2011年4月8日金曜日

『古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?』

●ピーター ブラウン (著) ●刀水歴史全書 ●2940円

繁栄を誇ったローマ帝国が滅びた理由は何か――古代史ファンならば、最も関心を寄せるテーマの1つだろう。ゲルマン人の侵攻によるもの、疫病等の蔓延によるもの、キリスト教徒の信仰の力によるもの・・・その他諸々の理由が思い浮かぶ。もちろん、それらを組み合わせて、複合的な要因とすることもでる。

さて、余談だが、筆者も西欧古代歴史に興味をもつ者の一人。筆者はこれまで、イタリアのローマ、ミラノ、ラヴェンナ、シチリア島、チュニジア、ギリシャ、トルコのイスタンブール(コンスタンチノープル)、イラン(ペルシャ)、アルメニア、グルジア等々を観光旅行したのも、もちろん、それらの都市・地域が、古代末期の世界の舞台だったからだ。

(1)ローマ帝国とは、ラテン語圏とギリシャ語圏の合成概念

ローマ帝国とは、大雑把にいえば、地中海世界のことだ。その西端は、ヨーロッパにおいては現在のイギリス・アイルランド・スペインあたり。さらに北アフリカのアルジェリアあたりまでが境界だと認識できる。ところが、その東端がわかりにくい。アルメニア、メソポタミア、シリア、エジプトあたりを境界だとすればいいのだろうが、日本人にはこのあたりの状況がイメージしにくい。にもかかわらず、古代末期の世界を知ろうとするとき、地中海東側の諸地域の動きは極めて重要なものとなる。

ローマ帝国とは大きく2つの文化圏の合成であったことを忘れてはならない。一方は西のラテン語圏、そしてもう一方は、東側のギリシャ語圏だ。筆者(日本人)にとって、ローマ帝国の歴史がわかりにくいのは、とりわけ、東側のギリシャ語圏になじみがないからではないか。ローマ帝国といえば、標準語としてのラテン語と、その言語で記述されたローマ法典が思い浮かぶくらい、ラテン語が帝国の共通言語だと思いがちだ。ところが実際には、東部では、ギリシャ古典文化が教養として継承され、ギリシャ語で文学・哲学等が記述され、キリスト教の受容においても、ギリシャ語を使って聖書が編纂され、キリスト教神学が深められていた。グノーシス派がその代表的なものだろう。

さらに、地中海世界を複雑化したのが、ローマ帝国と接していたペルシャ帝国の存在だった。ラテン語圏、ギリシャ語圏、ペルシャ語圏の3つの圏域は、地中海世界を構成する伝統であったのだが、筆者(日本人)には、こうした複合性を知る機会が少なかったような気がする。

(2)西ローマ帝国の崩壊

本書は、ローマ帝国滅亡の理由を解き明かしたものではない。本書において帝国崩壊の理由が記されているのはたった一箇所、以下の引用部分だけだ。西ローマ帝国は崩壊したが、(東)ローマ帝国(後年の通称であるビザンツ帝国)は、西ローマ帝国崩壊(476年)後も、オスマン帝国に滅ぼされる1453年まで、およそ千年も存続した。このことは、世界史においてきわめて重要だと思う。西ローマ帝国の成立、発展及び衰亡、崩壊は普遍的ではなく、きわめて、地域的だったと筆者は直感している。
西ローマ帝国が崩壊した理由としては、モラルの低下や経済の後進性などさまざまなことが考えられるが、最大の理由は380年から410年にかけて、セナトル貴族と教会が軍隊や役人と絆を断ってしまったことにあった。意図しないままセナトル貴族と教会は、軍隊と役人の活力を殺いでしまったのである。彼らは、軍隊も役人も自分たちにとって必要のないものと考えられるようになっていた。(略)つまり西ローマ帝国の崩壊は、セナトル貴族の台頭と教会の勢力拡大がもたらした結果だったのである。(P112)

“セナトル貴族”については説明が必要だろう。セナトル貴族とは、ローマの周縁である北アフリカやアキテーヌ地方の小さな都市に住む新興貴族のこと。彼らは広大な領地の邸宅で「オティウム(孤独な思索)」を楽しむことを理想とした。彼らとガリア地方、スペインに登場してきた新しい支配層とは、同じような傾向をもっていた。両者は、西ローマ帝国(中心)に対する忠誠心、愛国心を失っていて、外敵との戦争や帝国中枢への政治的・行政的改革に無関心であった。自らの圏域に注力し、自らの権力と富を維持することに熱心だった。そして、彼らは新興のキリスト教と結びつくことになった。

(3)「正統的世界史」の歪み

もう一歩、踏ん張って考えてみると、ローマ帝国は、先述したとおり、その西側(ラテン語圏)を476年に失いながら中世を生き抜き、15世紀まで存続した。東ローマ帝国は、自らをローマ帝国と称し、しかも、オリエント世界からは、ルーム(ローマ)と呼ばれた。ビザンチン、ビザンツという帝国の名称は、後世の便宜的呼び方にすぎない。

ここに、世界歴史の「継続性」の歪みがみてとれる。世界史が、古代ローマ(ラテン)→中世ヨーロッパキリスト教世界→近代欧米(中心主義)、に継承されるという、正統的歴史観の神話だ。古代地中海世界の変容はローマ帝国の滅亡とは必ずしも一致しない。西側が消滅し、ゲルマン諸族が支配する中世ヨーロッパが誕生したからといって、ローマ帝国が消滅したわけではない。にもかかわらず、後世の欧米の歴史家は東のローマ帝国をビザンツ帝国としてローマ帝国と峻別し、その存続をローカル(異端)な歴史に限定したように思える。その結果として、筆者(日本人)は、ローマ帝国の継承者と“自称しているにすぎない欧米人”による世界史解釈を鵜呑みにしてきた。

(4)古代末期とはどういう時代だったのか

本書が規定する「古代末期の時代」とは、西暦200年頃~700年頃のことをいう。後年、中世といわれる時代、西欧はカトリック教会の世界を、東ローマ帝国はギリシャ正教会の世界を、さらにその東側の圏域はイスラム教の世界を――形成した。3つのうちのどちらが“正統”ともいえないし、三者に優劣があろうはずがない。中世とは、3つの宗教的圏域が並存した時代だった、とみるべきだろう。

古代末期、地中海西部(西欧)においては、(一)西ローマ帝国が消滅し、ゲルマン民族による諸国家の建国と滅亡が繰りかえされつつ、カトリック教会圏へと歩みを始めた。また、(二)地中海東部では、コンスタンチノープルを中心としたビザンツ帝国(ローマ帝国)が西から分離し、東方正教会圏としてその勢力を確立した。加えて、(三)オリエント世界では、ペルシャ帝国の伝統を基盤として、イスラム帝国が確立されようとした時代だった。

ローマ帝国が西(ラテン)と東(ギリシャ)の合成であったことは既に述べたので、ここでは、ローマ帝国と交戦を繰り返していたオリエントについて、話を進めておこう。
当時のヨーロッパ人にとって、イスラム帝国は巨大なオリエントの力を象徴する存在であった。イスラム帝国は、その力をムハンマドから得ていたわけでも、7世紀に征服戦争を戦ったベドウイン遊牧民から得ていたわけでもなかった。それは、8世紀から9世紀にかけて復活してきたペルシャ帝国の伝統から得ていたのである。
こうして古代末期、「肥沃な三日月地帯」をめぐるビザンツ帝国とペルシャ帝国の争いで曖昧になっていたヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の境界線が、地中海を境に引かれることになった。イスラム教徒は、地中海の対岸にいた貧しいヨーロッパ人を無視することにしたのである。(P201)
あるものの終りは、新しいものの始まりである。古代の終りは、中世の始まりであるものの、突然まったく新しいものに生まれ変わったわけではない。古代地中海世界を構成していたギリシャ、ラテン、ペルシャの3つの伝統が、それぞれ、東方正教会、カトリック教会、イスラム教という新興宗教のパワーを借りつつ、それぞれの世界に進もうと、新しい歩みを始めようとした時代=古代末期があった。

古代末期が筆者にとって魅力的に写るのは、衰亡、崩壊のデカダンスよりも、伝統と新勢力が融合し、新世界が生まれようとしているパワーを感じるからだ。