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2025年5月31日土曜日
2025年4月29日火曜日
2025年4月26日土曜日
つまらないNPB
NPB(日本プロ野球)は各球団とも(2025/4/26時点で)、開幕から20試合ほどを消化した。筆者の印象としては、両リーグとも、レベルダウンしているように思える。
〔セリーグ〕
セリーグは、上位(広島・阪神・読売)と下位(中日・ヤクルト・ DeNA)の実力差がはっきりしていて、早くも興味が薄れた。中日は小笠原、マルチネス(先発・抑えの主力)がチームを去り、その穴を埋める新戦力不在で2025シーズンを迎えてしまった。課題だった打線強化は何シーズンも打つ手なしで、解消されないまま。ドラフト、育成、トレードといったチーム強化をおろそかにしてきた球団だけに、現在の4位は健闘に値するが、いずれ最下位に沈むだろう。
ヤクルトも投手陣強化という課題が解消されていない。先発・中継ぎ・抑えのどれも弱すぎる。中日どうよう、強化プランがないまま、数シーズンを重ねている。
昨年日本一に輝いた DeNAも、投打に好材料が見あたらない。他の下位球団同様、新戦力の台頭が見られない。MLBをクビになった筒香、超ベテランの宮崎が主力をはるようではこの先も暗い。
読売は菅野がMLBに移籍し、戸郷が絶不調、グリフィンが体調不良と先発3投手を欠きながら、先発再編成でなんとか3位にとどまっている。再編成されたローテーションは〔井上・石川・〇・山崎・赤星・〇)の4枚で、埋め切れていない2枚を田中等およびブルペン・デェイで賄っている。DeNA 投手陣が火の車である状況に鑑みれば、同球団から整理された石川が序盤の読売の救世主になっているのはなんとも皮肉というほかない。
打者陣は丸を欠き、坂本が限界に近づくという、これまた大ピンチにもかかわらず、岡本・吉川・甲斐が絶好調で下位チームから白星を奪っている。甲斐の獲得が攻撃陣にプラスとなったことはうれしい誤算かもしれない。ここにきて2年目の泉口、昨シーズン移籍してきた若林と、新戦力の台頭があり、好材料がそろいつつある。
とはいえ、読売の打力はつながりに欠け、先行されると反撃能力が低いので大勢・マルチネスを使いあぐねてしまう。現状の3位は善戦と言っていいい。前出の戸郷、グリフィン、丸はいずれ復帰するから、読売が優勝の一番手であることはまちがいない。
現在トップの広島は中継ぎ・抑えに不安が残るし、打撃陣に破壊力ある選手が不在なまま。阪神も絶対的抑えが不在で、しかも野手の控えが手薄。好調の近本・中野の1・2番コンビのうちどちらかを欠けば、戦力がガタ落ちする可能性が高い。
ところで、二塁・遊撃にいい選手が育たないのがNPBの特徴なのか。少年野球から、運動能力の高い子供が投手というポジションに集中するからだろうか。
〔パリーグ〕
ソフトバンクが故障者続出で開幕ダッシュに失敗したばかりか、現在最下位とは予想外。昨年不振だったオリックスは、今シーズンは昨年の故障者が続々と復帰するといった好材料に恵まれ、トップにいるのは不思議ではない。ただし、このチームの弱点は抑えの不在。
ソフトバンクの独走予想が覆り、6チームの勝率に大きな差はなくダンゴ状態だ。混戦とはいえ、日ハム、楽天、ロッテ、西武が優勝争いに絡む確率は低い。この4チームがCS出場争いを繰り広げ、日ハムが勝ちあがる程度が興味の対象となるくらい、話題が少ない。
NPBがなぜ つまらいないか
セリーグはなぜ、いまだにローカル・ルールの9人制を続けているのだろうか。MLBで大谷が二刀流(昨年、今年は打者専任だが)の道が可能なのは、DH制度があるからだ。それだけではない。ツーアウトの得点チャンスで投手の打順、興ざめである。なかにはそこで投手がヒットを打つシーンもなくはないが、およそ奇跡に近い。
言うまでもなく、国際試合はすべて10人野球。NPBの集客数は落ちていないどころか上がっているようだが、MLB人気(大谷ほか日本人選手の活躍)という外在的要因だ。死球や走塁といった危険から投手を護るという観点からも、10人制に切り替えるべきだ。
球団数が増えないことについては、何度も書いた。コミッショナーに権限がなく、12球団オーナーのギルド体質による独占だ。合理的改革を進める気概がなく、野球を面白くしようという意欲がない。12球団のうち、およそ半分の球団が強化戦略を欠いた状態だ。本社の宣伝媒体でよしとする現状維持の消極的経営体質から脱却できていない。
具体的には、セリーグで最悪なのが中日とヤクルト。パリーグでは西武と、監督交代でお茶を濁しているだけの楽天。三分の一が腐ったまま、プロ野球として観客から料金をとっている。日本の野球ファンはそれで良しとしているのだから仕方がないが、MLBのマイナーリーグとして生きていこうという選択なら、どうしようもない。 〔完〕
2025年4月24日木曜日
俳号からみえてくるもの
それを見た私は、一言「なじまない」と妻に言ったところで言い争いとなった。私は「有名な俳人の俳号を調べたらなじまない理由がわかるよ」と答えて、この話は終わった。妻はもちろん、俳号を調べるわけがない。Lさんの教養の高さに敬服しまくっているからだ。
私が「なじまない」と言った根拠を示そう。俳号というのは、おおむね自分を小さく見せる、あるいは、さりげなく付する傾向があると直感したからだ。
私は江戸期の三大俳人の俳号について調べてみた。私は俳句の専門家でもなければ、日本文学史にも疎い。だからWikipediaを頼りにした。
まずは松尾芭蕉。「芭蕉」を俳号に選んだのは、門人から芭蕉の株をもらったことに由来するという。
小林一茶はどうだろうか。なぜ「一茶」を俳号に選んだかについては、管見の限り不明だが、作品の傾向から推察するところ、取るに足りない自分、弱いものに寄り添おうとする小さい自分の象徴として、「一(服)の茶」もしくは「一つかみの茶葉」という意味を込めて「一茶」としたのではないかと想像してみた。
最後は与謝蕪村である。まず予備知識として、蕪村の「蕪」は一般には「カブ(ラ)」を指すが、「荒れ地に雑草が茂る様子」「みだれる、乱雑な様子」をも意味する。
ここで、Wikipediaである。与謝蕪村は漢籍から俳号をとっていた。前出のLさんと共通する。陶淵明の有名な『帰去来辞』だ。 Wikipedia には『帰去来辞』のどこから取ったのか書いていないし、ほかのサイトを当たってみたが説明をみつけることができなかった。以下の叙述は私の推測にすぎないのだが、あの有名な冒頭の節が思い浮かんだ。
帰去来兮。田園将蕪、胡不帰。
既自以心爲形役、奚惆悵而独悲。
悟已往之不諌、知来者之可追。
実迷途其未遠、覺今是而昨非。
(書き下し文)
帰(かへ)りなんいざ。田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる。
既に自ら心を以て形の役(えき)と爲(な)す、奚(なん)ぞ惆悵(ちうちやう)として独り悲しまん。
已往(いわう)の諌(いさ)められざるを悟り、来者の追ふ可きを知る。
実(まこと)に途(みち)に迷ふこと其れ未だ遠からずして、今の是(ぜ)にして昨(さく)の非なるを覺る。
(現代語訳)
さあ家に帰ろう。田園は(手入れをしないので草で)荒れようとしている。なぜ帰らないのか(今こそ帰るべきだ)。
これまで、すでに自分の(尊い)心を肉体の奴隷としてきたのだから(=役人となって心を悩ましてきたのだから)、どうして失望してひとり嘆き悲しむことがあろうか。
すでに過ぎ去ったことは諌める方法がないのを悟り、将来のことは追いかけられるのを知っている。
本当に道に迷った(=間違った方向へ行った)としても、まだ遠く(へは行って)はいなかった。今(役人を辞めて帰るの)が正しい生き方で、昨日まで(の生き方)は間違っていたことを悟ったのである。
与謝蕪村も、陶淵明とおなじく、権力や地位にしがみつく生き方を否定して、蕪村(荒れ果てた村)に帰る決意をかためた。そのことは俳人として、権威、出世、高い冠位…を否定して滔々と生きることを意味する。俳号「蕪村」にはそんな思いが込められているのではないか。
近代俳人を見てみよう。正岡子規の俳号「子規」はホトトギスのこと。鳴いて血を吐くこの鳥と結核で喀血する自身を重ね合わせた。正岡子規も、文学博士、売れっ子作家、知識人という知的上昇過程を断念し、俳人という小さき者であろうとする自己を鳴いて血を吐くホトトギスにたとえたのだ。
さらに時代を進めると、意外にも本名をもじって俳号にする傾向が顕著となる。以下、左が本名で右が俳号だ。
河東 秉五郎(へいごろう)→河東碧梧桐
高浜 清→高浜虚子
山口 新比古(ちかひこ)→山口誓子 *誓(チカフ)子(コ)
髙橋 行雄(たかはし ・ゆきお)→鷹羽 狩行(たかは・しゅぎょう)*タカハ・シユ行=ギョウ)
俳号を本名のもじりとする意識の深層には、俳諧・短歌を「第二芸術」と規定した日本文学の混迷的情況と共通するものがあったにちがいないが、ここではそれを論じない。
(結論)
俳句は方法的には、散文の強みである論理性・写実性を排し、最短で直感を強烈に押し出すという形式をもった韻文(詩)である。心情的には、江戸の粋・軽妙、洒脱の精神が底流に流れていて、俳人が名乗る俳号にその傾向がにじみ出ている。俳句を芸術の域に高めたといわれる江戸期の三大俳人にしても、自身の俳号に権威にたいする否定性を隠したし、近現代にもそれが受け継がれた。しかし、俳句のこの底流にある傾向には陥穽も潜む。反知性主義だ。コトバ遊び、語呂合わせでハット思わせる技巧に走れば、それまでである。
私はLさんにむかって、「その俳号はおかしい」とか「俳句の精神にあわない」とかいうつもりはない。Lさんは外国人であり、日本に長く住んでいるわけではない。日本の伝統文化を学ぼうという心意気をリスペクトする。俳号を古代中国の賢人の哲学から選んだ知性は、俳句という日本の伝統文化への敬意の表れだと理解する。Lさんが、俳句という日本文化の特異性を一日も早く理解してくれれば幸いである。〔完〕