないし、作品も余り読んでいない。だが、いつも気になって仕方がない存在である。その理由は、言うまでもなく、三島が自衛隊市谷駐屯地に突入して、割腹自殺を図ったからである。その理由、その精神状態、その思想的根拠については、まだ十分に議論されていないし、不明な部分が多いように思う。方法としての「死」という論法に苛立ちを覚えるのである。
三島由紀夫はテロリストではない。彼は突入の日、だれも殺さなかったばかりか、傷つけてさえいない。「憂国の士」を気取りながら、三島は「2.26事件」の青年将校とは異なっていたし、彼が『奔馬』で描いた神風連や主人公(勲)とも異なっている。三島の死は、政治的脈絡ではなく、文学的な帰結だと考えられる。
三島の文学評論の中で、最も注目すべき作品が『太陽と鉄』である。本書は難解で理解しにくい。その理由は、評論という体裁をとりながら、はなはだ論理的ではないからである。
本題の<太陽>と<鉄>とはそれぞれ何か。
太陽との出会いは2度あったという。1つ目は1945年の敗戦の夏。三島15歳のときだった。部屋に篭り書物を読みふけり、夜を志向していた少年時との決別の瞬間である。そして2つ目は1952年、海外旅行へ出たときの船の上甲板で見た太陽だという。いずれの太陽も、夜=思考に対する反措定にほかならない。
鉄とは、三島が打ち込んだボディビルの用具――ダンベルやベンチプレスなどのウエイト器具のこと。三島はウエイトトレーニングを自らに課し、筋肉隆々の肉体を築き上げ、さらに剣道に熱中した。トレーニングで使用する鉄塊の量が増した分だけ、自分の筋肉の量が増えていく、と三島は本書に書いている。
太陽も鉄も、三島独特の反知識人論の象徴だと考えられる。1950~60年代の日本では、とりわけ文学者、作家・・・総じて知識人といわれる人種は、文壇に属し、夜な夜な酒を飲み、青白き「インテリ」というのが相場だった。思考=言語とはすなわち書物であり、書斎から生まれるものだった。三島はそれを太陽と鉄によって、否定して見せたわけだ。
しかし、そういう知識人のあり方、思考と肉体の関係が、実際の思想形成や作品創意に対して、どのような影響を及ぼすかについては、実際には論証しにくい。筋肉がつけば思想や創意が変化する、あるいは人間精神に変異が生ずるという実証は難しい。三島の太陽と鉄が、“健全なる肉体に健全なる精神が宿る”というような、卑俗な肉体精神主義と選ぶところがなくなる。少なくとも、本書でその関係が論証できているとも思えないのであって、そこが、本書の難解さの所以となっている。
本書には、三島の思想的核心をなしたと思われる3つの体験が書かれている。体験を啓示と考えて差し支えない。
1つは、三島が神輿を担ぎながら、青空を見上げたときのもの。三島は幼いころ神輿を担ぐ若者たちをみて、彼ら(集団)は何を考えながら神輿を担いでいるのかを想像していたという。そして、青年を過ぎて三島自身が神輿を担いだとき、
《(集団の中で)何も考えず、ただ空だけを見上げていた》ことを実感する。そして、三島は、《青空のうちに、私が「悲劇的なもの」と久しく読んでいたところのものの本質を見た》というのである。
もう1つは、三島が自衛隊に体験入隊したときの初夏の夕方のことである。三島は一人で宿舎に戻るとき、《そこには何か、精神の絶対の閑暇があり、肉の至上の浄福があった・・・私は正に存在していた!》と書きとどめている。そして、《そこでは多くの私にとってフェティッシュな観念が、何ら言葉を介さずに、私の肉体と感覚にじかに結びついていたのである。軍隊、体育、夏、雲、夕日、夏草の緑、白い体操着、土埃、汗、筋肉、そしてごく微量の死の匂いまでが》と続けた。
3つ目の啓示は、国立競技場のトラックを一人で走っていたときである。そこで三島はアンツーカーの煉瓦色に百合の花粉の色を見る。そして、《走りながら、1つの想念が私の心を占めていた。すなわち、夜明けの悩める百合と、肉体の清浄との関係・・・肉体の清浄と神聖に関する少年の偽善とのつながり、聖セバスチャンの殉教の主題》へと己の観念を馳せるのであった。
百合と聖セバスチャンとくれば、これは同性愛の暗示である。三島は『聖セバスチャンの殉教』というタイトルの自身のヌード写真集(撮影/篠山紀信)を出している。
最後に、三島はこうまとめる。
三島由紀夫は好きな作家ではないし、作品も余り読んでいない。だが、いつも気になって仕方がない存在である。その理由は、言うまでもなく、三島が自衛隊市谷駐屯地に突入して、割腹自殺を図ったからである。その理由、その精神状態、その思想的根拠については、まだ十分に議論されていないし、不明な部分が多いように思う。方法としての「死」という論法に苛立ちを覚えるのである。
三島由紀夫はテロリストではない。彼は突入の日、だれも殺さなかったばかりか、傷つけてさえいない。「憂国の士」を気取りながら、三島は「2.26事件」の青年将校とは異なっていたし、彼が『奔馬』で描いた神風連や主人公(勲)とも異なっている。三島の死は、政治的脈絡ではなく、文学的な帰結だと考えられる。
三島の文学評論の中で、最も注目すべき作品が『太陽と鉄』である。本書は難解で理解しにくい。その理由は、評論という体裁をとりながら、はなはだ論理的ではないからである。
本題の<太陽>と<鉄>とはそれぞれ何か。
太陽との出会いは2度あったという。1つ目は1945年の敗戦の夏。三島15歳のときだった。部屋に篭り書物を読みふけり、夜を志向していた少年時との決別の瞬間である。そして2つ目は1952年、海外旅行へ出たときの船の上甲板で見た太陽だという。いずれの太陽も、夜=思考に対する反措定にほかならない。
鉄とは、三島が打ち込んだボディビルの用具――ダンベルやベンチプレスなどのウエイト器具のこと。三島はウエイトトレーニングを自らに課し、筋肉隆々の肉体を築き上げ、さらに剣道に熱中した。トレーニングで使用する鉄塊の量が増した分だけ、自分の筋肉の量が増えていく、と三島は本書に書いている。
太陽も鉄も、三島独特の反知識人論の象徴だと考えられる。1950~60年代の日本では、とりわけ文学者、作家・・・総じて知識人といわれる人種は、文壇に属し、夜な夜な酒を飲み、青白き「インテリ」というのが相場だった。思考=言語とはすなわち書物であり、書斎から生まれるものだった。三島はそれを太陽と鉄によって、否定して見せたわけだ。
しかし、そういう知識人のあり方、思考と肉体の関係が、実際の思想形成や作品創意に対して、どのような影響を及ぼすかについては、実際には論証しにくい。筋肉がつけば思想や創意が変化する、あるいは人間精神に変異が生ずるという実証は難しい。三島の太陽と鉄が、“健全なる肉体に健全なる精神が宿る”というような、卑俗な肉体精神主義と選ぶところがなくなる。少なくとも、本書でその関係が論証できているとも思えないのであって、そこが、本書の難解さの所以となっている。
本書には、三島の思想的核心をなしたと思われる3つの体験が書かれている。体験を啓示と考えて差し支えない。
1つは、三島が神輿を担ぎながら、青空を見上げたときのもの。三島は幼いころ神輿を担ぐ若者たちをみて、彼ら(集団)は何を考えながら神輿を担いでいるのかを想像していたという。そして、青年を過ぎて三島自身が神輿を担いだとき、
《(集団の中で)何も考えず、ただ空だけを見上げていた》ことを実感する。そして、三島は、《青空のうちに、私が「悲劇的なもの」と久しく読んでいたところのものの本質を見た》というのである。
もう1つは、三島が自衛隊に体験入隊したときの初夏の夕方のことである。三島は一人で宿舎に戻るとき、《そこには何か、精神の絶対の閑暇があり、肉の至上の浄福があった・・・私は正に存在していた!》と書きとどめている。そして、《そこでは多くの私にとってフェティッシュな観念が、何ら言葉を介さずに、私の肉体と感覚にじかに結びついていたのである。軍隊、体育、夏、雲、夕日、夏草の緑、白い体操着、土埃、汗、筋肉、そしてごく微量の死の匂いまでが》と続けた。
3つ目の啓示は、国立競技場のトラックを一人で走っていたときである。そこで三島はアンツーカーの煉瓦色に百合の花粉の色を見る。そして、《走りながら、1つの想念が私の心を占めていた。すなわち、夜明けの悩める百合と、肉体の清浄との関係・・・肉体の清浄と神聖に関する少年の偽善とのつながり、聖セバスチャンの殉教の主題》へと己の観念を馳せるのであった。
百合と聖セバスチャンとくれば、これは同性愛の暗示である。三島は『聖セバスチャンの殉教』というタイトルの自身のヌード写真集(撮影/篠山紀信)を出している。
最後に、三島はこうまとめる。
肉体は集団により、その同苦によって、はじめて個人によっては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であった。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だった。のみならず、たえず安逸と放埓と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へとみちびくところの、集団の悲劇性が必要だった。集団は死へ向かって拓かれていなければならなかった。私がここで戦士共同体を意味していることは云うまでもあるまい。何度も繰り返すとおり、『太陽と鉄』は難解な書である。「悲劇的なもの」の本質、「微量の死の匂い」「同性愛」そして、「戦士共同体」と続く記述に、「盾の会」結成から自衛隊市谷駐屯地突入までの行動の構想を読み取ることもできるけれど、徹底して反文学、反知性を貫く本書の三島の姿勢のどこまでが三島の心底の声であるかもわからない。三島由紀夫は依然、謎の作家であり続けるばかりだ。
早春の朝まだき、集団の一人になって、額には日の丸を染めなした鉢巻を締め、身も凍る半裸の姿で、駆けつづけていた私は、その同苦、その同じ懸声、その同じ歩調、その合唱を貫いて、自分の肌に次第になじんで来る汗のように、同一性の確認に他ならぬあの「悲劇的なもの」が君臨してくるのをひしひしと感じた・・・われわれは等しく栄光と死を望んでいた。望んでいるのは私一人ではなかった。
2006年8月27日日曜日
『思想としての全共闘世代』
●小阪 修平〔著〕 ●ちくま新書 ●735円(税込)
団塊世代特殊論と全共闘世代が混同して語られる論調が多い中、本書は、全共闘運動をまともに扱った数少ない書だ。本書によって、団塊世代と全共闘運動家の相違点が世間に了知されたはずだ。そればかりではない。著者(小阪修平)は、全共闘の思想的課題に対して、倫理的に向き合った数少ない元全共闘活動家であると言えよう。
しかし、本書の全共闘論すなわち著者(小阪修平)の運動歴が全共闘のすべてではない。著者(小阪修平)は全共闘と真正面から向き合ってはいるが、その全共闘体験は限られたものだ。著者(小阪修平)はセクトに属さない(当時、ノンセクトラディカルと呼ばれた)、つまり、市民運動として、全共闘に関わった学生のようだ。だから、著者(小阪修平)の<思想>もそこに縛られている。本書は全共闘運動をノンセクトラディカルとして担った者の総括という枠組みに限定されている。
本書の指摘を待つまでもなく、同世代の学生(つまり団塊世代)がすべて全共闘運動に流れたわけではない。著者(小阪修平)が言うとおり、時代の潮流に絡め取られた人もいれば、そうでない人もいた。同じ団塊でも、後者にとって全共闘は、大学生活を混乱させた許し難い存在だった。
全共闘運動の時代とは、一言で言えば変革期だった。第二次世界大戦後成立した東西冷戦構造から20年余を経て、東側ではスターリン主義の見直しが始まっていたし、西側では公害問題、ベトナム戦争、市民社会の拡張・高度化といった、転換期を迎えていた。全共闘運動は、このような世界史的変革を背景にして起こった。
近代以降の日本における大衆反乱、政治的動乱は、もちろん、全共闘運動だけではない。その代表的なものとして、まず、維新直後(1870年ごろ)、各地で起こった士族反乱が挙げられる。最も大規模なものが「西南の役」だった。
二度目は、昭和初期(19300年代)、青年将校を中心とした、天皇制原始社会主義を目指したクーデターがあった。「5.15事件」「2.26事件」として、現代史に刻まれている。アジア太平洋戦争直後(1950年前後)には、日本共産党の武装闘争があり、「血のメーデー事件」が名高い。そして、1960年の「安保闘争」を経て、1970年前後の全共闘運動に至る。
全共闘運動は、それ以外の運動と比べると、体制に与えた影響、反乱の規模等の観点からして、最も「弱い」運動だったと考えられる。たとえば、全共闘運動の直前にあった60年安保闘争の方が、参加した階層の多様性、闘争参加者の数量において、全共闘運動を圧倒している。全共闘運動は学生(一部に反戦青年委員会の参加をみたが)に限られていたという面で、極めて限定的運動だった。旧左翼は、全共闘運動を学生による、プチプル急進主義と批判した。旧左翼の指摘は一面の真理をついていた。全共闘運動は、左翼少数派の運動にすぎなかった。
本書にあるとおり、全共闘運動と新左翼(反代々木、反スターリニズム)運動との関係は、微妙に入り組んでいて、截然と分けにくい。全共闘運動参加者の一人ひとりの参加意識によって、とらえ方が異なっている。
たとえば、新左翼各派に属する専門的運動家からみれば、学内全共闘は大衆組織と位置付けられていたから、全共闘の下に結集した学生たちを自陣に引き込もうと努力したはずだ。その一方、著者(小阪修平)のように、全共闘運動=無党派・非政治組織を目的意識的に担った学生にとっては、新左翼各派の政治運動と全共闘運動はきちんと峻別されていた。しかも、全共闘運動参加者各人の参加意識は、わずか数年の差異によって微妙に変化している。著者(小阪修平)はそれを「何年に大学に入ったか、その入射角によって、反射角が異なる」と表現している。
本書にあるとおり、著者(小阪修平)が参加した「べ平連」(=ベトナムに平和を市民連合)は、全共闘運動とほぼ同時期に活動していた市民団体だが、「べ平連」参加者は、実力行使を伴わないカンパニアデモに、全共闘として参加する場合もあれば、「べ平連」として参加する場合もあった。
全共闘運動が幕を引くことになった1969年秋――新左翼にとってまさに「決戦」のときだったのだが――、闘争の第一の山場、佐藤訪米阻止闘争には、「べ平連」の運動家たちの多くは、「べ平連」の実質的上部学生組織であるプロレタリア学生戦線(フロント)に吸収され、「プロレタリア戦士」として、「決戦」に臨んだ。フロントの上部団体は統社同(統一社会主義者同盟)だった。
統社同は、1960年代初頭まで、構造改革を綱領とする修正主義政党だったのだが、同党に限らず、構造改革主義党派は、全共闘運動とともに活性化したマルクス・レーニン主義の新左翼各派の影響を受け、構造改革の綱領を書き直して路線変更をし、マルクス・レーニン主義政党になった。彼らのスローガンはいつのまにか「構造改革」から「プロレタリア世界戦争勝利」に変わっていた。
「べ平連」は、1969年秋の「決戦」直前、新左翼敗北前に、党派に吸収されるという形で自然消滅した。そして、組織としての全共闘も「べ平連」と同じように、このとき吸収・解体・消滅した。「べ平連」のような無党派市民団体は、新左翼各派の表向きの大衆動員装置であった。表向き無党派で高校生を中心に組織された反戦高協は、中核派の高校生組織だった。
学内全共闘は、著者の分析に従えば、1968年の東大・日大闘争から1969年「4.28沖縄闘争」までの短期間、無党派の自然発生的学生集団だった。しかし、先述した「決戦」が近づくに従い、新左翼各派の下部大衆組織に様変わりした、という見方は正しい。
全共闘が新左翼各派に吸収されていった力学は、新左翼各派の組織戦術の成果に還元できるものではない。新左翼運動は、統社同の変容を例外とせず、原理主義に純化していった。本書にもあるように、全共闘運動は学生運動という大衆の枠組みからスタートしながら、運動を重ねるごとに、原理主義化した。
原理主義の1つは戦術論レベルに現れた。新左翼各派は大雑把に言えば、ロシア革命どおりに日本に革命を起こすことを自らの任務と自覚した。他党派がロシア革命という「原理」から逸脱していれば、「修正主義」として批判した。原理主義の帰結は武装蜂起だ。この流れが共産同(共産主義者同盟)赤軍派結成につながる。
ロシア以外の共産主義革命の方法として、毛沢東主義を取り上げたセクトもあった。毛沢東主義を原理主義的に純化した党派としては、共産主義者同盟ML派や、後に共産同赤軍派と連合した日共革命的左派=京浜安保共闘があった。
組織論レベルの原理主義もはなはだしかった。党形成、大衆の組織化の方法だ。革命的マルクス主義の自覚の論理という主体の思想形成を第一とする党派と、大衆運動で党を量的に拡大する運動方針を唱えた党派は、双方に非妥協的な対立を生んだ。
先述した構造改革派は、学園内における他党派との論争過程で修正主義として退けられるか、あるいは、党内の突き上げにあって、原理主義的マルクス・レーニン主義への路線転換を余儀なくされた。武装蜂起を革命の方法に据えなければ、原理主義で理論武装した新左翼各派との理論闘争に勝てなかった。
革命の方法論としては、次第に、「ロシア革命」さえも乗り越えなければならなくなった。「ロシア革命」の不完全性が「一国革命主義=スターリン主義国家=ソヴィエト連邦」の成立に至ったという歴史認識だ。「ロシア革命」の限界は、一国革命にとどまったことだと。新左翼各派は、世界革命、永続革命を夢想した。世界一国同時革命、プロレタリア世界戦争といった、勇ましいスローガン=原理主義が登場した。
全共闘運動の中のノンセクトラディカル活動家は、党派から原理主義的批判に晒された。“君らの運動には限界がある、世界革命が成功しなければ、だれも解放されない”と。こうした問いかけにまともに応対した「べ平連」活動家らの多くは、1969年秋の「決戦」前にフロント戦士に自己変革を遂げ、党派の一員となったように、学内全共闘活動家の多くが新左翼各派に吸収されていった。こうして、組織としての全共闘は解体・消滅した。
かりに、全共闘のノンセクトラディカルが党派の勧誘を断り、ノンセクト独自の思想と運動論を用意していれば、1969年秋の「決戦」を越えて、全共闘運動は思想=組織として、持続した可能性もあった。それができなかったということが、全共闘の思想としての限界だった。政治を回避していたノンセクトラディカルも、1969年秋の決戦における敗北以降に始まった政治的退潮に抗すことはできなかった。それが全共闘の組織としての限界だった。
本書にあるとおり、全共闘運動・新左翼運動の退潮の後、セクトの原理主義はますます急進化し、ハイジャック、連合赤軍事件、内ゲバ殺人、爆弾闘争、世界赤軍(国際的テロリズム)へと急旋回した。また、後世の脱イデオロギー化した時代状況の中、1990年代のオウム真理教によるサリンテロにまでエスカレートしたことになる。この帰結を、全共闘運動に帰するのか、それとも、新左翼運動に帰するのかは定かではない。
さて、1980年代以降の日本の方向性を行政風に表現すると、▽都市化▽情報化▽国際化の3点に集約できる。ところが、1960年代後半から1970年代初頭にかけて活性化したムーブメント、すなわち、革命運動・ヒッピー運動・サブカルチャーの隆盛等のムーブメントは、この3点を先取りしたものだった。
第一に、著者(小阪修平)のような地方から東京に出てきた学生の多くは、東京において既に進められてきた「都市化」に対し、著しい違和を感じたようだ。全共闘運動は、多くの学生が抱いた違和をバネに急進化したともいえる。急激な都市化によって、学生達が旧来の共同体的存在から分離され、実存を強く意識したと換言できる。新左翼が初期マルクスの疎外という概念を持ち出したものは、「疎外された労働」という初期マルクスの概念を借用しながら、都市化した環境に適合しにくかった地方出身学生の心情(疎外感)を代弁した可能性もある。
第二の「情報化」については、当時はまだIT化を意味しないけれど、マスメディアとくにテレビの普及発達、そして、それと並行して生まれたメディアの多様化現象が適合する。たとえば、全共闘運動活動家の愛読書は朝日新聞社から刊行された『朝日ジャーナル』、ファッション情報を満載した『平凡パンチ』、そして漫画『少年マガジン』といったサブカルチャーの雑誌類だった。さらにそのころ、ロック専門誌、映画専門誌、ライフスタイル専門誌等々の新雑誌が刊行され、若者に読まれるようになった。こうした急激な「情報化」の進展は、全共闘運動と無縁ではない。
第三の「国際化」については、新左翼各派がロシア(ソ連)及び中国といった、既成の社会主義国家以外――南米、北朝鮮、中東、アメリカ、ヨーロッパなどに関心を抱いたことで明確だ。もちろん、社会主義運動は「第3インター」「コミュンテルン」「第4インター」といった国際組織が世界各地をつなげてはいたけれど、そうした流れとは別個に、ゲバラ(=南米を拠点とした革命家)、マルクーゼ(アメリカの新左翼思想家)、サルトル(フランスの実存主義哲学者)、キング牧師(アメリカの公民権運動活動家)、アメリカの学生運動、ヒッピー運動、マルコムX(アメリカの黒人革命家)、「フランス5月革命」、中国文化革命などの影響を受け、実質的ではなく意識的に連帯した。
さらに、旧左翼からは異端とされた、ローザ・ルクセンブルク(ドイツの革命家)、シモーヌ・ヴェイユ(フランスの社会運動家)らの復権もあった。
これまで、外国といえばアメリカ、共産主義運動といえばソ連、中国――といった世界観から、この時期、日本人が抱いていた「世界」という概念が爆発的に拡大したことが認められる。
全共闘運動――新左翼運動を含めて――は、政治思想としては、今日世界中を席巻している原理主義およびテロリズムを先取りしたものだった。それが日本における30数年の経過で失敗と証明されている以上、原理主義は国を選ばず滅びる。とは言え、全共闘運動の失敗が、現状に対する異議申し立てすべての失敗を意味するわけではない。全共闘運動は、「観念の遊戯」であったがゆえに、持続性も普遍性も持ち得なかった、ということだ。そこを反省の核とするならば、これから先、なんらかの形で異議申し立てが必要な局面において、全共闘運動体験が生かされる可能性がまったくないとは言えない。
団塊世代特殊論と全共闘世代が混同して語られる論調が多い中、本書は、全共闘運動をまともに扱った数少ない書だ。本書によって、団塊世代と全共闘運動家の相違点が世間に了知されたはずだ。そればかりではない。著者(小阪修平)は、全共闘の思想的課題に対して、倫理的に向き合った数少ない元全共闘活動家であると言えよう。
しかし、本書の全共闘論すなわち著者(小阪修平)の運動歴が全共闘のすべてではない。著者(小阪修平)は全共闘と真正面から向き合ってはいるが、その全共闘体験は限られたものだ。著者(小阪修平)はセクトに属さない(当時、ノンセクトラディカルと呼ばれた)、つまり、市民運動として、全共闘に関わった学生のようだ。だから、著者(小阪修平)の<思想>もそこに縛られている。本書は全共闘運動をノンセクトラディカルとして担った者の総括という枠組みに限定されている。
本書の指摘を待つまでもなく、同世代の学生(つまり団塊世代)がすべて全共闘運動に流れたわけではない。著者(小阪修平)が言うとおり、時代の潮流に絡め取られた人もいれば、そうでない人もいた。同じ団塊でも、後者にとって全共闘は、大学生活を混乱させた許し難い存在だった。
全共闘運動の時代とは、一言で言えば変革期だった。第二次世界大戦後成立した東西冷戦構造から20年余を経て、東側ではスターリン主義の見直しが始まっていたし、西側では公害問題、ベトナム戦争、市民社会の拡張・高度化といった、転換期を迎えていた。全共闘運動は、このような世界史的変革を背景にして起こった。
近代以降の日本における大衆反乱、政治的動乱は、もちろん、全共闘運動だけではない。その代表的なものとして、まず、維新直後(1870年ごろ)、各地で起こった士族反乱が挙げられる。最も大規模なものが「西南の役」だった。
二度目は、昭和初期(19300年代)、青年将校を中心とした、天皇制原始社会主義を目指したクーデターがあった。「5.15事件」「2.26事件」として、現代史に刻まれている。アジア太平洋戦争直後(1950年前後)には、日本共産党の武装闘争があり、「血のメーデー事件」が名高い。そして、1960年の「安保闘争」を経て、1970年前後の全共闘運動に至る。
全共闘運動は、それ以外の運動と比べると、体制に与えた影響、反乱の規模等の観点からして、最も「弱い」運動だったと考えられる。たとえば、全共闘運動の直前にあった60年安保闘争の方が、参加した階層の多様性、闘争参加者の数量において、全共闘運動を圧倒している。全共闘運動は学生(一部に反戦青年委員会の参加をみたが)に限られていたという面で、極めて限定的運動だった。旧左翼は、全共闘運動を学生による、プチプル急進主義と批判した。旧左翼の指摘は一面の真理をついていた。全共闘運動は、左翼少数派の運動にすぎなかった。
本書にあるとおり、全共闘運動と新左翼(反代々木、反スターリニズム)運動との関係は、微妙に入り組んでいて、截然と分けにくい。全共闘運動参加者の一人ひとりの参加意識によって、とらえ方が異なっている。
たとえば、新左翼各派に属する専門的運動家からみれば、学内全共闘は大衆組織と位置付けられていたから、全共闘の下に結集した学生たちを自陣に引き込もうと努力したはずだ。その一方、著者(小阪修平)のように、全共闘運動=無党派・非政治組織を目的意識的に担った学生にとっては、新左翼各派の政治運動と全共闘運動はきちんと峻別されていた。しかも、全共闘運動参加者各人の参加意識は、わずか数年の差異によって微妙に変化している。著者(小阪修平)はそれを「何年に大学に入ったか、その入射角によって、反射角が異なる」と表現している。
本書にあるとおり、著者(小阪修平)が参加した「べ平連」(=ベトナムに平和を市民連合)は、全共闘運動とほぼ同時期に活動していた市民団体だが、「べ平連」参加者は、実力行使を伴わないカンパニアデモに、全共闘として参加する場合もあれば、「べ平連」として参加する場合もあった。
全共闘運動が幕を引くことになった1969年秋――新左翼にとってまさに「決戦」のときだったのだが――、闘争の第一の山場、佐藤訪米阻止闘争には、「べ平連」の運動家たちの多くは、「べ平連」の実質的上部学生組織であるプロレタリア学生戦線(フロント)に吸収され、「プロレタリア戦士」として、「決戦」に臨んだ。フロントの上部団体は統社同(統一社会主義者同盟)だった。
統社同は、1960年代初頭まで、構造改革を綱領とする修正主義政党だったのだが、同党に限らず、構造改革主義党派は、全共闘運動とともに活性化したマルクス・レーニン主義の新左翼各派の影響を受け、構造改革の綱領を書き直して路線変更をし、マルクス・レーニン主義政党になった。彼らのスローガンはいつのまにか「構造改革」から「プロレタリア世界戦争勝利」に変わっていた。
「べ平連」は、1969年秋の「決戦」直前、新左翼敗北前に、党派に吸収されるという形で自然消滅した。そして、組織としての全共闘も「べ平連」と同じように、このとき吸収・解体・消滅した。「べ平連」のような無党派市民団体は、新左翼各派の表向きの大衆動員装置であった。表向き無党派で高校生を中心に組織された反戦高協は、中核派の高校生組織だった。
学内全共闘は、著者の分析に従えば、1968年の東大・日大闘争から1969年「4.28沖縄闘争」までの短期間、無党派の自然発生的学生集団だった。しかし、先述した「決戦」が近づくに従い、新左翼各派の下部大衆組織に様変わりした、という見方は正しい。
全共闘が新左翼各派に吸収されていった力学は、新左翼各派の組織戦術の成果に還元できるものではない。新左翼運動は、統社同の変容を例外とせず、原理主義に純化していった。本書にもあるように、全共闘運動は学生運動という大衆の枠組みからスタートしながら、運動を重ねるごとに、原理主義化した。
原理主義の1つは戦術論レベルに現れた。新左翼各派は大雑把に言えば、ロシア革命どおりに日本に革命を起こすことを自らの任務と自覚した。他党派がロシア革命という「原理」から逸脱していれば、「修正主義」として批判した。原理主義の帰結は武装蜂起だ。この流れが共産同(共産主義者同盟)赤軍派結成につながる。
ロシア以外の共産主義革命の方法として、毛沢東主義を取り上げたセクトもあった。毛沢東主義を原理主義的に純化した党派としては、共産主義者同盟ML派や、後に共産同赤軍派と連合した日共革命的左派=京浜安保共闘があった。
組織論レベルの原理主義もはなはだしかった。党形成、大衆の組織化の方法だ。革命的マルクス主義の自覚の論理という主体の思想形成を第一とする党派と、大衆運動で党を量的に拡大する運動方針を唱えた党派は、双方に非妥協的な対立を生んだ。
先述した構造改革派は、学園内における他党派との論争過程で修正主義として退けられるか、あるいは、党内の突き上げにあって、原理主義的マルクス・レーニン主義への路線転換を余儀なくされた。武装蜂起を革命の方法に据えなければ、原理主義で理論武装した新左翼各派との理論闘争に勝てなかった。
革命の方法論としては、次第に、「ロシア革命」さえも乗り越えなければならなくなった。「ロシア革命」の不完全性が「一国革命主義=スターリン主義国家=ソヴィエト連邦」の成立に至ったという歴史認識だ。「ロシア革命」の限界は、一国革命にとどまったことだと。新左翼各派は、世界革命、永続革命を夢想した。世界一国同時革命、プロレタリア世界戦争といった、勇ましいスローガン=原理主義が登場した。
全共闘運動の中のノンセクトラディカル活動家は、党派から原理主義的批判に晒された。“君らの運動には限界がある、世界革命が成功しなければ、だれも解放されない”と。こうした問いかけにまともに応対した「べ平連」活動家らの多くは、1969年秋の「決戦」前にフロント戦士に自己変革を遂げ、党派の一員となったように、学内全共闘活動家の多くが新左翼各派に吸収されていった。こうして、組織としての全共闘は解体・消滅した。
かりに、全共闘のノンセクトラディカルが党派の勧誘を断り、ノンセクト独自の思想と運動論を用意していれば、1969年秋の「決戦」を越えて、全共闘運動は思想=組織として、持続した可能性もあった。それができなかったということが、全共闘の思想としての限界だった。政治を回避していたノンセクトラディカルも、1969年秋の決戦における敗北以降に始まった政治的退潮に抗すことはできなかった。それが全共闘の組織としての限界だった。
本書にあるとおり、全共闘運動・新左翼運動の退潮の後、セクトの原理主義はますます急進化し、ハイジャック、連合赤軍事件、内ゲバ殺人、爆弾闘争、世界赤軍(国際的テロリズム)へと急旋回した。また、後世の脱イデオロギー化した時代状況の中、1990年代のオウム真理教によるサリンテロにまでエスカレートしたことになる。この帰結を、全共闘運動に帰するのか、それとも、新左翼運動に帰するのかは定かではない。
さて、1980年代以降の日本の方向性を行政風に表現すると、▽都市化▽情報化▽国際化の3点に集約できる。ところが、1960年代後半から1970年代初頭にかけて活性化したムーブメント、すなわち、革命運動・ヒッピー運動・サブカルチャーの隆盛等のムーブメントは、この3点を先取りしたものだった。
第一に、著者(小阪修平)のような地方から東京に出てきた学生の多くは、東京において既に進められてきた「都市化」に対し、著しい違和を感じたようだ。全共闘運動は、多くの学生が抱いた違和をバネに急進化したともいえる。急激な都市化によって、学生達が旧来の共同体的存在から分離され、実存を強く意識したと換言できる。新左翼が初期マルクスの疎外という概念を持ち出したものは、「疎外された労働」という初期マルクスの概念を借用しながら、都市化した環境に適合しにくかった地方出身学生の心情(疎外感)を代弁した可能性もある。
第二の「情報化」については、当時はまだIT化を意味しないけれど、マスメディアとくにテレビの普及発達、そして、それと並行して生まれたメディアの多様化現象が適合する。たとえば、全共闘運動活動家の愛読書は朝日新聞社から刊行された『朝日ジャーナル』、ファッション情報を満載した『平凡パンチ』、そして漫画『少年マガジン』といったサブカルチャーの雑誌類だった。さらにそのころ、ロック専門誌、映画専門誌、ライフスタイル専門誌等々の新雑誌が刊行され、若者に読まれるようになった。こうした急激な「情報化」の進展は、全共闘運動と無縁ではない。
第三の「国際化」については、新左翼各派がロシア(ソ連)及び中国といった、既成の社会主義国家以外――南米、北朝鮮、中東、アメリカ、ヨーロッパなどに関心を抱いたことで明確だ。もちろん、社会主義運動は「第3インター」「コミュンテルン」「第4インター」といった国際組織が世界各地をつなげてはいたけれど、そうした流れとは別個に、ゲバラ(=南米を拠点とした革命家)、マルクーゼ(アメリカの新左翼思想家)、サルトル(フランスの実存主義哲学者)、キング牧師(アメリカの公民権運動活動家)、アメリカの学生運動、ヒッピー運動、マルコムX(アメリカの黒人革命家)、「フランス5月革命」、中国文化革命などの影響を受け、実質的ではなく意識的に連帯した。
さらに、旧左翼からは異端とされた、ローザ・ルクセンブルク(ドイツの革命家)、シモーヌ・ヴェイユ(フランスの社会運動家)らの復権もあった。
これまで、外国といえばアメリカ、共産主義運動といえばソ連、中国――といった世界観から、この時期、日本人が抱いていた「世界」という概念が爆発的に拡大したことが認められる。
全共闘運動――新左翼運動を含めて――は、政治思想としては、今日世界中を席巻している原理主義およびテロリズムを先取りしたものだった。それが日本における30数年の経過で失敗と証明されている以上、原理主義は国を選ばず滅びる。とは言え、全共闘運動の失敗が、現状に対する異議申し立てすべての失敗を意味するわけではない。全共闘運動は、「観念の遊戯」であったがゆえに、持続性も普遍性も持ち得なかった、ということだ。そこを反省の核とするならば、これから先、なんらかの形で異議申し立てが必要な局面において、全共闘運動体験が生かされる可能性がまったくないとは言えない。
2006年8月24日木曜日
『流刑地にて』
●フランツ・カフカ〔著〕 ●白水uブックス ●900円+税
旅行者がとある流刑地を訪れ、囚人の処刑を見学することになる。判事にして処刑執行人は将校一人。彼はは処刑方法を考案した先代の司令官の忠実な部下として、司令官交代後もその職を全うしている。
処刑には、「ベッド」「馬鍬」「製図屋」によって構成された奇妙な処刑機械が使われている。囚人はベッドに縛り付けられ、製図屋によって製作された判決文を馬鍬によって、体に印刷され、出血多量もしくはショックで命を落とす仕掛けになっている。この処刑機械には、印刷されるときの大量の出血が散乱しないような、あるいは、囚人が苦痛で大声を出さないような仕掛けなどが完備されている。
さて、いよいよ処刑執行に及ぶのだが、囚人を機械に取り付けて機械を回し始めたところで故障してしまう。執行人の将校は、故障は新任の司令官がこの奇妙な機械を使った処刑執行を中止したがっているため、老朽化した部品の交換が行えなくなったためだと、旅行者に告白し始める。将校は、旅行者に向かって、新しい司令官にこの奇妙な機械を使用する処刑が正しい行為であることを伝えるよう懇願し始める。
懇願された旅行者は、自分は旅行者すなわち、よそ者であるから、処刑の問題に関与できないこと、司令官と関わるのは負担であることなどの理由を挙げて、将校の申し出を拒否する。
そんなやり取りをしているうち、将校は不意に新しい図面を取り出し機械に挿入し、処刑機械にかけられている囚人を解放し、自らをその機械にかけ、自らを処刑しようとする。今度は、機械は円滑に動き出し、将校は処刑機械にかけられて命を落とす。
荒唐無稽な話だ。もちろん、そんな流刑地など存在しないし、旅行者が訪れることなどあり得ない。
この小説には、旅行者、将校、囚人、兵士の4人の登場人物しか出てこない(後半部分に村の住人が多少登場するが・・・)。詳しい風景描写もないが、この流刑地はおそらく荒涼とした離島のように思える。設定、出来事、結末は不条理であり、現実と幻想(夢)が入り混じった世界のように思える。あり得ない話なのだが、権力の源泉を示す寓話のように思えなくもない。
重要なのは結末で、囚人と死刑執行人が入れ替わるという転倒だ。この結末には、傍観者であるはずの旅行者が一役買っているものの、一切登場しない新任の司令官の存在が最も大きな役割を果たしている。
将校は、新任の司令官が従来の処刑機械を使った処刑の廃絶はもちろん、執行者である自分の解任を目指しているに違いないと、認識している。
旅行者は、在地の権力者(新任の司令官)と、処刑方法という重い問題で関わりあうことを恐れている。二人にとっては、いまここにいる相手方よりも、不在である新任の司令官との関係が重要だと認識している点で共通している。将校と旅行者は、新しい司令官が行うかもしれないという権力の行使に、共に恐怖を抱いている。
人間の行動は、暴力・軍事力といった強制力に従うこともあるだろうが、人々の心の中に生ずる幻想的な力――関係性――に拠ることもある。権力は暴力による強制~従属をもつこともあろうが、人々の抱く観念(たとえば恐怖)によって、人々の心の中に醸成されるものではないか。
新しい司令官は、処刑執行人である将校に処刑の禁止を命じた事実はない。にもかかわらず、将校は、新しい司令官が自分を辞めさせ、これまで続けてきた機械による処刑を禁止させるに「違いない」という脅迫観念によって自らの行動を選択する。その結果は、なんとも理不尽な、囚人に代わって自分を処刑機械にかけてしまうという行動だった。
旅行者は、将校の懇願によって新しい司令官と係わり合いをもつことを恐れている。もちろん、旅行者は新しい司令官に会ったことはない。にもかかわらず、新しい司令官が自分を拘束したり尋問したりする可能性を危惧し、将校の申し出を拒絶する。この拒絶が将校、自らの処刑という行動を惹起せしめる。
4人の登場人物のうち、兵士はだれにも関わらない。将校の部下だから将校と上下関係にあるのだが、兵士は機械に不器用に関与して将校に怒られたり、旅行者を警戒したり、解放された囚人と戯れたりもする。兵士だけが、処刑という制度、新しい司令官、将校、旅行者、囚人に対して、まったく関与しない存在になっている。
将校と囚人は当事者同士、そして、旅行者は傍観者でありながら、当事者に実態的に関与する。ところが、兵士は、3人とは実態的に、また、新任の司令官には観念的に、関わらない点で非存在である。兵士はだから、筋書きに関与せず、現れたり消えたりする演劇における道化に似ている。非存在の兵士の存在が、非現実性を強調し、小説のかもし出す荒涼感を強く読む者に与える。
旅行者がとある流刑地を訪れ、囚人の処刑を見学することになる。判事にして処刑執行人は将校一人。彼はは処刑方法を考案した先代の司令官の忠実な部下として、司令官交代後もその職を全うしている。
処刑には、「ベッド」「馬鍬」「製図屋」によって構成された奇妙な処刑機械が使われている。囚人はベッドに縛り付けられ、製図屋によって製作された判決文を馬鍬によって、体に印刷され、出血多量もしくはショックで命を落とす仕掛けになっている。この処刑機械には、印刷されるときの大量の出血が散乱しないような、あるいは、囚人が苦痛で大声を出さないような仕掛けなどが完備されている。
さて、いよいよ処刑執行に及ぶのだが、囚人を機械に取り付けて機械を回し始めたところで故障してしまう。執行人の将校は、故障は新任の司令官がこの奇妙な機械を使った処刑執行を中止したがっているため、老朽化した部品の交換が行えなくなったためだと、旅行者に告白し始める。将校は、旅行者に向かって、新しい司令官にこの奇妙な機械を使用する処刑が正しい行為であることを伝えるよう懇願し始める。
懇願された旅行者は、自分は旅行者すなわち、よそ者であるから、処刑の問題に関与できないこと、司令官と関わるのは負担であることなどの理由を挙げて、将校の申し出を拒否する。
そんなやり取りをしているうち、将校は不意に新しい図面を取り出し機械に挿入し、処刑機械にかけられている囚人を解放し、自らをその機械にかけ、自らを処刑しようとする。今度は、機械は円滑に動き出し、将校は処刑機械にかけられて命を落とす。
荒唐無稽な話だ。もちろん、そんな流刑地など存在しないし、旅行者が訪れることなどあり得ない。
この小説には、旅行者、将校、囚人、兵士の4人の登場人物しか出てこない(後半部分に村の住人が多少登場するが・・・)。詳しい風景描写もないが、この流刑地はおそらく荒涼とした離島のように思える。設定、出来事、結末は不条理であり、現実と幻想(夢)が入り混じった世界のように思える。あり得ない話なのだが、権力の源泉を示す寓話のように思えなくもない。
重要なのは結末で、囚人と死刑執行人が入れ替わるという転倒だ。この結末には、傍観者であるはずの旅行者が一役買っているものの、一切登場しない新任の司令官の存在が最も大きな役割を果たしている。
将校は、新任の司令官が従来の処刑機械を使った処刑の廃絶はもちろん、執行者である自分の解任を目指しているに違いないと、認識している。
旅行者は、在地の権力者(新任の司令官)と、処刑方法という重い問題で関わりあうことを恐れている。二人にとっては、いまここにいる相手方よりも、不在である新任の司令官との関係が重要だと認識している点で共通している。将校と旅行者は、新しい司令官が行うかもしれないという権力の行使に、共に恐怖を抱いている。
人間の行動は、暴力・軍事力といった強制力に従うこともあるだろうが、人々の心の中に生ずる幻想的な力――関係性――に拠ることもある。権力は暴力による強制~従属をもつこともあろうが、人々の抱く観念(たとえば恐怖)によって、人々の心の中に醸成されるものではないか。
新しい司令官は、処刑執行人である将校に処刑の禁止を命じた事実はない。にもかかわらず、将校は、新しい司令官が自分を辞めさせ、これまで続けてきた機械による処刑を禁止させるに「違いない」という脅迫観念によって自らの行動を選択する。その結果は、なんとも理不尽な、囚人に代わって自分を処刑機械にかけてしまうという行動だった。
旅行者は、将校の懇願によって新しい司令官と係わり合いをもつことを恐れている。もちろん、旅行者は新しい司令官に会ったことはない。にもかかわらず、新しい司令官が自分を拘束したり尋問したりする可能性を危惧し、将校の申し出を拒絶する。この拒絶が将校、自らの処刑という行動を惹起せしめる。
4人の登場人物のうち、兵士はだれにも関わらない。将校の部下だから将校と上下関係にあるのだが、兵士は機械に不器用に関与して将校に怒られたり、旅行者を警戒したり、解放された囚人と戯れたりもする。兵士だけが、処刑という制度、新しい司令官、将校、旅行者、囚人に対して、まったく関与しない存在になっている。
将校と囚人は当事者同士、そして、旅行者は傍観者でありながら、当事者に実態的に関与する。ところが、兵士は、3人とは実態的に、また、新任の司令官には観念的に、関わらない点で非存在である。兵士はだから、筋書きに関与せず、現れたり消えたりする演劇における道化に似ている。非存在の兵士の存在が、非現実性を強調し、小説のかもし出す荒涼感を強く読む者に与える。
2006年8月21日月曜日
『靖国神社「解放」論』
●稲垣久和〔著〕 ●光文社 ●952円+税
靖国問題の最終解決方法
靖国問題の背景には、戦没者という霊的存在と、遺族という世俗的存在がある。このたびの靖国問題の発端は、小泉首相が靖国参拝を後者に公約したことから始まり、現在に至っている。
手続き的には、小泉首相の靖国参拝はそれなりに、多数決原理に適っている。国民が小泉首相の公約に「ノー」ならば、自民党は先の総選挙で大勝するはずがない。先の総選挙で、小泉靖国参拝は、信任されたのだ。
だから、靖国参拝を民主的に解決する方法はただ一つ、「靖国」で民意を問うこと以外ない。
もっとも至近にある選挙が来年の参院選ならば、野党である民主党等は、先の小泉首相が採用した、「郵政民営化、イエスかノーか」を倣って、「靖国参拝イエスかノー」のワンイッシ一選挙を仕掛けるしかない。
靖国問題は、けして枝葉末節の問題ではない。少なくとも、・日本の戦争責任について、▽国民国家のあり方、・戦争か平和か、▽自衛隊違憲か合憲か、▽日本の外交のあり方・・・もっといえば、維新後の日本を是と見るか非と見るかであり、戦後日本国憲法を認めるか否かまでも包括した問題なのだ。
自民党が靖国参拝を打ち出せば、自民党政権の本質が見える。来年の参院選は、今般の諸問題を総合的に争点とするよりも、靖国一本に絞ることのほうが、はるかに国民にとって有益な選挙となる。
〔公共〕という第3項では解決できない
さて、本書の批評に戻ろう。本書は、靖国神社問題を〔私-公-公共〕という3元的位相の設定で解決を図ろうという試みだ。一般には、私(個人)と公(国家等)という対立項があるが、著者(稲垣久和)は、それ以外に公共という位相を設定する。ただし、公共というのは容易に理解し難い概念である。著者(稲垣久和)の定義を解釈すると、公共とは〔市民原理〕と換言できるように思う。〔市民原理〕は、私(個人)及び公(国家)より、先験的に上位にあるもののようだ。
靖国問題の場合、私人=小泉純一郎、公=国家=内閣総理大臣が参拝を志向し実践しているが、それは公共に反する、しかも、靖国参拝に限らず、公共原理に反する行為等については、〔公共原理〕が自動的にそれを禁止・制御できる、というのが著者(稲垣久和)の論理構成のようだ。著者(稲垣久和)の結論は、公共(=市民原理)から導き出された無宗教の戦死者慰霊施設を公共的組織が造営・管理し、宗教を問わずに戦死者を慰霊すればいいとなる。
しかし、世論調査によると、小泉首相の靖国参拝を「支持する」と回答した人の割合はおよそ40%超を占め、「支持しない」とほぼ同率で拮抗している。著者(稲垣久和)のように、〔公共原理〕が世論の40%超を無原則的に切り捨てていいのだろうか。それが民主主義なのだろうか。靖国の問題は、〔公共原理〕を持ち出せば解決できるほど、易しい問題ではない。
帝国憲法、日本国憲法を問わず、国家が遂行した戦争犠牲者は、国民の負託を受けた国家がそれを管理してきたが、〔市民原理〕が国家を越えて管理できるというのが著者(稲垣和久)の主張だ。
しかし、市民社会が国家から自由である法的根拠をどこに求めたらいいのか。戦争犠牲者を国家の手から奪い返して、市民が独占するとは、どういうことなのか。それは、市民社会が国民国家を廃絶するか、国民国家を市民社会原理に基づき統治する、新たな統治機構が存在しなければ、国民から負託された国家行為を禁止したり無視したりできないのではないか。市民社会が国民国家を廃絶すること及び新たな統治機構を設立することは、靖国問題解決より、はるかに難しいことではないのか。結局、国民国家の枠組みにある以上は、国民が国家を制御するしか方法がない。
靖国神社の建立目的と機能
靖国参拝は心の問題、すなわち「私」の領域に属することだから、公人という立場は存在しない、というのが首相見解である。一方、憲法は個人(私人)の宗教の自由を保障するものの、国家が特定の宗教を保護することもその反対に弾圧することも禁じている、つまり、首相(公人)という立場で特定の宗教施設に出入りし、参拝、祈祷、祈念することは憲法違反だという見解がある。もちろんいま現在、双方の見解が対立したままだ。
靖国神社が日本に数ある宗教施設の中の1つで、分類すれば神道(神社)に属することは言うまでもない。19世紀の建立だから極めて新しい。その目的は、国家が遂行した戦争で戦った犠牲者(=戦士)の魂を祀ることだとされている。
先のアジア太平洋戦争中、日本政府は戦死者を顕彰した。お国のためによくぞ戦ってくれた、死んでくれたというわけだ。靖国神社は日本の帝国主義戦争を補完する装置の1つだった。これをもって、靖国神社は帝国主義戦争のシンボルであり、日本国憲法の反戦平和主義と相容れないという主張もある。もちろん、靖国には戦死した兵士を顕彰する目的・機能があったが、しかし、反戦平和の論理だけでは、靖国問題は解決を見ない。
靖国神社建立は、靖国に限らず、日本の古代からの為政者が行ってきた宗教的実践、すなわち、御霊信仰に基づく。
日本人は、不慮の死を遂げた者の魂は安寧することがなく荒ぶり、生きている者に災厄をもたらすと考えた。最もよく知られているのが天神信仰で、天神様こと菅原道真は、政争に巻き込まれ志半ばで流刑され、死後、その霊は災厄をもたらすものと恐れられた。道真の政敵たちは道真の霊の祟りを恐れ、道真を神として祀りその霊を鎮めた。
維新政府は、自らが遂行した帝国主義戦争――その発端は、国内における維新戦争(戊辰の役)――において、心ならずも散った軍人たちの霊が荒ぶる霊として自らに禍をもたらさないよう、中央に神社を建立した。御霊信仰そのものだ。
維新後の日清戦争からアジア太平洋戦争までの間、わが子を戦地に送り出した「靖国の母」たちも、同様に、亡くなったわが子の荒ぶる霊が自らに禍をもたらすことを恐れた。戦争遂行者と土俗的母性は、御霊信仰=鎮魂という目的において、図らずも一致した。ここで「靖国の母」を政治的に責めることなどできない。維新政府(日本帝国)というのは、土俗の宗教を国民国家形成に巧みに取り込んだ共同体だったからだ。だから、遺族会と靖国神社の関係は、平和の論理=市民的論理だけでは見直されることがない。
「A級戦犯」として処刑された者こそ、荒ぶる霊の代表にほかならない。同じ「A級戦犯」の中には後に公職に復帰し、首相に昇りつめた者もいるのだから、歴代の首相が「A級戦犯」として処刑された荒ぶる霊を鎮めることはその責務の1つだと考えられる。「A級戦犯」合祀は、御霊信仰からみれば、当然の措置となる。
靖国神社は、為政者の論理と土俗の民衆の論理が、鎮魂(御霊信仰)という宗教的実践において生まれた施設であるがゆえに、一国の宰相が、そして一般生活者が、等しく靖国を訪れていいのかどうか――問題はここからだ。
国民の安寧を祈念するとはどういうことか
心ならずも命を落とした者の霊が荒ぶる霊となって人々に災厄をもたらす、と考える信仰をだれも批判・否定できない。そういう信仰を神社が受け容れ、霊を祀り、関係者が参拝することは自然だ。わが国に限らず、護国・救国が宗教の存在意義の1となっている。
ただ、それはそう信じる人々がそうすればいい、という話にすぎない。いま現在、国家は宗教に関与しないことが原則なのだ。遺族が靖国神社に関心を示すかどうかが基本であって、特定の神社が英霊を独占することは、信仰の自由原則に反する。
荒ぶる霊の存在は、かつての兵士の者にとどまらない。先の大戦では生活者の犠牲者の方が圧倒的に多かった。さらに今般では、交通事故、犯罪被害者などなど、多くの国民が非業の死を共有している。そうした死者を特定の宗派が管理することができないばかりか、管理すべきでない。国民の死を特定の宗教施設に集め、特定の宗教の儀式に基づき祀るという制度は明らかに憲法違反だ。簡単に言えば、靖国に祀られている霊については、一度、靖国管理から解き放ち、遺族に任せるべきなのだ。
御霊信仰を信じ、非業の死者として靖国神社に祀ることを望む方々は、靖国合祀を選択すればいい。そうではなく、わが子の戦死を、靖国を含めた日本帝国主義の犠牲者だと考える方々は、靖国ではなくその意思に基づき、自らの手で、その霊が安らぐ方法を選択すればいい。
御霊信仰は日本の古い信仰(おそらくその起源は8世紀前後に遡れると思う)だけれど、いま現在、国民すべてがそれを共有していない。死後の霊の存在を信ずるかどうかという基本的命題がある。いま、死者と生者が向き合う方法としては、墓参が一般的になった。人々は神社に死者を祀る信仰があることすら知らない。ましてや、非業の死者が人々に災厄をもたらすと信ずることは稀だ。
靖国がいまなお、戦死者を顕彰するのであれば、それは帝国主義戦争の正当化にほかならないという意見を否定できない。また一方、靖国が死者の魂を安らかに眠らせるためのものであるのならば、靖国かそうでないかの選択は、遺族の選択にまかせるべきだと言える。靖国を真に「解放する」という意味は、靖国神社が遺族の意思を確認するところから始まるのではないか。
戦死者への思いは千差万別だ。肉親の戦死から、反戦平和を学ぶ遺族もいるし、国家のための名誉の死と受け取る遺族もいる。靖国は、後者にとって必要欠くべからざる施設だと思う一方、前者にとっては、肉親を無益な死に追いやった憎むべき施設と映るだろう。さらにアジアの戦争被害者にとっては、靖国こそ日本帝国主義の象徴であり、侵略を補完した施設として、嫌悪の対象ともなろう。
わが国には、いまだにアジア太平洋戦争肯定論が絶えない。肯定論を弾圧することはできないと同じように、靖国を否定することもできない。だが靖国神社が遺族の意思を確認しないまま戦没者を管理するとなると、靖国神社はアジア太平洋戦争を肯定している、と見られても仕方がないではないか。
国民に決定権
冒頭に戻るが、靖国問題とは、戦死者を管理するのは特定の神社か、国家か、あるいは著者(稲垣和久)が言うところの、抽象的公共か、遺族か・・・という問に収斂する。さらに、戦死者とは何かがより重大な問題となる。少なくとも、アジア太平洋戦争だけで、日本国民350万人以上、アジア各国を合わせると数千万人ともいわれる戦争犠牲者が存在する。それに日清、日露戦争等々を含めれば、どのくらいの戦死者がいるのだろうか。戦死者の慰霊とは、日本人に限ることもない。戦争によって命を亡くした方々の霊を祀るにとどまらず、反戦平和祈念のための慰霊施設はいるのかいらないのか、いるとすればだれが、どこにつくればいいのか――それらを決めるのは、国民以外いない。国民が次の選挙において、各政党が掲げる靖国問題に対する政党見解を選択するしかない。各政党は靖国見解を明瞭にまとめて国民の前に掲げる義務がある。それは法制化を意味しない。政党の「考え方」でいい。国民の総意が判明すれば、靖国神社はそれを受けて自主的に国民の総意に従うことが重要となる。
靖国問題の最終解決方法
靖国問題の背景には、戦没者という霊的存在と、遺族という世俗的存在がある。このたびの靖国問題の発端は、小泉首相が靖国参拝を後者に公約したことから始まり、現在に至っている。
手続き的には、小泉首相の靖国参拝はそれなりに、多数決原理に適っている。国民が小泉首相の公約に「ノー」ならば、自民党は先の総選挙で大勝するはずがない。先の総選挙で、小泉靖国参拝は、信任されたのだ。
だから、靖国参拝を民主的に解決する方法はただ一つ、「靖国」で民意を問うこと以外ない。
もっとも至近にある選挙が来年の参院選ならば、野党である民主党等は、先の小泉首相が採用した、「郵政民営化、イエスかノーか」を倣って、「靖国参拝イエスかノー」のワンイッシ一選挙を仕掛けるしかない。
靖国問題は、けして枝葉末節の問題ではない。少なくとも、・日本の戦争責任について、▽国民国家のあり方、・戦争か平和か、▽自衛隊違憲か合憲か、▽日本の外交のあり方・・・もっといえば、維新後の日本を是と見るか非と見るかであり、戦後日本国憲法を認めるか否かまでも包括した問題なのだ。
自民党が靖国参拝を打ち出せば、自民党政権の本質が見える。来年の参院選は、今般の諸問題を総合的に争点とするよりも、靖国一本に絞ることのほうが、はるかに国民にとって有益な選挙となる。
〔公共〕という第3項では解決できない
さて、本書の批評に戻ろう。本書は、靖国神社問題を〔私-公-公共〕という3元的位相の設定で解決を図ろうという試みだ。一般には、私(個人)と公(国家等)という対立項があるが、著者(稲垣久和)は、それ以外に公共という位相を設定する。ただし、公共というのは容易に理解し難い概念である。著者(稲垣久和)の定義を解釈すると、公共とは〔市民原理〕と換言できるように思う。〔市民原理〕は、私(個人)及び公(国家)より、先験的に上位にあるもののようだ。
靖国問題の場合、私人=小泉純一郎、公=国家=内閣総理大臣が参拝を志向し実践しているが、それは公共に反する、しかも、靖国参拝に限らず、公共原理に反する行為等については、〔公共原理〕が自動的にそれを禁止・制御できる、というのが著者(稲垣久和)の論理構成のようだ。著者(稲垣久和)の結論は、公共(=市民原理)から導き出された無宗教の戦死者慰霊施設を公共的組織が造営・管理し、宗教を問わずに戦死者を慰霊すればいいとなる。
しかし、世論調査によると、小泉首相の靖国参拝を「支持する」と回答した人の割合はおよそ40%超を占め、「支持しない」とほぼ同率で拮抗している。著者(稲垣久和)のように、〔公共原理〕が世論の40%超を無原則的に切り捨てていいのだろうか。それが民主主義なのだろうか。靖国の問題は、〔公共原理〕を持ち出せば解決できるほど、易しい問題ではない。
帝国憲法、日本国憲法を問わず、国家が遂行した戦争犠牲者は、国民の負託を受けた国家がそれを管理してきたが、〔市民原理〕が国家を越えて管理できるというのが著者(稲垣和久)の主張だ。
しかし、市民社会が国家から自由である法的根拠をどこに求めたらいいのか。戦争犠牲者を国家の手から奪い返して、市民が独占するとは、どういうことなのか。それは、市民社会が国民国家を廃絶するか、国民国家を市民社会原理に基づき統治する、新たな統治機構が存在しなければ、国民から負託された国家行為を禁止したり無視したりできないのではないか。市民社会が国民国家を廃絶すること及び新たな統治機構を設立することは、靖国問題解決より、はるかに難しいことではないのか。結局、国民国家の枠組みにある以上は、国民が国家を制御するしか方法がない。
靖国神社の建立目的と機能
靖国参拝は心の問題、すなわち「私」の領域に属することだから、公人という立場は存在しない、というのが首相見解である。一方、憲法は個人(私人)の宗教の自由を保障するものの、国家が特定の宗教を保護することもその反対に弾圧することも禁じている、つまり、首相(公人)という立場で特定の宗教施設に出入りし、参拝、祈祷、祈念することは憲法違反だという見解がある。もちろんいま現在、双方の見解が対立したままだ。
靖国神社が日本に数ある宗教施設の中の1つで、分類すれば神道(神社)に属することは言うまでもない。19世紀の建立だから極めて新しい。その目的は、国家が遂行した戦争で戦った犠牲者(=戦士)の魂を祀ることだとされている。
先のアジア太平洋戦争中、日本政府は戦死者を顕彰した。お国のためによくぞ戦ってくれた、死んでくれたというわけだ。靖国神社は日本の帝国主義戦争を補完する装置の1つだった。これをもって、靖国神社は帝国主義戦争のシンボルであり、日本国憲法の反戦平和主義と相容れないという主張もある。もちろん、靖国には戦死した兵士を顕彰する目的・機能があったが、しかし、反戦平和の論理だけでは、靖国問題は解決を見ない。
靖国神社建立は、靖国に限らず、日本の古代からの為政者が行ってきた宗教的実践、すなわち、御霊信仰に基づく。
日本人は、不慮の死を遂げた者の魂は安寧することがなく荒ぶり、生きている者に災厄をもたらすと考えた。最もよく知られているのが天神信仰で、天神様こと菅原道真は、政争に巻き込まれ志半ばで流刑され、死後、その霊は災厄をもたらすものと恐れられた。道真の政敵たちは道真の霊の祟りを恐れ、道真を神として祀りその霊を鎮めた。
維新政府は、自らが遂行した帝国主義戦争――その発端は、国内における維新戦争(戊辰の役)――において、心ならずも散った軍人たちの霊が荒ぶる霊として自らに禍をもたらさないよう、中央に神社を建立した。御霊信仰そのものだ。
維新後の日清戦争からアジア太平洋戦争までの間、わが子を戦地に送り出した「靖国の母」たちも、同様に、亡くなったわが子の荒ぶる霊が自らに禍をもたらすことを恐れた。戦争遂行者と土俗的母性は、御霊信仰=鎮魂という目的において、図らずも一致した。ここで「靖国の母」を政治的に責めることなどできない。維新政府(日本帝国)というのは、土俗の宗教を国民国家形成に巧みに取り込んだ共同体だったからだ。だから、遺族会と靖国神社の関係は、平和の論理=市民的論理だけでは見直されることがない。
「A級戦犯」として処刑された者こそ、荒ぶる霊の代表にほかならない。同じ「A級戦犯」の中には後に公職に復帰し、首相に昇りつめた者もいるのだから、歴代の首相が「A級戦犯」として処刑された荒ぶる霊を鎮めることはその責務の1つだと考えられる。「A級戦犯」合祀は、御霊信仰からみれば、当然の措置となる。
靖国神社は、為政者の論理と土俗の民衆の論理が、鎮魂(御霊信仰)という宗教的実践において生まれた施設であるがゆえに、一国の宰相が、そして一般生活者が、等しく靖国を訪れていいのかどうか――問題はここからだ。
国民の安寧を祈念するとはどういうことか
心ならずも命を落とした者の霊が荒ぶる霊となって人々に災厄をもたらす、と考える信仰をだれも批判・否定できない。そういう信仰を神社が受け容れ、霊を祀り、関係者が参拝することは自然だ。わが国に限らず、護国・救国が宗教の存在意義の1となっている。
ただ、それはそう信じる人々がそうすればいい、という話にすぎない。いま現在、国家は宗教に関与しないことが原則なのだ。遺族が靖国神社に関心を示すかどうかが基本であって、特定の神社が英霊を独占することは、信仰の自由原則に反する。
荒ぶる霊の存在は、かつての兵士の者にとどまらない。先の大戦では生活者の犠牲者の方が圧倒的に多かった。さらに今般では、交通事故、犯罪被害者などなど、多くの国民が非業の死を共有している。そうした死者を特定の宗派が管理することができないばかりか、管理すべきでない。国民の死を特定の宗教施設に集め、特定の宗教の儀式に基づき祀るという制度は明らかに憲法違反だ。簡単に言えば、靖国に祀られている霊については、一度、靖国管理から解き放ち、遺族に任せるべきなのだ。
御霊信仰を信じ、非業の死者として靖国神社に祀ることを望む方々は、靖国合祀を選択すればいい。そうではなく、わが子の戦死を、靖国を含めた日本帝国主義の犠牲者だと考える方々は、靖国ではなくその意思に基づき、自らの手で、その霊が安らぐ方法を選択すればいい。
御霊信仰は日本の古い信仰(おそらくその起源は8世紀前後に遡れると思う)だけれど、いま現在、国民すべてがそれを共有していない。死後の霊の存在を信ずるかどうかという基本的命題がある。いま、死者と生者が向き合う方法としては、墓参が一般的になった。人々は神社に死者を祀る信仰があることすら知らない。ましてや、非業の死者が人々に災厄をもたらすと信ずることは稀だ。
靖国がいまなお、戦死者を顕彰するのであれば、それは帝国主義戦争の正当化にほかならないという意見を否定できない。また一方、靖国が死者の魂を安らかに眠らせるためのものであるのならば、靖国かそうでないかの選択は、遺族の選択にまかせるべきだと言える。靖国を真に「解放する」という意味は、靖国神社が遺族の意思を確認するところから始まるのではないか。
戦死者への思いは千差万別だ。肉親の戦死から、反戦平和を学ぶ遺族もいるし、国家のための名誉の死と受け取る遺族もいる。靖国は、後者にとって必要欠くべからざる施設だと思う一方、前者にとっては、肉親を無益な死に追いやった憎むべき施設と映るだろう。さらにアジアの戦争被害者にとっては、靖国こそ日本帝国主義の象徴であり、侵略を補完した施設として、嫌悪の対象ともなろう。
わが国には、いまだにアジア太平洋戦争肯定論が絶えない。肯定論を弾圧することはできないと同じように、靖国を否定することもできない。だが靖国神社が遺族の意思を確認しないまま戦没者を管理するとなると、靖国神社はアジア太平洋戦争を肯定している、と見られても仕方がないではないか。
国民に決定権
冒頭に戻るが、靖国問題とは、戦死者を管理するのは特定の神社か、国家か、あるいは著者(稲垣和久)が言うところの、抽象的公共か、遺族か・・・という問に収斂する。さらに、戦死者とは何かがより重大な問題となる。少なくとも、アジア太平洋戦争だけで、日本国民350万人以上、アジア各国を合わせると数千万人ともいわれる戦争犠牲者が存在する。それに日清、日露戦争等々を含めれば、どのくらいの戦死者がいるのだろうか。戦死者の慰霊とは、日本人に限ることもない。戦争によって命を亡くした方々の霊を祀るにとどまらず、反戦平和祈念のための慰霊施設はいるのかいらないのか、いるとすればだれが、どこにつくればいいのか――それらを決めるのは、国民以外いない。国民が次の選挙において、各政党が掲げる靖国問題に対する政党見解を選択するしかない。各政党は靖国見解を明瞭にまとめて国民の前に掲げる義務がある。それは法制化を意味しない。政党の「考え方」でいい。国民の総意が判明すれば、靖国神社はそれを受けて自主的に国民の総意に従うことが重要となる。
2006年8月17日木曜日
『神風連とその時代』
●渡辺京二〔著〕●洋泉社MC新書●1700円+税
「神風連」とは周囲から嘲笑を込めて冠せられた戯称で、正式には敬神党という。明治9年、熊本で太田黒伴雄らを首謀者として維新政府の廃刀例等に抗議し、わずか100余名で挙兵したものの鎮圧され、その多くが戦死もしくは自害した。本書はその思想、指導者、参加者、時代背景について詳述したもの。誠に示唆多き書である。
神風連が維新初期に起きた士族の反乱と一線を画する所以は、彼らが宗教的秘密結社であった点である。彼らは決起を「うけい」という神の意志に委ねている。また、彼らのスローガンの1つに、「神事は本、人事は末」というのもある。
敬神党の指導者は林櫻園という神秘的思想家で、決起の前(明治3年)に他界している。神風連の思想的特徴としては概ね尊皇攘夷であり、明治政府が取り入れた欧化政策に悉く反発した。決起の表向きの動機は廃刀例であったことは先述したが、彼らにとって刀剣とは、神国日本の象徴であり、刀は武士の魂というよりも、古代天皇制共同体と今(維新期)を結びつける媒介であった。
著者(渡辺京二)は、神風連の乱を文明の衝突と認識する。維新政府は天皇中心の西欧的近代国家を志向したが、神風連は、天皇を教祖にして治者として崇める、原始共同体を夢想した。
彼らは、維新政府が進める欧化政策に対して、民衆の基層にある神をもちだし、古代天皇制原始ユートピア社会の誕生を志向した。といっても彼らに国家だとか共同体とかいった認識はなかった。ただ、欧風が進めば日本古来の神が死滅し、日本人の根本原理が廃絶されると考えた。ゆえに、決起に勝ち敗け、成功・不成功といった相対的政治的意向は無視された。決起=死であり、それが思想表現=殉教であった。
神風連の乱以降、維新政府から昭和の軍国主義政府成立まで、彼らは純粋な国粋主義者として顕彰されてきた。また、戦後にあっては、狂信的ファシスト集団として扱われてきたため、神風連の実像及び思想的独自性が歪曲されて世に伝えられてきた傾向を否定できない。本書をもって初めて、維新当時、日本に文明の衝突があったことが明らかにされたとも言える。
著者(渡辺京二)はその衝突が昭和初期の「2.26事件」で再び繰り返された、と指摘する。基層ナショナリズム、土俗的共同性、宗教的神秘主義が西欧的近代主義を真に超克する基盤であり得るのかどうか、また、今日の世界におけるタリバンらのイスラム原理主義と米国化(西欧化)との対立する現実を見るとき、わが維新期における「文明の衝突」について突き詰めて思考することは、けして無駄ではない。
「神風連」とは周囲から嘲笑を込めて冠せられた戯称で、正式には敬神党という。明治9年、熊本で太田黒伴雄らを首謀者として維新政府の廃刀例等に抗議し、わずか100余名で挙兵したものの鎮圧され、その多くが戦死もしくは自害した。本書はその思想、指導者、参加者、時代背景について詳述したもの。誠に示唆多き書である。
神風連が維新初期に起きた士族の反乱と一線を画する所以は、彼らが宗教的秘密結社であった点である。彼らは決起を「うけい」という神の意志に委ねている。また、彼らのスローガンの1つに、「神事は本、人事は末」というのもある。
敬神党の指導者は林櫻園という神秘的思想家で、決起の前(明治3年)に他界している。神風連の思想的特徴としては概ね尊皇攘夷であり、明治政府が取り入れた欧化政策に悉く反発した。決起の表向きの動機は廃刀例であったことは先述したが、彼らにとって刀剣とは、神国日本の象徴であり、刀は武士の魂というよりも、古代天皇制共同体と今(維新期)を結びつける媒介であった。
著者(渡辺京二)は、神風連の乱を文明の衝突と認識する。維新政府は天皇中心の西欧的近代国家を志向したが、神風連は、天皇を教祖にして治者として崇める、原始共同体を夢想した。
彼らは、維新政府が進める欧化政策に対して、民衆の基層にある神をもちだし、古代天皇制原始ユートピア社会の誕生を志向した。といっても彼らに国家だとか共同体とかいった認識はなかった。ただ、欧風が進めば日本古来の神が死滅し、日本人の根本原理が廃絶されると考えた。ゆえに、決起に勝ち敗け、成功・不成功といった相対的政治的意向は無視された。決起=死であり、それが思想表現=殉教であった。
神風連の乱以降、維新政府から昭和の軍国主義政府成立まで、彼らは純粋な国粋主義者として顕彰されてきた。また、戦後にあっては、狂信的ファシスト集団として扱われてきたため、神風連の実像及び思想的独自性が歪曲されて世に伝えられてきた傾向を否定できない。本書をもって初めて、維新当時、日本に文明の衝突があったことが明らかにされたとも言える。
著者(渡辺京二)はその衝突が昭和初期の「2.26事件」で再び繰り返された、と指摘する。基層ナショナリズム、土俗的共同性、宗教的神秘主義が西欧的近代主義を真に超克する基盤であり得るのかどうか、また、今日の世界におけるタリバンらのイスラム原理主義と米国化(西欧化)との対立する現実を見るとき、わが維新期における「文明の衝突」について突き詰めて思考することは、けして無駄ではない。
2006年8月1日火曜日
近代浪漫派文庫『蓮田善明・伊藤静雄』
●蓮田善明・伊藤静雄〔著〕 ●新学社 ●1343円+税
蓮田・伊藤は、若き日の三島由紀夫に多大な影響を与えたことで知られている。
前者は太平洋戦争終戦直後、戦地において敵に内通した上官を射殺した後、自裁した。後者は自然賛歌風ロマン的詩風で詩壇に登場した後、戦時期になると戦争賛歌の詩作に転じ、戦後はその転位に苦悩しつつ病死した。
本書には蓮田善明の未完小説『有心(今ものがたり)』が収められている。この小説は、戦地から一時帰休した主人公(蓮田自身か)が阿蘇山の麓の温泉地に長期保養をしながら、阿蘇山頂(外輪山の頂点がどこなのだか不明だが)を目指して登山する様子が淡々と描かれ、頂上付近の描写で筆が絶えている。
同書は未完ということを差し引いても、私には期待外れの内容だった。湯治場には、生活者が宿泊している。蓮田は彼らとそれこそ裸の付き合いを通じて、彼らの存在に圧倒される。たとえば、混浴の風呂場で若い女性の裸身を見て驚嘆したりする。そうした描写が自然賛歌を象徴するのだろうか。
評論としては、『雲の意匠』が蓮田の思想を端的に表している。雲を指標として、古今東西の宗教・思想と、日本の伝統的思想(日本主義)のあり方を比較検討しながら、日本のそれの独自性と優位性を傍証する。雲に象徴される日本主義とは非体系的、不定形かつ可変的なもの、曖昧で神秘的なものとなる。これが、日本浪漫派がイメージする日本の心か。
伊藤静雄の詩については、「好み」に還元して恐縮だが、特にコメントする作品がみつからなかったので触れない。
蓮田・伊藤は、若き日の三島由紀夫に多大な影響を与えたことで知られている。
前者は太平洋戦争終戦直後、戦地において敵に内通した上官を射殺した後、自裁した。後者は自然賛歌風ロマン的詩風で詩壇に登場した後、戦時期になると戦争賛歌の詩作に転じ、戦後はその転位に苦悩しつつ病死した。
本書には蓮田善明の未完小説『有心(今ものがたり)』が収められている。この小説は、戦地から一時帰休した主人公(蓮田自身か)が阿蘇山の麓の温泉地に長期保養をしながら、阿蘇山頂(外輪山の頂点がどこなのだか不明だが)を目指して登山する様子が淡々と描かれ、頂上付近の描写で筆が絶えている。
同書は未完ということを差し引いても、私には期待外れの内容だった。湯治場には、生活者が宿泊している。蓮田は彼らとそれこそ裸の付き合いを通じて、彼らの存在に圧倒される。たとえば、混浴の風呂場で若い女性の裸身を見て驚嘆したりする。そうした描写が自然賛歌を象徴するのだろうか。
評論としては、『雲の意匠』が蓮田の思想を端的に表している。雲を指標として、古今東西の宗教・思想と、日本の伝統的思想(日本主義)のあり方を比較検討しながら、日本のそれの独自性と優位性を傍証する。雲に象徴される日本主義とは非体系的、不定形かつ可変的なもの、曖昧で神秘的なものとなる。これが、日本浪漫派がイメージする日本の心か。
伊藤静雄の詩については、「好み」に還元して恐縮だが、特にコメントする作品がみつからなかったので触れない。
2006年6月22日木曜日
『三島由紀夫の最期』
●松本徹〔著〕 ●文芸春秋 ●1429円+税
三島由紀夫はなぜ自決したのか――その答は謎に包まれたままだ。本書は、生前の三島の周りに起こった事実などを取り込むことによって、自決の謎を解こうと試みる。
三島が自決直前、長編『豊饒の海』第4巻にして完結編である『天人五衰』を、大手出版社の三島担当の編集者に渡したことはよく知られている。そのため、『天人五衰』は小説として中途半端なものとなった。三島が自決とともに『豊饒の海』を終わらせたい、という願望を抱いていたことがうかがえる。『天人五衰』が小説として完成度を欠いたのは、三島が小説の完結よりも、自決の完結に意を注いだ結果だ。
本書では、三島の自決を自己劇化と呼ぶ。自己劇化の土台は、前出の『豊饒の海』の第二巻『奔馬』で出来上がっていた。同書の主人公・勲は維新直後の神風連を理想として、要人テロを企てんとする青年として設定されている。三島の自決は、勲の自決と同じように、政治結社を不要としたものだった。もちろん、三島は「盾の会」という擬似政治結社を結成して直接行動を目指したふしもあるが、本書によると、「盾の会」の政治的機能は不全であったし、自決前から、「盾の会」が政治的局面を打開する展望は閉ざされていたようだ。三島が自衛隊市谷駐屯地乱入に同伴したのは4名の「同志」であり、三島の自決に同伴したのは森田必勝ただ1人だった。その意味で、勲と三島は酷似しているように見えるが、両者には、決定的な相違点がある。それは、勲が要人テロを実行して自決したのに対し、三島はだれも傷つけていない点だ。三島はテロを実行せずに、演説も途中で切り上げ割腹・介錯により自決した。三島はただただ、己の死だけを求めている。そこに、究極の自己劇をみる。
自決するまでの間、三島は積極的に政治的発言をしていた。それを大雑把に言えば、米軍占領統治に正義があったかどうか、となる。たとえば、いまのイラクには、イラクという国家の体裁も、イラク人の文化的同一性も失われている。米軍(=占領軍)によるイラク統治が行われているためだ。米軍侵略後にイラクに制定された憲法、開催された議会、実施された選挙・・・に正義があるのか。
民主主義、自由、基本的人権の尊重は普遍的なのだから、他国の占領下において正義は貫徹するという近代主義的主張がある。占領軍による「普遍的」民主主義を信じるのか、それとも、日本(文化)すなわち日本語、古代的天皇制、古今集に代表される美意識等々を信じるのか。三島が自決前に展開した『文化防衛論』の主眼はそこにある。
本書によると、三島が自衛隊を問題にしたのは、1970年前後、このままの状況ならば、自衛隊は米軍の一部に成り果てる、という危惧からだったという。三島は軍隊(自衛隊)に武士を見ていたという。武士とは前出の日本(文化)の一部であり、「普遍的」民主主義国家の軍隊ではない。三島自決から35年近くたって、自衛隊は米軍の一部となってイラクに派兵され、いま、その役割を終えて撤退する。彼らは民主主義の軍隊だが、武士ではない。
自衛隊に限らず、日本(文化)は喪失し、すべてが米国の下にある。やがて、米軍の再編があり、自衛隊ばかりか、日本の諸機関までもが、そのコントロール下に完全に入ることになる。守るべきは普遍的民主主義なのか、それとも、日本(文化)なのか・・・
三島由紀夫はなぜ自決したのか――その答は謎に包まれたままだ。本書は、生前の三島の周りに起こった事実などを取り込むことによって、自決の謎を解こうと試みる。
三島が自決直前、長編『豊饒の海』第4巻にして完結編である『天人五衰』を、大手出版社の三島担当の編集者に渡したことはよく知られている。そのため、『天人五衰』は小説として中途半端なものとなった。三島が自決とともに『豊饒の海』を終わらせたい、という願望を抱いていたことがうかがえる。『天人五衰』が小説として完成度を欠いたのは、三島が小説の完結よりも、自決の完結に意を注いだ結果だ。
本書では、三島の自決を自己劇化と呼ぶ。自己劇化の土台は、前出の『豊饒の海』の第二巻『奔馬』で出来上がっていた。同書の主人公・勲は維新直後の神風連を理想として、要人テロを企てんとする青年として設定されている。三島の自決は、勲の自決と同じように、政治結社を不要としたものだった。もちろん、三島は「盾の会」という擬似政治結社を結成して直接行動を目指したふしもあるが、本書によると、「盾の会」の政治的機能は不全であったし、自決前から、「盾の会」が政治的局面を打開する展望は閉ざされていたようだ。三島が自衛隊市谷駐屯地乱入に同伴したのは4名の「同志」であり、三島の自決に同伴したのは森田必勝ただ1人だった。その意味で、勲と三島は酷似しているように見えるが、両者には、決定的な相違点がある。それは、勲が要人テロを実行して自決したのに対し、三島はだれも傷つけていない点だ。三島はテロを実行せずに、演説も途中で切り上げ割腹・介錯により自決した。三島はただただ、己の死だけを求めている。そこに、究極の自己劇をみる。
自決するまでの間、三島は積極的に政治的発言をしていた。それを大雑把に言えば、米軍占領統治に正義があったかどうか、となる。たとえば、いまのイラクには、イラクという国家の体裁も、イラク人の文化的同一性も失われている。米軍(=占領軍)によるイラク統治が行われているためだ。米軍侵略後にイラクに制定された憲法、開催された議会、実施された選挙・・・に正義があるのか。
民主主義、自由、基本的人権の尊重は普遍的なのだから、他国の占領下において正義は貫徹するという近代主義的主張がある。占領軍による「普遍的」民主主義を信じるのか、それとも、日本(文化)すなわち日本語、古代的天皇制、古今集に代表される美意識等々を信じるのか。三島が自決前に展開した『文化防衛論』の主眼はそこにある。
本書によると、三島が自衛隊を問題にしたのは、1970年前後、このままの状況ならば、自衛隊は米軍の一部に成り果てる、という危惧からだったという。三島は軍隊(自衛隊)に武士を見ていたという。武士とは前出の日本(文化)の一部であり、「普遍的」民主主義国家の軍隊ではない。三島自決から35年近くたって、自衛隊は米軍の一部となってイラクに派兵され、いま、その役割を終えて撤退する。彼らは民主主義の軍隊だが、武士ではない。
自衛隊に限らず、日本(文化)は喪失し、すべてが米国の下にある。やがて、米軍の再編があり、自衛隊ばかりか、日本の諸機関までもが、そのコントロール下に完全に入ることになる。守るべきは普遍的民主主義なのか、それとも、日本(文化)なのか・・・
2006年6月8日木曜日
『三島由紀夫 剣と寒紅』
●福島次郎〔著〕 ●文芸春秋 ●1429円+税
著者の福島次郎は、三島由紀夫に見込まれ、一時期、三島(平岡)家に書生のような身分で住み込んでいた人物。そのため、三島の両親、夫人の人柄を知る立場にあり、また、三島の友人達とも親交があった。
本書には、そうした体験を生かして、三島由紀夫の知られざる素顔を記述した、と思われる箇所が散見する。また、三島文学の研究者らに示唆を与える部分もある。私は、三島が「神風連」の調査のため熊本を訪れたくだりについて、興味深く読んだ。「神風連」は三島の遺作『豊饒の海―奔馬』において、最も重要な位置を占めるとともに、あの自決事件に通じている。
しかし、本書が話題をさらったのは、著者が同性愛者であり、三島との関係を告白した部分からだった。三島は『仮面の告白』等で同性愛をテーマにした小説を書いたが、結婚し子供をもうけたことから、一般的には、同性愛者と思われていなかった。昭和30年代から50年代にかけての社会通念としては、同性愛者に対する偏見はいま以上だったから、メディアや出版業界は、高名な作家等が同性愛者であることを表から報道することはなかった。三島由紀夫が同性愛者であったかどうかは、私にはわからないし、どうでもいいこと。本書は小説なのだから、事実よりも創作のほうが多いに違いない。著者が話題づくりのために、三島を同性愛者に仕立て上げた可能性も否定できない。
私が本書に苛立ちを覚えるのは、〈評伝〉なのか〈小説〉なのか、はっきりしてほしいということだ。〈評伝〉ならきっちりとしたドキュメントに仕上げてほしいし、〈小説〉ならば、三島由紀夫という実名を使用しないことだ。まして、三島の親族が本名で登場するのはいかがなものか。三島が尋常でない家庭に育ち、同性愛者であったことが事実だったとしても、すべてが著者の観察記録でないのならば、実名は避けるべきだ。小説としての体裁を最低限整え、それでも、読む側が三島由紀夫をモデルにしていると感じたとしたら、それはそれで仕方がない。
本書のように、実名に頼りながら、事実と思われる記述の合間、合間に、自分の願望、幻想、想像等を織り込んでしまったら、読む側は混乱する。本書のような実名「小説」は、モデルとなった作家の実像を損ねる。そのことに無自覚な本書には、ある特定のイメージで、天才作家を括ろうとする意図が感じられる。有名になりたい著者、売らんかなの出版社――両者に三島文学を歪めようとする悪意が感じられる。特定のイメージというのは、いうまでもなく、同性愛を指す。まったくもって、興味本位にすぎない。私は本書を読んでしまったことを、後悔している。
著者の福島次郎は、三島由紀夫に見込まれ、一時期、三島(平岡)家に書生のような身分で住み込んでいた人物。そのため、三島の両親、夫人の人柄を知る立場にあり、また、三島の友人達とも親交があった。
本書には、そうした体験を生かして、三島由紀夫の知られざる素顔を記述した、と思われる箇所が散見する。また、三島文学の研究者らに示唆を与える部分もある。私は、三島が「神風連」の調査のため熊本を訪れたくだりについて、興味深く読んだ。「神風連」は三島の遺作『豊饒の海―奔馬』において、最も重要な位置を占めるとともに、あの自決事件に通じている。
しかし、本書が話題をさらったのは、著者が同性愛者であり、三島との関係を告白した部分からだった。三島は『仮面の告白』等で同性愛をテーマにした小説を書いたが、結婚し子供をもうけたことから、一般的には、同性愛者と思われていなかった。昭和30年代から50年代にかけての社会通念としては、同性愛者に対する偏見はいま以上だったから、メディアや出版業界は、高名な作家等が同性愛者であることを表から報道することはなかった。三島由紀夫が同性愛者であったかどうかは、私にはわからないし、どうでもいいこと。本書は小説なのだから、事実よりも創作のほうが多いに違いない。著者が話題づくりのために、三島を同性愛者に仕立て上げた可能性も否定できない。
私が本書に苛立ちを覚えるのは、〈評伝〉なのか〈小説〉なのか、はっきりしてほしいということだ。〈評伝〉ならきっちりとしたドキュメントに仕上げてほしいし、〈小説〉ならば、三島由紀夫という実名を使用しないことだ。まして、三島の親族が本名で登場するのはいかがなものか。三島が尋常でない家庭に育ち、同性愛者であったことが事実だったとしても、すべてが著者の観察記録でないのならば、実名は避けるべきだ。小説としての体裁を最低限整え、それでも、読む側が三島由紀夫をモデルにしていると感じたとしたら、それはそれで仕方がない。
本書のように、実名に頼りながら、事実と思われる記述の合間、合間に、自分の願望、幻想、想像等を織り込んでしまったら、読む側は混乱する。本書のような実名「小説」は、モデルとなった作家の実像を損ねる。そのことに無自覚な本書には、ある特定のイメージで、天才作家を括ろうとする意図が感じられる。有名になりたい著者、売らんかなの出版社――両者に三島文学を歪めようとする悪意が感じられる。特定のイメージというのは、いうまでもなく、同性愛を指す。まったくもって、興味本位にすぎない。私は本書を読んでしまったことを、後悔している。
2006年5月29日月曜日
『村上春樹論「海辺のカフカ」を精読する』
●小森陽一〔著〕 ●平凡社新書 ●780円+税
村上春樹に対する痛烈な批判の書である。その核心部分を引用しておこう。
さて、筆者(小森陽一)が指摘する『海辺のカフカ』(以下「同書」という。)の犯罪性(=問題点)は、概ね以下の事項に整理できる。
『海辺のカフカ』は――
(1)「9.11」以降の「戦争の時代」に生きる人々の心に「癒し」をもたらしたのだが、この「癒し」は、人々が本来直視すべき時代の本質を見失なわせてしまっている。
(2)日本が起こしたアジア太平洋戦争における戦争責任を曖昧にしてしまっている。
(3)女性嫌悪(ミソジニー)で一貫している。
(4)国民国家(国民皆兵制度)における戦争とレイプの問題を不問に付してしまっている。
それぞれの事項は関連がある。特に(1)(2)(4)は同義反復かもしれない。それはそれとして、これらに関する著者(小森陽一)と村上春樹の時代認識とは、どこかどう違うのか。本書を読んで、両者の立場を突き合わせてみて、批評者(小森陽一)をとるか、作家(村上春樹)をとるかについての判断は読者次第。
対立軸を簡単に紹介しておこう。
『海辺のカフカ』は、2001年に起きた「9.11事件」後の世界に係る村上春樹のメッセージだと著者(小森陽一)は規定する。「9.11」がなければ、同書は書かれなかったはずだと。
「9.11」とは(米国の発表によると)、「イスラム過激派テロリスト」が米国の民間航空機を乗っ取り、ニューヨークのWTCビルに突っ込んだその結果、ニューヨーク市民6,000人あまりが犠牲になった事件をいう。
この事件を境にして、米国はアフガニスタン、そして、イラクに侵攻し両国を武装制圧し今日に至っている。冷戦終結後の世界は、この事件を契機として、米国(西欧圏)とイスラム圏の対立という構造に定式化された。
「9.11」には多くの疑問が投げかけられている。米国による自作自演説(陰謀説)も消えない。その根拠として、米国は20世紀初頭にファシズムの脅威を挙げ、冷戦時代に共産主義の脅威を説き、冷戦終結後は、新たにイスラム過激派のテロリズムの脅威を挙げて世界戦略を進めている。米国の世界戦略とは世界を軍事的に支配することではないのか。イラクに大量破壊兵器があるといいながら、それは嘘だったし、テロリスト集団といわれるアルカイダも、その首謀者ビンラビンも捕まらない。米国が進めた「反テロリズム」の戦争が正しい選択なのか。
著者(小森陽一)は、日本及び西欧先進国の大衆の気分は、「9.11」以降の米国の軍事行動を「いたしかたない」として消極的に肯定していることで一致していると、また、同様に、村上春樹の志向性及び同書の構成・表現は、現状を「いたしかたない」とする大衆全般の気分を代表するものであり、米軍に象徴される戦争(暴力)の本質を追求する思考回路を閉ざしてしまっている、という。
確かに1970年代前後には、ベトナム戦争反対の声が世界的に高まったのだが、いま現在は、とりわけ日本においては、米国が仕掛ける戦争に対する問題意識は失われている。
村上春樹の小説が時代の気分に迎合していることは、同書にとどまらず、村上の小説の特徴の1つである。とりわけ退潮的気分を肯定する。時代と真正面から対峙しないし、批判もしない。村上春樹は、時代状況に対して原理的に対立する姿勢をとらない。だから、小説の登場人物も時代の気分に対峙するというよりも韜晦的であり、気分(快・不快)を重視し、気分という曖昧さの中で行動する。気分のなかで、本質は常に溶解される。繰り返せば、時代の問題と原理的に対峙することなど不可能ではないのか――というのが村上春樹の小説のあり方であり特徴だと言っていい。
一方、著者(小森陽一)は、米国が今日進めている反イスラム、反テロリズムの軍事行動に批判的であり、その立場は反米、反軍、平和主義で一貫している。だから、大雑把にいって、村上の小説が反戦反米の立場をとらないことがけしからんという批評につながることになる。
村上春樹の小説を「犯罪的」だと断定することもできないと思う。今日、まともな反戦、反軍の戦略を構築できなければ、小説を書いてはいけない、という著者(小森陽一)の断定には無理がある。
退潮的気分で「9.11」を眺め、米国の戦争に反対もせず、政治には無関心で曖昧で韜晦的なのがいまの日本人および先進国の人々なのならば、そのような態度と気分の是非を決定するのは著者(小森陽一)ではない。著者(小森陽一)の政治的メッセージを信用できると確信できない人も多い。反戦、反軍、平和主義を先験的に肯定するのは、小森陽一のイデオロギーにすぎないのではないか。反戦、反軍の主張は言葉の操作ではなく、政治運動、大衆運動が担う役割であって、小説(家)にそれを求めるのはいかがなものか。著者(小森陽一)の村上批判は、文学と政治という設定に逆戻りすることのように思える。
村上春樹に対する痛烈な批判の書である。その核心部分を引用しておこう。
「従軍慰安婦問題」はどこから考えても、かつての日本の侵略戦争を正当化できない、決定的な証拠でした。この問題は、「戦争」という国家が遂行する暴力の中に組み込まれた、非人間性の本質をくっきりと暴露するものでした。国家のための人殺しを正当化する考えを教育された男性たちは、そこに内在する「恐怖」の裏返しとして、女性に対する「レイプ」を欲望する心理構造をもつことが様々な角度から明らかにされ、同時代的に発生したコソボ紛争における、「民族浄化」の名による集団的な「レイプ」と同じ問題として、国連の人権委員会でも議論され、勧告が出されもしたのです。そうした一連の問題を、〈いたしかたのなかったこと〉として不問に付す枠組が、『海辺のカフカ』の中に組み込まれているのです。ここに2002年に日本で発表され、国民的な〈癒し〉を与えた小説として、ベストセラーとなった『海辺のカフカ』という犯罪的ともいえる社会的役割があることを、私は文学という言語実践にかかわる者の責任として強調しておきたいと思います(256頁)村上春樹論には難解なものが多いが、本書もその1つ。批評者の牽強付会、我田引水の臭いがしなくもないけれど、著者の精読の成果を批判する能力が筆者にはないので、本書の感想を書くしかない。日本文学は難しい。
さて、筆者(小森陽一)が指摘する『海辺のカフカ』(以下「同書」という。)の犯罪性(=問題点)は、概ね以下の事項に整理できる。
『海辺のカフカ』は――
(1)「9.11」以降の「戦争の時代」に生きる人々の心に「癒し」をもたらしたのだが、この「癒し」は、人々が本来直視すべき時代の本質を見失なわせてしまっている。
(2)日本が起こしたアジア太平洋戦争における戦争責任を曖昧にしてしまっている。
(3)女性嫌悪(ミソジニー)で一貫している。
(4)国民国家(国民皆兵制度)における戦争とレイプの問題を不問に付してしまっている。
それぞれの事項は関連がある。特に(1)(2)(4)は同義反復かもしれない。それはそれとして、これらに関する著者(小森陽一)と村上春樹の時代認識とは、どこかどう違うのか。本書を読んで、両者の立場を突き合わせてみて、批評者(小森陽一)をとるか、作家(村上春樹)をとるかについての判断は読者次第。
対立軸を簡単に紹介しておこう。
『海辺のカフカ』は、2001年に起きた「9.11事件」後の世界に係る村上春樹のメッセージだと著者(小森陽一)は規定する。「9.11」がなければ、同書は書かれなかったはずだと。
「9.11」とは(米国の発表によると)、「イスラム過激派テロリスト」が米国の民間航空機を乗っ取り、ニューヨークのWTCビルに突っ込んだその結果、ニューヨーク市民6,000人あまりが犠牲になった事件をいう。
この事件を境にして、米国はアフガニスタン、そして、イラクに侵攻し両国を武装制圧し今日に至っている。冷戦終結後の世界は、この事件を契機として、米国(西欧圏)とイスラム圏の対立という構造に定式化された。
「9.11」には多くの疑問が投げかけられている。米国による自作自演説(陰謀説)も消えない。その根拠として、米国は20世紀初頭にファシズムの脅威を挙げ、冷戦時代に共産主義の脅威を説き、冷戦終結後は、新たにイスラム過激派のテロリズムの脅威を挙げて世界戦略を進めている。米国の世界戦略とは世界を軍事的に支配することではないのか。イラクに大量破壊兵器があるといいながら、それは嘘だったし、テロリスト集団といわれるアルカイダも、その首謀者ビンラビンも捕まらない。米国が進めた「反テロリズム」の戦争が正しい選択なのか。
著者(小森陽一)は、日本及び西欧先進国の大衆の気分は、「9.11」以降の米国の軍事行動を「いたしかたない」として消極的に肯定していることで一致していると、また、同様に、村上春樹の志向性及び同書の構成・表現は、現状を「いたしかたない」とする大衆全般の気分を代表するものであり、米軍に象徴される戦争(暴力)の本質を追求する思考回路を閉ざしてしまっている、という。
確かに1970年代前後には、ベトナム戦争反対の声が世界的に高まったのだが、いま現在は、とりわけ日本においては、米国が仕掛ける戦争に対する問題意識は失われている。
村上春樹の小説が時代の気分に迎合していることは、同書にとどまらず、村上の小説の特徴の1つである。とりわけ退潮的気分を肯定する。時代と真正面から対峙しないし、批判もしない。村上春樹は、時代状況に対して原理的に対立する姿勢をとらない。だから、小説の登場人物も時代の気分に対峙するというよりも韜晦的であり、気分(快・不快)を重視し、気分という曖昧さの中で行動する。気分のなかで、本質は常に溶解される。繰り返せば、時代の問題と原理的に対峙することなど不可能ではないのか――というのが村上春樹の小説のあり方であり特徴だと言っていい。
一方、著者(小森陽一)は、米国が今日進めている反イスラム、反テロリズムの軍事行動に批判的であり、その立場は反米、反軍、平和主義で一貫している。だから、大雑把にいって、村上の小説が反戦反米の立場をとらないことがけしからんという批評につながることになる。
村上春樹の小説を「犯罪的」だと断定することもできないと思う。今日、まともな反戦、反軍の戦略を構築できなければ、小説を書いてはいけない、という著者(小森陽一)の断定には無理がある。
退潮的気分で「9.11」を眺め、米国の戦争に反対もせず、政治には無関心で曖昧で韜晦的なのがいまの日本人および先進国の人々なのならば、そのような態度と気分の是非を決定するのは著者(小森陽一)ではない。著者(小森陽一)の政治的メッセージを信用できると確信できない人も多い。反戦、反軍、平和主義を先験的に肯定するのは、小森陽一のイデオロギーにすぎないのではないか。反戦、反軍の主張は言葉の操作ではなく、政治運動、大衆運動が担う役割であって、小説(家)にそれを求めるのはいかがなものか。著者(小森陽一)の村上批判は、文学と政治という設定に逆戻りすることのように思える。
2006年5月20日土曜日
『英霊の聲』
●三島由紀夫〔著〕 ●河出文庫 ●683円+税
『英霊の聲』『憂国』の短編小説と戯曲『十日の菊』、そして『2.26事件と私』というエッセイが収められている。エッセイを除いた三部作が、三島の「2.26事件三部作」だ。三部作のモチーフは後年、三島の遺作『奔馬 豊饒の海(三)』に結実する。
『英霊の聲』は極めて観念的な小説だ。三島由紀夫の天皇観が直接的に披瀝されている。粗筋は、ある神帰(かんがかり)の会に参加した人物(多分、三島由紀夫だろう)が、そこで、若い盲目の神主に英霊が依り憑き、英霊が無念の心情を吐露する様子を目撃する。英霊の聲を借りて、著者(三島由紀夫)が自らの天皇論を展開したと思えばいい。
神帰った英霊は「2.26事件」で天皇に反乱軍とされ極刑に処された青年将校と、大戦末期、自爆で命を落とした若き神風特攻隊員のものだ。英霊は繰り返し、「などて天皇はひととなりたまいし」と問い続ける。
この呪詛は戦前~戦後を通じた天皇批判だ。英霊は、天皇が神でなければならないときに、人になってしまった(裏切り)ために、魂がやすらぐことがないという。自分達は天皇に裏切られたがゆえに、その霊がはるかな海上の彷徨っているという。英霊は国体が滅びることになる前、二度、天皇は神であってほしかったという。一度目は「2.26、青年将校等が決起した」ときであり、二度目は、特攻隊員が敵空母に向かって自爆した直後にやってきた占領下だ。
「事件」が起きた1936年(昭和11年)当時、不況、飢饉等で日本の都市部、農村部は共に疲弊していた。特に農村部では不作による家計の悪化から、娘を身売りする家庭も多かった。一方、財閥、官僚、華族、政治家、軍閥といった支配層は、汚職、利権等の不正を働いて私腹を肥やしていた。こうした不正を糾すため、青年将校は軍を挙げ、ときの立憲主義者政治家、財閥を殺害した。軍を挙げれば天皇がその義を認め、世の中は変わると信じた。しかし、事件直後、天皇は決起した青年将校等を逆賊と規定し、正規軍に鎮圧を命じ、彼らの処置を軍上層部に任せた。軍部官僚は「反乱軍」の首謀者を極刑、流刑等の重罪に処し、下級兵士は前線に送られた。
以降、軍部官僚は独走し、日本を無謀なアジア太平洋戦争に突入させた。もし天皇が「2.26事件」を起こした青年将校を看做さず、彼らの信ずる「至純なる天皇制国家」の誕生に向かって国家の方向を転換していれば、日本が大戦争を起こすこともなく、国体は維持されたのだと。さらに、全土が焦土と化して迎えた敗戦時、占領軍及び敗戦処理内閣の長老に促され、天皇は「人間宣言」を発したが、宣言は国際社会に配慮し、日本国民の安全を確保するためだったと言われているものの、そのときこそ、天皇は神でいてほしかったという。天皇がそのとき神であれば、敗戦後の日本がこれほどまでに混乱し無秩序で頽落した国になることはなかったと。
英霊の聲を借りた三島の「天皇制」は極めて反語的だ。現実には、どちらもあり得ない選択だったろう。
「2.26事件」を指導した青年将校は真に国を憂いていた者であり、また、呼びかけにこたえた兵士たちは、貧農出身の素朴な兵士たちで、彼らは故郷の農村の疲弊を救うことを求めていた。彼らは共に腐敗した財閥、政治家、軍部、官僚等を暴力的に一掃し、原始天皇制共産主義国家の建設を夢想した。彼らは「近代的革命=権力の交代」など構想だにしなかった。彼らは、天皇(神)が自分達の行動に触発されて、疲弊した人民(臣民)を救済してくれることを祈り信じた。彼らの決起により、天皇が神として聖断をくだすことが確認できれば、彼らは自ら命を絶つつもりだった。彼らの行動原理は、天皇への一方的な思い(恋蹶)で一貫していた――というのが三島由紀夫の歴史観だ。
二作目の『憂国』は、天皇へ恋蹶が死とエロスに近接した心情であることを伝えている。この短編は、決起するつもりだった青年将校が図らずも決起軍に参加できなくなり、彼らを討伐する側に立つこと適わず、切腹を選ぶ。
死を前にした夫婦の交情と、青年将校の切腹の場面、そして、妻の後追いの描写は迫力がある。ここに描かれた決起した青年将校の国を憂う至純な心とそれに従う妻の、これまた私心のない清純さは、自死によって保証されるというわけだ。
三作目の『十日の菊』は民衆のナショナリズムがテーマとなっている。「2.26事件」で暗殺されそうになった大蔵大臣が、女中頭の機転で決起軍から逃れ命を救われる。そのとき大蔵大臣の屋敷を襲った決起軍の中に女中頭の息子がいたのだが、女中頭は大蔵大臣と同衾中だった。息子は母親の裸を見てその裸に唾を吐きかけ去っていったものの、母親の裏切りを苦に自殺する。大蔵大臣は女中頭を故郷に帰し一生を保障したのだが、戦争が終わって、女中頭は隠居した大蔵大臣の屋敷を訪れて、過去を清算しようと試みる・・・という粗筋だ。この戯曲の登場人物は複雑な関係にあるので、詳細については省略する。
三島由紀夫の小説では、〈支配する側〉と〈される側〉が截然と分かれているものが多い。前者は華族(財閥、官僚を含む)であり、後者はその使用人、青年将校、兵士などの下層の者だ。三島由紀夫が、そういう世界で実際に暮らしていたのかどうか知らないが、身分制社会――いまの言葉で言えば格差社会――を前提にしたものが散見される。日本は、戦前までは完全な身分制社会であったことは事実らしいし、いまでもそうなのかもしれない。
底辺の生活者が支配者につくす(仕える)様相がしばしば小説の重要な要素になっている。華族の生活を知らない筆者には、三島由紀夫が描く世界になじまない。虚構であるとしても、感覚的に受けつけない。
『十月の菊』はその観念性が顕著で緊張感に乏しく、前二作に比べれば「遊び」の要素が強い。戯曲という形式だからかもしれない。いずれにしても、三島の虚構の世界では、被支配者(生活者)が支配者を理不尽なくらい助ける。本書もその不条理によって構想されている。それを負のナショナリズムというのかもしれない。
本書は、三島が「2.26事件」について、その主役たちの思想(国家観)、人格と心情、そして、民衆ナショナリズム――という3方向からアプローチしたものだ。 -->
『英霊の聲』『憂国』の短編小説と戯曲『十日の菊』、そして『2.26事件と私』というエッセイが収められている。エッセイを除いた三部作が、三島の「2.26事件三部作」だ。三部作のモチーフは後年、三島の遺作『奔馬 豊饒の海(三)』に結実する。
『英霊の聲』は極めて観念的な小説だ。三島由紀夫の天皇観が直接的に披瀝されている。粗筋は、ある神帰(かんがかり)の会に参加した人物(多分、三島由紀夫だろう)が、そこで、若い盲目の神主に英霊が依り憑き、英霊が無念の心情を吐露する様子を目撃する。英霊の聲を借りて、著者(三島由紀夫)が自らの天皇論を展開したと思えばいい。
神帰った英霊は「2.26事件」で天皇に反乱軍とされ極刑に処された青年将校と、大戦末期、自爆で命を落とした若き神風特攻隊員のものだ。英霊は繰り返し、「などて天皇はひととなりたまいし」と問い続ける。
この呪詛は戦前~戦後を通じた天皇批判だ。英霊は、天皇が神でなければならないときに、人になってしまった(裏切り)ために、魂がやすらぐことがないという。自分達は天皇に裏切られたがゆえに、その霊がはるかな海上の彷徨っているという。英霊は国体が滅びることになる前、二度、天皇は神であってほしかったという。一度目は「2.26、青年将校等が決起した」ときであり、二度目は、特攻隊員が敵空母に向かって自爆した直後にやってきた占領下だ。
「事件」が起きた1936年(昭和11年)当時、不況、飢饉等で日本の都市部、農村部は共に疲弊していた。特に農村部では不作による家計の悪化から、娘を身売りする家庭も多かった。一方、財閥、官僚、華族、政治家、軍閥といった支配層は、汚職、利権等の不正を働いて私腹を肥やしていた。こうした不正を糾すため、青年将校は軍を挙げ、ときの立憲主義者政治家、財閥を殺害した。軍を挙げれば天皇がその義を認め、世の中は変わると信じた。しかし、事件直後、天皇は決起した青年将校等を逆賊と規定し、正規軍に鎮圧を命じ、彼らの処置を軍上層部に任せた。軍部官僚は「反乱軍」の首謀者を極刑、流刑等の重罪に処し、下級兵士は前線に送られた。
以降、軍部官僚は独走し、日本を無謀なアジア太平洋戦争に突入させた。もし天皇が「2.26事件」を起こした青年将校を看做さず、彼らの信ずる「至純なる天皇制国家」の誕生に向かって国家の方向を転換していれば、日本が大戦争を起こすこともなく、国体は維持されたのだと。さらに、全土が焦土と化して迎えた敗戦時、占領軍及び敗戦処理内閣の長老に促され、天皇は「人間宣言」を発したが、宣言は国際社会に配慮し、日本国民の安全を確保するためだったと言われているものの、そのときこそ、天皇は神でいてほしかったという。天皇がそのとき神であれば、敗戦後の日本がこれほどまでに混乱し無秩序で頽落した国になることはなかったと。
英霊の聲を借りた三島の「天皇制」は極めて反語的だ。現実には、どちらもあり得ない選択だったろう。
「2.26事件」を指導した青年将校は真に国を憂いていた者であり、また、呼びかけにこたえた兵士たちは、貧農出身の素朴な兵士たちで、彼らは故郷の農村の疲弊を救うことを求めていた。彼らは共に腐敗した財閥、政治家、軍部、官僚等を暴力的に一掃し、原始天皇制共産主義国家の建設を夢想した。彼らは「近代的革命=権力の交代」など構想だにしなかった。彼らは、天皇(神)が自分達の行動に触発されて、疲弊した人民(臣民)を救済してくれることを祈り信じた。彼らの決起により、天皇が神として聖断をくだすことが確認できれば、彼らは自ら命を絶つつもりだった。彼らの行動原理は、天皇への一方的な思い(恋蹶)で一貫していた――というのが三島由紀夫の歴史観だ。
二作目の『憂国』は、天皇へ恋蹶が死とエロスに近接した心情であることを伝えている。この短編は、決起するつもりだった青年将校が図らずも決起軍に参加できなくなり、彼らを討伐する側に立つこと適わず、切腹を選ぶ。
死を前にした夫婦の交情と、青年将校の切腹の場面、そして、妻の後追いの描写は迫力がある。ここに描かれた決起した青年将校の国を憂う至純な心とそれに従う妻の、これまた私心のない清純さは、自死によって保証されるというわけだ。
三作目の『十日の菊』は民衆のナショナリズムがテーマとなっている。「2.26事件」で暗殺されそうになった大蔵大臣が、女中頭の機転で決起軍から逃れ命を救われる。そのとき大蔵大臣の屋敷を襲った決起軍の中に女中頭の息子がいたのだが、女中頭は大蔵大臣と同衾中だった。息子は母親の裸を見てその裸に唾を吐きかけ去っていったものの、母親の裏切りを苦に自殺する。大蔵大臣は女中頭を故郷に帰し一生を保障したのだが、戦争が終わって、女中頭は隠居した大蔵大臣の屋敷を訪れて、過去を清算しようと試みる・・・という粗筋だ。この戯曲の登場人物は複雑な関係にあるので、詳細については省略する。
三島由紀夫の小説では、〈支配する側〉と〈される側〉が截然と分かれているものが多い。前者は華族(財閥、官僚を含む)であり、後者はその使用人、青年将校、兵士などの下層の者だ。三島由紀夫が、そういう世界で実際に暮らしていたのかどうか知らないが、身分制社会――いまの言葉で言えば格差社会――を前提にしたものが散見される。日本は、戦前までは完全な身分制社会であったことは事実らしいし、いまでもそうなのかもしれない。
底辺の生活者が支配者につくす(仕える)様相がしばしば小説の重要な要素になっている。華族の生活を知らない筆者には、三島由紀夫が描く世界になじまない。虚構であるとしても、感覚的に受けつけない。
『十月の菊』はその観念性が顕著で緊張感に乏しく、前二作に比べれば「遊び」の要素が強い。戯曲という形式だからかもしれない。いずれにしても、三島の虚構の世界では、被支配者(生活者)が支配者を理不尽なくらい助ける。本書もその不条理によって構想されている。それを負のナショナリズムというのかもしれない。
本書は、三島が「2.26事件」について、その主役たちの思想(国家観)、人格と心情、そして、民衆ナショナリズム――という3方向からアプローチしたものだ。 -->
2006年5月18日木曜日
『団塊の世代とは何だったのか』
●由紀草一〔著〕 ●洋泉社 ●740円+税
本書は、「団塊」と冠をした戦後論なのだが、著者(由紀草一氏)は団塊に対して、悪意を抱いているようだ。その理由については、本書からはうかがえない。詳細は後述するが、全共闘運動の先駆性、創造性といった肯定的評価は団塊以前に帰し、そのいい加減さなどの否定的評価については団塊世代に帰している。戦後の諸矛盾は団塊世代に責任のすべてがあるわけではない。団塊以前⇒団塊⇒団塊以降が無意識に戦後精神を継承した結果だと思える。
本書の戦後論に新鮮な切り口はない。いままで語られてきた常識的見方だ。だから、「団塊」という冠がつかなければ、出版されることはなかったかもしれない。
もちろん、団塊の世代には特徴がある。そして、もちろん、すべての世代がそれぞれ特徴をもっている。また、「団塊」の特徴といわれているものの実態は、「団塊」を含めた戦後世代に共通する場合が多い。だから、本題の<団塊の世代とは何だったのか>という問いには、ただ一言、“この世代は人口が多い”と、また、消費社会に初めて登場した世代だった、と回答できる。
人口が多く、しかも、消費社会の発展とともに日本の企業にマーケティング戦略が定着するに従い、団塊世代はマーケティング上のターゲットに設定され続けている。団塊世代を刺激しておけば、メーカー、サービス業、出版産業等の売上が上がる。メディアは団塊特集を組み、特集された団塊世代がそれを読み、新たな消費行動に至る。「団塊」が動けば、モノが売れる。いまは団塊の世代の退職金が金融業の標的になっている。旅行業者は、暇になった「団塊」の旅行需要に期待している。言うまでもなく、退職金を給付されるのは「団塊」だけではないし、リタイアの後、旅行するのも「団塊」に限ったことではないのだがしかし、メディアの反応は、“団塊は・・・”なのだ。
マーケティングが団塊の世代を照準に消費刺激策を講じ、マスメディアが騒ぎ立ててきた結果、団塊世代が自分達を特殊な世代だと思い始めてしまった。自分達は他の世代に比べて、特異な世代だと考えてしまった。そればかりではない。「団塊」が自分達を特別だと考えるにとどまらず、その前後の世代までが「団塊」を特別視してしまった。本書は管見の限りだが、その代表格だと思われる。著者(由紀草一氏)が、団塊の世代を20世紀後半、人類史上突発的に出現した新種であるかのように特別視していることに驚く。
(1)政治体験
具体的に言おう。全共闘運動は団塊世代の際立った特殊性だと言われている。ところが、その萌芽は、ほぼ10歳上の「60年安保」の世代によって担われていた。だから、安保世代の体験の方が劇的だった。反代々木(反スターリニズム)の「発見」は、全共闘のものではなく、「60年安保」のものだし、学園封鎖(バリケード)も全共闘以前の政治戦術だった。火炎瓶闘争、非合法闘争は1950年代の日本共産党が最初に行った。
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の学生運動(67年の第一次羽田闘争~73年の連合赤軍事件)を特別視しているけれど、その前の(「60年安保」)世代の延長上にある。言うまでもなく、「60年安保闘争」があって「全共闘運動」が起きた。
著者(由紀草一氏)が一生懸命調べた、全共闘運動(家)もしくは新左翼運動(家)の特徴については、団塊の世代に限った特徴もあるし、前衛党(政治結社)一般に見られる特徴もある。全共闘運動の特徴の1つだと言われる「暴力性」に関しては、アジア太平洋戦争直後、日本共産党が起こした「血のメーデー事件」等の前例がある。リンチ事件も戦時中、日本共産党が起こしている。
そればかりではない。過激な政治集団の叛乱を近代以降に尋ねれば、三島由紀夫が『奔馬』で取り上げた、維新直後の「神風連」の叛乱などがあり、その数を数えればきりがない。20世紀に入っては「5.15事件」「2.26事件」もそうした脈略にあるし、戦前は過激な民族派政治結社がいくつかの事件を起こしている。もちろん、イデオロギーはその時代(世代)、その時代(世代)ごとに異なっているが。
グローバルにみれば、今年(2006年)になって、フランスの若者が雇用法を巡って直接行動を起こしているし、米国でもほぼ同時期に移民問題で大規模な街頭闘争が繰り広げられた。このように、全共闘運動は、近代・現代における大衆の「異議申し立て」という視点からすれば、恒常的社会現象であって、類似の運動はいくらでも挙げられる。
ベトナム戦争に対する反戦運動のあり方については、日本と欧米の反応は似ていた。その理由は東西冷戦だけで済ますことができないだろう。しかも、終息の仕方までが似ていたことについては、「団塊」というキーワードだけで説明しきれる問題でない。
政治(革命)運動の不完全性、いい加減さ、その不幸な結末については、これも「団塊」というキーワードでは説明できない。人類史上初のプロレタリア革命といわれる「ロシア革命」は不完全極まりないし、革命後のスターリン主義の粛清で殺されたロシア人の数は、連合赤軍の犠牲者の比ではない。ワイマール共和国のもと、「ドイツ革命」の失敗がナチズムの台頭を招いた。全共闘、新左翼運動の限界性については、著者(由紀草一氏)のご指摘のとおりだが、それを団塊の特徴に還元することは不可能だ。
日本の革命運動の顛末を言えば、「血のメーデー事件」「60年安保」といった闘争後の日本共産党員や結党間近で敗北した新左翼活動家の多くが「挫折」を経験した。彼らは団塊前の世代だが、「団塊」とほぼ同じ体験を共有している。両者とも、路線上の対立から死者(自殺者・他殺者)を出している。80年代、政治結社を舞台とした内ゲバ・リンチ事件は終息したが、90年代に入ってオウム真理教がより過激なテロ事件を起こし、教団内部でリンチ殺人事件を起こしている。
革命運動と呼ばないが、特異な政治体験の極限が戦争体験ではないか。「団塊」より前の世代の戦争(戦時)体験と言えば、青春時代に従軍し、アジア・太平洋の各地に赴任し、挙句、同世代の大量の死を目撃した「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代、あるいはその上の世代には、ファシズム、思想弾圧、従軍、焦土、占領、飢えといった、極めて重い体験をしている。その重さは全共闘運動体験の比ではない。
団塊以降の世代には政治体験がないが、ないほうがむしろ異常なのだ。反語的に言えば、団塊以降の世代には政治運動をしていないという特徴をもっている。その一方で、政治体験に代わって「バブル経済体験」「平成不況」「就職難」「フリーター」「いじめ」「ひきこもり」などの困難な「世代体験」をもっている。
(2)歌ったのは「団塊」だけではない
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の文化的特徴として、フォークソング(プロテストソング)を挙げているが、これも特別な現象ではない。60年安保の時代には「歌声喫茶」が流行り、そこで労働歌、ロシア民謡が歌われた。1950年代~60年代初頭には、日本ではシンガーソングライターが存在しなかったので、民謡等の愛唱歌がその代役を果たした。その前は軍歌、寮歌等が青春の歌だった。旧制高校生はヒッピーではないけれど、破帽・高下駄等で自分達の存在を誇示した。著者は触れていないけれど、青春の歌として忘れてならないのは「艶歌」「猥歌」だ。
形式論で言えば、フォークソング誕生前に青春の抒情を代表するのは短歌だった。60年安保を代表する歌人が岸上大作だし、それ以降が福島泰樹。団塊は道浦母都子だ。
団塊以前の「青春の歌」が団塊世代と様相を異にするのは、▽ボリューム(人口=消費者数)の違い、▽マスメディアの発達度合の違い、▽マーケティングの発展具合の違い――からだ。前述したように、団塊の世代はマーケットとして有望だから、彼らの「青春」が企業により商品化され、現にそれが売れた。企業(音楽産業)が「団塊」を意識して商品化した楽曲としては、『翼を下さい』『学生街の喫茶店』『バラが咲いた』『白いブランコ』などがあり、これらは「団塊」より年上のプロの作詞家・作曲家(すぎやま・こういち、浜口庫之助、山上路夫・・・)らの手になった。これらフォークソング(ニューミュージック)もその時代を代表したものであり、かつ、いまなお歌い継がれている。音楽産業が当時の若者の抒情性に依拠してマーチャンダイジングしたものなのだが、今日まで、世代を超えて歌い継がれているのはなぜか。
(3)世代批判の不毛性
繰り返すが、それぞれの世代に特異な「世代体験」があり、「団塊」の体験をことさら問題にしても不毛だ。「団塊」が他の世代と唯一異なる点は、人口が多いということだけだ。人口が多いことが特異な体験を生むこともある。
たとえば、団塊の世代の小学生時代、教室が足りなくて「二部授業」を体験した。「団塊」といえば「二部授業」だ。しかし、戦時中の小学生の体験はもっと強烈だったに違いない。国旗掲揚、ご真影への敬礼、軍事教練などは、「団塊」の比ではない。疎開体験も聞く。戦中世代の特異な小学生体験に比べれば、「団塊」の「二部授業体験」など取るに足らない。
何度も言うように、団塊の世代はマーケティング上、有望な消費群であり、「団塊」を刺激することが消費喚起に直結する。メディアはそれを狙っている。「団塊」はメディアのキャンペーンによって、自分達を特殊な世代だと勘違いするようになった。だから、本書の団塊年譜を眺めてみても、特段な感慨はない。確かに先駆的な特徴も認められるけれど、それだけの話だ。先駆性なんてものは、最初の珍しさ以外でしかない。
「団塊」を批判することはかまわない。かつて、団塊の世代は両親をつかまえて、“なぜ戦争に反対しなかったのか?”と詰問した。両親の世代が答えられるはずもない。同じように、若い世代から、“なぜ団塊は政治運動から召還したのか”、と問われても、回答できないし、“マルクス主義を信じているのか”と問われても、明確な回答が出せない。
団塊が回答を出せないまま40年が、やがて半世紀が過ぎるだろう。若い世代から、団塊が犯した罪障の数々について償えといわれれば戸惑うばかりだ。著者(由紀草一氏)のような「明晰」な人間から見れば、団塊の世代は愚かで、お調子もので、思慮が浅く、反省のない世代に見えるのかもしれない。しかし、著者(由紀草一氏)のように他世代のことを批判的な目で見たことがないのでわからないが、その前後の世代も同じようなものなのではないのか。世代の行動に反省を示さないのは、団塊だけなのだろうか。各世代も同じように、自分たちの行動を説明できないのではないか。
メディアは「団塊」という幻想を生み出し、それによって消費を喚起しようとする。この現象は団塊が墓場に行くまで持続される。団塊がその寿命を全うするまで、葬式やお墓の需要が見込まれるからだ。
本書は、「団塊」と冠をした戦後論なのだが、著者(由紀草一氏)は団塊に対して、悪意を抱いているようだ。その理由については、本書からはうかがえない。詳細は後述するが、全共闘運動の先駆性、創造性といった肯定的評価は団塊以前に帰し、そのいい加減さなどの否定的評価については団塊世代に帰している。戦後の諸矛盾は団塊世代に責任のすべてがあるわけではない。団塊以前⇒団塊⇒団塊以降が無意識に戦後精神を継承した結果だと思える。
本書の戦後論に新鮮な切り口はない。いままで語られてきた常識的見方だ。だから、「団塊」という冠がつかなければ、出版されることはなかったかもしれない。
もちろん、団塊の世代には特徴がある。そして、もちろん、すべての世代がそれぞれ特徴をもっている。また、「団塊」の特徴といわれているものの実態は、「団塊」を含めた戦後世代に共通する場合が多い。だから、本題の<団塊の世代とは何だったのか>という問いには、ただ一言、“この世代は人口が多い”と、また、消費社会に初めて登場した世代だった、と回答できる。
人口が多く、しかも、消費社会の発展とともに日本の企業にマーケティング戦略が定着するに従い、団塊世代はマーケティング上のターゲットに設定され続けている。団塊世代を刺激しておけば、メーカー、サービス業、出版産業等の売上が上がる。メディアは団塊特集を組み、特集された団塊世代がそれを読み、新たな消費行動に至る。「団塊」が動けば、モノが売れる。いまは団塊の世代の退職金が金融業の標的になっている。旅行業者は、暇になった「団塊」の旅行需要に期待している。言うまでもなく、退職金を給付されるのは「団塊」だけではないし、リタイアの後、旅行するのも「団塊」に限ったことではないのだがしかし、メディアの反応は、“団塊は・・・”なのだ。
マーケティングが団塊の世代を照準に消費刺激策を講じ、マスメディアが騒ぎ立ててきた結果、団塊世代が自分達を特殊な世代だと思い始めてしまった。自分達は他の世代に比べて、特異な世代だと考えてしまった。そればかりではない。「団塊」が自分達を特別だと考えるにとどまらず、その前後の世代までが「団塊」を特別視してしまった。本書は管見の限りだが、その代表格だと思われる。著者(由紀草一氏)が、団塊の世代を20世紀後半、人類史上突発的に出現した新種であるかのように特別視していることに驚く。
(1)政治体験
具体的に言おう。全共闘運動は団塊世代の際立った特殊性だと言われている。ところが、その萌芽は、ほぼ10歳上の「60年安保」の世代によって担われていた。だから、安保世代の体験の方が劇的だった。反代々木(反スターリニズム)の「発見」は、全共闘のものではなく、「60年安保」のものだし、学園封鎖(バリケード)も全共闘以前の政治戦術だった。火炎瓶闘争、非合法闘争は1950年代の日本共産党が最初に行った。
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の学生運動(67年の第一次羽田闘争~73年の連合赤軍事件)を特別視しているけれど、その前の(「60年安保」)世代の延長上にある。言うまでもなく、「60年安保闘争」があって「全共闘運動」が起きた。
著者(由紀草一氏)が一生懸命調べた、全共闘運動(家)もしくは新左翼運動(家)の特徴については、団塊の世代に限った特徴もあるし、前衛党(政治結社)一般に見られる特徴もある。全共闘運動の特徴の1つだと言われる「暴力性」に関しては、アジア太平洋戦争直後、日本共産党が起こした「血のメーデー事件」等の前例がある。リンチ事件も戦時中、日本共産党が起こしている。
そればかりではない。過激な政治集団の叛乱を近代以降に尋ねれば、三島由紀夫が『奔馬』で取り上げた、維新直後の「神風連」の叛乱などがあり、その数を数えればきりがない。20世紀に入っては「5.15事件」「2.26事件」もそうした脈略にあるし、戦前は過激な民族派政治結社がいくつかの事件を起こしている。もちろん、イデオロギーはその時代(世代)、その時代(世代)ごとに異なっているが。
グローバルにみれば、今年(2006年)になって、フランスの若者が雇用法を巡って直接行動を起こしているし、米国でもほぼ同時期に移民問題で大規模な街頭闘争が繰り広げられた。このように、全共闘運動は、近代・現代における大衆の「異議申し立て」という視点からすれば、恒常的社会現象であって、類似の運動はいくらでも挙げられる。
ベトナム戦争に対する反戦運動のあり方については、日本と欧米の反応は似ていた。その理由は東西冷戦だけで済ますことができないだろう。しかも、終息の仕方までが似ていたことについては、「団塊」というキーワードだけで説明しきれる問題でない。
政治(革命)運動の不完全性、いい加減さ、その不幸な結末については、これも「団塊」というキーワードでは説明できない。人類史上初のプロレタリア革命といわれる「ロシア革命」は不完全極まりないし、革命後のスターリン主義の粛清で殺されたロシア人の数は、連合赤軍の犠牲者の比ではない。ワイマール共和国のもと、「ドイツ革命」の失敗がナチズムの台頭を招いた。全共闘、新左翼運動の限界性については、著者(由紀草一氏)のご指摘のとおりだが、それを団塊の特徴に還元することは不可能だ。
日本の革命運動の顛末を言えば、「血のメーデー事件」「60年安保」といった闘争後の日本共産党員や結党間近で敗北した新左翼活動家の多くが「挫折」を経験した。彼らは団塊前の世代だが、「団塊」とほぼ同じ体験を共有している。両者とも、路線上の対立から死者(自殺者・他殺者)を出している。80年代、政治結社を舞台とした内ゲバ・リンチ事件は終息したが、90年代に入ってオウム真理教がより過激なテロ事件を起こし、教団内部でリンチ殺人事件を起こしている。
革命運動と呼ばないが、特異な政治体験の極限が戦争体験ではないか。「団塊」より前の世代の戦争(戦時)体験と言えば、青春時代に従軍し、アジア・太平洋の各地に赴任し、挙句、同世代の大量の死を目撃した「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代、あるいはその上の世代には、ファシズム、思想弾圧、従軍、焦土、占領、飢えといった、極めて重い体験をしている。その重さは全共闘運動体験の比ではない。
団塊以降の世代には政治体験がないが、ないほうがむしろ異常なのだ。反語的に言えば、団塊以降の世代には政治運動をしていないという特徴をもっている。その一方で、政治体験に代わって「バブル経済体験」「平成不況」「就職難」「フリーター」「いじめ」「ひきこもり」などの困難な「世代体験」をもっている。
(2)歌ったのは「団塊」だけではない
著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の文化的特徴として、フォークソング(プロテストソング)を挙げているが、これも特別な現象ではない。60年安保の時代には「歌声喫茶」が流行り、そこで労働歌、ロシア民謡が歌われた。1950年代~60年代初頭には、日本ではシンガーソングライターが存在しなかったので、民謡等の愛唱歌がその代役を果たした。その前は軍歌、寮歌等が青春の歌だった。旧制高校生はヒッピーではないけれど、破帽・高下駄等で自分達の存在を誇示した。著者は触れていないけれど、青春の歌として忘れてならないのは「艶歌」「猥歌」だ。
形式論で言えば、フォークソング誕生前に青春の抒情を代表するのは短歌だった。60年安保を代表する歌人が岸上大作だし、それ以降が福島泰樹。団塊は道浦母都子だ。
団塊以前の「青春の歌」が団塊世代と様相を異にするのは、▽ボリューム(人口=消費者数)の違い、▽マスメディアの発達度合の違い、▽マーケティングの発展具合の違い――からだ。前述したように、団塊の世代はマーケットとして有望だから、彼らの「青春」が企業により商品化され、現にそれが売れた。企業(音楽産業)が「団塊」を意識して商品化した楽曲としては、『翼を下さい』『学生街の喫茶店』『バラが咲いた』『白いブランコ』などがあり、これらは「団塊」より年上のプロの作詞家・作曲家(すぎやま・こういち、浜口庫之助、山上路夫・・・)らの手になった。これらフォークソング(ニューミュージック)もその時代を代表したものであり、かつ、いまなお歌い継がれている。音楽産業が当時の若者の抒情性に依拠してマーチャンダイジングしたものなのだが、今日まで、世代を超えて歌い継がれているのはなぜか。
(3)世代批判の不毛性
繰り返すが、それぞれの世代に特異な「世代体験」があり、「団塊」の体験をことさら問題にしても不毛だ。「団塊」が他の世代と唯一異なる点は、人口が多いということだけだ。人口が多いことが特異な体験を生むこともある。
たとえば、団塊の世代の小学生時代、教室が足りなくて「二部授業」を体験した。「団塊」といえば「二部授業」だ。しかし、戦時中の小学生の体験はもっと強烈だったに違いない。国旗掲揚、ご真影への敬礼、軍事教練などは、「団塊」の比ではない。疎開体験も聞く。戦中世代の特異な小学生体験に比べれば、「団塊」の「二部授業体験」など取るに足らない。
何度も言うように、団塊の世代はマーケティング上、有望な消費群であり、「団塊」を刺激することが消費喚起に直結する。メディアはそれを狙っている。「団塊」はメディアのキャンペーンによって、自分達を特殊な世代だと勘違いするようになった。だから、本書の団塊年譜を眺めてみても、特段な感慨はない。確かに先駆的な特徴も認められるけれど、それだけの話だ。先駆性なんてものは、最初の珍しさ以外でしかない。
「団塊」を批判することはかまわない。かつて、団塊の世代は両親をつかまえて、“なぜ戦争に反対しなかったのか?”と詰問した。両親の世代が答えられるはずもない。同じように、若い世代から、“なぜ団塊は政治運動から召還したのか”、と問われても、回答できないし、“マルクス主義を信じているのか”と問われても、明確な回答が出せない。
団塊が回答を出せないまま40年が、やがて半世紀が過ぎるだろう。若い世代から、団塊が犯した罪障の数々について償えといわれれば戸惑うばかりだ。著者(由紀草一氏)のような「明晰」な人間から見れば、団塊の世代は愚かで、お調子もので、思慮が浅く、反省のない世代に見えるのかもしれない。しかし、著者(由紀草一氏)のように他世代のことを批判的な目で見たことがないのでわからないが、その前後の世代も同じようなものなのではないのか。世代の行動に反省を示さないのは、団塊だけなのだろうか。各世代も同じように、自分たちの行動を説明できないのではないか。
メディアは「団塊」という幻想を生み出し、それによって消費を喚起しようとする。この現象は団塊が墓場に行くまで持続される。団塊がその寿命を全うするまで、葬式やお墓の需要が見込まれるからだ。
2006年5月6日土曜日
『天人五衰』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●514円(+税)
最終4巻目だ。「4」は、起承転結の「結」に当たる。
まず、本題の“天人五衰”の意味だが、本文中に詳細な解説があるので引用する。天人とは、仏話にある欲界六天ならびに色界諸天に住する有情、つまり、天子、天女に仕える人、動物のような存在のことか。五衰とは天人が命終の時に現れる五種の衰相だ。五衰を大雑把にいえば、▽天人は身に備えた楽から発する美しい声をもっているが、死期が近づくと楽が衰え、声がかすれてしまう。▽天人には光がさしているが、死期が近づくと、失せて影につつまれる。▽天人の肌はすべすべで水をはじくが、死期が近づくと水が着くようになる。▽天人は本来すばしっこく移動するのが常だが、死期が近づくと一箇所に低迷して抜け出せなくなる。▽天人の身には力がみち溢れているが、死期が近づくと力が衰え、しきりに目ばたきするようになる。
粗筋をおさえておこう。時代はさらにくだって、本多・76歳のときに物語が始まる。妻に先立たれた本多は、同性愛者である慶子と友達同士の関係を続け、共に国内外を旅するまでになっている。2人が三保の松原を訪れた際、静岡のある海岸に建っている帝国通信所の船舶監視小屋を見学する。小屋には透という通信員が働いている。透はIQ159の秀才でありながら、両親に先立たれ、中学卒業後、通信員の職を得ていた。友人はなく、毎日孤独な生活を送っているが、絹代という精神病を患う少女にだけ心を許している。本多と慶子が通信室を見学するうち、偶然、透の体に清顕、勲、ジン・ジャンと同じ3つの黒子があることを発見する。本多は早速、透を養子にする。透は本多の屋敷に引き取られ、高校受験のための勉強ばかりか、エスタブリッシュメントとなるためのマナー、会話、思考方法を本多から教育される。本多は透が清顕、勲、ジン・ジャンのように夭逝することを望まず、成人してその命を全うすることを祈る。
本多には不安があった。透を清顕の生まれ変わりだと確信して養子にしたものの、ジン・ジャンの命日が不明なため、透が本当に清顕の生まれ変わりかどうかの確証がない。ジン・ジャンが亡くなる前に透が生まれていたのでは転生が成立しないからだ。透の生年月日はわかっても、ジン・ジャンの命日は、本多の力をもってしても判明しないままだった。透は高校、大学の試験を順次パスし、20歳の青年となる。しかしその間、新左翼の活動家であることを隠して本多家に入り込んだ家庭教師をクビにし、透との結婚を前提に交際を始めた百子を裏切り、絹代を東京に呼び寄せ、さらに、本多に暴力を振るうようにまでなっていた。透の本多に対する肉体的・精神的迫害は日々激しくなる。
そんななか、本多は、透が清顕の生まれ変わりなら満21歳の誕生日の前まで(20歳)に命を落とすはずだし、贋物ならその後も生き続けると思うに至る。透の21歳の誕生日の半年前のある夜突然、本多は性癖だった“のぞき”の色情に駆られる。彼は絵画館前に一人出かけ、“のぞき”をしようと徘徊しているとき、偶然起きた傷害事件に巻き込まれ警察に事情聴取される。警察は本多の“のぞき”を週刊誌にリークし、彼は「のぞき屋、元判事」と書き立てられ、その名声を失う。
これを機に、透は本多を禁治産者に仕立て上げ、その遺産を奪おうと画策する。本多に同情した慶子は、クリスマスの夜、透を慶子の自宅に一人招き、透が養子に引き取られた秘密を話す。慶子は透に、「あなたが清顕の生まれ変わりなら、21歳の誕生日までに殺されるでしょう、でも、あなたは贋物だから殺されない」と告げ、清顕、勲、ジン・ジャンの死の物語を透に聞かせる。「あなたが本物なら、あと半年で殺される・・・」。透はそんな呪いのような言葉を発する慶子に殺意を抱くが、彼女を殺すことができないまま、慶子の屋敷を後にする。
その数日後、透は自殺を図り、一命は取り留めたものの失明する。本多が透の自殺の原因を慶子に尋ねると、慶子は自分がクリスマスにすべてを透に話した、と告白する。それを聞いた本多は、慶子と絶交する。透は結局21歳を過ぎても生き続ける。清顕~勲~ジン・ジャンと続いた輪廻転生の物語は透の代で途絶える。
81歳になり死期の訪れを自覚した本多は、清顕の恋人・聡子との再会を決意し、一人、奈良の山寺(月修寺)に向かう。聡子は存命で月修寺の門跡となっている。山道を登る本多に老いと持病からくる苦痛が襲う。休み休み悶絶しながら本多は月修寺にたどりつき、念願の聡子との再会を果たす。本多はそこで聡子に、清顕のことをどう思っているか尋ねると、聡子は意外な回答をする。聡子は「松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」――聡子は清顕のことを知らないというのだ。本多がしつこく問い詰めても、聡子は「知らない」と言い張る。「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?・・・」
印象を書きとめておこう。
起承転結の「結」は意外だった。私を含めた読者の多くは、三島が、『豊饒の海』全編にわたり撒き散らしてきた仏教の教義で煙に巻かれ、輪廻転生を基に物語は進み終わるものと確信していたに違いない。ところが、最終巻の主人公・透が贋物であり、さらに、物語の原点となっている清顕と聡子の恋愛事件すら、聡子にあっさりと否定されてしまう。清顕の存在そのものが本多の夢ではないのか、といわれれば、輪廻転生などあり得ないという近代科学主義の常識が目を覚ます。清顕と聡子が本多の夢ならば、勲もジン・ジャンも透も、この物語すべてが夢だ。
『豊饒の海』の物語の進行は、輪廻転生が基盤となっていることは何度も書いた。また、それと同じくらい重要な基盤が夢である。夢が現実を先取りしている。夢が物語に重要な役割・機能を果たすのは、ファンタジー文学の常套だ。『豊饒の海』もその形式をとっている。
本書が三島由紀夫の遺作であることはよく知られている。本書を上梓して間もなく、三島は自衛隊市谷駐屯地に「同志」数名と押し入り、檄文のビラを捲き、演説をし、割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。本書では老いが詳細に書かれている。老いの記述は生前の三島由紀夫の想像だけれど、老いにかなり自覚的だったことは確かだ。三島が老いを忌避して自殺したとは言えないけれど。
『豊饒の海』は若さを讃える書だ。『春の雪』では、青年の反語的恋愛を通して若者がもつ一途な恋愛のパッションが描かれ、『奔馬』では思想、信条に対する純粋な使命観を讃え、『暁の寺』では青年の身体(肉体)がもつ美を、ジン・ジャンというタイの王女の姿を借りて描いている。だが、最終章『天人五衰』では、若さの対極にある老い、その“醜さ”が執拗に書き込まれる。若さは美しいが限定的であり、時間の制約下にある。それだけではない。若さは、過剰な自意識、猜疑心、残酷さを併せ持っている。クリスマスの夜、老いた慶子が透を贋物だといって断罪する表現の数々がそれに当たる。人は青春期、天人のごとく光り輝くが、死期が近づくと五衰が現れ、死を迎える。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかの方が問題だ。(※後日改めて、『豊饒の海』全編について書いてみたい)
最終4巻目だ。「4」は、起承転結の「結」に当たる。
まず、本題の“天人五衰”の意味だが、本文中に詳細な解説があるので引用する。天人とは、仏話にある欲界六天ならびに色界諸天に住する有情、つまり、天子、天女に仕える人、動物のような存在のことか。五衰とは天人が命終の時に現れる五種の衰相だ。五衰を大雑把にいえば、▽天人は身に備えた楽から発する美しい声をもっているが、死期が近づくと楽が衰え、声がかすれてしまう。▽天人には光がさしているが、死期が近づくと、失せて影につつまれる。▽天人の肌はすべすべで水をはじくが、死期が近づくと水が着くようになる。▽天人は本来すばしっこく移動するのが常だが、死期が近づくと一箇所に低迷して抜け出せなくなる。▽天人の身には力がみち溢れているが、死期が近づくと力が衰え、しきりに目ばたきするようになる。
粗筋をおさえておこう。時代はさらにくだって、本多・76歳のときに物語が始まる。妻に先立たれた本多は、同性愛者である慶子と友達同士の関係を続け、共に国内外を旅するまでになっている。2人が三保の松原を訪れた際、静岡のある海岸に建っている帝国通信所の船舶監視小屋を見学する。小屋には透という通信員が働いている。透はIQ159の秀才でありながら、両親に先立たれ、中学卒業後、通信員の職を得ていた。友人はなく、毎日孤独な生活を送っているが、絹代という精神病を患う少女にだけ心を許している。本多と慶子が通信室を見学するうち、偶然、透の体に清顕、勲、ジン・ジャンと同じ3つの黒子があることを発見する。本多は早速、透を養子にする。透は本多の屋敷に引き取られ、高校受験のための勉強ばかりか、エスタブリッシュメントとなるためのマナー、会話、思考方法を本多から教育される。本多は透が清顕、勲、ジン・ジャンのように夭逝することを望まず、成人してその命を全うすることを祈る。
本多には不安があった。透を清顕の生まれ変わりだと確信して養子にしたものの、ジン・ジャンの命日が不明なため、透が本当に清顕の生まれ変わりかどうかの確証がない。ジン・ジャンが亡くなる前に透が生まれていたのでは転生が成立しないからだ。透の生年月日はわかっても、ジン・ジャンの命日は、本多の力をもってしても判明しないままだった。透は高校、大学の試験を順次パスし、20歳の青年となる。しかしその間、新左翼の活動家であることを隠して本多家に入り込んだ家庭教師をクビにし、透との結婚を前提に交際を始めた百子を裏切り、絹代を東京に呼び寄せ、さらに、本多に暴力を振るうようにまでなっていた。透の本多に対する肉体的・精神的迫害は日々激しくなる。
そんななか、本多は、透が清顕の生まれ変わりなら満21歳の誕生日の前まで(20歳)に命を落とすはずだし、贋物ならその後も生き続けると思うに至る。透の21歳の誕生日の半年前のある夜突然、本多は性癖だった“のぞき”の色情に駆られる。彼は絵画館前に一人出かけ、“のぞき”をしようと徘徊しているとき、偶然起きた傷害事件に巻き込まれ警察に事情聴取される。警察は本多の“のぞき”を週刊誌にリークし、彼は「のぞき屋、元判事」と書き立てられ、その名声を失う。
これを機に、透は本多を禁治産者に仕立て上げ、その遺産を奪おうと画策する。本多に同情した慶子は、クリスマスの夜、透を慶子の自宅に一人招き、透が養子に引き取られた秘密を話す。慶子は透に、「あなたが清顕の生まれ変わりなら、21歳の誕生日までに殺されるでしょう、でも、あなたは贋物だから殺されない」と告げ、清顕、勲、ジン・ジャンの死の物語を透に聞かせる。「あなたが本物なら、あと半年で殺される・・・」。透はそんな呪いのような言葉を発する慶子に殺意を抱くが、彼女を殺すことができないまま、慶子の屋敷を後にする。
その数日後、透は自殺を図り、一命は取り留めたものの失明する。本多が透の自殺の原因を慶子に尋ねると、慶子は自分がクリスマスにすべてを透に話した、と告白する。それを聞いた本多は、慶子と絶交する。透は結局21歳を過ぎても生き続ける。清顕~勲~ジン・ジャンと続いた輪廻転生の物語は透の代で途絶える。
81歳になり死期の訪れを自覚した本多は、清顕の恋人・聡子との再会を決意し、一人、奈良の山寺(月修寺)に向かう。聡子は存命で月修寺の門跡となっている。山道を登る本多に老いと持病からくる苦痛が襲う。休み休み悶絶しながら本多は月修寺にたどりつき、念願の聡子との再会を果たす。本多はそこで聡子に、清顕のことをどう思っているか尋ねると、聡子は意外な回答をする。聡子は「松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」――聡子は清顕のことを知らないというのだ。本多がしつこく問い詰めても、聡子は「知らない」と言い張る。「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?・・・」
印象を書きとめておこう。
起承転結の「結」は意外だった。私を含めた読者の多くは、三島が、『豊饒の海』全編にわたり撒き散らしてきた仏教の教義で煙に巻かれ、輪廻転生を基に物語は進み終わるものと確信していたに違いない。ところが、最終巻の主人公・透が贋物であり、さらに、物語の原点となっている清顕と聡子の恋愛事件すら、聡子にあっさりと否定されてしまう。清顕の存在そのものが本多の夢ではないのか、といわれれば、輪廻転生などあり得ないという近代科学主義の常識が目を覚ます。清顕と聡子が本多の夢ならば、勲もジン・ジャンも透も、この物語すべてが夢だ。
『豊饒の海』の物語の進行は、輪廻転生が基盤となっていることは何度も書いた。また、それと同じくらい重要な基盤が夢である。夢が現実を先取りしている。夢が物語に重要な役割・機能を果たすのは、ファンタジー文学の常套だ。『豊饒の海』もその形式をとっている。
本書が三島由紀夫の遺作であることはよく知られている。本書を上梓して間もなく、三島は自衛隊市谷駐屯地に「同志」数名と押し入り、檄文のビラを捲き、演説をし、割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。本書では老いが詳細に書かれている。老いの記述は生前の三島由紀夫の想像だけれど、老いにかなり自覚的だったことは確かだ。三島が老いを忌避して自殺したとは言えないけれど。
『豊饒の海』は若さを讃える書だ。『春の雪』では、青年の反語的恋愛を通して若者がもつ一途な恋愛のパッションが描かれ、『奔馬』では思想、信条に対する純粋な使命観を讃え、『暁の寺』では青年の身体(肉体)がもつ美を、ジン・ジャンというタイの王女の姿を借りて描いている。だが、最終章『天人五衰』では、若さの対極にある老い、その“醜さ”が執拗に書き込まれる。若さは美しいが限定的であり、時間の制約下にある。それだけではない。若さは、過剰な自意識、猜疑心、残酷さを併せ持っている。クリスマスの夜、老いた慶子が透を贋物だといって断罪する表現の数々がそれに当たる。人は青春期、天人のごとく光り輝くが、死期が近づくと五衰が現れ、死を迎える。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかの方が問題だ。(※後日改めて、『豊饒の海』全編について書いてみたい)
2006年5月4日木曜日
『暁の寺 豊饒の海3』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●620円(+税)
物語は勲が蔵原武介を殺害し自刃してから8年後、昭和15年(1940年)のバンコクで始まる。この年に日独伊三国同盟が締結されている。日本は連合国を相手に、アジア・太平洋戦争開始に向けて、破滅の道をまさに歩まんとしていた。本書では、これまで傍観者であった本多が主人公になる。
勲の事件で裁判官の職を投げ打ち弁護士となった本多は、五井財閥等の有力財閥を顧客とする辣腕弁護士となっている。彼は五井財閥から依頼された案件でタイに滞在することになり、そこで清顕(=勲)がタイの「月光姫=ジン・ジャン」に転生したことを知る。ジン・ジャンの父・パッタナディットは、青年時代、日本の学習院に留学中、松枝家に一時期寄宿したこともあり、清顕・本多と親交があったことが第一巻(『春の雪』)にある。本多はジン・ジャンに謁見の機会を得、そのとき、ジン・ジャンが清顕と勲の二人の記憶を併せもっていることに驚くが、ジン・ジャンの体に転生の印(3つの黒子)が認められないことに苛立つ。本多はタイに滞在中、足を伸ばしてインドのヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナラシー)を訪れ、深い感動を覚える。
ところで筆者は、このインドの聖地の描写の箇所に違和を覚えた。なぜなら、三島由紀夫は一貫して、日本の宗教(古神道)の佇まい(=簡素さ)と古代天皇制が生み出した「雅」を賞賛していたからだ。それらと比較するならば、ベナレスというヒンドゥー教の巨大な宗教装置で展開される情景はそれらと対極的だ。私は3年前の冬、ベナレスを訪れ、本多(=三島由紀夫)と同じようにボートに乗ってガンジス川を漂った。船着場までは、喧騒のベナレス市街からリクシャで10分ほど。ボートに乗り、ガンジス川を行き来する。船着場から数分のところに火葬場があり、ボートから火葬を見る。あたりは火葬用木材が集積され、川の色は黒く無音にちかい。寂寥というよりは、一切が遮断された異界のようだが、そこはあまりにも無造作、表現は悪いが、無人のゴミ焼却場のような佇まいだ。ヒンドゥー教の死の観念は、日本人のそれとは異なる。ベナレスでは死によって人が無に帰すはずでありながら、混沌としている。
ベナレスから日本に戻った本多(三島由紀夫)は、古今東西の宗教の成り立ちを調べ、大乗仏教の輪廻転生の妥当性に行き着く。三島が展開する仏教論は、私の理解を超えているのでここでは省略する。
時代は下って日本中が米軍の爆撃で焦土と化した1944年、本多は東京・渋谷の松枝邸跡地近くで、かつて綾倉公爵家で聡子に仕えていた蓼科に遭遇する。本多は戦時下の困窮にあえぐ蓼科を見て、たまたま土産にもらった卵を与える。蓼科は80歳を超える老女だったが、本多のことを覚えていて、聡子の近況を伝えると共に、古い仏典を「お守り」だといって、本多に与える。ここで本書の第一部が終わる。
第二部は、戦後、昭和27年に始まる。第一部と第二部はまったく異なる小説といっていい。戦中から戦後、つまり、第二部では、本多が国の土地収用に係る法律の抜け道を潜り抜け、巨大な財を築き上げた成功者で、しかも、覗き趣味をもつ初老の男として登場する。本多が成人したジン・ジャンに寄せる恋心は、ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のグスタフ老人が美少年タジオを思う心に似ている。本多を取り巻く登場人物もみな、隠微な性倒錯者ばかり。
本多は財の一部で富士山麓の御殿場に別荘地を買い、隣の別荘オーナー・慶子と親しくなる。慶子は政界・財界及び米国(占領軍)にまでコネクションをもつ謎の女性。本多は戦後没落した洞院宮が開業した骨董品店でエメラルドの指輪を購入している。その指輪はパッタナディットが学習院に留学したときに無くしたものだった。本多はその指輪を娘ジン・ジャンに返そうと考える。本多は一計を案じ、別荘の新築記念パーティーを開き、日本を訪れているジン・ジャンを招く。本多は書斎の本棚にのぞき穴をつくり、その部屋の隣にジン・ジャンを泊めてのぞくことを企む。のぞき穴からみたジン・ジャンの体にはまちがいなく、清顕・勲とおなじ印があった。
このパーティーには、本多夫妻がホストを務め、慶子がヘルプを勤める一方、かつて勲の決起を密告した鬼頭中将の娘・槙子(有名な歌人となっている)とその弟子の椿原夫人、性倒錯傾向をもつ知識人・今西らを招待客として呼ぶ。このパーティーの招待者たち、本多、ジン・ジャン、慶子らの性的関係と屈折した恋愛感情が以降、延々と展開されていく。
本多は書斎のぞき穴から、椿原夫人と今西が肉体関係を結んだこと、本多が恋したジン・ジャンがレズで慶子と関係していることなどを知る。ことほどさように、『暁の寺』は、かなりドロドロした男女関係がこれでもかというくらい、書き込まれたている。
結末は昭和27年、本多の別荘の全焼で訪れる。本多は、御殿場の別荘地で日本初のプールをつくったことを記念するパーティーを開き、ジン・ジャン、今西と椿原夫人、慶子らを招待する。その夜、宿泊した今西と椿原夫人の部屋から出火し二人は焼死、もちろん、本多の別荘も焼け落ちる。この火事をもって本多の人間関係は清算される。そして、昭和42年、ジン・ジャンの双子の姉妹が日本を訪れたとき、本多はジン・ジャンがタイでコプラに咬まれて死んだことを聞く。
物語は勲が蔵原武介を殺害し自刃してから8年後、昭和15年(1940年)のバンコクで始まる。この年に日独伊三国同盟が締結されている。日本は連合国を相手に、アジア・太平洋戦争開始に向けて、破滅の道をまさに歩まんとしていた。本書では、これまで傍観者であった本多が主人公になる。
勲の事件で裁判官の職を投げ打ち弁護士となった本多は、五井財閥等の有力財閥を顧客とする辣腕弁護士となっている。彼は五井財閥から依頼された案件でタイに滞在することになり、そこで清顕(=勲)がタイの「月光姫=ジン・ジャン」に転生したことを知る。ジン・ジャンの父・パッタナディットは、青年時代、日本の学習院に留学中、松枝家に一時期寄宿したこともあり、清顕・本多と親交があったことが第一巻(『春の雪』)にある。本多はジン・ジャンに謁見の機会を得、そのとき、ジン・ジャンが清顕と勲の二人の記憶を併せもっていることに驚くが、ジン・ジャンの体に転生の印(3つの黒子)が認められないことに苛立つ。本多はタイに滞在中、足を伸ばしてインドのヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナラシー)を訪れ、深い感動を覚える。
ところで筆者は、このインドの聖地の描写の箇所に違和を覚えた。なぜなら、三島由紀夫は一貫して、日本の宗教(古神道)の佇まい(=簡素さ)と古代天皇制が生み出した「雅」を賞賛していたからだ。それらと比較するならば、ベナレスというヒンドゥー教の巨大な宗教装置で展開される情景はそれらと対極的だ。私は3年前の冬、ベナレスを訪れ、本多(=三島由紀夫)と同じようにボートに乗ってガンジス川を漂った。船着場までは、喧騒のベナレス市街からリクシャで10分ほど。ボートに乗り、ガンジス川を行き来する。船着場から数分のところに火葬場があり、ボートから火葬を見る。あたりは火葬用木材が集積され、川の色は黒く無音にちかい。寂寥というよりは、一切が遮断された異界のようだが、そこはあまりにも無造作、表現は悪いが、無人のゴミ焼却場のような佇まいだ。ヒンドゥー教の死の観念は、日本人のそれとは異なる。ベナレスでは死によって人が無に帰すはずでありながら、混沌としている。
ベナレスから日本に戻った本多(三島由紀夫)は、古今東西の宗教の成り立ちを調べ、大乗仏教の輪廻転生の妥当性に行き着く。三島が展開する仏教論は、私の理解を超えているのでここでは省略する。
時代は下って日本中が米軍の爆撃で焦土と化した1944年、本多は東京・渋谷の松枝邸跡地近くで、かつて綾倉公爵家で聡子に仕えていた蓼科に遭遇する。本多は戦時下の困窮にあえぐ蓼科を見て、たまたま土産にもらった卵を与える。蓼科は80歳を超える老女だったが、本多のことを覚えていて、聡子の近況を伝えると共に、古い仏典を「お守り」だといって、本多に与える。ここで本書の第一部が終わる。
第二部は、戦後、昭和27年に始まる。第一部と第二部はまったく異なる小説といっていい。戦中から戦後、つまり、第二部では、本多が国の土地収用に係る法律の抜け道を潜り抜け、巨大な財を築き上げた成功者で、しかも、覗き趣味をもつ初老の男として登場する。本多が成人したジン・ジャンに寄せる恋心は、ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のグスタフ老人が美少年タジオを思う心に似ている。本多を取り巻く登場人物もみな、隠微な性倒錯者ばかり。
本多は財の一部で富士山麓の御殿場に別荘地を買い、隣の別荘オーナー・慶子と親しくなる。慶子は政界・財界及び米国(占領軍)にまでコネクションをもつ謎の女性。本多は戦後没落した洞院宮が開業した骨董品店でエメラルドの指輪を購入している。その指輪はパッタナディットが学習院に留学したときに無くしたものだった。本多はその指輪を娘ジン・ジャンに返そうと考える。本多は一計を案じ、別荘の新築記念パーティーを開き、日本を訪れているジン・ジャンを招く。本多は書斎の本棚にのぞき穴をつくり、その部屋の隣にジン・ジャンを泊めてのぞくことを企む。のぞき穴からみたジン・ジャンの体にはまちがいなく、清顕・勲とおなじ印があった。
このパーティーには、本多夫妻がホストを務め、慶子がヘルプを勤める一方、かつて勲の決起を密告した鬼頭中将の娘・槙子(有名な歌人となっている)とその弟子の椿原夫人、性倒錯傾向をもつ知識人・今西らを招待客として呼ぶ。このパーティーの招待者たち、本多、ジン・ジャン、慶子らの性的関係と屈折した恋愛感情が以降、延々と展開されていく。
本多は書斎のぞき穴から、椿原夫人と今西が肉体関係を結んだこと、本多が恋したジン・ジャンがレズで慶子と関係していることなどを知る。ことほどさように、『暁の寺』は、かなりドロドロした男女関係がこれでもかというくらい、書き込まれたている。
結末は昭和27年、本多の別荘の全焼で訪れる。本多は、御殿場の別荘地で日本初のプールをつくったことを記念するパーティーを開き、ジン・ジャン、今西と椿原夫人、慶子らを招待する。その夜、宿泊した今西と椿原夫人の部屋から出火し二人は焼死、もちろん、本多の別荘も焼け落ちる。この火事をもって本多の人間関係は清算される。そして、昭和42年、ジン・ジャンの双子の姉妹が日本を訪れたとき、本多はジン・ジャンがタイでコプラに咬まれて死んだことを聞く。
2006年4月25日火曜日
『奔馬 豊饒の海2』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●660円(税別)
物語は清顕の死から18年後(昭和7年)に始まる。昭和7年には「5.15事件」が起きている。この時期の社会状況としては、農村部は凶作続きで疲弊、都市労働者は大量失業と、混乱した。一方、財閥、政治家、官僚、軍部は癒着し利権に走り、人心は荒廃した。そのため、社会正義の実現と、天皇制原始共同社会建設を標榜する超国家主義者が直接行動に走り始めた。彼らの一部は実業家・政治家等を対象に、「一人一殺」のテロを実行した。「5.15事件」はこうした潮流の中で起きたものだ。
さて、亡くなった松枝清顕(第一巻『春の雪』の主人公)の親友だった本多は、大学卒業後、裁判官として大阪に赴任し所帯をもつ。本多は奈良の大神神社で行われた奉納剣道大会の主賓として招かれることになる。彼は大会で優勝した青年が松枝家で清顕に仕えていた書生・飯沼芝行の長男・勲であることを知る。勲の父=飯沼芝行は松枝家の書生時代、下女との密通により同家から放逐されたことは、第一巻に描かれていた。飯沼芝行は故郷鹿児島に戻り、その後、右翼結社・献靖塾の塾長となっていた。その息子・勲は國學院大學に通う学生で剣道の達人、熊本の神風連の乱を理想とする皇国青年だ。本多は、神社の境内の滝で身を清める勲の体を見る。勲の体にある印(3つの黒子)は、清顕の印と位置・数とも寸分違うところがない。本多は、勲が清顕の生まれ変わりであることを確信する。
『豊饒の海(全四巻)』は、『浜松中納言物語』を下敷きにした輪廻転生の物語。三島自身、そのことを第一巻末に注釈している。輪廻転生は仏教の教義だが、日本古来の宗教(神道)にも古い神が死んだ後、新しい神として生まれ変わる信仰が認められる。死と再生は、農耕民族が穀物のサイクル(種子-発芽-成長-結実-枯死・・・)から導き出した宗教概念だという説がある。穀物のサイクルに倣って、人々は尊き者(神)の死と再生(復活)を信じようとしたのだろうか。
本書では『神風連史話』(山尾綱紀著)という書物が物語の展開の上で、重要な役割を果たしているのだが、同書は三島由紀夫が創作した架空の書物。熊本を舞台にした「神風連の乱」(史実)と、創作である『神風連史話』の記述が一致するかどうかを判定する能力は筆者にはない。そこで、熊本県のホームページにある神風連に関する記載と『神風連史話』とを比較してみる。熊本県のHPには次のように記されている。
比較の限りでは、(三島が創作した)『神風連史話』は史実とは、大筋で違っていない。ただ、『神風連史話』では、神風連が剣(日本刀)を信奉・偏愛したことが強調されている。挙兵では彼らが神聖視する日本刀、槍等のみの武装にて熊本鎮台を襲撃したものの、銃器等の近代装備で武装した維新政府軍に逆に鎮圧されてしまう。剣は武士の魂であり、かつ、皇国思想における「三種の神器」の1つ。勲が剣道の達人に設定されており、剣は勲が信ずる皇国思想の象徴となっている。
「神風連」に心酔し要人暗殺による「世直し」を決意した勲は、陸軍中尉・掘と出会う。勲が中尉に『神風連史話』をすすめたことが縁となり、中尉と勲は固い信頼関係で結ばれる。中尉は陸軍に従軍する武闘派の皇族・洞院宮に勲を紹介する。洞院宮こそ、第一巻で聡子と勅許により結ばれるはずの相手だ。洞院宮は聡子と清顕の関係を知るよしもないのだが、清顕と聡子は、洞院宮の存在によって引き裂かれたことは事実。洞院宮は、勲の父・飯沼芝行が仕えた清顕を死に追いやった張本人。もちろん、勲がそんなことを知るはずもない。勲は直参のおりに、『神風連史話』を洞院宮に献上する。勲は宮に自分が信じる皇国思想を開陳する。宮は勲の熱情に強い衝撃を受ける。
勲は『神風連史話』を教本にして、決起のため20名の同志を集める。彼らは勲が説く要人暗殺計画に賛同し神前に実行を誓う。勲らは、献靖塾を支援してきた鬼頭中将の娘・槙子から資金的協力を得て、計画は順調に進むかに思われる。この間、勲、槙子は相思相愛であったのだが、それを互いに伝えることはできていない。
勲の計画は、財界人暗殺、東京銀行及び変電所の襲撃、戦闘機を使ったアジビラ撒布、を骨子としていた。ところが、決行直前、掘中尉が満州配属で決行から脱落。と同時に、軍関係の協力(戦闘機の使用)が得られないこととなる。軍の非協力を知ったことで、数人の仲間が脱落し、決行は危ぶまれたのだが、献靖塾の古手の塾生・佐和が急遽決起に参画することとなり、佐和のすすめで、財界人暗殺に計画を縮小する。計画の実効性が高まったことにより、同志の団結は再び回復する。勲は決起を前にして、槙子に実行日を打ち明ける。そして二人は互いの愛を確認する。決起の最終打ち合わせのため、佐和を除く全員がアジトに集まったところ、刑事が踏み込んでくる。勲らは全員逮捕され獄に入れられる。
勲の父・飯沼芝行は勲逮捕を本多に知らせる。知らせを聞いた本多は裁判官の職を辞し弁護士となり、勲の弁護を買って出る。本多には勲が清顕の生まれ変わりだという確信がある。彼が勲を助けることは、すなわち清顕を助けることにほかならない。弁護士となった本多は洞院宮を通じて、勲が国家反逆罪となる証拠文書の隠滅に成功する。裁判では槙子の偽証などもあり、勲は重罪を免れ保釈となる。
勲が釈放された日、勲の父(飯沼芝行)は、官憲に密告したのは自分だったことを、また、献靖塾の運営が、勲らが腐敗の根源だとして暗殺リストに掲げた財界人・蔵原武介の間接的献金により運営されていることを告げる。勲はまた、勲の父に決行の日を教えたのが槙子だったことを知る。勲は自分の純粋な思想と行動が「不純な」大人たちの現実主義により弄ばれていることに怒り、新たな直接行動敢行の決意を固める。蔵原武介の暗殺だ。彼は一人、蔵原の別荘に潜入し彼を刺し殺す。そして、自分も割腹自殺を図る。
本書の印象を書きとめておこう。
主人公・飯沼勲の思想と行動は、三島由紀夫が、「楯の会」を結成し、自衛隊市谷駐屯地に突入後、自決に至る事件(1973年)を連想させる。本書に描かれた勲の行動は、三島自身の自決とオーバーラップする。
本書には、三島が抱く思想が余すところなく描き出されている。三島の思想のエッセンスは、▽日本人の共同性の中心となる原始天皇信仰、▽知行統一としての陽明学、▽輪廻転生を保証する仏教、▽『葉隠』に代表される武士道――に要約されると思う。
三島は、日本人のエートスである上記4点を渾然一体化した宗教を始めようとしたに違いない。三島独自の自死の思想を展開する。恐ろしいことに、それらはいまなお日本人の思考・行動を律している。たとえば、年間3万人を超える自殺者の存在や、経済事件の中心となる人物の自殺の頻発、自死と等価と思われる殺人事件の頻発などが挙げられると思う。日本人にとって、自死は必ずしも避けるべき手段ではないばかりか、かなり身近なそれである。
もう1つは、人が思想に殉ずる純粋性(絶対性)と、実生活との妥協(相対性)の問題だ。三島は本書を通じて、イデオロギー及び信仰の実践に係る原理的問題提起をしている。人は信ずるところを実践しなければいけない。そのためには死を厭わない。それができないまま、実生活と折り合いをつけるのであれば、真の思想的実践者ではない。三島のこの論に従えば、この世は夥しい殉教者の死体で埋まるか、あるいは、思想的対立とともに開始された戦闘による多くの戦死者に取り囲まれるだろう。思想(理想)とは、生活において、なんであるのか・・・本書の問いかけはここに帰すると思う。
物語は清顕の死から18年後(昭和7年)に始まる。昭和7年には「5.15事件」が起きている。この時期の社会状況としては、農村部は凶作続きで疲弊、都市労働者は大量失業と、混乱した。一方、財閥、政治家、官僚、軍部は癒着し利権に走り、人心は荒廃した。そのため、社会正義の実現と、天皇制原始共同社会建設を標榜する超国家主義者が直接行動に走り始めた。彼らの一部は実業家・政治家等を対象に、「一人一殺」のテロを実行した。「5.15事件」はこうした潮流の中で起きたものだ。
さて、亡くなった松枝清顕(第一巻『春の雪』の主人公)の親友だった本多は、大学卒業後、裁判官として大阪に赴任し所帯をもつ。本多は奈良の大神神社で行われた奉納剣道大会の主賓として招かれることになる。彼は大会で優勝した青年が松枝家で清顕に仕えていた書生・飯沼芝行の長男・勲であることを知る。勲の父=飯沼芝行は松枝家の書生時代、下女との密通により同家から放逐されたことは、第一巻に描かれていた。飯沼芝行は故郷鹿児島に戻り、その後、右翼結社・献靖塾の塾長となっていた。その息子・勲は國學院大學に通う学生で剣道の達人、熊本の神風連の乱を理想とする皇国青年だ。本多は、神社の境内の滝で身を清める勲の体を見る。勲の体にある印(3つの黒子)は、清顕の印と位置・数とも寸分違うところがない。本多は、勲が清顕の生まれ変わりであることを確信する。
『豊饒の海(全四巻)』は、『浜松中納言物語』を下敷きにした輪廻転生の物語。三島自身、そのことを第一巻末に注釈している。輪廻転生は仏教の教義だが、日本古来の宗教(神道)にも古い神が死んだ後、新しい神として生まれ変わる信仰が認められる。死と再生は、農耕民族が穀物のサイクル(種子-発芽-成長-結実-枯死・・・)から導き出した宗教概念だという説がある。穀物のサイクルに倣って、人々は尊き者(神)の死と再生(復活)を信じようとしたのだろうか。
本書では『神風連史話』(山尾綱紀著)という書物が物語の展開の上で、重要な役割を果たしているのだが、同書は三島由紀夫が創作した架空の書物。熊本を舞台にした「神風連の乱」(史実)と、創作である『神風連史話』の記述が一致するかどうかを判定する能力は筆者にはない。そこで、熊本県のホームページにある神風連に関する記載と『神風連史話』とを比較してみる。熊本県のHPには次のように記されている。
神風連は城内千葉城にあった林桜園の私塾「原道館」の門下生でつくる「敬神党」の別名。神風連は神道を重んじる復古主義、攘夷主義の思想団体でした。明治9年(1876年)3月の「帯刀禁止令」の太政官布告、同6月の熊本県布達「散髪令」に憤激し新開大神宮に「うけい」を立て、挙兵を認める宣示が下ったとして、熊本鎮台を攻めた旧士族の反乱です。同年10月24日夜、太田黒伴雄や加屋霽堅らに率いられた神風連170人余りは、熊本城内の藤崎八旛宮に集合し、鎮台司令長官種田政明や県令安岡良亮らを襲撃して、多くの官憲を殺傷しました。また、別の隊は二の丸の兵営を襲い、これを全焼させ鎮台側を大混乱に陥れましたが、与倉知実歩兵第13連隊長が、要人襲撃の難を逃れ戦場に現れると、鎮台兵は落ち着きを取り戻し反撃を始めました。かたや神風連は太田黒や加屋等が戦死して、指揮系統が乱れ、25日早朝には敗走。最終的には戦死28人、自刃86人を出して惨敗。残った者もほとんどが捕らえられました。この乱はあらかじめ各地の同士に伝えられており、10月27日には秋月の乱、同28日には萩の乱が勃発しました。
比較の限りでは、(三島が創作した)『神風連史話』は史実とは、大筋で違っていない。ただ、『神風連史話』では、神風連が剣(日本刀)を信奉・偏愛したことが強調されている。挙兵では彼らが神聖視する日本刀、槍等のみの武装にて熊本鎮台を襲撃したものの、銃器等の近代装備で武装した維新政府軍に逆に鎮圧されてしまう。剣は武士の魂であり、かつ、皇国思想における「三種の神器」の1つ。勲が剣道の達人に設定されており、剣は勲が信ずる皇国思想の象徴となっている。
「神風連」に心酔し要人暗殺による「世直し」を決意した勲は、陸軍中尉・掘と出会う。勲が中尉に『神風連史話』をすすめたことが縁となり、中尉と勲は固い信頼関係で結ばれる。中尉は陸軍に従軍する武闘派の皇族・洞院宮に勲を紹介する。洞院宮こそ、第一巻で聡子と勅許により結ばれるはずの相手だ。洞院宮は聡子と清顕の関係を知るよしもないのだが、清顕と聡子は、洞院宮の存在によって引き裂かれたことは事実。洞院宮は、勲の父・飯沼芝行が仕えた清顕を死に追いやった張本人。もちろん、勲がそんなことを知るはずもない。勲は直参のおりに、『神風連史話』を洞院宮に献上する。勲は宮に自分が信じる皇国思想を開陳する。宮は勲の熱情に強い衝撃を受ける。
勲は『神風連史話』を教本にして、決起のため20名の同志を集める。彼らは勲が説く要人暗殺計画に賛同し神前に実行を誓う。勲らは、献靖塾を支援してきた鬼頭中将の娘・槙子から資金的協力を得て、計画は順調に進むかに思われる。この間、勲、槙子は相思相愛であったのだが、それを互いに伝えることはできていない。
勲の計画は、財界人暗殺、東京銀行及び変電所の襲撃、戦闘機を使ったアジビラ撒布、を骨子としていた。ところが、決行直前、掘中尉が満州配属で決行から脱落。と同時に、軍関係の協力(戦闘機の使用)が得られないこととなる。軍の非協力を知ったことで、数人の仲間が脱落し、決行は危ぶまれたのだが、献靖塾の古手の塾生・佐和が急遽決起に参画することとなり、佐和のすすめで、財界人暗殺に計画を縮小する。計画の実効性が高まったことにより、同志の団結は再び回復する。勲は決起を前にして、槙子に実行日を打ち明ける。そして二人は互いの愛を確認する。決起の最終打ち合わせのため、佐和を除く全員がアジトに集まったところ、刑事が踏み込んでくる。勲らは全員逮捕され獄に入れられる。
勲の父・飯沼芝行は勲逮捕を本多に知らせる。知らせを聞いた本多は裁判官の職を辞し弁護士となり、勲の弁護を買って出る。本多には勲が清顕の生まれ変わりだという確信がある。彼が勲を助けることは、すなわち清顕を助けることにほかならない。弁護士となった本多は洞院宮を通じて、勲が国家反逆罪となる証拠文書の隠滅に成功する。裁判では槙子の偽証などもあり、勲は重罪を免れ保釈となる。
勲が釈放された日、勲の父(飯沼芝行)は、官憲に密告したのは自分だったことを、また、献靖塾の運営が、勲らが腐敗の根源だとして暗殺リストに掲げた財界人・蔵原武介の間接的献金により運営されていることを告げる。勲はまた、勲の父に決行の日を教えたのが槙子だったことを知る。勲は自分の純粋な思想と行動が「不純な」大人たちの現実主義により弄ばれていることに怒り、新たな直接行動敢行の決意を固める。蔵原武介の暗殺だ。彼は一人、蔵原の別荘に潜入し彼を刺し殺す。そして、自分も割腹自殺を図る。
本書の印象を書きとめておこう。
主人公・飯沼勲の思想と行動は、三島由紀夫が、「楯の会」を結成し、自衛隊市谷駐屯地に突入後、自決に至る事件(1973年)を連想させる。本書に描かれた勲の行動は、三島自身の自決とオーバーラップする。
本書には、三島が抱く思想が余すところなく描き出されている。三島の思想のエッセンスは、▽日本人の共同性の中心となる原始天皇信仰、▽知行統一としての陽明学、▽輪廻転生を保証する仏教、▽『葉隠』に代表される武士道――に要約されると思う。
三島は、日本人のエートスである上記4点を渾然一体化した宗教を始めようとしたに違いない。三島独自の自死の思想を展開する。恐ろしいことに、それらはいまなお日本人の思考・行動を律している。たとえば、年間3万人を超える自殺者の存在や、経済事件の中心となる人物の自殺の頻発、自死と等価と思われる殺人事件の頻発などが挙げられると思う。日本人にとって、自死は必ずしも避けるべき手段ではないばかりか、かなり身近なそれである。
もう1つは、人が思想に殉ずる純粋性(絶対性)と、実生活との妥協(相対性)の問題だ。三島は本書を通じて、イデオロギー及び信仰の実践に係る原理的問題提起をしている。人は信ずるところを実践しなければいけない。そのためには死を厭わない。それができないまま、実生活と折り合いをつけるのであれば、真の思想的実践者ではない。三島のこの論に従えば、この世は夥しい殉教者の死体で埋まるか、あるいは、思想的対立とともに開始された戦闘による多くの戦死者に取り囲まれるだろう。思想(理想)とは、生活において、なんであるのか・・・本書の問いかけはここに帰すると思う。
2006年4月13日木曜日
『春の雪 豊饒の海1』
●三島由紀夫〔著〕 ●新潮社 ●629円(税込)
本書は、三島由紀夫の遺作と言われる「豊饒の海(四部作)」の第一巻。大正期の華族(松枝公爵一家とその周辺)を舞台にした青春恋愛小説という体裁をとっている。松枝家は江戸時代、薩摩藩の下級武士だったが、維新革命の功績により公爵に準ぜられた。東京・渋谷に14万坪の大邸宅を構えるほどの権勢を誇っている。主人公松枝清顕は、学習院高等科に通う美貌の長男という設定だ。
清顕は明治の武断的気風から外れ、学生生活においてもおよそ空疎な感覚に支配された美青年。たった一人の親友・本多との交際しか外部との人間関係はなく、学業、実業、教養、芸術、政治といった上昇志向にはまったく興味を示さない。頽廃が滲む貴族のニヒルな美青年を主人公にしたところは、ドストエフスキーの作品を彷彿とさせる。本多は本書では清顕の親友の位置にとどまるが、『豊饒の海(四部作)』を通じた生き証人という重要な役割を担っている。
本書の粗筋をおさえておこう。18才の清顕は幼馴染の聡子(松枝家に隷属する綾倉伯爵の令嬢で、清顕と結ばれることを望んでいる)と淡い恋に落ちる。綾倉家は公卿の家柄だが、経済的に松枝家の庇護下にある。その聡子に宮家から縁組の話が舞い込む。松枝家及び綾倉家は宮家との縁組を歓迎し積極的に縁談を進めようとするが、清顕が聡子に特別な感情をもっている可能性を懸念して、縁組を決める前に清顕の意思を確認する。両親から聡子への感情を問われた清顕は、聡子への関心を否定する。松枝家・綾倉家は、清顕の意思を確認したうえで、聡子の宮家への輿入れを正式に受諾する。しばらくして、聡子と宮家の縁組に勅許が出た途端、清顕は聡子への愛を確信し、聡子を失うことに耐えられなくなり、聡子に愛を打ち明ける。聡子も清顕との愛に全身全霊を賭けることを選ぶ。
二人は禁断の恋に落ち密会を重ね、聡子に清顕の子が宿る。聡子の妊娠を知った松枝、綾倉両家は聡子に堕胎を強要し宮家との縁組を強引に進めようとするが、聡子は術後の静養先である京都の山寺で出家する。聡子の出家を知り困りはてた両家は聡子を精神病に仕立て上げ、宮家に破談を申し出、宮家もそれを受け入れる。監視状態の清顕は、親友本多の助けを借りて、聡子との再会を求めて京都へ向かう。清顕は聡子が滞在する山寺を何度も何度も訪問するが面会を拒絶され、ついには体力を消耗し肺炎を患う。病魔に取り付かれながら山寺を訪れる清顕だが、聡子との再会は適わない。ついに病床に臥した清顕は、電報を打ち親友の本多に助けを求める。本多は清顕を助けるため京都に出向き、聡子への面会を嘆願するが寺に拒絶される。本多は病気の清顕を伴い東京に戻るも2日後、清顕は20歳で命を落とす。
以上がメーン・ストーリーだが、松枝家を訪れたシャムの王子の話、松枝家の書生(下女と密通)の話、聡子のおつきの女と聡子の父・綾倉伯爵との密通の話等のサイドストーリーが、現在形、過去形で挿入されている。加えて、登場人物の口を借りた形式で、三島由紀夫の法学、仏教解釈などが教養主義的に散りばめられている。
この小説を読む上での基本的知識として、明治期に定められた華族制度を簡単に復習しておこう。華族制度は旧憲法下、皇族の下、士族の上に置かれ貴族として遇せられた特権的身分のことだ。1869年(明治2)旧公卿・大名の称としたのに始まり(旧華族)、84年の華族令により、公・侯・伯・子・男の爵位が授けられ、国家に貢献した政治家・軍人・官吏などにも適用されるに至った。1947年(昭和22)新憲法施行により廃止。
同じ華族でありながら、公卿出自と、政治家、大名、軍人、官吏を出自とする華族があった。本書の松枝公爵は華族の最高位に位置し、綾倉伯爵はそれより下位に位置するが、前者は武家、後者は公卿の出自になっている。綾倉家が公卿として皇室(雅)につながっている一方、松枝家には成り上がり(粗野)のイメージが付与されている。三島由紀夫は、華族制度の二極構造の一方(公卿)を肯定し、一方(武家)を否定する。大正期、宮家に通じる公卿系華族が新興の薩長藩閥勢力に凌駕された実態に、三島が大きな反発を覚えていることがうかがえる。
四部作を読了前なので、本書の印象を記すに留める。極めてグロテスクな小説だと思うものの、エンターテインメントとしてのレベルは高い。三島由紀夫は大正期の華族をサンプリングして、当時の日本社会に潜む、至上的、理想的、純なるもの――と、虚飾的、現実的、不純なるもの――とをつきつめる。明治維新が描いた国家像は、政治的には薩長連合政権による、天皇制国家として構想されながら、その実は薩長の武士的志向、外来志向、経済至上主義=不純なるものを取り込んだ連合体だった。明治から大正にかけて完成した日本帝国は、天皇制度を標榜としながらも、三島由紀夫が理想とする古代天皇制度、すなわち文化としての天皇中心国家ではなかったというわけだ。
清顕の内面はどうなのか。彼はその不純なるものを出自とすることで聡子を媒介にして、対極の純なるもの=絶対性に対峙してしまう。絶対性により喪失に直面することにより、自己の中に絶対的な愛を発見する。きわめてアイロニカルな設定だ。そして、己の絶対性を貫徹することで敗北する。この行動原理が革命的敗北主義だ。革命的敗北主義がもたらすものは死であり滅びである。清顕のアイロニーは天皇制度(勅許)の絶対性だった。清顕は勅許による喪失という「絶対性」により、生まれ変わった。だから、その生まれかわりが(宗教的に)担保されることが必要だ。ここで輪廻転生というテーマが示唆される。 -->
本書は、三島由紀夫の遺作と言われる「豊饒の海(四部作)」の第一巻。大正期の華族(松枝公爵一家とその周辺)を舞台にした青春恋愛小説という体裁をとっている。松枝家は江戸時代、薩摩藩の下級武士だったが、維新革命の功績により公爵に準ぜられた。東京・渋谷に14万坪の大邸宅を構えるほどの権勢を誇っている。主人公松枝清顕は、学習院高等科に通う美貌の長男という設定だ。
清顕は明治の武断的気風から外れ、学生生活においてもおよそ空疎な感覚に支配された美青年。たった一人の親友・本多との交際しか外部との人間関係はなく、学業、実業、教養、芸術、政治といった上昇志向にはまったく興味を示さない。頽廃が滲む貴族のニヒルな美青年を主人公にしたところは、ドストエフスキーの作品を彷彿とさせる。本多は本書では清顕の親友の位置にとどまるが、『豊饒の海(四部作)』を通じた生き証人という重要な役割を担っている。
本書の粗筋をおさえておこう。18才の清顕は幼馴染の聡子(松枝家に隷属する綾倉伯爵の令嬢で、清顕と結ばれることを望んでいる)と淡い恋に落ちる。綾倉家は公卿の家柄だが、経済的に松枝家の庇護下にある。その聡子に宮家から縁組の話が舞い込む。松枝家及び綾倉家は宮家との縁組を歓迎し積極的に縁談を進めようとするが、清顕が聡子に特別な感情をもっている可能性を懸念して、縁組を決める前に清顕の意思を確認する。両親から聡子への感情を問われた清顕は、聡子への関心を否定する。松枝家・綾倉家は、清顕の意思を確認したうえで、聡子の宮家への輿入れを正式に受諾する。しばらくして、聡子と宮家の縁組に勅許が出た途端、清顕は聡子への愛を確信し、聡子を失うことに耐えられなくなり、聡子に愛を打ち明ける。聡子も清顕との愛に全身全霊を賭けることを選ぶ。
二人は禁断の恋に落ち密会を重ね、聡子に清顕の子が宿る。聡子の妊娠を知った松枝、綾倉両家は聡子に堕胎を強要し宮家との縁組を強引に進めようとするが、聡子は術後の静養先である京都の山寺で出家する。聡子の出家を知り困りはてた両家は聡子を精神病に仕立て上げ、宮家に破談を申し出、宮家もそれを受け入れる。監視状態の清顕は、親友本多の助けを借りて、聡子との再会を求めて京都へ向かう。清顕は聡子が滞在する山寺を何度も何度も訪問するが面会を拒絶され、ついには体力を消耗し肺炎を患う。病魔に取り付かれながら山寺を訪れる清顕だが、聡子との再会は適わない。ついに病床に臥した清顕は、電報を打ち親友の本多に助けを求める。本多は清顕を助けるため京都に出向き、聡子への面会を嘆願するが寺に拒絶される。本多は病気の清顕を伴い東京に戻るも2日後、清顕は20歳で命を落とす。
以上がメーン・ストーリーだが、松枝家を訪れたシャムの王子の話、松枝家の書生(下女と密通)の話、聡子のおつきの女と聡子の父・綾倉伯爵との密通の話等のサイドストーリーが、現在形、過去形で挿入されている。加えて、登場人物の口を借りた形式で、三島由紀夫の法学、仏教解釈などが教養主義的に散りばめられている。
この小説を読む上での基本的知識として、明治期に定められた華族制度を簡単に復習しておこう。華族制度は旧憲法下、皇族の下、士族の上に置かれ貴族として遇せられた特権的身分のことだ。1869年(明治2)旧公卿・大名の称としたのに始まり(旧華族)、84年の華族令により、公・侯・伯・子・男の爵位が授けられ、国家に貢献した政治家・軍人・官吏などにも適用されるに至った。1947年(昭和22)新憲法施行により廃止。
同じ華族でありながら、公卿出自と、政治家、大名、軍人、官吏を出自とする華族があった。本書の松枝公爵は華族の最高位に位置し、綾倉伯爵はそれより下位に位置するが、前者は武家、後者は公卿の出自になっている。綾倉家が公卿として皇室(雅)につながっている一方、松枝家には成り上がり(粗野)のイメージが付与されている。三島由紀夫は、華族制度の二極構造の一方(公卿)を肯定し、一方(武家)を否定する。大正期、宮家に通じる公卿系華族が新興の薩長藩閥勢力に凌駕された実態に、三島が大きな反発を覚えていることがうかがえる。
四部作を読了前なので、本書の印象を記すに留める。極めてグロテスクな小説だと思うものの、エンターテインメントとしてのレベルは高い。三島由紀夫は大正期の華族をサンプリングして、当時の日本社会に潜む、至上的、理想的、純なるもの――と、虚飾的、現実的、不純なるもの――とをつきつめる。明治維新が描いた国家像は、政治的には薩長連合政権による、天皇制国家として構想されながら、その実は薩長の武士的志向、外来志向、経済至上主義=不純なるものを取り込んだ連合体だった。明治から大正にかけて完成した日本帝国は、天皇制度を標榜としながらも、三島由紀夫が理想とする古代天皇制度、すなわち文化としての天皇中心国家ではなかったというわけだ。
清顕の内面はどうなのか。彼はその不純なるものを出自とすることで聡子を媒介にして、対極の純なるもの=絶対性に対峙してしまう。絶対性により喪失に直面することにより、自己の中に絶対的な愛を発見する。きわめてアイロニカルな設定だ。そして、己の絶対性を貫徹することで敗北する。この行動原理が革命的敗北主義だ。革命的敗北主義がもたらすものは死であり滅びである。清顕のアイロニーは天皇制度(勅許)の絶対性だった。清顕は勅許による喪失という「絶対性」により、生まれ変わった。だから、その生まれかわりが(宗教的に)担保されることが必要だ。ここで輪廻転生というテーマが示唆される。 -->
2006年4月1日土曜日
『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる』
●佐藤幹夫[著] ●PHP新書 ●780円+税
苦手な日本文学について書く。 筆者は村上春樹の小説のほとんどを読んでいる、熱心な“村上ファン”の一人だが、正直いって、本書を読んで驚いた。たとえば、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島の『夏子の冒険』という週刊誌に連載された小説を下敷きにして書かれたものだということを初めて知ったからだ。
また、村上春樹の『ノルウェイの森』の登場人物の一人・小林緑という名前は、なんと三島の『豊饒の海』に登場するジャオ・ピーの恋人・ジンジャン姫のイメージから命名されたものだと。
筆者には著者の指摘の是非を断ずる能力がない。だから、本書を読み進めるたびごとに、“ふぉー”と叫びたくなるほど驚いた。確かに、『羊をめぐる冒険』(村上)にも『夏子の冒険』(三島)にも“冒険”とあるから、村上が三島を下敷きにしたことは確かなことのようだ。著者の指摘は、日本文学を知る人からみれば、驚くに当たらないものなのかもしれないが。
そればかりではない。村上は三島の小説の構造、人物配置、テーマにおいても強い影響を受け、それを発展的に再構築したという。
著者によると、小説家とは自己のイメージを意図的かつ戦略的に創造するものだそうだ。村上春樹の場合、米国に滞在し、米国文学を翻訳し、マスコミを使って、自身がアメリカ的な生活をしているかのようなイメージを与えていて、しかも、雑誌のインタビューで、「自分は、日本文学を読まなかった」と語っているという。
村上の小説に登場するキャラクターそのもの、小道具として使われる音楽、クルマ、ファッション・・・などなど、その小説に設定された衣食住はアメリカ的だ。たとえば、モダンジャズ、ファーストフード、コンビニ(ドラッグストアー)などが小説の舞台であると同時に、記号化されたメッセージになっている。主人公がとる朝食はパン、ハムエッグ、サラダ、コーヒーであり、白いご飯に納豆、味噌汁ではない。村上春樹の文体そのものが「翻訳的」だ。著者によると、村上はあえて日本文学(=三島)の影響を意図的に隠蔽しているのだという。
しかし、どんなに「翻訳的」な日本語であっても、日本語は日本語である。日本がいまから138年前の明治革命以来、欧米文化を積極的に取り入れ、さらに、61年前の大敗戦以来、米国の支配下におかれ米国文化を取り入れてきたにしろ、日本列島に日本人らしき民族が現れ日本語を話し始めてから、何千年のときが経過している。近代日本文学はおそらく、表層の変化と基層の不変の間で揺れてきたに違いない。
本書では三島の『奔馬』と村上の『ダンス・ダンス・ダンス』の類似性の指摘を分析した後、その差異として、『奔馬』には決起行動(革命)、すなわち、腐敗、不正義に対する「闘い」が渇望され、一方の『ダンス・ダンス・ダンス』には高度資本主義社会すなわち無駄で無意味で幻想的なものとの「闘い」の可能性が探られているという。
三島も村上も「闘い」を描きながら、両者には闘いの「相手」、闘いの「質」、闘い「方」に大きな隔たりがあるというわけだ。三島の晩年は政治の季節だった。村上の登場は、学生運動が終息しマルクス主義が後退した時代だった。
さて、著者は、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫、村上春樹を一本の糸でつなぐ可能性を試行している。それが可能かどうかはわからない。可能・不可能というよりも、日本文学が日本語で書かれる以上、近代以降の小説家に基層の共同性を認めることは難しいことではない。村上が三島の小説の影響下で小説を書いた、という指摘も大いにあり得る。
日本の小説は、日本語で書かれる散文形式の1つ。時々の日本の小説には、過去現在の日本人小説家の互いの影響により、成立している。そこに換骨奪胎、本歌取り・・・が意識的にか無意識的にか行われることもあるし、日本の知識人の問題意識が意識的かつ無意識的に共有されることもある。結論は、“だからどうなんだ”ということ。
苦手な日本文学について書く。 筆者は村上春樹の小説のほとんどを読んでいる、熱心な“村上ファン”の一人だが、正直いって、本書を読んで驚いた。たとえば、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島の『夏子の冒険』という週刊誌に連載された小説を下敷きにして書かれたものだということを初めて知ったからだ。
また、村上春樹の『ノルウェイの森』の登場人物の一人・小林緑という名前は、なんと三島の『豊饒の海』に登場するジャオ・ピーの恋人・ジンジャン姫のイメージから命名されたものだと。
筆者には著者の指摘の是非を断ずる能力がない。だから、本書を読み進めるたびごとに、“ふぉー”と叫びたくなるほど驚いた。確かに、『羊をめぐる冒険』(村上)にも『夏子の冒険』(三島)にも“冒険”とあるから、村上が三島を下敷きにしたことは確かなことのようだ。著者の指摘は、日本文学を知る人からみれば、驚くに当たらないものなのかもしれないが。
そればかりではない。村上は三島の小説の構造、人物配置、テーマにおいても強い影響を受け、それを発展的に再構築したという。
著者によると、小説家とは自己のイメージを意図的かつ戦略的に創造するものだそうだ。村上春樹の場合、米国に滞在し、米国文学を翻訳し、マスコミを使って、自身がアメリカ的な生活をしているかのようなイメージを与えていて、しかも、雑誌のインタビューで、「自分は、日本文学を読まなかった」と語っているという。
村上の小説に登場するキャラクターそのもの、小道具として使われる音楽、クルマ、ファッション・・・などなど、その小説に設定された衣食住はアメリカ的だ。たとえば、モダンジャズ、ファーストフード、コンビニ(ドラッグストアー)などが小説の舞台であると同時に、記号化されたメッセージになっている。主人公がとる朝食はパン、ハムエッグ、サラダ、コーヒーであり、白いご飯に納豆、味噌汁ではない。村上春樹の文体そのものが「翻訳的」だ。著者によると、村上はあえて日本文学(=三島)の影響を意図的に隠蔽しているのだという。
しかし、どんなに「翻訳的」な日本語であっても、日本語は日本語である。日本がいまから138年前の明治革命以来、欧米文化を積極的に取り入れ、さらに、61年前の大敗戦以来、米国の支配下におかれ米国文化を取り入れてきたにしろ、日本列島に日本人らしき民族が現れ日本語を話し始めてから、何千年のときが経過している。近代日本文学はおそらく、表層の変化と基層の不変の間で揺れてきたに違いない。
本書では三島の『奔馬』と村上の『ダンス・ダンス・ダンス』の類似性の指摘を分析した後、その差異として、『奔馬』には決起行動(革命)、すなわち、腐敗、不正義に対する「闘い」が渇望され、一方の『ダンス・ダンス・ダンス』には高度資本主義社会すなわち無駄で無意味で幻想的なものとの「闘い」の可能性が探られているという。
三島も村上も「闘い」を描きながら、両者には闘いの「相手」、闘いの「質」、闘い「方」に大きな隔たりがあるというわけだ。三島の晩年は政治の季節だった。村上の登場は、学生運動が終息しマルクス主義が後退した時代だった。
さて、著者は、志賀直哉、太宰治、三島由紀夫、村上春樹を一本の糸でつなぐ可能性を試行している。それが可能かどうかはわからない。可能・不可能というよりも、日本文学が日本語で書かれる以上、近代以降の小説家に基層の共同性を認めることは難しいことではない。村上が三島の小説の影響下で小説を書いた、という指摘も大いにあり得る。
日本の小説は、日本語で書かれる散文形式の1つ。時々の日本の小説には、過去現在の日本人小説家の互いの影響により、成立している。そこに換骨奪胎、本歌取り・・・が意識的にか無意識的にか行われることもあるし、日本の知識人の問題意識が意識的かつ無意識的に共有されることもある。結論は、“だからどうなんだ”ということ。
2006年3月21日火曜日
『スペイン巡礼史』
●関哲行〔著〕 ●講談社現代新書 ●740円(+税)
スペイン巡礼といえば、その終着点はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。中世(9世紀)、この地に聖ヤコブの遺骨が「発見」され、キリスト教の聖地の1つとなったといわれている。
私は2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、巡礼路に沿ってロマネスク美術(教会・聖堂等)を見るバスツアーに参加した。そんなこともあって、本書を購入した次第。
そのときの私のツアー参加の目的は、後述するが、ロマネスク美術におけるケルトの影響の「確認」が主眼だった。そのため、巡礼の知識を準備しなかった。もし、本書がそのとき手元にあったならば、私のツアー参加はもっと深みのあるものになったに違いない。本書はサンティアゴ巡礼の解説書として最も的確な書の1つだといって過言でない。
本書は、サンティアゴ巡礼に係る歴史的、政治的、経済的、宗教的、社会的な分析だ。そのすべてが興味深いのだが、私を含む人々の最大の関心は、サンティアゴ・デ・コンポステーラがなぜ、聖地となったのかということではないか。
サンティアゴとは聖ヤコブのこと。ヤコブはキリストの使徒の一人だ。彼らが活躍した地はオリエントだから、ヤコブの遺骨がスペイン北西で「発見」されたというのは、いくらなんでも無理がある――というのがわれわれ日本人の感覚だ。(日本にも、「義経=ジンギスカン説」というのがあるから、スペインのことを笑えないけれど)
さて、スペインは、古代地中海世界からも、中世西欧世界からも辺境に位置する。とりわけ、聖ヤコブの遺骨が「発見」された9世紀のスペインは、その領土のほとんどをイスラム勢力に制圧されていた。北部に封じ込まれたキリスト教圏においては、聖ヤコブの遺骨が「発見」されなければならない政治的条件が存在した。レコンキスタ(国土回復)における対イスラム戦争の英雄として、聖ヤコブがクローズアップされたりした。キリスト教の聖地がキリスト教圏のスペインになければならなかったのだ。
私は聖地の政治的側面にあまり興味がない。サンティアゴ・デ・コンポステーラが聖地となるには、政治的解析だけでは説明しきれないと思うからだ。本書はそのあたりを、シンクレティシズムによって説明する。シンクレティシズムとは習合という意味だ。新しい宗教を布教するためには、もともとあった宗教の神話、教義、神像、秘蹟等を借用する場合がある。日本の中世には、神仏習合が進んだ。
本書によると、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラは、スペインに先住したケルト民族が信仰していた原始宗教の聖地に由来するという。サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペインのガリシア地方に位置し、ガリシアはいまなお、スパニッシュ・ケルトの文化的遺産が息づくところ。ドルメン等のケルトの原始宗教の遺跡等が残っているという。
ケルト信仰と習合した異端キリスト教布教運動は、4世紀、アビラ司教・ビレスキリアーヌスによって担われた。ビレスキリアーヌスは、キリスト教と、この地方に伝わるケルトの自然宗教を習合させ、多くの信者を獲得した。ところが、ローマ皇帝によって、異端キリスト教を布教したかどで、4世紀末に処刑されてしまう。しかし、以降、彼は当地の民衆から聖者として信仰の対象となった。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ビレスキリアーヌスの墓所でもあるという。
私がヨーロッパ先住民であるケルト民族とロマネスク美術の関係に関心があったことは冒頭に記したとおりであり、私がロマネスク美術のツアーに参加した理由も、ロマネスク美術におけるケルトの影響を「確認」することだった。本書には(私の最大の関心である)ケルト民族と聖地サンティアゴの関係はほんの数ページしか触れられていないけれど、それでも教えられるところが多い。
そればかりではない。本書には中世における巡礼(者)の実態、巡礼と都市学、施療院の役割など興味深い記述に溢れている。サンティアゴ巡礼を総合的に知るには、本書が必読の解説書の1つであることは間違いないところ。是非の一読をお奨めする。
スペイン巡礼といえば、その終着点はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。中世(9世紀)、この地に聖ヤコブの遺骨が「発見」され、キリスト教の聖地の1つとなったといわれている。
私は2003年の夏、フランスのパリからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで、巡礼路に沿ってロマネスク美術(教会・聖堂等)を見るバスツアーに参加した。そんなこともあって、本書を購入した次第。
そのときの私のツアー参加の目的は、後述するが、ロマネスク美術におけるケルトの影響の「確認」が主眼だった。そのため、巡礼の知識を準備しなかった。もし、本書がそのとき手元にあったならば、私のツアー参加はもっと深みのあるものになったに違いない。本書はサンティアゴ巡礼の解説書として最も的確な書の1つだといって過言でない。
本書は、サンティアゴ巡礼に係る歴史的、政治的、経済的、宗教的、社会的な分析だ。そのすべてが興味深いのだが、私を含む人々の最大の関心は、サンティアゴ・デ・コンポステーラがなぜ、聖地となったのかということではないか。
サンティアゴとは聖ヤコブのこと。ヤコブはキリストの使徒の一人だ。彼らが活躍した地はオリエントだから、ヤコブの遺骨がスペイン北西で「発見」されたというのは、いくらなんでも無理がある――というのがわれわれ日本人の感覚だ。(日本にも、「義経=ジンギスカン説」というのがあるから、スペインのことを笑えないけれど)
さて、スペインは、古代地中海世界からも、中世西欧世界からも辺境に位置する。とりわけ、聖ヤコブの遺骨が「発見」された9世紀のスペインは、その領土のほとんどをイスラム勢力に制圧されていた。北部に封じ込まれたキリスト教圏においては、聖ヤコブの遺骨が「発見」されなければならない政治的条件が存在した。レコンキスタ(国土回復)における対イスラム戦争の英雄として、聖ヤコブがクローズアップされたりした。キリスト教の聖地がキリスト教圏のスペインになければならなかったのだ。
私は聖地の政治的側面にあまり興味がない。サンティアゴ・デ・コンポステーラが聖地となるには、政治的解析だけでは説明しきれないと思うからだ。本書はそのあたりを、シンクレティシズムによって説明する。シンクレティシズムとは習合という意味だ。新しい宗教を布教するためには、もともとあった宗教の神話、教義、神像、秘蹟等を借用する場合がある。日本の中世には、神仏習合が進んだ。
本書によると、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラは、スペインに先住したケルト民族が信仰していた原始宗教の聖地に由来するという。サンティアゴ・デ・コンポステーラはスペインのガリシア地方に位置し、ガリシアはいまなお、スパニッシュ・ケルトの文化的遺産が息づくところ。ドルメン等のケルトの原始宗教の遺跡等が残っているという。
ケルト信仰と習合した異端キリスト教布教運動は、4世紀、アビラ司教・ビレスキリアーヌスによって担われた。ビレスキリアーヌスは、キリスト教と、この地方に伝わるケルトの自然宗教を習合させ、多くの信者を獲得した。ところが、ローマ皇帝によって、異端キリスト教を布教したかどで、4世紀末に処刑されてしまう。しかし、以降、彼は当地の民衆から聖者として信仰の対象となった。サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ビレスキリアーヌスの墓所でもあるという。
私がヨーロッパ先住民であるケルト民族とロマネスク美術の関係に関心があったことは冒頭に記したとおりであり、私がロマネスク美術のツアーに参加した理由も、ロマネスク美術におけるケルトの影響を「確認」することだった。本書には(私の最大の関心である)ケルト民族と聖地サンティアゴの関係はほんの数ページしか触れられていないけれど、それでも教えられるところが多い。
そればかりではない。本書には中世における巡礼(者)の実態、巡礼と都市学、施療院の役割など興味深い記述に溢れている。サンティアゴ巡礼を総合的に知るには、本書が必読の解説書の1つであることは間違いないところ。是非の一読をお奨めする。
2006年2月25日土曜日
『ラングドックの歴史』
●エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ[著] ●白水社 ●951円+税
この地方の最初の定住者については詳らかではないが、中欧起源のケルト民族の支配から始まり、ギリシャ人、イベリア人、ローマ人、ゲルマン人がこの地の支配者となり、今日に至っている。その間、オリエント、エジプト人もこの地を舞台に活躍した。
現在はフランスの一地域だが、古代から中世までは、ローマ教会に同調した北部フランスとは別の民族、言語、文化、宗教を築き、政治経済においても、独立した地位を保っていた。
筆者は“中世のラングドック”に興味を覚えた。その1つが「カタリ派」だ。「カタリ派」とはキリスト教の異端で、この地に勢力を伸ばした。「カタリ派」の教義についてはよく分からない部分も多いのだが、一夫多妻制を堅持していたといわれ、カトリックとはかけ離れた「キリスト教」だったらしい。北部フランスは、ローマ教会と共謀して「アルビジョア十字軍」を組織し、この地に侵攻を企てた。北部フランス=ローマ教会は「カタリ派」を軍事的に制圧・虐殺する。と同時に、同地の地方権力を倒して支配権を確立する。北部フランスの制圧と並行してオック語が後退し、いまのフランス語に近いオイル語が漸次定着していく。
もう1つの私の興味の対象は、この地に花開いた、トルバドゥール(吟遊詩人)の存在だ。吟遊詩人が好んだ素材は、なんと、人妻への思慕――人妻の肉体そのものへの憧憬・恋慕だというから、かなり屈折している。私は現代フランス語も中世オック語も解らないが、吟遊詩人の情念が気にかかった。中世、ラングドックの詩学は、禁欲的なカトリックの土壌からは生まれないものだ。
3つ目の興味はロマネスク美術だ。中世、スペインのガリシア地方に位置するサンチャゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺物が発見された。欧州各地からサンチャゴを目指して巡礼が盛んになると、その経路には、ロマネスク様式の教会、聖堂等が多数建設された。ラングドック地方もその巡礼路に当たり、この地の最大都市トゥールーズにはロマネスクの至宝の1つといわれるサンセルナン寺院が残っている。
さて、こうして見ると、ラングドック文化は豊かで美しいのだが、この地は血塗られた歴史が認められる。「カタリ派」虐殺は前述したとおりだが、中世後期には、この地を舞台に、カトリックとプロテスタントの対立による宗教戦争が繰り広げられたし、18世紀にはフランス革命における王党派と共和派の闘争もあった。
本書はラングドックの通史である。そのため、筆者の興味の中心である中世に限定されたものではない。フランス革命以降、20世紀前半のマルクス主義の台頭と左翼勢力の定着の記述部分もある。ラングドックを知らずして、フランスを語るなかれ・・・といえるのかもしれない。
サンセルナン寺院 トゥールーズ 筆者撮影 |
ラングドックとは現在のフランス南西部を指す名称で、オック語という意味。オック語はラテン語起源の言語だが、現在のフランス語の祖語であるオイル語とは異なる。
この地方の最初の定住者については詳らかではないが、中欧起源のケルト民族の支配から始まり、ギリシャ人、イベリア人、ローマ人、ゲルマン人がこの地の支配者となり、今日に至っている。その間、オリエント、エジプト人もこの地を舞台に活躍した。
現在はフランスの一地域だが、古代から中世までは、ローマ教会に同調した北部フランスとは別の民族、言語、文化、宗教を築き、政治経済においても、独立した地位を保っていた。
筆者は“中世のラングドック”に興味を覚えた。その1つが「カタリ派」だ。「カタリ派」とはキリスト教の異端で、この地に勢力を伸ばした。「カタリ派」の教義についてはよく分からない部分も多いのだが、一夫多妻制を堅持していたといわれ、カトリックとはかけ離れた「キリスト教」だったらしい。北部フランスは、ローマ教会と共謀して「アルビジョア十字軍」を組織し、この地に侵攻を企てた。北部フランス=ローマ教会は「カタリ派」を軍事的に制圧・虐殺する。と同時に、同地の地方権力を倒して支配権を確立する。北部フランスの制圧と並行してオック語が後退し、いまのフランス語に近いオイル語が漸次定着していく。
もう1つの私の興味の対象は、この地に花開いた、トルバドゥール(吟遊詩人)の存在だ。吟遊詩人が好んだ素材は、なんと、人妻への思慕――人妻の肉体そのものへの憧憬・恋慕だというから、かなり屈折している。私は現代フランス語も中世オック語も解らないが、吟遊詩人の情念が気にかかった。中世、ラングドックの詩学は、禁欲的なカトリックの土壌からは生まれないものだ。
3つ目の興味はロマネスク美術だ。中世、スペインのガリシア地方に位置するサンチャゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺物が発見された。欧州各地からサンチャゴを目指して巡礼が盛んになると、その経路には、ロマネスク様式の教会、聖堂等が多数建設された。ラングドック地方もその巡礼路に当たり、この地の最大都市トゥールーズにはロマネスクの至宝の1つといわれるサンセルナン寺院が残っている。
さて、こうして見ると、ラングドック文化は豊かで美しいのだが、この地は血塗られた歴史が認められる。「カタリ派」虐殺は前述したとおりだが、中世後期には、この地を舞台に、カトリックとプロテスタントの対立による宗教戦争が繰り広げられたし、18世紀にはフランス革命における王党派と共和派の闘争もあった。
本書はラングドックの通史である。そのため、筆者の興味の中心である中世に限定されたものではない。フランス革命以降、20世紀前半のマルクス主義の台頭と左翼勢力の定着の記述部分もある。ラングドックを知らずして、フランスを語るなかれ・・・といえるのかもしれない。
2006年2月13日月曜日
『末期ローマ帝国』
●ジャン・レミ・パランク[著] ●白水社(文庫クセジュ) ●951円+税
ローマ帝国を“ラテン”という一つの概念で括ることはできない。ローマはラテンとギリシアの2つの文化圏の合成であった。キリスト教がローマ支配下のパレスチナで成立したことは常識だが、この宗教が西方に伝播する過程で多大な影響を受けたのがギリシア哲学だった。ギリシア文化の拠点都市として、アレクサンドリア、アンティオキアなどがあった。もちろん、後にローマが東西に分裂し、その一方である東ローマ帝国の首都となった小アジアのコンスタンチノーブルもその1つだ。
さて、領土拡大を続けたローマ帝国が支配地域を統治する制度として、必然的に採用せざるを得なかったのが「四分治制」だった。「四分治制」は293年に発足した。この分割統治の形態が、ローマ帝国分裂の下地となったともいえる。帝国が永遠に繁栄を維持することはできないものなのか。
年表で整理すれば、375年=ゲルマン民族大移動開始、 392年=キリスト教の国教化、 395年= ローマ帝国東西分裂、5世紀初め=ゲルマン人がヨーロッパ各地に建国、476年=西ローマ帝国滅亡、486年= フランク王国建国 、 527年=ユスティニアヌス、東ローマ皇帝に。ユスティニアヌス大帝は、ゲルマン人国家である東ゴート王国、バンダル王国を滅ぼし、以降、東ローマは800年以上存続した。
冒頭に書いたとおり、末期ローマ帝国は混乱と荒廃の時代だったが、筆者はこの時代のヨーロッパに魅力と興味を感じる。世界史の中で、もっともおもしろく、不思議な時代の1つなのではないか。強大な軍事力と統治能力をもったローマが、蛮族と呼ばれたゲルマン人と共存する道をなぜ、みつけられなかったのか。本書読了後もその回答は得られていない。
本題の『末期ローマ帝国』とは、3世紀末から6世紀末までの300年間をいう。拡大を続けたローマ帝国が没落を迎える時期ではあるが、政治・経済・宗教・文化等の領域で、次代すなわち中世へ橋渡しをする重要なファクターがこの時期に育まれたという見方がある。最も重要なファクターの1つは、ローマ帝国がキリスト教を受容したことかもしれない。帝国の国境付近にはフン族に追われたゲルマン民族が帝国領内への侵入をうかがう。内に外にローマは帝国の存続を揺るがす問題を山積させていた。
ローマ帝国を“ラテン”という一つの概念で括ることはできない。ローマはラテンとギリシアの2つの文化圏の合成であった。キリスト教がローマ支配下のパレスチナで成立したことは常識だが、この宗教が西方に伝播する過程で多大な影響を受けたのがギリシア哲学だった。ギリシア文化の拠点都市として、アレクサンドリア、アンティオキアなどがあった。もちろん、後にローマが東西に分裂し、その一方である東ローマ帝国の首都となった小アジアのコンスタンチノーブルもその1つだ。
さて、領土拡大を続けたローマ帝国が支配地域を統治する制度として、必然的に採用せざるを得なかったのが「四分治制」だった。「四分治制」は293年に発足した。この分割統治の形態が、ローマ帝国分裂の下地となったともいえる。帝国が永遠に繁栄を維持することはできないものなのか。
年表で整理すれば、375年=ゲルマン民族大移動開始、 392年=キリスト教の国教化、 395年= ローマ帝国東西分裂、5世紀初め=ゲルマン人がヨーロッパ各地に建国、476年=西ローマ帝国滅亡、486年= フランク王国建国 、 527年=ユスティニアヌス、東ローマ皇帝に。ユスティニアヌス大帝は、ゲルマン人国家である東ゴート王国、バンダル王国を滅ぼし、以降、東ローマは800年以上存続した。
冒頭に書いたとおり、末期ローマ帝国は混乱と荒廃の時代だったが、筆者はこの時代のヨーロッパに魅力と興味を感じる。世界史の中で、もっともおもしろく、不思議な時代の1つなのではないか。強大な軍事力と統治能力をもったローマが、蛮族と呼ばれたゲルマン人と共存する道をなぜ、みつけられなかったのか。本書読了後もその回答は得られていない。
2006年1月28日土曜日
『古代のイギリス』
●ピーター・サルウェイ[著] ●岩波書店 ●1500円+税
本題について整理しておこう。訳者の南川高志氏が「あとがき」でことわっているように、『古代のイギリス』というタイトルはふさわしくない。原題は『ROMAM BRITAIN』だから、“ローマ時代のブリテン島”くらいがふさわしい。
そもそも、「イギリス」とは誤解を与えやすい表記だ。まず、現在のグレートブリテンを国際政治の観点からみてみよう。日本でいう「イギリス」は無意識のうちに、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを、さらに、アイルランド共和国の存在までも消去させてしまう。そもそも、ローマ帝国がブリテン島を征服する前、先史ヨーロッパ人が存在し、やがて、中欧からやってきたケルト人が彼らを滅ぼしたというのが定説の1つになっている。
紀元前1世紀、カエサルがブリテン島を征服し、ローマ支配が始まった。その後、蛮族の侵入により、ゲルマン系のサクソン人がブリテン島の支配者となり、やがて、ノルマン人(イングランド)がそれにとって代わり、今日に至っている。その間今日まで、直近の征服者イングランドと、スコットランド、ウェールズ、アイルランドとの抗争が続いている。直近の征服者・イングランドを日本では、「イギリス」という。
さて、本書は、ROMAM BRITAINの翻訳部分と、訳者南川氏のイギリスにおけるローマ史跡の案内である「イギリスで『古代ローマ文明』を楽しもう」の二部構成になっている。翻訳部分は、ブリテン島とローマ帝国に関する歴史研究だ。本書から、ローマ帝国がなぜ、ブリテン島征服に注力したのかをうかがい知ることができる。古代の地中海世界にあって、ブリテン島は世界の果てだった。ローマの権力者、とりわけ、軍部出身者がそこを支配したということは、自らが世界の支配者であることを証明することになったのだ。
研究部分に不満がある。一番の不満はローマ帝国に支配された側の視点がないことだ。ケルト人(イギリスではブリテン島先住民をケルトと呼ばないらしいが)の立場が欠けているから、ローマ支配の実態が分かりにくい。遺跡からハード部分を知ることはできても、ソフト部分が、たとえば、ローマの宗教とケルトの宗教がどのように融合したのかがわかりにくい。
その一方、本書の優れた点は、ブリテン島におけるローマの影響を広く知らしめたことだ。日本人にとって、ブリテン島におけるローマの影響は盲点だった。私のような「ケルトファン」にとっても、歴史の隙間だった。ローマ支配を経験した欧州の代表的地域はフランスだが、世界史好きの日本人ならば、古代フランスをガロ=ロマニアと呼ぶ歴史概念は常識になっている。ところが、「イギリス」の歴史の中に、ロマニア=ブリトンという概念を知る人は少ない。フランス語がラテン語系であるから影響が強いと考え、英語がゲルマン(サクソン)語系だから、ローマの影響を低いとみてしまうのかもしれない。
本書が「イギリス」の複合性を知るきっかけになればいい。そして、ローマ帝国の大きさを改めて知ることもムダではない。
本題について整理しておこう。訳者の南川高志氏が「あとがき」でことわっているように、『古代のイギリス』というタイトルはふさわしくない。原題は『ROMAM BRITAIN』だから、“ローマ時代のブリテン島”くらいがふさわしい。
そもそも、「イギリス」とは誤解を与えやすい表記だ。まず、現在のグレートブリテンを国際政治の観点からみてみよう。日本でいう「イギリス」は無意識のうちに、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを、さらに、アイルランド共和国の存在までも消去させてしまう。そもそも、ローマ帝国がブリテン島を征服する前、先史ヨーロッパ人が存在し、やがて、中欧からやってきたケルト人が彼らを滅ぼしたというのが定説の1つになっている。
紀元前1世紀、カエサルがブリテン島を征服し、ローマ支配が始まった。その後、蛮族の侵入により、ゲルマン系のサクソン人がブリテン島の支配者となり、やがて、ノルマン人(イングランド)がそれにとって代わり、今日に至っている。その間今日まで、直近の征服者イングランドと、スコットランド、ウェールズ、アイルランドとの抗争が続いている。直近の征服者・イングランドを日本では、「イギリス」という。
さて、本書は、ROMAM BRITAINの翻訳部分と、訳者南川氏のイギリスにおけるローマ史跡の案内である「イギリスで『古代ローマ文明』を楽しもう」の二部構成になっている。翻訳部分は、ブリテン島とローマ帝国に関する歴史研究だ。本書から、ローマ帝国がなぜ、ブリテン島征服に注力したのかをうかがい知ることができる。古代の地中海世界にあって、ブリテン島は世界の果てだった。ローマの権力者、とりわけ、軍部出身者がそこを支配したということは、自らが世界の支配者であることを証明することになったのだ。
研究部分に不満がある。一番の不満はローマ帝国に支配された側の視点がないことだ。ケルト人(イギリスではブリテン島先住民をケルトと呼ばないらしいが)の立場が欠けているから、ローマ支配の実態が分かりにくい。遺跡からハード部分を知ることはできても、ソフト部分が、たとえば、ローマの宗教とケルトの宗教がどのように融合したのかがわかりにくい。
その一方、本書の優れた点は、ブリテン島におけるローマの影響を広く知らしめたことだ。日本人にとって、ブリテン島におけるローマの影響は盲点だった。私のような「ケルトファン」にとっても、歴史の隙間だった。ローマ支配を経験した欧州の代表的地域はフランスだが、世界史好きの日本人ならば、古代フランスをガロ=ロマニアと呼ぶ歴史概念は常識になっている。ところが、「イギリス」の歴史の中に、ロマニア=ブリトンという概念を知る人は少ない。フランス語がラテン語系であるから影響が強いと考え、英語がゲルマン(サクソン)語系だから、ローマの影響を低いとみてしまうのかもしれない。
本書が「イギリス」の複合性を知るきっかけになればいい。そして、ローマ帝国の大きさを改めて知ることもムダではない。
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