2014年4月25日金曜日

『遊動論』――柳田国男と山人

●柄谷行人[著] ●文春新書 ●800円(+税)

本題となっている「遊動」とは何かから始めたい。著者(柄谷行人)が本書あとがき(P198)にて説明しているように、本書は後半に収録されている付論「二種類の遊動性」を先に読んだほうがわかりやすい。

著者(柄谷行人)は「交通(移動・戦争等)」及び「交換」といった観点から人類史を問う方法論を用いていて、本書もその方法が駆使されている。本書は人類の社会の始原から、現代の国家と資本の原理を超える道筋を「遊動」という観点から明らかにしようという試みである。社会の始原とは“人類が定住する前の社会のありよう”と換言できる。





定住以前の狩猟採集民社会

著者(柄谷行人)によれば、原初の社会を推論するには、人類学が扱ってきた漂泊的バンド社会の考察から可能だという。
そこ(漂泊的バンド社会)から、定住以前の狩猟採集民社会について、ある程度推測できるだろう。・・・バンドの凝集性は、共同寄託や供食儀礼によって確保される。バンドの結合は固定的ではなく、いつでも出ていくことができる。バンドは概ね、25-50名ほどの小集団である。その数は、食料の共同寄託(平等な分配)が可能な程度以上に増大せず、また、共同での狩猟が可能である程度以下にも減少しない。また、バンドが固定的でないだけでなく、家族の結合も固定的ではない。・・・家族と家族の間の関係は、もっと不安定である。ゆえに、親族組織は未発達であり、また、バンドを超える上位の集団を持たない。(P181) 
狩猟採集によって得た収穫物は、不参加者であれ、客人であれ、すべての者に、平等に分配される。これは、この社会が狩猟採集に従事しているからではなく、遊動的だからである。彼らはたえず移動するため、収穫物を備蓄することができない。ゆえに、それを所有する意味もないから全員で均等に分配してしまうのだ。(P182) 
著者(柄谷行人)は定住以前の社会について、きわめて自由度の高いものとしてイメージする。自分たちが狩猟採集したものを平等に分配できる範囲の定員が保たれ、そこから出るのも入るのも自由、家族の結合も緩やかで、バンドを超える集団、すなわち支配権力層をもたない。柄谷によると、このような社会形態を規定するのは狩猟採集という生産形態ではなく、遊動的生存という条件によって強いられたものだという。つまり、狩猟採集とは獲物となる動物や食料となる植物等を求めて遊動する必要があるから、それを可能とする社会として、前出のようなイメージの社会集団が形成されていたということになる。

次に、著者(柄谷行人)はこのことを贈与論の観点からみる。
(この全員均等分配は、)「純粋贈与」であって互酬的ではない。収穫物を蓄積しないということは、明日のことを考えないということであり、昨日のことを覚えていないということである。したがって、贈与とお返しという互酬が成立するのは、定住し蓄積することが可能になった時からだといえる。そうすると、定住以前の狩猟採集社会には、共同寄託はあるが互酬的交換はなかったと考えるべきである。」(P182) 
国家を回避する互酬制原理

著者(柄谷行人)によれば、人類の定住は農耕技術を習得したことによって開始されたのではない、つまり、定住があって、その後、農耕と牧畜=遊牧が二極に分化したという。その証拠となるのが日本列島の縄文時代で、縄文文化は新石器文化であり、縄文人は簡単な栽培や飼育を行っていたのだが、それは彼らが定住することにより、その結果、自然に生まれてきたものだという。
・・・たとえば、縄文時代は新石器文化である。もちろん、そこで始まった栽培・飼育が、農耕・牧畜へと発展する可能性はあった。また、定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性があった。それは早晩、国家の形成にいたるだろう。しかし、そうならなかったのは、定住した狩猟採集民がそれを斥けたからである。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステムを創りだした。それが贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)なのである。ゆえに、農耕・牧畜と国家社会の出現を「新石器革命」と呼ぶのであれば、われわれは、それを阻止することをむしろ革命と呼ぶべきであろう。その意味で、私はこれを「定住革命」と呼ぶ。
一般に、氏族社会は国家形成の前段階として見られている。しかし、むしろ、それは定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てとして見るべきである。その意味で、氏族社会は「未開社会」ではなく、高度な社会システムだといえる。それは、われわれに或る可能性、つまり、国家を超える道を開示するものとなる。
くりかえすと、定住とともに、集団の成員は互酬性の原理によって縛られるようになった。贈与を義務として強いることによって、不平等の発生を妨げたからである。もちろん、これは人々が相談して決めたことではない。それはいわば「神の命令」として彼らに課せられたのである。(P183-P184)

著者(柄谷行人)の立論の際立った特色は、定住から国家へと進む中間に、定住する以前の遊動民社会が有していた社会システムを維持した集団を措定することにあり、そこに国家を超える可能性を見いだそうとしていることだ。このことは後で詳述する。

農耕と牧畜は「原都市」で出現した

著者(柄谷行人)は、一般に定説だと思われているゴードン・チャイルドが唱えた「新石器革命」について、ジェイン・ジェイコブズの『都市の経済学』を引用しつつ否定する。
・・・チャイルドが唱えた新石器革命(農業革命)という概念によれば、農業・牧畜が始まり、生産力の拡大とともに、都市が発展し、階級的な分解が生じ、国家が生まれてきた。・・・(その一方、ジェイコブズによれば)・・・その逆に、農業は「原都市」で始まったのである。「原都市」は、共同体と共同体の交易の場として始まった。そこでは、さまざまな情報が交換、集積された。農耕はその結果として生じた、と彼女はいう。私は、この仮説を支持する。(P186-187) 
著者(柄谷行人)は加えて牧畜についても、それは原都市で発明されたもので、その後、農耕民と遊牧民の分化が生じたと考える。狩猟採集民の後に出現した遊牧民も遊動性が高い生活様式を維持しているが、遊牧民の遊動性と、狩猟採集民のそれとは異質だという。
農耕と牧畜は原都市で出現した。とともに、それらの分化、いいかえれば、農耕民と遊牧民の分化が生じた。遊牧民は、原都市を出て遊動するようになる。彼らはある意味で、遊動的狩猟採集民にあった遊動性を回復した。しかし、彼らは狩猟採集民とは異質である。遊牧は農耕と同様、定住生活の中で開発された技術であり、また、遊牧民は農耕民と分業関係にある。彼らは農耕民と交易するだけでなく、商人として共同体との間の交易をになう。(P188)
二種類の遊動民

著者(柄谷行人)はそのことを踏まえて、流動民(ノマド)の概念を拡大するとともに、二種類に峻別する。

ノマドは、(一)焼畑農民。多くの場合、彼らは狩猟採集も行う。(二)漂泊的商人・手工業者。彼らが交換様式C(商品交換)を担った。(三)遊牧民。だが、遊牧民が焼畑農民、漂泊的商人・手工業者と異なるのは、しばしば結束して農耕民を征服し従属させるということである。それによって国家が形成された。
この場合、国家を形成するのは、たんなる暴力ではない。それは、服従すれば保護する、というかたちでの「交換」である。私はこのような交換のあり方を、交換様式Bと呼ぶ。すると、遊牧民は、交換様式Cとともに、交換様式Bの発展を担ったということができる。・・・・・・国家あるいは王権が成立するためには、外部からの征服という契機が不可欠である。それが遊牧民である。とはいえ、すべての国家が征服によって形成されるわけではないし、また、つねに征服が遊牧民によってなされるわけでもない。ただ、征服が現実になくても、遊牧民に対する防衛という動機が、首長制国家を集権的な国家に変容するのである。(P188-189)
著者(柄谷行人)によれば、原都市=国家で生まれた農耕・牧畜、あるいは農耕民と遊牧民があいまって、国家を形成したことになる。遊牧民の遊動性はしたがって、遊動的狩猟採集民のそれとは似て非なる。遊牧民は共同体の間にあり、商業ないし戦争を通して、共同体の中に浸透、侵入、支配するにいたる。遊牧民の遊動性は、交換様式でいえば、Aではなく、BとCに導かれるという。さらに、遊動民の中に、遊牧民に似た者として、(四)山地民を加える。
遊動民一般をノマドと呼ぶとすれば、その中には、狩猟採集遊動民、遊牧民、山地民(焼畑狩猟民)が入る。また、遊動性という観点からみれば、漂泊する商人や手工業者を入れてもよい。定住農耕民からみれば、ノマドは不気味な存在である。彼らは非農耕民を軽蔑するが、それに依存するほかない。なぜなら、彼らとの交換がなければ、共同体の自給自足的経済はなりたたないからだ。一方、ノマドも、定住農民の生き方を軽蔑していると同時に、さまざまな意味で、後者に依存している。このように、各種のノマドが、交換様式C(商品交換)の発展を担ったし、また、しばしば交換様式B、すなわち国家形成に関与してきたのである。(P190)
ドゥルーズ&ガタリの“ノマドロジー”は帝国を創り出す

ノマドといえば、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』(1980年)が思い浮かぶ。著者(柄谷行人)は、このノマドロジーに対して、以下のとおり批判する。
このノマドロジーは、定住性やそれに伴う領域性や規範を超えるとしても、国家と資本を超える原理ではない。それどころか、国家や資本を飛躍的に拡張する原理である。たとえば、戦争機械としての遊牧民は、国家を破壊するが、より大きな国家(帝国)を創り出す。資本も同様である。たとえば、金融資本は、脱領域的であり、領域化された国家経済を破壊する。
米ソの冷戦体制が揺らぎはじめた1970年代以後、ノマドロジーは、この冷戦構造を解体する脱領域的・脱構築的な原理と目された。しかし、ソ連邦が崩壊し、資本主義のグローバリゼーションが生じた90年代以後、それは「資本の帝国」、あるいは新自由主義を正当化するイデオロギーに転化した。・・・90年代に入ると、それは新自由主義のイデオロギーと区別できなくなる。(P191-192)
著者(柄谷行人)は、ドゥルーズ&ガタリのノマドロジーを否定しつつ、資本=ネーション=国家を超える手がかりとして、遊動性を掲げる。著者(柄谷行人)のそれは、遊牧民的遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性だ。定住以後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえって、それは国家と資本の支配を拡張するものである。
定住以前の遊動性を高次元で回復するもの、したがって、国家と資本を超えるものを、私は交換様式Dと呼ぶ。それはたんなる理想主義ではない。それは交換様式A(互酬)がそうであったように、「抑圧されたものの回帰」として強迫的に到来する。いわば、「神の命令」として。したがって、それは最初、普遍宗教というかたちをとってあらわれたのである。だが、交換様式そのものは宗教ではない。それはあくまで経済的な交換の形態なのである。
交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることはできる。(P193)
柳田国男は先住民(山人)と遊動民(山民・芸能的漂泊民)を区別した

ここで柳田国男である。著者(柄谷行人)は、柳田は日本で遊動民に注目した思想家だという。しかも重要なのは、柳田が二種類の遊動性を弁別したことだという。
先ず、彼は「山人」の存在を主張した。山人は、日本列島に先住した狩猟採集民であるが、農耕民によって滅ぼされ、山に逃れた者だという。ただ、山人は山民(山地人)とは違って、その実在を確かめることができない。彼らは多くの場合、天狗のような妖怪として表象されている。さらに、柳田は、移動農業・狩猟を行う山民、および、工芸・武芸をふくむ芸能的漂泊民に注目した。しかし、柳田はそのような遊動民と山人とを区別していた。つまり、遊動性の二種類を区別したのである。(P194)
次に網野善彦である。網野に代表される柳田民俗学批判は、後期の柳田がその関心を、遊動民から定住農耕民に向けるようになったため、定住農民と国家を超える視点を無くしたというものだ。網野に代表される柳田批判は、商人・職人・芸人のような遊動民を重視し、そこに、定住農民による国家権力(天皇制)を超える契機を見い出だそうとした。
しかし、このような芸能的遊動民は山人とは異質である。遊牧民が定住農民の社会の間にあって、それらを交易などで媒介しつつ、時には定住農民支配する国家を形成するように、芸能的遊動民は定住農民共同体の間にあって、それらを媒介することによって生きつつ、他方では、定住農民を支配する国家(王権)と、直接・間接的に結びつく。つまり、彼らは一方で定住民に差別される身でありながら、他方で、定住民を支配する力をもったのである。
一方、根本的に「国家に抗する」タイプの遊動民は、山人である。しかし、山人は当初から実在するとはいいがたい存在であった。山人の存在を唱えた柳田は嘲笑され、次第に自説を後退させた。が、けっして放棄することはなかった。定住農民(常民)に焦点を移しつつ、彼は「山人」の可能性を執拗に追及したのである。最終的に、彼はそれを「固有信仰」の中に見出そうとした。彼がいう日本人の固有信仰は、稲作農民以前のものである。つまり、日本に限定されるものではない。また、それは最古の形態であるとともに、未来的なものである。すなわち、柳田がそこに見いだそうとしたのは、交換様式Dである。(P194-195)
柳田は山民の中に「社会主義の理想」を見た

では柳田が日本列島の遊動民として実態的に見たものはだれだったのか。著者(柄谷行人)は柳田の『九州南部地方の民風』という論文を引用する。
彼(柳田国男)はこの論文に、「社会主義の理想の実行さるる椎葉村」という小見出しを付した。
・・・此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピア』の出現で、一つの奇跡であります。併し実際住民は必ずしも高き理想に促されて之を実施したのではありませぬ。全く彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と異なって居るため、何等の面倒もなく、斯かる分割方法が行わるるのであります。(『九州南部地方の民風』)(P68)
柳田国男が生きた時代、椎葉村では焼畑農業と狩猟が人々の生計を支えていた。柳田国男はそこに伝えられていた資料を使って『後狩詞記』を書いた。椎葉村の人びとは、伝承となって妖怪化した山人ではなく、実際に生きている山民であった。著者(柄谷行人)は、柳田は椎葉村の暮らしの中に「稲作農耕民以前の狩猟採集民」の生活形態をみた、と考える。

それは、前出のとおり、定住した狩猟採集民のことだ。彼らは定住とともに生産物の蓄積、さらにそこから富と力の不平等が生じる可能性がありながら、つまり、国家の形成にいたる道がありながら、それを斥けた民であった。彼らは、定住はしても、遊動民時代のあり方を維持するシステム=贈与の互酬性(交換様式A=贈与と返礼)を維持した民であった。定住化から国家社会に至る道を回避する最初の企てを行った民であった。

著者(柄谷行人)の柳田国男論を大雑把にまとめれば、柳田は、人々の自治と相互扶助、つまり協同組合あるいは「協同自助」の問題を追及し続けた思想家(民俗学者)であった、ということになる。柳田は山人からはじまって山民に出会い、そこに国家と資本の原理を超える社会主義の原理を発見したということになろうか。