2022年8月15日月曜日

『現代思想入門』

●千葉雅也〔著〕 ●講談社現代文庫 ●900円+税 

 はじめに断っておくと、拙稿は書評のレベルにない。現代思想の初心者である筆者が本書をテキストとして読みながらノートをとったものにすぎない。以下、本書のなかから主に、デリダ、ドゥルーズ、フーコー、ラカン、レヴィナスに係るノートを公開する。

  さて、本書の構成は次のとおりである。
第一章から第三章まで:デリダ、ドゥルーズ、フーコーの解説、第四章:ニーチェ、フロイト、マルクス、第五章:ラカン、ルジャンドル、第六章:「現代思想のつくり方」と題され、ドゥルーズからレヴィナスを介して、ポスト・ポスト構造主義への展開の序章のような内容となり、マラブー、メイヤスらの解説がつく。第七章:ポスト・ポスト構造主義(ハーマン、ラリュエル)の解説。そのあとに「現代思想の読み方」という付録がつき、おわりに「秩序と逸脱」で締めくくられる。
 著者(千葉雅也)がデリダ(1930 - 2004) 、ドゥルーズ(1925 - 1995年) 、フーコー(1926 - 1984)から解説を始めたのは、この3人が現代思想の出発点だと認識するからだろう。そこで提示されたキーワードが脱構築である。脱構築とは、《二項対立のどちらをとるべきか、では捉えられない具体性に向き合うもの(P32》と定義される。また、脱構築とは「二項対立を揺さぶる」こととも別言される。
 脱構築を最初に提唱したのはデリダで、差異は同一性と対立するといい、同一性はものごとの固定的な定義であり、差異は定義に当てはまらないようなズレや変化を重視することとした。著者(千葉雅也)はデリダの態度を〈概念の脱構築〉と、以下、ドゥルーズを〈存在の脱構築〉、フーコーを〈社会の脱構築〉と、それぞれ名づけ解説する。 

(一)デリダ 

差異の哲学 

 《ポスト構造主義=現代思想とは「差異の哲学」である(P35)》。差異とは同一性と対立し、物事を「これはこういうものである」とする固定的定義、すなわち同一性に対して、逆に、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考である。この思考方法はドゥルーズに引き継がれ深化された。同一性と差異は二項対立であるが、この二項対立において差異を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だというのが現代思想の大方針となる。さらに脱構築について、デリダは、脱構築によって全部を破壊しろと言っているわけではなく、それは「介入」であるという。
 著者(千葉雅也)は、《「仮固定的」な状態とその脱構築が繰り返されていくようなイメージ(P36~37)》として、デリダの世界観を捉えてほしいという。著者(千葉雅也)がいう「仮固定」とは、物事には一定の状態をとるという面もあるが、その一定の状態は絶対ではなく、仮のものだというところから著者(千葉雅也)が名づけた概念である。脱構築は現代思想においてはさらに徹底され、「同一性と差異の二項対立も脱構築する」ことが必要だという。 

 それはつまり、とにかく差異が大事だと言うだけではなく、物事には一定の状態をとるという面もあるということです。ただし、その一定の状態は絶対ではなく、仮のものです。ここで「仮固定的」な同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来が現代思想の本当の醍醐味である、ということになるでしょう。(P37) 

(二)ドゥルーズ 

Avs.非Aという二項対立の脱構築 

 ドゥルーズ=存在の脱構築に入る前に「排中律」にふれておこう。通常の認識では、AとBがバラバラに、区別して存在すると捉えられる。Bとは非Aである。アリストテレスの『論理学』では、「選択肢Aと非Aを前にして、Aと非Aが同時にあるという第三の可能性はない」とされ、これを「排中律の法則」という。BとはAではないもの、区別されて存在するというのは対立関係にある。しかし、《ドゥルーズの見方では、ものごとは多方向に超複雑に関係しあっている。その関係性が「リゾーム」と呼ばれるものでした。つまり、Avs.非Aという二項対立を超えて=脱構築して関係し合っているということで、その意味で、リゾーム的に物事を見るのは「存在の脱構築」だと言える(P110)》という。 

(三)フーコーの権力論 

規律訓練=自己監視する心の誕生 

 フーコーの権力論は、①王様がいた時代→②近代→③現代という三段階で考えられている。そして近代化の最も重要な時期を17~18世紀におく。この時代の前は、王の権力行使はみせしめ、拷問(残酷な刑罰)を与えて見世物にしたりして、王の権威を示威するものだった。それゆえ、犯罪や逸脱は権力に見つからなければいい、ということになる。
 それにたいして、前出のとおり、17~18世紀を通して権力のあり方が規律訓練へと移行する。権力というと一般には、支配(能動)と被支配=隷属(受動)という二項対立でとらえられているが、フーコーは支配される側が、受け身ではなく、むしろ「支配されることを積極的に望んでしまう」ような構造があるということを明らかにする。権力とは上から押しつけられるだけでなく、下からそれを支える構造もあるということだ。権力とは上と下が絡まり合いながら複雑な循環運動として作用している、つまり権力とは「無数の力関係」であると。
 またフーコーは、「正常」と「異常」の脱構築を進め、「近代」が隔離すなわち精神病棟・監獄の誕生から、自らが権力に馴致していく規律訓練(しつけ・監視)により、支配者が不可視化されることを明らかにする。そうなってしまうと、権力による一方的な支配から脱することはできないのではないか、そこから脱するにはどうしたらいいのかという素朴な疑問がわいてくる。その問いに対して、《権力構造、あるいは「統治のシステム」の外を考えること。秩序の外部への「逃走線」を引く(ドゥルーズ)ことが重要(P87》だ、と著者(千葉雅也)はいう。単なる二項対立的構図での抵抗運動では、逃走線を引くことになるどころか、むしろシステムに囚われたままになる、という解を与える。 

生政治 

 個人に働きかける権力の技術を規律訓練とするならば、大規模な集団、人口として被支配者を扱う統治が18世紀を通して成立する。こちらの権力の側面を「生政治」とよぶ。《生政治は内面の問題ではなく、即物的なレベル、たとえば、出生率をどうするかとか、人口密度を考えて都市をいかに設計するかとか、そういうレベルで人々に働きかける統治の仕方(P98)》をいう。著者(千葉雅也)は規律訓練と生政治のちがいについて、新型コロナをめぐる社会のありようを例に出して次のように説明する。 

「感染拡大を抑えるために、出歩くのを控えましょう」といった心がけを訴えるのが規律訓練で、「そうは言ったって出歩くやつはいるんだから、とにかく物理的に病気が悪くならないようにするために、ワクチン接種をできるかぎり一律にやろう」というのが生政治です。(P99) 

(四)ラカン 

精神分析による人間の定義~人間は過剰な動物である 

 人間は他の動物と比較すると、本能的必要性以上のこと、多様なことを行う。本能とは「第一の自然」であり、人間はそれを「第二の自然」であるところの制度によって変形する。人間はそもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、整流していく。そのことが人間の発達過程である。自由に流動する認知を精神分析では、本能と区別して「欲動」という。この欲動の可塑性が人間性だという。可塑性とは、そもそもは固体が外力を受けたときにおこるひずみは、ある限界までは外力を除くと、もとの状態に復する(つまり弾性である)のだが、その限界(=弾性限界)を超える力がかかると、この内部からの応力は急激に減少してしまい、永久的な変形をさせることが可能となることをいう。つまり、欲動により人間がもとに戻らなくなる状態を可塑性と表現する。
 逸脱による再形成とも別言できる。欲動のレベルによって成立するすべての対象との接続を精神分析では「倒錯」と呼ぶ。つまり、人間のやっていることはすべてが倒錯的なのだということができる。それを、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築するという。本能的傾向と欲動の可塑性のダブルシステムを考える(ジャン・ラプランシャン)ということになる。 

ラカンの発達論 

(1)母の不在と死の欲動(享楽) 

 ラカンの発達論である。現代思想を考えるうえで避けて通れない箇所なので、やや詳しく紹介する。
 子供は当初、まだ自己が独立しておらず、母と一体的な状態にある。いわゆる母子一体の状態。ここでいう母とは、その存在なしでは生き延びられない他者という意味。ところがその存在はつねに自分のそばにいてくれるわけではなく、自分を置いて台所やトイレに行ってしまったりする。子供はそのような分離を少しずつ経験する。そうすると、ひじょうに不安な状態に耐えなければならない。母の欠如を穴のようなものだとすると、まさに心にひとつの穴が空く。精神分析的には、母が必ずしもそばにいてくれないということが最初にして最大の疎外となる。疎外とは理想的な状態から弾き出されることことをいう。母がいたりいなかったりすることが子供にとって、根本的な不安を引き起こすが、それは母なる偶然性のためだ、という。
 母が消え強烈な不安で緊張するが、その後母が戻ってきて抱かれ乳をくれる。それは極端なマイナスからプラスへの逆転で不安が大きいほど、引き換えに途方もない快が得られる。第一の快は緊張が解けて弛緩すること、すなわち安心である。第二の快は偶然に振り回され、死ぬかもしれないギリギリのところを安全地帯へ戻ってくるというスリル。これは不快と快が入り混じったようなもので、第一の快より根本的なものである。第一の快の定義が「快楽」であり、第二のほうはむしろ、死を求めているようですらあるわけで、フロイトのいう「死の欲動」という概念があてはまる。ラカンはこれを「享楽」と呼んだ。
 子供は不可欠なものを呼び寄せる最初のアクションであるところの、泣き叫び(母を呼ぶ)をする。これは生命維持のためであり、欲望の根源である。子供は成長とともにおもちゃなどで遊ぶことになるが、そういった対象には、母の代理物という面がある。いわゆる母との関係の変奏としての展開である。成長してからの欲望には、かつて母との関係において安心・安全(=快楽)を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び(=享楽)を味わったことの残響がある。

(2)父の介入 去勢 

 母と子の密接な二人の世界を邪魔するのが父(概念的にいえば第三者)である。母子の一体化を邪魔=禁止する、父は第三者的な外部すなわち「社会的なもの」を導入する人物となる。このことを通じて、子は自分以外の誰か=第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰かによって自分から奪われる、という「感じ」が成立してくる。父=第三者は、母を自分から奪う、憎むべき存在であり、母を奪い返さなければならないということになる。これがいわゆる「父殺し」の物語であり、以上のプロセスを精神分析では「エディプス・コンプレックス」と呼ぶ。また、こうした父の介入を、精神分析では「去勢」と呼ぶ。「客観世界は思い通りにはならない、だからもう母子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせることが去勢である。 

(3)欠如の哲学 

 母の欠如を埋めようとするのが人生である。しかしそれは決して埋められない。絶対的な安心・安全はありえない。根本的な欠如を埋めようとすることがラカンにおける「欲望」であり、その意味でラカンには「欠如の哲学」がある。自分が欲しているものの背後には幼少期の根本的な疎外との複雑なつながりがある。これを手に入れなければと思う特別な対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対象a」という。人は対象aを求め続ける。

(4)ラカンの三つ組の概念 想像界・象徴界・現実界 

 第一の「想像界」とはイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせる。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域をいう。これはカントの『純粋理性批判』における感性(→想像界)、悟性(→象徴界)、理性(→現実界)に対応しているようにみえる。
 人間の発達では、まずイメージの世界が形成される。生まれたばかりの赤ん坊は対象を十分区別できず、すべての領域が曖昧でぼんやりつながっている。そこから言語が介入する。言語が行うのは「分ける」こと、名前を与え、イメージのつながりを切断し、制限する。その過程で、子供は自分自身の姿を初めてみることになる。それも鏡によってである。そのひとまとまりのイメージを自分のものとして引けるようになる。このことをラカンは「鏡像段階」と呼ぶ。自己イメージはつねに外から与えられるというのがラカンの重要な教えである。そして前出の「去勢」によって、想像界に対し、象徴界が優位になる。混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。象徴界の優位とは、世界が客観化されること、原初のあの幸福と不安がダイナミックに渦巻いていた享楽を禁止することを意味する。
 意味以前的にそこにあるだけというのが三番目の現実界である。それは成長する前の、あの原初の時、刺激の嵐にさらされ、母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安ゆえの享楽の時をいう。それが認識の向こう側にずっとある。
 人は本当に欲しかったもの、「本当のもの」を求め続けている。本当のもの=何か=対象aを得ても、「本当のもの」はまた遠ざかる。対象aを転々とすることで到達できない「本当のもの」=Xの周りをめぐることになる。このXが、イメージにも言語にもできない「いわく言いがたいアレ」としての現実界、原初の享楽である。この捉えられないXというのは二項対立を逃れる何か、グレーで、いわく言いがたいものである。 

(5)否定神学 

 日本の現代思想では、いわく言いがたいXに牽引される構造を「否定神学的」という言い方をする。否定神学とは、「神とは何々である」と積極的に特徴づけるのではなく、神を「神は何々ではないし、何々でもなく…」と決して捉えられない絶対的なものして無限に遠いものとして否定的定義するような神学のこと。まさにそうした神の定義と、このXのあり方は似ている。我々は否定神学的なXを負い続けて失敗することを繰り返して生きている。 

(6)「いわく言いがたいアレ」と現代思想 

 カントにおいては、前出の通り、否定神学的なXは「物自体」に相当する。繰り返せば、人間が経験しているのは現象であり、現象は感覚的なインプットと概念の組み合わせでできていて、その向こう側に本当の物自体があるのだが、物自体にはアクセスできない、という図式を『純粋理性批判』で提示した。これがラカンの三つの界と対応する。カントが現象と呼んでいるのは想像界と象徴界の組み合わせ。人間はイメージ(感性)と言語(悟性)によって世界を現象として捉えている。しかし、その向こう側に現実界(物自体)があり、それにはアクセスできない。にもかかわらず、それにアクセスしようと思っては失敗し続ける。
 フーコーは、このような近代的人間のあり方を『言葉と物』で示した。それによると、近代以前にはまず、神が無限の存在であり、神がつくった世界は総て隈なく秩序的であって、人間はそのなかに含まれていた。人間は有限であり、有限にできることをやるしかなかった。しかしそれ以降、有限性の意味が変わる。神と比べて人間が有限なのではなく、人間自身に限界があるために世界には見えないところがある、という自己分析的な思考が立ち上がる。人間にわかっていることの背後には何か見えないもの、暗いものがあって人間はそこに向かって突き進んでいくのだ、というような人間像になっていく。

(7)〈否定神学システム〉と〈否定神学批判〉 

 ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムの一番明らかな例である。そしていかに否定神学システムから逃れるかという考察を、「否定神学批判」と呼ぶことがある。これが日本現代思想の特徴である。捉えられない「本当のもの」=Xについては、デリダ、ドゥルーズの哲学にもあったし、同時にそこから離れる運動も彼らにはあった。人間はなんとかそれを捉えるために新たな二項対立を設定して、またとり逃し……というように生きていく。 

(五)レヴィナス  

ハイデガーの存在論批判と「他者の哲学」 

 レヴィナスは「他者の哲学」と呼ばれ、ハイデガー存在論を仮想敵として出発した。ハイデガーは物事がただ「ある」という、その「存在そのもの」をいかに思考するかという、極端に基礎的で、きわめて展開が難しい問題に集中した哲学者であった。
 レヴィナスは、ハイデガーの存在論の極端な抽象性にたいして、そこには他者が排除されていると抵抗する。その論拠は、すべて「ただある」という根本的な共通地平にすべての存在者が載せられてしまうことによって、抽象的な意味での共同性のなかにすべてが回収されてしまうと考えたからだ。
 ユダヤ人であるレヴィナスは、ハイデガーが一時期ナチに加担したという事実をふまえ、ハイデガー存在論、ひいては西洋哲学史の道行き全体が帯びているある種の危険性を(ユダヤ人であるがゆえに)哲学的に告発しようとする。レヴィナスは、ハイデガーの存在論を「存在論的ファシズム」とみなした。レヴィナスは超抽象的なレベルにおける政治性を考えたとも言える。存在論という極端な抽象性に抵抗する、ラディカルな意味での他者性というところから、ハイデガー批判を開始したことになる。 

「無限」であるような他者を超越論的次元におく 

 存在論は哲学の極みである。存在することそれ自体を考えるところまで極まったら、それ以上の根本はないと考えるのがふつうである。だがレヴィナスは、前出の通り、そこでなお、他者が排除されているという。レヴィナスは、存在から始めるのではなく、他者との向き合い、他者との距離から総てを始め直さなければならないという立場をとる。レヴィナスは「無限」であるような、他者を超越論的な次元に置く〔後述〕。これはひとつの極端化〔後述〕である。他者を「無限」と捉え、そして存在の地平を「全体性」と捉える。これはひじょうに強力な二項対立である。この論に対してはデリダから脱構築的介入があったようだが、ここではその論争を省略する。
 レヴィナスはその後、「存在するとは別の仕方で」というキーワードを提出する。フランス語では「Autrement qu’ être」、英語では「Otherwise than being」である。『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』という著作のタイトルである。
 存在という抽象的な全体性の地平から、なお外れるような他者――ドゥルーズ的に言えば、存在の全体性から逃走線を引くこと――を考えたとき、その他者はいったいどのように「ある」のかが問われる。それはもはや「ある」とは言えない。なぜなら、「ある」と言ってしまったら、ただちに存在論に引き戻されるからだ。
 そこで、言葉に無理をさせる必要が出てくる。「ある」というのは我々にとって根本的であるが、さらにそこから外れるものをかろうじてすくいとるために、存在するとは「別の仕方で」「別様に」というふうに、もはや副詞でしか言えないことを言おうとする。

(六)現代思想のつくり方 

 著者(千葉雅也)は現代思想をつくる四つの原則として、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則――を挙げている。

①他者性
:現代思想において新しい仕事が登場するときは、まず、その時点で前提となっている前の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている、取りこぼされているということを発見することから始まるという。〔前出〕
②超越論性の原則
:超越論的なものとはカントの概念(『純粋理性批判』)で、人間がものを認識し思考するときの前提として、人間の精神にはあるシステム、いわば、OS〔注1〕があり、それによって情報処理しているということを論じた。このOSをカントは「超越論的」と形容した。このことを踏まえて、何かある事柄を成り立たせている前提をシステマティックに想定するとき、それを超越論的と呼ぶ。〔前出〕 

〔注1〕 【Operating System】  / 基本ソフトのこと。OSとは、ソフトウェアの種類の一つで、機器の基本的な管理や制御のための機能や、多くのソフトウェアが共通して利用する基本的な機能などを実装した、システム全体を管理するソフトウェアである)

③極端化の原則
:現代思想ではしばしば、新たな主張をとにかく極端まで推し進める。排除されていた他者性が極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定する。
④反常識の原則
:③において、ある種の他者性を極端化することで、常識的な世界観とはぶつかるような、いささか受け入れにくい帰結が出てくる。しかし、それこそが実は常識の世界の背後にある、というかむしろ常識の世界はその反常識によって支えられているのだ、反常識的なものが超越論的な前提としてあるのだ、という転倒に至る。 

(七)ポスト・ポスト構造主義

 マラブー(1959~)、メイヤスー(1967~)、ハーマン(1968~ )、ラリュエル(1937~ )を取り上げている。21世紀に入ってからの、西洋におけるポスト・ポスト構造主義は、ポスト構造主義的な同一性と差異の二項対立をさらに脱構築するというかたちで展開するものだという。 

おわりに 

 著者(千葉雅也)が現代思想について考えてきたことは、「秩序と逸脱」というテーマであり、本書は入門書であると同時に、その二極のドラマとして現代思想を描き直した研究書でもあるという。秩序を小馬鹿にした「冷笑系」でもなく、相対主義でもない。逸脱とは芸術的に生きることと通底するとも。そのような逸脱に向かう著者(千葉雅也)の資質というか、生き方に共感を感じる者は筆者を含め、少なくないと思われる。(了)