2014年7月20日日曜日

権力の側にある者は罰を受けない――小保方晴子問題と忍び寄るファシズムの暗い影

筆者は小保方晴子と理化学研究所が引き起こした「STAP細胞」問題について、あまりに軽く考えてきたことを深く反省する。「小保方劇場」というタイトルも金輪際使用しない。この問題は筆者が思っていた以上に深刻化し、かつ、いま日本国で起きている諸々の修正主義的傾向の一環となって表出している。それは倫理・正義・法体系といった、国家と国民に対する最低限の縛り・約束事の崩壊を伴う社会の変質の象徴である。端的に言えば、小保方晴子を免罪しようとする勢力の台頭は、ファシズム(的支配体系勢力)の台頭と換言できる。

理研は小保方の処分を留保し、理研復帰を容認

拙コラムで触れたとおり、小保方らの「STAP細胞」論文は撤回され、その前後に若山および理研内部研究者等の調査・検証により、「STAP細胞」の実験結果にも不正・捏造があったという客観的証拠が公表されていった。このままならば、小保方が「自白」をせず弁護士を立てて引きこもっている以上、理研が小保方に処分をくだし、それを不服とした小保方が法廷闘争にもちこみ、えんえんと裁判が続くのかな、そうなれば、われわれが知らない理研と小保方の怪しげな関係も明るみに出て、それはそれでおもしろいのかな、と理研の処分発表とそれに対する小保方側の反応が出る日を心待ちにしていた。

ところが、政府(文科相)・改革委・理研(野依理事長)の三者が、「STAP細胞」の存在に係る検証実験について、小保方の参加を支持しだしたころから、法廷闘争の雰囲気が消え、承知のとおり、実際に小保方が期限付きではあるが理研に復帰してしまった。理研は自ら備えた規程を自ら逸脱し、小保方に対する処分言い渡しを留保した。

早稲田大、博士論文調査委の驚愕の詭弁

その一方、7月17日、小保方の「博士論文」をめぐり、早稲田大学の調査委員会(委員長・小林英明弁護士)は、小保方の博士論文に数々の「問題点」を指摘しつつも、小保方の行為が「学位取り消しの規定にあたらない」と結論付けた。その説明はいかにも不自然で、草稿をあやまって提出してしまった、という小保方の言い訳を全面的に受け入れての検証結果であった。「学位取り消しに当たらない」という結論が先にあって、それを正当化するための詭弁で構成された、驚きの内容の調査結果であった。もちろん、最終的に判断するのは早稲田大学であるから(本日=7月20日現在)、「学位取消しに当たらない」と決定されたわけではないが、調査委の結論を大学が覆す可能性はない。つまり、小保方はここでも処分を免れた。

小保方の理研復帰(検証実験参加)と、早稲田大学(調査委)の「学位取り消しに当たらない」という判定には密接な関係がある。両者に共通するのは、いずれもが「小保方は処分されない」という、「STAP細胞」問題の最終結論に向けた、露払い的役割を担っている点である。

小保方は「STAP細胞」問題で処分されない――その論拠は

論文が取下げられ、不正の状況証拠が出揃っている以上、ノーマルな社会ならば小保方のクロが確定し、組織の規程に従って処分される。犯罪ならば法律で裁かれる。自白がなくても証拠によってシロ、クロが判断される。小保方の場合は、大学が定めた規程及び理研という政府系研究機関が具備する規程に従う。もちろん、不服があるときは規程ではなく法律に委ねることもできる。法廷闘争である。

だが小保方の場合は大学で処分を免れ、理研でも免れそうな状況にある。このことは明らかに、尋常ならざる圧力が小保方を処分する側(早稲田大学・理研)にかけられていると考えることが自然であろう。尋常ならざる圧力とは何かといえば、国家権力以外にない。なぜ国家権力が小保方を守るのか。

国策の誤りは「なかったことにする」という修正主義が横行

それは、国家が国家にとって不都合な事件、事案は、すべからく“なかったこととする”からだ。修正主義である。「STAP細胞」研究は国家プロジェクトであった(現在もそう)。それは理研という日本国直営の研究機関において発想されてものだからだ。国策の一環なのである。ところが承知のとおり、それは見事に頓挫し、世間の笑いものになった。理研(の一部機関の)解体までが提案され、小保方とその周辺の幹部研究者との醜聞までが公表されるに至った。これ以上のマイナスが及べば、すなわち、小保方及び論文共著者等が理研により処分されれば、国家の威信を著しく損なう。それだけは避けよう、というのが小保方を処分しない側の本心である。

原発事故、平和憲法、侵略行為、アジア太平洋戦争までもが修正される

この構造は「原発」と同じである。原発は国策であり、福島原発の事故は国家にとって、“あってはならない”ものだった。だから、「事故はなかったものとする」というのが日本国の基本姿勢である。この姿勢は政党・政権を問わない。「STAP細胞」問題も論文取下げで決着し、すべて「なかったものとする」というのが、国家の姿勢であり、その姿勢を堅持するために小保方は、不正を問われることなくいま、理研に復帰している。

原発事故においても、東電、経産省ほか、原子力発電の安全基準を審査してきた諸々の機関・委員会等に関わった者の責任が問われることはない。そしていま、福島原発事故は風化しつつあり、マスメディアによって、それがなかったこととする、記憶と記録の封じ込めが進行している。

日本国憲法についても同じような修正が加えられている。集団的自衛権行使容認が憲法改正を経ずに閣議決定で「合法化」されてしまう。満洲国建国、アジア諸国への侵略、アジア太平洋戦争の開始、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下もなかったこととする。「東京裁判」「戦後民主主義」「不戦の誓い」「戦争放棄」「永久平和主義」もなかったこととする。そればかりではない。日本人の戦没者数310万人の犠牲さえもなかったこととされようとしている。筆者にとって一世代前の人間がたかだか70年余前の戦争で310万人も亡くなったのである。そのことを忘却して、集団的自衛権の問題は議論できないのではなかろうか。現政権によって進行している日本国家の再編作業は「歴史修正主義」を基本としている点において、中国・韓国の指摘は間違っていない。

国策を担う者は処分されない

第二点目は、小保方が国家の側の人間であるからである。このことは前段の同義反復である。国家の側に属する者というのは、国策を担う者なのだから、同じことだ。だから処分されることがない。国家公務員、政治家、経営者、研究者、教育者・・・ジャンルを問わず、国家の側に属する者に官憲等の力は及ばない。ところがひとたび反権力側に押し出されれば、ジャンルを問わず排除される。その最適事例が田中角栄であり小沢一郎であり田中真紀子であり、鈴木宗男であり、佐藤優であり、ホリエモン・・・である。

小保方晴子が国家に属するようになったのは、彼女が発想した「STAP細胞」故であり、それに国家権力が捩じりより、小保方はもちろん国家の敷いた路線で彼女なりに頑張った。その頑張り方は実験結果の捏造、論文における画像の切貼り・無断転載など滅茶苦茶な作法を伴い、科学者倫理を逸脱したものに満ち満ちていた。だが、その仕事ぶりを糺す者は、少なくとも理研という政府系研究機関にはいなかった。学位論文でも然りである。早稲田大学が小保方の論文を適正に審査していたならば、彼女のキャリアはいまとは違ったものとなっただろう。そこに問題の出発点があったという者もいるが、筆者はそうは思っていない。早稲田でなくとも、どこかの大学が彼女の博士論文を通していただろう。(多少の時間的ズレはあったかもしれないが。)

小保方を止められなかったのは、日本各所の原発建設が止められななかったことと同じであり、事故後の原発再稼働の動きを止められないのと同じ構造である。

小保方晴子が備える「政治家」としての資質

国策にのった「STAP細胞」は国策により発信され、小保方の不正の発覚により頓挫した。しかしその張本人小保方を国家が処分することはない。これも噂だが、彼女の資質――科学者よりも「政治家」としてのそれ――を見越して、自民党が小保方を参院選候補者に立てるという説もあるらしい。

思えば、あれだけの状況証拠が後日明らかになりながら(本人は百も承知で)、「STAP細胞」はある、200回以上も製作した、と大勢のメディア関係者の前でミエを切った小保方の度胸と厚顔ぶりは、日本の「政治家」としての資質を十分に備えている。

科学コミュニティからの科学的指摘に一切耳をかさない忍耐力、いや鈍感力も然りである。政務調査費の使途を問われて絶叫号泣した兵庫県議会議員と比べてみれば、その存在感は圧倒的である。おまけに、いわゆる「女子力」とやらも備えているらしい。小保方が着用した洋服は売れるという説も聞いたことがある。つまり、これほどのタマはそう簡単に見つかるものではない、というのが選挙のプロの目なのではないか。自民党の比例代表名簿の上位者になれば、まず落選はない。自民党の比例代表獲得票数の増加も期待できる。

小保方が選挙に立候補するまで「STAP細胞」検証実験は終わらない?

もちろん、選挙戦まで、「STAP細胞」のあるなし(検証実験結果の公表)は留保され続ける。見つからない条件を挙げ続けてその修正を大義として実験を引き延ばせば、おそらく何年でも留保は可能である。何年もしないうちに、「STAP細胞」の不正も捏造も人々の記憶から消える。処分されない「女子力」の高い小保方晴子の虚像だけが人々の前に国会議員候補者として蘇るのである。それは筆者には悪夢に等しいが、そう思わない有権者の方が圧倒的多数だろう。小保方が日本の国会議会になったとしたら、まさに世の終わり(終末)である。