2010年5月2日日曜日

教会


@Nezu

スターリンの亡霊



旧共産圏の東欧には、支配者だったソ連や、その権力者・スターリンを揶揄する定番のジョークがあった。

“この街で一番の景色を見るとしたら、どこがいいのかね?”

“そりゃあ、あの塔の上が一番さ”

“どうして・・・”

“だって、あの塔が絶対に見えないじゃないか”

往時、東欧を支配したソ連は、東欧各国の主要都市に高い塔や無骨な高層建築物を建てまくった。この手のジョークは、それがいかに醜く、東欧の歴史的街並みにそぐわないものであったかをいまに伝えるものの1つだ。

さて、「東京スカイツリー」である。筆者は、この鉄の塔の存在を忌々しく思っている。東京の街並み、とりわけスカイラインは破壊尽くされ、いまさらスカイツリーが建てられたとしても、美観に影響を及ぼさない、といえるかもしれないが、筆者の拙宅の窓から見えることが気に入らないのである。

幸いにして、日本で一番高かった東京タワーは拙宅から絶対に見えない位置にあるので気にならない存在だが、スカイツリーは嫌でも、ベランダの真正面に聳え立つ。それは、不気味な墓石のようにも、また、壮大な無意味さ、虚無のようにも映る。

さて、20世紀の到来を記念して、パリにエッフェル塔が建てられようとしたとき、パリ市民の多くが反対をした。しかし、時の経過とともにエッフェル塔はパリを代表する建築物になった。古いものを守ることも大事だが、新しいものを受け入れることも大切だといわれる。それが、生活に必要な電波環境の向上のために必要なのだから、高い塔を建てることは必然なのだと説明される。パリにエッフェル塔が必要だったように、東京にも、いま、スカイツリーが必要なのだと。

科学に無知な筆者には、「東京タワー」が無用になった理由が分からない。エッフェル塔が電波塔なのかどうかもわからないのだが、パリに2つも塔はないし、新しく建てる計画も聞いたことがない。ニューヨークやロンドンにはあるのだろうか、なぜ、東京には、2つもの高い電波塔が必要なのだろうか・・・

筆者には、だから、スカイツリーを観るたびごとに、日本には、「日本型スターリン」が存在しているのだと確信している次第である。

2010年5月1日土曜日

不覚にも



GW前に風邪を引いた。

風邪を引いたのは何年ぶりかのこと。

調子がよかっただけに誠に残念。

家でゴロゴロして休養するしかない。




@Yanaka

2010年4月27日火曜日

都市の詩学(その3)



都市にあって、古さ(歴史)は重要。

敢えて新たに「古いもの」をつくることがある。

それが「洋風」であることの是非は問わない。

2010年4月26日月曜日

都市の詩学(その2)



芸術作品が歩道や広場に設置されることがある。

行交う人々の「心」を芸術的に「高める」ためなのだろうか。

2010年4月25日日曜日

都市の詩学







東京・丸の内の再開発がほぼ完了したようだ。

日本の大財閥・M地所がその威信を賭けて取り組んだ事業だ。

整備された道路の両側には、欧州の高級ブランドショップが配され、歩道には芸術作品が配置されている。

美術館もあるらしい。

町並みのイメージは、欧州の新市街というよりも、シンガポールのオーチャードストリートに近い。

建物がどれも高層ビルだからだろうか。

2010年4月5日月曜日

眩暈

夕方、事務所で、急に眩暈がして足元がふらついた。

やばい。理由は不明。

帰宅途中、慎重に、地下鉄のホームの縁を歩かないように、ゆっくりと歩いた。

自宅に戻り、グルタミンを摂取し、夕食をゆっくりとったら、平常に戻った。

ふ~。



やっぱり年か・・・

2010年4月4日日曜日

猫の寺


@Yanaka

満開



桜が満開。谷中霊園にも花見客がたくさん訪れた。

2010年3月21日日曜日

文豪居住の跡







所用で上野に行き、池之端から根津を経て帰宅した。

徒歩で2時間弱である。

路地に桜草が咲き乱れていた。

2010年3月7日日曜日

ASAKUSA

所用で浅草へ。何年ぶりだろうか。筆者は十数年前まで、正月といえば知人と浅草寺に集まり、初詣を欠かさなかった。ところが、そんな集まりも自然に解消され、以来、浅草に行くことがなかった。

久々に歩いてみると、日本酒で有名なMが閉店し、その近くのふぐ料理の店も見当たらなかった。その代わりというわけでもないだろうが、新しい飲食店、アクセサリー店、古道具屋・・・などができているようだ。

下町・レトロブームというわけで、寒い雨という悪天候にもかかわらず、かなり混雑していた。

昔に比べれば、町並みも明るく、清潔になったような気がした。

まちが元気になることはいいことだ。

2010年3月1日月曜日

京都駅

 
Posted by Picasa


1年ほど前、携帯で写した京都駅。なんとなく、京都に行きたくなったので、載せた次第。

2010年2月24日水曜日

『吉本隆明の時代』

●絓秀実 ●2940円 ●作品社

(1)吉本隆明の年譜

本書の感想をまとめる前に、本書と関連する年代までの吉本隆明の略歴を見ておこう。これによって、本書が描いている時代の雰囲気がおおよそつかめると思う。

【吉本隆明略歴】

1924年 東京市月島生まれ。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工
1937年 東京府立化学工業高校(現 東京都立化学技術高校)入学
1942年 米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学
1945年 東京工業大学に進学
1947年 東京工業大学工学部電気化学科卒業
※大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、労働組合運動で職場を追われる。
1949年 東京工業大学の特別研究生の試験に合格
※給与を受けながら東京工業大学無機化学教室にもどり稲村耕雄助教授に就く。
1951年 特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手、東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職
1952年 詩集『固有時との対話』を自家版として発行
1953年 詩集『転位のための十篇』を自家版として発行
1954年 「荒地新人賞」を受賞 「荒地詩集」に参加
同年6月「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表
1956年 初代全学連委員長の武井昭夫と共著『文学者の戦争責任』を発表
同年   東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職。
※同社退職後、長井・江崎特許事務所に隔日勤務。1970年まで同事務所に勤務継続。
1958年 『転向論』を発表
1959年 『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行。
1956年から1960年 花田清輝とのあいだで激しい論争を展開
1960年「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。
※60年安保闘争では全学連主流派に同伴・通過。6月行動委員会を組織。6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加。6月15日国会構内抗議集会で演説。「建造物侵入現行犯」で逮捕、18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞。
1961年 雑誌「試行」を創刊。
※その後『試行』において『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載。同誌は1997年12月19日付発行の74号にて終刊した。
1962年 「擬制の終焉」を発表
1965年 『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行
1968年 『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行
同年10月『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。
同年12月『共同幻想論』を河出書房新社より刊行
1971年 『心的現象論序説』を北洋社から刊行。

(2)吉本隆明の4つの論争

吉本隆明が発言者として日本の言論・思想界に現れたのが1950年代中葉。そして、1960年代を通じて、広く支持を受けるようになった。その間(およそ10年)、吉本隆明は、言論・思想界において、4つの大きな論争を引き起こしている。論争の相手は、花田清輝(1909-1974)、武井昭夫(1927-)、黒田寛一(1927-2006)、丸山真男(1914-1996)。中で最も有名なのが、最初の花田との論争で、武井との論争を含めて、転向が主たるテーマであった。

本書の大筋としては、この4つの論争のそれぞれにおいて吉本が「勝利」したことをもって、彼が思想言論界に確固たる地位を築いた、と結論づける。

(3)革命運動における敗北と挫折の論理化

吉本が多くの者から支持を得た理由は、吉本がそれぞれの論争に勝利したからではない。彼がそのときどきの一部大衆の求める問いに対して、適正な回答を用意したからである。その最も重要なものの1つは、彼が左翼革命運動参加者に対し、その敗北の後のあり方を示したことだ。それを知識人論というのならばそのことゆえである。

前出の年譜で分かるように、吉本は職業としての「知識人」として自活する前、2度、職場を追われている。吉本が労働運動において、どのような活動家であったのかわからないが、「戦後革命」の自覚の下に労働運動に参加し、退職勧告を受けるほどのものだったと推測できる。そのとき、吉本は深刻な「パン」の問題に直面したことであろう。

その後に起った60年安保闘争において、彼はブントのデモの隊列に「一兵卒」として参加し逮捕された。労働運動及び60年安保闘争において、彼は敗者として挫折した(疎外された)。

近代以降の日本の左翼陣営において、革命を志向した知的大衆(学生)は数え切れないくらい存在し、そのうちの少数が体制内「革命組織」の官僚として「パン」を得るか、「革命的」もしくは「反革命的」もしくは「文学的」とかいわれる範疇に属する職業――たとえば大学教授・研究者、批評家、思想家、文学者等――に就いて「パン」を得る。その職にあずかれなかった多数の知的大衆は、企業に就職するか自営業者として「パン」を得る。彼らは卒業や結婚等の生活上の諸事項を契機として、左翼運動から離脱を余儀なくされる。自由浮動性をもたない生活者として。

日本の左翼知識人は、革命論もしくはそれを基礎付ける思想を論ずることばかりで、革命運動の敗北・挫折もしくは失敗の後を論じなかった。戦後革命の挫折の後、60年安保闘争の敗北の後、活動家の気分を韜晦する文学作品が世に出るにとどまっていた。政治党派にあっては、新旧を問わず、常に「革命勝利」と総括される(た)のである。

(4)「敗者」を救った転向論

アジア・太平洋戦争終了後の日本の知的大衆は、「敗戦」そして、その後の「戦後革命の挫折」という、異質の敗北を短期間に経験した。そのとき、衝撃を与えたのが吉本の転向論だった。著者は吉本転向論の肝を以下のとおりまとめている。
吉本の採った(既成左翼=スターリン主義者批判の)戦略は2つあった。1つは、非転向者に対して優位にある転向者を見出すという価値転倒をおこなうこと、そしてもう1つは党に代わる絶対的な価値を「大衆」として措定してみせること、これである。(P58)

吉本の「転向論」を一番歓迎したのは、転向文学者たちであった。彼らは非転向マルクス主義者への劣等意識にさいなまれてきたのが、吉本によって宮本顕治らよりも自らの転向が優位にあると思いえたのである。吉本の理論を敷衍すれば、宮本顕治の非転向は佐野、鍋山の転向よりも劣位にある。宮本顕治や小林多喜二はサイテーなのだ。なぜなら、佐野、鍋山にしても、ともかくは天皇制という大地制に触れているからだ。(P64)
転向者のほうが非転向者よりも上位にあるという吉本の断定は、50年代にあっては戦中の獄中転向者を救い、その後の60年安保闘争でも挫折者を救い、更に、60年代末から70年代初頭の新左翼・全共闘運動(以下「新左翼・全共闘運動」と略記。)の敗北者(多くは学生大衆)を救った。

吉本の転向論は、彼の「大衆の原像」もしくは「生活者第一主義」という独自の概念と通じており、これらの概念も含めて、運動に参加しながら新左翼党派のリゴリズム、規律・組織に失望した学生大衆や、卒業や就職等で運動から離脱を余儀なくされた学生大衆の精神の拠り所となった。

知識人というものは、普遍的であろうと専門的であろうと、呪われていようと選ばれていようと、職業革命家(前衛党内官僚)として、あるいは、知識や思想を“切り売り”する“売文”の徒として、「パン」を得られる者と定義できる。知識人の転向の問題が思想軸上の左(翼)と右(翼)の振幅の問題である一方、知的大衆の場合は、自由浮動性をもった学生という身分とそれをもたない生活者の背反性として現れる。学生大衆が直面する転向の問題は、革命的思想の獲得(知的上昇=自然過程)とパンの獲得(生活者)の対立であると吉本によって深化されて初めて、学生大衆の現実の進路の問題と重なったのである。大衆は、吉本の転向論に触れて、政治と生活の問題に立ち入ることができた。

(5)オルタナティブとしての<自立>

60年安保闘争の敗北後、吉本は、ブントから政治的ヘゲモニーを奪取した革命的共産主義者同盟(革共同)の指導者・黒田寛一批判を展開し、新左翼系知識人という範疇から離れ、自ら創刊した雑誌『試行』を根拠地として文筆活動に専念した。

60年安保闘争後、吉本は新左翼として職業的革命家の道を選ぶことなく、もちろん、時代迎合的知識人若しくは保守派知識人に移行することもなく、特許事務所勤務と同人誌編集発行という、「第三の道」を選択し実行した。吉本が示した「第三の道」は、学生運動に身を投じた若者が直面した、「パン」の問題に対する有益な回答となった。吉本は自らの選択を<自立>と命名したが、学生運動参加者が実生活に入るとき、彼らは、同人誌は創刊できないものの、体制を批判し過去と現在進行中の革命運動に共感しつつ、体制内賃労働者となっている自分の立ち位置を、<自立>だと自身に思わしめた。彼らがその後ずっと、吉本の本を買い続けた「吉本の良き読者」であったことは想像に難くない。

このような構造は、「新左翼・全共闘運動」終焉後に、拡大再生産されることとなった。同運動は、60年安保闘争をはるかに上回る数の学生運動参加者(戦後ベビーブーマーの参加)があり、それに応じた多数の革命運動からの離脱者を生んだからである。彼らもまた、吉本を信奉し、吉本の本を買う、吉本のよき読者であった。

(6)新左翼革命論の克服

第二の問題提起は、新左翼革命論の克服である。吉本が労働運動及び60年安保闘争参加の経験の中から既成左翼(日共及びソ連・中国等の疎外された社会主義国家群)に絶望し、60年安保闘争では新左翼党派のブントに参加したことは前出のとおりである。吉本が反スターリン主義を前面に押し出した思想家であることは明白だが、新左翼各派のそれとはアプローチが異なった。

60年安保闘争後、1967年10月21日の第一次羽田闘争以降、「新左翼・全共闘運動」を盛り上げた新左翼各派は、ヘルメット・ゲバ棒による街頭闘争=擬似的・演劇的暴力革命運動で成果をあげ、新左翼三派系全学連(革共同中核派・ブント・社会主義青年同盟解放派)は、大衆的支持を一時期ではあるが獲得した。しかし、権力側の弾圧強化により、新左翼の街頭闘争路線が行き詰まりをみせるようになってからは、新左翼の暴力の向かう道は、擬似的=演劇的暴力から、殺傷力をもった武器で権力を襲撃するゲリラ戦と、革命運動路線において対立する他党派との内ゲバ闘争に向けられてしまった。

たとえば、1970年の赤軍派ハイジャックが、当時でさえ過激なスターリン主義国家であると規定されていた北朝鮮を目的地としたことは(赤軍派が北朝鮮指導者を論破するという漫画的志を抱いていたか否かを問わず)、新左翼暴力革命の限界とスターリン主義克服の不十分性を明示していた。

また、革共同の革マル派と中核派(社青同解放派を含む)の内ゲバもしかりである。かりにも、新左翼党派が政権を奪取したとしたら、運動から離脱した学生大衆は、ポルポト派革命後のカンボジアのように、粛清されるか農村において強制労働をさせられるかのどちらかであろう。

新左翼各派の内ゲバ正当化の論理は、反革命を抹殺することが革命への道であるというもの。この論理は、ロシア革命においてレーニンがボルシェビキ主導によりプロレタリア独裁を成し遂げた歴史の事実に基づくならば、極めて危険かつ残念なことであるものの、革命の名において正しい。同時に、それは新左翼活動家に対し、革命の名において、現実の自由はおろか生存権すら奪い去られることを、(内ゲバ殺人や連合赤軍事件を通じて)証明してしまった。「新左翼・全共闘運動」後においては、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する道が求められていた。そして、そのとき、吉本が示した上部構造の独自性を証明するという思想的実験が、新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する決定打のように見えた。

新左翼の「内ゲバ革命論」を克服する手段は、新新左翼の前衛党を組織し、新しい革命運動を展開するとはいかなかった。そういう選択肢が成立しなかった。吉本の<幻想過程>という概念は、新左翼の運動方針を規定する下部構造決定論を克服するものとして、また、前衛党が必然的に醸成する全体主義=スターリン主義を克服するものとして、「第三の道」足り得た。このことは後述する。

(7)新左翼暴力革命論を越えようとした吉本と黒田

激しい論戦を繰り広げた吉本と黒田であるが、著者は、吉本が“(新左翼の中で)黒田寛一と革マルだけが本気ですね”という吉本と鮎川信夫との対談の中の発言を引用(P193)し、吉本と黒田に異類のなかの同種を見いだし、吉本は黒田を認めているかのようなニュアンスのことを書いている。吉本と黒田の間には、60年安保闘争を共に戦った戦友意識があるのかもしれないが、両者の論争の決着はどちらかの論理的破綻という結末を待つまでもなく、今日において意味を失った。黒田型の知識人と吉本型の知識人が60年代に並存し得た歴史的背景があったわけであり、その時代においては、一方が他方を凌駕したともいえないし、論争の決着もつかなかった。それぞれがそれぞれの役割を果たした。

黒田と吉本に共通項がある。それは、両者がともに、革命の必然性を“資本主義の危機”に結びつけなかった点と、暴力革命主義=実践の克服である。革マル派は「プロレタリア的人間」になること=人間革命――を志向する。唯一かつ無謬の前衛党(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)の下に労働者・学生が結集し、革命可能なときが到来するまで待機する。待機した挙句、どのような手段で権力を奪取し、その後にいかに権力を行使するものかは定かではないが、とにかく世の人をすべからく「プロレタリア的人間」に仕立て上げるための努力を党として、惜しまないはずである。革マル派による多数派が形成されないうちは、彼らは孤立した密教的集団として閉じこもるほかはない。そして、いま現に革マル派は、そのような少数集団として存続している。

吉本も<自立>を掲げて、運動、実践という直接行動から離れた。自然過程において上昇した「革命の論理」は生活で相対化される。大衆の内部におけるその繰り返しの外側、すなわち、資本主義社会は発展し、権力の交代がありえたとしても体制変革=自己変革が同時的に進行することはないように思えた。黒田と吉本が「待機」している間、すなわち、「新左翼・全共闘運動」の嵐とともに、新左翼党派は、唯武器主義的暴力主義へと自己純化を遂げ、強い党内規律で党員を縛り上げるスターリン主義集団に転化していった。反スターリン主義を掲げた黒田党=革マル派は、新左翼他党派と一線を画することを第一義として、最も急進的なスターリン主義党になった。

黒田が指導した革マル派は、前衛党に内在的に発生するスターリン主義を克服するという思考回路をもっていない。自らが唯一絶対の前衛党であるという無賿性のもと、組織を温存し、今日に至っている。彼らが彼らのいう「プロレタリア的人間」による「世界革命」を達成しうる可能性は限りなくゼロに近く、今日、その存在意義は皆無に近い。がしかし、消滅はしていない。特定の労働組合及び大学自治会の内部に根をおろし、カルト集団のように存続している。

(8)「平和と民主主義」を掲げる市民主義者の実像

吉本の第4の論争相手は、政治学者・丸山真男である。日本において本格的市民主義運動が台頭したのは、60年安保闘争のさなかのことであった。60年安保闘争が、「民主か独裁か」(竹内好)という選択意識の下で闘われたことはよく知られている。当時の自民党政権(岸信介首相)が強行採決によって日米安保条約改定を国会通過させたことが、日本の民主主義の危機だと考えられた。その結果、新たな無党派層(=「市民」)が反安保勢力を構成することとなった。新たな勢力とは、①鶴見俊輔、藤田省三らの『思想の科学』系知識人グループ、②日共反主流派で除名された構造改革派グループ、③東大法学部系(丸山真男に代表される)学者・知識人グループ、④宗教者・芸術家――の4派であった。また、既成左翼系には、日共と社会党のどちらかの息のかかった(下部組織である)労働団体・文化団体、婦人団体があり、さらに、まったくの無党派層(たとえば「声なき声の会」等)もあった。

本書には、60年安保闘争に加わった市民主義者が闘争にどのように関わったかが記述されている。今日あまり知られていないものも多く、たいへん興味深く読めた。以下、市民主義者の60年安保闘争への関わりの実相を本書に準じてまとめておこう。

(A)鶴見・藤田の幻の「東海道線転覆計画」

本書には、市民主義を代表する鶴見・藤田が、東海道線特急「こだま号」(当時、新幹線はない)の転覆を思いつき、しかも、その実行を革共同指導者の黒田寛一に依頼していたという、驚くべきエピソードが紹介されている。依頼を受けた黒田は、この計画を「ブランキズム」と批判した。当然である。共産党に代わる革命的前衛党建設を目指す黒田してみれば、前衛党を媒介にしない直接行動がプロレタリア革命の前進に資するとは思うはずもない。列車転覆が社会的混乱を一時(いっとき)、生じさせたとしても、革命的状況を切り開くはずがないと確信していたであろう。まさにプティプル急進主義の自殺行為としか映らなかったはずである。

そればかりではない。鶴見・藤田は、安保闘争が終焉した後、この計画が幻に終わったことを幸いに、自らの政治思想キャリアから計画の抹消を図った痕跡があるらしい。「市民主義者」のいう「平和と民主主義」という看板も、信用できるものではなさそうだ。「新左翼・全共闘運動」において、彼らは構造改革派と連合して「ベ平連」運動を展開、学生大衆から一定の支持を受けていたし、今日「ベ平連」再評価の動きもあるというから、市民主義者の実際の顔を当時も今も、探る努力は必要のようだ。

ではなぜ、「平和と民主主義」を掲げる市民主義者、しかも、大学教授の職(二人とも闘争中に辞職したが)にあったほどのエスタブリッシュメントが、このような無謀な直接行動計画に行き着いたのか――2人の着想のプロセスが本書からは皆目わからないのが残念である。

(B)丸山の自民党分裂工作

丸山真男は、東大法学部を根拠地として、「思想としての民主主義=永久革命としての民主主義」を説く政治学者である。彼の市民社会論を大雑把に言えば、民主主義が機能するインフラのようなものが市民社会ということになり、日本の江戸時代後期、明治維新、大正デモクラシー、戦後(8.15)革命を経て、60年安保闘争(6.19革命)に、日本の市民社会誕生の萌芽を認めるものである。

その丸山は、東大法学部系大物政治学者のコネを使って、自民党分裂工作を図ったという。もちろん、この工作は失敗に終わっている。安保闘争中に自民党分裂工作を画策したのが東大法学部の教授であるというのも面白い話である。

(9)経済決定論批判

本書では、著者が唱える「1968年革命」を代表する新左翼革命運動の論客の典型として、岩田弘を紹介している。岩田は、(今日=1960年代末)、世界資本主義は危機にあり、その最も脆弱な環である日本資本主義に危機が顕著に現われていると説き、プロレタリア日本革命から世界革命を展望するという革命戦略を唱えた経済学者である。

新左翼の革命戦略は、概ね、経済決定論的傾向をもっており、革マル派を除く新左翼の現状分析はすべからく、世界経済の危機を認識するところから始まる。岩田理論を掲げて新左翼内のヘゲモニーを獲得したのが共産主義者同盟マルクス主義戦線派(ブント・マル戦派)であった。彼らは経済危機が革命戦略を規定するという新左翼党派の典型を示している。というよりも、経済決定主義とは、戦前の日本のマルクス主義者及び前衛党(日共)から新左翼(革マル派を除く)に共通する傾向なのであるが。

しかし、岩田の経済決定論に対して、革マル派を筆頭とする新左翼他党派は、資本主義が自ら延命するメカニズムをもっている点、また、プロレタリアートが革命にいかに関わるかという主体と党の問題を捨象している点を指摘し、マル戦派を攻撃した。革マル派からの批判を党内に持ち込んだブント諸派はマル戦派を論破し、彼らを党外に放逐してしまった。マル戦派は1968年に解体・消滅した。マル戦派を排除した後に結成された統一ブントの革命戦略は「前段階蜂起」といわれ、ブント赤軍派の革命戦略となった。

岩田のような危機論型革命戦略論は、「前段階蜂起」という修正を経てはいるものの、革マル派を除く新左翼の底流にある。経済決定論的傾向が新左翼の革命戦略から払拭されることはなかった。吉本は、当然、岩田を批判すると共に、新左翼の経済決定主義的傾向の革命戦略を批判した。革マル派を除く新左翼の街頭闘争が1968年を境に低迷するなか、全共闘運動等に参加した多くの学生大衆の中には、危機論型革命戦略に疑問を持ち始めたし、革マル派のような前衛党建設にも魅力を感じなくなってきた。吉本隆明は、新左翼運動とは一線を画し、『共同幻想論』などを通じ、新左翼各派の経済決定主義的傾向=スターリン主義的傾向を批判し続けた。

吉本と岩田弘の革命戦略をめぐる対立は、論戦に発展することはなかったが、ブント内部において、吉本隆明の共同体論の影響を受けた叛旗派が結成され、前段階蜂起を踏襲した戦旗派(後に赤軍派が分派)との間で、党内闘争が起こった。この党内闘争は、前者が吉本主義者であるという意味において、また、後者が経済決定主義を修正しつつ踏襲したという意味において、吉本vs岩田の代理戦争の要素を持っていないとはいえない。

(10)吉本思想の現代的課題

吉本隆明が日本の思想・言論界でヘゲモニーを獲得した理由は、日本革命運動が及ばなかったいくつかの重要なテーマに彼が取り組んだことにある。吉本のスターリン主義批判は、新・旧左翼を選ぶものではなかった。とりわけ、新左翼は反帝国主義・反スターリン主義を綱領化して結党し革命運動を展開しながらも、それを党内外において克服できなかった。著者が言うところの「1968年革命」は事実上、失敗しており、新左翼は理論的にも組織的にも破綻したのであって、その主因を、経済決定主義を払拭できなかったところに求めてもいい。

繰り返しになるが、著者の言う「1968年革命」を領導した新左翼の革命戦略は、黒田寛一(=革マル派)に代表される「真の」前衛党建設によるプロレタリア的人間革命、もしくは、岩田弘に代表される危機論型(=経済決定主義)暴力革命、の2つの道しか示しえなかった。

吉本隆明は1960年安保闘争の最中において、反スターリン主義を自らの闘争課題として選び取ったところにおいては、新左翼党派と同一のスタートラインに間違いなく立っていた。しかしながら、反スターリン主義を克服する問題意識と方法において、上記の新左翼の革命戦略及び運動とは一線を画し、別の道を選んだ。

重要なのは、著者の言う「1968年革命」は大きな問題を残しつつ、頓挫したということにある。「1968年革命」は、新左翼党派内部の抗争によって、100人を超す犠牲者を出して、終わった。吉本隆明がオルタナティブとして、新左翼を克服すべき思想を提示していながら、「1968年革命」においては、吉本は適正に読まれなかったというわけである。「吉本隆明像」の相対化とは、結局のころ、新左翼運動離脱者にしか、吉本の思想が受け入れられなかったのがなぜだったのか、という立論から開始されるべきなのである。換言すれば、「1968年革命」はなぜ、かくも無残に敗北したのかということに尽きる。

2010年2月20日土曜日

選手団長、能力なし-冬季五輪

バンクーバー五輪はあいかわらず、メダル獲得とともに、感動、感動・・・の紋切り型報道が喧騒状態を引き起こす。テレビをつけると、どこも同じような映像ばかり。困ったものだ。

メダルをとった選手、自己ベストを更新した選手のガンバリには敬意を表したいが、日本選手団の中には、耳を疑いたくなるようなミスが続発している。選手はがんばっているのだろうけど、選手団長以下、役員、コーチに緊張感が感じられない。

まず、スケルトン日本チームの女子選手が用具に関する規定違反で失格になった。競技実施前の検査で、使用するそりに国際ボブスレー・トボガニング連盟(FIBT)の規格検査をクリアしたことを示す認定ステッカーが貼られていなかったという。本人が日本を出発する前に誤ってはがし、現地入り後、チームも確認を怠っていた。また、そり競技では、リュージュ女子選手が重量超過違反で失格処分を受けた。フィギュア男子選手の場合は、競技途中で、靴の紐が切れた。紐が切れた原因は報道されていない。

服装問題でスノボ選手を血祭りに挙げたマスコミだが、肝心の競技に係るミスをまともに報道しないのはどういう理由なのか。少なくとも、選手団長の責任を問うだけの姿勢をマスコミは見せるべきだ。

選手団長任命ミス、その団長の管理ミス、コーチのミス・・・競技以前の問題だけに、選手は気の毒。

2010年2月18日木曜日

モノトーンの朝





また雪。積もらなかったけれど。

さて、昨日は杖をつきながら、重いキャリーをもって地下鉄の階段を昇っている高齢のご婦人がいたので、キャリーを運んであげた。

今朝は、レシートを落としたこれまた高齢の男性がいたので、レシートを拾って手渡してあげた。

一日一善である。

2010年2月17日水曜日

再びニコライ堂










ニコライ堂は、日本ではあまり見られない、ギリシャ正教の聖堂である。

ギリシャ正教はロシア経由で日本にもたらされた。

ローマ帝国が東西に分かれたとき、東ローマ帝国=ビザンツ帝国(首都コンスタンチノープル/現在のイスタンブール)の国教となった。

内部・外部とも、忠実にビザンチン様式が継承されていることに驚く。正教の聖堂・教会内部には、はキリストや聖人の像を祀ることはなく、イコンで代替される。

2010年2月16日火曜日

神田明神









湯島聖堂から徒歩2-3分で、神田明神に。

神田明神の祭礼は、江戸三大祭に数えられる。

この神社の特徴は、なんとも、キッチュな原色の色使い。

しかも境内の置物(神々)にあまり威厳が感じられない。

不思議な神社でした。

2010年2月15日月曜日

湯島聖堂

訪問順に紹介すると、まず向かったのが、湯島聖堂。元禄時代、5代将軍徳川綱吉によって建てられた。本来は孔子廟である。

拙宅からは地下鉄千代田線「新御茶ノ水」下車。駅から徒歩2~3分と近い。「大成殿」内部には、いろいろな展示品がある。

聖堂裏手に立つ、巨大な孔子像が圧巻。









2010年2月14日日曜日

ニコライ堂





ここのところ週末はずっと悪天候にみまわれたけれど、きょうはどうにか晴れた。

そこで、御茶ノ水の湯島聖堂、神田明神、ニコライ堂、神保町を散策してきた。

東京に何十年も住んでいるのに、湯島聖堂、神田明神は初めて。ニコライ堂に入ったのも初めて。

とりあえず、ニコライ堂の写真を。教会の中は写真禁止です。

2010年2月13日土曜日

ドレスコード違反

日本の冬季五輪のスノボ選手の服装が問題になっている。ネットで確認して見たところ、あまり出来のよろしくない高校生のような着こなしである。ブレザーの下のシャツをパンツの上にたらし、しかも「腰パン」で、タイも緩め・・・

案の定、非難が集中して、この選手の大学に抗議電話が多数かかってきたという。所属する大学に抗議する人間もトンチンカンこのうえないが。

この騒動に対する筆者の感想はというと、この選手はいわゆる、ドレスコードに反している、という尺度において格好悪いし愚かである。たとえば、ブラックタイと書かれたパーティーにジーンズをはいて出席しようとしたようなものだ。そこまでいかなくとも、サラリーマンが大事な商談のとき、スーツをあのように着崩したら、商談もままならないであろう。ファッションセンス以前で彼は、相当ずれている。そういう意味でダサい。

さて、問題の彼は、自分が日本選手団という団体(集団)に属するという意識がなかったか、希薄だったのだと思う。“俺が勝てばいいんだろう”という意識を持っていたと思う。そういう考え方もあるし、そういう考え方は尊重したい。

その一方で、五輪選手が国家の代表であって、日の丸を揚げることを義務付けられている、という考え方もある。日本のマスコミは、後者である。日本選手は国のために戦うのだと盲信し、メダルをとれ、メダルをとれ、と選手に強要する。それが国民の願いだとマスコミは錯覚しているのだ。

筆者は、スポーツに限らず、文化というものが国家権力の関与を受けることはよくないことだと考える。サッカーW杯だって、日本代表の試合のほうがおもしろいから、応援し関心を払うのであって、彼らに「日の丸」を期待しない。応援するなら自国の選手のほうが、リアリティーがあるから、日本代表なのである。国が愛国心高揚や国家統合の手段として、スポーツ(五輪、W杯)を利用することは危険だと考えている。

マスコミ、そして、五輪等のスポーツをナショナリズムと結び付けたい輩は、この服装に対して非難を集中させた。そこには、五輪選手は、お国のためにメダルをとらなければいけない、粉骨砕身努力せよ、そして、その意識は、やがて、鬼畜米英に発展しかねない勢いなのである。

スノボの五輪選手の服装は前出の通り、ドレスコード違反にすぎない。この騒動の責任がだれにあるのかといえば、ドレスコードを選手団に明示しなかった団長や役員にある。五輪の選手にユニフォームの着用が義務付けられているということは、当然、その着こなしも一定のコードで義務付けられていることを通達しなければいけない。それが徹底できなかったのは、選手団長、役員の指示・伝達が悪いのである。

この選手があの格好で集合場所の成田空港に現れたのであれば、「君の服装はドレスコードに反している」と一言注意すればよかった。いまどきの若者ならば、ドレスコードの意味をすぐ理解できる。いまどきの若者に、ドレスダウンとドレスアップのTPOが理解できないわけはない。ユニフォームのドレスダウンに対して、一言、注意をすればすんだ。

2010年2月8日月曜日

『1968年』

●絓 秀実[著] ●903円(税込) ●ちくま新書



(1)「1968年革命」とは何か

著者によれば、いま現在は「1968年革命」に規定されているという。著者は「1968年革命」があったことを確信し、その確信に基づき、本書ほか何冊かの“1968年もの”を著わしている。それらに共通する見解は、当時(1968年前後)、先進国の若者を中心に始まった価値観の転換・多様化、新風潮・新風俗の誕生、反戦運動、暴力的政治叛乱等々のムーブメントは、40年余の間、徐々に実現しているということのようだ。たとえば、著者は反公害、エコロジー、女性の社会進出等々をその具体例として挙げており、もしかすると、2009年における米国のオバマ大統領誕生や日本の政権交代も、「1968年革命」の実現事項に含まれるというかもしれない。しかし、1968年当時、すでに物心ついた世代からすると、「1968年」と現在の間の「非連続性」「断絶」を強く意識するのではなかろうか。時代、歴史とは過去を保存しつつ新たな段階に移行するものであるから、過去が完全に清算されることはあり得ないとしても。

米国では、著者のいう「1968年革命」と似たような表現として、「1969年――米国の性革命」という言い方が流通している。それまで、ピューリタン的厳格な性道徳で支配されていた米国社会が、1969年を境に、フリーセックスと呼ばれるまでに解放されたことを指して言うのである。もちろん、広大で多様的な米国社会であるから、米国全土の性意識が一気に変革されたわけではない。

(2)1968年とはどんな時代であったか――日本の「1968年」の特性

「1968年」がどんな時代だったかについては本書に詳しく書かれており、ここに詳述することはさける。大雑把に記せば、震源地の米国において、学生を中心に、ベトナム反戦運動、公民権運動が激しく闘われ、ヒッピー文化が大きなうねりとなった。麻薬による幻覚をアート化したサイケデリック芸術が台頭し、反体制的意識を体現したプロテストソングやロックが音楽シーンを席巻した。その影響を受けた日本でも、全共闘運動を中心とした若者の叛乱が多発し、アングラ、フーテンといった新風俗が流行し、フォークソング、ロック等が音楽シーンにおいて大衆化した時代だった。西欧においては、フランスの「パリ5月革命」が名高く、西欧に生起した現象と米国、日本の現象に大きな差異はなかった。

(3)60年安保闘争-民主か独裁か

日本における「1968年革命」が、突然起こったわけではない。それを準備した最も大きな出来事が日本の敗戦=民主化であったことはいうまでもないが、敗戦以降ではまず、1960年安保闘争が画期的な出来事であった。敗戦により、軍部独裁・天皇制が崩壊し、米国占領下、日本は民主主義国家となった。平和憲法、公職追放等の動きに代表されるように、終戦直後の日本は概ね、米国の(当時の)理想主義者の指導の下、彼らが描く理想的民主主義国家として再建されようとした。また、戦時中、獄中にとらわれていた日本共産党(以後、「日共」と略記)や自由主義者らが解放され、なかで獄中非転向の日共幹部は党再建とともに神格化され、党内及び党周辺において絶対的権限をもつに至った。さらに、戦時中、軍部に協力した転向者が再転向して日共等に復帰した。

ところが、1950年の朝鮮戦争勃発による冷戦激化とともに、いわゆる「逆コース」が日本を襲った。公職追放されていたA級戦犯が復帰し、再軍備等とともに、急進的な民主主義化に歯止めがかかった。敗戦後、米国の理想主義者が吹き込んだ「自由と民主主義」の理念は一部実現をみたものの、朝鮮戦争の勃発=冷戦の激化を境に、著しく制限がかけられるにようになった。

60年安保闘争とは、日米間の安全保障条約の更新という事務的な問題に対する是非ではない。本書においてしばしば引用される竹内好の表現――“「民主」か「独裁」か”をもって闘われたのである。「民主」とは、戦後の米国の理想主義的政策の継続を図ろうとする考え方であり、「独裁」とは、冷戦を米国とともに乗り切るため、日本を反共の砦として再建しようとする、岸信介自民党政権に代表される考え方である。

「民主」は、終戦直後に米国によって行われた理想の民主主義をあくまでも日本に定着しようと目論み、日本を新しい国家として再建(ナショナリズム)しようとした。その意識は「反米愛国」とも同調した。「民主」は、「独裁」の反動政策の行く末として、日本の再軍備や徴兵制復活を、そして何よりも、米国側=自由主義陣営の一員として、社会主義国家群と戦争をすることを最も恐れた。当時の日本の母親たちは、子供や夫を、再び戦場には行かせないと考えた。

「独裁」は、反共を掲げ、すでに保守合同=1955年体制を確立し、朝鮮戦争特需を利用し、米国の軍事力の保護の下、経済復興を推し進めようとした。「独裁」は安保条約を、日本が戦争に巻き込まれないための「担保」だと位置づけた。今日では、「独裁」が進めた安保体制推進=安保改定が日本の繁栄を導いたという評価が一般的であり、日本の「共産主義化」を阻止たことを高く評価する見方が支配的である。つまり、「民主」が主張した安保条約廃棄は、当時の東西冷戦における軍事バランスに鑑みると、米国の軍事力及び核の傘から離脱するという非現実性を免れなかったというわけである。そして、その後に起こった東西ドイツ統一、ソ連邦崩壊といった東側(社会主義国家群)の消滅は、安保体制堅持を掲げた当時の自民党政権の正しさの証明として、今日、日本社会全般において常識となっている。

(4)反戦・非戦の思想――安保闘争のメンタリティー

「民主」が立脚するイデオロギーは多様で、人民戦線的な弱さを内在していた。「民主」を構成する勢力は、大きく分けて、①日共、社会党(労農派マルクス主義者、労働団体)を中心とする既成左翼、②市民主義者・修正主義者(日共内反主流派=構造改革派を含む。その一部は後に社会党に流入)、③無党派反戦派、④反日共系新左翼――の4つであった。④のうち、学生を中心にして結党された共産主義者同盟(ブント)は、安保闘争の最中、安保反対陣営の中心的存在にまで成長した。ブントの指令により学生を中心とするデモ隊が国会突入を図り、機動隊との衝突で1名の東大生の命が失われたが、安保条約は自動更新され、安保闘争も沈静化した。

安保闘争は国民の広範な層からの反対運動参加を実現したが、労働者の武装蜂起やゼネストといった“体制の危機”を招来するに至らなかった。安保闘争は、ブント系学生の国会突入デモと、広範な大衆の「独裁」=岸政権に対する「異議申し立て」をもって終焉した。過激なデモと既成左翼を越える政治集団に成長したはずの新左翼であったが、闘争後の情況の退潮と闘争の総括をめぐる混乱により、以降、政治活動は停滞した。

安保条約更新を進めた岸内閣は退陣したものの、その後を受けた池田首相の「所得倍増計画」を受けて、日本は60年代、経済大国への道をひた走ることになった。ブントは、安保闘争の過程で若手の知識人、思想家の支持を得たものの、以降は分裂を繰り返し、多くの活動家が「反帝国主義」「反スターリン主義」を綱領とする革命的共産主義者同盟(革共同)に流れた。革共同は、1957年に結成された「日本トロツキスト連盟」を前身とした、新たな前衛党建設を目指す新左翼集団。1960年代中葉に「革マル派」と「中核派」に分裂した。分裂後、2つの革共同は異なる路線をとりつつも、「1968年革命」を牽引したが、両者は内ゲバ闘争を激化させ多数の死者を出しながら、勢力を弱め、今日に至っている。

(5)「1968年革命」の担い手

1960年安保闘争の「民主」の側=運動の担い手のうち、55年体制に包摂されなかった勢力は、市民主義者(構造改革派及び先進的無党派層)及び新左翼であった。1967年、三派系全学連による、第1次羽田闘争=街頭闘争から開始された学生叛乱は、武装路線を新左翼が牽引し、穏健路線をベ平連(構造改革派)が牽引した。なお、構造改革派は、1969年前後に構造改革路線維持派とレーニン主義派(武装路線)に分裂した。

この脈略で言えば、「1968年革命」の担い手は、60年安保闘争の担い手の延長線上にあり、戦後ベビーブーマーの運動参加によって、「層としての学生」がボリューム化し量的拡大が実現したとはいえるが、基本構造は変わっていない。

(6)「1968年」は終わりの始まり――反戦平和(被害者意識)から自己否定(加害者意識)へ

本題の1968年の10月21日、その日は「国際反戦デー」であった。新宿駅を通過する米軍ジェット燃料を積んだ貨物列車阻止を掲げたブント系を除く新左翼各派及びそれに合流した一般大衆は、新宿駅構内に火を放ち、機動隊と衝突を繰り返した。ブントは当時六本木にあった防衛庁突入を図った。権力側は、新宿駅周辺の暴徒化した民衆に対し、破防法を発令した。この日、新左翼の街頭闘争は動員数及び大衆叛乱を引き起こしたという意味において、頂点に達した。がしかし、1968年から69年に年が変わってからというもの、新左翼街頭運動は後退戦を繰り返し、街頭闘争の限界性が露呈するようになる。

1968年「10.21国際反戦デー」は、新左翼の運動の終焉を示す記念すべき日なのである。その日が「反戦デー」であったことは象徴的である。この日をもって、日本の左翼運動を支えた反戦・非戦の被害者意識が反体制運動参加者の心情から消失し、それに代わる新たな意識に基づいた、新たな運動が開始されたからである。

「1968.10.21国際反戦デー」とは、1960年安保闘争以来、日本の左翼が拠り所とした「反戦・非戦」の意識が終わった日として記憶されるべきである。1967年10月8日の第1次羽田闘争から始まった三派系全学連の一連の街頭闘争(ゲバ棒、ヘルメット闘争)は、佐世保エンプラ闘争、王子野戦病院闘争等において、それなりに大衆的支持を得ていた。それは、一般大衆が三派系学生に反戦・非戦の意識を被せたからである。ところが、1968年の「反戦デー」を境に、一般大衆の新左翼運動を見る目も変わったが、それ以上に変わったのが、運動参加主体の意識のほうである。1969年秋の「前段階決戦」の敗北による新左翼各派の退潮とともに、「1970年7.7華青闘告発」から始まった、小さな物語――差別問題、フェミニズム問題等について、新左翼が取り組まざるを得なかったのは、大きな物語――自らが掲げた世界同時革命路線――が頓挫したこともあるが、運動参加者の多数派を占める全共闘系学生の倫理主義的傾向がその根源にあったからである。全共闘運動の倫理性とは、「われわれ(日本人)は被害者ではなく、加害者である」という意識であった。

60年安保闘争~1968年秋まで、ベ平連をふくめた日本の左翼運動は、新旧を問わず、プロレタリア革命(構造改革を含む)及び反戦平和主義を機軸とした。前者は貧困の克服と同義であったし、後者は日本が二度と戦争をしてはいけない、という思いであった。だが、戦後生まれのベビーブーマー世代が左翼陣営に登場するに従い、日本が再び「あの戦争」に巻き込まれることを倦むというよりは、日本が軍事を用いないまでも、既に米国の戦争に加担していることを倦むようになった。同時に、「あの戦争」において、日本(人)は多くの戦死者を出した被害者であったという嘆きよりも、アジア人民を抑圧した加害者であったことを悔やむようになっていた。日本人の「あの戦争」についての意識は、被害者から加害者の立場に一気に逆転した。さらに、その加害者意識は、現実に存在する差別――在日アジア人問題、同和問題、女性問題に向った。現に克服されない差別を前にして、自分たちは加害者だという意識は強烈に増殖した。そのとき、日本は、経済の高度成長により、敗戦=焼け跡・飢餓・貧困は忘却され、繁栄=都市化、情報化、大量生産・大量消費を享受する一方で、それらがもたらす新たな社会問題の克服というテーマを現実のものとしていた。

学生を支配した倫理主義は、「7.7華青闘告発」によって決定的になったとはいえるが、それまでに既に、全共闘参加学生たちに広く深く浸透していた意識であった。彼らは自分たちが豊かな国の「学生であること」をまずもって、否定した。「帝国主義大学粉砕」すなわち「戦後民主主義批判」である。その裏側には貧困に苦しむ第三世界人民に対する抑圧という罪障の意識があり、ベトナム戦争加担者であること、すなわち、ベトナム人民に対する抑圧者という立場の否定の意識があった。そして、土地を奪われる成田の農民、現実に差別を受けている在日アジア人、同和問題、女性差別問題・・・と、現実の自己の抑圧的立場を媒介にして、加害者としての自己否定意識は際限なく強まった。

(7)倫理的問題提起に対する3つの回答

こうした倫理主義の台頭に対して、新左翼各派は、世界革命、新たな前衛党建設、反帝・反スタを提示するにとどまった。それが、倫理主義に対する第一の回答だった。新左翼は、世界革命が成就すれば、差別や民族解放は一挙に解決すると説明した。ところが、このような新左翼の回答に限界を感じた者は、共同体論、民俗学、歴史学、神話(物語)学等の観点から、いまある「世界」「日本」を批判的に相対化しよと試みた。著者は、そのような新たな回答を求める動きとして、偽書の復権、吉本隆明の国家論・南島論、新宗教(後にオウム真理教がそれを代表するようになる)、網野歴史学、柳田民俗学の再評価・・・の台頭として、列挙している。それらが、第二の回答である。

第三の回答は、加害者としての日本(国家)を軍事的(爆弾)に破壊することであった。この戦略を採用したグループは、反日のスローガンと共に、大地の牙、狼、サソリといった名称を名乗ったが、そのイメージはアイヌや沖縄、縄文とも通底している。大地の牙、狼、サソリ等は、日本(大和)=国家=支配層=人間が、まがまがしい自然の象徴として排除してきたものにほかならない。が、それらを自らが名乗ることによって、自然を破壊した人間(国家=日本人)に対して、自然が復讐もしくは処罰を加えるという思いを込めたことは容易に想像できる。東アジア反日武装戦線の意識はその後の(爆弾を用いることはなかったが)カルチュラル・スタディーズ、エコロジー運動、地球主義、自然主義、サバルタン(「下層民」「従属民」)スタディーズ、ポストコロニアリズム、フェミニズム(※男性よりも女性のほうが自然に近い、といえるかどうかは議論もあるが)と同一次元にある。

「1968年」は、プロレタリア革命という--それまで当然として受け入れられていた、体制変革の方法論及びそれを担う労働者という主体――が多様化した結節点に当たる。1968年をもって、日本の革命運動が、近代「プロレタリア革命」という指向を相対化しようと、位相の転換を果たそうとした。同時に、日本の労働者が、貧困から脱したことを併せて意味している。

また、アジア・太平洋戦争の敗戦を契機として日本国民に内在化した、反戦・非戦の被害者意識が消滅し、多くはそのことを忘却し、その一方で自らの位置を倫理的に受け止めようとする者は、自らを帝国主義戦争に加担する者として、すなわち、加害者意識を自覚し、そのような自己を倫理的に否定しようと努めるようになった。

これらの転換を大雑把に言えば、プロレタリアという近代的な変革の主体が、マルチチュード、プレカリアート、サバルタンといった、ポストモダン的な変革主体に再規定されたと言い得る。「1968年」とは、変革主体の世界的変わり目(結節点)と日本の戦後意識の変容という特殊事情が重層化した動きを意味する記号として用いるのであれば、それはそれで意味をもつかもしれないが、さほど新しい見方ではない。

2010年2月5日金曜日

マスコミの「朝青龍報道」に異議あり

奇妙なのは、朝青龍に係るマスコミ報道のあり方である。「小沢不起訴」と「朝青龍引退」が大新聞の一面を二分していた。小沢報道では、小沢幹事長の名誉に関わりかねない報道が、“関係者によると”という形式でなされていた。あたかも、小沢幹事長が犯罪者であるかのごとく扱われていたのである。

朝青龍報道についてはどうだろうか。マスコミは、朝青龍が起こした事件の内容を一切報じない。“関係者によると”という記事も見当たらない。新聞・テレビは、朝青龍の事件に関しては、「起こった事」を一切報ぜず、小沢幹事長に関しては、“関係者”という幽霊のような存在の者の言うままに、記事を書き流した。関係者というのが、検察の担当者であることは、だれもが知っている。そのことを、「マスコミは、リークにのせられている」と批判されると、マスコミは、正当な取材だ、と嘯く。ふ~ん。

朝青龍事件のあったのは1月16日(土)の未明。本場所7日目にあたる。朝青龍は、その日、北勝力に勝っている。事件の詳細は、ネット及び一部マイナーな活字メディアが報じているのでそれに従うと、未明に泥酔した朝青龍は、西麻布の某飲食店の知人男性を殴打し、鼻の骨を折った。被害者男性は、その後、診断書持参で所轄の麻布警察署に何度か相談に訪れているらしい。朝青龍(側)は、ホームページにおいて、事件のあったことを認めたものの、被害にあったのは朝青龍のマネジャーだとして、マネジャー自身が被害者だと「告白」した記事をホームページに載せた。もちろん、この嘘はすぐにばれた。朝青龍側の措置は、HPに虚偽情報を流して、事件のもみ消しを図ろうとした疑いが極めて濃い。このことに関して、朝青龍に「説明責任」はないのか。

問題はそれだけにとどまらない。一部メディアの報道によると、被害者男性というのは一筋縄ではいかない人物だといわれ、素行があまりよろしくないとされている。被害者男性が暴力団関係者だという証拠はないものの、麻薬取引とも無縁ではないと言われている。いわゆる、グレーゾーンの人物のようだ。

それはともかく、被害者がどんな人物であれ、プロの格闘家が素人に暴力をふるい重症を負わせたとなれば、傷害事件である。格闘家の技は凶器とみなされているから、軽い刑では済まないだろう。ただし、一般に、だれかがだれかに傷害を負わせたからといって、すべてが事件になるわけではない。被害者が告訴をしないで示談に応じる場合もある。酒のうえで暴力沙汰に及び、ケガをさせた場合など、両者話し合いの上、被害者に示談金を渡し、双方が納得すれば、刑事事件にはならない。

マスコミ報道によると、警察に診断書を持参して相談にいった被害者男性は、加害者朝青龍(側)からの示談要請に既に応じたという。示談金がいくらだか知らないが、安くはないだろう。いずれにしても、朝青龍が刑事被告人になる可能性はこれでなくなった。そして、朝青龍は引退を表明し、角界から去った。しかし、示談の経緯に関して、朝青龍に「説明責任」はないのか。

朝青龍のこのたびの事件について、これで“一件落着”と、済ませられると思うのは、本人と高砂親方、相撲協会、そして、マスコミくらいだろう。

まず、本場所7日目、未明まで泥酔していたという事実。酒を飲もうが、カラオケをしようが、本割で勝てば文句あるまい――なのであろうか。相撲に素人の筆者には、未明まで酒を飲み泥酔して騒ぎを起こした「横綱」が、真剣勝負の格闘技において、その日の取り組みで簡単に勝ってしまうことが理解できない。「横綱」とはそれほどまでに強いものなのか。もちろん八百長だという証拠はない。八百長の嫌疑について、朝青龍に「説明責任」はいらないのか。

次に、知人男性もしくは飲食店関係者は、朝青龍と知り合いであることもわかっている。朝青龍が飲んでいた飲食店Fという店は、界隈でも、麻薬関係者等が出入りするところとして有名な店だとも言われている。もちろん、朝青龍が麻薬を常用していたとか、被害者男性が麻薬の売人であるとかいうつもりはない。だが、「国技」に関わり、公益法人(文科省)の最高位に身をおく者・横綱が、本場所中に盛り場で、しかも、いろいろな噂の絶えない店で泥酔していていいものなのか。それが「国技」「相撲道」とやらに反しないのか。麻薬関連で有名な店で朝青龍が泥酔したことと、被害者男性と朝青龍との関係について、朝青龍に「説明責任」はないのか。

朝青龍は「引退」したのだからそれでいい――というわけにはいかない。なぜならば、某週刊誌が、朝青龍がかつて、あるホステスに対して、性的暴力を加えたことが報じられているからだ。このような朝青龍に関する報道は、記者クラブ外から出たもの。小沢幹事長に説明責任をあれほどまでに迫ったマスコミは、ではなぜ、女性暴行事件の報道のある朝青龍に対して、「説明責任」を問わないのか。“関係者によれば”という報道を行わないのか。

朝青龍、相撲協会、マスコミの三者の間には、いかなる関係があって、国民が知りたいという願望に答えないのか、また、マスコミは、朝青龍及び相撲協会に対して、これだけの「説明責任」を問わないのか。

2010年1月30日土曜日

東京体育館

通っているスポーツクラブがおよそ1月間、休館となっているため、東京体育館のスポーツクラブに行った。ココを紹介してくれたのは、インストラクターのN氏。かつて、ここで鍛えていたらしい。

料金は2時間450円とリーズナブル。広い。フリーウエイトは、ベンチが3台、スミスマシーンが2台。ダンベルベンチも3箇所くらいあったように思う。マシーンも多種多様。

朝10時に入館、N氏の指導で、あっという間に2時間が過ぎた。自宅からはドアートゥードアで40分あまり。家に戻ったのが1時少し前。手ごろかも・・・

2010年1月20日水曜日

民主党の危機か民主主義の危機か

2010年1月17日は後世、“歴史に残る日”となるだろう。日本の民主主義が、検察・右翼・マスコミの3者によって蹂躙された日として。

政権奪取後初めて開催された民主党の党大会会場周辺は、異様な雰囲気に包まれた。会場となった日比谷公会堂周辺には右翼が結集し、「小沢止めろ」の怒号が飛び交っていた。もちろん、大会直前、小沢幹事長の秘書(うち、現国会議員を含む)3人が検察により逮捕されている。テレビ、新聞、週刊誌等のマスコミは検察リーク情報を駆使して、反小沢キャンペーンを連日のように繰り広げている。

検察側が政権与党の幹事長の秘書を逮捕した理由は明確ではなく、「自殺の恐れあり」「証拠隠滅の恐れあり」と報じられているにすぎない。検察、右翼、マスコミが一体化した反小沢、反民主に対するネガティブキャンペーンの理由ははっきりしないままだ。

筆者は、前回の当コラムにおいて、小沢の師匠・田中角栄がロッキード事件で失脚したことと、今日小沢が検察テロの標的となっていることをアナロジーした。しかし、今回の小沢問題は、角栄の場合に比べればそれほどのものではない。冷戦時代、角栄がユーラシア大陸規模で展開しようとした経済圏構想が、アメリカ・イスラエルと厳しく対立するという、いかにも大きなスケールを伴ったもったものであった一方、小沢問題はドメスティックな権力闘争だとも推測できる。では、小沢と検察の対立の軸はなんなのか――

一説には、検察=霞ヶ関であり、民主党が繰り広げる「霞ヶ関改革」を検察が何としても阻止するためだというもの。狙いは今年行われる参院選挙だという。だが、参院選投票日(7月)はまだまだ先だ。国会開催直前という時期ではあるが、ここで秘書逮捕の騒ぎが起こっても、参院選投票日のころには裁判で結審している可能性もあり、せいぜい政治資金規正法の記載漏れ程度の微罪であって、小沢側に収賄があったことを立証するにいたるまい。

検察が、通常国会開催直前を狙って小沢に対してテロを敢行した理由は、おそらく、参院選ではない。しかも、大量の右翼が民主党大会に押し寄せたということは、参院選よりも本国会に具体的ターゲットが絞られている、と筆者は見ている。

本国会の焦点は平成22年度予算だが、民主党の予算案に対して右翼が異を唱える理由は見当たらない。本国会に上程される法案のうち、検察・右翼が異を唱えるものがあるとしたら、筆者の憶測では、「外国人参政権問題」ではないか。同法案は、古い言葉で言えば、「国体明徴」に係る問題だ。日本の右側に位置する人々(検察幹部を含む)の国家観を大雑把に言えば、天皇制の下の単一民族国家であり、「異民族」が日本の国籍をもたずに政治に与することを排除しようとしている。一方、政府民主党は同法案を政府立法で国会に提出しており、その積極的推進者が小沢一郎その人だ。そして、小沢及び民主党本部に実弾が何者かによって複数回、送りつけられている。

検察に直結する「霞ヶ関改革」として、検察側が阻止したいのは、民主党が予定している政務官・副大臣の増員構想ではなかろうか。民主党は民間登用も含め、人事面での「霞が関改革」を徐々に進めており、いずれ、次官職の廃止に至るだろう。この流れはどうしても、阻止したいのではないか。

マスコミはどうか――今国会には係らないが、民主党が進めようとしている「クロスオーナーシップ禁止問題」がマスコミ側を刺激している。原口一博総務相が2010年1月14日、新聞社が放送局を支配する「クロスオーナーシップ」を禁止する法律を制定したいという考えを明らかにした。原口総務相は、「プレス(新聞)と放送が密接に結びついて言論を一色にしてしまえば、多様性や批判が生まれない」と、いかにもまっとうな意見を述べた。

民主党は、新聞の支配の下で放送が営業を行っている日本のマスコミ業界の現状を大改革しようとしている。いまのテレビ局は新聞社系列におかれていて、放送(テレビ)における経営及び報道に係る独自性は失われている。「クロスオーナーシップ」を禁止する法律が制定されたならば、現在のマスコミの息の根は完全に止まってしまう。だから、マスコミも民主党にストップをかけたい勢力の1つだ。更に、民主党が省庁に組織されている「記者クラブ」の廃止を目指していることも併せて、マスコミは完全に“反民主”だ。マスコミはだから、検察のリークに積極的に応じて、小沢=民主党に対するネガティブキャンペーンに尽力している、と推定できる。

検察側による“小沢テロ”の背景は以上の憶測・推測にとどまらないかもしれない。国民が選挙により政権交代を果たしても、それに対する抵抗勢力の懐は深い。しかし、検察・右翼・マスコミが一体となってテロ攻撃を仕掛けたとしても、7月の参院選において、国民が民主党に投票すれば、それまでだ。

参院選は意地でも、民主党に投票しようではないか。

2010年1月17日日曜日

痛てて

この土日、年末年始の間、休んでいた筋トレを再開した。

筋力はそれほど、弱っていなかったけれど、筋肉痛がすごい。

昨日やった胸、背中が痛い。明日はおそらく、脚、腹が痛くなるだろう。

2010年1月16日土曜日

『日本海と出雲世界(「海と列島文化」第2巻)』

●森浩一ほか[著] ●小学館 ●6627円(税込)


□東アジア・日本列島の中の出雲世界

本題の「日本海と出雲世界」とは、現在の日本の地理的区分に合わせると、概ね「山陰地方」「日本海西地域」に該当する。東端を北陸若狭、西端長戸・石見によって区分される地域であり、主要な島嶼部として、隠岐を含む。

律令国家成立後の古代日本列島の勢力図について、出雲を基点として俯瞰すると、東上して越、その北側に蝦夷、西下して北九州、そして、海路を使い瀬戸内海を通って吉備、畿内(大和)がある。もちろん陸路あるいは琵琶湖水系を介した内陸水路を南下して畿内(大和)に至る経路も利用された。

アジア大陸、東シナ海、日本海を挟んで、北(中国北東部)に粛慎、靺鞨、狄と呼ばれた北方ツングース族(彼らが建国した渤海、女真の勢力)が――、また、西に朝鮮系の百済、新羅、高句麗、伽耶の勢力が――、そして、大国中国の王朝勢力が――、位置していた。この圏域は、中でも朝鮮の諸勢力との関係が密で、例えば、本書第3章「3.中世西日本海地域と対外交流」(高橋公明[著])」によると、周防の大内氏はその出自を百済国王聖明王に求めていたという。

「出雲世界」は、日本列島においては、海路(日本海)を利用することにより、越及び北九州勢力と密接な関係を築いていたし、「出雲世界」の歴史は地勢上の特性に規定され、隣接勢力からの直接的・間接的影響を受けていたと同時に、出雲も各地域に影響を及ぼしていた。

外交における同地域の役割の変化は、律令国家が道路(街道)整備に注力し、海路に依存した物流体系から、陸上交通を含んだ複合的物流体系に再編成したことから始まった。中世初期(AD6~7世紀)に至ると、瀬戸内海(広島)に勢力を築いた平氏が列島西部の海上覇権を握り、海外からの外交使節の受入れと海外貿易利権を獲得した。以来、朝鮮、大陸から来訪する使節団の受入れ口が畿内に近接する瀬戸内海沿岸都市に移動した。

□ミステリアス出雲

古代出雲勢力の実態については、わからないところが多い。たとえば、荒神谷遺跡がその代表例である。昭和58年(1983年)、出雲の東に位置する斐川町の谷あいから、大量の銅剣、銅矛、銅鐸が出土したのである。きっかけは、広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布調査。調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろったことがきっかけとなり、これらの発見に至ったという。

遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られていることから荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣(どうけん)が出土した。遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にある。銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)が出土した。

銅剣・銅矛・銅鐸の製造年代は特定されていないが、弥生前期(AD1世紀前後)のものとの鑑定意見もあり、AD1~3世紀には存在したと推定されている邪馬台国(卑弥呼)よりも、出雲勢力のほうが古いかもしれない。

邪馬台国「北九州説」「畿内説」の特定はともかくとして、邪馬台国に拮抗もしくは優越する勢力が出雲にあった可能性は極めて高く、荒神谷遺跡は、北九州、畿内勢力に先立ち、出雲に強大な統治集団が存在していたことを確認できる考古学的発見であるものの、その一方、この統治集団の勢力範囲や統治の実態を推測できるものではないだけに、出雲の謎はますます深まった。

□出雲と神話

古代出雲が「海」と深く関わりをもっていたことは言うまでもない。たとえば、2009年11月27日付け朝日新聞朝刊にこんな記事が掲載されている。
■出雲人の旧暦では10月10日は物音を立てぬ決まりだ。年に一度、八百万の神々を迎える神事の日、神迎えする道沿いの民家のあかりも消える。今年は11月26日、出雲大社の神職が、日がとっぷりと暮れた浜辺で、かがり火を前に祝詞を読みあげた。氏子ら数千人が神籬(ひもろぎ)と呼ばれる台座に神々がのりうつるのを息をひそめて見守る。
「おーおー」。神職が神籬(ひもろぎ)を白い布で覆いながら朗々と警蹕(けいひつ)と呼ばれる声を発し、出雲神社へ神々を導く。
(以下、写真説明文:天照大神が、出雲を治める大国主命に使者を遣わし「国譲り」を求めたとされる稲佐の浜に向って神職が祝詞を奏上し、神々を迎えた)■

この新聞記事は、今日の出雲において、海に向って神を招きよせる神事が行われていることを示している。出雲では神はどこからやってくるのかといえば、山からではなく海からなのである。

出雲の神話で名高いのは、第一に、「国引き」の物語である。「国引き」を行った神=オミヅヌノ命は巨人神で、新羅から国引きをしている。

第二は「国造り」の神話である。「国造り」の主役はオホナムチ神で、オホナムチ神はほかに3つの名前(大国主神、葦原色許男神、八千矛神)をもっている。オホナムチは開墾、耕作を体現するという。この神は日本の古代神話の主人公としては、もっとも大衆的知名度がある。畿内にもその足跡をとどめるところから、出雲が畿内勢力に包含されて以降、記紀神話等に描かれたものと思われる。いずれにしても、オホナムチ神のエピソードの数々は、黒潮を媒介とした南海文化圏とのつながりが認められる。

現在、出雲大社は島根半島の端に位置し日本海に面しているが、弥生時代、現在の島根半島は島であり、出雲大社が島に位置していたことは、同地域と海との結びつきを象徴する。さらに、出雲大社御神体は何かという謎がいまなお解けていないなか、本書では、七宝の筥(ほこ)とする説、巨大鰒(変じて大蛇)という説の2つを紹介しているが、このことも海との関連を証している。

さて、本書のような地域史を扱う記述は困難さを伴う。時代の進行とともに、対象とする地域内(の各勢力)に盛衰があるからだ。「出雲」は、古代日本列島において重要なエリアであったが、中枢権力が畿内地方に収斂するに従って、列島内における政治・経済に果たす役割は低下していく。それと同時に、出雲を含む同地域の歴史的記述、すなわち、“出雲世界”は多元性を帯びざるを得なくなる。本題にある“出雲世界”という概念は普遍性をもっていない。中世以降、同地域は、出雲世界というよりも日本海西地域として、地方的特性が顕著になっていくのであり、いまなお、その延長線上にある。

2010年1月15日金曜日

最近の読書

昨年末、『日本海と出雲世界-海と列島文化(第二巻)』を読了したものの、BOOK(感想文)にはまとめていない。次いで、『エクリチュールと差異(上)』(デリダ著)も読了したが、こちらも、筆者の読解能力を越えるものなので、BOOKにはおさめていない。さて、そんな中、絓秀実の『吉本隆明の時代』『1968年』の2冊を購入した。

最近、“1968”と付された題名の本が目に付く。筆者はこの記号に弱くて、小熊英二の大著『1968』、鹿島茂著の『吉本隆明1968』を購読し、2冊とも既にBOOKに感想を書いた。

考えてみれば、鹿島茂の『吉本隆明1968』は、絓の上記2冊の本題を併せたものとなっている。なんとも、はや。絓の著作物としては、『レフト・アローン』を兄から借りて読んだことがあるが、BOOKには入れていない。

吉本隆明が団塊の世代に対して与えた影響は、限りなく大きい。1960年代における吉本隆明の登場は、“知の転換”と呼ぶにふさわしいものであった。日本にマルクス主義が輸入されて以来、日本の「左翼」は「史的唯物論」を自動的階級移行論と読み間違え、「科学的社会主義」として信仰した。吉本は、そのことをきっちりと批判し、かつ、新旧前衛党に胚胎するスターリン主義批判を行った。そればかりではない。彼は批評する者(知識人)の倫理的態度についても、自他に厳しく問うた。それらのことについては、特記されてしかるべきである。

そもそも前衛党=日本共産党批判から出発した1960年代の新左翼運動だったが、1968年を境に大きくパラダイム転換をした。以降の新左翼・全共闘運動の迷走に絶望して、吉本のスターリン主義批判を借用しつつ、全共闘・新左翼運動から離脱した人も多かったであろう。そのような意味で、当時は吉本隆明をカリスマ(偶像)化する傾向もあった。しかし、そんな時代から40年余りが経過した今日、吉本の影響について改めて考え直す必要があるかもしれない。

2010年1月14日木曜日

「反共」は死語ではない ?

ここのところの鳩山首相&小沢幹事長(以下「小鳩」と略記。)に対する検察とマスコミの動向はかなり、ヒステリックなものとなっている。検察とマスコミの動きは、30年前の田中角栄をターゲットにした攻撃に近いものに発展していく予感がする。“角栄バッシング”のとき、筆者を含めて世間の多くの人々は、“角栄攻撃”の実態についてわからなかったし、いまもわからないままだ。ただ、あのとき筆者は、“角栄は悪いやつだ”と思ったのだが、果たして本当にそうだったのか。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の田中角栄の項目を読むと、角栄が総理大臣の時代(1972~1974)に行った、すなわち東西冷戦の時代の外交のうち、以下の3点が注目される。1つは有名な訪中による、「日中国交回復」、2番目は、訪ソ(ソヴィエト連邦・当時)におけるシベリア開発の促進、そして最後は、日本外交として画期的なイスラエル不支持(アラブ支持)である。このとき中東ではイスラエルとアラブ側とで第4次中東戦争が戦われていた。角栄はイスラエル不支持に加えて、米国石油メジャーからの原油輸入に依存しない原油調達を模索していたらしい。Wikipediaでは、角栄のこの決定が、米国(石油資本及びイスラエルロビー)の怒りを買い、後の金脈・ロッキード疑獄に発展した、という“陰謀説”を紹介している。

角栄に対する攻撃は、自称ジャーナリスト・TTが口火を切り、やがて全マスコミもその流れに乗った。当時、およそ無名だったTTが結果的には、角栄を追い詰めたヒーローとなり、「ジャーナリスト」として確固たる地位を築いた。

しかし、角栄が首相になったとき、マスコミは「いま太閤」「コンピュータ付ブルドーザー」との仇名を付けて絶賛した。角栄の政策の下、少なくとも日本経済は順調だった。ところが、前出の「イスラエル不支持、アラブ支持」へと角栄が日本外交の舵を切った後、流れが変わったのである。角栄の政治手法に問題がないとは言わないし、彼の「ゲンナマ作戦」が適正だとも思わないが、内政上これといった失政のないまま、彼は失脚へと追い詰められていったのである。だから、“陰謀説”にはかなり信憑性があり、筆者は、角栄を追い詰めたのはTTの背後に控える巨大な闇の力に違いない、と信じる者の一人である。

70年代の角栄の愛弟子がいまの民主党幹事長の小沢一郎である。小沢がマスコミから不当な攻撃を受け続けているのは、よく知られている。しかしながら、その確たる理由は明らかではない。闇将軍、二重権力、豪腕、売国奴、独裁者・・・といったイメージ的形容詞が並ぶのだが、その実態を伝える客観的なデータや事実の記述や証言は存在しない。小沢が、○○を脅した、怒鳴った、切った・・・といった表現がマスコミに踊るが、脅された者、怒鳴られた者、切られた者からの証言が表に出たことは管見の限りないのである。

筆者が信じている“陰謀説”の仕掛人は、もちろん、日本の検察の背後の勢力を指す。70年代つまり冷戦下、角栄は米国の意に反し、東側の大国である中国、ソ連に急接近し、さらに、中東において親アラブ政策を選択し、石油メージャーと対立した。このことが米国の反感を買ったと推測するほうが自然であり、角栄失脚にCIA等が動いた可能性は十分あり得る。

さて、21世紀、冷戦終了から20年以上が経過したいま、小鳩体制を米国側から見たとき、どのような評価がなされているのであろうか。その結論を出す前に、角栄と小鳩の中間に位置した細川政権のことを思い出してみたい。細川政権はいまからおよそ16年前の1993年8月、自民党政権に代わって誕生したものの、わずか263日の短命で終わった、反自民政権である。角栄退陣から19年後、細川内閣は国民の期待を担って誕生しながら、あっという間に消滅した。その細川政権の外交を端的に表現した言葉が「『No』といえる日本」であった。これは1989年、当時ソニー会長の盛田昭夫と石原慎太郎(自民党政治家・当時)の共著により刊行されたもの。詳しい内容は省略するが、日本が米国の隷属から脱し、独立、自立した国家としてやっていこうというものであった。

もちろん、日本の自立・独立の志向は、米国にとって望ましくない傾向である。当時も今も、東アジアにおける脅威はロシア(当時ソ連)、中国、北朝鮮であり、それらに日本が加われば、同地域において米国が最も憂慮すべき事態の1つが生じた、ということになる。今日、米国はユーラシア大陸に限れば、イラク、アフガニスタン、イラン、北朝鮮で問題を抱えており、それに日本が加わらないまでも、米国にとって手ごわい交渉相手となれば、米国の世界戦略にとってプラスになることはない。日米間の「協議」「調整」に費やす時間と手間は、米国にとってやっかいな因子となる。もちろん、日本の自立的傾向が即座に日米対立、日米戦争に至るわけではないが、いずれ、日本が「No」と言い出すことは目に見えている。

角栄は「田中金脈」から「ロッキード事件」で失脚し、細川は「佐川急便事件」で政治生命を絶たれた。いずれも、政治家とカネの事件として報道され、国民的支持を失ったのである。そして、いま、小鳩である。両者とも「政治資金規正法」の事務的な微罪で秘書が検察に調べられている。

小鳩の外交は反米的なものではないが、地球温暖化対策では、米国を無視してCО2削減25%を打ち出し、いま、普天間問題で米国と距離を置こうとしている。さらに佐藤政権下の核持込密約が表面化し、これまでの日本と米国の外交のあり方の不透明性が日本国民の前に明らかにされようとしている。いまの流れは、山頂の湧き水のように、極めて小さなものに過ぎないが、いずれ日米関係を揺るがす大河に至るはずである。

エマニエル・トッド著の『帝国以後』にあるとおり、米国=「超大国」は幻想であり、小鳩がその幻想に規定されない政治家であることは明白である。米国への従属を外交姿勢とした自民党政権=小泉・安部・麻生とは一線を画している。

自称ジャーナリスト・TTが小鳩攻撃により、一部週刊誌で復活をしているが、今の世の中では週刊誌の影響力は当時に比して格段低下している。インターネットを見れば、もっと刺激的な「情報」が行き来している。40年前とは状況が違っているし、政治家もそれなりに学習を積んでいて、大金が絡んだスキャンダルを引き起こすことはない。だから、かつて、日本の検察がマスコミを効果的に利用して角栄や細川を葬った、「検察モデル」を使っても、小鳩は打ち落とすのは難しい。このたびの、小沢の金脈問題も検察側の無理筋という見方もある。検察・マスコミの小鳩攻撃では、鳩山内閣の支持率を多少下げることはできたとしても、小鳩の進退を極めさせるまでに至っていない。

ここで気になるのは、小沢一郎が「親中国」の政治家であることだ。日本の検察の延長線上に、「反共(反共産党)」を標榜する勢力が内在すると考えることは憶測にとどまるまい。いまさら、ロシア・中国・北朝鮮が共産主義国家だとはだれも思っていないかもしれないが、旧社会主義国家に顔を向けた政治家が――たとえば、田中角栄、金丸信、加藤紘一、田中真紀子、鈴木宗男といった面々の失脚の現実を踏まえるならば――日本の最高権力を奪取することは、なんとしても、日本の検察が阻止する、と考えて不自然ではないのかもしれない。となれば、小沢の失脚の可能性の高いことは、現代史が証するところなのであろうか。日本の政治のあり方は、日本国民の投票ではなく検察が決める、のであろうか。

2010年1月12日火曜日

伊旅行、HPにもアップ



ホームページにもイタリア旅行の写真をアップしました。
旅の写真集

ご高覧のほど、よろしくお願いします。

2010年1月9日土曜日

南イタリア旅行日程の連載開始



年末~年始に訪れた南イタリアの日程写真の連載を開始しました。
[別冊]旅の写真集です。
お暇なとき、のぞいて見てくださいね。

2010年1月7日木曜日

A Happy New Year 2010

ナポリの下町

昨日、イタリアから帰国しました。

今回の最大の「収穫」の一つは、ナポリです。

ナポリというと、「ナポリを見てから死ね」というフレーズが浮かびます。

南イタリアの港町、カンツォーネが流れ、海の食材に恵まれた、風光明媚な都市だと。

さてさて、そんなナポリはどこにあるのでしょうか。

街中ゴミだらけ、路上では偽ブランド品を売るアフリカ系の人々、中央駅近くのガルバルディ広場では、闇の携帯電話等を売りさばく、怪しげな男たちが道行く人々に声をかけてまわります。

狭い路地をバイク、車が歩行者すれすれで走りぬける、車は信号無視で走りまわる、補修もされずに、廃屋のようにうち捨てられた落書きだらけの教会、聖堂・・・

朽ちた建物の石材が路上に落下するため、ロープがはられ、警察官が非常線をはる騒ぎにも遭遇しました。

下町の狭い路地に建てられた古い住宅は、暗く、人が住めるのかと思うくらいのものも少なくありません。

そんなカオスのような都市がナポリなのでしょうか。

もちろん、サンタルチア地区は高級住宅街があり、高級ブランドの店が集積したガレリアもあります。

けっきょく、そんなナポリがとても魅力的でした。

詳しい旅行記は、別のブログで近々公開の予定です。

2009年12月27日日曜日

出発

明日から、ローマ経由でバーリ、ナポリを拠点にして南イタリアをまわり、ミラノ経由で帰国する予定です。

この地域は世界遺産がたくさんあり、ローマ、ミラノ、フィレンチェ、ヴェネチアといった世界的観光地を訪れてしまった人々に人気があるそうです。

冬のヨーロッパは生まれて初めて。特にミラノは寒そうです。

では!

2009年12月19日土曜日

あと10日余り

@Sawara

今年も僅か10日余。はやい。

そんな中、『日本海と出雲世界-海と列島文化2』を読了。

海を介した日本列島及びアジア大陸の各所との結びつきを知る。

本シリーズを通じて、「日本」を再認識するばかり。

己の無知を思い知らされる。

日本は広いのである。

詳しくはまた改めて、当コラムに書くつもり。

2009年12月18日金曜日

寒くなってきた。

@Sawara

年の瀬、不景気である。身も心も寒い。

今年の10大ニュースといえば「政権交代」が第一位だろう。

でも、新しくできた政権がどうも落ち着かない。

連立政権を構成する小党の党首がかき回し役になっている。

国民が選択した政党(民主党)よりも、その何百分の一(計算していないので桁が違っているかもしれないが)にも達しない票数しか獲得できなかった党が増長するのはいかがなものか。もっと謙虚に振舞うべきだ。

民主党党首が彼らを抑えきれないのも情けないが、政権与党となって謙虚さを失った小党の党首も身の程知らず。連立与党は、政策協定の締結という基本作業を欠いているようにみえる。

意見交換を内部でじっくり行い、連立内で調整した結果を広報官が一元的にアナウンスすべき。政権を構成する小ボスが、マスコミに存在感を示そうと、ギャーギャー勝手な意見を放言するのは醜い。

「政権交代」の結果が無秩序では、国民が失望する。

来年の参院選で民主党に大勝してもらって、混乱分子を政権から排除してほしい。

2009年12月15日火曜日

佐原の写真集連載開始

@sawara

佐原の写真集の連載を開始しました。

お暇なとき、のぞいてみてくださいね。

2009年12月13日日曜日

小江戸の佐原は見所いっぱい


@sawara

小江戸と呼ばれる水郷・千葉県佐原に行ってきました。ここは、格子戸、蔵造りといった、レトロな町並みが運河沿いに展開しています。

埼玉の川越とちょっと似たところですが、川越が内陸的で、佐原は水路のイメージが強いです。

鉄道でのアクセスがいまひとつなので、休日でも混雑はしていません。いまが“見時”“行き時”の佐原でした。

詳しくは後日、別のサイトにて、写真をアップしま~す。

2009年12月8日火曜日

墓穴を掘った押尾学-神は罪を見逃さない

12月7日、押尾元被告が、新たに合成麻薬の「譲渡」の容疑で逮捕された。押尾容疑者は8月3日、東京都港区のマンションでMDMAを使ったとして麻薬取締法違反(使用)容疑で逮捕・起訴され、先般、懲役1年6月、執行猶予5年の有罪判決が確定したばかり。

筆者は、この事件について何度も当コラムに書いてきた。先の公判で押尾元被告に有罪判決が下ったが、一緒にいた女性の死亡の真相については、何も明らかにされなかった。そのことが、人々の間に苛立ちを募らせた。裁判所が真実を明かさないのであれば、いったいだれがどうやってそれを究明するのか。一人の女性の命が失われたにもかかわらず、最も近くにいた押尾容疑者の行動に責任がないで済まされていいのだろうか――人々の苛立ちは、結局は警察・検察・司法に対する不信感として沈殿した。ここのところ、冤罪事件が多数発覚しする一方で、凶悪犯罪は未解決なまま。検察の動きといえば、政治献金に対する政党間のアンバランスな取り組みが顕著となっていた。人々は、最近の警察・検察の行動に不信感を募らせている。そればかりか、最高裁が「ビラまき事件」に関して、言論圧殺に近い判決を下していた。日本の警察・検察・裁判所は機能不全に陥ったのか・・・

今回の押尾元被告の再逮捕は、警察・検察不信をいくらか緩和した。先の公判の押尾元被告の供述の信憑性が裁判官に疑われたくらいだ。検察・警察が何もしなければ、人々の当局への不信は一層沸騰しただろう。

再逮捕後、マスコミにいろいろな情報が飛び交うようになった。たとえば、押尾学容疑者の毛髪から合成麻薬MDMAの成分が検出されていたともいう。警視庁捜査1課は同容疑者が自らMDMAを入手して、日常的に使用していた疑いもあるとみて調べている。同容疑者には常用性がありながら、MDMAは死亡した女性から譲り受けたと偽証し疑いが濃い。押尾容疑者は使用罪での初公判などでMDMAの使用について「米国との使用を合わせて4回」と主張。亡くなった女性と使用した以外の過去の使用は、「米国内だけ」と供述していた。 また、「MDMAは死亡した女性からもらった」と一貫して主張してきた。となれば、憶測・推測にすぎないが、押尾容疑者が、容態が悪化した女性を救命せず、MDMA入手の罪を女性になすりつけようと図ったのではないか、と考えて不思議はない。

今後の捜査の展開としては、押尾容疑者が死亡した女性にMDMAを渡したと証明できれば、死亡した女性の容体急変後に適切な措置を取らなかったとして、保護責任者遺棄致死容疑での立件が近づく。 捜査1課は、押尾容疑者のほか、死亡した女性の携帯電話を捨てた証拠隠滅容疑で元マネジャー、押尾容疑者にMDMAを渡した麻薬取締法違反容疑でネット販売業の知人男性の3人を同時に逮捕した。

そればかりではない。テレビに出演したヤメ検弁護士のO氏は、過去の判例から、押尾被告には傷害致死の嫌疑もあるという。O弁護士によれば、大量の覚せい剤を知人に注射して死亡させた覚せい剤常用者が傷害致死罪で立件され、公判で検察側の主張が認められたという。

さて、この事件は、『刑事コロンボ』『必殺仕掛人』『ダーティーハリー』などの正義の味方(=ヒーロー)の物語を思い起こさせる。合成麻薬の常用者で有名な俳優--金持ちで威張り腐った犯人(=押尾容疑者)--が、知人女性にそれを飲ませ、容態を悪化させる。麻薬常用のスキャンダルを恐れた犯人は事件の揉み消しを図らんとして、取り巻きやマネジャーと共謀して、容態が悪化した女性を3時間近く放置し、死に至らしめ、亡くなった女性に麻薬所持の罪をかぶせようと画策する。財力やコネクションを使ってマスコミを黙らせ、当局にも捜査中止の圧力をかけ、犯人の目論みは成功したかのようにみえたのだが、そこにヒーローが現れ、犯人側の「空白の3時間」を解明し、犯人の策謀を暴いてみせる--というわけ。この事件、初期段階の当局の動きは、誠に鈍かったという印象を受けた。

今日に至るまでの間、当局内部にこの事件に対する取組みについて変化があったのか、当局が最初から、このような手順を踏む計画であったのか、筆者には知る由もない。だが、結果的には押尾容疑者が墓穴を掘った観は否めない。つまり、女性の容態が悪化したとき、押尾容疑者が119番をするなり救命に尽力していたならば、そして、女性の命が助かっていたならば、彼には情状酌量の余地が十分あったし、麻薬の「使用」の罪に服すれば足りた可能性も高い。そうであれば、せいぜい懲役1年数ヶ月、執行猶予数年で、この事件は終わったはずである。

ところが、押尾容疑者は人倫に外れ、救命活動に尽力せず、亡くなった女性に罪を着せようと図ったために、保護責任者遺棄罪で立件されることは確実となり、証拠次第では、保護責任者遺棄致死傷罪、さらに、O弁護士のいうように、傷害致死罪で立件される可能性まで生じてしまったのである。

自業自得とは、まさにこのことである。“悪い奴”を世にのさばらせることは、神がお許しにならない。ちなみに、保護責任者遺棄罪は3月以上5年以下の懲役、同遺棄致死傷罪は20年以下の懲役となる。傷害致死罪の場合、懲役3年の有期懲役と決まっていて、有期刑の上限は20年以下となる。筆者のような素人裁判官が現在の情報に基づき押尾容疑者に判決をくだすとしたら、最短で5年間、彼を塀の中の人とする。

2009年12月6日日曜日

13人会

昨晩、大学時代の友人12人と銀座のふぐやで飲み会をやった。この会は「13人会」という名称をもっていて、大学のときの知り合い13人が卒業以来●十年、飲み会を不定期的に開いている。今回は、1人欠席であるが、出席率としては高いほう。

学生時代は、新宿歌舞伎町のKT、渋谷警察前のKMという飲み屋が溜まり場で、毎日、誰かと飲んでいたが、筆者はいつの間にかそこから離れ、青山のSR、曙橋のAT等に場を変え、結局、日暮里のYがホームとなった。そのYが閉店してからは、決まって飲みに行くところがなくなってしまった。

友人と会うときは互いの職場や外出先に近いところ。地元のS氏とは谷根千の数箇所が「行きつけ」となるのかもしれないが、回数は減った。

学生時代は、酒を飲むことで新しい「世界」が開かれると思ったこともあった。とりわけ、歌舞伎町のKTには当時若手だった映画監督や文筆業者が集まっていて、喧嘩も議論もあったけれど、それが刺激的だった。

筋力トレーニングに力を入れ始めた最近は、お酒を飲みたいとあまり思わなくなった。話をするのも面倒くさくなって、「カラオケ」に逃げる機会が増えた。

2009年12月3日木曜日

『テレサ・テン 愛のベスト-三木たかしを歌う-』



テレサ・テンはもうこの世にはいないのだけれど、歌声は永遠――なんて、月並みの誉め言葉が恥ずかしい。彼女は日本人ではないにもかかわらず、日本語の歌詞を心底理解していて歌いこむ。その歌声が聞くものの耳に届くとき、聞くものに至福のときが訪れる。

つい1月ほど前、彼女を特集したTVのドキュメンタリー番組を見た。楽曲(歌詞)ごとに彼女の姿容(すがたかたち)が変わっているのに驚いた。衣装が違う、メークが違う、髪形が変わる、照明、背景等々が変わる・・・以上に、本人が一番変わっているのだ。“なりきる”すなわち、感情移入、状況移入が可能であるということは、芸能人の技術力なのかもしれないが、たった数分の歌のステージでそれをやりきれるということは、非凡な才能だと思う。残念ながら、テレサ・テンのワンマンショーを聞く機会をもたなかった。彼女が持ち歌ごとに次々に自分を変えていく様子を体験したかった、と、いま悔やんでいる。

自分のスタイルを貫く、のが歌手のあり方だが、楽曲に従って、自分を変え、それでいて、彼女の根底は変わらない。とても魅力的な歌手だったことに気がついたとき、彼女はこの世の人でなくなっていた。

2009年12月2日水曜日

歴史の法廷に立つのはだれか

政府民主党が行った「事業仕分け」が大きな話題を集めた。中には、思わぬ批判もあった。その中の一つ、筆者にとって最も印象に残ったのは、事業仕分けチームが科学技術に係る予算の減額の判定を下したことを、ノーベル賞を受賞した高名な科学者たちが一斉に批判をした件だ。国家予算=税金の使われ方について活発な議論があることはいいことなのだけれど、事業仕分けに対する批判が、巧妙な論理のすり替えを伴う以上、これを看過することはできない。

ノーベル賞受賞科学者たちが、事業仕分け結果について批判した趣旨は次のとおりだ。まず、日本は先進国と比べて、科学技術関連予算が格段に少ないこと、そして、米国で博士号を取る人が中国の20分の1、韓国の6分の1しかいない現状などを説明し、「10年後、各国に巨大な科学国際人脈ができ、そこからリーダーが生まれる。日本は取り残される可能性がある」と指摘。「(事業仕分けは)誇りを持って未来の国際社会で日本が生きていくという観点を持っているのか。将来、歴史の法廷に立つ覚悟でやっているのかと問いたい」と疑問を呈したらしい。

まずもって、筆者はノーベル賞受賞者が、「歴史の法廷」という大言で事業仕分け批判を展開したことに大きな驚きを覚えた。事業仕分けが行った科学技術予算の減額は、科学技術の発展を否定する観点から行われたものではない。彼らが目指したのは、たとえば、某独立行政法人の「●研」が明らかに無駄な予算を獲得し、それを浪費している実態に、また、この独法が科学技術の発展に資する活動を行わず、関連する企業と癒着し、公正さを欠く契約等により研究資材等を購入している実態にメスを入れたかったのだ。スパコン開発も「●研」の利権がらみだし、「●研」は関係官庁から天下り官僚を受入れ、関連機関、団体、企業と特命随意契約を交わして、入札もなく理化学器械等を買い漁っているような「研究所」だ。しかも、そこの研究者にいたっては、研究成果が出なくとも「●研」から追い出されることはなく、欧米の研究所のように、研究者が厳しい競争にさらされることがない。つまり、独法「●研」に就職しさえすれば、たいした研究成果をあげなくても、放り出されることはない。

旧政権時代、日本が科学技術に対して、あまり潤沢な予算を組まなかったことはだれでも知っている。旧政権における科学技術関連の予算の使われ方は、科学者の実践的研究にではなく、天下り官僚の人件費や適正でない価格で購入する研究資材等に使われていた。仕分け人がメスを入れたかったのは、そうした旧政権における、日本の科学技術予算の使われ方のほうなのだ。

ノーベル賞を受賞した日本の科学者たちは官僚出身ではないものの、天下り独法の役員を務めており、天下り官僚と一心同体なのだ。ノーベル賞の価値をどう評価するかについては人さまざま、だれがどう思おうと勝手だけれど、筆者は少なくとも、すべての同賞受賞者の人格が高潔だとは思っていないし、科学者が世俗の欲望と無縁な者だとも思っていない。権力欲も物欲も人並み以上に強い者であると確信している。

日本の科学者・研究者のあり方が問われたのは、いまから40余年前の東大闘争だった。闘争終結後から今日まで、東大という日本を代表する学問・研究の場が改革されたという話は聞いていない、どころか、より権威主義的傾向を強めている。日本のノーベル賞受賞者、なかんずく、科学技術分野の受賞者は、権威主義が幅を利かす大学研究機関で生き残ってきた者であって、彼らが長けているのは、研究者としての能力よりも、政治力、管理力なのであって、加えて、企業、役所とあい渉るパワーなのだ。ついでにいえば、ノーベル賞を客観的な意味において、世界最高「権威」だと信じるか、信じないか、という問題も残っている。

誠に残念なのは、日本のマスコミである。ノーベル賞受賞者という権威筋からの事業仕分けに対する批判・恫喝(歴史云々)に恐れおののき、論点のすり替えに気がつかないふりをして、仕分け人批判に靡いてしまった。ナイーブ(うぶ)なこと、このうえない。

将来、歴史の法廷に被告として立つのは、どちらであろうか。

2009年11月24日火曜日

今年もわずか

光陰矢のごとし――と月並みな言葉を思い出す今日この頃。

あっという間の2009年である。

今年は当方にとって、記念すべき年。

さて、今年を振り返ると、「政権交代」がなんといっても大きな出来事。

でも、劇的な変化はいまのところ、起きていない。

来年は、いいことがあるのだろうか。

2009年11月12日木曜日

当局自作の「逮捕劇」は困る

千葉県市川市で2007年3月、英国人女性死体遺棄容疑で全国に指名手配中の市橋容疑者が10日、逮捕された。2年半あまり膠着状態だったこの事件が、急展開して身柄確保に至った。逮捕のきっかけは、整形手術後の写真の公開だった。マスコミが一斉に写真を公開し、あたかも市橋容疑者が「あなたがた」の近くに潜んでいるかのような報道だった。写真公開から数日、身柄確保の現場は、大阪のフェリー乗り場だった。いまどき、沖縄にフェリーで渡る人間は少ない。そのため、かえって人目につきやすく、誤って最初に訪れた神戸のフェリー乗り場の職員に通報されたらしい。

この急展開はなんだったのか――筆者の憶測と推測にすぎないが、この逮捕劇はオバマ訪日直前に行われた、当局の「治安キャンペーン」だったのではないか。オバマ訪日を前にして、日本の治安当局は「逃亡犯」(=市橋容疑者)を以下のとおり利用した。第一に、英国人を殺害し逃亡している犯人をオバマ訪日前に逮捕することにより、日本の治安体制が万全であることを世界的にアッピールしようとした。第二に、懸賞金付きの市橋容疑者の整形手術後の写真等を公開することにより、一般市民の間に「岡っ引き根性」を惹起させ、情報提供という名の密告体制の再構築を図ろうとした。

筆者の憶測・推測では、市橋容疑者の動向は当局によりマークされており、当局は彼をいつでも逮捕できたはずだ。ただ、当局は彼の身柄確保を当局にとって最も都合のよいタイミングで行い、有効に利用しようと考えていたはずだ。そして、当局は彼の逮捕時期を“オバマ訪日直前”というタイミングに定め、そのとおり実行した。

そればかりではない。当局の狙いは副産物として、ここのところ連続して起こった4件の未解決事件(練炭不審死事件、鳥取不審死事件、千葉大生殺人事件、島根県立女子大生殺人事件)から国民の関心をそらせる効果まで発揮した。とりわけ、練炭不審死と鳥取不審死事件は、警察当局の初動捜査のミスが指摘されていた。

犯罪者を野放しにしていいわけがない。殺人犯は速やかにその身柄が確保され、裁判を受け刑に服すべきである。そのことに異論があるはずがない。しかし、犯人逮捕をことさら「劇場化」させる必要はない。そもそもこの「逃亡劇」は、警察が市橋容疑者を彼の自宅で取り逃がしたことから始まったのだ。「酒井法子事件」の公判を取り仕切った某裁判官は、「法廷女優」という異名を取った酒井法子被告に対し、“これはドラマではなく現実なのだ”という意味の発言で酒井被告を諭したという。

筆者ならば、この身柄確保について前出の某裁判官にならって、 “これは「逮捕劇」ではない、あなた方(当局)のミスにより2年余りも逃亡した容疑者を、あなた方(当局)がやっとのことで、修復したにすぎない”と、当局を諭したい。

2009年11月10日火曜日

休養日

8日の日曜に仕事をしたため、本日、代休で家でのんびりしている。暑くもなく寒くもなく、天気はあまりよくないけれど、このくらいの曇天のほうが楽である。ここのところ11月にしては暖かい。暖冬傾向は否定しようもない。

さて、報道によると、新型インフルエンザが大流行の兆しが認められる。中世欧州の「ペスト」の大流行は、中世を終わらせた要因の1といわれているし、近代では「スペイン風邪」の大流行が第一次世界大戦を終わらせた、という説がある。近年では「エイズ」と呼ばれる感染症に世界中が汚染され、多数の死者を出している。伝染病が文明を転換させる要因の1つとなることは、歴史が証明している。

このたびの新型インフルエンザの場合、日本では発病者の過半が18歳以下であることがわかっている。乳幼児の死亡も何件か報道されているが、今後増加傾向を示すことが懸念される。このことが意味するものがあるのだろうか。

新型インフルエンザの流行は予測されていた。にもかかわらず、当時の自民党政府はワクチンの確保に全力を傾けたとはいえない。民主党も本格的流行に備えた対策をうったともいえない。今年の夏の時点では、大流行に懐疑的であった。もちろん、筆者も「大騒ぎ」をすれば、いたずらに社会的混乱を引き起こすだけだ、と考えていた。反省を要する。

ただ、情報が整理されて報道されているともいえない。まずもって、「新型」と「季節性」の比較がなされなければなるまい。両者の死亡率を比較してみないと、「新型」の危険性が証明されたとはいえない。新型のほうが呼吸器に悪い影響を与えるとの報道はあったが・・・

感染者数、学級閉鎖数等も同様である。「季節性」に「新型」が加わって、状況としては危険度が増していることは確かであるが。

類似した事件がセットで発生する不思議

似たような事件がセットで発生している。なんとも不思議な現象だ。まず、芸能人の麻薬・危険薬物事件として、「押尾学事件」と「酒井法子事件」がほぼ同時期に報道され、このたび、両事件の2人の被告に判決が出た。これを便宜上、セット1-2人の芸能人麻薬事件と呼ぶ。

■セット2-2人の女のまわりで大量の不審死発生

(1)埼玉結婚詐欺女と練炭不審死事件

10月27日、埼玉県警に結婚詐欺などの疑いで逮捕された無職の女(34)=東京都豊島区西池袋=の知人男性が相次いで不自然な経緯で死亡していたことが、県警の調べで判明し、殺人事件の疑いもあるとみて捜査しているとの報道があった。県警によると、女とかかわりを持ち、その後に不審死した男性は4人に上るという。

県警と警察当局によると、女と交際していた東京都千代田区神田神保町の会社員、大出嘉之さん=当時(41)=が8月6日朝、埼玉県富士見市の駐車場で、施錠した乗用車内で練炭による一酸化炭素中毒で死亡しているのが見つかった。大出さんの遺体から睡眠薬の成分が検出された。車内から車の鍵は見つからず、遺書もなかった。女は大出さんに「学生だからお金がかかる。欲しいものがある」などとうその話を持ち掛け、約500万円をだまし取っていたという。

また、女が出入りしていた千葉県野田市尾崎の安藤健三さん=当時(80)=が5月15日、自宅が全焼する火事で死亡。安藤さんの遺体からも睡眠薬の成分が検出された。安藤さんは息子(36)と2人暮らしで寝たきりの状態。火事は息子の留守中に発生した。

県警によると、ほかにも都内と千葉県に、女とかかわりがあり、その後死亡した男性が2人いるという。女は、インターネットで知り合った長野県の50代男性と静岡県の40代男性に「学費が3カ月未納で卒業できない。卒業したらあなたに尽くします」などと結婚話を持ち掛け、計約330万円をだまし取ったなどとして詐欺などの疑いで逮捕された。
 
(2)鳥取詐欺ホステス女と大量不審死事件

11月になると、鳥取の不審死が報道され始めた。鳥取県で男性3人が相次いで不審死した事件で、詐欺容疑で逮捕された元スナック従業員の女(35)が、10月27日に変死した無職、田口和美さん(58)に自宅アパートで前日夜に多量の錠剤を飲ませた際、一緒にいた知人の男性に「薬を飲ませたことを警察に言わないで」と口止めしていたことが9日、分かった。鳥取県警は、女の周辺で亡くなった田口さんを含む男性6人について死亡の経緯に不自然な点があるとして、殺人容疑も視野に捜査を開始。田口さんの遺体からは睡眠導入剤が検出されており、県警は女が飲ませた薬の成分の可能性があるとみて調べている。

■セット3-2人の女子大生殺害事件

(1)千葉大生放火殺人事件

10月下旬、千葉県松戸市の千葉大4年荻野友花里さん(21)が殺害され、マンション自室が放火された事件で、犯人が荻野さんを10月21日に殺害していったん逃走後、翌22日にマンションに戻って放火した疑いがあることが分かった。その後、殺された荻野さんのカードを使った男が金を引き出した映像が公開された。

(2)島根県立大生バラバラ殺人事件
広島県北広島町の臥龍(がりゅう)山で見つかった女性の切断された頭部について、広島県警は7日未明、DNA型鑑定の結果、10月下旬から行方不明だった島根県浜田市の島根県立大総合政策学部1年、平岡都さん(19)と確認し、発表した。広島、島根両県警は死体損壊、遺棄容疑で浜田署に合同捜査本部を設置。何者かが別の場所で平岡さんを殺害、遺体を切断して車で運んで捨てたとみて、司法解剖して死因の特定を急ぐ。

■日本の警察は甘すぎる

「セット」と称しても、時間、場所等において相互の関連性は何もない。ただ、被害者、実行犯、内容において、似たような属性や情況が認められるだけだ。犯罪の傾向や犯人像において、なんらかの共通性が認められるわけではない。いまのところ(11月10日現在)共通しているのは、芸能人の麻薬事件を除いて、未解決であるということだ。

「セット2」の場合、詐欺事件を起こした女性の周辺に、不審死をとげた多数の男性(被害者か)がいたにもかかわらず、いずれの警察も不審死について自殺と断定し、捜査開始が遅れた。警察が人の死を軽んじている。日本は殺人者に都合のよい国になる危険性が高まる。日本の警察はチョロイぞ、死体のそばに「遺書」でも置いておけば、疑われることはないぞ、となれば、自殺を装った保険金殺人事件や、このたびのような不審死が多発する可能性が高くなる。そういえば、相撲部屋で起った「かわいがり」事件も、当初、警察は事故で済まそうとした。遺族が遺体を新潟大学医学部に持ち込まなければ、親方逮捕に至らなかった。警察が事件を見逃し、「殺人者」を捕まえないことが新たな被害者を生む。

いま話題の英国人女性死体遺棄事件で指名手配されている犯人は、整形手術で顔を変え逃走中だ。事件当時、犯人の自宅に警察が捜査に入ったところ、犯人が逃げ出し、以来、身柄が確保されていない。どじな話だ。日本の警察は甘すぎる。モタモタするな、と言いたい。

2009年11月5日木曜日

役割は終わった-“Social”か“Individual”か

総選挙に民主党が圧勝してから最初の国会が開催された。代表質問終了後のテレビのインタビューに、田中真紀子民主党議員は次のように答えた。「自民党は終わった、という感じですね、わたしがいたころの自民党とは・・・(全然、違う。)」。

田中は、小泉政権下でその人気を買われ外務大臣に就任したが、同省内でゴタゴタを引き起こし解任された。結局、田中は自民党を出て無党派議員となり、先の総選挙直前に民主党に入党した。彼女にしてみれば、このたびの自民党の代表質問のテイタラクを目の当たりにして、それなりの思いが込み上げてきたのだと思う。それほど、自民党の代表質問は酷かった。その様子をテレビで見た国民の誰しもが、「自民党は終わった」と思ったであろう。

いま行われている予算委員会等における野党側(自民党)の質問も、民主党の勢いを止めるには至っていない。自民党の質問者の言葉は、自民党の確固たる政策から発せられたものでないことが、その重さから感じ取られてしまうのである。先に行われた参院補選で自民党が二連敗したことが、そのことをなによりも証明している。

政権奪取後、民主党政権が取り組んでいる諸課題とは、大雑把に言えば、長年続いた自民党政治の負の遺産の後始末、清算である。例えば、八ッ場ダムが象徴するのは自民党が行ってきた大型公共事業の継続性の是非であり、子供手当てが象徴するのは、小泉・竹中自民党が断行した福祉政策後退の是正であり、郵政民営化の見直しは、自民党が切り捨てた、地域生活ネットワーク拠点の再生に関する試行であり、JAL経営問題は、無責任な航空行政と空港建設に引きずられた巨大企業の経営破綻処理である。

まず、郵政民営化の見直しを考えてみよう。小泉政権の下、郵政民営化を実質的に進めた竹中平蔵は、テレビに出演して、民営化の前、郵便局に貯蓄された国民の預金は、財政投融資として大蔵省(当時)の裁量によって恣意的に使われ、特殊法人等にノーチェックで流れていたと説明している。ところが、経済評論家の森永卓郎は、この竹中平蔵の説明にかなり前から反論しており、森永は自身のブログで、次のように説明している。

■(竹中が主張する郵政民営化により、)特殊法人への資金の流れが変わるという件であるが、これは誤解なのか曲解なのか、前提に大きな誤りがある。というのも、すでに2001年に財政投融資制度は廃止となっており、郵政公社が特殊法人に資金をそのまま流していたという指摘は当たらないからだ。では、郵政公社はどうしていたかというと、政府が保証をつけている財投債、あるいは財投機関が発行する財投機関債を、マーケットで買って資金運用をしていたのである。だが、この財投債は民間銀行も購入しているものであり、そもそもマーケットを通じて買うのだから、特殊法人に金を流しているという批判は当たらない。政府が財投債を売って、政府がその金を特殊法人に流していたのであるから、特殊法人を温存していた責任があるのは政府なのであって、郵政公社には責任はなかったのだ。■

大蔵省(現財務省)が財投を巨大公共事業に勝手にまわした(霞ヶ関の隠れた財布)という竹中の説明は、郵貯のいつの時代の話なのか。さらに、郵貯銀行を銀行法の下におくという竹中の企図は一見、正当に思われるが、郵貯銀行が市井の一(いち)銀行として競争を続けても、せいぜいCクラスの銀行にとどまる。金融市場のメカニズムに従えば、郵貯銀行がいまできることといえば、せいぜい、最もリスクの低い事業、すなわち、国債の購入くらいであり、現にそれしか資金運用していないのである。

民主政権が行おうとする、“郵政民営化見直し案”とは、「郵便局」、すなわち、郵貯銀行を都市銀行として改変することではなく、国民生活のためになる機能を再発見し、その方向に事業目的を変更することなのだと思う。そのことが、亀井大臣の基本的な考え方なのだと思う。

さて、田中真紀子が発した、「自民党は終わった」という言葉に戻ろう。自民党の終わりとは何か、自民党の何がどう終わったのかを整理しなければなるまい。

自民党が果たしてきた役割とは、第一に、公共事業を駆使した集票による政権維持であった。たとえば、巨大ダムに代表されるような半世紀単位の工期の公共事業を官庁(たとえば国交省)に立案させ、それを餌にして、地域(選挙区)にカネが落ちる仕掛けをつくり込み、予算(工事費)と引き換えに票を得る。「地域」は自民党に議席を与えるかわりに、公共事業予算分相当の仕事を半世紀近く保証される。省庁も調査、監理に関する外郭団体等を設立できるメリットがあり、建設中は長期にわたって現場事務所に職員を貼り付けることができる。政権与党、官僚組織、ゼネコン(土建業者等)に必要なのはダムではなく、工事(調査、監理等を含む)なのである。

第二は、調整機能である。市場原理に従えば、地域の小規模小売業者は、全国規模の大規模小売業者が進出すれば、たちどころに、閉店・倒産・廃業を余儀なくされる。それを調整するのが、いろいろな法規制であり、大店法が代表的である。そればかりではない。立法化されない調整方法はいくらでもある。たとえば、日本の法令においては、法の下に省令、施行規則、大臣告示等が紐付けられていて、それらは、各省庁レベルで自由につくられている。官僚組織は、省令、施行規則等を駆使することにより、市場メカニズムを窓口レベルで制御することができる。それらを公布するのは大臣(=官庁)の権限だから、省庁は国会以上に、実質的立法権をもっているのである。自民党政権の時代、大臣(政治)はまったくそれらに関与できなかったから、官僚の裁量権は高まるばかりであった。

第三は、特定の団体等に優遇措置を与える権限である。顕著な例として、消費税が挙げられる。小規模事業者は、消費税の納付が免除されている。その結果、おそらく、小規模事業者は消費税が課せられた価格で商品を販売しながら、その分を納税せず、消費税分を利益としているのである。これを「益税」という。国民はすべての商品に消費税が課せられていると思っているけれど、消費者が小規模事業者(例えば小規模小売店)を通じて物品を購入した場合、消費税相当分は小規模事業者の懐に収まり、国庫に納付されることはない。消費税率が上がった場合、「益税」はさらに膨らみ、消費者の納税における不公平は是正されないどころか、拡大してしまうのである。小規模事業者は、自民党支持団体である商店会連合会、事業組合等を結成していて、自民党議員を応援する後援会に通じている。民主党が、消費税の納付における不公平を是正できるのかどうか。

輸入品と国内産品の価格調整も行われている。省庁権限で、輸入品と国内産品の価格を強制的に統一して市場に出すことができるようにすれば、国内業者は守られるが、消費者は実際に輸入された価格より高い価格でその商品を購入することになる。そこで生じた差額は、特殊法人・独立行政法人、公庫等(以下、「特殊法人等」という。)の内部に基金、準備金等の名目で蓄積される。これも「埋蔵金」の一つである。国内産品生産者は外国産との価格競争が回避され、生活を保障される。生産者は事業組合、社団法人等の業界団体を構成し、法制化に尽力した議員に組織的に投票する。調整権限をもつ省庁は、傘下の特殊法人等を確保し、天下り先となる。これも、「政」治-「官」庁-「財」界の癒着の構造の1つである。

自民党が与党であった時代、自民党の存在理由は、“与党であること”以外に見当たらなかった。政府与党という立場を利用して、予算を獲得し、政策という名目により諸々の団体等に利益供与をし、それと引き換えに票をもらい、政権を維持していた。民主主義をどう定義するのかは難しい問題だけれど、自民党政権下の日本とは、開発独裁型もしくは開発調整型の国家として成立・維持された国家であった。当時の日本国では、自民党議員が官僚に命じて自分たちに都合のよい法案をつくらせ、それを国会で立法化し、国家運営を実質的に官僚に丸投げしてきた。国民(市民)よりも「上位」にある管理者(官僚)と業団体が、共同の利害に基づき、合体した政体であった。

官僚機構が産業界を統制することにより、その効率を高め、グローバル市場において高い競争力をもつ企業を育成する一方、競争力の弱い業態については保護主義的政策でそれらを守った。小泉(当時)首相が「自民党をぶっこわす」と宣言したのは、まさにそのような政体を指したのである。2005年の「郵政解散」のとき、国民は、小泉(当時)首相が唱えた「郵政民営化」を、それまで維持してきた古い自民党政治を壊し、新たな市民優位の政体を確立する、スローガンだと錯覚した。

小泉政権が目指したのは、米国のような、Individual(個的)に重きを置く国家像であった。もちろん、そのような国家像は、日本、というよりも、ユーラシア的規模において馴染まない。旧大陸においては、歴史的重層性に規定された、Social(社会的)な国家が求められているからである。

自民党が半世紀にわたって維持してきた日本型産業優先調整国家が行き詰まり、さらに、米国を模倣した小泉政権下で進められたIndividual(個的)な競争社会がリーマンショックにより破綻し、そしていま、政権交代により、Social(社会的)な調整型国家が復権してきた。小泉政権以前の旧自民党と、現在の与党民主党の政策は、Individual(個的)にではなく、Social(社会的)に重きを置くという意味において、共通しているのである。

小泉政権が終わり、民主党政権が誕生するまでの間、自民党は、安倍、福田、麻生の3人の首相を輩出しながら、党として国家像を把握することに失敗した。Social(社会的)な国家像を描けば、当然、公的セクターの役割は増大し、官僚の役割は強まり、仕事は多くなる。民主党は、“官僚依存”を止めると宣言しただけであって、官僚制度を廃止するとは言っていない。ところが、「みんなの党」の渡辺喜美は、官僚制度の廃止を目指し、民主党を批判している。国民は、官僚制度が国民生活を豊かにする方向に機能すればいいわけで、渡辺喜美のような怨恨を官僚制度に抱いているわけではない。自民党が小泉政権のようなIndividual(個的)な国家像を目指せば、国民から見放され、党は崩壊するし、Social(社会的)な国家像を目指せば、民主党に取り込まれる。自民党の役割は、どうあがいても、終わったのである。

2009年11月3日火曜日

飲みすぎ、歌いすぎ

先週は水曜日に旧友(高校の同級生)S氏と拙宅近くで飲んで、二軒目、「N」でカラオケをした。金曜、拙宅近くで仕事があり、終わってから仕事仲間と飲んで、同じく「N」に行ってカラオケをした。日曜日、高校時代の同窓会が上野公園内の精養軒であり、三次会に池之端のカラオケボックスに行き、更に四次会で「N」に行きカラオケをした。

というわけで、歌いすぎ、喉が変。ハスキーボイスになって今日を迎えている。飲みすぎ、歌いすぎで、喉にポリープができるという話もある。しばらく、歌は休業しよう。

さて、同窓会(隔年開催)である。筆者は一昨年、わけあって二次会に初参加した。それまでは出席する気になれなかった。

今回は、本会から四次会まで参加したのだけれど、三次会まではどうも周囲と波長が合わず、困ってしまった。卒業以来●年、懐かしく再会したにもかかわらず、違和感を拭いきれない。

筆者の高校は優等生が多い。同窓会に来るのも優等生グループが大半、筆者が当時遊んだ悪友たちは、S氏以外、来ていなかった。そんなわけで、不完全燃焼である。だからといって、筆者が音頭をとって、悪友ばかりを集めた「もう一つの同窓会」を開くほどのエネルギーもない。熱心な永久幹事が開催してくれる本会に悪友たちが参加してくれるしかないのだが、いろいろな事情があるのだろう。

「あいつは、いま、何してるんだ」「あいつとあったのは、●年前、確か・・・」といった具合で、不在者を懐かしむばかりである。亡くなられた学友はおよそ10名。ご冥福をお祈りします。

保護責任者遺棄容疑

東京地裁は11月2日、麻薬及び向精神薬取締法違反の罪に問われた元俳優・押尾学被告(31)に対し、懲役1年6月、執行猶予5年(求刑懲役1年6月)の有罪判決を言い渡した。執行猶予としては最長で、同罪の初犯では異例の厳しい判決となった。

「押尾学事件」については、何度も取り上げてきた。「酒井法子事件」に比べて、当該事件には死者が出ているのである。死の真相を突き止めるという意味を論ずるまでもなく、薬物の恐ろしさを人々に、とりわけ、若者に知らせるという意味において、両者を比較することすら憚れる。マスコミは事件の社会的意味を適正に判断し、薬物事件に係る報道の量(時間もしくはスペース)と質とを決めていただきたいものだ。

この事件の報道については、管見の限りでは、インターネット版『スポーツ報知(芸能)』(以下『IN版スポーツ報知』と略記。)が最も分かりやすく適切な報道を行っていると思われるので、以下、その報道に従って、筆者の考え方をまとめておく。

■井口修裁判官は冷静に判決要旨を読み上げたが、法廷での“押尾語録”に疑問を呈した厳しい内容だった。「MDMA施用の経緯など被告人の法廷での説明は、内容が不自然で、およそ信用し難い」とバッサリ切り捨てた。「違法薬物との関係を断絶する環境整備も十分とは認め難い。相当長期間、再び違法薬物に手を出さないか見守る必要がある」と、執行猶予としては最長の5年を適用した。(中略)判決公判は午前11時に開始され、わずか4分で終了。押尾被告が言葉を発したのは名前と判決内容を確認した2度の「はい」だけ。裁判官が被告人に悪い点を言い聞かせる「説諭」もなかった。麻薬取締法違反の初犯では、執行猶予は3年か長くても4年が多いが、海外での使用経験、入手ルートのあいまいさも踏まえ、異例の厳しい判決となった。(『IN版スポーツ報知』)■

麻薬及び向精神薬取締法違反の罪に関する今回の量刑は、そんなものなのだろうと思う。筆者には、懲役1年6月、執行猶予5年(求刑懲役1年6月)が重いか軽いかは判断できない。しかし、この裁判で明らかにされなかったのは、①危険薬物の入手経路、②いわゆる「空白の3時間」、③亡くなった女性の携帯電話がマンションの植え込みで見つかったこと――の3点につきる。筆者を含めて、国民の過半が不満を抱くのは、判決(量刑)にではなく、真相が明らかにされていないということに関してなのではないか。

筆者の推測では、これも何度も書いたことだけれど、①②③は密接に関係している。押尾学被告は、薬物を自分ではなく、亡くなった女性が所持していたと述べているようだ。今回の裁判でも、入手経路については明らかにされていない。それでいいのだろうか。押尾学被告は、薬物所持(=入手経路)の責任(=罪)を亡くなった女性に被せるために、救急車を呼ばずに、瀕死の状態の女性を放置していたのではないのか。現時点では、そのように推測するほうが自然なのであり、「死人に口なし」として、薬物の入手経路を明らかにせず、執行猶予で逃げ切るつもりなのではないのか。

■押尾被告の判決を受け、スポーツ報知ではホームページ上で緊急アンケートを実施した。同時に寄せられた意見では「こんな判決、何か裏で強力な何かが、あるような気がします」「実際に起きたことを正直に話しているとは全く思えない」と押尾被告の証言に疑問を唱える声が次々と上がった。世論は、押尾被告を許していないし、判決にも納得していなかった。判決を軽いと感じ、芸能界復帰にも「この上復帰となれば、芸能界は覚せい剤の温床と見なすべき」と芸能界全体に投げかける過激な意見も見られた。(同上)■

『INスポーチ報知』が緊急アンケートを行ったことは適正であり、そこに寄せられた人々の「声」も適正である。人々は、押尾学被告を許していない以上に、今回の裁判が真相究明に及んでいないことに怒りを覚えているのである。

■厳しいとはいえ、薬物使用での実刑は免れた押尾被告。だが、まだ再逮捕の可能性が残っている。保護責任者遺棄容疑での立件だ。公判では触れられなかった田中さんの体に異変が起こってから、119番通報されるまでの“空白の3時間”。警視庁捜査1課は、田中さんの死亡までの経緯と押尾被告の行動の因果関係について詰めの捜査を進めているという。(同課は)当初は、保護責任者遺棄致死罪の適用を検討。しかし、救急治療を受けたとしても、高い確率で救命できたかどうか立証するのは難しく、同致死容疑での立件は困難との判断に傾いている。そんな中、同被告の供述などから、田中さんに異変があってから30分以上生存していた可能性があり、捜査1課は保護責任者遺棄容疑の適用は可能と見ている。一部ではすでに捜査は終え、検察と今週中の立件に向け調整中という情報もある。同容疑で立件された場合は、実刑判決が確実だ。
◆保護責任者遺棄罪:保護責任がある者が、要保護者の生存に必要な保護をせず、その生命や身体に危険を生じさせる罪。遺棄の結果、人を死傷させた場合は同遺棄致死傷罪となり、重い刑により処断される。保護責任者遺棄罪は3月以上5年以下の懲役、同遺棄致死傷罪は20年以下の懲役となる。(同上)■

当局がなんらかの事情で押尾学被告の犯した罪を見逃し、真相を究明せず、執行猶予で逃げ切らせたとなれば、亡くなった女性の霊がうかばれることはない。これも繰り返しになるが、女性の容態が悪化したとき、押尾学被告の周りには、マネジャーや友人がいたといわれている。彼らも共謀して、女性を死に至らしめた可能性が高い。しかも、いま現在、彼らがマスコミに登場する気配がない。つまり、彼らの人道上の「罪」が問われることもない。普通に考えれば、死にそうな人が傍らにいたとしたら、救急車をすぐさま呼ぶのが当たり前ではないか。マスコミは、現場で押尾学と行動をともにした人物に取材して、そのときの様子を聞きだして伝えるべきだ。「酒井法子事件」にあれだけエネルギーを注いだ実績があるのだから、それくらいのことはできるはずだ。

2009年10月31日土曜日

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よろしくお願いします。

2009年10月27日火曜日

魔術師マーリン

筆者は、テレビといえば、スポーツ、映画、ニュース・天気予報しか見ないのだが、最近、毎週見ようと思っている番組ができた。久々の「お気に入り」である。

その「お気に入り」は、『魔術師マーリン』(毎週月曜日午後8時、NHK衛星第2)。マーリンは、アーサー王伝説に登場する魔法使い。彼はアーサー王の危機を得意の魔術で、幾度となく救う。

さて、この連続テレビドラマは、キャメロット(アーサー王の城)を舞台に、ベンドラゴン一族(ウーサー王、王女モルガーナ、アーサー王子)、宮廷医師でマーリンの魔術の師匠ガイアス、マーリンに心を寄せるモルガーナの侍女ガウェイン、そして、アーサーに仕えるマーリンを登場人物とする、ホームドラマ仕立てになっている。

マーリンはしばしば、このドラマの中でもアーサー王(子)を助けるし、また、反対にアーサーに助けられることになっている。キャメロットを脅かすのは女魔術師で、彼女は黒魔術を駆使して、しばしば、キャメロットを危機に陥れる。マーリンとアーサーは、協力して、黒魔術を退ける。

しかし、いくつかあるアーサー王の物語(伝説)は、ホームドラマというわけにはいかない。不倫あり悲恋あり悲劇あり裏切りあり、の波乱万丈である。

さて、このテレビドラマでは、ウーサー王の統治する領土では「魔術」が禁止されている。だから、魔術を使った危機に対しても、ウーサー王は、ガイアスに対して、「科学的」にそれを解決させようと命ずるのである。それゆえ、ガイアスもマーリンも魔術を封印するのだが、結局は魔術には魔術で対抗することになる。筆者には、この筋書きがいかにも無理があるように思えるし、中世社会のおどろおどしさが薄れて、きわめて陳腐にうつる。

そればかりではない。また、しばしば、ウーサー王は息子アーサーに対して、統治とは、王道とは、国家(領地)とは・・・を説こうとする場面が出てくるのであるが、そうした場面は国会議員の「世襲問題」の馬鹿馬鹿しさが論じられるいまの日本において、はなはだ胡散臭い。この番組のマーリンは、近代化された魔術師マーリンである。だから、いくら、魔術がつくりだした怪物が出てきても、恐ろしくない。

などなど、いろいろと理屈でけちはつけられるのだが、ブリテン(英国)の地では、アーサー王伝説がいまなお伝えられ、生き続けていることが確認できるという意味で、筆者にとっては貴重なテレビドラマである。

2009年10月17日土曜日

あの素晴らしい愛をもう一度

ミュージシャンの加藤和彦が亡くなった。自殺だという。ご冥福をお祈りします。

デビューは3人組のグループで、「帰ってきたヨッパライ」という曲だった。CDのなかった時代、録音テープを早送りしたものだ。

自殺の理由はわからない。ただ、私のような凡人の目線からすれば、すべてをやりつくしたような人に見えた。

お金もたくさんあるのだろうし、のんびり暮らせばいいのにと思うのだが。

同世代のミュージシャンといえば、吉田拓郎などのフォーク歌手が思い出される。

けれど、加藤和彦は、フォークというカテゴリーにはおさまりきらない。

彼がやりたかったことと、いまの時代が求めているものは違うのかもしれない。でも・・・

2009年10月14日水曜日


@Yanaka

2009年10月13日火曜日

丸に善



@Yanaka

2009年10月12日月曜日

『1968〈上下〉』

●小熊英二[著] ●新曜社 ●上下とも7,140円(税込)


 党派闘争で100名を超える犠牲者

本書上下巻を通じて、著者(小熊英二)が触れなかった問題意識について、以下の事項を挙げておきたい。
特筆すべきは、新左翼・全共闘運動の死者の数である。本書にしばしば引用されている『新左翼とは何だったのか』(荒岱介[著]。以下、『新左翼とは~』と略記。)によると、新左翼・全共闘運動の内ゲバで死亡した人数は100人超に達するという。内訳を『新左翼とは~(P186)』から引用すると、中核派による革マル派殺害が48人、解放派による革マル派殺害が23人、革マル派による中核派・解放派両派殺害が15人、ブント系では連合赤軍のリンチ殺人を含めて15人、解放派内部の内内ゲバで10人の死者が出ているという。なお、筆者の想像にすぎないが、革共同両派(中核派-革マル派)の内ゲバの犠牲者は、ここに掲げられた数を上回っているものと思う。
世界の近現代史において、反体制運動内部の抗争によって100名を超える死者を出した運動というのは、新左翼・全共闘運動以外にあるのだろうか。少なくとも国内には見当たらない。異常である。

生活者に多数の死傷者を出した新左翼運動

次に特筆すべきは、一般生活者に犠牲者が及んだことである。代表例として、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線「狼」班による三菱重工ビル爆破(三菱重工爆破事件)を挙げておく。この爆破で8名が死亡、385名が重軽傷を負った。類似の爆弾事件8件が起きている。これらの犯行は、新左翼・全共闘運動の延長線上であって、本書が扱う対象(1968年前後)から離れるという見方もあろうが、著者(小熊英二)の言う、「70年のパラダイム転換」に含まれるものと解釈する。

爆弾事件としては、1971年12月24日、東京都新宿区新宿三丁目の警視庁四谷署追分派出所付近にあった買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された時限爆弾が爆発。警察官2人と通行人7人が重軽傷を負った。その後、黒ヘルグループのリーダーの鎌田俊彦が出頭し、事件の全容が明らかになった。鎌田俊彦に無期懲役が確定した。

日本国内ではないが、1972年、日本赤軍兵士・岡本公三ほか2名が、テルアビブ空港にて民間人を中心とした24人を虐殺した。パレスチナ問題はイスラエルと臨戦態勢にあるという見方もあるため、国内の事件とは同質には語れない面もあろうが、付記しておく。

活動家の死と闘争の激化

第三は、新左翼・全共闘運動が活動家の<死>を契機として、運動が激化したことである。

最初は、60年安保闘争における樺美智子の死である。1960年6月15日、全学連主流派(ブント)の東大生樺美智子は、国会突入時に機動隊と衝突し死亡した。一人の女子大生の死は、新左翼学生運動の黎明期を象徴するものである。

二番目の死者は、1965年の奥浩平の自殺である。奥浩平については、本書上巻に詳しいので詳述はしないが、奥は中核派の活動家で1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺した(21歳)。高校時代からの恋人は、早稲田大学入学後に革マル派に所属し、党派間抗争の激化とともに別離に至った。自殺の原因のひとつとして、このことに対する苦悩が挙げられる。奥の手記『青春の墓標』は、奥の死後、広く新左翼活動家の間で読まれた。

三番目の死者は、1967年の京大生山崎博昭(中核派)の死である。1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するため中核派、社学同、解放派からなる三派全学連を中心とする部隊は羽田周辺に集結した。このとき、新左翼は、はじめてヘルメットと角材で武装した。この闘争では死者1人、重軽傷者600人あまり、逮捕者58人が出た。街頭での反体制運動で死者がでたのは、60年安保闘争時の樺美智子以来のことで、社会に多大の衝撃を与え、同時に警察力に押え込まれ沈滞していた学生運動が再び高揚する契機となった。 以後、ヘルメットとゲバ棒で武装した新左翼のデモ隊と機動隊との激しいゲバルトが一般化した。佐世保、三里塚、王子と、本書では「激動の7ヵ月」といわれる大闘争が連続的に闘われることになる。有名な全共闘の闘争スタイルも、直接のルーツはこの10.8闘争にあるとされ、67年10月8日は革命的左翼誕生の日として新左翼史上特筆される。山崎博昭の死に触発されて、多くの学生が新左翼運動に参加した。

四番目の死は、1969年4月20日の華青闘活動家・李智成(台湾籍)の出入国管理法案に対する抗議の服毒自殺である。本書下巻では、李の死を「70年のパラダイム転換」として特別に扱っている。李の死を伴った抗議が1970年7月7日の華青闘による新左翼批判に結実し、自己批判した新左翼は、以後、マイノリティー(在日アジア人、沖縄問題、同和問題、リブ等)解放闘争を開始するとともに、新左翼の倫理主義的傾向(加害者意識、内なる差別)を加速させた。

五番目の死は、1969年7月のブント赤軍派の同志社大生・望月上史の死である。1969年7月6日、ブント内の赤軍派と主流派である仏(さらぎ)派との衝突後、主流派により中大内に監禁暴行されていた赤軍派・望月上史が逃亡の途中、中大校舎3階から転落、29日に死亡した。内ゲバによる初の死者である。赤軍派は、その登場から、死者を伴うものだった。

六番目の死は、1970年8月4日の革マル派学生・海老原俊夫の死である。革共同中核派の一団が、対立する革共同革マル派の教育大生・海老原俊夫を法政大学に連れ込み、先に被ったリンチの報復として、海老原を死に至らしめた。以降、新左翼各派の内ゲバは激化し、前出の『新左翼とは~』のとおりの死者数を出す契機となってしまった。

七番目の死は、1970年12月18日、日本共産党革命左派(以下、「革命左派」と略記。)・柴野春彦による東京・板橋の上赤塚署交番襲撃における死である。柴野は交番襲撃に失敗し、警官に銃殺された。革命左派は後にブント赤軍派と合体して連合赤軍を形成したが、この死は、革命左派の武装路線を運命づけたものだった。

八番目の死は、1971年8月3日~10日、連合赤軍からの脱退を意思表示した、早岐やす子と向山茂徳の処刑である。2人の処刑の経緯等は本書下巻に詳しいのでここには書かないが、この処刑が連合赤軍の山岳アジト総括リンチ殺人の直接的契機となったという。

権力側の死亡者

新左翼・全共闘運動における警備側の死は、日大闘争で起きている。1968年9月29日、先の4日の衝突の際に全共闘側の投石により頭部重症を負った機動隊員西条秀雄が死亡した。

三里塚闘争では、1971年9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)た。なお、1977年5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、機動隊員の放ったガス弾を至近距離で頭部に受けた支援者の東山薫は5月10日に死亡した。

1972年2月19日に始まる、連合赤軍による「浅間山荘」銃撃戦において、機動隊員2名、民間人1名が死亡した。これらの死者が、前出の著者(小熊英二)の“要因”におさまるものなのか。

演劇的革命闘争とメディアの影響

新左翼・全共闘運動が、日本の全大学生数の1割にも満たない者によって担われながら、全国の大学に波及したのか。その回答として(想像にすぎないが)、テレビ等のマスメディアの普及を挙げておきたい。新左翼党派の「革命理論」は、原理主義的マルクス・レーニン主義であった。新左翼を代表する2つの党派の1つブントの場合、67年10.21羽田闘争から1969年秋の「決戦」に至るまで、1960年安保闘争で獲得した一揆主義(行動主義)から一歩も進歩していない。また、革命的共産主義者同盟中核派においても同様である。彼らの戦略は、スケジュール化された街頭闘争において機動隊と衝突し、マスコミ報道があれば、労働者が覚醒し革命が近づくというものであった。革マル派の場合は、日本共産党に代わる、反帝国主義・反スターリン主義を綱領とした前衛党建設に運動を一元化したものの、彼らが建設せんとした「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」は、オールド左翼以上のスターリン主義政党であった。

しかし、新左翼の実態はともかくとして、本書が命名した「激動の7ヶ月」における三派系全学連と機動隊が衝突する映像がテレビを通じて全国に流れたとき、そして、彼らの「純粋性」が雑誌等を通じて全国に流通したとき、多くの意識的学生が心を惹かれたのである。ブントの一揆主義=演劇的武装闘争が市民権を得て、若者の心を捉えたのである。

学園闘争=全共闘運動はその始原においては、本書が明らかにしたように、地味な学内民主化運動、施設改善運動であった。しかし68年、日大闘争、東大闘争にスポットが浴びて全国に伝えられたとき、やはり、多くの若者の心を捉えたのである。そのとき、「自己否定」という倫理が若者の心を捉えたのである。69年1月、東大安田講堂攻防戦の落城までの模様が全国にテレビ中継されたとき、演劇的武装闘争は頂点に達し、全国の大学生のみならず受験生までもが、全共闘運動に興味を覚え、その年の4月以降、運動は全国化したのである。

残念ながら、街頭と学園の演劇的武装闘争は67年の秋から69年の秋まで繰り返され、結局その限界が自覚された69年末から70年代、新左翼党派は、倫理主義、決意主義のリゴリズムを強め、空想的革命戦争論へと傾斜した。本書のいう“パラダイムシフト”が始まったのである。赤軍派、革命左派、爆弾グループへと引き継がれ、最後は破滅したのである。

倫理的な痩せ細りの嘘くらべ

以下の吉本隆明の記述(「情況への発言」1984年5月『情況へ』収録)は、『吉本隆明1968』(鹿島茂[著])からの孫引き引用である。

こういう相も変わらずの〈倫理的な痩せ細りの嘘くらべ〉の論理で、黒田喜夫はいったい何をいいたいんだ。また、何もののために、何を擁護したいんだ。
(中略)
われわれが「左翼」と称するもののなかで、良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっているうちに、ついに着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食に味噌と野菜を食べて裸足で暮らして、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そして、その虚像は民衆の解放ために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる。はじめの倫理の痩せ方根底的に駄目なんだ。そしてその嘘の虚像にじぶんの生きざまがより近いと思い込んでいる男が、そうでない「市民社会」に「狂気にも乞食にも犯罪者にもならず生きて在る」男はもちろん、それにじぶんよりも近い生活をしている男を、倫理的に脅迫する資格があると思い込み、嘘のうえに嘘を重ねていく。この倫理的な痩せ細り競争の嘘と欺瞞がある境界を超えたときどうなるか。もっとも人民大衆解放に忠実に献身的に殉じているという主観的おもい込みが、もっとも大規模に人民大衆の虐殺と強制収容所と弾圧に従事するという倒錯が成立する。これがロシアのウクライナ共和国の大虐殺や、強制収容所から、ポル・ポトの民衆虐殺までのいわゆる「ナチスよりひどい」歴史の意味するところだ。そしてこの倒錯の最初の起源が、じつに黒田喜夫のような良心と苦悶の表情の競いあいの倫理にあることはいうまでもない。
(中略)
幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになることが解放の理想であり、着たきりの人民服や国民服を着て玄米食と味噌を食っている凄みのある清潔な倫理主義者が、社会を覆うのが理想でも解放でもない。それは途方もない倒錯だ。黒田喜夫におれのいうことがわかるか。おれたちが何を打とうとしているか、消滅させなければならないのが、どんな倒錯の倫理と理念だとおもってたたかっているのかがわかるか(P417~P418)
吉本隆明が批判した詩人の黒田喜夫は新左翼の活動家ではない。だがしかし、新左翼・全共闘運動の活動家、とりわけ、連合赤軍の活動家の実態が記された本書下巻を読むとき、両者がそっくり重なってしまうのである。吉本隆明は、“解放の理想とは、幸福そうな市民たち(いいかえれば先進社会における中級の経済的、文化的な余暇(消費)生活における賃労働者)が大多数を占めるようになること”だと看破した。

吉本隆明に従えば、新左翼・全共闘運動の活動家が運動から離脱し、企業に就職していったのは、中級の経済的・文化的な消費生活が獲得されたことを確認したからだろうか、倒錯の倫理、理念から逃れて・・・