2009年10月12日月曜日

『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●7,140円(税込)


□党派に吸収された全共闘活動家

下巻は、新左翼・全共闘運動の後退局面からその終焉が扱われている。学生叛乱の後退は、1968年「10.21国際反戦デー」からだという。同闘争では、社学同が防衛庁(当時六本木)に向かい、丸太を抱えて正門に突入を繰り返し機動隊と衝突、中核派等は米軍燃料輸送阻止をスローガンにして、新宿駅占拠を狙って機動隊と衝突、その騒ぎに集まった野次馬、群衆がなだれ込み、騒乱罪が適用されるほどの盛り上がりを見せた。同闘争に取り組んだ新左翼各派は、この派手な予想外の“騒乱”を「大勝利」と総括した。

しかし、実際には、これを期に政府の治安対策が強化されるとともに、マスコミ論調も「新左翼暴力批判」を強め、世間の「新左翼離れ」を加速したという。翌年1月の東大安田講堂攻防戦を境にして、4月28日の沖縄闘争をはじめ、党派による政治(街頭)闘争は成果を上げられず、重装備の機動隊によって、完全に抑え込まれた。1969年は、新左翼・全共闘が転換を強いられた年だという。

新左翼党派は、1969年秋の佐藤(当時首相)訪米阻止闘争(70年安保決戦)を「階級決戦」と位置づけた。9月の全国全共闘結成を契機として、学園闘争のヘゲモニーを掌握、ノンセクト全共闘活動家に対し、階級決戦への参加を呼びかけた。そのころ、期を一にして、学園闘争(バリケード闘争)は党派の侵食に伴い学生大衆は離脱し、ノンセクト学生は党派に吸収され、全共闘運動は形骸化していった。全共闘運動の黄昏である。

11月決戦当日、全国の全共闘を糾合した新左翼(革マル派を除く)のデモ隊は、羽田空港に近づくこともできず、待ち構えた機動隊・自警団の反撃により敗走し、多くの逮捕者を出しただけで撤退を余儀なくされ、「決戦」は新左翼側の敗北に終わった。67年10.8羽田闘争で開始されたゲバ棒、ヘルメットの新左翼の街頭闘争は事実上、終焉した。

□極限的倫理主義、武装闘争、憎悪(内ゲバ殺人)

1969年秋をもって党派に吸収された全共闘学生には、帰る場所はなかった。バリケードは解除され、学園は表向けの平常さを取り戻した。しかし、全共闘運動は終わったが、新左翼の革命闘争は終わらなかった。著者(小熊英二)は、この先の展開を、「70年のパラダイム転換」と命名している。

「70年代のパラダイム転換」は、それまで新左翼党派が関心を示さなかった、新たな政治課題への取り組みから始まったという。一般には、69年の「決戦」敗北後、新左翼党派の動きとして、爆弾闘争、赤軍派(よど号ハイジャック等)、パレスチナ解放闘争、内ゲバ殺人、連合赤軍事件(浅間山荘事件、総括殺人)へと向かうと考えられているが、本書は、そうした過激な傾向へと向かう動きと従前の新左翼・全共闘運動の中間項として、▽華僑青年闘争委員会(華青闘)による入管法反対闘争に代表される、アジア人差別・抑圧問題、▽沖縄問題、▽同和問題、リブ闘争――といった倫理的闘争の台頭を挙げている。これらの取り組みが、「決戦」後の新左翼活動家の倫理面を強く揺さぶった点を本書は強調している。本書の該当部分を引用して、説明しておきたい。

「決戦」に敗退し学園を追われた学生活動家は、取り組むべき政治的課題を見失い、茫然自失状態にあったという。そこに現れたのが、在日のアジア人や同和問題における被差別者からの問題提起であった。新左翼はこうした課題に取り組みはしたものの、中途半端に終始した。新左翼党派の無理解に対し、在日のアジア人活動家は激烈な批判を加えた。その批判とは、新左翼各派は在日のアジア人民を抑圧・差別する側にあるという告発であった。そして、69年には華青闘活動家の李智成が、自らの死をもって入管法に抗議をした。この事件は、当時も今もあまり知られていないが、本書を読むと、70年代に過激化した新左翼の武装闘争を促す直接的な契機となったことがうかがえる。新左翼活動家は、彼らの本気度に、怯えに近いものを感じたという。

つまりこういうことだ。日本はアジア太平洋戦争において近隣アジア諸国を侵略・蹂躙し、虐殺、奴隷化した。しかし、米軍(連合軍)の軍事力の前に屈した日本は敗戦国となった。しかし現在(当時)、日本国内には多数の在日アジア民族が戦時中、彼らの祖国から拉致・連行され、日本に住み代を重ねている。そして、敗戦国でありながら日本(人)は経済的繁栄を回復した一方、彼らを差別し抑圧し続けている。日本人は敗戦国被害者として戦後ふるまってきたけれど、実は戦中において加害者であり、敗戦後も加害者であり続けている――このような告発は、ベトナム戦争加担の論理よりもはるかにリアリティがあり、かつ、激烈な自己否定を多感で良心的な若者に迫るものだった。

そこから生じた倫理的反体制運動の新潮流は、既存の新左翼党派批判、非合法武力闘争路線、脱マルクス・レーニン主義の流れを形成し、その代表が手製爆弾闘争を実行した、東アジア反日武装戦線(大地の牙、狼、さそり)等のアナーキーな小集団であった。後に赤軍派と合体する日本共産党革命左派(京浜安保共闘)もこのような流れに属していた。小集団の過激なゲリラ的武装(爆弾)闘争は、新左翼党派にも影響を与えた。

同じ頃、新左翼党派においては、武装闘争路線が模索されており、69年9月、共産同赤軍派が革命戦争勝利、非合法武装闘争路線を掲げ、ブントから独立を宣言していた。69年11月の「決戦」における事実上の敗北を受けて、新左翼各派の内部に爆弾等の殺人兵器を製造・使用を目的化した、非合法部隊が創設された。ゲバ棒、ヘルメットの街頭闘争が抑え込まれた以上、武器をエスカレートする以外にない、というのが新左翼の総括であったという。

同時に、活動家の倫理性と純粋性が内ゲバの激化となって表象した。運動方針でことごとく対立したセクト同士の内ゲバで死者が出ることが珍しくなくなった。とりわけ革共同の革マル派vs中核派の内ゲバは陰惨を極めた。

□連合赤軍―倫理主義と軍事路線の不幸な合体
日本共産党革命左派(以下、「革命左派」という。)とブント赤軍派の結合は、不幸な合体であった。前者は新左翼党派のマルクス・レーニン主義革命理論とは相対的独自に集結した、しかも、自己否定、倫理主義を極限的に追及した者が構成する小グループであった。彼らの特徴は、銃=武器による暴力革命を志向する点にあった。彼らが武装蜂起をしたとしても、その後、労働者、農民とどのように連帯していくのかについては、一切明らかにされていなかったが。

彼らは前出の在日アジア人問題や被差別問題への取り組みを綱領としてはいなかったが、同派に結集した活動家のメンタリティーは、極めて倫理的であることがわかっている。

また、後者は、赤軍派指導者の過半が前段階蜂起準備中に官憲に事前検束され、しかも、残りのメンバーの指導者も日航よど号ハイジャック事件で国外逃亡していることもあり、闘争経験及び指導者の資質において劣る者(森恒夫)が残された活動家を束ねる必要に迫られた。その結果、武装闘争路線という一点において、両者が共闘を協議する機会をもったとき、前者の唯武器主義路線と純粋な倫理性という二点において、赤軍派は革命左派側に主導権を奪われることとなったのではないか。

本書では、連合赤軍による、山岳アジト総括リンチ事件について、多くの資料の読み込むことにより、その解明を試みている。著者(小熊英二)は、連合赤軍の悲劇を指導者の卑小な自己保身から生じたという趣旨の結論を引き出している。一方、この事件を知った新左翼・全共闘活動家及び知識人は、それとは異なる質の衝撃をもって受け止めた。多くの者は、この悲劇をスターリニズムの問題として考え、新左翼・全共闘運動から離脱した。

□著者(小熊英二)の“結論”について

著者(小熊英二)は本書下巻の「結論」において、1968年前後の学生叛乱の要因を、(一)大学生数の急増と大衆化、(二)高度成長による社会変動、(三)戦後の民主教育の下地、(四)若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望――の4点に要約している。そして、それらに新左翼の原理主義的マルクス・レーニン主義が融合したのだと。この結論に異議を挟むつもりはないし、当時の新左翼・全共闘運動とはそのようなものだったと思う。

1968年前後の叛乱に関わった学生たちの参加動機を示すキーワードとして、主体性、実存、自己否定、加害者意識、良心、反戦、疎外(の克服)、自分探し、現代的不幸(の克服)・・・といった、倫理観に近いイメージを列挙している。街頭闘争に参加した者にとって機動隊との衝突は実存の確認であり、ゲバ棒を振り下ろすことが主体性の確立であり、学園闘争におけるバリケード空間は自己解放、人間性の回復、真の学問の復権であり、全共闘運動による大学解体は、自己否定、加害者意識(の克服)といった具合である。

一方の新左翼党派にとっては、全共闘が運動の前面に押し出した“自己否定”は、プチプル急進主義であり、党派が目指す「革命的共産主義者」「プロレタリア的人間」「革命戦士」への飛躍こそが重要であると認識された。党派は、善良でナイーブ(うぶ)な学生大衆に対し、「プロレタリア的人間」へと飛躍するのか、それとも、「プチプル急進主義者」にとどまるのか、二者択一を迫った。

著者(小熊英二)が指摘するように、当時の大学とは(いまもそうかもしれないが)、冷たいコンクリートの塊のような校舎が林立し、その中の大教室で教授が棒読みの「講義」を行っていた。学生同士が、例えば、ベトナム戦争等の諸問題を議論する空間すら用意されていなかった。受験勉強を終え、大学に過剰な幻想を抱いて入学した学生に対し、大学が提供できるものは何もなかった。

上巻にあるとおり、そうした情況において、意識的学生はまず学費値上げ反対という学内闘争という形で叛乱を起こした。学内闘争には限界があるものの、日大、東大のように、社会的に大きな関心を呼び起こすものもあった。

そこに目をつけた党派は――彼らは1969年秋を「階級決戦」と位置づけていたのだが――学内に潜り込み、意識的学生大衆を組織化しようとした。党派のオルグが良心的学生に対して発した問いかけ(=世直し)が、有効性をもたないわけがなかった。“良心”を宿した“純粋”な学生たちは、入学早々、官憲が学内に導入される実態を目撃し、合法的街頭デモに参加すれば機動隊に蹴られ殴られ、「階級的暴力=機動隊」という抑圧者を明確に認識することはたやすい。そればかりか、地方から都会の大学に進学した者には、都会生活への順応のしにくさという感性が、疎外という概念と同義となった可能性もある。こうして蓄積された反体制的エネルギーが、階級意識や自己否定論、体制変革に向かった可能性を否定のしようもない。

だがしかし、“良心”を宿した“純粋”な学生たちが社会に対して抵抗したり、苦悩したりするのは、この時代に限ったことではない。古くは、『二十歳のエチュード』(原口統三)、『巌頭之感』(藤村操)など、“青春の書”と呼ばれる著作は枚挙に暇がない。本題の1968年前後の叛乱の主役たち(学生大衆)の心情と大きな隔たりはないのではないか。でも、この時代の若者は、結局のところ、新左翼党派の革命理論(革命言語)に吸収されてしまった。著者(小熊英二)が言うように、若者が自らの言葉を持たず、新左翼の革命言語に拠って自らを語り、行動しなければならなかった。

次に、本書が触れなかった視点から、新左翼・全共闘運動を振り返ってみたい。