2005年9月29日木曜日

『東京奇譚集』

●村上春樹[著] ●新潮社 ●1400円(税別)

FI1903187_0E.jpg 本書は5つの小話が集められた短編集。それぞれの小話で、超常現象(Paranormal Phenomena)が扱われている。筆者は超常現象の専門家でないので、正確なことはわからないのだが、乏しい知識で小話集を分類すると、第一話がシンクロ二シティ(Synchronicity)、第二話=幻覚/幽霊(ハルシネイション/Hallucination))、第三話=テレポーテーション(Teleportation)、第四話=疑似科学(Pseudoscience)――になると思う。そして、最後の第五話で、この短編集が超常現象に踊る現代人を戯画化(Caricature)したことが明らかにされ、もちろん、この短編集の核心が超常現象でないことが確認される。

いま超常現象は、エンターテインメントの有力なコンテンツとして定着している。テレビをつければ、世界のシックスセンサーが何人も登場し、透視能力者による透視実験や失踪者探しが見られる。普通人とは異なる特殊能力をもった人間がいることは、周知の事実となっている。

稀代の流行作家・村上春樹(著者)がテレビ番組並み、いや、それよりもはるかに低いレベルの超常現象を書き上げた意図は――もちろん、読者を驚かそうとしたわけでない。本書程度の超常現象ではだれも驚かない。〈奇譚〉と振りかぶるのは大げさすぎる。

著者が超常現象にまつわる登場人物に関して、人生訓、人生の機微、その有為転変を付加したとも読めるが、陳腐だ。人生(人間)が常識や科学で推し量れない驚きに満ち溢れていることを説かれても、感心する読書は少なかろう。

著者が現代の都市におけるFantasy(幻想)のあり方を示した、という解釈は可能だ。第五話「品川猿」が重要だと思う。この小話は、自分の名前を忘れてしまいがちな主人公(既婚女性)が、品川区公設の精神カウンセリングに通うところから展開する。自分の名前を忘れるのは、超常現象の1つ「記憶喪失」を連想させる。カウンセリングに通ううちに、担当の女性カウンセラーが記憶喪失の犯人が猿であることをつきとめ、しかも、その猿が区内の下水道に隠れていることを透視する。これは透視能力者がよく、テレビで実演する透視シーンの戯画だ。

カウンセラーの夫(品川区土木課長)によって猿は捕獲され、尋問を受けることになる。そのとき、捕らえられた猿が主人公の性格的欠損を主人公に向かって、直言するシーンが出てくる。これは、転倒しているが、霊能者がテレビで依頼者に向かって、改心や今後の心構えを諭すシーンの戯画のように思える。

記憶喪失の原因は猿が名前(実際は名札)を盗んだから、という荒唐無稽な話だが、タネを明かせば、ヨーロッパの寓話(Allegory)によくあるパターンだ。村上氏は、第五話の寓話を用いて、超常現象ブームを揶揄し、そのすべてをひっくり返してみせる。と、同時に、絶望や不幸をもたらす原因を、妖怪や悪霊といった「あちら側の者」に表象して特定してみせ、さらに、「あちら側の者」から救済や功徳を受けることを明かしてみせる。

このような脈絡から、第五話「品川猿(記憶を盗む猿)」とは、アイルランドに伝承される妖精に似ているといえる。妖精も人間に対して、いろいろな悪さを仕掛ける。たとえば、人間を動物や石に替えたり、人の魂や記憶を盗んだり、人の魂と動物の魂を入れ替えたりする。その反対に、妖精は人間に教訓を与えたり、命を助けたり、富を与えることもある。第五話では、前述したように、猿が主人公の性格上の欠損を指摘して、主人公の生き方を変える役割を果たしている。

妖精といえばちょうど、『妖精のアイルランド』という新書を読んだばかりだ。同書には、妖精の果たす役割(換言すれば、妖精を生み出したアイルランド人の知恵)が言及されている。興味のある方は一読されたらいいと思う。妖精とは、共同体の安寧を維持するための、両義性をもった幻想的存在にほかならない。