2011年2月2日水曜日

大相撲と八百長

大相撲に八百長があったとの報道。いまさら、驚くには当たらない。相撲は芸能であって、スポーツではない。米国でプロレスが「ソープオペラ」(TVの連続ドラマ)と呼ばれるのに似ている。相撲は長い歴史をもった伝統芸能であり、日本国民に親しまれており、力士は厳しい修練を積む。筆者は、そのような意味で、相撲に八百長があったとしても、力士や相撲界を貶めるつもりはない。

相撲という芸能を批判するつもりはないものの、大相撲報道のあり方、とりわけ、相撲をプロスポーツと同等に扱う日本のジャーナリズムについては、筆者は不信を抱いている。連勝記録だとか、優勝回数だとかの記録についても、筆者は信用していない。

日本の伝統芸能は、歌舞伎界、相撲界をその代表的存在として、「悪しき伝統」を引きずっている。その1つが、闇世界との密接な関係だ。2点目は、非人間的上下関係、暴力的体質、そして、3点目は伝統芸能協会及び業界の不透明性だ。

昨年、大騒動になった歌舞伎界の「海老蔵事件」は、相撲界の「朝青龍事件」によく似ている。どちらも日本の伝統芸能界に属する大スターが起こしたもの。前者が被害者、後者が加害者という立場の違いはあるが、両者とも、六本木・麻布界隈を舞台にして、グレーゾーンの人々と事件を起こしたという共通点をもつ。事件の舞台となった飲食店は、麻薬取引の舞台となった区域にあるところだった。もちろん、海老蔵、朝青龍に麻薬取引の疑惑があるというわけではないが、一般人が近づかない区域だ。

両事件に共通する最大の点は、いずれも示談が成立していて、事件の全容が解明されないままであることだ。朝青龍は突然、角界を引退し、事件については未だに無言を貫いている。海老蔵は記者会見を二度開いて、積極的に事件情報について公開しようとしている姿勢を見せているものの、事件の核心については、口を噤んだままだ。

大相撲界の「八百長報道」については、かつて、八百長の存在をスクープしたフリー記者がいたが、マスコミ相撲ジャーナリズムから無視された。相撲界には「相撲記者クラブ」というマスコミ記者の組織があって、彼らは相撲界に不利益な報道はしないことになっている。政治・行政における、官庁記者クラブと同じ組織体質だ。フリー記者は八百長事件をスクープするが、中央のマスコミがそれを無視するから、結局のところ、事実関係は明らかにされないまま消滅してしまう。

相撲が八百長であることで最大の不利益をこうむる者の一人が、マスコミ相撲ジャーナリズムなのだ。相撲が「ソープオペラ」であれば、それを報ずる意味がなくなる。人気力士も、優勝も記録も、相撲に係るすべてが報道に値しなくなる。プロレスの「記録」や「勝敗」に関心を払う人がいないように、人々は大相撲の結果に関心を払わなくなる。そうなれば、相撲界の危機であると同時に、マスコミ相撲ジャーナリズムの危機となる。大相撲の八百長を公にすることは、大相撲のプロレス化を意味し、大相撲のマイナー化とともに、マスコミ相撲ジャーナリズムのマイナー化を招来する。

今回の「八百長メール」発覚は、警視庁による野球賭博捜査を発端にしたものであって、「相撲記者クラブ」の取材によるものではない。ここから一点突破全面展開、大相撲という伝統芸能界が引きずっている「悪しき伝統」が、相撲界から一掃されることを期待する。相撲記者クラブも、もうわかっていることなのだから、大相撲を一般のスポーツと同等に報道することを諦めたほうがよい。