2013年8月23日金曜日

昭和の歌姫

加藤和彦(62歳没)、尾崎紀世彦(69歳没)、そして藤圭子(62歳没)・・・筆者が若いころ大スターだった歌手が、60代でこの世を去っていった。うち、加藤と藤は自死による。

彼らの全盛期――時代は高度成長期、時代がそして人々が、豊かさに向けて疾走していたときだった。歌手はその希望を、そして不安を、あるいは呪いを歌った。

この3人の歌手はそれぞれ個性的だったし、それぞれ役割を分担していた。加藤は当時の若者の心情を素直に歌い、尾崎は日本のPOPSを洋風に完成させてみせた。そして、藤は、演歌を「怨歌」たらしめた。

芸能界においては、人間そのものが商品だ。商品(レコード・CD等)を売るためばかりではない、ライブのチケットを完売し、TV・雑誌等の媒体露出度を上げるためには、歌手の人間的部分(=個性)を捏造することも常識の範囲だ。貧しい少女時代、暗い生活を背負い、豊かさの裏側に潜む闇の世界から突然やってきた歌姫・・・そんなイメージ設定で若手女性演歌歌手を売り出すこともあっただろう。藤圭子はそんなイメージ・コンセプトに基づき、売り出された「歌手」だったかもしれないし、事実そのとおりの「歌手」だったかもしれない。無数の消費者のなかの一人にすぎない筆者には、藤、尾崎、加藤の本当の顔を知るよしもない。

筆者はそういう芸能界のあり方が正しくないとは思わない。人々が望むものが「良い商品」である限り、芸能(エンターテインメント)界がそうであっていけないはずがない。エンターテインメント業者が芸術的価値よりも、売れる(支持される)価値を求めて悪いはずがない。だから、3人が犠牲者だとは思わない。人が死ぬのは、死因のいかんを問わず、神が決定する。

改めて偉大な3人の芸能人に 合掌