2010年5月24日月曜日

『1Q84 BOOK3』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●1900円(税別)

本書BOOK2において、落雷と激しい雨の降る日、青豆はさきがけ教団のリーダーを殺害し、天吾を守るために自らの命を絶つ(はずだった)。一方、そのとき、天吾はリーダーの娘・フカエリと性交をした。その後、天吾は入院している父親の病床で、空気さなぎのなかに横たわる青豆の姿を幻視した。

BOOK3では、青豆は自殺せず、天吾の子を身籠って、生き延びていた。彼女は黒幕であり彼女の雇い主である老婦人らが考えた、教団の追跡を逃れる計画を変更し、天吾を見た高円寺の小さな公園の近くのマンションに潜伏する。そこで、日夜、ベランダから公園の監視を続け、天吾が現れるのを待つ。思わぬ展開である。読者は青豆が自殺することが必然だと感じていたはずだ。天吾と青豆が高円寺で接近するような展開を予想していなかったはずだ。

BOOK3では、BOOK1~BOOK2にて拡散した物語全体が縮小され、その舞台は、天吾が住み、青豆が潜伏する高円寺という町と、天吾の「父」が入院する「猫の町」の二箇所に集約される。そして、天吾と青豆の接近を媒介するのが牛河という、さきがけ教団に雇われた調査員である。牛河については後述する。

BOOK3では、BOOK1~BOOK2の「落ち」とも思える、リーダーの殺害~天吾の救済~青豆の自殺という設定が全否定され、荒唐無稽な展開を見せる。しかし、作者(村上春樹)が、これまで無秩序に拡散してきたイメージの集約化を意図しているのであろうか、説明・解説的記述が増えた分、全体がとても落ち着いた感じになっている。

この小説は伝奇的エンターテインメントであって、歴史(時代)、社会のあり方、権力の核心構造等の解明を意図したものではない。作者(村上春樹)がインタビューで述べているように、思春期、生活過程において、疎外された男女(天吾と青豆)の純愛を軸としている。天吾はNHKの集金人を父に、そして青豆は、新興宗教の熱心な信者の母をもつ。天吾は集金に、青豆は布教のための戸別訪問に同行させられたことになっている。このことは、思春期の二人にとって屈辱であり、理不尽このうえなかった。そんな二人があるとき啓示的な愛に打たれる。この小説の出発点は、二人の啓示的純愛であり、それを盛り上げるために、作者(村上春樹)の中に蓄積された様々なイメージが盛り込まれているにすぎない。

それはそれでかまわないのであって、面白くて読者が楽しめればいいのだが、純愛とアイロニーを描いた『春の雪』をスタートに、日本の近代史の核心を突いた、三島由紀夫の『豊饒の海』に及ばない。三島由紀夫と村上春樹の同質性はたびたび指摘されるところだけれど、『1Q84』3部作と『豊穣の海』4部作を比較するならば、エンターテインメントの質、作品の構想力(スケール)、時代を射抜く勢い(パワー)において、三島作品のほうが勝っている。

蛇足だが、作者(村上春樹)が、牛河という調査員の外形を、かくも必要以上に異形に描くことに違和感を覚えた。牛河という調査員は、過去に理想的家庭生活を営みながら、わけあってそこから離脱を余儀なくされ、人から軽蔑されるような下種な調査員に身を落としている男と設定されている。彼は、俗にいうところの「左脳」人間であって、地道に資料を集め、人に会って裏を取り、執拗なまでに時間をかけ、依頼された仕事を完成させようとする。牛河が導く結論は分析的であり、計算づくである。そして、その外形は、なぜか、恐ろしく醜い。なぜ醜くなければならないのだろうか…

本書の登場人物において、「牛河」の側に属すのが、NHKの集金人の天吾の「父」であり、新興宗教の熱心な信者の青豆の「母」だ。天吾の「父」は自分を裏切った妻が産んだ天吾を男手一つで育てたことになっているのだが、そのことは読者には明らかにされるものの、天吾に告げられることがない。天吾の「父」の集金人としての働きぶりは実直であり、それが滑稽に通じ、結果として不細工であるかのように描かれる。しかも、天吾の「父」の集金の仕事ぶりは常軌を逸していて、昏睡状態で寝たきりの「父」の魂は幽体離脱し、潜伏する青豆らを脅す。そればかりではない。「父」が火葬にふされるとき、NHKの集金人の制服を着ることになるのだが、それは真面目な生活者の滑稽さを揶揄したもののように思える。NHKの集金人を肉親に持つ人々は、本書のこの場面をどうのように受け止めたことであろうか。

その一方、青豆・天吾はもちろんのこと、青豆の黒幕である老婦人、老婦人を守るタマル、そして、フカエリは身体的に美しく、シェイプアップされ、生活臭を帯びず、すっきりとしていて、テンポのよい俗にいうところの「右脳」人間になっている。彼らには実生活、労働、人間関係、家族関係、倫理、法・秩序の煩わしさが感じられず、臭いすらない。天吾が寝たきりの「父」を入院先の病院に長い間見舞い、結局、「父」の死に遭遇するのであるが、それでも、天吾と「父」の関係は、実生活上の肉親の死に遭遇した者が迫られる状況とは異なっている。

前出の牛河は、老婦人に雇われている美しいゲイの殺し屋であるタマルに殺害される。この場面は、ナチスドイツがユダヤ人虐殺と同時に行った、身障者迫害を連想させる。肉体的に美しい「優性民族」が、劣性とされる民族や、ハンディキャップを負った人々を排除するのである。牛河がタマルに殺される場面は、牛河が青豆やその黒幕の老婦人を危機に陥れるから殺害されるのではなく、彼が醜い外形であるが故に、抹殺されるかのように受けとめられる。作家(村上春樹)の小説上の排除の傾向は、いくらフィクションの世界であっても、安易に容認されるべきではない。

物語の終幕、天吾と青豆が「1Q84」の世界からの脱出に成功し、“こちら側”で結ばれる。それは、ハッピーエンドを示唆するが、もちろん、“BOOK4”が書かれたとき、このハッピーエンドがひっくり返される可能性はある。とにかく「何でもあり」なのが村上ワールドなのだから。4部作となるかどうかはもちろん、わからない。

何年か経ったとき、2010年にこの3巻の小説が異常に売れたことを覚えている人は、あまり多くはないだろう。