2011年5月9日月曜日

ボディビル(3)






ボディビルに興味を示した知識人の代表は、管見の限りだが、三島由紀夫であろう。三島は、少年時代・青年時代を通じて、スポーツ・武道を嫌悪していたようだが、あるとき、剣道に、そして、ボクシング、ボディビルに熱中するようになった。

彼がなぜ、ボディビルに熱中するようになったのかはよくわからないのだが、筆者の想像では、文学・文芸に熱中し、武道・スポーツを嫌悪した反動と、近代知識人の身体性喪失傾向に対するアイロニーだったのではないか。筆者は、もちろん、三島のボディを実際に見たわけではないが、残された彼の写真や著作から推察するに、ボディビルダーとしての完成度は高かったようだ。

さて、三島が「肉体」について論じた代表的評論の1つが『太陽と鉄』である。同書には、彼が肉体に思いいれ、それについて論及した箇所が溢れんばかりであり、また、どの部分を引用しても、三島の筋肉への熱い思いが読み取れる。そのなかから、筆者が気になった部分を以下に引用しておこう(引用は講談社文芸文庫「三島由紀夫文学論集Ⅰ」から)。

つらつら自分の幼児を思いめぐらすと、私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、そこから言葉が訪れるであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れ、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていたのである。(P16)

病んだ内臓によって作られる夜の思想は、思想が先か内蔵のほんのかすかな病的兆候が先かを、ほとんどその人が意識しないあいだに形づくられている。しかし、肉体は、目に見えぬ奥処で、ゆっくりとその思想を創造し管理しているのである。これに反して、誰の目にも見える表面が、表面の思想を創造し管理するには、肉体的訓練が思考の訓練に先立たねばならぬ。私がそもそも「表面」の深みに惹かれたそのときから、私の肉体訓練の必要は予見されていた。
私はそのような思想を保証するものが、筋肉しかないことを知っていた。病み衰えた体育理論家を誰が顧るだろうか。書斎にいて夜の思想を操ることは許されても、蒼ざめた書斎の肉体について語るときの非難であれ賛嘆であれ、その唇ほど貧寒なものがあろうか。これらの貧しさについて私はよく知りすぎていたので、ある日卒然と、自分も筋肉を豊富に持とうと考えた。(P31~32)

こうして、私の前に、暗く重い、冷たい、あたかも夜の精髄をさらに凝縮したかのような鉄の塊が置かれた。
以後、10年にわたる鉄塊と私との、親しい付合いはその日にはじまった。
鉄の性質はまことにふしぎで、少しずつその重量を増すごとに、あたかも秤のように、その一方の秤皿の上に置かれた私の筋肉の量を少しずつ増してくれるのだった。まるで鉄には、私の筋量との間に、厳密な平衡を保つ義務があるかのようだった。そして少しずつ私の筋肉の諸性質は、鉄との類似を強めて行った。(P33)

三島がいうところの“鉄との付合い”というのは、ダンベル、バーベル、ウエート(重り)といった、鉄製のボディビル用具を使用することを意味している。いまでこそ、筋力増強マシーンや、化学合成物質のウエート(おもり)が普及しているが、三島の時代のボディビルは、錆ついた鉄製の用具でトレーニングする特殊なスポーツにほかならなかったため、鉄は、ボディビルのシンボルであり、また、両者の抜き差しならぬ関係を象徴するものであった。三島はそれゆえ、「鉄」をこの特異な評論のタイトルの一角として選択したのであった。

当ブログは、『太陽と鉄』を読み解くことが目的でない。だから、同書からの引用はこのくらいにしておく。けれど、同書から、三島がボディビルに打ち込む姿を想像することができるし、彼の文学創造とボディビルとの密接なかかわりあいを知ることができる。そればかりではない。同書には、三島が後年傾倒した政治運動及び自衛隊基地突入、自害に至る思想的経緯を暗示している箇所が認められるという意味で、三島作品のなかでも、極めて重要な評論の1つである。極論すれば、かつ、検証抜きの直感でいえば、三島がボディビルを選択したとき、彼の「最後」が決定づけられていた・・・のかもしれないのである。