2009年7月22日水曜日

『1Q84(1・2)』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●各1800円(+税)




『1Q84』(村上春樹[著])を遅まきながら、読み終えた。報道によると、本書刊行時においては、書店で品切れ状態が続いたという。筆者も村上春樹のファンで、数少ない同世代作家として、デビュー以来、愛読してきた。エッセイ、翻訳等を除いて、小説についてはすべて読んできたはずである。

しかし、ある時期のある作品をターニングポイントにして、あまり熱心な読者ではなくなってしまった。それが『海辺のカフカ』であったかもしれないし、それ以前のものだったかもしれない。

熱が冷めた理由がこちら側にあるのか、作家の側にあるのか、あるいはその両方にあるのか定かではないのだが、ここのところの村上作品に関しては、読み始めた途端に、“ああ、またか”という落胆のような感想を抱かずにはおれない。

ご承知のとおり、最近の村上作品は、現実社会の規範、法、道徳等を逸脱していることが前提となっている。荒唐無稽なファンタジーであり、関係性といったものが都合よく剥離されている。またその一方で、物質(商品)、歴史、感情、欲望といったものはリアリティーを失っておらず、両者のバランスが実に巧みであり、読者はリアリティーとファンタジーが混淆した“村上ワールド”を無理なく受け入れることができる。そのことを「仮想現実」(バーチャル・リアリティー)と表現してもかまわないのかもしれないが、小説という媒体の特徴として、TVゲームよりは現実の度合いが強まっているのではないかと思われるが、そのことはたいした問題ではない。

■1Q84=1984はいかなる記号か――

『1Q84』という本題がジョージ・オーウエルの『1984』に符合することは明らかである。同書は1949年に書かれたもので、1984年という近未来がスターリン主義もしくは全体主義に支配された様子を描いた。本書は、2009年から1984年という過去を描いたわけで、「Q」は同書のパロディの気分を持ち合わせている。つまり、オーウエルの予言は外れたと。

本書は前作に引き続き、知的エンターテインメント小説である。教養主義的レトリックが組み込まれていて、本書を読み終えた者には、さまざまな解釈が可能となる。筆者が知る限りでは、本書発刊後において、下記の解釈がなされていると聞いている。

▽魯迅の『阿Q正伝』の「Q」と、本題の1「Q」84の「Q」の符合が意味するものは何かという議論
▽この小説中で『空気さなぎ』をことあげした、ふかえりという少女を共同体の権力の一方の極である宗教的権威、すなわち、『魏志倭人伝』中の卑弥呼(巫女)に代表される女権に喩え、国家の起源を暗示するとの解釈
▽本書内に出てくるカルト教団の“リーダー”と主人公の一人・青豆とのやりとりの中に、前出の“リーダー”が『金枝篇』を引用しながら自らの死を望む展開は、文字通り、王権論そのものであるとの解釈
▽本書内の小説『空気さなぎ』のさなぎ=繭(まゆ)は、折口信夫が唱えた“真床追衾”をイメージすることから、天皇の生と死に関わりなく、天皇霊を絶え間なく継承する、日本の天皇制の起源を暗示するとの解釈

ほかにもあるようだが、それらを拾い上げてみても、本書の書評になりえないと思うので、例示にとどめたい。

さらに、読者が共有する歴史的記憶を喚起する本書の記述は、読者に対して、強烈なインパクトを与える道具として機能する。前出のカルト教団は、小説では、新左翼残党→「タカシマ塾」→「さきがけ」→「武闘派」と「コミューン派」へ分裂、武闘派→「あけぼの」→武装蜂起で壊滅、「さきがけ」は教団を設立――という変異を辿るのだが、この変遷は、新左翼(毛沢東主義派=連合赤軍)運動、山岸会、オウム真理教という反体制運動を連想させる。実際に存在した反体制集団を連想させるものを小説に登場させることは、読者の心中に理屈抜きの“おぞましさ”を喚起する効果がある。同様に、青豆の親が入信していた「証人会」は「エホバの証人」という宗教団体を連想させる。このように、現実と虚構が、作家のセンスによって微妙に調合されたのが、本書の全体的特長といえる。

“1984”とは、オウム真理教から喚起された年号(記号)だと解釈できる。前出の「さきがけ」は、著者(村上春樹)が、オウム真理教を意識したものである。オウム真理教は1984年、麻原彰晃(本名・松本智津夫)が後に「オウム真理教」となるヨーガ道場「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めたときである。著者(村上春樹)は、オウム真理教が1995年に起こした無差別殺人テロ「地下鉄サリン事件」の被害者等を取材し、『アンダーグラウンド』をまとめている。      

■欲望を肯定した結果、もたらされたもの

面白い小説だと思う、だが、危険な兆候も示している。この小説では、全開された欲望が物語の基底をなし、それが議論も懐疑もなく許容されているからである。

本書の面白さは、奔放なイメージにある。登場人物は、それぞれの欲望に規定され、道徳、善悪、倫理、法を超えてしまう。主人公の一人・青豆という女性は必殺仕置人である。彼女は、DV(ドメスティック・バイオレンス)に傷つけられた女性の復讐のため、男たちを殺害することが裏の仕事になっている。

もう一人の主人公、小説家志望の天吾という青年は、ふかえりというカルト教団のリーダーの娘がつくった話をリライトする内なる欲望に耐えられず、小松という編集者の企てに乗ってしまう。編集者小松も、世の中を騒がしたいという欲望のまま、天吾に不法行為をそそのかす。他の登場人物も概ね同様である。本書に登場する人物すべてが、道徳、善悪、倫理、法を超える。

そもそも、それらは欲望がもたらすリスクを制御するためのものだ。この小説は、共同体と個人が交わす法(手続き、規制)、セルフ・コントロール(道徳、倫理)を無視することをもって前に進む。この小説の主な登場人物は、一般的な性道徳を逸脱していて、そのことは欲望が全開されたことの象徴的表現だともいえる。

それだけではない。主人公の一人・青豆の幼馴染の親友(大塚環)、同じくシングル・バーで知り合った(あゆみ)、もう一人の主人公である天吾のセックス・フレンドの人妻(安田恭子)、カルト教団から逃亡した少女(つばさ)、そして最後には、主人公(青豆)までが死んでしまう。なぜ、女性の登場人物ばかりが「生きられない」のか。この作家の女性観が投影されているのかもしれない。

この小説では、法を超えた欲望が登場人物の置かれた環境に大きな揺らぎを与える。規制、社会的制裁、圧力等の関係がもたらす諸問題を簡単に捨象することが可能であるから、登場人物は自由である。たとえば、殺人はいとも簡単な行為となっている。19世紀のロシアの小説では、社会にとってまったく意味のないと青年が確信する高利貸しの老婆の殺害と、それによってもたらされた殺人者の青年の罪の意識が、長編小説を構成した(『罪と罰』)。ところが、一方の21世紀の“ムラカミ・ワールド”では、殺人の罪と罰が問われることはなく、女性主人公の属性の1つにしかすぎなくなってしまっている。簡単に人を殺せるスキル(技術)が、主人公の重要な属性になっている。そのことは、特別なパワーを付与されたテレビゲームのキャラクターと同じようなものであり、エンターテインメントとして、読む人に癒しや快楽を与える。

■パラレルワールドは後半、メルトダウン

この小説の特徴の1つは、「パラレルワールド」にある。2人の主人公、青豆と天吾の物語が交互に繰り返される。そして、2つの物語が重なり合い、やがて、青豆と天吾の純愛というテーマが浮上する。

青豆は、少女をレイプし続けるといわれている宗教団体の教祖(=リーダー)を殺害するというミッションを受け、リーダーと対峙する。リーダーは、自分が殺されることの交換条件として、青豆の命を差し出せ、そうでなければ、天吾を殺す、と青豆に迫る。青豆は、天吾を救うためリーダーの提案を受け、リーダーを殺害した後に自殺する。前出のとおり、純愛は貫徹される。

一方、それとはまったく別に、物語の後半では、天吾の出生の秘密と父権というテーマが唐突として出現する。それは、この小説のパラレルに展開された大部分の物語のどちらにも重ならない。青豆と天吾の双方の未来に関しては、リトル・ピープルという説明のない存在が関与している(らしい)と考えるしかないのだが、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。というのは、リトル・ピープルに係る説明が一切なされないからである。

収拾のつかないままの“イメージ”が、作家によって小説の中に投げ込まれる。そして、まったく無媒介的に、説明のないまま、物語は終わる。天吾の父の死の床に、さなぎ(繭)に包まれ、10代の青豆が再生するという場面をもって。

こういう終わり方は、無責任な感じがする。作家が物語に関与するキャラクターを創造したならば、それらが果たす機能や役割を読者に明らかにするのが普通だと思う。この小説の場合、リトル・ピープルという説明のつかないキャラクターが、異物のように残される。それが作家の意図なのか、収拾のつかなかった結果なのかはわからない。説明できないもの、超越的なものなのだ、という考え方もあるかもしれない。運命や宿命はリトル・ピープルが操っているのだから、俗人の行く末はそれに任せろといっていることに近い。それだけで片付けるとすれば、けっきょくはシニシズムではないか。この小説(の登場人物)は、現実社会の倫理、規範、経験という、法を支えていた要となる実体を、相対的な差異を提示しあうゲームや戯れの中に、還元してしまうだけで終わっている。読者は、小説が提示する差異を楽しみ、かつ、癒されるのだが、実際は、差異をその内部で相対化しうる、実態の同一性に支配されているにすぎないのである。読者がそうであるということは、作家もそのような内部のなかで、小説を書きあげていることになる。