2023年8月6日日曜日

『街とその不確かな壁』

 村上春樹〔著〕 ●新潮社 ●2700円+税 

 わかりにくい小説である。いわゆる常識的ではない。本題にある「不確かな壁」の▽外側にある現実の(ような)世界、▽内側にある非現実な世界、▽その境界、そして、▽過去と現在--が入り組んで描かれ展開されているので、一貫した場所と時間の流れのなかでストーリーを追うことが難しい。
 そればかりではない。現実のような世界(壁の外)の出来事であっても(たとえば、東北の寒村の図書館のありよう、小易さんという老人(霊)の登場、イエロー・サブマリンのヨットパーカを着たサヴァン症候群の少年とその失踪事件等)は、およそ非現実的なのだ。
 その一方で、たとえば主人公がコーヒーショップの女性店長と親しくなるところは現実にあり得る話である。現実のような世界で展開される話でも、そこに現実と非現実が混在している。しかも、このように入り組んだ設定における叙述のディティールは、村上春樹の趣味に貫かれているので、読み手は「あいかわらずだな」と、新鮮さを感じないばかりか辟易する。それを〝ムラカミ・ワールド″として受け入れる熱心な読者(ハルキスト)にとってはうれしい小説なのかもしれないが、そうでない読み手には苦痛である。筆者はなんども、途中で読むことを放棄しようと思った。〝ムラカミ・ワールド″に飽いた読者のためを思ったのか、村上春樹は当該小説の中に読解のヒントのようなものをいくつか散りばめてくれている。そのひとつひとつを追うことからはじめよう。 


〔1〕人生の初期の段階における最良の相手との出会いと別離

「あなたは人生のもっとも初期の段階において、あなたにとって最良の相手と巡り会われたのです。巡り会ってしまった、と申すべきなのでしょうか」 

それはおそらく事実だ。これまでの人生における幾度かの苦い経験が、私にそのことを明瞭に教示してくれた。叩き込んでくれた、というべきか。そう私は身をもって学んだのだ・・・少なからぬ授業料を支払って。(本書P493)

  第二部に登場する小易さんという町の篤志家の霊との対話の場面である。ここで主人公が独白しているように、この小説の基盤となっているのは、最良の相手との出会いと別離である。そのことが村上春樹の個人的体験に根差すのか創作なのかはわからないが、筆者は体験が基盤だと思っている。そして、最良の相手の喪失については、第一部に次のように描かれている。  

それが、きみから受け取った最後の手紙になった。(P140) 

東京にいるぼくはひどく孤独な生活を送っている。きみとの接触を失ってしまったことで(その喪失が一時的なものなのか永続的なものなのか判断のつかないまま)、うまく他人と関りを持つことができなくなってしまったようだ。(P143)  

・・・ぼくはきみに関する一切の手がかりを失ってしまう。どうやらきみはぼくの世界からこっそり退出していったようだ。(P144)  

 最良の相手と確信しながらも、思いもかけず別れた「きみ」とは、主人公「ぼく」が17歳のときに出会った不思議な少女のことだ。少女が突然、「ぼく」の前から消えた理由は書かれていないが、死別が推測されよう。まったくの不条理、すべての説明を拒否する〈死〉による喪失である。「きみ」の喪失を契機として、「ぼく」は暗い階段を降り続け、そして壁の内側に達し、壁の内側の住人となる。なお、主人公の「ぼく」は第二部以降、「私」に変化している。


〔2〕街を囲む壁とは人間を作り上げている意識である

・・・街を囲む壁とはおそらく、あなたという人間を作り上げている意識のことです。だからこそその壁はあなたの意思とは無縁に、自由にその姿かたちを変化させることができるのです。人の意識は氷山と同じで、水面に顔を出しているのはごく一部に過ぎません。大部分は目に見えない暗いところに沈んで隠されています。(P556~557)  

 この台詞が話されたのは、「私」が館長を務める東北の寒村にある図書館に通っていたイエロー・サブマリンのパーカを着た少年の失踪を受けて、東京にいる少年の兄たちが「私」に手がかりを求めて会いに来た時のものだ。

 「私」は、少年の失踪事件の発覚前、最後に少年に会いそして会話を交わした人物だった。兄たちは、「私」から藁をもつかむ思いで「私」に質問を発し、弟の情報を得ようとした。「私」は心ならずも「街を囲む壁」について説明せざるを得なくなる。それをうけた少年の兄の一人(医学生)が壁についての見解を述べたのだ。  

 医学生の兄がいう「壁とは意識である」を筆者なりに修正すれば、壁とは〈意識下〉もしくは〈無意識〉となる。〔1〕の終わりで記述したとおり、「ぼく」は「きみ」の喪失を契機として壁の内側の住人となった。壁の内側がどんな世界なのかについては、本書を読んでもらえればわかることなので、ここでは触れない。それでも唯一指摘したいのは、壁の内側は死後の世界とは異なるということだ。筆者は「きみ」の喪失の理由の一つとして死別と推測したが、「ぼく」は自身の意志で「きみ」の住む壁に囲まれた街に行ったわけではない。つまり「ぼく」は後追い自殺をして死後の世界にいる「きみ」に会いにいったわけではない。「ぼく」は理由もわからず、自分の意志にかかわりなく、おそらく意識下であろう世界に紛れ込んだのだ 

 壁に囲まれた街は天国でもなければ地獄でもない。普遍宗教が描く天国は至福に包まれ、豊かで幸せな世界であり、地獄はその対極にして、そこに送られた死者は責め苦を負わされ、もがき苦しみ続ける。ところが本書にでてくる壁に囲まれた街はそのどちらでもない。ただ時間というものがなく、住人は自由意志、欲望、互いの交流をもたない。当然のことながら、文化芸術はなく、音楽をはじめとする娯楽がない。そこで「ぼく」は本のない図書館で夢読みの仕事を与えられる。そしてその図書館で働く、おそらく壁の外でわけもなくいなくなった最愛の「きみ」らしき、女性と再会を果たすのだが、その喜びを分かつことも、再びの愛をも紡ぐことができない。お互いを確認することができないからだ。 

 さて、意識下(無意識)については、およそ二つの説がある。ひとつは幼少期に周囲からの道徳的影響という抑圧によって形成されるというフロイトの見解だ。フロイトの無意識の内容は、幼児的傾向のものに限られる。二つ目がユングの説で、人間の無意識にはフロイトの無意識のようなその個人の生活と関連している個人的無意識(personal unconscious)以外に、他の人間とも共通に普遍性を持つ普遍的無意識/集合的無意識(collective unconscious)が存在し、しかもそれらは層を成しているというふうに考えられている。 

 村上春樹は2015年、小山鉄郎(共同通信編集委員/当時)のインタビューを受け、自身の創作と意識下の関係について、次のように回答している  

村上:僕は小説を書くにあたって意識上の世界よりも意識下の世界を重視しています。意識上の世界はロジックの世界。僕が追及しているのはロジックの地下にある世界なです。(略)ロジックという枠を外してしまうと、何が善で何が悪だかだんだん規定できなくなる。善悪が固定された価値観からしたらある種の危険性を感じるかもしれないですが、そのような善悪を簡単に規定できない世界を乗り越えていくことが大切なのです。でもそれには自分の無意識の中にある羅針盤を信じるしかない。 

 

村上:自然な物語を書こうとするとき、最初からプランを作ってはいけないのです。森の中の獣を見るように、じっと目を凝らして、その獣の動きに従って自分の動きを作っていく。そうすると、どうしても無意識的なものにならざるを得ないのです。

 村上:神話は人間の集合的な潜在意識を形にしたもの。物語を僕が書く、僕の潜在意識。ところが僕の潜在意識をずっと底の方までたどっていくと、集合的な潜在意識と重なってきます。神話と個人の物語は同じではないけれど、その動きは重なる部分が多いです。

(「村上春樹さん、時代と歴史と物語を語る」『東京新聞/2015/4/17/朝刊』、「村上春樹さん、村上文学を語る」同紙/2015/4/28/朝刊)。

 

 無意識を〈自覚〉して小説の方法とするというのは矛盾しているように筆者は思うものの、村上春樹は意識下を羅針盤として小説を書いているといい、自分の小説の方法論として堂々と断言している。

 では本書においてはどうなのだろうか。前出のとおり、「ぼく」の「きみ」との出会いと喪失体験は幼児期を過ぎたもの(「ぼく」17歳、「きみ」16歳)だけれど、「ぼく」の成長後においても意識下の領域に深く入り込み(おそらくそれが村上自身の体験と重なってのことだと思われるが)、本書となって昇華したものと考えられないだろうか。もちろん、その叙述に当たっては、村上が自身を意識下を意識化できる状態にもっていき、その段階で推敲を重ね、多くの人に読まれるに値する商品(小説)へと加工されるのであろうけれど。

 なお、この小説が潜在意識として神話と重なっているかどうかについては、筆者は見解を留保したい。 

 そればかりではない。この小説では、意識下がかなり具体的な場所として描かれている。 

「ここはどこなんだろう?」と私はあたりを見回してから彼に尋ねた。 

「あなたの内側にある部屋です」とイエロー・サブマリンの少年は言った。「意識の底の深いところに。あまり見栄えする場所とはいえませんが、ぼくとあなたはとりあえず、ここでしか会って話すことはできないのです」(P631) 

  壁の外側つまり現実のような世界で、「私」との一体化を果したイエロー・サブマリンの少年が、「私」と一体化して壁の内側に入り、夢読みの仕事をやりとげたことなどを語り合っている場面である。ここで表現された「内側にある部屋」が意識下を指すとはあまりにクリシェな比喩とは思うものの。 

 

〔3〕現実と非現実とがひとつに入り混じっている物語  

「彼の語る物語の中では、現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」と彼女は言った。「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに 
そういうのをマジック・リアリズムと多くの人は呼んでいる」と私は言った。「そうね。でも思うんだけど、(中略)ガリシア=マルケスさん自身にとってはごく普通のリアリズムだったんじゃないかしら。彼の住んでいる世界では、現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていただけじゃないのかな」
(P576) 

  この会話は、前出のコーヒーショップの女性店長がガリシア=マルケスの『コレラの時代の愛』を読んでいるところに、「私」が偶然訪問したときのものだ。これらの会話についての解釈や説明は不要だろう。彼女のマルケス評は、村上春樹が彼女をとおして、本書の外形を端的に解説したものとしか読みようがない。  

ガルシア=マルケス、生者と死者との分け隔てを必要としなかったコロンビアの小説家。何が現実であり、何が現実ではないのか?いや、そもそも現実と非現実を隔てる壁のようなものは、この世界に実際に存在しているのだろうか? 

壁は存在しているかもしれない、と私は思う。いや、間違いなく存在しているはずだ。でもそれはどこまでも不確か壁なのだ。場合に応じて相手に堅さを変え、形状を変えていく。(P587) 

 「私」はダメ押しのようにふたたび、マルケスを持ち出す。


〔4〕「あちら側」と「こちら側」の境界線に位置する者

私にかろうじてわかるのは、自分が現在おそらくは「あちら側」と「こちら側」の世界の境界線に近いところに位置しているらしい、ということぐらいだった。(中略)どちら側ともはっきりとは判じられない微妙な場所に。そして私はなんとか見定めようとしている。自分が本当はどちら側にいるのか、そして自分が自分という人間のいったいどちら側であるのかを。(P420)

 本書では、壁の内と外を往還できる者は主人公(17歳の「ぼく」と成長後の「私」)だけである。「ぼく」が17歳のときに出会った少女は壁の向こう側に去ったまま帰ってこない。イエロー・サブマリンのパーカを着た少年は、なんと「私」と同一化することで壁の内に入り、「私」が外に出ていくことを決めたとき「私」と分離し、永久的に壁の内側にいることを選択する。  

 この立ち位置こそ、村上春樹の現実(壁の内も外もないこの世の中)における立ち位置なのだろう。前掲したインタビュー記事を読み返してみよう。《僕(村上春樹)は小説を書くにあたって意識上の世界よりも意識下の世界を重視しています。意識上の世界はロジックの世界。僕が追及しているのはロジックの地下にある世界なです。(略)ロジックという枠を外してしまうと、何が善で何が悪だかだんだん規定できなくなる》。

 8年前は善と悪を規定しないと断言した村上春樹。8年後のいま(2023年)では、現実と非現実が規定できなくなった世界を小説化し、自己をその架空の世界に置いてみた。そして、小説の主人公である「私」に仮託して、「あちら側」と「こちら側」の世界の境界線に近いところに位置している者であると再規定した。そして本書「あとがき」で、村上春樹自身が次のように真実について語り、それをもって物語の神髄を定義する。 

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕(村上春樹)はそのように考えているのだが。(P661) 


 二項対立を脱構築するとは書かれていないが、同一性よりも差異が優先され、「ものすら概念的、抽象的にではなく、リアルにものを考えるというのはすべては運動のなかに、そして変化のなかにあると考えるということ」(千葉雅也)にとても似ているように筆者には思える。〔完〕